Justification!         目次 | BACK | NEXT

8. 義認!


「信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています」----ロマ5:1

 このページの冒頭に冠した聖句の中には、英国人の目にとって非常に貴重なものたるべき言葉が含まれている。その言葉とは「平和」である。

 「楽しき英国」においてすら私たちは、過去三十年の間、戦争の恐怖について知らなかったわけではない。クリミヤ戦争、セポイの反乱、阿片戦争、アビシニア戦役、アシャンティ戦役によって、わが国の歴史には深い傷跡が残されてきた。

 いかに正しく必要な場合であっても、戦争には途方もない悪がつきものであり、私たちはその幾分かを味わってきた。戦闘と疾病が、わが国の雄壮な陸兵や海兵たちの命を奪ってきた。良家の出、庶民の出を問わない多くの血が、水のように遠国で流されてきた。わが国民の最良にして最も勇敢な者たちの多くが、時ならぬ墓の中に冷たく横たわっている。英国中の心が、突然の、呆然とさせられる、破壊的な死別によって引き裂かれてきた。多くの王宮の中でも、多くのあばら屋の中でも、喪服がまとわれた。何千もの幸せな炉辺の光は消し去られた。何万もの家庭の陽気さは失せ去った。悲しいかな、いかに私たちは、平和のありがたさを苦い経験によって学ぶことか!

 しかしながら、私が、この論考を読むあらゆる方々の注意を引きたいと願っている平和は、あらゆる平和の中でも最上の平和、----神との平和のことである。私が今からあなたに喜んで語りたいと思っているのは、この世が与えることも奪い去ることもできない平和である。----地上の政府の支援が何もなくとも、いかなる肉の武器に欠けていても、獲得し、維持することのできる平和である。----王の《王》によって無代価で差し出されており、受けようと願う者すべての手の届くところにある平和である。

 世には「神との平和」というものがあるのである。それは感じとることができ、知ることのできるものである。私が心から願い、また祈り求めているのは、あなたが使徒パウロとともにこう云えるようになることである。「信仰によって義と認められた私は、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています」*(ロマ5:1)。

 この主題全体に光を投ずるために私は、4つのことをあなたの前に提示したいと思う。

 I. 私はあなたに、真のキリスト者のおもだった特権を示したい。----「その人は、神との平和を持っている」。
 II. 私はあなたに、その特権を生じさせる源を示したい。----「その人は義と認められている」。
 III. 私はあなたに、その源が湧き出ている岩を示したい。----すなわち、「イエス・キリスト」である。
 IV. 私はあなたに、その特権を私たち自身のものとする手を示したい。----すなわち、「信仰」である。

 I. まず第一に、私はあなたに、真のキリスト者のおもだった特権を示したい。----「その人は、神との平和を持っている」。

 使徒パウロがローマ人に向けてこの手紙を書いたとき、彼は異教徒中最大の賢者たちも決して用いることのできなかった言葉を用いている。ソクラテスや、プラトンや、アリストテレスや、キケロや、セネカは賢者であった。多くの主題について、彼らは今日のほとんどの人々よりも明確なものの見方をしていた。彼らは巨大な知力の持ち主であり、その知性は広大な範囲にわたっていた。しかし、彼らのうちひとりとして、使徒が語るように、「私は、神との平和を持っています」、と語れた者はいなかった(ロマ5:1)。

 使徒がこの言葉を用いたとき、彼は自分ひとりについてだけ語っていたのではなく、すべての真のキリスト者について語っていたのである。疑いもなく、その中には他の人々よりも強くこの特権を実感している者がいる。彼らは全員、自分の内側に悪の原理があること、それが日々自分たちの霊的戦いの敵手となっていることを悟っている。彼らは全員、自分たちの敵である悪魔が、自分たちの魂に絶えざる戦いをいどみ続けていることに気づいている。彼らは全員、自分たちがこの世の敵意を耐え忍ばなくてはならないことを悟っている。しかし、それにもかかわらずその全員が、程度の差こそあれ、「神との平和を持っている」のである。

 この神との平和は、天地の主との友情を、穏やかに、知的に感じとることである。これを持っている人は、自分と自分の聖なる《造り主》との間に、いかなる障壁も隔てもないように感じている。その人は、すべてをごらんになっておられる《存在》が自分を見守っていると考えても、何1つ不安を感じないでいられる。その人は、このすべてをごらんになっている《存在》が、自分を注視していても、不快に思ってはおられないと信じている。

 そのような人は、が自分を待ち受けているのを目の前にしても、さほど動揺しないでいられる。その人は、その冷たい川の中に沈み込み、----地上で有していたすべてのものに目を閉ざし、----未知の世界に足を踏み出し、しんとした墓場に居を定めることになっても、----それでも平安を感じていられる。

 そのような人は、復活と審きを予期しても、さほど動揺しないでいられる。その人は、自分の心の目で、あの大きな白い御座----集められた全世界----開かれた数々の本----耳を傾ける御使いたち----《審き主》ご自身----を見ても、平安を感じていられる。

 そのような人は、永遠のことを考えても、さほど動揺しないでいられる。その人は、神と《小羊》の御前で永久に過ごすこと----永遠の日曜日----いつまでも続く主の晩餐----を想像しても、平安を感じていられる。

 こうした平和によってもたらされるような幸福にくらべられる幸福を、私は全く知らない。嵐の後の凪いだ海、----黒い雷雲の後の青空、----病の後の健やかさ、----暗闇の後の光、----労苦の後の安息、----これらはみなすべて美しく、心地よいものである。しかし、これらはみな例外なく、神との平和という状態に至らされた人々が享受する慰めにくらべれば、かすかな似姿以上のものではない。それは、「人のすべての考えにまさる平安」*なのである(ピリ4:7)。

 この平和が欠けているからこそ、世にある多くの人々は不幸せなのである。幾万もの人々は、快楽をもたらすことができると考えられているあらゆる物事を持っていながら、決して満たされることがない。彼らの心は常にうずいている。内側には絶えず空虚感がある。では、こうしたすべての真の原因は何だろうか? 彼らには神との平和がないのである。

 この平和を切望するからこそ、多くの異教徒は、その偶像礼拝的な宗教で多大な務めを果たしているのである。彼らのうち幾千もの人々が、自分に難行苦行を課し、自分の手で作った何らかの愚劣な像に仕えるために自らの肉体を悩ませる姿を示してきた。それはなぜだろうか? 彼らが神との平和に飢え渇いているからである。

 この平和を所有していることにこそ、人のキリスト教信仰の値打ちがかかっている。これがなければ、目を楽しませ、耳を喜ばせるものがいくらあろうと、----形式や、儀式や、礼拝式や、礼典がいくらあろうと、----魂には何の善も施されないであろう。すべてを試すべき大問題は、その人の良心の状態である。それは平安だろうか? その人は、神との平和を持っているだろうか?

 この平和についてこそ私はこの日、このページを読んでいるあらゆる方々に語り聞かせようとしているのである。あなたはそれを得ているだろうか? それを感じているだろうか? 自分のものとしているだろうか?

