Having the Spirit       目次 | BACK | NEXT

11. 御霊を持つ


「御霊を持たず」----ユダ19

 私は、この論考を読んでいるあらゆる方々が、聖霊を信じているものとして話を進めたいと思う。幸いなことにこの国では、三位一体の教理を公然と否定する不信心者、理神論者、ソッツィーニ主義者たちは、さほど多くない。ほとんどの人々は、御父、御子、聖霊の御名によってバプテスマを授けられている。いずれにせよ、大方の国教徒は、私たちの古い《教理問答》のこの有名な言葉をしばしば耳にしているはずである。「われは、われおよび神に選ばれたすべての人々を聖なるものとしたもう聖霊なる神を信ず」。

 しかし、これらすべてにもかかわらず、多くの人々は、自分が聖霊について、その御名以外に何を知っているか考えてみるのがよいであろう。あなたは御霊のみわざについて、いかなることを体験的に知っているだろうか? 御霊はあなたに何をなさっただろうか? いかなる恩恵をあなたは御霊から受け取っているだろうか? あなたは父なる神については、「御父は私と世界をお造りになった」、と云うことができる。子なる神については、「御子は私と全人類のために死なれた」、と云うことができる。しかしあなたは、聖霊について何か云えることがあるだろうか? あなたは、いささかでも確信をもって、「御霊は私のうちに宿り、私を聖なるものとしておられる」、と云えるだろうか? つまり、あなたは御霊を持っているだろうか? この論考の冒頭に冠した聖句があなたに告げているように、人は「御霊を持たない」ということがあるのである。これこそ、私があなたにぜひとも注意を払ってほしい点にほかならない。

 私の信ずるところ、この点はいついかなる時にも、非常に重要な点の1つである。だが、今日において、これは格別に重要な点の1つであると思う。私が考えるに、聖霊に関する明確な見解は、現代にはびこる多くの偽りの教理に対する最良の予防剤の1つである。それでは、この件についていくつかの事がらを述べさせてほしい。それは、神の祝福によって、御霊を持つという主題に光を投ずることであろう。

 I. まず私は、「御霊を持つ」ことの途方もない重要性を説明したい
 II. 次に、この問題----「あなたは御霊を持っているか?」----を唯一試すことのできる一般的な大原則を指摘したい
 III. さらに、御霊が宿っている魂に常に御霊が生み出す個々の特定の効果を述べていきたい

 I. まず最初のこととして私は、御霊を持つということの途方もない重要性について説明したい

 この点を明確にしておくことは絶対に必要である。あなたがこの点を見てとらない限り、私はこの論考の間中、宙を打つ拳闘をするようなものであろう。だが、いったんあなたの精神がこの点をつかみさえすれば、私があなたの魂に対して行ないたいことは半ば成ったも同然である。

 一部の読者の方々が異を唱えていることは容易に想像がつく。「こんな問いかけが何になるのか全然わからない! かりに私が御霊を持っていないとしても、たいした害があるだろうか? 私は世間で自分の義務を果たそうと努めている。規則正しく教会に通っている。時々は主の晩餐にあずかっている。私は隣にいるだれにも負けないくらい善良なキリスト者だと信じている。私は祈りを唱えている。キリストのゆえに神が私の罪を赦してくださることに信頼している。何も、御霊について七面倒くさい問いかけで頭を悩まさなくとも、最後には天国に行き着けないことがなぜあるだろうか?」

 もしこうした考えをあなたがいだいているとしたら、ぜひとも私の語ることにしばしの注意を払っていただきたい。これから私はあなたに、それとは違った考え方をすべき理由をいくつか示してみようと思う。嘘ではない。あなたの魂の救いそのものが、「御霊を持つ」ことにかかっている。生と死、天国と地獄、永遠の幸福と永遠の悲惨が、この論考の主題と密接に関わっているのである。

 (a) 1つのこととして覚えてほしいのは、もしあなたが御霊を持っていなければ、あなたはキリストに全くあずかっておらず、天国に行ける何の資格もない、ということである。

 聖パウロの言葉は明白であり、取り違えようがない。「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません」(ロマ8:9)。聖ヨハネの言葉も、それに劣らず明確である。「神が私たちのうちにおられるということは、神が私たちに与えてくださった御霊によって知るのです」(Iヨハ3:24)。聖霊なる神の内住は、キリストを信ずる真の信仰者全員に共通した目印である。それは、主イエスの群れに押された、《羊飼い》の焼き印である。それで彼らは世界中のその他の群れから区別されるのである。それは、純粋な神の子らに押された、金細工師の刻印である。それによって彼らは、金滓や、偽りの信仰告白者たちの大群から見分けられるのである。これは、《王》ご自身が、その特別の民に押された紋章であって、彼らをご自分の所有物と証明するものである。それは、《贖い主》が信仰を有するご自分の弟子たちに対して、彼らが肉体のうちにある間にお与えになる「保証」であり、復活の日の朝に来たるべき、十分にして完全な「贖い」の担保となるものである(エペ1:14)。これは信仰者全員について云えることである。彼らはみな御霊を持っているのである。

 御霊を持っていない者がキリストを持っていないということは、明確に理解しておこう。そしてキリストを持っていない者は、決して自分の罪の赦しも、----神との平和も、----天国に行ける資格も、----救われているという確固たる希望も有していない。その人のキリスト教信仰は、あたかも砂の上に建てた家のようなものである。それは好天の下では立派に見える。健康と裕福さの中にあるときには人を満足させるかもしれない。しかし洪水が押し寄せ、風が吹くとき、----病や困難がその人のもとにやって来るとき、それは倒れて、その人をその残骸の下敷きにしてしまう。その人は健全な希望なしに生き、健全な希望なしに死ぬ。その人が復活するのは、悲惨を味わうためだけでしかない。その人が審きの座に立つのは、断罪されるためだけでしかない。その人は、聖徒たちや御使いたちが自分を眺めているのを目にし、自分も彼らの中に立てたはずだったことを思い起こすが、すでに手遅れである。その人は、おびただしい数の失われた人々を自分の周囲で目にし、彼らが何の慰めにもならないことに気づくが、すでに手遅れである。これこそ、御霊を持つことなしに天国に到達しようと考えている人の末路となる。

 こうした事がらをあなたの記憶に刻み込み、決して忘れないようにするがいい。こうしたことは覚えておくに値するではないだろうか? 聖霊の内住がなければ、----キリストの恩恵にあずかることはない! キリストの恩恵にあずかることがなければ、----いかなる罪の赦しもない! 罪の赦しがなければ、----神との平和はない! 神との平和がなければ、----天国に入る資格はない! 天国に入る資格がなければ、----天国に入ることはない! 天国に入ることがなければ、----何が来るだろうか? そう、何が来るだろうか? あなたは問うた方がよいであろう。どこにあなたは逃れるだろうか? どちらに向かおうというのだろうか? いかなる隠れ家に走っていこうというのだろうか? そのようなものは何1つない。そこには地獄しか残っていない。天国へ入れてもらえなければ、最後には地獄に沈むしかないのである。

 私はこの論考を読むあらゆる方々に、私の云うことによく注意してほしいと願うものである。ことによると、これはあなたを驚かせているかもしれない。だが、あなたは驚かされる方がよいのではないだろうか? 私は、あなたに単純な聖書的真理を越えたことを何か告げただろうか? あなたが聞いてきた論理の連鎖に、何か欠けた環があるだろうか? この議論のどこに穴があるだろうか? 私が自分の良心において信ずるところ、そのようなものは1つもない。御霊を持たないことから、地獄に落ちるまでの間には、一続きの長い下り階段が続いているだけである。御霊なしに生きるとき、あなたはすでにその最上段に立っている。そして御霊なしに死ぬとき、あなたは自分の行き先が底へ向かっていることに気づくであろう。

 (b) 別のこととして覚えておいてほしいのは、もしあなたが御霊を持っていなければ、あなたは心に何の聖さもなく、天国に入るふさわしさが全くない、ということである。

 天国という場所には、あらゆる人々が死後行きたいと望んでいる。だが、多くの人々は、天国がいかなる種類の住まいであるか冷静に考えてみた方がよい。それは王の《王》の住まいであり、その王の「目はあまりきよくて、不義に目を留めることができない」ほどである。そこは聖い場所であるに違いない。聖書が私たちに告げるところ、その場所には、「すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行なう者は、決して」はいれない(黙21:27)。その場所には、全く邪悪なもの、罪深いもの、官能的なものがなく、----全く世的なもの、愚かなもの、軽佻浮薄なもの、俗悪なものはない。そこには、貪欲な人間は覚えておくがいいが、もはや何の金銭もない。そこには、快楽を追求する徒輩は覚えておくがいいが、もはや何の競馬も、劇場も、小説本も、舞踏場もない。そこには、酒飲みや賭博者は覚えておくがいいが、もはや何の強い酒も、もはや何の賽子も、もはや何の賭け事も、もはや何の骨牌もない。神と、聖徒たちと、御使いたちとの前で永遠を過ごすこと、----神のみこころを永久に行なうこと、----神がお認めにならない一切のことが完全に欠如していること、----こうしたことこそ、天国を成り立たせている主たる事がらである。それは、永遠の安息日となる。

