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10. 聖霊


「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません」----ロマ8:9

 この論考の主題は、私たちの魂にとってこの上もなく重要なものの1つである。その主題とは、聖霊なる神のみわざにほかならない。このページの冒頭に冠した聖句の厳粛な言葉は、聖書を神の生ける御声であると信ずるすべての人々の注意を引いてしかるべきである。「キリストの御霊を持たない人は、《キリストのものではありません》」。

 おそらく、この論考を手に取ることになるほとんどの人は、すでにバプテスマを受けているであろう。だが、あなたはいかなる名前によってバプテスマを受けたのだろうか? それは、「父と、子と、聖霊の御名によって」、であった。

 おそらく、この論考を読む多くの人々は既婚者であろう。だが、あなたがたはいかなる名前によって夫婦であると宣言されたのだろうか? やはりそれは、「父と、子と、聖霊の御名によって」、であった。

 この論考を読む多くの人々が、英国国教会の会員であることも考えられないではない。だが、あなたは毎週《使徒信条》を唱えるとき、何を信ずると宣言しているのだろうか? あなたは云っているであろう。あなたは、「父なる神、子なる神、聖霊なる神を信ず」、と。

 この論考を読む多くの人々が、いつの日か英国国教会の埋葬式で埋葬されることもまた考えられる。だが、会葬者たちが帰路につき、あなたの頭上で墓が埋められる前に、あなたの棺の上で宣告される最後の言葉は何だろうか? それはこの言葉であろう。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように」(IIコリ13:13)。

 さて私は、この論考を読むあらゆる人々に、平易な問いかけをしてみたい。あなたは、これほどしばしば繰り返されている言葉----聖霊----の意味について何を知っているだろうか?----聖霊なる神はあなたのキリスト教信仰の中でいかなる位置を占めているだろうか?----あなたは聖霊の職務、みわざ、内住、交わり、力について何を知っているだろうか?----これこそ、きょう私があなたの注意を引きたいと願っている主題である。私はあなたに、聖霊なる神のみわざについて、あなたが何を知っているか真剣に考察してほしいと思う。

 私の信ずるところ、私たちが生きている時代は、この偉大な主題について、しばしば、また明確に証言がなされる必要がある。私の信ずるところ、キリスト教信仰の中でも、おそらく何にもまして偽りの教理によって不明瞭にさせられ、損なわれることの多い真理は、聖霊に関する真理であろう。私の信ずるところ、無知な世が「偏執、狂信、熱狂主義」としてことさらに悪し様にののしろうとしがちなのは、聖霊のみわざという主題である。私はいま心から願い、神に祈るものである。この主題に関して私が、「まさしくイエスのうちにある真理」以外の何事も書くことがなく、その真理を愛をもって書けるようにと。

 便宜上、この主題は4つの項目に分けてみたい。それを順々に考察しようと思う。

 I. 第一に、----聖書において聖霊のみわざに付与されている重要性
 II. 第二に、----人間の救いにおける、聖霊のみわざの必要性
 III. 第三に、----聖霊が人間の心の中で働くしかた
 IV. 最後に、----聖霊が人間の心の中に臨在しておられることを示す、いくつかの目印および証拠

 I. 私が考察したいと思う最初の点は、聖書において聖霊のみわざに付与されている重要性である。

 考えてみると、この主題のこの項目は、どこから始めて、どこで終わりとするか、その見きわめが容易ではない。この件に関わる聖句引用を続けて、この論考を埋め尽くすこともたやすいであろう。新約聖書において聖霊は、あまりにも数多く言及されているため、私が困難を覚えるのは証拠を見つけ出すことではなく、選択することである。ローマ人への手紙8章において聖パウロは、18回も御霊なる神について語っている。実際、信仰を告白するほとんどのキリスト者たちの思いの中で聖霊が占めている位置は、聖霊がみことばの中で占めている位置とは全く釣り合いがとれていない*1

 私は、聖霊の神性と人格性を証明するのに、さほど時間をかけようとは思わない。その2つの点は、聖書において、太陽の日差しで書かれたように記されている。誠実な思いで聖書を読む人の中に、なぜそのことを理解できない人がいるのか、私には全く理解に苦しむ。何にもまして了解できないのは、偏見を持たずに聖書を読んでいるという一部の人々が、いかにして御霊を単なる「影響力あるいは原理」にすぎないとみなせるのか、ということである。新約聖書にはこう記されているのである。聖霊は、「形をとって下られるのが見られた」*、と(ルカ3:22)。御霊は、弟子たちに命令を下して行動をとらせ、その御力によって彼らを空中に抱え上げられた(使8:29-39)。御霊は、異邦人への最初の宣教師たちをお遣わしになった(使13:2)。御霊は諸教会に語られた(黙2:7)。御霊はとりなしておられる(ロマ8:26)。御霊は、すべてのことを探り、すべてのことを教え、すべての真理に導き入れてくださる(Iコリ2:10; ヨハ14:26; 16:13)。御霊は、キリストとは独立した、もうひとりの助け主である(ヨハ14:16)。御霊には、個人的な種々の感情があるとされている(イザ63:10; エペ4:30; ロマ15:30)。御霊には、独立した思いと、みこころと、力がある(ロマ8:27; Iコリ12:11; ロマ15:13)。御霊には、御父と御子とともに、その御名によって執行されるバプテスマがある(マタ28:19)。そして、御霊を冒涜する者はだれであれ決して赦されることがなく、永遠に断罪される危険がある(マコ3:29)。

 私はこうした箇所に何の解説もすまい。これら自身が雄弁に語っている。私はただ、アンブロシウス・セルレの言葉を用いて、こう云うだけにしておこう。「二足す二が四であるということにもまして明確で、決定的なことと思われるのは、聖霊が生きた神格をお持ちの《行為者》であって、自意識と、意志と、力をお持ちのお方だ、ということである。もし人々がこうした証言によって確信しようとしないというなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしないであろう」*2

 繰り返すが、私は聖霊の神性と人格性の証明に長々とかかずらおうとは思わない。むしろ私は、この項目について云いたいことを、2つの一般的な所見に限定したい。

 1つのこととして、私が読者に注意深く注目するよう願いたいのは、人間の救済という大いなるみわざの1つ1つの段階において、いかに突出した立場を聖書は聖霊なる神に割り当てているか、ということである。

 あなたは、キリストの受肉についてどう考えているだろうか? あなたは、それが重要きわまりないものであると知っている。よろしい! 私たちの主が処女マリヤによってみごもられたとき、このように記されているのである。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます」(ルカ1:35)。

 あなたは、私たちの主イエス・キリストの地上における伝道活動をどう考えているだろうか? あなたは、いまだかつて、主のように行ない、主のように生き、主のように語った人がひとりもいないと知っている。よろしい! だが、こう記されているのである。御霊は、「鳩のように天から下って、この方の上にとどまられ」た。----「神はこの方に聖霊……を注がれました」。----御父はこの方に「御霊を無限に与えられ」、この方は、「聖霊に満ち」ておられた(ヨハ1:32; 使10:38; ヨハ3:34; ルカ4:1)。

 あなたは、キリストによる十字架上の代償の犠牲についてどう考えているだろうか? その価値は全く言葉に尽くすことができない。聖パウロがこう云っているのも不思議ではない。「私には……十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません」(ガラ6:14)。よろしい! だが、こう記されているのである。「キリストは傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになった」*(ヘブ9:14)。

 あなたは、キリストの復活についてどう考えているだろうか? それは、主のみわざすべてに証印を押す冠石であった。主は、「私たちが義と認められるために、よみがえられた」(ロマ4:25)。よろしい! だが、こう記されているのである。「彼は、肉においては死に渡され、御霊によって生かされました」(Iペテ3:18 <英欽定訳>)。

