The Cross of Christ         目次 | BACK | NEXT

9. キリストの十字架


「私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません」----ガラ6:14

 私たちは、キリストの十字架について、いかなる考えや感情を覚えているだろうか? 私たちはキリスト教国に住んでいる。おそらくは、いずれかのキリスト教会の礼拝に出席しているであろう。また、ほとんどの者は、キリストの御名によってバプテスマを受けている。私たちは自分をキリスト者であると告白し、そう自称している。こうしたことはみな良い。それは、この世のおびただしい数の人々について云われうることよりも、はるかにましである。しかし、私たちは、キリストの十字架について、いかなる考えや感情を覚えているだろうか?

 私が吟味したいと思うのは、いまだかつて世に生を受けたキリスト者の中でも最も偉大な人物のひとりが、キリストの十字架についてどう考えていたかということである。彼は自分の意見を書き記している。取り違えようもない言葉で、自分の判断を示している。私の云う人物とは使徒パウロである。彼の意見が見てとれる場所とは、聖霊が彼に霊感を与えて書かせたガラテヤ人への手紙の中である。彼の意見を書き留めている言葉とは、以下の通りである。----「私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません」。

 さて、こう云うことによってパウロは何を意図していたのだろうか? 彼は、こう強く宣言しようとしたのである。すなわち、自分は「十字架につけられたイエス・キリスト」以外の何物をも、自分の罪の赦しと、自分の魂の救いにためには信頼しない、と。他の人々がそうしたければ、他の方面に救いを求めるがいい。他の人々にその気があるなら、他の物事に信頼して赦しと平安を求めるがいい。だが使徒は、自分としては、他の何物に頼まず、何物にもよりかからず、何物にも自分の希望を基づかせず、何物にも信頼を置かず、何物をも誇りとしないことを決意していた。彼の頼みは、ただ「イエス・キリストの十字架」だけであった。

 私は本書を読んでいる方々に、「十字架」について多少なりとも申し述べたいと思う。信じてもらってよいが、この主題は、途方もなく重要なものの1つである。これは、ただの論争上の問題ではない。意見の違いを見過ごしにできるような、また異なる意見の人でも天国に入れることまでは否定できないと感じられるような点ではない。人はこの主題について正しくなければならない。さもないと、その人は永遠に滅びるのである。天国か地獄か、幸福か悲惨か、生か死か、最後の審判の日における祝福か呪いか、----すべてがこの問いに対する答えしだいである。「《あなたは》キリストの十字架についてどう考えているのか?」

 I. まず第一にあなたに示したいのは、使徒パウロは何を誇りとしていないか、ということである。

 もしパウロが今日の一部の人々のような考え方をしていたとしたら、彼には誇りにできるものが多々あったに違いない。もしこの地上に、自分のうちにあるものを何か誇りにできる人がひとりでもいたとするなら、それは、この偉大な異邦人への使徒であった。だが、彼があえて誇りとしなかった以上、だれにそうできるだろうか?

 彼は決して自分の民族的特権を誇りとしていなかった。彼は生まれながらのユダヤ人であり、自分自身で語っているように、----「きっすいのヘブル人」であった(ピリ3:5)。彼は、その兄弟たちの多くのように、こう云えたはずであった。「私の先祖はアブラハムだ。私は、光も受けていない暗闇の中にいる異教徒ではない。私は神に目をかけていただいている民族のひとりだ。私は割礼によって神との契約に入れられている。私は無知な異邦人よりもはるかにまともな人間だ」、と。しかし彼は決してそのようには云わなかった。彼は決してこの種の何物をも誇りとしなかった。決して、ほんの一瞬もそうしなかった!

 彼は決して自分自身の行ないを誇りとしていなかった。彼ほど神のために働いた者はひとりもいない。彼は、他のいかなる使徒たちよりも「労苦は多」かった*(IIコリ11:23)。いかなる人も、彼ほど多く説教をし、長距離を旅し、キリストゆえの辛苦を耐え忍んだことはなかった。いかなる人も、彼ほど多く魂を回心させる器となり、善を世に施し、人類のために有益な者となった者はいない。いかなる初期の教会の教父も、いかなる宗教改革者も、いかなるピューリタンも、いかなる宣教師も、いかなる教役者も、いかなる平信徒も、----いかなる人も、使徒パウロに比肩するほど多くの良いわざを行なった者として名前を挙げることはできない。しかし、彼は一度でもそれらのことを、少しでも自分の功績に値するもの、自分の魂を救えるものであるかのように誇りとしたことがあっただろうか? 決して! 決して彼は一瞬たりともそうしなかった。

 彼は決して自分の知識を誇りとしていなかった。彼は生来非常な才能の持ち主であり、回心してから後には、聖霊が、いやまさって偉大な賜物をお与えになった。彼は力強い説教者であり、力強い話し手であり、力強い書き手であった。彼は、筆をとっても、舌を用いても、きわだって力があった。ユダヤ人を相手にしても、異邦人を相手にしても、強力な論陣を張ることができた。コリントの不信者とも、エルサレムのパリサイ人とも、ガラテヤの自分を義とする者たちとも、議論することができた。彼は多くの深遠な事がらを知っていた。第三の天まで引き上げられて、「口に出すことのできないことばを聞いた」ことがあった(IIコリ12:4)。彼は預言の霊を受けており、将来に起こることを予言することができた。しかし彼は、自分の知識が自分を神の前で義と認めさせるものであるかのように、その知識を誇ったことがあっただろうか? 決して、決してない。一瞬たりともそのようなことはなかった!

 彼は決して自分の種々の恵みを誇りとしていなかった。もしも種々の恵みを豊富に持っている人がだれかひとりいたとしたら、それはパウロであった。彼は愛に満ちていた。彼がいかに優しく、愛情をこめて手紙を書くのを常としていたことか! 彼は母が、あるいは乳母がその子をいたわるように、人々を思いやることができた。----彼は大胆な人物だった。真理が危険にさらされているときには、相手がだれであろうと立ち向かった。魂をかちとるためなら、いかなる危険を冒すことも意に介さなかった。----彼は自分を否定する人物だった。----たびたび飢え渇き、寒さに凍え、裸でいることもあり、眠られぬ夜を過ごし、食べ物もない生活を送っていた。----彼はへりくだった人物だった。自分のことを、すべての聖徒たちのうちで一番小さな者、罪人のかしらであると考えていた。----彼は祈り深い人物だった。彼のすべての書簡の冒頭に、いかにしばしば祈りがささげられているか見るがいい。----彼は感謝に満ちた人物だった。彼の感謝と彼の祈りは相並んで歩んでいた。しかし彼は、決してこうしたいかなることをも誇りとしていなかった。----決して自分の魂の望みをそれらの上に基づかせていなかった。おゝ、否。一瞬たりともそのようなことはなかった!