 この天国にとって、私たちはみな生まれながらに全くふさわしくない者たちである。私たちには、その幸福を享受できる資質がない。その祝福を味わえる嗜好がない。その美しさを見てとる目がない。その慰めを感じとれる心がない。私たちは天国を、自由ではなく隷属と感ずるであろう。栄光ある解放ではなく、絶えざる束縛と感ずるであろう。壮麗な王宮ではなく、陰気な牢獄と感ずるであろう。陸にあげられた魚や、水の中の羊や、かごの中の鷲や、宮殿の接見の間にいる、体に彩色を施した野蛮人でさえ、天国の中にいる生まれながらの人よりはみな、よほど居心地よく、くつろいでいることができるであろう。「聖くなければ、だれも主を見ることができません」(ヘブ12:14)。

 この天国に入れるように人々の魂を整えることこそ、聖霊の特別の職務にほかならない。聖霊だけが地上的な心を変えて、アダムの子らの世的な情愛をきよめることができる。聖霊だけが彼らの精神を神と調和させ、それを、聖徒たちや、御使いたちや、キリストと永遠にともにいることに馴染ませることができる。聖霊だけが、彼らをして神の愛するものを愛させ、神の憎むものを憎ませ、神の御前にいることを喜ばせることができる。聖霊だけが、アダムの堕落によって砕かれ、脱臼した人間性の手足の骨接ぎをし、人の意志と神のみこころとの間に真の一致をもたらすことができる。そしてこのことを、聖霊は救われたひとりひとりのためについて行なわれる。信仰者は、「神のあわれみのゆえに救われ」*たが、それは「聖霊による、新生と更新との洗いをもって」であると書かれている。彼らは救いに選ばれているが、それは、「真理による信仰」によるのみならず、「御霊による聖め」によってである(テト3:5; IIテサ2:13)。

 このこともまた、あなたの記憶の板に書き記しておくがいい。あなたは、御霊がまず地上であなたの心にお入りにならない限り、天国に入ることはない! 現世であらかじめ聖化されていない限り、来世で栄光に入れられることはない! この世で聖霊があなたのうちにおられなければ、----来たるべき世でいかなる天国に入ることもない! あなたは天国にふさわしくなっていないであろう。天国への備えができていないであろう。天国を好ましく思えないであろう。天国を楽しめないであろう。今日、「聖なる」という言葉は至るところで用いられている。私たちは、「聖なる教会」や、「聖なるバプテスマ」や、「聖なる日」や、「聖なる水」や、「聖なる礼拝」や、「聖なる司祭」についていやというほど聞かされている。しかし、1つのことはその一千倍も重要である。それは、御霊によって真に聖なる者とさせられることである。私たちは、生きている間から、神のご性質にあずかる者となっていなくてはならない。私たちは、永遠のいのちを刈り取りたければ、「御霊のために蒔く」のでなければならない(IIペテ1:4; ガラ6:8)。

 (c) 別のこととして覚えておいてほしいのは、もしあなたが御霊を持っていなければ、あなたには真のキリスト者とみなされる権利はなく、真のキリスト者になるための意欲も力も全くない、ということである。

 この世の基準に従えば、キリスト者になることなど造作もない。単にバプテスマを受けており、どこかの礼拝所に出席していさえすれば、この世の要求する条件は満たされる。その人の信仰内容は、トルコ人のそれほどにも理性的なものでなく、その人は聖書について途方もなく無知かもしれない。その人の生活態度は異教徒のそれとまるで異なることなく、多くの尊敬すべきヒンドゥー教徒の行ないにくらべれば恥さらしかもしれない。----しかし、それがどうしたというのか? その人は英国人なのである! バプテスマを授けられているのである! 教会か会堂に通い、そこにいる間は上品にふるまっているのである! それ以上に何を望むのか? その人をキリスト者と呼ばないような人は、非常に愛がないと思われる!

 しかし、人が聖書の基準に従って真のキリストになるためには、それよりもはるかに多くのことが必要とされる。そのためには、《ほむべき三位一体》の《三位格》すべての協力が必要とされる。父なる神の選び、----子なる神の血ととりなし、----御霊なる神の聖化、----がすべて、救われるべき魂の上で相伴わなくてはならない。御父、御子、聖霊が力を合わせなくては、いかなるアダムの子どもをも真のキリスト者とすることができないのである。

 これは深遠な主題であり、畏敬の念をもって扱わなくてはならない主題である。しかし、聖書がきっぱりと語っているところでは、私たちもまたきっぱりと語ってよいであろう。そして聖書の言葉がまるで無意味であるとでもいうのでない限り、聖霊のみわざは、御父のみわざや御子のみわざと全く同じように、ある人を真のキリスト者にするためには必要とされているのである。こう記されている。「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です。』と言うことはできません」(Iコリ12:3)。聖書の教えによると、真のキリスト者は、「御霊によって生まれた者」である。彼らは、御霊によって生きており、御霊に導かれている。彼らは、御霊によってからだの行ないを殺す。彼らは、1つの御霊において、イエスによって父のみもとに近づくことができる。その種々の恵みは、みな御霊の実である。彼らは聖霊の宮である。御霊によって神の御住まいとなった人々である。彼らは御霊に従って歩んでいる。御霊によって強くされている。御霊によって、義をいただく望みを抱いている(ヨハ3:6; ガラ5:25; ロマ8:13、14; エペ2:18; ガラ5:22; Iコリ6:19; エペ2:22; ロマ8:4; エペ3:16; ガラ5:5)。これらは聖書の平易な云い回しである。これらに反駁しようなどという人がいるだろうか?

 真実を云えば、人間性の深甚な腐敗のために、御霊のみわざがなけば、救いは不可能となっているのである。御霊がなければ、御父の愛や、御子の贖いがいかに私たちの前に置かれても、無駄なことである。御霊がそれらを啓示し、御霊がそれらを適用しない限り、私たちは失われた魂のままである。

 天地創造の日に水の上を動いていたお方の御力以下のいかなるものも、私たちをこの低劣な状態から引き起こすことはできない。「『光よ。あれ。』と仰せられた。すると光ができた」お方がみことばを発さない限り、私たちのうちだれひとり、いのちにあって新しく引き起こされることはないであろう。ペンテコステの日にお降りになったお方が、私たちのあわれな死んだ魂にお降りにならない限り、それが神の国を見ることはないであろう。種々のあわれみや患難は、私たちの心の表面は動かせるかもしれないが、それらが内なる人に達することは決してないであろう。種々の礼典や、礼拝式や、説教は、外的な形式への尊重を生み出し、私たちにキリスト教信仰の薄皮をまとわせることはできるかもしれないが、そこには何のいのちもないであろう。教役者たちは陪餐者たちを作り出し、教会を定期的な礼拝者たちで満たすことはできるかもしれない。だが、聖霊の全能の力だけが真のキリスト者たちを作り出し、天国を栄化された聖徒たちで満たすことができるのである。

 このこともやはり、あなたの記憶に書きつけておき、決して忘れないようにしておくがいい。聖霊が全くなければ、----真のキリスト教は全くない! あなたが救われるためには、あなたには、あなたのためのキリストだけでなく、あなたのうちにいる御霊がいなくてはならない。神があなたの愛に満ちた御父でなくてはならず、イエスがあなたの《贖い主》として知られていなくてはならず、聖霊があなたの《聖め主》として感じられていなくてならない。さもなれば、あなたは決して生まれてこなかった方がましということになるであろう。

 私は、この主題について、ぜひともこのページを読むあらゆる方々に真剣な考察をしてほしいと思う。あなたの魂にとって「御霊を持つ」ことがいかに死命を制する重要なことであるかを、私は十分に示してきたと思う。これは決して神学上の深遠な、神秘的な点ではない。その答えがどちらに転んでも大して差し障りのないような微細な問題ではない。これは、あなたの魂の永遠の安息と密接に関わった主題なのである。

 あなたはこの知らせを好まないかもしれない。これを熱狂主義だとか、狂信主義だとか、突拍子もないものだとか云うかもしれない。だが私は聖書の平明な教えの上に立ち続ける。私は云う。神が、地上のあなたの心に御霊によってお住みになっていない限り、あなたは決して天国で神とともに住むことはないであろう。