 あなたは、キリストがこの世を離れ、天に昇って行かれたことをどう考えているだろうか? それは主の弟子たちにとっては途方もない試練であった。彼らは小さな孤児たちのように、冷酷な敵たちのただ中に残されることになった。よろしい! ではいかなる大きな約束によって私たちの《救い主》は、その死の前夜、彼らを励ましただろうか? 「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。……その方は、真理の御霊です」(ヨハ14:16、17)。

 あなたは、福音を宣べ伝える使徒たちの宣教についてどう考えているだろうか? 私たち異邦人は、自分たちの有する信仰の光と知識をことごとく彼らの宣教に負っている。よろしい! まず彼らがしなくてはならなかったのは、エルサレムを離れずに、「父の約束を待」つことであった。彼らが外に出て行くのにふさわしくなったのは、ペンテコステの日に、「聖霊に満たされ」たとき以後であった(使1:4; 2:4)。

 あなたは、私たちを教えるために書かれた聖書についてどう考えているだろうか? あなたも知るように、地上から太陽がなくなったとしても、それは聖書のない世界のかすかな象徴でしかない。よろしい! 私たちの知るところ、聖書が書かれるにあたっては、「聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語った」のである(IIペテ1:21)。聖パウロは云う。「この賜物について話すには……御霊に教えられたことばを用います」(Iコリ2:13)。

 あなたは、私たちキリスト者が生きているこの全経綸についてどう考えているだろうか? あなたも知るように、現在の経綸における種々の特権は、ユダヤ人のそれとくらべれば、さながら真昼の光が薄暮にまさるように、はるかにすぐれたものである。よろしい、その特権を与えることは特に、「御霊の務め」、と語られているのである(IIコリ3:8)*3

 私はこれらの聖句を読者の前に提示し、それぞれの人が個別に思い巡らしてほしいと思う。ここで先に云っておいたもう1つの一般的な所見に話を進めたい。

 さて私があなたに注意深く注目するよう願いたいのは、キリスト者個々人が、この世の未回心の人々とは対照的に有している恵みや、性格や、立場が何であれ、それらは聖霊なる神のお働きに負っている、ということである。御霊によって彼らは召され、生かされ、生きた者とされた。御霊によって彼らは新しく生まれ、新しく造られた者となった。御霊によって彼らは罪を確信させられ、すべての真理に導き入れられ、キリストに至らされた。御霊によって彼らは贖いの日のために証印を押された。御霊は彼らを生きたその宮として、彼らに内住しておられる。御霊は、彼らの霊とともに証ししておられる。----彼らに、子とされる霊を与え、彼らが「アバ。父よ」と呼べるようにし、彼らのためにとりなしをしておられる。御霊によって彼らは聖められている。御霊によって神の愛は彼らの心に注がれている。御霊の力によって彼らは望みにあふれさせられている。御霊によって彼らは、信仰により、義をいただく望みを熱心に抱いている。御霊によって彼らは、彼らのからだの行ないを殺している。御霊に従って彼らは歩む。御霊によって彼らは生きる。一言で云えば、信仰者が恵みから栄光に至るまで有するすべてのもの、----彼らが信じた最初の瞬間から、世を去ってキリストとともにいることになる日までにとり続けるすべての立場、----すべてが、すべてが、すべてが聖霊なる神のみわざまでさかのぼることができるのである(ヨハ6:63; 3:8; 16:9、10; エペ4:30; Iコリ6:19; ロマ8:15、16、26; IIテサ2:13; ロマ5:5; 15:13; ガラ5:5、25; ロマ8:1、13)。

 私は私の主題のこの項目にこれ以上とどまっているわけにはいかない。だが、先に述べた言葉を私が考えもせずに用いたわけではない、と証明できる程度のことは語ったと思う。すなわち、聖書では神の御霊に非常な重要性が付与されているのである。

 先に進む前に私は、この論考を読むすべての人に切に願う。自分が聖霊のみわざに関して健全な教理をいだいているかどうかを確かめるがいい*4。御名の栄光を、聖霊に帰せよ。あなたのキリスト教信仰の中で、聖書が御霊に割り当てているのと同じ地位と威厳を御霊に与えるがいい。心の中に銘記するがいい。ほむべき《三位一体》の3つの《位格》すべてのみわざが、あらゆる救われた魂の救いには絶対的に、同等に必要である、と。父なる神の選び、子なる神の贖いの血は、私たちの信仰の土台石である。しかし、それらから決して引き離されるべきでないのは、聖霊なる神の適用のみわざである。御父はお選びになる。御子は和解させ、赦免を与え、義と認め、とりなしをなさる。聖霊はそうしたすべてのみわざを人の魂に適用なさる。聖書の中で常に一緒にされており、決して聖書の中で引き離されていない、《三位一体》のこの3つの《位格》それぞれの職務を、あなたのキリスト教において、決してもぎ離したり、分離させたりしないようにするがいい。神がこれほど美しく結び合わせたものを、いかなる人も引き離してはならない。

 キリスト教の教えと呼ばれているが、実はそうではない教えについて、兄弟としての警告を受け入れてほしい。直接的にせよ間接的にせよ、聖霊のみわざからその栄誉を奪っているいかなる教えにも警戒するがいい。一方で用心しなくてはならない過ちは、教会員籍や礼典への参与を、実質的に御霊の代わりにするという間違いである。バプテスマを受けたり、聖卓の前に集うことが、キリスト教の御霊を持っている確かな証明であるなどと、だれからも信じ込まされないようにするがいい。----もう一方で用心しなくてはならない過ちは、誇らしげに、いわゆる内なる光および、堕落以後のあらゆる人の中に残存している良心の切れっ端を、救いに至る聖霊のみわざの代わりにするという間違いである*5。キリストが死んだからには、当然、あらゆる人は内側にキリストの御霊を持っているはずだ、などと、だれからも信じ込まされないようにするがいい。----私はこうした点について物柔らかに語りたい。私は必要もない論争を招くような言葉を一言でも記すとしたら残念に思う。しかし私は、今の時代に真のキリスト教を尊んでいるあらゆる人に云う。「《三位一体》の第三《位格》の真のみわざと職務とを、きわめて執拗に守るがいい」、と。霊はそれが神から来たものかためすがいい。教会にいま感染しつつある、多くのさまざまな異なった教えを入念に見分けるがいい。そして、今日あなたの前に持ち出された主題を、そのための主要な試験の1つとするがいい。この終わりの日のあらゆる新しい教えを、2つの単純な問いかけによって見分けることである。まず第一に問うがいい。「《小羊》はどこにいるのか?」、と。第二に問うがいい。「聖霊はどこにいるのか?」、と。

 II. 私が考察したいと思う第二の点は、人間の救いにおける聖霊のみわざの必要性である。

 この主題のこの部分には格別な注意を払うよう勧めたい。自分の思いの中に深く刻み込んでおこう。私たちがこの論考で考察していることは、決してただの思弁的な問題ではない、と。これは、私たちがどう信じていようが大した意味を持たないようなことではない。逆にそれは、救いに至るキリスト教全体の根底に横たわっていることなのである。私たちは、聖霊とその職務について間違えると、永遠にわたって間違ったままでい続けることになる。

 聖霊のみわざの必要性は、人間性の全体的な腐敗から生じている。私たちはみな生まれながらに「罪の中に死んで」いる(エペ2:1)。この世の事がらについてはいかに抜け目なく、小賢しく、才気にあふれてはいても、私たちはみな神に対しては死んでいるのである。私たちの心の目は盲目になっている。私たちは何も正しく見てとることができない。私たちの意志と、感情と、意向は、私たちをお造りになったお方から離れている。「肉の思いは神に対して反抗する」(ロマ8:7)。私たちは生まれながらに信仰も、恐れも、愛も、聖さも有していない。つまり、自分ひとりでは、私たちは決して救われることがないのである。