 もしあなたがそれを持っているとしたら、あなたは真に富んでいる。あなたは永遠に長持ちするものを得ている。あなたは、死んで世を去るときにも失うことのない富を持っている。あなたはそれを墓場の向こう側まで携えて行くであろう。あなたはそれを未来永劫にわたって持ち続け、享受し続けるであろう。金銀はあなたにはないかもしれない。人々の賞賛を、あなたは決して受けないかもしれない。しかし神との平和を持っている限り、あなたには、そのどちらよりもはるかにすぐれたものがあるのである。

 もしあなたがそれを持っていないとしたら、あなたは真に貧しい。あなたには永続するものが何もなく、----長続きするもの、----あなたの死ぬ順番が巡ってきたときに携えて行けるものが何1つない。あなたは裸で世に出て来たが、あらゆる意味において、やはり裸で世から出て行くであろう。あなたの肉体は、ものものしく荘厳な儀式によって墓場まで運ばれるかもしれない。厳粛な埋葬式文が、あなたの棺の上で読み上げられるかもしれない。あなたの栄誉を称える大理石の墓碑が立てられるかもしれない。しかし、結局のところそれは、あなたが《神との平和》を持たずに死ぬ限り、乞食の葬式であろう。

 II. 次のこととして、私はあなたに、真の平和が引き出される源のことを示したい。その源とは義認である。

 真のキリスト者の平和は、何の理由も根拠もなしに、漠然とした、夢見心地の感情をいだくことではない。その人は、その原因を示すことができる。その人は堅固な土台の上に建てている。その人が神との平和を持っているのは、その人が義と認められているからである。

 義と認められていなければ、真の平和を持つことは不可能である。良心がそれを許さない。罪は人間と神の間に立ちふさがる山であって、動かされなくてはならない。咎の感覚は心に重くのしかかっており、取り除かれなくてはならない。許されていない罪は平和をだいなしにしないではいられない。真のキリスト者はこうしたことをみなよく知っている。その人の平和は、自分の罪が赦され、自分の咎が取り去られたという意識から生じている。その人の家は、砂の上に建てられてはいない。その人の井戸は、水をためることのできない、こわれた水ためではない。その人は神との平和を持っている。その人が義と認められているからである。

 その人は義と認められており、その人の罪は赦されている。いかに多くの、いかに大きな罪といえども、きよめ去られ、赦され、ぬぐい去られている。それらは、神の記憶の書から削除されている。それらは海の深みに投げ入れられている。神のうしろに投げやられている。見つけようとしても、それはない。二度と思い出されることはない。たとい、それらが緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。それで、その人は平和を持っているのである。

 その人は義と認められており、神の前で義人とみなされている。御父はその人に何の傷も見てとらず、その人を無罪であるとみなされる。その人は完全な義の衣をまとっており、恥じることなく御使いたちのかたわらに腰をおろすことができる。人間の心の思いや動機すら問題としている聖なる神の律法も、その人を罪に定めることはできない。「兄弟たちの告発者」たる悪魔も、その人を責めるべき何の罪状も持ち出せず、その人の完全な無罪放免を妨げることはできない。それで、その人は平和を持っているのである。

 その人は生まれながらにあわれで、貧しく、誤りがちで、欠点だらけの罪人だろうか? その通りである。その人自身ほどそのことを思い知っている者はいない。しかし、それにもかかわらず、その人は、神の前では完璧で、完全で、過ちのない者とみなされている。義と認められているからである。

 その人は生まれながらに債務を負った者だろうか? その通りである。その人自身ほどそのことを痛感している者はいない。その人は一万タラントの借金があり、自分では全く返すことができない。しかし、その人の債務はみな支払われ、片がつけられ、帳消しにされている。義と認められているからである。

 その人は生まれながらに、違反された律法の呪いを身に受けているだろうか? その通りである。その人自身ほどそのことを進んで告白する者はいない。しかし、律法の要求は完全に満たされている。----正義の請求は最後の一点一画までも果たされている。そして、その人は義と認められているのである。

 その人は生まれながらに、刑罰に値しているだろうか? その通りである。その人自身ほど完全にそのことを認める者はいない。しかし、刑罰はすでに下されている。罪に対する神の御怒りはすでに現わされている。それでもその人はそれを免れて、義と認められているのである。

 この論考を読んでいる方々の中にだれか、こうしたすべてのことを少しでも知っている人がいるだろうか? あなたは義と認められているだろうか? あなたは、自分が赦され、赦罪を受け、神の前で受け入れられたかのように感じているだろうか? あなたは神に大胆に近づき、こう云えるだろうか? 「あなたは私の《父》、私の《友》であり、私は和解されられたあなたの子どもです」、と。おゝ、嘘ではない。あなたは義と認められるまで、真の平和を決して味わうことはないであろう!

 あなたの罪はどこにあるだろうか? それらはあなたの魂から取り去られ、取り除かれているだろうか? それらは神の御前で、清算され、始末されているだろうか? おゝ、こうした問いかけが、この上もなく厳粛なもの、この上もなく重要なものであることを堅く確信するがいい! 義認の上に築かれていないような良心の平安など、危険な夢である。そのような平安から、主があなたを救い出してくださるように!

 1つ想像の翼を駆って、わがロンドンの大病院の1つに私とともに来たと思ってほしい。そこで私とともに、不治の病にかかっているあわれな人の病床のかたわらに立ってみてほしい。その人はことによると静かに横たわっており、何の苦しみも見えないかもしれない。その人はことによると何の痛みも訴えず、痛みを感じているようにも見えないかもしれない。その人は眠っていて、平静にしている。その人は目をつぶっている。頭を枕にもたせている。かすかに微笑んで、何か寝言を言っている。その人は、自分の家のことや、母親のこと、また若かりし日のことを夢見ている。その人の思いは遠くに馳せられている。----しかし、これが健康だろうか? おゝ、否、否! それは単に鎮静剤の効果にすぎない。その人の病状にはもはや打つ手がないのである。その人は日に日に死につつある。唯一の目的は苦痛を軽減することである。その人の平静さは不自然な平静さである。その人の眠りは不健康な眠りである。あなたは、その人の中に、義認なしの平和の生き写しを見ているのである。それは空虚で、人を欺く、不健康なものである。その最後は死である。

 やはり想像の翼を駆って、どこかの精神病院に私とともに来たと思ってほしい。私とともに不治の迷妄にとりつかれている人のもとを訪ねてみよう。おそらく私たちが見いだす人の中には、自分が富んでいて、高貴の出で、王であると思い込んでいる人がいるであろう。その人が地面で拾った麦わらをよじり合わせた鉢巻きを作っては、それを冠であると呼んでいる姿を見てみるがいい。その人が石ころや砂利を拾い上げては、それを金剛石や真珠であると呼んでいる姿を眺めてみるがいい。その人がいかに笑い、いかに歌い、いかにその迷妄によって幸せそうにしているか聞いてみるがいい。----しかし、これが幸福だろうか? おゝ、否! 私たちはそれが単に無知な狂気の産物にすぎないことを知っている。あなたは、その人の中にも、義認ではなく、空想の上に築かれた平和の似姿を見ているのである。それは無分別で、無根拠なものである。そこにはいかなる根もいのちもない。

 神との平和を持つには、自分が義と認められていると感じることが絶対に必要である。これを心に銘記しておくがいい。私たちは自分の罪がどうなっているか知らなくてはならない。私たちには、それらが赦され、取り除かれているという、理にかなった希望がなくてはならない。自分が神の前で咎ありとみなされてはいないという、良心の証しがなくてはならない。これがなければ、平和について何を語っても無駄である。私たちは、その影や模造品しか持っていない。「『悪者どもには平安がない。』と私の神は仰せられる」(イザ57:21)。

 あなたは、ある町で巡回裁判を開くために判事がやって来る際に、その前で吹き鳴らされるラッパの音を聞いたことがあるだろうか? あなたは、こうしたラッパの音が、異なる人々の思いの中に、いかに異なる感情を呼び覚ますものか思い巡らしたことがあるだろうか? 裁判にかけられる理由など何1つない普通の人は、それを聞いても何も動ずることはない。その音は、いかなる恐怖もかき立てない。その人は平気な顔でそれを耳にし、不安になることがない。しかし、しんとした独房の中で裁判に引き出されるときを待っている、あわれでみじめな者たちは、数多くいるものである。そうした者にとって、このラッパは絶望の凶兆である。それは、裁判の日が間近に迫っていることをこの者に警告する。もうしばらくすると、この者は被告席に立たされ、自分の悪行を物語る、証言につぐ証言を聞くことになるであろう。もうほんの少しすれば、すべては終わるであろう。----裁判、評決、判決宣告、----そして、後は刑罰と恥辱のほか何も残されてはいないであろう。そのラッパの音を聞いて、囚人の心が激しく動悸するのも無理はない!