 あなたは云うかもしれない。「あゝ、そんなことはよくわかりません。私はキリストがあわれみ深くあられると信じています。結局は私も天国に行くことになると望んでいます」、と。私は答えよう。キリストのあわれみを味わったことのある人の中で、その御霊も受け取らなかった人はひとりもいない。----義と認められた人の中で、聖なるものにもされなかった人はひとりもいない。----天国へ行った人の中で、御霊によってそこまで導かれなかった人はひとりもいない、と。

 II. 第二のこととして私が指摘したいのは、自分が御霊を持っているかどうかを決するための、一般的な規則あるいは原則である。

 自分が「御霊を持っている」かどうかは知りうるものである。こうした考え方が、多くの人々にとって不愉快なものであることは、容易に理解できる。私は、サタンが生まれながらの心にたちまちかき立てる種々の反論について無知ではない。「それを知ることなど不可能だ」、とある人は云う。「これは深遠な事がらであって、私たちに手の届く問題ではない」、と。----「これは探りきわめるには神秘的にすぎる問題だ」、と別の人は云う。「私たちはこの件については不確かなままにしておくことで満足しなくてはならない」、と。----「このことについて何かを知りうるふりをするのは誤っている」、と第三の人は云う。「私たち決してこうした問題を追求すべきではない。御霊を持っているかどうか語るのが似つかわしいのは、熱狂主義者か狂信者だけだ」、と。----私はこうした反論を聞いても全く動じはしない。私は云う。人が御霊を持っているかどうかは、知ることができる、と。それは知ることができる。----知ってよいことである。----知るべきことである。それを見分けるには天からの何の幻も、御使いからの何の啓示も必要ない。それには、神のことばの光によって冷静に探求すること以外に何も必要ない。その探求に乗り出してみようではないか。

 あらゆる人々が聖霊を持っているわけではない。全人類には内的な霊的光がある、という教えは、非聖書的な迷妄であると私はみなすものである。私の信ずるところ、普遍的霊感という現代の観念は、根拠のない夢である。むろん神は、堕落した人間の心に、ご自分に関する証人を残しておかれなかったわけではない。神はあらゆる精神の中に、すべての人を責任ある者、弁明責任のある者とするに足るだけの善悪の知識は残しておられる。神はあらゆるアダムの子どもに良心を与えておられる。だが、神はあらゆるアダムの子どもに聖霊を与えてはおられない。人はバラムのように善良な願いをいだき、ヘロデのように多くのことを行ない、アグリッパのように信じる寸前まで至り、ペリクスのように恐れを感じるかもしれないが、それでもこうした人々のように御霊の恵みを全く欠いていることがありえる。聖パウロが私たちに告げるところ、回心する前の人々も、ある意味では「神を知って」おり、その「思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりして」いることがありえる。しかし、パウロがやはり私たちに告げるところ、回心する前の人々は、「神もない」、「キリストから離れ」、「望みもなく」、「暗やみ」そのものであった(ロマ1:21; 2:15; エペ2:12; 5:8)。主イエスご自身が御霊についてこう云っておられる。「世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです」(ヨハ14:17)。

 あらゆる教会員および受洗者が御霊を持っているわけではない。バプテスマを授けられたあらゆる人は聖霊を受け取っており、その人は御霊によって生まれた人とみなされるべきである、などと云える根拠は聖書のどこにも見あたらない。私はバプテスマを受けた人々に向かって、あなたがたはみな御霊を持っています、とか、あなたがたが救われるために必要なのは、あなたがたのうちにある「神の賜物を燃え立たせる」ことだけです、などと云うことは到底できない。それとは逆に、私の見るところ、ユダは、彼の時代の目に見える教会内の人々のことを「御霊を持たず」にいると語っているのである。そのうちの何人かは、おそらく使徒たちの手によってバプテスマを授けられ、信仰を告白する教会の完全な交わりに認め入れられていたであろう。だが、そのようなことは何も関係ない! 彼らは「御霊を持っていなかった」*(ユダ19)。

 この、ただ1つの云い回しの力をはぐらかそうとしても無駄である。その平明な教えによると、「御霊を持っている」ことは、あらゆる人が占めている立場ではなく、目に見えるキリスト教会に属するあらゆる教会員の分け前でもない。そこに示されているように、必要なのは、ある人のうちに御霊がおられることを確かに示せる何らかの一般的な規則や原則を見いだすことである。御霊はあらゆる人のうちに宿ってはいない。バプテスマや教会員籍は、御霊の臨在を示す何の証明にもならない。それでは、いかにして私は、ある人が御霊を持っているかどうかがわかるだろうか?

 ある人の魂のうちにおける御霊の臨在は、御霊が生み出す種々の効果によってのみ知ることができる。御霊がある人の心と生活のうちに結ばせる種々の実こそ、頼りにできる唯一の証拠である。もしある人が御霊を持っているかどうかを見いだしたければ、その人の信仰と、その人の種々の意見と、その人の実際行動とが、私たちの吟味しなくてはならない証人たちである。これこそ主イエスの規則である。「木はどれでも、その実によってわかるものです」(ルカ6:44)。

 聖霊が生み出す種々の効果は、常に目に見えるものである。世の人はそれらを理解できないかもしれない。多くの場合それらはかすかで、不明瞭なものかもしれない。だが、御霊がおられるところ、御霊は隠されてはいないであろう。御霊は眠ることがない。御霊はご自分の臨在を明らかになさるであろう。御霊はその人の日常習慣や生活のしかたという窓を通して徐々に輝き出し、世に向かってご自分がその人のうちにおられることを明らかにするであろう。休眠し、昏睡し、沈黙した御霊の内住などという考えによって、多くの人々の精神は喜んでいる。だが私が見るに、そのような考えには、神のことばのいかなる裏づけもない。私は『聖霊降臨祭のための公定説教』とともに熱心に主張するものである。「木がその実によって知られるのと同じことが聖霊についても云える」、と。

 御霊の種々の効果と実が内側に見られる人であればだれでも私は、その人を御霊を持っている者とみなすものである。そのように考えることは、愛のあることであるばかりか、それを疑うことは増上慢であると思う。私は聖霊を自分の肉眼で見たり、聖霊を自分の手で触ったりできるとは全く思わない。しかし私は、どこに聖霊が宿っておられる告げてもらうために天から御使いに降りてきてもらう必要は全くない。どこで聖霊を見いだせばよいかを告げてくれる天からの幻も全く必要ない。ただ私に、御霊の種々の実が見てとれる人を示してくれさえすれば、私はその人を「御霊を持っている」人とみなすであろう。私は、明らかな成果という外的な事実が見てとれるときに、そこに全能の原因が内的に臨在していることを疑おうとは思わない。

 私には、嵐の日にが見えるだろうか? 私には見えない。だが、その力と風力の効果を見ることはできる。----それが扉や窓をビュービュー吹き抜けていくとき、あるいは煙突の天辺のまわりで唸りを立てて吹き荒れるとき、私は一瞬たりともその存在を疑いはしない。私は、「風がある」、と云う。魂における御霊の臨在も、それと全く同じである。

 私は夏の夜に地面を潤す天のが見えるだろうか? 私には見えない。それは優しく、穏やかに、何の音も立てず、人に悟られることなく降りてくる。しかし、晴れた夜の後の朝、表に出て、どの緑葉も水分できらめいているのを見たり、どの草の葉も湿って濡れているのを感じるとき、私はすぐに、「露が降りた」、と云う。魂における御霊の臨在も、それと全く同じである。

 私は七月の麦畑を通り過ぎるときに、種蒔く人の手が見えるだろうか? 私には見えない。私に見えるのはただ、おびただしい数の、実の入った穂が、たわわに首を垂れている姿である。だが私は、その収穫が偶然に生じたものだとか、ひとりでに育ったものだと考えるだろうか? そのようなことは全く考えない。そうした麦畑を見るとき私は、そこをかつては鋤や砕土機が耕したこと、種を蒔く手がそこにあったことがわかるのである。魂における御霊のみわざも、それと全く同じである。

 私は羅針儀の針に流れる磁気が見えるだろうか? 私には見えない。それは隠された、神秘的なしかたで働いている。しかし、その小さな鉄片が常に北を指すのを見るとき、私はすぐに、それが磁力の見えざる影響を受けているのを知る。魂における御霊のみわざも、それと全く同じである。

 私は私の懐中時計の主ぜんまいが、その時計のうわべから見えるだろうか? 私には見えない。しかし、その針が回り続け、一日の時間と分を規則正しく示しているとき、私はその主ぜんまいの存在を疑わない。御霊のみわざも、それと全く同じである。