 聖霊なしには、いかなる人も決して神に立ち返り、悔い改め、信仰を持ち、従うことがない。----知的訓練や世俗的な教育だけでは、真のキリスト者をひとりも生み出すことはない。美術や学問に精通することによって天国に至らされる人はいない。聖画や聖像によっては、決してだれも神のもとに連れて行かれない。「美術の精緻な筆致」は、決していかなる人々にも、審きの日への備えをさせない*6。それで元通りになる砕かれた心は1つもない。それで癒される傷ついた心はない。ギリシャ人には彼らのゼウクシスとパルハシウスがあり、彼らのフェイディアスとプラクシテレスがあった。その時代ばかりでなく、現代においても名匠として通用する芸術家たちがあった。だがギリシャ人は、神との平和を得る道について全く知らなかった。彼らははなはだしい偶像礼拝に埋没し、自分の手で造ったものを拝んでいた。----教役者たちがいかに熱心に努力してもそれだけで人々をキリスト者にすることはできない。いかに巧みな聖書的推論を重ねても人の思いには何の効果もない。彼らがいかに熱烈に講壇で雄弁をふるっても、人の心を動かしはしないであろう。むきだしの真理だけでは意志を動かさないであろう。私たち教役者は、このことを悲痛な経験によってよく知っている。私たちは、人々に生ける水の泉を示すことはできるが、彼らに飲ませることはできない。私たちが目にする多くの人々は、年々歳々、私たちの講壇の下に座り、何百もの説教を聞き、福音の真理をいやというほど詰め込まされていながら、それは何にもならない。私たちはその人を何年も見続けているが、その人は、いかなる聖書の議論によっても全く心動かされず、全く感動しない。----私たちの教会に入ってくるときにその人が踏みしめる石と同じくらいに冷たく、----壁に接する墓碑を飾っている大理石の彫像と同じくらい無感動で、----その人の会衆席が作られている古く乾いた樫材と同じくらい死んでいて、----その人の頭上に太陽の光を射し込ませている窓の着色硝子と同じくらい無感覚である。私たちはその人を不思議と悲しみの念をもって眺め、ザビエルが中国を見たときに口にした言葉を思い出す。「おゝ、岩よ、岩よ! いつお前は開くのか?」 そして私たちがこうした例によって学ぶのは、人をキリスト者にすることのできる唯一のものは、心の中に導入される新しい性質、新しい原理、そして上から出た《天来の》種以外にない、ということである。

 それでは人間に必要なことは何だろうか?----私たちは「新しく生まれる」ことが必要である。そしてこの新生を私たちは聖霊から受けなくてはならない。いのちの御霊が私たちを生かしてくださらなくてはならない。御霊が私たちを更新してくださらなければならない。御霊が私たちから石の心を取りのぞいてくださらなければならない。御霊が私たちに肉の心を入れてくださらなければならない。新しい創造のわざが行なわれなくてはならない。新しいものが存在させられなくてはならない。こうしたことすべてがない限り、私たちは救われることができない。ここにこそ、私たちが聖霊を必要とする主たる部分があるのである。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」(ヨハ3:3)。新生なくして、いかなる救いもありえない!*7

 私たちは、世間によくある考え方を自分の思いの中から永遠に放逐しよう。自然神学や、道義的勧告や、論理的議論が、あるいは福音の真理の提示が、ひとたび心に影響を与えたならば、それだけで罪人をその罪から立ち返らせるに十分である、などということはない。それは惑わす力である。それらにそうしたことはできない。人間の心は、私たちが思い描いているよりもはるかにかたくなである。古いアダムは、私たちの思いを越えて強力である。引き潮の途中で座礁した船は、上げ潮になるまでぴくりとも動きはしない。人の心も、聖霊がその上に下ってくださらない限り、決してキリストに頼ることも、悔い改めることも、信ずることもないであろう。それが起こるまで、私たちの内なる性質は、現在の秩序にある被造世界が始まる前の地上にも似て、----「形がなく、何もなく、やみが大いなる深みの上にある」ばかりである(創1:2 <英欽定訳>)。最初に、「『光よ。あれ。』と仰せられた。すると光ができた」、と語られたのと同じ力が、私たちの内側で創造のみわざを行なわない限り、私たちは決していのちにある新しい歩みへと起き上がることはない。

 しかし私は、この主題のこの項目について、まだあなたに語らなくてはならないことがある。人間の救いにおける御霊のみわざの必要性は広大な分野であって、そのことについては、もう1つ所見を述べなくてはならない。

 それでは私は云う。聖霊のみわざなくして、いかなる人も、決して来世で神とともに住むにふさわしい者にはなれない、と。何らかの種類のふさわしさが私たちにはなくてはならない。単なる罪の赦しは、それに新しい性質----神ご自身の性質と調和し、調子の合った性質----が伴わない限り、無価値な賜物である。私たちは天国に入る資格だけでなく、天国に合致した性質を必要としており、この合致した性質を私たちは聖霊から受けなくてはならない。私たちは、聖霊の内住によって「神のご性質にあずかる者」とされなくてはならない(IIペテ1:4)。御霊が私たちの肉的な性質をきよめ、そうした性質をして霊的な事がらを愛するようにさせなくてはならない。御霊が私たちの感情に下にある物事への嫌気を差させ、上にあるものを思うように私たちを教えなくてはならない。御霊が私たちの頑固な意志を曲げて、それに神のみこころに服従することを教えなくてはならない。御霊が私たちの内なる人に神の律法を新たに書き記し、私たちの内側に神への恐れを吹き込まなくてはならない。御霊が私たちの思いを日ごとに更新することによって私たちを変容させ、私たちがしもべとしてお仕えすると告白しているご自身のかたちを私たちのうちに植えつけなくてはならない。ここにこそ、聖霊のみわざを私たちが必要とするもう1つの大きな部分が存するのである。私たちは義認に全く劣らず聖化をも必要としている。「聖くなければ、だれも主を見ることができません」(ヘブ12:14)。

 もう一度私は読者に、世間によくある考え方をその思いから放逐するよう切に願う。赦しと赦罪さえあれば、人は神と出会う備えができたのだ、などということはない。これは惑わす力であって、私が全心を傾けてもあなたに用心を固めてほしいと願っている迷妄である。多くの無知なキリスト者たちがその臨終の床で考えることとは違い、神が「私たちの罪を赦し、私たちを安息へと連れて行ってくださる」だけでは足りない。もう一度強く私は云う。それだけでは足りない。罪の咎が取り除かれるだけでなく、私たちから罪に対する愛が除去されなくてはならない。神の審きに対する恐れが除去されるだけでなく、神を喜ばせたいという願いが私たちのうちに植えつけられなくてはならない。罰への怯えが取り除かれるだけでなく、聖潔への愛が接ぎ合わされなくてはならない。もし私たちが新しい心を持たないまま天国に入ったなら、天国そのものが何の天国でもないであろう。永遠の安息日や、聖徒や御使いたちとの交わりは、まず地上で私たちの心に安息日や聖なる集いを愛する思いが注ぎ出されていない限り、天国で私たちに何の幸福も与えることができないであろう。これを人が喜んで聞こうが聞くまいが、天国に入る人は、イエス・キリストの血を注がれているだけでなく、御霊の聖めも受けていなくてはならない。オーウェンの言葉を借りれば、「神が、堕落した人間を回復し、罪人を救うという大いなる、栄光あるみわざを計画なさったとき、神はその無限の知恵によって2つの偉大な手段をお定めになった。1つは彼らのためにご自分の御子をお与えになること。もう1つは彼らに御霊をお与えになることであった。そしてこれにより、ほむべき《三位一体》全体の栄光が現わされる道が開かれたのである」*8

 私は、人間の魂の救いにとって聖霊のみわざが絶対に必要であると示すだけのことは十分に語ったと信じたい。御霊なくして人間には神に立ち返る何の力もないこと、----御霊なくして人間は天国の喜びを受けるに全くふさわしくないこと、----この2つは啓示宗教の偉大な土台石であって、キリスト者の思いの中に常に深く根ざしているべきものである。正しく理解されるならば、これは人をこの結論に至らせるであろう。----「御霊なくして、救いなし!」、と。