 だが、やがて来たるべき日、いま急速に近づきつつある日には、義と認められていないすべての人々が、これと同じように絶望することになる。御使いのかしらの声と、神のラッパの音が、いま多くの魂を支えている偽りの平和を散り散りに吹き飛ばしてしまう。最後の審判の日には、幾万もの我意を張る人々が、もはや手遅れであることを確信するであろう。「神の愛とあわれみ」について、ちょっとした美しい観念をいだくだけでは、人は絶対にその《造り主》と和解させられないこと、また、自分の咎ある魂を地獄から救い出せはしないことを確信するであろう。その恐ろしい日にも立ち続けることのできる望みは、義と認められた人の望みだけである。堅固で、実質のある、また破られることのない平和は、義認の上に築かれた平和だけである。

 この平和はあなたのものとなっているだろうか? いのちを愛しているなら、自分が義と認められた人間であることを知り、感じとれるようになるまで、安心してはならない。安心してはならない。これが単なる名称やことばの問題であるなどと考えてはならない。義認とは「深淵で難解な主題」であるとか、それについて何も知らなくとも十分天国に行くことはできるだろうなどという考えで自分にへつらってはならない。この大いなる真理をすっぱり認めるがいい。神との平和がなければ決して天国に行くことはできず、義認がなければ決して神との平和は持てない、という真理を。そして、そういうことであれば、自分が《義と認められた人》になるまで、決してあなたの魂を安心させないようにするがいい。

 III. 第三のこととして、私はあなたに、義認と神との平和が湧き出している岩を示したい。----その岩とは、イエス・キリストである。

 真のキリスト者が義と認められているのは、その人自身の何らかの善良さのゆえではない。その人の平和のもとをいくらたどっていっても、その人が行なったいかなる行ないにも行き着かない。それは、決してその人の祈りや真面目さ、その人の悔い改めやその人の償い、その人の道徳やその人の愛によって獲得されたものではない。こうした事がらはみな、その人を義と認めさせるには完全に力不足である。それらは、多くの点で、それ自体の欠点があり、大きな赦しを必要としている。そして、人が義と認められることについて、そのようなものは全く言及されていない。神の律法の完璧な基準によって試されたとき、最良のキリスト者といえども義と認められた罪人、赦しを受けた犯罪人以上のものではない。功績や、価値や、美点や、神のあわれみを要求できる資格という点では、その人は無一物である。こうしたものの何かを土台にした平和は、全く無価値である。こうしたものにより頼む人は、みじめな迷妄に陥っているのである。

 これまで書き記された中でも、何にもまして真実な言葉は、二百八十年前にリチャード・フッカーがこの主題について記した言葉である。古の英国の教職者たちが、いかに考えていたかを知りたい人は、彼の云っていることによく注意するがいい。----「もし神が、次のように寛大な申し出をされたらどうであろう。すなわち、『人類の先祖アダムが堕落して以来の、あらゆる世代の中で、完全に純粋で何の染みも傷もないような行為を、1つ行なった人を一人でも捜し出してみよ。----もしそのような人がいたら、その一人の人のたった一度の行ないのために、わたしは人間も御使いも、彼らのため備えられた苦しみを味あわずにすむようにしてやろう』。----このような申し出がされたとしたら、あなたはこのような、人間と御使いを救い出すための代価が人の子らの中に見つかると思うだろうか。否、私たちはどれほど気高い行為を行なったとしても、どこかしら赦しの必要な部分があるのである。それでは、いかにして私たちは、賞賛に値する、褒美を与えられてしかるべきことを1つでも行なえるだろうか?」----こうした言葉に私は双手をあげて賛成したいと思う。私の信ずるところ、いかなる人も、いかにごく僅かな程度においてすら、神の前におけるその人の行ないによって義と認められることはできない。人間の前においてなら、その人は義と認められるかもしれない。その人の行ないは、その人のキリスト教に実質があることを証明するかもしれない。しかし神の前では、その人は、自分で行なえるいかなることによっても、義と認められることはできない。その人は、生きている限り常に欠点があり、常に不完全で、常に短所があり、常に標準に達さないであろう。自分自身の行ないによっては、いかなる人も決して平和を持ち、義と認められた人となったことはない。

 しかしそれではいかにして真のキリスト者は義と認められているのだろうか? 何がその人の享受している平和と、赦されているという感覚の秘訣なのだろうか? 聖なる神ともあろうお方が、罪深い人間をあたかも無罪であるかのように扱い、その数多い罪にもかかわらず義とみなすなどということを、いかに理解できるだろうか?

 こうした問いかけすべてに対する答えは単純明快なものである。真のキリスト者が義とみなされるのは、神の御子イエス・キリストのおかげである。その人が義と認められているのは、キリストの死および贖罪のためである。その人が平和を持っているのは、「キリストが、聖書の示すとおりに、その人の罪のために死なれた」*からである。これこそ、この大いなる神秘を解き明かす鍵である。これによってこそ、いかにして神ご自身が義であり、なおかつ不敬虔な者を義とお認めになることができるのか、という大問題が解決されるのである。主イエスの生涯と死こそ、すべてを説明している。「キリストこそ私たちの平和」なのである(Iコリ15:3; エペ2:14)。

 キリストは、真のキリスト者の立場に立たれた。キリストは、その人の《保証人》となり、《代理人》となられた。キリストは、負わなくてはならない責任をすべて負い、行なわなくてはならない務めをすべて行なうことをお引き受けになった。そして、お引き受けになったことを成し遂げられた。これによって、真のキリスト者は義と認められた人となっているのである(イザ53:6)。

 キリストは、罪のために苦しまれた。「正しい方が悪い人々の身代わりとなった」。キリストは、十字架にかけられたご自分の肉体において、私たちの受けるべき刑罰を耐えられた。キリストは、私たちが受けてしかるべき神の御怒りが、ご自分の頭上に下ることをよしとされた。それで真のキリスト者は義と認められた人となっているのである(Iペテ3:18)。

 キリストは、ご自分の血によって、キリスト者が負っていた借金をお支払いになった。キリストは、その債務をご自分の血によって、最後の一銭に至るまで精算し、お支払いになった。神は正しい神であって、ご自分に対する借金の二度払いをお求めにはならない。それで真のキリスト者は義と認められた人となっているのである(使20:28; Iペテ1:18、19)。

 キリストは、完璧に神の律法にお従いになった。この《世を支配する者》、悪魔は、キリストに何の過ちも見いだせなかった。そのように律法を成就することによって、キリストは永遠の義をもたらした。その義を、キリストの民は全員、神の前で身に着ているのである。それで真のキリスト者は義と認められた人となっているのである(ダニ9:24; ロマ10:4)。

 一言で云うとキリストは、真のキリスト者のために生きられた。その人のために死なれた。その人のために墓に行かれた。その人のためによみがえられた。その人のためにいと高きところに昇り、その人の魂のためにとりなしをするため天国に入られた。キリストは、その人の贖いに必要なすべてを成し遂げ、すべてを支払い、すべての苦しみをお受けになった。ここから、真のキリスト者の義認は生じているのである。----ここに、その人の平和が存しているのである。その人は、自分自身の中には何1つ持っていないが、キリストの中には、自分の魂が求めることのできるすべてを有しているのである(コロ2:3; 3:11)。

 真のキリスト者と主イエス・キリストとの間でなされているやりとりの祝福について、だれがはかり知りえようか! キリストの義はその人の上に置かれ、その人の罪はキリストの上に置かれている。キリストは、その人のために罪人であるとみなされ、今やその人はキリストのために無罪の者とみなされている。キリストは、ご自分のうちに何の過ちもなかったにもかかわらず、その人のために罪に定められ、----そして今やその人は、罪や、過ちや、短所だらけの者であるにもかかわらず、キリストのために無罪放免にされている。ここにこそ、まことの知恵がある! 神は今や、ご自身が義であり、だがしかし不敬虔な人々を赦すことがおできになるのである。人は、自分が罪人であると感じはしても、天国に行けるという確かな希望を有し、内なる平安を感ずることができる。人間の間でだれがこのようなことを想像しえただろうか? これを聞いて、賞賛しないような者がいるだろうか?(IIコリ5:21)

 英国史には、ニスデール卿という人物のことが記されている。彼は政治的な大罪のために死刑の宣告を受けていた。彼はその裁判の後で牢獄に拘禁され、その処刑日が決められた。脱出の可能性は全くないと思われた。だがしかし、その宣告が実行に移される前に彼は、その妻の機転と愛情によって、何とか逃亡できた。彼女が牢獄の彼を訪ねて、彼と服を交換したのである。妻の服を着た彼は、牢獄から歩いて逃亡したが、番兵も看守も彼に気づかず、その間彼の妻は彼のかわりに後にとどまっていたのである。つまり、彼女は自分の命を賭して夫の命を救ったのである。このような妻の機転と愛を、だれが賞賛せずにいられるだろうか?