 私は本国帰りの船が最初に目に入り、その白い帆が水平線に翻るのを見るとき、その操舵手が見えるだろうか? 私には見えない。しかし、埠頭の突端に立って、海上のその船が、港口に向かって、いのちあるもののように針路を取ってくるのを見るとき、私はその運動を導いている人がひとり、その舵のそばにいることがわかる。御霊のみわざも、それと全く同じである。

 私はこのことを覚えておくようにあらゆる読者の方々に命ずる。このことを確立した原則として、あなたの精神の中に堅く据えておくがいい。すなわち、もし聖霊が真にある人のうちにおられるなら、それは聖霊がその人の心と生活において生み出す種々の効果のうちに見てとれる、ということである。

 用心するがいい。魂における御霊の臨在の外的な証拠が何もない人でも、御霊を持っていることがありえる、などと考えてはならない。そのように考えるのは、危険かつ非聖書的な迷妄である。私たちは決して聖書の中で私たちのために規定されている原則の大筋を見失ってはならない。「もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません」。----「そのことによって、神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします。義を行なわない者はだれも、神から出た者ではありません」(Iヨハ1:6; 3:10)。

 疑いもなくあなたは、無律法主義者と呼ばれる、低劣な種別のキリスト者たちのことを聞いたことがあるであろう。彼らは、自分はキリストの恩恵にあずかっていると豪語し、自分は赦罪を受け、赦されていると云いながら、その一方で、故意に罪を犯し、神の戒めを公然と破っている。おそらくあなたは、こうした人々が悲惨な自己欺瞞に陥っていると聞かされたことがあるであろう。彼らは、右手に嘘を握りしめたまま地獄に堕ちつつある。キリストを信ずる真の信仰者は「罪に死んでいる」。キリストに対する真の望みをいだくあらゆる人は、「キリストが清くあられるように、自分を清くします」(Iヨハ3:3)。

 しかし、私は、無律法主義者たちの迷妄と全く同じくらい危険で、かつ、はるかにまことしやかな迷妄についてあなたに告げたいと思う。その迷妄とは、----自分の生活の中に何の御霊の実も見あたらないにもかかわらず、自分の心には御霊が宿っていると自負することである。私の堅く信ずるところ、この迷妄は幾万もの人々を、無律法主義と同じくらい確実に滅ぼしつつある。聖霊の栄誉を汚すのは、キリストの栄誉を汚すのと同じくらい危険なことである。御霊のみわざの恩恵にあずかっているという偽りの触れ込みは、キリストのみわざの恩恵にあずかっているという偽りの触れ込みと同じくらい神の怒りを招くものである。

 ここではっきり私は読者の方々に命じておく。御霊が生み出す種々の効果が、御霊の臨在を示す唯一信頼できる証拠であると覚えておくがいい、と。聖霊のことを、自分の内側に住んではいても自分の生活の中には見あたらないお方として語るのは、実に気違いじみたことである。それは福音の第一の原理を混同することである。光と影を、----天性と恵みを、----回心と未回心を、----信仰と不信仰を、----神の子どもたちと悪魔の子どもたちを混同することである。

 この件においては、たった1つしか安全な立場はない。「だれが御霊を持っているか、いかにすれば決められるのか」、という問いに対する安全な答えは1つしかない。私たちは、私たちの主イエス・キリストによって規定された、昔ながらの原則の上に足を踏みしめなくてはならない。「あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです」(マタ7:20)。御霊がおられるところには、実があるものである。御霊の実を全く持っていない人は御霊を持っていないのである。感じられもせず、見られることもなく、働いてもいないような御霊の働きなどというものは、明白な迷妄にほかならない。御霊が真におられるところでは、御霊は感じられ、見られ、知られるものである。

 III. 最後のこととして私は、御霊が宿っておられる魂に対して御霊が生み出す個々の特定の効果について説明したい

 私はこの主題のこの部分を、何にもまして重要なものとみなしている。ここまで私が一般的に語ってきたのは、聖霊のみわざについて探求する際に私たちを導くべき主要な大原則についてであった。ここから私は、さらに詳細に入り、個々人の心の中における聖霊の臨在を見分けるための特別な目印について語っていかなくてはならない。幸いにも、私たちの光たる聖書があれば、こうした目印を見つけ出すことは困難ではない。

 この主題に完全に入っていく前に私は、いくつかの事がらを前提としておきたい。それは前置きとして必要なことである。

 (a) 御霊のみわざについては、ある程度の深遠な神秘があることを十分に認めたいと思う。私は御霊が心にお入りになるしかたを説明できない。「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです」(ヨハ3:8)。私はなぜ御霊がある心にお入りになり、別の心にはお入りにならないのか----なぜ御霊が身を落としてこの人には宿り、あの人には宿ることをしないのか----説明できない。御霊は主権をお持ちのお方として行動なさる。《教会教理問答》の言葉を用いれば、御霊は「神に選ばれた人々」を聖なるものとなさる。しかし、私がやはり思い起こすのは、私は自分がなぜキリスト教国である英国に生まれて、異教国のアフリカに生まれなかったのかも説明できない、ということである。私は、神のみわざはすべて良くなされていると信ずることで満足している。私にとっては、王の枢密顧問として列することがなくとも、王宮の中に入れるだけで十分なのである。

 (b) 御霊が人々の魂の中でそのみわざを行なう働きには非常な差異があることを、私は十分に認めるものである。----御霊が心にお入りになり始める年齢には違いがある。ある人々に対して御霊は、バプテスマのヨハネやテモテの場合のように、若年の頃にお始めになる。ある人々に対しては、マナセやザアカイの場合のように、老年の頃にお始めになる。----御霊が最初に心にかき立てなさる感情にも違いがある。御霊はある人々を、あのピリピの看守の場合のように、強烈な恐怖と不安に陥れなさる。ある人々については、あの紫布の商人ルデヤの場合のように、穏やかにその心をお開きになる。----この人格の完全な変化をもたらすのに費やされる時間にも違いがある。ある人々にとってその変化は、ダマスコに向かう途中のサウロの場合のように、即時的で突然のものであるが、他の人々にとってそれは、パリサイ人ニコデモのように、漸進的でゆっくりしたものである。----魂をその生まれながらの死から最初に目覚めさせる際に御霊がお用いになる手段にも違いがある。ある人々に対して御霊は説教を用い、別の人々には聖書を用い、別の人々には小冊子を用い、別の人々には友人の助言を用い、別の人々には病や患難を用い、別の人々には明確にそれとたどれるような特定の事がらは何もお用いにならない。こうした事がらすべてを理解しておくことは最も重要である。あらゆる人々を、一種類の経験だけに添わせるよう強要するのは、最も重大な間違いである。

 (c) 私は、御霊のみわざの発端が、しばしば小さく、感知できないものであることを十分に認めるものである。霊的な人格を形成するもととなる種は、非常にしばしば最初は微細なものである。霊的いのちの水源は、多くの大河のそれと同じく、しばしば最初には、細々と流れる小川にすぎない。それゆえ、ある魂の中における御霊のみわざの発端は、一般に、この世からは見逃されることが多い。----そして、ほとんど何の例外もなく、そうした働きを受けている魂自身によっても徹底的に誤解を受けるものである。そのことは決して忘れないようにしよう。御霊が働き始めた人は決して、長い時間が経たない限り、その回心の頃の精神状態のことを、聖霊がお入りになることによって生じたものと悟ることはない。

 しかしそれでも、こうしたすべての譲歩や斟酌をした上でも、御霊は、ご自分がお宿りになる魂に対して、特定の大きな主たる効果をいくつも生み出すものであり、そられは常に同一である。御霊を持っている人々は、最初は異なる通り道によって導かれるかもしれないが、彼らは常に、遅かれ早かれ、同一の狭いに至らされるのである。彼らのキリスト教信仰における主要な意見はみな同じである。彼らの主要な願いはみな同じである。彼らの一般的な歩みは同じである。彼らは、その生来の性格においては互いに大きな違いがあるかもしれないが、その主たる特徴においては常に1つである。聖霊は常に1つの一般的な種類の効果を生み出す。疑いもなく、御霊が心で働いておられる人々の経験には、微妙な差や多様さがあるが、彼らの信仰や生き方の大まかな輪郭は常に同じである。

 それでは、御霊を持っている人々に対して、御霊が常に生み出すという、こうした効果とはいかなるものだろうか? 魂における御霊の臨在を示す目印はいかなるものだろうか? これがいま考察すべきこととして残っている問題である。こうした目印を私たちは順々に書きとめていくことにしよう。