 あなたは私たち福音を宣べ伝える者が、なぜあれほどしばしば回心について説教するのか、その理由を知りたいだろうか? 私たちがそうするのは、人間の心の必要のためである。私たちがそうするのは、神のみことばから明らかに見てとれるところ、心の徹底的な変化以下の何物をもってしても、あなたの症状の緊急性に対処できないからである。あなたの症状は生まれながらに絶望的である。あなたの危険は大きい。あなたが真のキリスト者となり、地獄から救い出されるためには、イエス・キリストの贖罪が必要であるだけでなく、聖霊の生かすみわざ、聖なるものとするみわざも必要なのである。私はこの本を読むすべての人々を喜んで天国に導きたいと思う! 私が心から願い、神に祈っていることは、あなたが救われることである。しかし、私にはわかっている。天国を喜べる心を持たない限り、いかなる者も天国に入りはしない、と。そしてこの心を私たちは神の御霊から受けなくてはならない。

 こうした真理をなぜ一部の人々は冷淡にしか受け取らず、これによって影響を受ける人がなぜこれほど少ないのか、その理由をあからさまに告げてよいだろうか? あなたは私たちの言葉をものうげに、何の関心もないかのよう聞いている。あなたは私たちが極端で突飛なことを語っていると考えている。だが、それはなぜだろうか? それはまさしく、あなたが自分の魂の病を見てとっても、知ってもいないからにほかならない。あなたは自分の罪深さや弱さに気づいていない。あなたの霊的病についてお粗末で不適切な見方しかしていなければ、福音によって備えられた治療法についても、お粗末で不適切な見方しかできないに決まっている。あなたに私は何と云うべきだろうか? こう云うことしかできない。「主があなたを目覚めさせてくださるように! 主があなたの魂をあわれんでくださるように!」 あなたの目からうろこが落ち、古いものが過ぎ去り、すべてが新しくなるときが来るかもしれない。そしてその日には、私は確信をもって予告し、あらかじめ注意しておくが、あなたが真っ先につかむ真理は、キリストのみわざに次いで、聖霊のみわざの絶対的な必要性となるであろう。

 III. 私が考察したいと思う第三の点は、救われた人々の心において、聖霊はいかなるしかたでお働きになるか、ということである。

 私の主題のこの項目に、私は大きな気後れとともに近づくものである。ここには困難がつきまとい、神の深い事がらの多くが関わっていることを私は痛感している。しかし、キリスト教におけるいかなる真理についても、単に困難があるからといって背を向けるなどというのは定命の人間にとって愚かなことである。それよりも一千倍も良いのは、私たちに完全には説明のつかないことをも柔和な心をもって受け入れ、今はわからないことをもやがて知ることになると信ずることである。とある古の神学者は云っている。「もし私たちが神の宮廷に座っているとしたら、それで十分である。神の顧問のような顔をすることはない」。

 聖霊がお働きになるしかたについて語るにあたり、私は単にいくつかの偉大な主要事実を述べるだけにする。それらは聖書によっても経験からも証明された事実である。またそれらは、公正で、よく教えを受けたいかなる観察者の目には歴然たる事実であって、私の信ずるところ、反駁しようもない事実である。

 (a) では私は云う。聖霊は人の心に対して神秘的なしかたでお働きになる。私たちの主イエス・キリストご自身が、よく知られたことばでこう告げておられる。----「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです」(ヨハ3:8)。私たちは、全能の御霊がいかにして、またいかなる方法によって人間のうちに来られ、その人の上に働きを及ぼされるのかを説明することはできない。だが私たちには、自然界で絶え間なく行なわれている一千もの事がらをも、やはり説明できないのである。私たちは自分の意志がいかにして自分の肢体に対して日々働きかけ、それらを自分の思い通りに歩ませたり、動かしたり、休ませたりしているのかを説明できない。だが、いかなる人もその事実を否定しようとは考えない。御霊のみわざについても同じであるべきである。私たちは、そのしかたを説明できなくとも、その事実を信じるべきである。

 (b) さらに私は云う。聖霊は人の心に対して主権的なしかたでお働きになる。御霊はある人のもとに来るが、別の人のもとには来ない。御霊がある家庭の中のひとりの人だけを回心させ、その他の人はそのままにしておくことはよくある。カルバリで主イエス・キリストとともに十字架にかけられた強盗はふたりいた。彼らは同じ《救い主》が死に行くのを目にし、その御口から出る同じことばを耳にした。だが、そのうちのひとりしか悔い改めてパラダイスには行かず、もうひとりは自分の罪の中で死んだ。----ステパノの殺人に手を貸したパリサイ人はサウロの他にもたくさんいた。だがサウロだけが使徒となった。----ジョン・ニュートンの時代に奴隷船の船長はたくさんいた。だが、ジョン・ニュートン以外のだれも福音の説教者にはならなかった。----私たちにこうしたことの説明はつけられない。しかし私たちは、中国が異教国で英国がキリスト教国であることの説明をつけることもできないのである。私たちはただ、事がそうなっていると知るだけである。

 (c) さらに私は云う。聖霊は常に人の心に対してはっきり感じとれるようなしかたでお働きになる。私は一瞬たりとも、御霊の生じさせる感覚が常にそれを生じさせられた人々によって理解される、とは云っていない。逆に、そうした感覚はしばしば懸念と、争闘と、内的葛藤を引き起こすもととなる。私が主張しているのはただ、聖書のどこを探しても、御霊の内住が全く何も感じとれないなどと考えるべき裏づけはない、ということである。御霊がおられるとき、そこには常にそれに応じた感覚があるであろう。

 (d) さらに私は云う。聖霊は常に人の心に対してその人の生活の中で目につくようなしかたでお働きになる。私も、御霊がある人のうちに来られるや否や、その人がたちどころに確立したキリスト者となるとか、霊的な生き方や歩み方しか見られないようなキリスト者となる、などと云っているのではない。しかし私は云いたい。----《全能の御霊》は、決してある人の魂の内側におられながら、その人のふるまいのうちに、何らかの感知できる結果を生じさせずにおくようなことはない、と。御霊は決して眠ることがない。決して何もせずにいることはない。「休眠中の恵み」などということを語るいかなる裏づけも聖書の中にはない。「神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです」(Iヨハ3:9)。聖霊がおられるところには、何かが見られるであろう。

 (e) 私はさらに云う。聖霊は常に人の心に対して不可抗的なしかたでお働きになる。私は一瞬たりとも、未回心の人々の思いにも時として霊的な葛藤と良心の働きがきざすが、それが最終的には何の結果ももたらさないことがあるのを否定するものではない。しかし私は確信をもって云うが、御霊が真に回心のみわざを始めるとき、御霊は常にそのみわざを完成に至らせなさる。御霊は奇蹟的な変化をもたらしてくださる。御霊は性格を転換なさる。御霊は古いものを過ぎ去らせ、すべてを新しくなさる。一言で云うと、聖霊は《全能》であられる。御霊にとって不可能なことはない。

 (f) この項目の最後に私は云う。聖霊は普通は人の心に対して種々の手段を用いることによってお働きになる。説教された、あるいは読まれた神のことばが通常は、魂を回心させる道具として使用される。御霊はそのみことばを良心に適用なさる。そのみことばを思いに強く印象づけなさる。これが御霊が通常おとりになる手順である。疑いもなく、人々が「みことばなしに」回心させられる場合はある(Iペテ3:1 <英欽定訳>)。しかし、一般原則としては、神の真理こそ御霊の剣である。それによって御霊は教え、そのみことばに書かれていること以外の何物も教えなさらない。

 私はこの6つの点にすべての読者が注意するよう勧めたい。これらを正しく理解することこそ、サタンが努めて御霊のほむべきみわざを不明瞭にしようとして用いる、多くの偽りの、まことしやかな教えに対抗する最良の解毒剤を供することになるのである。