 彼は聖職者としての自分の務めを誇りとしていなかった。もしだれよりも抜きんでた聖職者がだれかひとりいたとしたら、それはパウロであった。彼自身が、選ばれた使徒であった。彼は数々の教会を創設し、多くの教役者に叙任を授けた。テモテやテトス、そして多くの長老たちが、彼の手から最初に任職を受けた。彼は多くの暗闇の場所で礼拝と礼典を始めた。多くの人々に彼はバプテスマを授けた。多くの人々を主の晩餐に受け入れた。多くの祈りと賛美と説教の集会を開始し、続けていった。多くの若い教会に規律を打ち立てた。多くの教会で執行されているいかなる儀式も、規則も、式典も、まず最初にそれを行なわせたのは彼であった。しかし、一度でも彼は自分の職務と設立されている教会を誇りとしたことがあっただろうか? 一度でも彼は、自分の聖職者としての務めが自分を救うとか、自分を義と認めるとか、自分のもろもろの罪を取り除くとか、自分を神の前に受け入れられる者とするなどと語ったことがあっただろうか? おゝ、否! 決して、決してない! 一瞬たりともそのようなことはなかった!

 さて、使徒パウロが決してこうした事がらのいずれをも誇りとすることがなかった以上、世界中のだれに、----その端から端まで捜しても、だれに、現代そうした事がらを誇りとする権利があるだろうか? パウロが、「私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません」、と云っている以上、一体だれが、「私には、何か誇りとするものがある。私はパウロよりも立派な人間なのだ」、などと云えるだろうか?

 いま、この論考の読者の中に、自分自身の何らかの善良さに信頼している人がいるだろうか? いま、自分自身の改心に頼みを置いている人がいるだろうか?----自分自身の道徳に、----自分自身の聖職者としての務めに、----自分自身の行ないや、いかなる種類のものにもせよ自分自身の善行に頼みを置いている人がいるだろうか? いま、いかに小さな程度であれ、いかなるものにもせよ自分自身の何かに自分の魂の重みをよりかからせている人が、だれかいるだろうか? 私は云う。知るがいい。あなたは使徒パウロと非常に似ていない、と。知るがいい。あなたのキリスト教信仰は使徒的なキリスト教信仰ではない、と。

 いま、この論考の読者の中に、自分の信仰的な告白を救いの土台として信頼している人がいるだろうか? いま、自分のバプテスマを、あるいは主の晩餐に集っていることを、----日曜は教会に通っていることを、あるいは週日の間毎日礼拝していることを誇りとし、----そして自分自身に、「何がまだ欠けているのでしょうか?」、と云っているような人がだれかいるだろうか? この日、私は云う。知るがいい。あなたは使徒パウロと非常に似ていない、と。知るがいい。あなたのキリスト教信仰は新約聖書のキリスト教信仰ではない、と。パウロは、「十字架」以外の何物も誇りとしようとはしなかった。あなたも、そうすべきではない。

 おゝ、自分を義とすることを警戒しよう! 公然たる罪は幾千もの魂を殺している。だが、自分を義とすることは幾万を殺しているのである。行って、この異邦人の使徒によってへりくだりを学ぶがいい。行って、パウロとともに十字架の下に座すがいい。あなたの隠れた高慢を打ち捨てるがいい。自分自身の善良さに対するひとりよがりな考えを捨て去るがいい。もしあなたに恵みがあるなら感謝するがいい。だが決して、一瞬たりとも、それを誇りとしてはならない。神とキリストのために、心と思いと精神と力を尽くして働くがいい。だが決して、あなた自身の何らかの行ないに信頼を置くようなことは、一秒たりとも夢見てはならない。

 考えるがいい。自分自身の善良さをあれこれ思い描いては、それを慰めとしているあなたは、----考えるがいい。「私の教会から離れさえしなければ、何もかも大丈夫だ」、というような考えを身にまとっているあなたは、----しばし考えてみるがいい。あなたは、いかなる砂上の楼閣を築いていることか! 考えてみるがいい。あなたの希望や訴えが、臨終のときには、また最後の審判の日には、いかにみじめに欠陥だらけのものに見えるかを! 人々は、強壮で健康なうちは、自分の善良さについて何を云えるにせよ、病んで死につつあるときには、それについてほとんど何も云うことを見いだせないであろう。彼らは、この世の中にあるうちは、自分自身の行ないにいかなる価値を見てとっているにせよ、キリストの法廷の前に立つときには、それらに何の価値も見いだせないであろう。その大いなる巡回裁判日が照らし出す光は、彼らのあらゆる行為を驚くほど変容して見せることであろう。それは、今は良いものと呼ばれている多くの行為のめっきをはぎとり、その見かけをしなびさせ、その腐った内実をさらけ出させるであろう。彼らの麦は殻にすぎなかったことが明らかにされ、彼らの金は金滓でしかなかったことがわかるであろう。キリスト者的な行動と呼ばれてきたおびただしい数のものが、結局は、全く不完全な、恵みなきものであったことがわかるであろう。それらは、人々の間では立派に通用し、重んじられてきたが、神の秤によれば軽くて無価値なものとわかるであろう。それらは古の白く塗った墓に似たものだったことがわかるであろう。----見た目はきれいで美しいが、中身は腐敗に満ちている。何と悲しいことよ、最後の審判の日を待ち望みつつ、いま自分自身の何物かにほんの少しでも自分の魂をよりかからせることができるという人は!*1

 もう一度私は云う。考えうる限りのいかなる見め形のものであれ、自分を義とすることを警戒しよう。ある人々は、他の人々がそのもろもろの罪から受けているのと同じくらいの害悪を、自分たちの想像している種々の美徳から受けているのである。心安んじてはならない。あなたの心が聖パウロの心と同じ調子で鼓動を打つようになるまで、心安んじてはならない。あなたが彼とともにこう云えるようになるまでは、心安んじてはならない。「《私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません》」。

 II. 第二のこととして、私たちはキリストの十字架ということで何を理解すべきかを説明させてほしい。

 聖書の中で十字架という表現は、1つ以上の意味を示すために用いられている。ガラテヤ人への手紙で聖パウロが、「私はキリストの十字架を誇りとする」、と云ったとき、それはどういう意味だったのだろうか? これを私は今から詳細に吟味し、明確にしたいと思う。

 十字架は、時として、主イエス・キリストがカルバリで釘づけられて、死に至らされた木製のはりつけ台を意味している。これこそ聖パウロが、ピリピ人に対してこう告げたとき念頭に置いていたことである。「キリストは……死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです」(ピリ2:8)。これは、聖パウロが誇りとしていた十字架ではない。彼は、ただの木切れを誇りとするなどという考えから怖じ気をふるって遠ざかったであろう。私が何の疑念もなく確信するところ、彼はローマカトリック教徒らの十字架像崇拝を、俗悪で冒涜的で偶像礼拝的なものとして非難したに違いない。

 十字架は、時として、キリストを信ずる信仰者たちが、キリストに忠実に従おうとする場合に、自分のキリスト教信仰のためにくぐらなくてはならない種々の患難や試練を意味することがある。この意味においてこそ、私たちの主はこの言葉を用いて、こう云っておられるのである。「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません」(マタ10:38)。だがこれも、パウロがガラテヤ人への手紙でこの言葉を用いている意味ではない。彼はそうした十字架をよく知っていた。彼はそれを忍耐強く負ってきた。しかし彼は、ここではそれについて語ってはいない。

 しかし十字架とは、いくつかの箇所では、キリストが十字架上で罪人のために死なれたという教理----キリストが罪人に代わって十字架の上で苦しみを受けることによって彼らのために成し遂げられた贖罪----キリストが十字架につくためにご自分のからだを引き渡した際におささげになった、完全にして完璧な、罪のための犠牲----をも意味している。つまり、この「十字架」という一語は、十字架につけられたキリスト、唯一の救い主を表わしているのである。この意味においてこそ、パウロはこの表現を用いて、コリント人にこう告げているのである。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かで……す」(Iコリ1:18)。この意味においてこそ彼は、ガラテヤ人に向かってこう書いたのである。「私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません」。簡単に云うと、彼はこう云ったのである。「私には、十字架につけられたキリスト以外に、私の魂の救いとしては、何物も誇りとしてはいません」、と*2