 1. 御霊を持っているすべての人々は、御霊によっていのちを与えられ、霊的に生きた者とされている。御霊は聖書の中で、「いのちの御霊」と呼ばれている(ロマ8:2)。私たちの主イエス・キリストは云っておられる。「いのちを与えるのは御霊です」(ヨハ6:63)。私たちはみな生まれながらに罪過と罪との中に死んでいる。私たちはキリスト教信仰について何の感興も興味も持っていない。私たちには信仰も、希望も、恐れも、愛もない。私たちの心は休眠状態にある。それは聖書では石にたとえられている。私たちは金銭や、学問や、政治や、快楽については活気づくことがあるかもしれないが、神に対しては死んでいる。----これらすべては、御霊が心にお入りになるとき一変する。御霊は私たちをこの死の状態からよみがえらせ、私たちを新しく造られたものとしてくださる。御霊は良心を目覚めさせ、意志を神に向かって傾ける。御霊は古いものを過ぎ去らせ、すべてが新しくなるようにしてくださる。御霊は私たちに新しい心を与える。私たちに古い人を脱ぎ捨てさせ、新しい人を着させてくださる。御霊は、まどろみの中にある私たちの精神機能の耳元でラッパを吹き鳴らし、私たちを送り出しては、あたかも私たちが新しい存在であるかのように世を歩ませる。しんとした墓場に閉じ込められていたときのラザロと、私たちの主の命令によって出てきたときのラザロは何と異なっていたことか! 泣き崩れる友人たちに囲まれ、寝床の上で冷たく横たわっていたヤイロの娘は、起き上がって、いつもしているように母親に語りかけているヤイロの娘と何と異なっていたことか! それと同じくらい異なっているのが、御霊が宿っている人と、御霊が入って来られる前の、かつてのその人である。

 私は、ものを考えることのできるあらゆる読者の方々に訴えたい。見るからに神以外のあらゆるもので心を一杯にしている人、----かたくなで、冷たくて、無感覚な心をした人、----このような人が「御霊を持っている」と云えるだろうか? 自分で判断するがいい。

 2. 御霊を持っているすべての人々は、御霊によって教えられている。御霊は聖書の中で、「知恵と啓示の御霊」と呼ばれている(エペ1:17)。それが主イエスの約束であった。「聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え……ます」。「御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます」(ヨハ14:26; 16:13)。私たちはみな生まれながらに霊的真理について無知である。「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです」(Iコリ2:14)。私たちの目は盲目である。私たちは神をも、キリストをも、私たち自身をも、世界をも、罪をも、天国をも、地獄をも、しかるべきしかたでは全く知っていない。私たちはすべてを偽りの色のもとで見ている。----御霊はこうした物事のあり方を完全に変化させる。御霊は私たちの心の目を開いてくださる。私たちを光で照らしてくださる。私たちを闇の中から驚くべき光の中に招いてくださる。顔のおおいを取りのけてくださる。私たちの心の中に光を射し込ませ、私たちに物事をありのままの姿で見させてくださる。あらゆる真のキリスト者たちが、真のキリスト教信仰の本質的要素についてこれほど著しく一致しているのも不思議ではない! その理由は、彼らがみな1つの学び舎----聖霊の学び舎----で学んだことにある。真のキリスト者たちがたちまち互いに分かり合い、交わりの共通の土台を見いだせるのも不思議ではない! 彼らは、ひとりのお方から同じ言語を教えられており、その教課は決して忘れられることがないのである。

 私は、ものを考えることのできるあらゆる読者の方々に再び訴えたい。福音の主要教理について全く無知な人、自分自身の状態について盲目な人、----このような人が「御霊を持っている」と云えるだろうか? 自分で判断するがいい。

 3. 御霊を持っているすべての人々は、御霊によって聖書へと導かれている。それこそ御霊が特別に魂に働きかけるための手段である。みことばは「御霊の与える剣」と呼ばれている。新しく生まれた人々は、「神のことばによって生まれた」*と云われている(エペ6:17; Iペテ1:23)。聖書はすべて御霊の霊感のもとで書かれた。御霊は決して聖書に書かれていないことを教えはしない。御霊はご自分が宿っている人に、「主のおしえを喜びと」させる(詩1:2)。幼子が自然の与える乳を欲して、他のいかなる食物も拒むように、御霊を持っている魂も、みことばの純粋な乳を慕い求めるのである。イスラエル人たちが荒野でマナによって養われたように、神の子らは聖書の内容によって養われることを聖霊から教えられるのである。

 私は、ものを考えることのできるあらゆる読者の方々に再び訴えたい。聖書を読みもしない人、あるいは形式的にしか読まない人、----このような人が「御霊を持っている」と云えるだろうか? 自分で判断するがいい。

 4. 御霊を持っているすべての人々は、御霊によって罪を確信している。これこそ御霊の果たすべき特別な職務であると主イエスが約束なさったものである。「その方が来ると、罪について……世にその誤りを認めさせます」(ヨハ16:8)。御霊だけが人間の目を開き、神の前におけるその咎と腐敗の真の程度を見させることができる。御霊は、魂のうちにお入りになるときには常にこのことを行なう。御霊は私たちに、自分たちの正しい立場を思い知らせる。私たちに、自分自身の心の邪悪さを示し、私たちをあの取税人とともに、「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」、と叫ばせる。御霊は、私たちがみな生まれながらに有している高慢で、自分を義とし、自分を正当化する考え方を引き倒し、私たちが当然有してしかるべき感情を私たちに感じさせる。----「私は悪い人間だ、私は地獄に落ちて当然だ」、と。教役者もしばらくの間は私たちを不安がらせることができるかもしれない。病によって私たちの凍てついた心が溶かされることはあるかもしれない。だが、もしそれが御霊の息によって溶かされていないと、すぐに再び凍りつき、御霊によって造り出されたのでない罪の確信は朝露のように過ぎ去ってしまうであろう。

 私は、ものを考えることのできるあらゆる読者の方々に再び訴えたい。自分の罪の重荷を全然感じていない人、またそうした罪を思ってへりくだらされるとはどういうことか知らない人、----このような人が「御霊を持っている」と云えるだろうか? 自分で判断するがいい。

 5. 御霊を持っているすべての人々は、御霊によってキリストに救いを求めるように導かれている。「キリストについてあかしする」*こと、「キリストのものを受けて、彼らに知らせる」ことこそ、御霊の職務の特別な部分である(ヨハ15:26; 16:15)。生来私たちはみな、自力で天国に行こうと考えるものである。私たちは自分の盲目さの中で、自分が神との平和を作り出せると思い描く。このみじめな盲目さから御霊は私たちを解放してくださる。御霊は私たちに、自分自身では失われ、望みなき者でしかないこと、キリストという扉を通してのみ天国に入って、救われることができることを示してくださる。御霊は私たちに、イエスの血のほか何物も罪を贖えないこと、キリストの仲介を通してのみ神はご自身が義であり、また不敬虔な者を義とお認めになることができることを教えてくださる。御霊は私たちに、キリストの救いが私たちの魂にとって絶妙にふさわしく、うってつけのものであることを啓示してくださる。御霊は私たちに対して、単純な信仰による義認という栄光ある教理の美しさを打ち開いてくださる。御霊は私たちの心に、キリスト・イエスにあるあの神の大いなる愛を注いでくださる。鳩がよく知っている岩の裂け目に難を逃れるように、御霊を持っている人の魂はキリストのもとに逃れて、キリストに希望をかけるのである(ロマ5:5)。

 私は、ものを考えることのできるあらゆる読者の方々に再び訴えたい。キリストに対する信仰を全く知らない人が「御霊を持っている」と云えるだろうか? 自分で判断するがいい。

 6. 御霊を持っているすべての人々は、御霊によって聖くされている。御霊は「聖い御霊」である(ロマ1:4)。御霊が人々のうちに住むとき、御霊は彼らに、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」を求めさせる。御霊は彼らの新しい「神のご性質」を通して、あらゆることにおける神の戒めを正しいものとみなし、「偽りの道をことごとく憎」むことを、彼らにとって自然なことにする(IIペテ1:4; 詩119:128)。罪はもはや彼らにとって喜ばしいものではない。それにより誘惑されるとき、それは彼らの悲しみとなる。それに打ち負かされるとき、それは彼らの恥となる。彼らの願いはそれから完全に自由になることである。彼らの最も幸福なときは彼らが最も神のそば近くを歩むことができたときである。彼らの最も悲しいときは、彼らが神から最も遠く離れているときである。

 私は、ものを考えることのできるあらゆる読者の方々に再び訴えたい。厳密に神のみこころに沿って生きようというふりさえしていない人が「御霊を持っている」と云えるだろうか? 自分で判断するがいい。