 しかし福音書の物語の中に記されている愛の発露にくらべれば、ニスデール夫人の愛など無にひとしい。そこには、神の御子イエスが、罪人たちの世に降ってこられたことが記されている。それは、かれが来る前はかれのことを気にもかけず、かれが現われたときにはかれを敬いもしなかった。かれは、牢獄に降り、自ら縛られることに甘んじ、私たち、あわれな囚われ人が逃れられるようにしてくださったと記されている。かれは死にまで従い、----実に十字架の死にまでも従われ、----私たちアダムの無価値な子らが、永遠のいのちに至る、開かれた扉を得られるようにしてくださったと記されている。かれは、私たちの罪を背負い、私たちのそむきの罪を携えていくことをよしとし、私たちがかれの義を身にまとって、神の子らとしての光と自由のもとで歩めるようにしてくださったと記されている(ピリ2:8)。

 これこそ、「人知をはるかに越えた愛」と呼ばれてしかるべきである! 無代価の恵みを何にもまして燦然と輝かせるものとして、キリストの義認にまさるものはない(エペ3:19)。

 この昔からの道を通ってのみ、アダムの子らは、世の初めから義と認められ、その平安を見いだしてきたのである。アベルからこのかた、いかなる人も、キリストを通さずには、ほんの一滴たりともあわれみを受け取ったことはない。モーセの時代以前に立てられたすべての祭壇は、キリストを指し示すためのものであった。ユダヤ教の律法のあらゆるいけにえと典礼は、イスラエル人をキリストのもとに向かわせるためのものであった。キリストについて、あらゆる預言者は証言していた。一言で云うと、もしあなたがキリストによる義認を見失うなら、旧約聖書の大半は、無意味な、錯綜した迷路となってしまうであろう。

 何にもまして、この義認の方法は、正確に人間性の必要と要求に合致したものである。人間は、堕落した存在になってはいても、内側に良心が残っている。正気に返るときには、自分の必要がおぼろげに感じられ、それはキリストのほか何物も満たすことができない。その良心が飢えていない限り、いかなる宗教的玩具でも、人の魂を満足させ、その人を静かにさけるであろう。しかし、ひとたびその人の良心が飢えるようになると、真の霊的食物のほか何物をもってしてもその人を静かにしておくことはなく、キリストのほかいかなる食物も満足させはしないであろう。

 良心が本当に覚醒した人の内側では、何物かが囁くのである。「私の魂のために何らかの代価が払われなくては、何の平安もありえない」、と。たちどころに福音はそうした人にキリストを引き合わせる。キリストはすでにその人の贖いのために贖い代を支払ってくださった。キリストはその人のためにご自分をお捨てになった。キリストは、その人のために呪われた者となり、そのことによって、その人を律法の呪いから贖い出してくださったのである(ガラ2:20; 3:13)。

 良心が本当に覚醒した人の内側では、何物かが囁くのである。「私は何らかの義か、天国に入るふさわしさがなくては、何の平安もありえない」、と。たちどころに福音はそうした人にキリストを引き合わせる。キリストは永遠の義をもたらしてくださった。キリストが律法を終わらせられたので、義が与えられることになった。キリストの名は、「主は私たちの義」と呼ばれる。神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされた。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためである(IIコリ5:21; ロマ10:4; エレ23:6)。

 良心が本当に覚醒した人の内側では、何物かが囁くのである。「私の罪ゆえに何らかの刑罰と苦しみがなくては、何の平安もありえない」、と。たちどころに福音はそうした人にキリストを引き合わせる。キリストは罪のために死なれた。正しい方が悪い人々の身代わりとなった。それは、その人を神のみもとに導くためであった。かれは、自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。キリストの打ち傷のゆえに、私たちは、いやされたのである(Iペテ2:24; 3:18)。

 良心が本当に覚醒した人の内側では、何物かが囁くのである。「私には私の魂のための祭司がいなければ、何の平安もありえない」、と。たちどころに福音はそうした人にキリストを引き合わせる。キリストは父なる神によって認証され、任命されて、神と人との間の《仲介者》となっておられる。キリストは、罪人のために叙任された《弁護者》である。信任状を与えられた《助言者》であり、病んだ魂の《医者》である。重く罪にのしかかられた罪人たちの偉大な《大祭司》、《全能の赦罪者》、《恵み深い聴罪司祭》である(Iテモ2:5; ヘブ8:1)。

 信仰を告白する幾万ものキリスト者が、キリストによる義認という教理に何ら格別な美しさを見てとっていないことは私も承知している。彼らの心はこの世の物事で埋め尽くされている。彼らの良心は麻痺し、しびれさせられており、口がきけない。しかし、人の良心が本当に感覚を取り戻し、口を開き出すときには常に、その人はキリストの贖罪および祭司職のうちに、これまで一度も見てとることのなかった何かを見いだすであろう。光が目にとってふさわしく、音楽が耳にとってふさわしいのにもはるかにまさって完璧に、キリストは罪深い魂の真の欠けにとってうってつけのお方である。幾千もの人々は、南太平洋ライアテア島で回心した、とある異教徒の体験が、まさしく自分の体験したことと同一であると証言できるであろう。彼は云った。「私は、切り立った絶壁に囲まれた、高い高い山を見ていました。どれほど懸命に登っても、ある程度高く登ると、手を滑らせて、底に落ちるばかりでした。やるせなく、くたくたに疲れ果てて、私はそこから離れたところに座り込んで泣いていました。ところが私が泣いているうちに、一滴の血がその山の上にぽとりと落ちるのが見たのです。すると、たちまち山は溶け去りました」。それは一体どういう意味かと尋ねられた彼は云った。「その山は私の罪のことです。そしてその上に落ちた一滴は、イエスの尊い血の一滴なのです。それによって、私の咎という山は溶け去ったのです」[ウィリアムズ著『南太平洋宣教記』]。

 これこそ、----キリストによる義認こそ、----平和が得られる唯一まことの道である。だれによってもこの道からそらされないようにし、ローマ教会による偽りの教理のいずれにも至らされないように用心するがいい。悲しいかな、この不幸な教会が、いかに過誤の家を真理の家に間近に建てているかは、一驚に値する! 義認に関する神の真理を堅く握り、だまされないようにするがいい。他の仲介者だの、平和を得させる他の助力者だのについて何を聞かされても耳を貸してはならない。覚えておくがいい。仲介者はただひとり、----イエス・キリストだけである。罪人たちのための贖罪はただ1つ、----キリストの血だけである。罪のためのいけにえはただ1つ、----十字架上で一度だけささげられたいえにえである。いかなる功徳をもたらしうる行ないもただ1つ、----キリストのみわざだけである。真に罪の赦罪を宣言できる祭司はただひとり、----キリストだけである。ここに堅く立ち、警戒を固めているがいい。キリストにのみ与えられるべき栄光を、だれにも与えないようにするがいい。

 あなたはキリストのことをいかなるお方として知っているだろうか? 疑いもなくあなたは、キリストについて耳で聞いたことがあり、《信仰告白》においてその御名を唱えたことがあるであろう。ことによると、あなたはキリストの生涯と死の物語に親しんでいるかもしれない。しかしあなたは、キリストについて体験的に何を知っているだろうか? キリストはあなたにとって現実に何の役に立っているだろうか? あなたの魂とキリストとの間には、いかなるやりとり、交流があるだろうか?