 十字架につけられたキリストは、パウロの魂にとっては喜びであり楽しみであり、慰めであり平安であり、希望であり確信であり、土台でありいこいの場であり、箱舟であり隠れ場であり、食物であり薬であった。彼は自分が何をしてきたかだの、自分がいかに苦しんできたかだのについては考えなかった。自分自身の善良さや、自身自身の義について思い巡らしはしなかった。彼が喜びとしていたのは、キリストが何をなさったか、キリストがいかに苦しまれたかを考えることであった。----キリストの死と、キリストの義と、キリストの贖いと、キリストの血と、キリストの完成されたみわざを考えることであった。これを彼は誇りとしていた。これこそ彼の魂の太陽であった。

 この主題についてこそ、彼は宣べ伝えることを喜びとしていた。彼は地上を歩き回っては罪人たちに向かって、彼らの魂を救うために神の御子がご自分の心血を注いだことを告げ知らせていた。彼は世界中を巡り歩いては、人々に向かって、イエス・キリストが彼らを愛されたこと、彼らの罪のため十字架にかかって死なれたことを告げていた。彼がいかにコリント人に対して語っているか注意してみるがいい。「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは……私たちの罪のために死なれたこと」(Iコリ15:3)。「私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです」(Iコリ2:2)。神をけがし、迫害に血道を上げていたパリサイ人であった彼は、キリストの血によって洗われた。彼はそのことについて平静ではいられなかった。彼は決して十字架の物語を告げることに飽かなかった。

 この主題についてこそ彼は、信仰者たちに宛てた手紙の中で、詳細に書き記すことを喜びとしていた。彼の数々の書簡が、普通はいかにキリストの苦しみと死で満ちているかに着目すると驚かされる。----いかにそれらが、キリストの、死に至るほどの愛と力についての、「息吹く思想と燃える言葉」によって綴られていることか。彼の心はこの主題に埋め尽くされていたかに見える。彼はこの主題を延々と繰り広げている。この主題に常に立ち戻っている。これは彼のすべての教理的な教えと実際的な勧告とを貫く黄金の糸である。見るからに彼は、いかに老練なキリスト者といえども、決して十字架について聞きすぎることはありえないと考えていた*3

 これをこそ彼は、その回心以来、いのちの源としていた。彼はガラテヤ人に告げている。「いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです」(ガラ2:20)。何が彼にあれほど労苦する力を与えたのだろうか? 何が彼にあれほど働く意欲をかき立てたのだろうか? 何が彼に、あれほど幾人かでも救おうという、うむことない努力をさせたのだろうか? 何が彼に、あれほど堅忍不抜の忍耐を与えていたのだろうか? 私はあなたに、これらすべての秘訣を告げよう。彼は常に、キリストのからだとキリストの血に対する信仰によって養われていた。十字架につけられたキリストこそ、彼の魂の食べ物であり、飲み物であった。

 そしてパウロが正しかったことを私たちは確信してよい。請け合ってもいいが、キリストの十字架は、----罪人のために贖いをなす、十字架上におけるキリストの死は、----聖書全体の中心となる真理である。これこそ、私たちが創世記を開く時に読み始める真理である。女の子孫がへびの頭を砕くとは、十字架につけられキリストの預言にほかならない。----これこそ、モーセの律法を通じて、またユダヤ人の歴史を通じて、おおいで隠されながらも、輝き出ている真理である。日ごとのいけにえ、過越の小羊、幕屋と神殿に絶えずふり注がれた血、----これらはみな十字架につけられたキリストの象徴であった。----これこそ、私たちが黙示録を閉じる前に、天の幻の中で誉れを与えられているのを目にする真理である。こう語られている。「さらに私は、御座----そこには、四つの生き物がいる。----と、長老たちとの間に、ほふられたと見える小羊が立っているのを見た」(黙5:6)。天の栄光の真中にあってすら、私たちは十字架につけられたキリストを見せられるのである。キリストの十字架を取り去るならば、聖書は謎めいた本となる。それは、解読する鍵のないエジプトの象形文字のようなものとなる。----奇妙で、驚嘆すべきものではあるが、実際には何の役にも立たないものとなる。

 この論考を読むすべての人は、私の云っていることに注意するがいい。あなたは聖書について相当よく知っているかもしれない。そこに含まれた歴史のあらましについて、そこに記述された出来事の年代について、あたかも人が英国史を知っているかのように知悉しているかもしれない。あなたは、そこで言及されている男女の名前を、人がカエサルや、アレクサンドロス大王や、ナポレオンのことを知っているのと同じように知っているかもしれない。あなたは、聖書のいくつかの戒めを知っていて、人がプラトンや、アリストテレスや、セネカを賞賛するように、それを賞賛しているかもしれない。しかし、もしあなたが十字架につけられたキリストこそ聖書全巻の土台であることをわかっていないとしたら、あなたがこれまで聖書を読んできたことは、非常に貧弱な役にしか立っていない。あなたのキリスト教信仰は、太陽のない空、くさび石のない橋、針のない羅針盤、発条も重りもない時計、油のないともしびである。それはあなたを慰めないであろう。あなたの魂を地獄から救い出さないであろう。

 さらにまた、私の云うことに注意するがいい。あなたは一種の頭の知識としては、キリストについて相当多くのことを知っているかもしれない。あなたはキリストがどのような人物で、どこで生まれ、何をしたか知っているかもしれない。その種々の奇蹟や、そのことばや、その預言や、その定めた儀式について知っているかもしれない。キリストがいかなる生涯を送り、いかに苦しみを受け、いかに死んだか知っているかもしれない。しかし、あなたが体験によってキリストの十字架の力を知るまでは、----その十字架上で流された血が、あなた自身の個々の罪を洗い流したことを心の内側で知り、感ずるまでは、----あなたが自分の救いはキリストによって十字架上で成し遂げられたみわざに完全に依存していると心から告白するようになるまでは、----こうしたことが実現するまでは、キリストはあなたにとって何の足しにもならない。キリストという名を知っているだけでは、決してあなたは救われない。キリストの十字架を、その血をあなたは知らなくてはならない。さもないと、あなたは自分の罪の中で死ぬであろう*4

 あなたの生きている限り、十字架が重きをなしてしないようなキリスト教信仰を警戒するがいい。あなたが生きている時代は、この警告が悲しいまでに必要とされている。もう一度云う。十字架を抜きにしたキリスト教信仰を警戒するがいい。

 今日のおびただしい数の礼拝所には、ほぼありとあらゆるものがありながら、十字架だけは欠けている。そこには、彫刻された樫材や石像がある。ステンドグラスや極彩色の絵画がある。厳粛な礼拝式や、定期的に繰り返される儀式がある。だが真のキリストの十字架はそこにはない。十字架につけられたキリストは、その講壇から告げ知らされていない。神の小羊は高く掲げられておらず、彼を信ずる信仰による救いは、自由に告げ知らされていない。そしてこのことにより、すべてが誤っているのである。こうした礼拝所を警戒するがいい。そうした場所は、使徒的な場所ではない。それらは聖パウロを満足させはしないであろう*5