 7. 御霊を持っているすべての人々は、霊的な考え方をしている。使徒パウロの言葉を用いれば、「御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます」(ロマ8:5)。彼らの精神の一般的な基調、大筋、傾向は、霊的な事がらを好む方向にある。彼らが神に従うのは、気まぐれにでも、発作的な衝動にかられてでもなく、常習的にである。彼らは強い誘惑により脇道にそらされることがあるかもしれないが、彼らの生活や、あり方や、嗜好や、考えや、習慣の一般的な傾向は霊的なものである。それは彼らの余暇の使い方や、彼らが好んで交際する人々や、彼らの自宅でのふるまい方を見ればわかる。そして、そのすべては聖霊によって彼らに植えつけられた霊的性質の結果なのである。蝶になった芋虫が、もはや地面の上を這い回ることに満足できず、上に向かって飛翔し、その羽根を用いるように、御霊を持っている人の種々の感情は、常に神に対して伸ばされているのである。

 私は、ものを考えることのできるあらゆる読者の方々に再び訴えたい。この世の物事だけしか心にかけていないような人が「御霊を持っている」と云えるだろうか? 自分で判断するがいい。

 8. 御霊を持っているすべての人々は、自分の内側で、古い性質と新しい性質とが争闘しているのを感じている。聖パウロのこの言葉は、多かれ少なかれ、神の子どもたち全員にあてはまるものである。「肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです」(ガラ5:17)。彼らは自分の胸の内側に聖い原理があって、それが彼らに神の律法を喜ばせているのを感じる。だが彼らは、内側にもう1つの原理があって、それが支配権を握ろうと激しくあがき、彼らを下方へと後方へと引きずろうともがいているのを感ずる。人によっては、この争闘を他の人より激しく感じることもあるが、御霊を持っている人々はみなこの争闘のことを知っている。そして、これは良いしるしである。これは、武装した強い人がもはや、かつてのように、ゆるぎない統治者として内側で支配してはいないという証拠である。聖霊の臨在は、内的な平安によってばかりでなく、内的な戦いによっても知ることができる。キリストに望みと希望をかけることを教えられた人は、常に罪と戦い、罪と争うものである。

 私は、ものを考えることのできるあらゆる読者の方々に再び訴えたい。内的な争闘について全く知らず、罪と世と自分の我意のしもべとなっているような人が「御霊を持っている」と云えるだろうか? 自分で判断するがいい。

 9. 御霊を持っているすべての人々は、御霊を持っている他の人々を愛するものである。そうした人々について聖ヨハネはこう書いている。「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです」(Iヨハ3:14)。彼らは、だれかのうちに聖霊をはっきり見てとれば見てとるほど、その人を愛しいと感ずるようになる。彼らはその人を同じ家族の一員とみなし、同じ御父の子ども、同じ《王》の臣下、同じ母国に向かって遠い国からともに旅を続けている仲間とみなす。罪がこの世からこれほど悲惨に追い払ってしまった兄弟愛のいくばくかを取り戻させるというのは、御霊の栄光である。御霊は人々を愛し合わせる。それも、生まれながらの人にとっては愚かでしかない理由によってそうさせる。----その理由とは、共通の《救い主》と、共通の信仰と、地上での共通の奉仕と、共通の故郷の望みである。御霊は血縁や、縁戚や、興味や、取引や、その他の世的な動機とは全く別個の友情を出現させる。御霊は人々に、彼らが1つの大いなる中心、イエス・キリストに結び合っていることを感じさせることによって、彼らを結び合わせる。

 私は、ものを考えることのできるあらゆる読者の方々に再び訴えたい。霊的な考え方をする人々との交わりに何の喜びも見いださない人、あるいは、彼らを聖人君子といって嘲りさえするような人、----このような人が「御霊を持っている」と云えるだろうか? 自分で判断するがいい。

 10. 最後に、御霊を持っているすべての人々は、御霊によって祈ることを教えられている。御霊は聖書の中で、「恵みと哀願の霊」と呼ばれている(ゼカ12:10)。神の選民は、「夜昼神を呼び求めている」、と云われている(ルカ18:7)。彼らはそうしないではいられないのである。彼らの祈りは貧しく、弱く、とりとめのないものかもしれない。----だが、彼らは祈らずにはいられない。彼らの内側にある何かが彼らに、彼らは神と語らなくてはならない、自分の種々の欠けを神の前に持ち出さなくてはならない、と告げているのである。幼子が痛みや空腹を感じると泣き声をあげる性質を刷り込まれているように、聖霊によって植えつけられた新しい性質も、人を祈らせるのである。御霊は子とする御霊であり、「アバ、父」、と叫ばないではいられない(ガラ4:6)。

 もう一度、私は、ものを考えることのできるあらゆる読者の方々に再び訴えたい。全く祈りもしない人、あるいは、ほんの二言三言、心のこもらない形式的な言葉を唱えるだけで事足れりとしている人が「御霊を持っている」と云えるだろうか? 最後の最後に私は云う。自分自身で判断するがいい。

 こうした事がらが、私の信ずるところ、ある人のうちに聖霊が臨在しているかどうかを見分けるための目印であり、しるしである。私は、聖書の中で私たちの前に置かれていると私に思われる通りのことを、公正に書きとめてきた。私は何も誇張しないように努め、何も押し隠さないように努めてきた。私の信ずるところ、こうした目印が見あたらないような真のキリスト者はひとりもいない。疑いもなく、それらのあるものを目立たせている人々もいれば、別のものを目立たせている人々もいる。だが私自身の経験は明確で、判然としている。----すなわち、私は真に敬虔な人々のうちひとりとして、いかに貧しく、いかに卑しい階級の人々でも、つぶさに観察してみるとき、こうした目印が発見されないような者は見たことがない。

 私の信ずるところ、こうした目印こそ、永遠のいのちへと至る道を自分が旅していることを示す、唯一安全な証拠である。私は、自分の召されたことと選ばれたこととを確かなものとしたいと願っているすべての人に、こうした目印が自分のものとなっているかどうかを確認するように命ずる。「目印」などというものを軽蔑し、それらを「律法的」であると呼ぶ、高尚ぶった信仰告白者たちがいることは私も承知している。私は、それらが聖書的であることを納得している限り、律法的だと呼ばれようが全く意に介さない。そして、私は、聖書を目の前にして、確信とともに自分の意見を云うものである。こうした目印を伴っていない人は、神の御霊を有してはいない、と。

 こうした目印を身に帯びている人を見せてみるがいい。私はその人を神の子どもであると認めるであろう。その人はこの世的には貧しく卑しいかもしれない。その人は、自分で自分が邪悪な者に見え、しばしば自分の救いを疑うことがあるかもしれない。しかし、その人の内側には、天からやって来るしかないもの、決して滅ぼされることのないもの、----すなわち、聖霊のみわざを有しているのである。神はその人のものであり、キリストはその人のものである。その人の名前はすでにいのちの書に書き記されており、まもなくすれば天国がその人のものとなるであろう。

 こうした目印が見あたらないような人を見せてみるがいい。私はその人を真のキリスト者と認めることはできない。正直な人間としてそのようなことはできない。その人の魂を愛する者としてそのようなことはできない。聖書を読む者としてそのようなことはできない。その人は、堂々たる信仰の告白をしているかもしれない。その人は学問があり、この世にあっては地位高く、その生活においても道徳的かもしれない。だが、もしその人が聖霊を持っていなければ、それらはみな無である。その人は神なく、キリストなく、堅固な希望なく、そのまま変わらなければ、最後には天国を持たないことになるであろう。

 さて今この論考を閉じるにあたり、ここに含まれている問題から自然と生じてくる、いくつかの実際的な所見を述べさせてほしい。

 (a) まず第一に、あなたはあなた自身の緊急の義務が何であるか、知りたいだろうか? 耳を傾けるがいい。私が告げるであろう。

 あなたは、私がここまであなたの前に示そうとしてきた主題について、冷静に自分自身を吟味するべきである。聖霊の教理がいかにあなたの魂に影響を与えているかを、自ら真剣に自問するべきである。私は切に願う。しばしの間、地上にある物事よりもいや高い物事、時の間にある物事よりも重要な物事に目を向けるがいい。私が1つ平易な問いかけをするのを許してほしい。それを私は厳粛に、また愛情をこめて、あなたの救いを願う者として尋ねるものである。----あなたは御霊を持っているだろうか?