 おゝ、嘘ではない。キリストによらない限り、神とのいかなる平和もありえない! 平和はキリストの特別の賜物である。平和はキリストだけが、世を去るに臨んで、形見として後に残すことができた遺産である。これ以外の平和はみなまがいものであり、迷妄である。食べ物もなしに飢えが満たされ、飲み物もなしに渇きが癒され、休みもなしに疲れが取り除かれることでもない限り、決して人々は、キリストなしに平和を見いだすことはないであろう。

 さて、この平和はあなたのものとなっているだろうか? キリストがご自分の血によって買い取り、受けたいと願うすべての者に無代価で差し出しておられる平和、----この平和はあなたのものとなっているだろうか? おゝ、安心してはならない。私のこの問いかけに満足な答えを返せるまで、安心してはならない。----《あなたは平和を持っているだろうか?》

 IV. 最後のこととして、私はあなたに、この平和という特権を受け取る手を示したい。

 このページを読んでいるすべての方々には、私たちの主題のこの部分に特別な注意を払ってほしいと思う。キリストと、義と、平和とを、人間の魂の所有とするための手段ほど、キリスト教にとって重要なことはほとんどない。残念ながら多くの人々は、私がこの論考のここまでの部分で語ってきたところまではついて来ながら、ここで道を違えてしまうのではないだろうか。私たちは堅く真理を握りしめるように努力しよう。

 人がキリストおよびキリストのすべての恩恵にあずかるための手段とは、単純な信仰である。キリストの血によって義と認められ、神との平和を持つために必要なことは唯一である。その唯一のこととは、キリストを信じることである。これこそ真のキリスト者に特有の目印である。その人は、自分が救われるために主イエス・キリストを信じている。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも……救われます」。「御子を信じる者は、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つ」*(使16:31; ヨハ3:16)。

 信仰がなければ、救われることは不可能である。人は道徳的で、人好きが良く、気立てが良く、品行方正かもしれない。しかしもしその人がキリストを信じていなければ、その人には何の赦しもなく、何の義認もなく、天国へ行く何の資格もない。「信じない者は……すでにさばかれている」。「御子を信じない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる」。「信じない者は罪に定められます」(ヨハ3:18、36 <英欽定訳>; マコ16:16)。

 この信仰以外には、いかなるものも人が義と認められるために必要ではない。疑いもなく、悔い改めや、聖潔や、愛や、へりくだりや、祈り深さは、義と認められた人のうちに常に見られるであろう。しかし、それらは人をこれっぽっちも神の前で義と認めさせはしない。人をキリストに結び合わせるもの、----人を義と認めさせるものは、単純な信仰以外の何物でもない。「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです」。「人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです」(ロマ4:5; 3:28)。

 この信仰を持つとき、人はすぐさま完全に義と認められる。その人の罪はすぐさま取り除かれる。その人の不義はすぐさま取り去られる。その人は、信じたその瞬間に、神によって完全に赦罪を受けた者、赦された者、義人とみなされる。その人の義認は将来の特権ではない。長い年月と艱難辛苦の果てに得られるものではない。それは、即座に、現在、わがものにできる。イエスは云っておられる。「信じる者は永遠のいのちを持ちます」、と。パウロは云っている。「すべての点について、信じる者はみな、この方によって、義とされるのです」、と(ヨハ6:47; 使13:39 <英欽定訳>)。

 云うまでもなく、救いに至る真の信仰の性質について明確な見方をしておくことは途方もなく重要である。この信仰は、常に新約聖書のキリスト者たちのまぎれもない特徴として語られている。彼らは「信者」であった。ヨハネの福音書一書の中でも、「信じる」ことは八十回から九十回も言及されている。これほど多くの人々によって過ちが犯されてきた主題はほとんどない。この点に関する過ちほど魂にとって有害なものはない。多くの真摯な求道者が陥っている暗闇は、そのもとをたどれば、信仰に関する混乱した見方に行き着くであろう。私たちは、その真の性質について明瞭な考え方をするように努めよう。

 救いに至る真の信仰はだれしも所有しているものではない。キリスト者と呼ばれているすべての人々は当然のこととして信仰者である、という意見は、この上もなく有害な迷妄である。人は魔術師シモンのようにバプテスマを受けてはいても、キリストには「何の関係もないし、それにあずかることもできない」ことがありえる。目に見える教会には、信仰者だけでなく不信者も含まれている。「すべての人が信仰を持っているのではない」(IIテサ3:2)。

 救いに至る真の信仰は、単なる感情の問題ではない。人はその思いの中で、キリストに対する多くの良い感情と願望を有していても、それらがみな、朝もやや、早朝の露のように、結局は一時的なもの、長続きしないものであることがありえる。多くの人々は、岩地のような心をした聴衆であり、「みことばを喜んで受け入れる」*。多くの人々は、一時の興奮によって、「私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります」、と云うであろうが、じきに世に舞い戻っていく(マタ8:19; 13:20)。

 救いに至る真の信仰は、キリストが罪人のために死んだという事実に対して、ただ知的な同意をするだけのことではない。これは、悪霊どもの信仰にくらべて寸分もましなものではない。彼らはイエスがどなたであるか知っている。「悪霊どももそう信じて」いる。それどころか彼らは、「身震いしています」(ヤコ2:19)。

 救いに至る真の信仰は、内なる人全体の行為である。それは、頭と、心と、意志とが、すべて合わさり、結びついた行為である。この魂の行為によって、人は、----自分自身の咎と、危険と、絶望を見てとった上で、----また、それと同時に、自分を救おうと申し出ておられるキリストを見てとった上で、----キリストに自分の身をゆだね、----キリストのもとに逃れ、----キリストを自分の唯一の望みとして受け入れ、----救いのためにキリストに喜んで依存する者となる。信仰とは、すぐさま1つの習慣となるような行為である。信仰を有する人は、自分の信仰を常に同じ強さで感じているとは限らない。だが、おおむねその人は信仰によって生き、信仰によって歩むものである。

 真の信仰は、そこにいかなる功績も伴っていないし、いかに高い意味においても、「行ない」と呼ぶことはできない。それは、《救い主》の手をつかむこと、夫の腕に身をもたせかけること、医者の薬を受け取ることである。それがキリストのもとに持っていくのは、罪深い人の魂のほか何もない。それは何も与えず、何にも貢献せず、何も支払わず、何も成し遂げない。それは単に、キリストが授けてくださる義認という栄光ある賜物を受け入れ、受け取り、迎え入れ、つかみ、だきしめること、また日々新たにされるその行為によって、その賜物を享受することでしかない。

 あらゆるキリスト者の恵みの中で、信仰こそ最も重要なものである。何にもまして、これこそ実質においては最も単純なものである。だが、何にもまして、これこそ実際においては最も人に理解させるのが困難なものである。これに関して人々が陥る過ちの数は、尽きることがない。全然信仰を持っていない人々の一部は、自分が信仰者であると信じて一瞬たりとも疑おうとしない。真の信仰を有している人々の一部は、自分が信仰者であることを決して納得できない。しかし、信仰に関する過ちのほぼすべては、その生ずるもとをたどってみると、生まれながらの高慢という古い根に行き着く。人は、自分が救われるためには自分自身から出た何かを支払わなくてはならないのだと考え、どうしてもその考え方にしがみつき続ける。受けるだけで、全く何も支払わないような信仰について、彼らはまるで理解できないように思える。

 救いに至る信仰は、魂のである。罪人は、おぼれかけて今にも沈んでいこうとしている人に似ている。その人は主イエス・キリストが自分を助けようと手を差し伸ばしているのを見てとる。その人はそれをつかみ、救われる。これこそ信仰である(ヘブ6:18)。