 今の時代に出版されている無数の信仰書は、ありとあらゆる内容にわたっていながら、十字架のことは欠け落ちている。それらは、礼典に関する指示や、教会に対する賛美で満ちている。聖い生き方に関する勧告や、完全に到達するための規則であふれかえっている。聖水盤や十字のしるしが山ほど含まれている。しかし、真のキリストの十字架は書き落とされている。救い主と、その贖いと、その完全な救いのみわざについては、言及されもしないか、非聖書的なしかたで言及されている。このことにより、すべては役立たずよりも悪いものとなっている。こうした本を警戒するがいい。それらは使徒的な本ではない。それらは決して聖パウロを満足させはしないであろう。

 聖パウロは、十字架以外の何物をも誇りとしていなかった。努めて彼にならうがいい。十字架につけられたイエスを、あなたの魂の目の眼前にありありと置いておくがいい。あなたとこの方との間に何かを差しはさもうとする、いかなる教えにも耳を傾けてはならない。古いガラテヤ的な過ちに陥ってはならない。今の時代のいかなる者をも、使徒たち以上の導き手であるなどと考えてはならない。聖霊によって霊感された人々が歩んできた、「昔からの通り道」を恥じてはならない。現代の教師たちの漠然とした話であなたの平安を乱されてはならない。彼らが「公同性」だの「1つの教会」だのについて語る大仰な言葉の奔流によって、十字架を握るあなたの手をゆるめさせられてはならない。教会も、教役者も、礼典も、みなそれなりに有益なものではある。だが、それらは、十字架につけられたキリストではない。キリストの栄誉を他者に渡してはならない。「誇る者は主にあって誇れ」(Iコリ31:1)。

 III. 最後に示したいのは、なぜすべてのキリスト者がキリストの十字架を誇りとすべきか、ということである。

 私がこの点について多少語らなくてはならないと感じているのは、この点に関する無知がはびこっているからである。私は、多くの人々が、キリストの十字架という主題に、ことさら何の誇るべきことも美しさも見てとっていないのではないかと疑うものである。逆に彼らは、それを痛ましいもの、屈辱的なもの、不面目なものと考えている。彼らはキリストの死と苦しみの物語に、ほとんど何の益も見てとることがない。彼らはむしろ、不快なものででもあるかのように、これから顔をそむけている。

 さて私は、こうした人々は全く間違っていると信ずるものである。私はそれに賛成できない。私の信ずるところ、キリストの十字架について常に考えているのは、私たちすべてにとって、この上もなく素晴らしいことである。いかにイエスが悪人たちの手に引き渡されたかをしばしば思い起こすのは良いことである。----彼らがいかなる不正な裁判によってこの方を断罪したか、----いかにしてこの方につばを吐きかけ、むちで打ち、こぶしでなぐりつけ、いばらの冠をかぶせたか、----いかにこの方を、ほふり場に引かれる小羊のように引き出し、この方がつぶやくことも、あらがうこともなさらなかったか、----いかにこの方の御手と御足に釘を刺し通し、カルバリでふたりの盗人の間に掲げたか、----いかにこの方の脇腹を槍で貫き、この方の苦しみを嘲り、この方を裸で血を流すまま死ぬまで放置していたか。私は云う。こうしたすべてのことを思い起こすのは良いことである。この十字架刑は、あだやおろそかに四度も新約聖書の中で叙述されているのではない。福音書の四人の記者全員が描写しているようなことは非常に少ない。一般的に云って、マタイとマルコとルカが私たちの主の生涯の何か1つの事件を告げている場合、ヨハネはそれを告げていない。しかし、四人全員が、これ以上ないほど詳細に記していることが1つある。そして、その1つとは十字架の物語である。これは雄弁な事実であり、見過ごしにされてはならないことである。

 人々が忘れているように見受けられるのは、キリストの十字架上における苦しみがみな、あらかじめ定められていた、ということである。そうした苦しみがキリストにふりかかったのは、偶然でも、たまたまでもない。それらはみな計画され、予定され、永遠の昔から定められていたことであった。十字架は、罪人の救いのために、永遠の三位一体が備えてくださったすべての中で見越されていた。神のご計画において十字架は、永遠の昔から入念に計画されていた。イエスが感じたほんの一筋の苦痛、イエスが流されたほんの一滴の尊い血潮といえども、はるか昔から定められていなかったものは1つもない。無限の知恵によって、救済は十字架によるものと計画されていた。無限の知恵によって、イエスは定めの時に十字架へと至らされた。彼が十字架につけられたのは、「神の定めた計画と神の予知とによって」であった(使2:23)。

 人々が忘れているように見受けられるのは、キリストの十字架上における苦しみがみな、人間の救いにとって必要であった、ということである。もし私たちのもろもろの罪の肩代わりがなされるとしたら、キリストがそれを負わなくてはならなかった。彼の打ち傷によってのみ、私たちはいやされることができた。これは、私たちの負債の支払いとしては、神が受け入れなさる唯一のものであった。これは、私たちの永遠のいのちがかかっている大きな犠牲であった。もしキリストが十字架のもとに赴いて私たちの代わりに苦しむことも、正しい方が悪い人々の身代わりとなってくださることもなかったとしたら、私たちには火花1つほどの希望もなかったであろう。私たちと神との間には、いかなる者も渡ることのできない、大きな淵があるばかりだったであろう*6

 人々が忘れているように見受けられるのは、キリストの十字架上における苦しみがみな、自発的に、またご自分の自由意志によって忍ばれた、ということである。キリストは何の強制も受けておられなかった。ご自分の選択によってキリストはそのいのちを投げ出し、ご自分の選択によってキリストは十字架に赴き、ご自分がなそうとして来られたわざを完成してくださったのである。キリストは、一声かければ御使いたちの大軍団を簡単に呼び寄せて、ピラトもヘロデもその全軍勢も、風に吹き飛ばされるもみがらのように、木っ端微塵にすることができたはずであった。しかしキリストは、自ら進んで苦しみを受けた。その心は罪人たちの救いにひたと据えられていた。キリストは、ご自身の血を流すことによって、「罪と汚れをきよめる一つの泉」を開こうと決意しておられたのである(ゼカ13:1)。

 これらすべてを考えるとき私には、キリストの十字架という主題に何も痛ましいもの、不愉快なものが見当たらない。それとは逆に、そこには知恵と力、平和と希望、喜びと楽しみ、慰めと慰安が見える。私は、心の目の中に十字架を置いておけばおくほど、その中にある豊かさが見分けられるように思える。十字架のことを長く思い巡らせば巡らすほど、この世のいかなる場所にもまして十字架のもとで多くのことが学べることに満足するのである。