 (a) この論考を読んでいる人々の中に、自分の知性を誇り、聖霊のみわざの神秘と主権性のゆえにそれを否定するという、思い上がった高慢な人はいるだろうか? 私はあなたに大胆に云う。私たちの教理に反駁したり否定する前に、あなたはそれとは別の立場をとらなくてはならない。あなたの上に広がる天を見上げ、あなたの足下にある地面を見て、できるものなら、そこに神秘があることを否定してみるがいい。----あなたが住んでいる世界の地図を見て、ある国と別の国とが有する種々の特権との間の驚嘆するほどの差異を目にとめ、できるものなら、そこに主権性があることを否定してみるがいい。----行って、首尾一貫することを学ぶがいい。あなたの高慢な思いを、平易な、否定しようもない事実に従わせるがいい。あわれな定命の人間にふさわしい謙遜を身に着けるがいい。今のあなたが自分の良心をごまかそうとして用いている、知者気取りを打ち捨てるがいい。思い切って告白するがいい。御霊のみわざは神秘的で主権的なものかもしれないが、だがしかしすべての人にとってそれは真実である、と。

 (b) この論考を読んでいる人の中に、バプテスマを受けて教会員となった人はみな、当然のこととして御霊を有しているはずだと、無理矢理思い込もうとしているローマカトリック主義者か半ローマカトリック主義者がいるだろうか? 私ははっきりあなたに云う。もしあなたが、御霊の臨在が目に見えないような人のうちに、御霊がおられるなどと夢想しているとしたら、あなたは自分を欺いている、と。行って、きょう学ぶがいい。聖霊の臨在は、ある人が受洗簿に記名されているかどうかや、家族会衆席に座席を持っているかどうかではなく、その人の生活の中で目に見える種々の実によってためすべきである。

 (c) この論考を読んでいる人の中に、御霊が内住しておられるという主張をみな、とんでもない熱狂主義だとか狂信だとみなす、世俗的な人がいるだろうか? 私はあなたにも、自分が何をしているのか留意するよう警告したい。疑いもなく、教会の中にはいくらでも偽善や偽りの告白がある。疑いもなく、おびただしい数の人々が感じている信仰的な感情はただの迷妄でしかない。しかし、悪貨があるということは、良貨などないという何の証拠にもならない。あることが濫用されているからといって、そのことを用いてならないことにはならない。聖書が平易に私たちに告げるところ、ある特定の望みや、悲しみや、内的な感覚は神の御霊のみわざを分かちがたく結びついている。行って、きょう学ぶがいい。もし御霊の臨在があなたの内側で感じられないとしたら、あなたは御霊を受けていないのだ、と。

 (d) この論考を読んでいる人の中に、断固たるキリスト教など不可能なことだ、このような世の中でキリストに仕えることなどできない、といった考えで自分を慰め、弁解を設けている無精な人がいるだろうか? あなたの弁解は何の役にも立たない。聖霊の力が何の金銭も代価もなしにあなたに差し出されているのである。行って、きょう学ぶがいい。求めさえすれば得られる力があるのだ、と。主イエスがあなたに与えようと申し出ておられる御霊によって、あらゆる困難に打ち勝つことができるのである。

 (e) この論考を読んでいる人の中に、人は家にとどまっていようと教会に行こうと何の違いもないのだ、もしある人が救われることになっているとしたら、その人が何をしようと救われるはずだ、と思い込んでいるような狂信者がいるだろうか? 私は今日あなたにも告げる。あなたにはまだ知らなくてはならないことがたくさんある。行って学ぶがいい。聖霊は通常は恵みの手段を用いることによってお働きになり、信仰が魂にやって来るのは普通は「聞くこと」によってである、と(ロマ10:17)。

 私の主題のこの部分を私はここで閉じて、先へ進みたい。これを閉じるにあたり私が悲しく確信しているところ、キリスト教信仰において他の何にもまして生まれながらの人間の盲目さを示しているのは、聖霊の働き方に関する聖書の教えを生来の人が全く受け入れることができない、という点にほかならない。私たちの《天来の主人》のことばを引用するなら、----「世はその方を受け入れることができません」(ヨハ14:17)。アンブロシウス・セルレの言葉を用いれば、「御霊のこの働きはこれまで、そしてこれからも、自らの内側でそれを知ることのない人々にとっては理解不能なことであった。ニコデモや、他のイスラエルの教師たちと同じように、彼らはいくら推論を重ねても、知識もなく摂理を暗くすることにより、混乱し困惑するしかない。そして、このことを彼らが理解できないとき、彼らは、自分たちが何1つ知らないことすべてのことについて、最強の証明をすることになる。彼らは苛立ち、荒れ狂い、ののしり、つまりは、そんなものは存在しないと云うのである」。

 IV. 私が最後に考察したいと思う点は、ある人の心に聖霊が臨在しておられるかどうかを見分けるための目印と証拠である。

 この点は順番としては最後になったが、重要性ということでは決して最後ということはありえない。実際、聖霊に関するこの見解にこそ、信仰を告白するあらゆるキリスト者が綿密な注意を払ってしかるべきである。私たちは、聖書の中で聖霊に割り当てられている地位について何がしかのことは見てきた。人間の救いに対する聖霊の絶対的な必要性について何がしかのことは見てきた。聖霊がお働きになるしかたについて何がしかのことは見てきた。そして次に来るのが、あらゆる読者にとって深い関心事たるべき大問題である。「私たちはいかにすれば自分が聖霊にあずかっているかどうかがわかるのか? いかなる目印によって私たちは自分がキリストの御霊を有しているかどうかを見いだせるのか?」

 最初に前提としておきたいが、私がいま問うた質問はきちんと答えの出せる質問である。もし私たちが天国に向かう途上にあるかないかを見いだせないとしたら、私たちの聖書が何の役に立つだろうか? これは私たちのキリスト教の確固たる原則としておこう。人は自分が聖霊を有しているかいないかを知ることができる。これを限りにきっぱりと私たちは、おびただしい数の人々が満足を覚えているような、御霊の臨在を示す非聖書的な証拠の数々を自分の思いの中から放逐してしまおう。礼典を受けることや、目に見える教会の会員となることは、私たちが「キリストの御霊を持」っていることのいかなる証拠にもならない。つまり、私が無律法主義への最大の近道と呼ぶものは、ある人が罪と世に仕えているにもかかわらず、その人のことを聖霊を有している人と語ることにほかならない。

 ある人の心における聖霊の臨在は、聖霊が生じさせる種々の実と効果によってのみ知ることができる。御霊の働きは、定命の人の目には神秘的で、不可視のものではあっても、それは常に特定の、目に見え、形になって現われる結果へと至るものである。羅針盤の針が磁性を帯びていることは、それが北を指すことによってわかるのと全く同じように、----木が生きていることはその樹液や芽吹きや葉や果実によってわかるのと全く同じように、----船に操舵手が乗り組んでいることは船が規則正しい航路を着実に保っていることによってわかるのと全く同じように、----そのようにあなたは、御霊がある人の心におられることは、御霊がその人の考えや、感情や、意見や、習慣や、生き方の上に及ぼす種々の影響によってわかるのである。私はこのことをあからさまに、またためらうことなく規定する。私の見る限り、これ以外によってもって立つべき安全な立場はない。この見解のほかに、気違いじみた熱狂主義に抗する防護策は何1つない。そして私の見るところ、これは私たちの主イエス・キリストのことばで明確に示されていることなのである。「木はどれでも、その実によってわかるものです」(ルカ6:44)。