 救いに至る信仰は、魂のである。罪人は、荒野で燃える蛇に咬まれたイスラエル人に似て、今にも死にかけている。その人に対して主イエス・キリストは、青銅の蛇として差し出され、その人を癒すために掲げられている。その人はそれを眺めて、救われる。これこそ信仰である(ヨハ3:14、15)。

 救いに至る信仰は、魂のである。罪人は、食物がないために飢えており、重病にかかって病んでいる。主イエス・キリストはいのちのパンとして、また万能の薬としてその人の前に置かれている。その人はそれを飲み下して、健やかになり、強くなる。これが信仰である(ヨハ6:35)。

救いに至る信仰は、魂のである。罪人は、不倶戴天の敵から追われつつあり、今にも打ち負かされるのではないかと恐れている。主イエス・キリストは、強いやぐら、隠れ家、避け所としてその人の前に立っている。その人はそこに走って行って、安全になる。これが信仰である(箴18:10)。

 もしあなたがいのちを愛しているなら、信仰による義認の教理を堅く握り、しがみつくがいい。もしあなたが内なる平和を愛しているなら、信仰に関する見方を非常に単純なものにしておくがいい。むろんキリスト教信仰のあらゆる部分を尊く思うがいい。聖潔の必要性については死ぬまで主張するがいい。定められたあらゆる恵みの手段を熱心に、また畏敬をもって用いるがいい。だが、こうした事がらのいかなるものにも、あなたの魂を義と認める役目をごく少しでも与えてはならない。もしあなたが平和を持ち、それを保っていたければ、信仰だけが義と認めさせるものであること、また、それは功績を生む行ないとしてではなく、魂をキリストに結び合わせる行為としてなされるものだということを覚えておくがいい。嘘ではない。福音の王冠であり栄光であるもの、それは、律法の行ないによらない信仰による義認なのである。

 信仰による義認ほど美しいほどに単純な教理は思いつくことができない。それは、権力者や、富者や、学識者にしか理解できない、暗く神秘的な真理ではない。それは永遠のいのちを、国中で最も無学で、最も貧乏な者の手にも届くところに置いている。それは神から出たものに違いない。

 これほど神に栄光を帰している教理は思いつくことができない。それは、神の属性のすべてと、神の正義と、あわれみと、聖さとに栄誉を帰している。それは、罪人の救いに伴う誉れのすべてを、神がお定めになった《救い主》に帰している。それは御子を尊び、そのようにして御子をお送りになった御父を尊んでいる(ヨハ5:23)。それは、人間の贖いにおいて、人がいかなる協力を果たしているとも認めず、救いをただ主によるものとしている。それは神から出たものに違いない。

 これほど人間にその分限をわきまえさせる教理は思いつくことができない。それは人間に、自分の罪深さと、弱さと、自分の行ないによっては自分の魂を救いえないことを示す。それは、最終的に人間が救われない場合、人間に何の弁解も残していない。それは人間に、「金を払わず、代価を払わないで」平和と赦しを得るように申し出ている。それは神から出たものに違いない(イザ55:1)。

 これほど心砕け、悔悟した罪人にとって慰めとなる教理は思いつくことができない。それは、そのような人に喜ばしい知らせをもたらす。それはその人に、その人にすらも望みはあることを示す。それはその人に、その人が大いなる罪人であっても、大いなる《救い主》が差し出されていることを告げる。そして、その人が自分で自分を義とすることができなくとも、神にはその人をキリストのゆえに義とすることができ、義とするおつもりがあることを告げる。それは神から出たものに違いない。

 これほど真のキリスト者に満足を与える教理は思いつくことができない。それは、その人に堅固な慰めの根拠を----キリストの完成したみわざを----差し出している。もしキリスト者がしなくてはならないことが何か残っているとしたら、どこにキリスト者の慰めがあるだろうか? その人は決して自分が十分に行なったかどうか、自分が本当に安全になったかどうかがわからないであろう。しかし、キリストがすべてを引き受けた以上、私たちはただ信じて平和を受け取るだけでよいとの教理は、あらゆる恐れに対抗できる。それは神から出たものに違いない。

 これほど人を聖なる者とする教理は思いつくことができない。それは人々を、ありとあらゆる綱の中でも最も強い綱、愛の綱によって引き寄せる。それは彼らに、自分たちが負い目のある者であること、また多くを赦されたからには、感謝によって多く愛すべきであると感じさせる。いかに行ないをほめそやしても、それは決して、行ないを非難することによるほどの実を生じさせはしない。いかに人間の善良さと功績を称揚しても、それは決して、キリストを称揚することによるほど人々を聖くしはしない。パリにいた最も獰猛な精神病患者たちも、ピネル神父が彼らに自由と希望を与えたとき、態度を和らげ、穏やかで、従順になった。キリストの無代価の恵みは、律法の最も峻厳な戒めにもはるかにまさる効果を人々の生活に生み出すものである。確かにこの教理は神から出たものに違いない。

 これほど教役者の手を強める教理は思いつくことができない。それはその人をして、いかに邪悪な人のもとに行っても、「あなたのためにすら、希望の扉はあるのです」、と云えるようにする。それは教役者に、「いのちがある限り、私にゆだねられている魂の中に不治の病人はいない」、と感じさせることができる。この教理を用いることによって多くの教役者は、魂についてこう云うことができる。「私は、彼らが生まれながらの状態にいるのを見いだした。彼らが恵みの状態に移るのを見てきた。彼らが栄光の状態に移っていくのを見てきた」。まことにこの教理は神から出たものに違いない。

 これほど時の経過に影響されない教理は思いつくことができない。それは人々が、あのピリピ人の看守のように、「救われるためには、何をしなければなりませんか」、と叫んで求道を始めるときに、彼らにうってつけのものである。----それは人々が、戦闘の最前線で戦っているときにも、うってつけのものである。使徒パウロのように彼らは云う。「いま私が、この世に生きているのは……神の御子を信じる信仰によっているのです」、と(ガラ2:20)。----それは人々が、ステパノのように、「主イエスよ。私の霊をお受けください」、と叫んで死ぬときにも、うってつけのものである(使7:59)。----しかり。多くの人々が生前は激しくこの教理に反対してきたが、その臨終の床では、信仰による義認を喜んでいだき、「われキリストのほか何物にもたよらじ」、と云いながら世を去っていった。それは神から出たものに違いない。

 あなたはこの信仰を持っているだろうか? あなたはイエスに対する単純で、子どものような信頼について少しでも知っているだろうか? あなたは、自分の魂の望みをキリストにだけより頼ませることがいかなることか知っているだろうか? おゝ、覚えておくがいい。何の信仰もないところには、キリストの恩恵にあずかることが全くない。----キリストの恩恵にあずかることがないところには、何の義認もない。----何の義認もないところには、神との何の平和もありえない。----神との平和がないところには、何の天国もない! そして、次は何が来るだろうか? 残っているのは地獄しかない。

 さて今、この論考を読んでおられるあらゆる方々には、私たちが考察してきた厳粛な問題について、真剣で祈り深い注意を払うように勧めたい。私はあなたが、神との平和について、----義認について、----キリストについて、----信仰について、静かな瞑想を始めるように求めたい。これらは、隠退した学者でもなければ、だれにも不向きな思弁的主題にすぎないようなものではない。こうしたことは、キリスト教の根幹に関わっている。これらは永遠のいのちに結びついている。もうしばらく忍耐してほしい。私は二言三言、これらをあなたの心と良心により強く刻み込ませるための言葉を語りたいと思う。

 1. それでは1つのこととして、この論考を読んでいるあらゆる方々には、1つの平易な問いかけを自分に語りかけてみるように願いたい。

 あなたは神との平和を持っているだろうか? あなたはそれについて聞いたことがある。読んだことがある。そうしたものがあることを知っている。どこでそれを探すべきかも知っている。しかしあなたは、自分でそれを持っているだろうか? それはあなた自身のものになっているだろうか? おゝ、自分と正直に向き合い、私の問いかけをはぐらかさないようにするがいい。あなたは神との平和を持っているだろうか?