 (a) 私は、罪深い世に対する父なる神の愛の長さと広さを知りたいだろうか? それはどこに最もはっきり示されているだろうか? 私は、神の造られた太陽の輝きが、恩知らずな者にも悪人の上にも日々降り注いでいるのを眺めるべきだろうか? 種蒔きの時と収穫期が、年々歳々、規則正しく繰り返されているのを眺めるべきだろうか? おゝ、否! 私はこういった類のいかなるものよりも強大な愛の証拠を見いだすことができる。私はキリストの十字架を眺める。私がそこに見るのは、御父の愛の原因ではなく、結果である。そこに私が見るのは、神がそのひとり子を与えてくださったほどに、----ひとり子を苦しませ、死なせるために与えられたほどに、----この罪深い世を愛して、----「御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つ」ようにしてくださった姿である(ヨハ3:16)。私は、御父が私たちを愛しておられることを知っている。なぜなら御父は、その御子、そのひとり子の御子をも、私たちのため惜しまれなかったからである。私は時として、父なる神は、あまりにも高く、聖なるお方すぎて、私たちのようにみじめで、腐敗した生き物のことを気遣ってくださらないのではないか、とふと思うことがある。しかし、キリストの十字架を眺めるときに私は、そのようなことを考えることはできない。そのような考えをいだいてはならない。いだこうとも思わない*7

 (b) 私は、神の御目にとって、いかにこの上もなく罪が罪深く忌まわしいものであるかを知りたいだろうか? それはどこで最も十分明確に現わされているだろうか? 私は、洪水の物語を開き、いかに罪が世界を水没させたかを読むべきだろうか? 死海のほとりに立ち、罪が何をソドムとゴモラにもたらしたかに注目すべきだろうか? さすらえるユダヤ人たちに目を向け、いかに罪が彼らを地の全面に散らしたかを観察すべきだろうか? 否、私は、より明確な証拠を見いだすことができる! 私はキリストの十字架を眺める。私がそこに見るのは、罪がそのどす黒さと厭わしさのあまり、神ご自身の御子の血のほか何をもってしても洗い流すことができないでいる姿である。そこに私が見るのは、罪が私を、私の聖なる造り主から離反させるあまり、天のいかなる御使いをもってしても、私たちの間に平和を打ち立てることはできない姿である。キリストの死以下の何物によっても、私たちを和解させることはできなかった。もし私が、高慢な人々の間で交わされている愚劣な話に耳を傾けるとしたら、私は、罪はそれほど大して罪深くはないと思うことすらあるであろう! しかし、キリストの十字架を眺めるときに私は、罪を軽くみなすことなどできない*8

 (c) 私は、神が罪人たちのためにお備えになった救いの豊かさと完全さを知りたいだろうか? それはどこで最もまぎれもなく見ることができるだろうか? 私は、神のあわれみに関する、聖書の一般的な宣言に向かうべきだろうか? 神は「愛の神」であるとの、一般的な真理に安んずるべきだろうか? おゝ、否! 私はキリストの十字架を眺めるであろう。これほどの証拠はどこにもない。悲嘆に暮れた良心と、思い乱れた心を癒す香油として、イエスが私のために呪いの木の上で死につつある姿にまさるものはない。そこに私が見るのは、私の莫大な負債の全額が支払われている姿である。私が破った律法の呪いは、そこで私に代わって苦しまれたお方の上にふりかかっている。その律法の要求はことごとく満足させられている。私のための支払いは、一円一銭に至るまでもなされている。それは二度と繰り返して求められることはないであろう。あゝ、時として私は、自分が赦されようもないほどの悪者だと想像するかもしれない! 時として私自身の心が、お前など邪悪すぎて救われるはずがない、と囁くかもしれない。しかし私は、正気を保っているときには、これらがみな、自分の愚かな不信仰であることを知っている。私は自分の疑いに対する答えを、カルバリで流された血のうちに読みとることができる。十字架を眺めるとき私は、いかに極悪非道な人間に対しても、天国への道は開かれていることを確信していられる。

 (d) 私は、聖い人になるための理由を、その強力な理由を見いだしたいだろうか? どこに私はそれを求めるべきだろうか? 私は単に十戒に耳を傾けるべきだろうか? 聖書で与えられている種々の模範を学んで、恵みに何ができるかを知るべきだろうか? 天国での報いと、地獄での刑罰について瞑想するべきだろうか? それよりも強い動機は何もないのだろうか? 否、私はキリストの十字架を眺めるであろう! そこに私が見るのは、キリストの愛が私に押し迫り、「自分のためにではなく、この方のために生きよ」、と云っている姿である。そこに私が見るのは、今の私は自分のものではなく、「代価を払って買い取られた」、ということである(IIコリ5:15; Iコリ6:20)。私は、イエスの所有物たるからだと霊とをもって、イエスの栄光を現わすべき、最も厳粛な責務を負っている。そこに私が見るのは、イエスが私のためにご自身をお捨てになっている姿、私をすべての不法から贖い出すためだけでなく、私をきよめて、私を「良いわざに熱心なご自分の民」のひとりとするためにそうなさっておられる姿である(テト2:14)。木にかけられたご自分のからだによってイエスが私のもろもろの罪を負ってくださったのは、「私が罪を離れ、義のために生きるため」*であった(Iペテ2:24)。十字架のキリストほど人を聖なる者とするものはない! それは、世界を私たちに対して十字架につけ、私たちを世界に対して十字架につける。私たちの罪のためにイエスが死んだことを思い出すとき、どうして私たちは罪を愛することなどできようか? 確かに、十字架につけられた主の弟子たちほど聖くならなくてはならない者はないに違いない。

 (e) 私は生活のあらゆる煩いと心配事のもとにあって、いかに満ち足りて、朗らかにしていられるかを知りたいだろうか? いかなる学び舎へ私は行くべきだろうか? いかにすれば私は、そのような精神状態へと最も容易に到達できるだろうか? 私は神の主権、神の知恵、神の摂理、神の愛を眺めるべきだろうか? そうすることは良い。しかし私には、もっとすぐれた議論がある。私は十字架のキリストを眺めるであろう。私は、「私のために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私に恵んでくださらないことがありましょう」*、と感ずる(ロマ8:32)。これほどの苦悶と、苦しみと、痛みを私の魂のために耐え忍ばれたお方であれば、確かに、真に良いものを私に与えずにおくことはないに違いない。私のために、はるかに大きなことをなしてくださったお方は、疑いもなく小さなことをもなしてくださるであろう。ご自分の血を与えても、私に天の家を獲得してくださったお方は、議論の余地なく、私がそこに至るまでの間、私にとって真に有益なものを何でも与えてくださるであろう。満ち足りることを学ぶ学び舎として、十字架の下にくらべられるものはない!

 (f) 私は自分が決して捨てられないという希望をいだくことのできる論拠を得たいだろうか? どこに私はそれを求めるべきだろうか? 私は、自分自身の種々の恵みや賜物を眺めるべきだろうか? 自分自身の信仰や、愛や、悔悟や、熱心や、祈りを眺めるべきだろうか? 自分自身の心に向かって、「この心は今後決して偽ることも、冷たくなることもない」、と云うべきだろうか? おゝ、否! 決してそのようなことはない! 私はキリストの十字架を眺めるであろう。これこそ私の最大の論拠である。これこそ私の頼みの綱である。私の魂を贖うためにこれほどの苦しみを経られたお方が、いったんその魂がご自分に自らをゆだねた後で、結局それをみすみす滅びるにまかせるなどとは考えられない。おゝ、否! イエスはご自分が贖われたものを確かに保ってくださるであろう。イエスはそのために高価な贖い代をお支払いになった。それが簡単には失われないようになさるであろう。イエスは私が薄汚い罪人であったときに私をご自分のもとに召してくださった。決して信じた後の私を捨てることはなさらないであろう。キリストの民が落伍せずに守られるかどうかサタンが私たちを誘惑して疑わせるとき、私たちはサタンに向かって十字架を眺めるよう命ずるべきである*9