 思い出してほしいが、私は決してあなたに、今まで私が語ってきたすべてのことが真実で、正しくて、良いことだと思うかどうか尋ねているのではない。私はあなたに、果たして、今この行を読んでいるあなた自身が、自分の内側に聖霊を持っているかどうか尋ねているのである。

 思い出してほしいが、私は決してあなたに、聖霊がキリスト教会に与えられてることや、教会に属しているすべての者が聖霊の働きを及ぼされうることを信じているかどうか尋ねているのではない。私はあなたに、果たしてあなた自身が、自分の心に聖霊を持っているかどうか尋ねているのである。

 思い出してほしいが、私は決してあなたに、御霊がそのみわざをあなたのうちでお始めになった月日を告げるよう求めているのではない。私にとっては、果物の木に果物が生っていさえすれば、その木が植えられた正確な時期を尋ねることなど不要である。しかし、私はあなたに尋ねているのである。あなたは御霊の実を少しでも生じさせているだろうか、と。

 思い出してほしいが、私は決してあなたに、あなたが完璧な人かどうか、内側に邪悪なものを何1つ感じていないかどうか尋ねているのではない。しかし、私はあなたに、厳粛に、また真剣に尋ねているのである。果たしてあなたは、自分の心と生き方に御霊の目印を帯びているだろうか、と。

 私はあなたが、何が御霊の目印か自分にはわからない、などと告げないことを望みたい。私はそれを平明に叙述してきた。ここで短く繰り返すので、ぜひともそれらに注意してほしいと思う。1. 御霊は人の心にいのちを与える。2. 御霊は人の精神を教える。3. 御霊はみことばに導く。4. 御霊は罪を確信させる。5. 御霊はキリストに引き寄せる。6. 御霊は聖める。7. 御霊は人を霊的な考え方にさせる。8. 御霊は内的な争闘を生じさせる。9. 御霊は人に兄弟を愛させる。10. 御霊は祈ることを教える。こうしたものこそ、聖霊の臨在を示す大きな目印である。この問いかけを男らしく自分の良心に突きつけるがいい。----御霊はこうした類のことを何かあなたの魂に行なっておられるだろうか?

 私はあなたに命ずる。私の問いかけに答えようともしないまま、何日も過ぎ去らせてはならない。私は、あなたの心の扉を叩く忠実な見張り人として、このことの決着をつけるよう、あなたに要求する。私たちの住んでいる世界は、古く、くたびれ果て、罪にのしかかられた世界である。「一日のうちに何が起こるか」(箴27:1)だれに知れよう? 来年も生きていられる保証がだれにあるだろうか? あなたは御霊を持っているだろうか?

 (b) 次のこととして、あなたは、今の時代のキリスト教の大きな欠陥は何か知りたいだろうか? 耳を傾けるがいい。私が告げるであろう。

 私の語っている大きな欠陥とは、単にこのことである。----すなわち、多くの人々のキリスト教が真のキリスト教では全くない、ということである。このような意見が厳しく、また衝撃的に愛のないものに聞こえることは承知している。それはどうしようもない。私は、これが悲しいほどに真実であると確信している。私が望むことはただ、人々のキリスト教が聖書のキリスト教であることだけである。だが、多くの場合、果たして本当にそうなのかどうか、私は非常な疑いを感ずるものである。

 私の信ずるところ、おびただしい数の英国人は、単に形式だけのために毎日曜日に教会か会堂に通っている。彼らの父や母が通っていた、だから彼らも通うのである。それはこの国のしきたりである、だから彼らは通うのである。キリスト教の礼拝に出席して説教を聞くのは習慣である、だが彼らは通うのである。しかし、真の、生きた、救いに至るキリスト教信仰について、彼らは何1つ知りも、気遣いもしない。彼らは福音の明確な教理について何1つ説明できない。義認も、新生も、聖化も、彼らには説き明かせない「ことばや名称」である。彼らには、自分が主の晩餐に集うべきであるという漠然とした考えがあるかもしれない。また、キリストについて二言三言は漠然とした言葉を口にできるかもしれない。だが彼らは、救いの道についてはいかなる理性的な観念も持っていない。聖霊については彼らは、その名前を聞いたことはあるとか、《信仰告白》で暗唱したことがあるという以上のことは、ほとんど何も云えない。

 さて、もしこの論考を読んでいる方々のだれかが、自分のキリスト教信仰がいま私の述べたようなものであることを自覚しているとしたら、私はその人にただただ愛情を込めて警告したい。そのようなキリスト教信仰は全く無価値である、と。それはその人の魂を救いも、慰めも、満足させも、聖めもしない。そして、私がその人に与える平明な助言は、一刻も早くそれをもっとまともなものと取り替えるがいい、ということである。私の言葉を覚えておくがいい。最後にはそれは用をなさいであろう。

 (c) 次のこととして、あなたは、今日の私たちがことさら執拗に守る必要のある福音中の1つの真理を知りたいだろうか? 耳を傾けるがいい。私が告げるであろう。

 私が念頭に置いている真理とは、聖霊のみわざに関する真理である。疑いもなくすべての真理は絶えずサタンによって攻撃されている。私は一瞬たりとも御霊の職務を誇張して、福音の《太陽》であり《中心》であるお方----イエス・キリスト----を越えて御霊を称揚したいとは決して考えていない。しかし、私の真実信ずるところ、キリストの祭司職についで、今日しばしば見失われ、狡猾に攻撃されている真理としては、御霊のみわざにまさるものはない。ある人々はそれを、無知のためないがしろにすることによって害を加えている。彼らが語るのはことごとくキリストのことばかりである。彼らは「《救い主》」については多少とも語ることができる。だがもし彼らに、その《救い主》を本当に知っている者ならだれでも経験しているはずの、御霊の内的なみわざについて尋ねると、彼らは一言も口にすることができない。----ある人々は御霊のみわざを、初めから当然あるものとして軽んずることによって害を加えている。教会員籍や、礼典への参加が、彼らにとっては回心や霊的新生の代用品となっている。----ある人々は御霊のみわざを、生まれながらの良心の動きと混同することによって害を加えている。この低俗な見解によると、よほどかたくなで堕落した人間でもなければ、聖霊を欠いていることはないとされる。----こうした真理からの逸脱すべてに対して、私たちは用心し、警戒を固めておこう。福音における言明の釣り合いから離れないように用心しよう。御霊の内的なみわざなくして救いはない! これを、今日のおける私たちの主たる合言葉の1つとしていよう。目に見え、感じとることができ、知りえない限り、いかなる聖霊の内的みわざもない! 神に対する悔い改めと、イエス・キリストに対する生きた信仰によって自らを現わさないような、救いに至る御霊のみわざはない!

 (d) 次のこととして、あなたは、福音の教役者たる私たちが、長年の間説教を聞き続けているいかなる人についても、なぜ決して絶望しないのか知りたいだろうか? 耳を傾けるがいい。私が告げるであろう。

 私たちが決して絶望しないのは、私たちが聖霊の力を信じているからである。私たちが自分自身の能力を眺めているとしたら、絶望しても無理はない。私たちはしばしば自分にうんざりする。私たちが自分の会衆に属するだれかを眺めているとしたら、絶望しても無理はない。彼らは石臼の下側のように固く、無感覚に見える。しかし私たちは聖霊と、聖霊がなしてこられたことを思い起こす。聖霊を思い起こし、聖霊が変わっておられないことを考える。聖霊は火のように降って、いかにかたくなな心も溶かすことができる。私たちの聴衆の間の最悪の人々をも回心させることができ、その全人格を新しい型に作り上げることができる。そしてそれで私たちは説教し続けるのである。私たちが希望を持てるのは、聖霊のおかげである。おゝ、願わくは私たちの聴衆たちが、真のキリスト教信仰の進展のよりどころは、「権力によらず、能力によらず」、主の霊にかかっていることを理解できるように! おゝ、彼らの多くが教役者に頼ることをより少なくし、聖霊を求めて祈ることをより多くすることを学ぶように! おゝ、すべての人々が学校や、小冊子や、教会組織などに期待するのをより少なくすることを学び、すべての手段を勤勉に用いつつも、御霊の注ぎ出しをより熱心に求めるようになるように(ゼカ4:6)。

 (e) 次のこととして、あなたは、あなたの良心があなたに向かって、あなたは御霊を持っていないと告げるとき、自分が何をすべきか知りたいだろうか? 耳を傾けるがいい。私が告げるであろう。