 私が尋ねているのは、あなたがそれを素晴らしいことと思っているかとか、死ぬまでにいつかはそれを手に入れたいと望んでいるかとかいうことではない。私はあなたの今の状態について知りたいのである。この日、きょうと呼ばれている間に、私はあなたに、私の問いかけと正直に向き合ってほしい。あなたは神との平和を持っているだろうか?

 私はあなたに切に願う。いかに重要な公務によっても、あなた自身の霊的幸福を考察することをおざなりにしないでほしい。戦争や国々の争いは決してやむことがないであろう。政党と政党の相克は決して終わることがないであろう。しかし、結局において、今から百年も経てば、そうした事がらそのものが、あなたにとってはほとんど重要なものとは思えなくなっているであろう。私が尋ねている問いかけの方が、一千倍も重要なものと思われるであろう。あなたは、もしかするとそのときには、「おゝ、私が神との平和についてもっと考えていさえしたなら!」、と云っているかもしれないが、時すでに遅しである。

 願わくは、この問いかけがあなたの耳の中で鳴り響き、あなたがそれに満足な答えを返せるようになるまで、決してあなたから離れないように! 願わくは神の御霊がそれをあなたの魂にあてはめ、あなたが死ぬまでには大胆にこう云えるようになるように。「信仰によって義と認められた私は、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています」、と。

 2. 次のこととして、この論考を読んでいる方々のうち、自分が神との平和を持っていないとわかっている人に、1つの厳粛な警告を差し出したい。

 あなたは平和を持っていない! しばしの間、あなたの危険がいかにすさまじく大きなものか考えてみるがいい! あなたと神は友人ではない。神の御怒りがあなたの上にとどまっている。神は日々あなたに怒りを発している。あなたの生き方、あなたの言葉、あなたの思い、あなたの行動は、神にとって絶えざる腹立ちの種である。それらはみな赦罪を受けておらず、赦されていない。それらはあなたの頭の天辺から足の爪先まで覆っている。それらは日々神を憤らせ、あなたを切り捨てさせようとしている。歓楽をきわめた古の一人物が自分の頭上に見たという、一本の髪の毛で吊された剣は、あなたの魂の危険にくらべれば、ごくかすかな象徴でしかない。あなたと地獄との間には、ただ一歩の隔たりしかない。

 あなたは平和を持っていない! しばしの間、あなたの愚劣さがいかにすさまじく大きなものか考えてみるがいい! 神の右の座には、大いなる《救い主》が座っておられ、あなたに平和を与えることができ、与えたいと願っているというのに、あなたはこのお方を求めようともしていないのである。十年、二十年、三十年、ことによる四十年も、この方はあなたを呼び続けてきたのに、あなたはその助言を拒んできた。この方は、「わたしのもとに来なさい」、と叫ばれたのに、あなたは実質上、「いやです」、と答えてきたも同然である。この方は、「わたしの道は楽しみの道です」、と云ってこられたのに、あなたは常に、「私は自分の罪深い道の方がずっと好きです」、と云い続けてきたのである。

 そして、結局のところ、あなたは何のためにキリストを拒んできたのだろうか? 傷ついた心を癒せもしない、世の富のため、----いつの日か手放さなくてはならない、世の取引のため、----本当の満足は与えない、世の快楽のためである。こうした物事のため、このような物事のために、あなたはキリストを拒んできたのである! これが知恵だろうか! これがあなたの魂を情け深く、親切に扱うことだろうか?

 私はあなたに、自分の生き方を考えてみるよう切に願う。私はあなたの現在の状態について、格別な悲しみをもって嘆くものである。私が悲しく思うのは、いかに多くの人々が、壊滅的な災厄と髪の毛一筋ほどしか離れていないにもかかわらず、それに対する備えを全くしていないか、ということである。私はあらゆる人の耳元に近づき、こう叫びたい思いがする。「キリストを求めよ! キリストを求めて、内なる平和と、苦しむとき、そこにある助けを得るがいい」。私は不安にかられているあらゆる親を、妻を、子供を説得したい思いがする。苦しみを分け合うために生まれた兄弟であり、平和の《君》であるお方、----決して裏切ることも、見捨てることもない友、決して死ぬことのない夫であるお方を知るようにするがいい、と。

 3. 次のこととして、平和を欲しており、どこでそれを見いだせばいいか知らないでいるあらゆる方々に心からの嘆願を差し出したい。

 あなたは平和を欲している! ならば一刻も早くそれを唯一与えることのできるお方----主イエス・キリスト----に求めるがいい。へりくだった祈りによってキリストのもとに行き、ご自分の約束を果たしてください、私の魂をあわれんでください、と願うがいい。キリストに申し上げるがいい。私は「疲れた人、重荷を負っている人」に対するあなたのあわれみ深い招きを読みました。それこそ私の魂が陥っている苦境です。どうかその休みを与えてください、と。このように行なうがいい。今すぐそうするがいい。

 キリストご自身を求めて、キリストとの個人的なやりとり以下の何物でも事足れりとしてはならない。キリストの典礼に定期的に出席するだけで安んじてはならない。陪餐者となり、主の晩餐を受けるだけで満足してはならない。このような道で堅固な平和を見いだせると考えてはならない。あなたは《王》の顔に拝謁し、黄金の笏で触れてもらわなくてはならない。あなたはこの《医者》に向き合い、自分の病状をつぶさに告げなくてはならない。あなたはこの《弁護者》と密室にこもり、何1つ包み隠さず打ち明けなくてはならない。おゝ、このことを覚えておくがいい! 多くの人々が、港のすぐ沖で難破しているのである。彼らは手段や種々の典礼で自足してしまい、決して完全にはキリストのもとに来ようとしない。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます」(ヨハ4:13)。キリストご自身でなければ魂を満足させることはできない。

 キリストを求めるには、決してぐずぐずしていてはならない。自分が十分に悔い改めたように感ずるまで待っていてはならない。あなたの知識が増し加わるまで待っていてはならない。自分の罪ゆえに十分へりくだらされるまで待っていてはならない。あなたの心の全面を覆っている、もつれあった疑いと暗闇と不信仰とが全くなくなるまで待っていてはならない。ありのままのあなたでキリストを求めるがいい。あなたは決してキリストから離れていることによってまともになることはないであろう。私は老トレイルの意見に諸手をあげて賛成する。「人々がキリストを信ずるのが早すぎるなどということは不可能である」。残念ながら、多くの不安にかられた魂は、へりくだりではなく、高慢と無知によって、イエスに近づくことをためらっているのである。彼らが忘れているのは、人は病気が重ければ重いほど、医者に行く必要が大きくなる、ということである。人は自分の心が悪いと感ずれば感ずるほど、より進んで、よりすみやかにキリストのもとに逃れ行くべきである。

 キリストを求めるには、じっと静かにしているべきだなどと考えてはならない。サタンの誘惑によって、自分は受け身的な不活動の状態で待たなくてはならず、イエスをつかみとる努力をしてはならない、などと考えてはならない。あなたがいかにしてキリストをつかみとることができるのか、私は説明しようとは思わない。しかし私の確信するところ、私たちはキリストに向かってもがき進み、キリストをつかもうと苦闘する方が、罪と不信仰の中にあって手をこまねいているよりも、はるかにましである。イエスをつかもうと苦闘しつつ滅びる方が、怠惰と罪の中にあって滅びるよりもましである。いみじくも老トレイルは、不安を感じてはいるがキリストを信じることはできないという人々についてこう語っている。「この云いわけは、弁解しがたいものである。あたかも、長旅に疲れ切って、もはや一歩も歩けなくなった人が、立っていることも前に進むこともできないにもかかわらず、『私は非常に疲れているので、横になることができない』、と云うようなものである」。