 さて今、あなたは私が、すべてのキリスト者は十字架を誇りとすべきであると云ったことをいぶかっているだろうか? むしろあなたは、カルバリにおけるキリストの苦しみのことを聞いて感動せずにいられる者などがいることの方を不思議に思うのではなかろうか? はっきり云うが、私の知る限り、キリスト者と呼ばれるおびただしい数の人々が十字架のうちに何も見てとれないという事実ほど、人間の堕落を示す大きな証拠はない。私たちの心が石の心と呼ばれているのも無理はない。----私たちの心の目が盲目と呼ばれているのも無理はない。----私たちの全性質が病んでいると呼ばれているのも無理はない。----私たちがみな死んでいるというのも無理はない。キリストの十字架のことが聞かされながら、無視されるというのでは、確かに私たちは預言者の言葉を取り上げて、こう云えるに違いない。「聞け。天よ。このことに色を失え。地よ。恐怖と戦慄がなされている」。----キリストは罪人たちのために十字架につけられた。それでも多くのキリスト者たちは、キリストが一度も十字架につけられたことなどないかのような生活をしている!

 (a) 十字架は、キリスト教信仰の一大特色である。他の宗教にも律法や道徳的戒め、形式や儀式、報いや刑罰はある。しかし他の宗教に、死にたもう救い主のことを告げることはできない。それらは十字架を私たちに示すことができない。これは福音の冠であり栄光である。これは福音だけに属する特別な慰めである。まことにみじめなことよ、キリスト教と自称しながら、そこに十字架について何も含んでいない宗教的教えは。そのようなしかたで教える人間は、太陽系の説明をすると公言しながら、自分の聴衆に全く何も太陽について語らないのと同じであろう。

 (b) 十字架は、教役者の力である。私なら、全世界とひきかえにしても十字架なしに済まそうとは思わない。私は武器を持たない兵士のように感ずるであろう。----鉛筆を持たない画家、----羅針盤を持たない水先案内、----工具を持たない労働者のように感ずるであろう。他の人々は、そうしたければ、律法や道徳を宣べ伝えるがいい。他の人々は、地獄の恐怖や、天国の喜びを述べ立てるがいい。礼典や教会に関する種々の教えに会衆をどっぷりと浸すがいい。ただ私にはキリストの十字架を伝えさせてほしい! これこそ、これまで世界をひっくり返し、人々にその罪を捨て去らせてきた唯一のてこにほかならない。これにそれができなかったとしたら、他の何をもってしても無理であろう。人は、ラテン語とギリシャ語とヘブル語の完璧な知識を身につけていれば、説教を始めることはできるかもしれない。だが、もしその人が、十字架についてまるで何も知らないとしたら、聞く人々に対してほとんど、あるいは全く何の善を施すこともないであろう。過去に魂を回心させる大きな働きをした教役者はみな、ひとりの例外もなく、十字架につけられたキリストを力説していた。ルターや、ラザフォードや、ホイットフィールドや、マクチェーンはみな、何にもまして力強い十字架の説教者であった。これこそ聖霊が喜んで祝福をお与えになる説教にほかならない。聖霊は、十字架に栄誉を与える者たちに栄誉を与えることをお喜びになるのである。

 (c) 十字架は、あらゆる宣教活動に勝利をもたらす秘訣である。いまだかつて十字架のほか何物も異教徒の心を動かしたことはない。十字架がいかに高く掲げられているかに正比例して、伝道団体は伸長してきた。これは地球上のいかなる場所においても、あらゆる種類の人々の心において勝利をおさめてきた武器にほかならない。グリーンランド人も、アフリカ人も、南洋諸島人も、ヒンドゥー人も、中国人も、みな同じように十字架の力を感じてきた。メナイ海峡にかかっている巨大な鉄の管が、その内側からかかる全荷重にもまして、半時間ほど太陽の直射を受けただけで影響を受けて曲がるのと同じように、未開人の心は、十字架の前では溶かされるが、他のいかなる議論をもってしても、まるで石のように動かされることがなかった。ある北米インディアンは、その回心の後でこう云っている。「兄弟たち。私は異教徒でした。異教徒がどう考えるものかがわかります。あるときひとりの説教者がやって来て、私たちに向かって、この世に神がいることを説明し始めました。だが私たちは彼に、出て来た場所に帰ってくれと云いました。別の説教者がやって来て、私たちに向かって、嘘をつくな、盗みをするな、酒を飲むな、と云いました。だが私たちは全く気にも留めませんでした。とうとうある日、別の説教者が私の小屋にやって来て云いました。『私は、天と地の主の御名の名によって、あなたのところに来ました。この方は、あなたにあることを知らせるために遣わしてくださいました。この方は、あなたを幸福にし、惨めさから解放してくださろうとしておられます。そのためにこの方は人間になり、罪人たちのためにそのいのちを身代金として投げ出し、ご自分の血を流してくださったのです』。私はこの人の言葉が忘れられませんでした。それで他のインディアンたちに彼の言葉を告げたところ、私たちの間で覚醒が始まったのです。ですから私は云います。もしみなさんが、みなさんの言葉に異教徒の耳を貸してもらいたければ、私たちの救い主キリストの苦しみと死を宣べ伝えてください」。実際、これまで悪魔が手にした中でも最も徹底的な勝利は、中国に赴いたイエズス会の宣教師たちを説きつけて、十字架の物語を押し隠させたことである!

 (d) 十字架は、教会を伸展させる土台である。いかなる教会といえども、十字架につけられたキリストを絶えず高く掲げていない限り、決して誉れを与えられることはないであろう。何をもってしても、十字架の抜けた穴を埋めることはできない。これなしでも、あらゆることを上品に、秩序をもって行なうことはできるかもしれない。これなしでも、荘重な儀式や、典雅な音楽や、壮麗な大伽藍や、学識ある教役者や、人々の押し寄せる聖餐卓や、貧者への莫大な募金はありえるかもしれない。しかし十字架なしには、いかなる善も施されないであろう。決して暗闇の中にある心に光が与えられることも、高慢な心がへりくだらされることも、悲嘆に暮れた心が慰められることも、弱り果てた心が元気づけられることもないであろう。公同の教会および使徒的な聖職者の務めに関する説教、----バプテスマおよび主の晩餐に関する説教、---- 一致と分派に関する説教、----断食と聖体拝領誦に関する説教、----教父や聖人に関する説教、----こうした説教は、決してキリストの十字架に関する説教の欠けを補うことはないであろう。そうした説教を面白がる者はあるかもしれない。だが、そうした説教で養われる者はひとりもない。豪勢な宴会場に、美麗な黄金の食器がずらりと並べられていても、食べ物を持たない飢えた人にとっては何にもならない。十字架につけられたキリストは、人々に善を施すための神の定めである。教会が十字架につけられたキリストを押し隠すたびに、あるいは、常に十字架につけられたキリストのものたるべき第一の場所に他の何かを据えるたびに、その瞬間から教会は有益なものであることをやめてしまう。十字架につけられたキリストがその講壇に欠けている教会は、地面にころがった場所ふさぎ程度のものでしかない。それは、ほとんど死骸か、水のない泉か、実の生っていないいちじくの木か、眠りこけた見張り人か、音の鳴らないラッパか、おしの証人か、講和条項を持たない大使か、知らせを持たない使者か、灯のともっていない灯台か、弱い兄弟たちへのつまづきの石か、不信者たちの慰めか、形だけの信仰の温床か、悪魔にとっての喜びか、神にとっての怒りの対象でしかない。