 しかし、心における御霊の臨在を知りうる特定の実とは何だろうか? 私はこの問いかけに答えるのに何の困難も覚えない。聖霊は常に、特定の決まった様式でお働きになる。蜂が常にその巣室を規則正しい六辺形に形作っていくように、神の御霊のみわざも、人の心に一貫した結果をもたらす。御霊のみわざは名匠のわざである。世はそれに何の美しさも見てとらないかもしれない。それは生まれながらの人にとっては愚かさである。しかし、「御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえます」(Iコリ2:15)。よく教えを受けたキリスト者であれば、神の御霊の種々の実を知悉している。手短にそうした実をあなたの前に1つずつ提示してみたい。それらはみな、明確で取り違えようがなく、「識別する者には、平易、知識を見いだす者には、正しい」(箴8:9 <英欽定訳>)。

 (1) 聖霊がおられる場合、そこには常に深い罪の確信と、罪ゆえの真の悔い改めがある。罪を確信させることは、御霊の特別の職務である(ヨハ16:8)。御霊は、神のこの上もない聖さをお示しになる。私たちの性質のこの上もない腐敗と欠陥をお教えになる。私たちの自分を義とする盲目的な思いを私たちからはぎとってくださる。私たちの目を、私たちのすさまじい咎と、愚かさと、危険とに対して開いてくださる。神が憎む忌まわしいものとしての罪に対する悲しみと、悔恨と、憎悪とを心に満たしてくださる。こうしたことすべてについて何も知らず、無頓着にのらくら一生を過ごし、罪について考えることなく、自分の魂について何も気を遣わず無関心で構えているという人は、神の前で死んでいるのである。その人はキリストの御霊を持ってはいない。

 (2) 聖霊がおられる場合、そこには常に、唯一の《救い主》としてのイエス・キリストに対する生きた信仰がある。キリストについて証しし、キリストのものを受けて、それを人々に知らせるのは、御霊の特別な職務である(ヨハ16:15)。御霊は、自分の罪を感じている魂をキリストのもとへ、またキリストの血によって成し遂げられた贖いへと導いてくださる。キリストが罪のために苦しみを受けたこと、また私たちを神のみもとに導くために、正しい方が悪い人々の身代わりとなったことを魂に示してくださる。私たちがキリストを受け入れ、キリストを信じ、キリストに自分を任せさえすれば、赦しと、平安と、永遠のいのちとがたちまち私たちのものになることを、罪に病んだ魂に指し示してくださる。キリストの完成された贖いのみわざには、私たちの霊的な必要を満たす麗しいふさわしさがあることを私たちに見せてくださる。私たちが自分自身の功績すべてを進んで放棄するようにしてくださり、すべてをイエスに賭け、キリスト、----キリスト、----キリスト、----「私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられた」キリストのほか、何事をも見ようとせず、何事にも心を安んじず、何事にも頼ろうとはしないようにさせてくださる(ロマ4:25)。こうしたことすべてについて何も知らず、何か他の土台の上に建てているという人は、神の前で死んでいるのである。その人はキリストの御霊を持ってはいない。

 (3) 聖霊がおられる場合、そこには常に生き方と生活の聖さがあるであろう。御霊は聖い御霊である(ロマ1:4)。聖なるものとする御霊である。人間のかたくなで、肉的で、世俗的な心を取りのぞき、そのかわりに柔らかく、誠実で、霊的な、神の律法を喜ぶ心を入れてくださる。人を神に向かわせ、何にもまして神を喜ばせる事がらを願わせ、この世の有様には背を向けさせ、もはやその有様を自分の神とはしないようにしてくださる。人の心に、あのほむべき、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という種子を蒔き、そうした種子が芽を出して麗しい実を結ぶようにしてくださる(ガラ5:22)。こうした事がらに欠けていて、日々の実践的な敬虔さについては何も知らないという人は、神の前で死んでいるのである。その人はキリストの御霊を持ってはいない。

 (4) 聖霊がおられる場合、そこには常に熱心な個人的祈りの習慣がある。御霊は恵みと哀願の霊である(ゼカ12:10)。御霊は、心の中で子としてくださる御霊として働き、それによって私たちは「アバ。父よ」と叫ぶのである。御霊は人に、自分が神に叫ばなくてはならない、神に対して語らなくてはならない、----かすかに、つかえながら、弱々しくではあろうと----それでも自分の魂について叫ばなくてはならないと感じさせてくださる。人にとって祈ることを、幼子が呼吸するのと同じくらい自然なこととしてくださる。1つ違いを云えば、----幼子が呼吸をするときには何の努力も必要ないが、新しく生まれた魂が祈るときには多くの争闘と葛藤がある。現実の、生きた、熱烈な、個人的祈りについて何も知らず、どこかの古くさい形式的な祈りか、全く祈らないことで満足しているような人は、神の前で死んでいるのである。その人はキリストの御霊を持ってはいない。

 (5) 最後に、聖霊がおられる場合、そこには常に神のことばに対する愛と畏敬があるであろう。御霊は新しく生まれた魂をして、生まれたばかりの乳飲み子がその自然な食物を慕い求めるように、純粋な、みことばの乳を慕い求めさせる。そうした魂が「主のおしえを喜びと」するようにしてくださる(Iペテ2:2; 詩1:2)。生まれながらの人の目には全く隠されている、聖書の豊かさと、深さと、知恵と、十分さとを示してくださる。抵抗しがたい力をもって人をみことばに引き寄せなさる。みことばを、この世を無事に旅するために欠かせない光として、角灯として、マナとして、剣として、引き寄せてくださる。文字を読めない人には、みことばを聞くことを愛させ、聞くことのできない人には、それを瞑想することを愛させてくださる。しかしみことばに、御霊は常に導いてくださる。神の聖書にいかなる格別な美しさも見てとらず、それを読むこと、聞くこと、理解することに何の楽しみも感じないような人は、神の前で死んでいるのである。その人はキリストの御霊を持ってはいない。

 私は御霊の臨在を示すこの5つの大きな目印を読者の前に置き、これらに注意を払うよう確信をもって主張するものである。私の信ずるところ、これらはいかなる検分にも耐えうる。私はこれらが精査され、批判され、反対尋問を行なわれることに何の不安も感じない。神に対する悔い改め、----私たちの主イエス・キリストに対する信仰、----心と生き方の聖さ、----現実の個人的祈りの習慣、----神のことばに対する愛と畏敬、----これらは人の魂における聖霊の内住を示す真の証拠である。御霊がおられる場合、こうした目印は常に見受けられるであろう。御霊がおられない場合、こうした目印は欠けているであろう。

 私も、いくつかの些細な部分においては、御霊の導きが常に一様ではないことを喜んで認めるものである。御霊が魂を案内する通り道は、必ずしも常にぴったり同一のものではない。真のキリスト者たちが最初にくぐり抜ける経験には、しばしば何かしら異なるものがある。ただ私が主張したいのはこのことである。----御霊が人々を導いて至らせようとする中心路は、また最後に生じさせようとする最終的結果は、常に等しい。あらゆる真のキリスト者において、私がすでに言及した5つの目印は常に見いだされるであろう。

 私も、心における御霊のみわざの程度と深さが千差万別であることは喜んで認めるものである。世には弱い信仰もあれば、強い信仰もある。----弱い愛もあれば、強い愛もある。----輝かしい希望もあれば、薄暗い希望もある。----キリストのみこころへのかすかな服従もあれば、主との親密な交わりもある。ただこれだけを私は主張するものである。----御霊を持っているすべての人の信仰的性格の大まかな輪郭は、完璧に一致している。強かろうがかすかであろうが、いのちはいのちである。腕に抱きかかえられている幼子は、たとえ弱々しく、人に頼って生きているとはいえ、現存するいかに強壮な人にも負けず劣らず、アダムの大家族を真に代表する現実の、また真の代表者なのである。

 こうした5つの偉大な目印を見る場合、あなたは常に、真のキリスト者を目にしているのである。これを決して忘れないようにしよう。自分たちの囲いに属しておらず、自分たちに独特の流儀で礼拝していない者たちを破門したり放逐することは、他の人々に私はおまかせしたい。私はそうした狭量さに何の共感も感じない。もしもどこかに悔い改めて、十字架につけられたキリストを信じている人がいるなら、----聖い生活を送り、自分の聖書と祈りを喜びとしている人がいるなら、----私はその人を兄弟とみなしたいと願う。私はその人のうちに《聖なる公同の教会》の一員を見る。その《教会》以外のところには何の救いもない。私はその人のうちに、朽ちることもしぼむこともない栄光の冠を受け継ぐべき人を見てとる。その人が聖霊を持っているなら、その人はキリストを持っている。キリストを持っているなら、神を持っている。父なる神、子なる神、御霊なる神を持っているなら、すべてはその人のものである。すべての点において彼と一致していないからといって、その人に背を向けるなど、私は何様なのであろうか?