 4. 次のこととして、自分は神との平和を持っているという確かな理由と希望を持っていながら、疑いと恐れに悩まされている人々に対して、多少の励ましを差し出したい。

 あなたには疑いと恐れがある! しかしあなたには何が期待できるだろうか? あなたは何を持とうというのか? あなたの魂は、弱さと、情動と、もろさに満ちた肉体に結ばれている。あなたの生きている世界は、悪い者の支配下にあり、大部分の人がキリストを愛していない世界である。あなたは常に悪魔の誘惑にさらされている。このじっとしていない敵は、あなたを天国から閉め出すことができなくとも、あなたの旅路を不愉快なものにしようと八方手を尽くすであろう。確かにこうしたすべての事がらは考えに入れておくべきである。

 私はあらゆる信仰者に云いたい。私は、あなたに疑いや恐れがあることに驚くどころか、あなたがそうしたものを全く持っていない場合、あなたの平和が本物かどうか怪しく思うであろう。内なる争闘を伴っていないような恵みのことを私は大して評価しない。心の中にいのちがあるとき、何もかも静かで、落ち着いていて、整然とした考えしか起こらないようなことはめったにない。嘘ではない。真のキリスト者は、その平和によってばかりでなく、その戦いによっても知ることができる。今あなたを悩ませている疑いや恐れそのものが、良いしるしなのである。それらは、あなたが失いたくないと不安にかられる何かを本当に有していることを示して私を安心させるのである。

 自分自身に対する不正な告発者となったり、神の恵みのみわざの実質を信じない者となることによって、サタンの手助けをしないように用心するがいい。私があなたに助言したいのは、自分自身の心と、キリストの豊かさと、悪魔の種々の策略をよりわきまえ知ることができるように祈ることである。疑いや恐れによって、恵みの御座に押しやられるようにするがいい。より多くの祈りへとかき立てられ、よりキリストのもとをしばしば訪れるようになるがいい。しかし決して疑いと恐れによって、あなたの平和を奪われないようにするがいい。嘘ではない。あなたは恵みによって救われた罪人として天国に行くことに満足しなくてはならない。そして、あなたは、自分が本当に罪人であるという証拠を、生きている限り毎日見いだすことになっても驚いてはならない。

 5. 最後のこととして、神との平和を持っていて、その平和を常に生き生きと感じていたいと願っているあらゆる方々に多少の忠告を差し出したい。

 決して忘れてはならないのは、信仰者が自分の義認と、神に受け入れられていることを感ずる感覚には、多くの程度の差や違いがあるということである。あるときには、それは明るく、はっきりしているが、別のときには、鈍く、おぼろである。あるときには、それは上げ潮のように高く、満ち満ちているが、別の時には、引き潮のように低くなる。私たちの義認は確定した、変化することなく、動かされえないものである。しかし、私たちが義認を感ずる感覚は、しばしば多くの変化をこうむるのである。

 それでは、信仰者の心の中に、自分が義と認められているという生き生きとした感覚を保っておく最上の手段とは何だろうか? その感覚は、それを知る者にとって非常に尊いものである。私は信仰者たちに、ごく僅かばかりの心得を差し出したいと思う。こうした心を規定するにあたり私は何の無謬性も主張しない。私は人間でしかない。しかし、そのような者として私は、これらを差し出すものである。

 (a) 平安の感覚を生き生きと保っておくには、絶えずイエスを見上げていることがなくてはならない。水先案内人が、舵をとる目当てとなる浮標から目を離さないように、私たちは、私たちの目をキリストから離してはならない。

 (b) そこには、絶えざるキリストとの交わりがなくてはならない。私たちはキリストを日々、自分の魂の《医者》、また《大祭司》として用いなくてはならない。そこには日ごとの会見、日ごとの告白、日ごとの赦罪がなくてはならない。

 (c) あなたの魂の敵に対して、絶えざる警戒がなくてはならない。平和を持っていたいという人は、常に戦争に備えていなくてはならない。

 (d) 人生のあらゆる人間関係において、絶えず聖潔を追い求めることがなくてはならない。----私たちの気質において、私たちの舌において、自宅でも、外部でも、聖さが追求されなくてはならない。望遠鏡のレンズに小さな傷が1つついただけで、遠方にあるものをくっきりと見ることはできなくなる。ちょっとした塵が入っただけで、すぐに時計は動作が不正確になるであろう。

 (e) そこには、絶えずへりくだりを求めて努力することがなくてはならない。高ぶりは転落に先立つ。自信過剰は、しばしば怠惰さと、聖書を読み飛ばすことと、まどろみがちな祈りの母となる。ペテロは最初、他の全員が主を見捨てても、自分だけは決してそうしない、と云った。----それから彼は、祈っているべき時に眠った。----それから彼は主を三度も否定し、苦い涙にくれた後でようやく知恵を見いだした。

 (f) そこには、絶えず人々の前で主を大胆に告白することがなくてはならない。キリストを尊ぶ人々をキリストは尊び、彼らにしばしば伴ってくださるであろう。弟子たちが自分の主を見捨てたとき、彼らは深く恥じ入り、みじめになった。彼らが議会の前で主を告白したとき、彼らは喜びと聖霊に満たされた。

 (g) そこには、絶えず恵みの手段を熱心に用いることがなくてはならない。ここにこそ、イエスが喜んで歩みなさる道がある。公の礼拝と、聖書を読むことと、個人の祈りを喜ばないような弟子は、自分の《主人》としばしばお会いできると期待してはならない。

 (h) 最後に、そこには、自分自身の魂を絶えず執拗に見守ることと、しばしば自己吟味をすることがなくてはならない。私たちは義認と聖化とを区別するように注意しなくてはならない。私たちは、聖さをキリストの代わりにしないように用心しなくてはならない。

 私はこうした心得を、信仰を有するあらゆる読者の前に置くものである。これ以上のことも、いくらでも云っていくことはできよう。しかし私の確信するところ、これらは、真のキリスト者たる信仰者たちが、自分の聖化と、神に受け入れられていることとの生き生きとした感覚を保っていたければ、まず第一に携わるべき事がらの中に属している。

 すべてのしめくくりとして、私は自分の心からの願いと祈りを表明したい。願わくは、このページを読んでいるすべての方々が、人知をはるかに越えた神の平和を魂の中に持つとはいかなることかを知ることができるように。

 もしあなたが「平和」をまだ持っていないとしたら、願わくは、神の書にこう記されるように。あなたは今年、キリストにある平和を求め出し、それを見いだした、と!

 もしあなたがすでに「平和」を味わっているとしたら、あなたの平和を感じとる感覚が大いに増し加わるように!

義認[了]


 以下の文章は、カンタベリー大主教アンセルムスによって、1093年頃に編纂された、『病者の訪問について』に関する指示の抜粋である。これは多くの読者にとって興味深いものであろう。

 「あなたは、キリストの死によるほか救われることはできないと信じていますか? 病者が、『はい』と答えるときには、こう云うがいい。それでは、行って、あなたの魂がまだあなたのうちにとどまっている間に、あなたのあらゆる信頼を、この死にだけ置きなさい。他の何物にも望みをかけてはいけません。自分を全くこの死にゆだねなさい。これだけによって、あなたを覆いなさい。この死に全く自分を投げかけなさい。この死で全く身を包みなさい。そしてもし神があなたをお審きになるときには、云いなさい。『主よ。私は、私たちの主イエス・キリストの死を、私とあなたの審きとの間に置きます。そうでなければ、あなたと争おうなどとは思いません』、と。またもし神があなたに向かって、あなたは罪人である、と仰るときには、云いなさい。『私は、私たちの主イエス・キリストの死を、私と私の罪との間に置きます。そして、私は主の功績を私の功績として置きます。私が持っていなくてはならないのに持ってはいない功績のかわりに置きます』、と。もし神があなたに向かって怒りをお示しになるときには、云いなさい。『主よ。私は、私たちの主イエス・キリストの死を、私とあなたの怒りとの間に置きます』、と」。----オーウェン、『義認論』における引用よたり。----ジョンストン版、「オーウェン全集」、第5巻、p.17。

HOME | TOP | 目次 | BACK | NEXT