 (e) 十字架は、真のキリスト者たちを結ぶ一致の一大中心である。私たちの外的な違いは疑いもなく多い。ある者は監督派であり、別の者は長老派である。----ある者は独立派であり、別の者はバプテスト派である。----ある者はカルヴァン主義者であり、別の者はアルミニウス主義者である。----ある者はルター派であり、別の者はプリマス・ブレズレン派である。----ある者は国立教会の支持者であり、別の者は任意参加教会の支持者である。----ある者は祈祷書を支持し、別の者は即興の祈りを支持する。しかし、結局において、こうした差異のほとんどについて私たちは、天国では何を聞くことになるだろうか? ほぼ間違いなく、何1つ聞かれまい。全く何も聞かれまい。人は真実に、また真摯に、キリストの十字架を誇りとしているだろうか? それこそ重大な問いかけである。もしそうだというなら、その人は私の兄弟である。私たちは同じ道を旅している。私たちの旅する目当てたる故郷では、キリストがすべてであり、信仰上のあらゆる外的な部分は忘れ去られるであろう。しかし、もしその人がキリストの十字架を誇りとしていなければ、私はその人といても居心地の悪いものを感ずる。外的な種々の点についての一致は、一時的な一致にすぎないが、十字架についての一致は、永遠の一致である。外的な種々の点についての過誤は、表皮上の病にすぎないが、十字架についての過誤は、心臓部の病である。外的な種々の点についての一致は、人が作り出した一致にすぎないが、キリストの十字架についての一致は、聖霊によってしか生み出されることができない。

 こうしたすべてについて、私はあなたがどう考えているかわからない。私は、語れるはずのことにくらべて、何も語ってこなかったかのように感じている。十字架についてあなたに告げたいと願っていることの半分も語りきれなかったような気がする。しかし私は、あなたを考えさせるだけのことは語ったと思いたい。私はあなたに、この論考の冒頭で述べた問いかけには、問われるだけの理由があったと示したと思う。「あなたはキリストの十字架について、いかなる考えや感情を覚えているだろうか?」 さて、もうしばらく私に耳を傾けていただきたい。この主題全体を、あなたの良心に適用するため、いくつかのことを語りたいと思う。

 (a) あなたは、何らかの種類の罪のうちに生きているだろうか? あなたは、この世の流れに従い、自分の魂のことをないがしろにしているだろうか? 私はあなたに願う。きょうのこの日、私があなたに云うことを聞いてほしい。「キリストの十字架を見るがいい」。そこに、いかにイエスがあなたを愛してくださったかを見てとるがいい。そこに、いかなる苦しみを受けてイエスが、あなたのために救いの道を備えてくださったかを見てとるがいい。しかり。無頓着な人たち。あなたのためにその血は流されたのだ! あなたのために、その御手と御足は釘で刺し貫かれたのだ! あなたのために、そのからだは十字架にかけられて苦悶したのだ! あなたをイエスは愛して、あなたのためにイエスは死んだのだ! 確かに、その愛はあなたを溶かしてしかるべきである。確かにこの十字架を思うとき、あなたは悔い改めに引き寄せられてしかるべきである。おゝ、まさにこの日にそれがなされたらどんなによいことか! おゝ、あなたがすぐさまこの、あなたのために死なれ、いつでも救おうと待っている救い主のもとに来るならどんなによいことか! 来るがいい。そして信仰の祈りによってこの方に向かって叫ぶがいい。私はこの方が聞いてくださると知っている。来るがいい。そして、この十字架を握りしめるがいい。私はこの方があなたを捨てないことを知っている。来るがいい。そして十字架の上で死んだこの方を信じるがいい。そうすれば、きょうのこの日、あなたは永遠のいのちを受けるであろう。あなたが、これほど素晴らしい救いをないがしろにした場合、どうして逃れることができようか? 地獄に堕ちる者の中でも最も深い所に落ちるのは、十字架を蔑んだ者たちに違いない!

 (b) あなたは、天国に至る道を尋ね求めているだろうか? あなたは救いを求めていながら、自分にそれが見いだせるかどうか不安になっているだろうか? あなたは、キリストの恩恵にあずかりたいという願いを持ちながら、キリストがあなたを受け入れてくださるかどうか疑っているだろうか? この日、私はあなたにも云いたい。「キリストの十字架を見るがいい」。ここにこそ、もしあなたが本当に求めているなら励ましがあるのである。主イエスに大胆に近づくがいい。あなたを寄せつけないものなど何1つない。主の御腕はあなたを受け入れようと大きく開かれている。主の心はあなたへの愛で満ちている。主はあなたが確信をもって主に近づける道を切り開いてくださった。十字架のことを考えるがいい。近づくがいい。恐れることはない。

 (c) あなたは、無学な人だろうか? あなたは天国に行きたいと願っているが、自分に説明のつかない聖書の困難な箇所に困惑し、行き詰まりを覚えているだろうか? この日、私はあなたにも云いたい。「キリストの十字架を見るがいい」。そこに御父の愛と、御子のいつくしみを読みとるがいい。それは、だれにも見間違えようもないほど大きく、はっきりとした文字で記されているに違いない。今のあなたが選びの教理に困惑しているからといって何だろうか? 現在のあなたが、自分の完全な腐敗と、自分の責任とを調和させることができないからといって何だろうか? 私は云う。十字架を眺めるがいい。その十字架はあなたに語りかけていないだろうか? イエスは力ある、愛に満ちた、いつでもあなたを迎え入れようとしている救い主である、と。それは1つのことを明らかにしていないだろうか? もしあなたが救われないとしたら、それはあなた自身のせいでしかないのだ、と。おゝ、この真理をつかんで、堅く握りしめるがいい!

 (d) あなたは悩み苦しんでいる信仰者だろうか? あなたの心は、病に押しつぶされ、失意に苦しめられ、煩いの重荷を負っているだろうか? この日、私はあなたにも云いたい。「キリストの十字架を見るがいい」。今のあなたを、どなたの御手が懲らしめているか考えるがいい。どなたの御手が、今あなたが飲みつつある苦い杯を量り入れたか考えてみるがいい。その御手は、十字架につけられたお方の御手である。あなたの魂を愛しているがために、呪いの木に釘づけられたのと同じ御手である。確かにそう思うときあなたは、慰められ、励まされるに違いない。確かにあなたは、自分に向かってこう云うべきである。「十字架につけられた救い主は、私にとってためにならないものを何1つ私に負わせるはずがない。そこには必要があるのだ。それは良いものであるに違いない」、と。

 (e) あなたは、より聖くなることを切望している信仰者だろうか? あなたは、自分の心があまりにもたやすく地上の物事を愛しがちなことを痛感しているだろうか? 私はあなたにも云いたい。「キリストの十字架を見るがいい」。十字架を眺め、十字架のことを思い、十字架について瞑想し、その後で、行って、できるものなら世に愛情を注ぐがいい。私の信ずるところ、聖潔を学ぶのにカルバリほどふさわしい場所はない。私の信ずるところ、あなたは十字架を大いに眺めるとき、自分の意志が聖なるものとされ、自分の嗜好がより霊的なものとなるのを感じずにはいられないはずである。太陽を見つめた後では、あらゆるものが薄暗く、ぼんやり見えるのと同じように、十字架はこの世の輝くような光彩を暗くする。蜂蜜を味わった後では、他の何を口にしても全然味がしなくなるように、信仰によって十字架を見てとった後では、この世の快楽はそのあらゆる甘美さを失ってしまう。毎日たゆみなくキリストの十字架を眺め続けるがいい。そのときあなたはすぐに、世について、詩人がこう云っているように云うであろう。----