 こうした御霊の5つの偉大な目印が欠けている場合、どこででも私たちはそ人の魂について不安になるべき正当な理由がある。目に見える教会はその人のことを保証し、その人に対して礼典を執行し、形式張った祈りがその人の上で唱えられ、教役者たちは愛を込めてその人のことを「兄弟」と呼ぶかもしれない。----だが、これらはみな物事の真の状態を変えるものではない。その人は滅びに至る広い道にいるのである。御霊がなければ、その人はキリストを持っていない。キリストがなければ、神から離れている。父なる神、子なる神、御霊なる神から離れていれば、その人は切迫した危険の中にある。主がその人のたましいをあわれんでくださるように!

 さて私は急いで結論に向かうことにする。これまで語ってきたすべてのしめくくりとして、直接に個人的な適用の言葉をいくつか語りたい。

 (1) まず最初に、この論考を読んでいるすべての人に1つの問いかけを発させてほしい。それは短く、単純な問いかけであって、この主題から自然に生じてくるものである。「あなたはキリストの御霊を持っているだろうか? 持っていないだろうか?」

 私はこの問いを発することを恐れはしない。現代にそんな問いかけを発するのはばかげているだの、熱狂主義的だの、筋の通らない話だだのといった、よくある異議申し立てによって私はとどめられはしない。私は聖書の平易な宣言に基づいた、はっきりした立場をとる。私は霊感を受けた使徒がこう云っているのを見いだすのである。「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません」。あなたの良心にこの問いかけを強く訴えること以上に筋の通ったことがあるかどうか知りたいものである。「あなたはキリストの御霊を持っているだろうか?」、と。

 私は別の愚かな所見によってもとどめられはしない。この世においては、いかなる者も自分が御霊を持ってるかどうかはわからないのだ、と云われている。だれにもわからないのだ! と。では聖書は何のために私たちに与えられているのだろうか? もし私たちが天国に行くか地獄に行くか悟ることができないのだとすれば、聖書が何の役に立つだろうか? 私が問うていることは知りえることである。魂における御霊の臨在の証拠は単純で、平易で、わかりやすいことである。誠実な探求者であればだれも、この件について道を見失う必要はない。あなたは、自分が聖霊を持っているかどうか見いだすことができる。

 私はあなたに切に願う。いま私が発している問いをはぐらかさないでほしい。ぜひこの問いがあなたの心の内側に働きかけるのを許してやってほしい。もしあなたが少しでも救われたいと思うのなら、私は命ずる。この問いに正直な答えを返すがいい。バプテスマも、教会員籍も、社会的地位の高さも、外面的な品行方正さも、みな素晴らしいことではある。しかし、それらで満足していてはならない。さらに深く進むがいい。さらに遠くを見渡すがいい。「あなたは聖霊を受けただろうか? あなたはキリストの御霊を持っているだろうか?」*9

 (2) 次のこととして、いま自分の良心の中で、自分にはキリストの御霊がないと感じているすべての人に、厳粛な警告を与えさせてほしい。その警告は、短くて、単純なものである。もしあなたが御霊を持っていなければ、あなたはまだキリストの民ではない。あなたは「キリストのものではありません」。

 この「キリストのものではない」という一言に、いかに大きなことが関わっているか、しばし考えてみるがいい。あなたはキリストの血によって洗われてはいない! あなたはキリストの義を着せられてはいない! あなたは義と認められていない! あなたはとりなされていない! あなたの罪はまだあなたの上に置かれている! 悪魔はあなたを自分のものだと主張している! あなたを呑み込もうと口を開けている穴がある! 地獄の苦悶があなたを待ちかまえている!

 私は必要もない恐れを生じさせたいとは毛頭願っていない。私が求めていることはただ、分別のある人々に、物事をあるがままの姿で冷静に見てもらうことだけである。私が求めていることはただ、聖書の平易な一聖句の重みをしかるべく量りにかけてほしいということだけである。こう記されている。「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません」。そして私は、そのような聖句の判断によって云うのである。もしあなたが御霊を持たずに死ぬとしたら、あなたは決して生まれてこなかった方がましだったであろう。

 (3) 次のこととして、自分は御霊を持っていないと感じているすべての人に真剣な勧めをさせてほしい。その勧めは、短くて、単純なものである。行って、きょう主イエス・キリストの御名によって神にお願いするがいい。あなたの魂に聖霊が注がれるように祈るがいい。

 それを行なうための励ましとして考えられるものはすべてそろっている。そう行なうための聖書の裏づけがある。「わたしの叱責に心を留めるなら、今すぐ、あなたがたにわたしの霊を注ぎ、あなたがたにわたしのことばを知らせよう」。----「あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう」(箴1:23; ルカ11:13)。そう行なうための、おびただしい数の人々の経験による裏づけがある。おびただしい数の人々が最後の日には立ち上がって証言するであろう。自分たちが祈ったときにそれは聞き届けられ、自分たちが恵みを求めたときに、それを見いだした、と。----何にもまして、私たちの主イエス・キリストのご人格とご性格による裏づけがある。主はいつでも恵み深くあろうと待っておられる。主はご自分のもとに来るよう罪人たちを招いておられる。主はみもとに来る者をひとりとしてはねつけたりなさらない、主は、「信仰によって彼を受け入れ、彼のもとに来た人々に、神の子どもとされる特権を」*お与えになる(ヨハ1:12)。

 ではイエスのもとに行くがいい。貧しく、乏しく、卑しく、悔恨した罪人として行くがいい。決してそれは無駄にはならない。自分の魂についてお願いするがいい。その願いが役に立たないことはない。あなたの必要と、あなたの咎と、恐れと、危険とを主に告白するがいい。主はあなたを蔑まないであろう。求めるがいい。そうすれば受けるであろう。捜すがいい。そうすれば見いだすであろう。叩くがいい。そうすれば開かれるであろう。私はきょう、罪人のかしらに対しても証しする。キリストのうちには、あなたの魂にとってありあまるほどの備えがある。来るがいい。来るがいい。きょうのこの日、来るがいい。キリストのもとに来るがいい!

 (4) 最後のこととして、この論考を読んでいる人の中で、キリストの御霊をすでに受けているすべての人々に、別れ際に勧告の言葉を与えさせてほしい。----悔い改めた、信仰を有する、聖い、祈っている、神のことばを愛している人々に云わせてほしい。その勧告は、3つの単純な事がらからなっている。

 (a) 1つのこととして、御霊に対して感謝を持つがいい。どなたがあなたを違った者にしてくださったのだろうか? あなたの周囲のおびただしい数の人々が全く知ることのない、またあなたも一時は知らずにいた、そうした種々の感覚のすべては、どこからやって来たのだろうか? あなたが自分の魂の内側に、いかに多くの疑いや弱さを見ようとも、それとともに見いだすことのできる、その罪の感覚を、そのキリストに引き寄せられつつある思いを、その義に飢え渇く思いを、その聖書や祈りに対する愛好を、あなたは何に負っているのだろうか?