 もしもあなたが御霊を持っていなければ、あなたはすぐさま祈りによって主イエス・キリストのもとに行き、私をあわれんでください、御霊を私に送ってください、と嘆願すべきである。私は、まず第一に聖霊を求めて祈るように人々に告げ、第二番目にキリストのもとに行かせようとする者たちには、これっぽっちも同調しない。そのように云うことのできる裏づけが聖書の中には何1つ見てとれない。私に見てとれるのは、ただ、もし人々が自分を困窮した、滅びつつある罪人であると感じたならば、彼らは真っ先に、まっしぐらに、一直線に、イエス・キリストにその求めを訴えるべきだ、ということである。私が見るに、主ご自身がそう云っておられる。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」(ヨハ7:37)。私の知るところ、こう記されている。「彼は人々のために賜物を受けられました。頑迷な者どものためにすら。神であられる主が、彼らの間に住まわれるために」*(詩68:18)。私の知るところ、聖霊によってバプテスマを授けるのは主の特別な職務であり、「御子のうちには満ち満ちた神の本質が宿っている」*(コロ1:19)。私は聖書よりも組織的になるつもりはない。私の信ずるところ、キリストは神と魂が相会うところであり、御霊を欲する人に対する私の第一の助言は、常にこうであろう。「イエスのもとに行き、あなたの求めを彼に告げるがいい」。

 さらに私は云いたい。もしあなたが御霊を持っていなければ、あなたは御霊がお働きになる恵みの手段に熱心に携わらなければならない。あなたは規則正しく、御霊の剣たるみことばに耳を傾けなくてはならない。御霊の臨在が約束されているような集会に定期的に集わなくてはならない。つまり、もしあなたが御霊から善を施してもらいたければ、あなたは御霊の通る道ににいるようにしなくてはならない。盲人バルテマイは、怠けて自宅に座っていたとしたら、決して目が見えるようにはならなかったであろう。ザアカイは、前方に走り出て、いちじく桑の木に登らなかったとしたら、決してイエスを見ることも、アブラハムの子となることもなかったであろう。御霊は愛に満ちた、善良な《霊》である。しかし、恵みの手段を軽蔑する者は、聖霊に逆らっているのである。

 (f) 次のこととして、あなたは、もしあなたが自分の状態について疑いを感じ、自分が御霊を持っているかどうかわからないとしたら、何をすべきか知りたいだろうか? 耳を傾けるがいい。私が告げるであろう。

 もしあなたが、自分は御霊を持っているかどうか疑いを感ずるというなら、あなたは自分の疑いが健全な根拠に立ったものかどうか冷静に吟味すべきである。おそらく多くの真の信仰者たちは、自分の状態について堅固な確信を全く欠いているのではないかと私は恐れるものである。私がそうした人々に願いたいのは、自分の聖書を手に取り、自分の不安にいかなる根拠があるか冷静に考えてみることである。私は彼らに考えてほしい。彼らの罪意識は、いかに微妙なものであれ、どこから来たのだろうか?----彼らのキリストに対する愛は、いかにかすかなものであれ、どこから来たのだろうか?----彼らの聖さを求める願望は、いかに弱々しいものであれ、どこから来たのだろうか?----彼らの祈りとみことばに対する心の傾きは、どこから来たのだろうか? 私は云う。それらはどこから来たのだろうか? あなた自身の心から出てきたのだろうか? 確かにそうではない! 天性は決してそんな実を生らせはしない。----それらは悪魔が出てきたのだろうか? 確かにそうではない! サタンはサタンに対して戦いをいどみはしない。それでは、もう一度云うが、こうした事がらはどこから来たのだろうか? 私はあなたに警告したい。真の聖霊の働きを疑うことによって、聖霊を悲しませないように用心するがいい、と。私はあなたに告げたい。いいかげんにあなたは、思い巡らすべきである。あなたが、期待する権利もないような内的完全さを期待しているのではないかどうかを。またそれと同時に、聖霊が実際にあなたの魂の中で造り出しておられる真のみわざを、恩知らずにも過小評価しているのではないか、と。

 ひとりの大政治家がかつてこう云ったことがある。もし初めて英国を訪れた外国人が目隠しをして耳だけ開いていたとしたら、----人々の言葉は細大漏らさず聞きながら、何1つ目にしないとしたら、----その人が、英国は破滅への道をたどっていると考えても不思議ではない。それほど英国人の愚痴は多いのである。だがもし、その同じ外国人が耳はふさいで目を開いたまま英国にやって来たとしたら、----何もかも目にしながら、何も耳に入れなかったとしたら、----その人はおそらく、英国が世界で最も富裕で、最も興隆をきわめた国だと思うであろう。それほどその人が目にする繁栄のしるしは多いのである。

 私はしばしばこの所見を、疑いつつあるキリスト者の場合にあてはめてみたい思いがする。もし彼らが自分たちについて云っていることを私が信じるとしたら、私は確かに彼らが悪い状態にあると思うはずである。しかし、彼らが生きている生き方を目にするとき、----その義に飢え渇き、心を貧しくし、聖さを慕い求め、キリストの御名を愛し、聖書を読み祈る習慣を守っている姿、----そうした事がらを目にするとき、私は心配することをやめてしまう。私は自分の耳よりも目の方を信用する。私は御霊の臨在のあからさまな目印を見ているので、私が唯一悲しく思うことは、彼らがそれらを自分で見ることを拒んでいるということしかない。私が見ているのは、悪魔が、こうした疑いを彼らの精神にしみ込ませることによって、彼らから彼らの平安を奪っている姿である。そして嘆かわしいことに、彼らは悪魔を信じることによって自分自身に危害を加えているのである。むろん一部の信仰告白者は、自分が「御霊を持っている」かどうか疑った方がよい。というのも、彼らは恵みのしるしを何1つ身に帯びていないからである。しかし、多くの人々は、自分たちの精神の中に、何1つ根拠もない疑いの習慣を後生大事にかかえており、そのことについて彼らは恥じるべきである。

 (g) 最後の最後に、あなたはもし本当に御霊を持っているとしたら何をすべきか知りたいだろうか? 耳を傾けるがいい。私があなたに告げよう。

 もしあなたが御霊を持っているとしたら、「御霊に満たされ」ることを求めるがいい(エペ5:18)。生ける水を深々と飲み込むがいい。小さなキリスト教信仰で満足していてはならない。御霊があなたの心のあらゆる隅々や小部屋に満ちてくださるように祈るがいい。そして、そこには一寸たりとも、この世や悪魔のための隙間が残されていないように祈るがいい。

 もしあなたが御霊を持っているとしたら、「御霊を悲しませてはいけません」*(エペ4:30)。信仰者たちは容易に、御霊が臨在しておられる感覚を弱め、御霊の慰めを取り落としてしまうことがありえる。抑制されていない些細な罪、矯正されていない些細な気質上の、あるいは言葉を用いる悪癖、この世に対する些細な追従、----これらはみな聖霊を傷つけることである。おゝ、願わくは信仰者たちがこのことを覚えているように! 「地上における天国」は、彼らの多くが到達しているよりも、はるかに多く享受できるはずなのである。では、なぜ彼らはそこに到達していないのだろうか? 彼らは自分の日々の歩みに十分気を配っていないのである。----そしてそれゆえに御霊のみわざはくじかれ、妨げられるのである。御霊をあなたの魂にとっての慰め主としたければ、御霊を完全に聖め主なる御霊としなくてはならない。

 もしあなたが御霊を持っているとしたら、「御霊の実」をすべて結ぶように努力するがいい(ガラ5:22)。使徒が明細に書き表わした一覧を読み返し、これらの実の1つたりともないがしろにしないようにするがいい。おゝ、願わくは信仰者たちが、より多くの「愛」を、より多くの「喜び」を求めるように! そうすれば彼らは、あらゆる人々により多くの善を施すであろう。そうすれば彼らは、自分自身でも、より幸いに感じるであろう。そうすれば彼らは、キリスト教信仰を世の目の前でより美しいものとするであろう!

 私は、このページを読んでいるあらゆる方々に勧めるものである。私がここまで書いてきた事がらに真剣な注意を払うがいい。それらの書かれたことが無駄にならないようにするがいい。御霊がいと高きところから、これまで以上に満ち満ちた影響力をもって注がれるようにとの私の祈りに加わるがいい。御霊が国内と国外のあらゆる信仰者の上に注がれ、彼らがより一致し、より聖くなるように祈るがいい。御霊がユダヤ人にも、イスラム教徒にも、異教徒にも注がれ、彼らのうち多くの者が回心するように祈るがいい。

 御霊がローマカトリック教徒の上に注がれるように、特にイタリアとアイルランドのローマカトリック教徒の上に注がれるように祈るがいい。御霊があなた自身の国の上に注がれるように、またこの国が受けてしかるべき審きから免れるように祈るがいい。御霊があらゆる忠実な教役者や宣教師の上に注がれ、彼らの数が百倍にも増し加えられるように祈るがいい。

 何にもまして、御霊があなた自身の魂の上に、満ち満ちた力を持って注がれて、もしあなたが真理を知っていないとしたら、あなたが真理を知ることになるように、----また、もしあなたが真理を知っているとしたら、それをさらによく知ることができるように、祈るがいい。

御霊を持つ[了]

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