 世でわが受けし 楽しみはいま
  楽しみならず 心満たさじ
 かくなる喜び 遠きものなり
  主を見し今のわれなれば

 しののめに明け行く光 ことごとく
  宵に浮かびし星 隠すごと
 地につく楽しみ 薄れゆくべし
  イエス明らかに示さるなれば

 (f) あなたは、死につつある信仰者だろうか? あなたは、もはや生きて出ることはないと何かが身の裡で告げているように感ずる、病の床についているだろうか? あなたは、魂と肉体がつかのま引き離され、あなたが未知の世界に乗り出さなくてはならない、あの厳粛な時に近づきつつあるだろうか? おゝ、たゆみなく信仰によってキリストの十字架を眺めるがいい。そのときあなたは安息のうちに保たれるであろう! あなたの心の目を、人間が作った十字架像にではなく、十字架につけられたイエスに堅く据えるがいい。そのときイエスは、あなたをすべての恐れから解放してくださるであろう。あなたが暗黒の場所を歩むときにも、イエスはあなたとともにおられるであろう。イエスは決してあなたを離れず、----決してあなたを捨てない。十字架の影に最後の瞬間まで座しているがいい。そのとき、その実をあなたは甘く味わうであろう。ひとりの死につつある宣教師がこう云っている。「あゝ、死の床についたとき必要なことは1つしかない。自分の腕で十字架を抱きしめているということだ!」

 私は、こうしたことをあなたが思い巡らすにまかせたい。今あなたがキリストの十字架について何と考えているか、私にはわからない。しかし、私が何よりもあなたに望んでいること、----それは、あなたが死ぬ前に、あるいは主と出会う前に、使徒パウロとともにこう云えるようになることである。「私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません」、と。

キリストの十字架[了]

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*1 「いかに人々が、その安楽にしている間に、あてもない野放図なうぬぼれに鼻をぴくつかせ、自分の功績とそれに比例する何やかんやの報いに得々とし、有頂天に思い上がっては、自分のために神がいわば束にして量っては貯えているものを夢見ていようと、----それにもかかわらず、私たちが日ごとの体験により、それと等しい数だけ見てとっているように、彼らに死の時が近づき、かの、御使いらの眼すらくらませる輝きをお持ちの《裁判官》の法廷に立つべく、ひそかに召還されるときには、こうしたやくたいもない想像はみな次々と恥じ入らされる。そのときに功績を云い立てるのは、魂の懊悩にしかならない。自分の行為を思い出すのは、彼らにとって厭わしいこととなる。彼らは、自分が信を置き、より頼んできたすべての物事を捨て去る。そのとき身を支える杖、安息、安らぎ、慰めとなるのは、唯一キリスト・イエスのうちにしかない」。----リチャード・フッカー。1585年。[本文に戻る]

*2 「キリストの十字架ということで使徒が理解しているのは、キリストによる全く十分な、なだめの、償いをする犠牲に、私たちを救うみわざ全体を加えたもののことである。それを救いに至るように知ることをこそ、彼は、自分の誇り、自分の自慢であると告白しているのである」。----カドワースの『ガラテヤ書講解』。1613年。
 「こうした言葉について云えば、私の知る限り、古代の人にせよ現代の人にせよ、ローマカトリック教徒にせよプロテスタントにせよ、いかなる講解者も、この箇所について書く際に、ここで言及されている十字架を十字の符号と解した者はなく、ことごとく、十字架にかけられたお方に対する、告白された信仰のことと解している」。----マイアーの『注解書』。1631年。
 「これは、私たちがキリストのために苦しむ十字架ではなく、キリストが私たちのために苦しんだ十字架と理解すべきである」。----リーの『注釈』。1650年。[本文に戻る]

*3 「十字架につけられたキリストは福音の精髄であり、その富のすべてを含んでいる。パウロはキリストに心奪われたあまり、彼の筆や唇から発せられたあらゆる事がらの中で、イエスほど甘やかなものは何1つない。観察されたところ、『イエス』という言葉を彼はその書簡の中で五百回も用いている」。----チャーノク。1684年。[本文に戻る]

*4 「もし私たちの信仰がキリストの生涯のところで停止し、キリストの血に堅く結びつくことをしないなら、それは人を義と認めさせる信仰ではないであろう。キリストの奇蹟は、世をキリストの教理に対して備えさせ、キリストの聖さは、キリストご自身をその御苦しみにふさわしいものとしはしたが、それらは十字架を付加することなしには私たちにとって不十分なものであった」。----チャーノク。1684年。[本文に戻る]

*5 「パウロは、イエス・キリスト、すなわち、十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心していた。しかし多くの者たちがその聖職者としての務めを果たすやり方は、あたかも、それとは正反対の決意を固めているかに見える。----すなわち、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何でも知ろうとしているかのようである」。----トレイル。1690年。[本文に戻る]

*6 「キリストの謙卑があってこそ、私たちは高く上げられる。その弱さがあってこそ、私たちの強さがある。その恥辱があってこそ、私たちの栄光がある。その死があってこそ、私たちのいのちがある」。----カドワース。1613年。
 「信仰の目は、十字架の天辺にかかったキリストを、あたかも勝利の戦車に座しておられるがごとくみなすものである。悪魔は、その同じ十字架の最下部につながれており、キリストの御足によって踏みにじられているのである」。----ダヴナント主教の『コロサイ書講解』。1627年。[本文に戻る]

*7 「私たちの住んでいる世は、私たちの頭上に落ちて来ていたであろう。もし十字架という柱によって支えられていなかったとしたら、また、キリストが足を前に踏み出し、人間の罪の満足を約束なさらなかったとしたら。これによってこそ、すべてのことはなり立っている。私たちの享受している祝福の1つたりとも、そのことを私たちに思い起こさせないものはない。それらはみな罪によって没収されたが、キリストの血という功によって得られた。もし私たちがそれをよく学ぶならば、私たちはいかに神が罪を憎み、世を愛してくださったかを感じとれるであろう」。----チャーノク。[本文に戻る]

*8 「神が、いかなる人にも御使いにも、ご自分の愛するひとり子の死による以外の贖いをお許しにならないほど罪を憎んでおられる以上、だれが罪に怯えずにいられようか?」----英国国教会の『受難日のための公定説教』。[本文に戻る]

*9 「信仰者は完全に永遠の御怒りから自由にされているので、もしサタンと良心が、『お前は罪人で、律法の呪いのもとにあるのだ』、と云うなら、こう答えることができる。『それは本当だ。私は罪人だ。だが私は、私のかしらにして律法賦与者なるキリストにあって、木の上に吊されれ、死んで、呪いとなったのだ。そしてキリストの支払いと苦しみは、私の支払いであり苦しみなのだ』、と」。----ラザフォードの『死にたもうキリスト』。1647年。[本文に戻る]

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