 これらは生まれながらの性質から出てきたのだろうか? おゝ、否!----あなたはこうした事がらをこの世の学び舎で学んだのだろうか? おゝ、否、否!----これらはみな恵みから出ている。恵みがそれらを蒔き、恵みがそれらに水をやり、恵みがそれらを始め、恵みがそれらを守り育てたのである。ますます感謝に満ちた者となることを学ぶがいい。あなたの生きる限り毎日、ますます神をたたえるがいい。家の中でもますます神をたたえ、公においてもますます神をたたえるがいい。自分の家庭において神をたたえ、何にもまして自分の心において神をたたえるがいい。これこそ、天国と調子を合わせる方法である。天国における詠唱歌は、「何ということを神はなされたのか?」、であろう。

 (b) 別のこととして、御霊に満たされるがいい。 日に日に深くそのほむべき影響下に置かれることを求めるがいい。努めて、あらゆる考えと、言葉と、行為と、習慣とを、聖霊の導きに対して服従させるようにするがいい。御霊を悲しませるような裏表のある言動や、この世にならう生き方をしてはならない。御霊を消してしまうような小さな弱点やつまらない数々のまつわりつく罪をもてあそんでいてはならない。むしろ、生きる限り毎週毎週、いやまさって御霊があなたを統御し、支配するようになることを求めるがいい。年ごとにあなたがキリストの恵みと知識において成長することを祈り求めるがいい。これこそ、世に善を施す道である。卓越したキリスト者は、ノースフォアランドの灯台であって、いかに遠い彼方にいる人からも見てとられ、自分が見たことも聞いたこともない無数の人々に善を施しているのである。----これこそ、この世においては大きな内的慰めを享受し、死においては輝かしい確証を得て、私たちの後には動かぬ証拠を残し、ついには偉大な冠を受ける道である。

 (c) 最後に、教会と世界に大いなる御霊の注ぎがあるように日々祈るがいい。これこそ時代の大きな求めである。これこそ私たちが、資金や、組織や、人にはるかにまさって必要としていることである。「説教者たちの団体」は、聖パウロの時代よりもはるかに大きなものとなっている。だが、地上で実際になされている霊的な働きは、用いられている手段に比例すると疑いもなく、はるかに低い。私たちにはより大きな聖霊の臨在が必要である。----講壇においても、会衆においても、----牧会的訪問においても、学校においても、より大きな御霊の臨在が求められている。御霊がおられるところには、いのちがあり、健康があり、成長があり、実りがある。御霊がおられないところでは、すべてが死んでおり、精彩を欠き、形式的で、眠たげで、冷え切っているであろう。ならば、純粋で汚れのないキリスト教信仰が増大することを見たいと願うすべての人は、目に見えるキリストの教会のあらゆる部分において、聖霊の臨在がいやまして深まるように、日々祈るがいい。

聖霊[了]

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*1 「神の聖徒たちの中で一般に見られる怠慢の1つは、彼らが聖霊に対して、そのご人格に値する、また私たちのうちにおける救いの偉大なみわざのゆえにしかるべき栄光をささげず、この《第三位格》をほとんど心の中で見失っているとすら云えることである。私たちは、御父と御子には、日ごとに思いの中で、祈りの中で、愛情と言葉において、栄誉をささげている。しかし、(祈りを閉じる際に用いる一般的な頌栄以外で)その賛美を聖霊なる神に向けているような者がどこにいるだろうか? この方は、御父と御子に等しい《神格》の一《位格》なのである。この方が私たちのためになしておられるみわざは、その種類において、御父のみわざ、御子のみわざに、何ら劣らぬほど偉大なものなのである。それゆえ聖霊は、衡平法の法則により、それに釣り合った栄誉を受けてしかるべきである」。----トマス・グッドウィン『聖霊のみわざについて』[本文に戻る]

*2 セルレの『孤独の時』[本文に戻る]

*3 決してだれにも誤解してほしくないが、私は一瞬たりとも旧約時代の信仰者たちが聖霊を有していなかったなどと考えてはいない。逆に、私の信ずるところ、人々の間に少しでも霊的いのちがあるところ、それは必ず聖霊から出ていた。----聖霊がアベルやノアをあのような人物にしたのであって、それは聖霊が聖パウロをあのような人物にしたのと全く異なることがない。私が主張したいのはただ、聖霊は新約時代においては旧約時代にはるかにまさって完全に啓示され、注がれているため、新約の経綸は著しく目立って、格別に、「御霊の務め」と呼ばれている、ということである。2つの経綸の間にある差異は、程度の問題にすぎない。[本文に戻る]

*4 「もし聖霊が神でないとしたら、聖霊に神聖な礼拝をささげることは偶像礼拝である。だが、もし聖霊が神であるなら、そうした礼拝を差し控えるのは、極悪の罪である。この点についてよく教えを受けることは、最も重要である」。-----ハリオンの『聖霊』より。[本文に戻る]

*5 「生まれながらの良心の光であれ、みことばによって改善されたそうした光であれ、それは決して人を神に回心させはしない。確かにほとんどの人の信仰心の実質的な部分は、そうした光から生じさせられてはいる。だが、良心に新しい光をもたらす信仰こそ、また、その太陽によって良心が自らの細ろうそくをともすことこそ、人々をうってかわったしかたで罪のためへりくだらせ、キリストのもとに追いやり、聖なる者とし、一変させ、心に律法を書き込むのである。そしてあなたは気づくであろう。これこそアウグスティヌスが、自分とペラギウスとの、また半ペラギウス主義者との間にある立場の違いとして、彼らに対する駁論一切の流れと方向性によって、提示したものであることに。彼らの好む考え方によれば、生まれながらの良心の光は、また人々のうちにある生まれながらの美徳の種子は(たとえば哲学者たちの場合のように)、みことばの啓示によって改善され、成熟させられると、聖書の語っている恵みになると云うであろう。だがアウグスティヌスの宣言するところ、人間のあらゆる美徳は、また生まれながらの光を人間が用いることは、聖さが不完全であるがゆえに、罪にほかならない。そして彼が私たちに必要であるとしているのは、生まれながらの光では見つけだすことのできない信仰の対象についての啓示のみならず、そうした対象を見ることができるための新しい光なのである」。----トマス・グッドウィン『聖霊のみわざについて』、1704。[本文に戻る]

*6 「美術の精緻な筆致が、魂を目覚めさせる」----これが、マンチェスター美術展の建物の一番端の入口を入ると、真っ先に目につくところに大書されている標語であった。[本文に戻る]

*7 「これこそ、福音の務めにその栄光と効力を与えるものにほかならない。福音から御霊を取り去ってしまえば、それは死んだ文字となってしまい、ユダヤ人にとって旧約聖書がそうであったように、キリスト者にとって新約聖書を何の役にも立たないものとしてしまう」。----オーウェン、『聖霊』。
 「聖霊の力にこそ、神を知り、神を喜ばせるためのあらゆる能力が存している。このお方こそ、その隠れた働きによって思いをきよめるお方である。このお方が心に光を与えて、全能の神に対するふさわしい思いをいだかせてくださるのである」。----『祈願週のための公定説教』。[本文に戻る]

*8 「父なる神には、お授けになるべき2つの大きな賜物があった。そしてその2つが与えられた後では、神には大きなものとしては何1つ(比較的には)与える必要がなかった。というのも、それらにあらゆる善が含まれていたからである。その2つとは、旧約聖書における御約束であられた御子と、新約聖書における御約束であられた御霊である」。----トマス・グッドウィン、『聖霊のみわざについて』。[本文に戻る]

*9 「ある人が、恵みを受けているかどうかについて、喜んで自分自身の心を探り、吟味しようとするとき、それは恵みを示す良いしるしである。神の子どもたちの中には、自分が嫡出子であると証明することをひとりでに願うという、一種の本能があるのである。逆に偽善者が何にもまして怯えることは、自分の腐敗ぶりを探られることにほかならない」。----ホプキンズ主教。[本文に戻る]

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