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7. 赦し


「あなたがたの罪が赦された」----Iヨハ2:12

 《使徒信経》、あるいは《使徒信条》の末尾近くにある1つの箇条は、私が恐れるに、しばしば何の考えも、何の感慨もなしに暗唱されているのではないだろうか。私が云っているのは、次の言葉を含む箇条のことである。「われは、罪の《赦し》を信ず」。残念ながら、幾万もの人々は、この言葉の意味するところについて決して突き詰めて考えていないのではなかろうか。そこで以下の論考では、この言葉の内容を吟味したいと思う。自分の魂のことを気遣い、救われたいと思う人はみな、よく注意を払っていただきたい。私たちは「からだの《よみがえり》」を信じているだろうか? ならば、いくばくかでも経験的に「罪の《赦し》」を知っておくようにこころがけようではないか。

 I. まず第一に示したいのは、私たちが赦しを必要としている、ということである。

 すべての人は赦しを必要としている。すべての人が罪人だからである。このことを知らない人は、キリスト教信仰において何も知っていないのである。人が神の前における自分の正しい立場を知ること、そして自分の受けるべき報いを理解すること、これはキリスト教のイロハにほかならない。

 私たちは、みな大いなる罪人である。「義人はいない。ひとりもいない」。----「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」(ロマ3:10、23)。罪人として私たちは生まれ、罪人として一生を送る。私たちは、ごく幼少のころから自然に罪を犯すようになる。子どもはみな、訓練や教育によって教わらなくとも悪いことができる。いかなる悪魔や悪い仲間にもまして、私たちをこれほどの邪悪さに至らせているもの、それは私たち自身の心である。そして、「罪から来る報酬は死です」(ロマ6:23)。私たちは、赦されるか、永遠に失われるかの2つに1つである。

 私たちは、神の前でみな咎ある罪人である。私たちは神の聖なる律法を破っている。神の戒めに背いている。神のみこころを行なっていない。十戒中の戒めの1つとして、私たちを断罪していないものはない。私たちは、もしそれを行為によって破ってこなかったとしても、言葉によって破ってきた。もし言葉によって破ってこなかったとしても、思いと想像によって破ってきた。----それも、絶え間なくそうしてきた。聖マタイの5章の基準によって試されるとき、私たちのうちひとりとして無罪放免になる者はいないであろう。全世界は「神のさばきに服す」べきものである。そして、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」。私たちは、赦されるか、永遠に滅びるかの2つに1つである。(ロマ3:19; ヘブ9:27)。

 ロンドンの雑踏を歩くとき私が目にする何百何千もの人々について、私はその見かけ以外に何も知らない。私の見るところ、ある人々は快楽を熱心に追求し、ある人々は取引に熱心に励んでいる。----ある人々は裕福に見え、ある人々は貧しく見える。----ある人々は馬車に乗って行き、ある人々は徒歩で道を急いでいる。それぞれの人は、自分なりの行き先を目指している。それぞれの人には、自分なりの目当てと目的がある。それらはみな私からは隠されている。しかし、彼らを眺めている私には、1つのことだけは確実にわかる。----彼らはみな罪人である。そうした魂は、ひとりの例外もなく、「神の御怒りと断罪に値している」(第九箇条を参照)。そうした群衆の中で息づいている人々は、ひとりの例外もなく、赦されて死ぬか、さもなければ、最後の審判の日によみがえって永遠に断罪されるかの2つに1つである。

 英国全土を隅から隅まで見渡しても、私は同じことを告げるしかない。西はランズエンド岬から東はノース岬まで、----南はワイト島から北はケースネスまで、----上は王座に座る女王から、下は救貧院の乞食まで、----私たちはみな罪人である。私たち英国人は、地上の数ある帝国の中でも名だたるものである。私たちは、あらゆる海域に船団を送り、世界中の町に英国製の商品を送っている。蒸気船で大西洋の橋渡しをしている。瓦斯灯により、私たちの都市の夜を昼のようにしている。鉄道網により、英国全体を1つの大きな州にしてしまっている。ロンドンとエジンバラの間でも、電信技術により数秒で思想を交換できる。しかし、私たちのあらゆる技術や科学をもってしても、----私たちのあらゆる機械や発明をもってしても、----私たちのあらゆる陸軍や海軍をもってしても、----私たちのあらゆる法律家や政治家をもってしても、私たちは自国民の性質を改造することはできていない。わが国は今なお、神の前では罪人たちに満ちた島なのである。

 世界地図に目を向けても、やはり同じことしか云えない。どの地域を吟味するかは関係ない。私の見るところ、人の心はどこでも同じで、どこでも邪悪である。罪はアダムの子ら全員がかかっている家伝の病である。罪と悪魔が支配していないような場所は、地上のいかなる片隅にも発見されたことはない。地上の諸民族の間には広大な違いがあるが、彼らには1つの大きな共通した特徴が常に見いだされてきた。ヨーロッパでもアジアでも、アフリカでもアメリカでも、アイスランドでもインドでも、パリでも北京でも、----いずこでも人々は同じように罪という特徴を帯びている。主の目は私たちのこの地球が太陽の周囲を回っている姿を見下ろし、それが腐敗と邪悪さで覆われているのを見ているはずである。神が月面や星々、木星や土星の上で何を見ておられるか、私にはわからない。----しかし地球上では罪を見ておられることを私は知っている(詩14:2、3)。

 疑いもなく、こうした言葉遣いは、ある人々にとっては突拍子もないものに聞こえるであろう。あなたは私を行き過ぎだと考えるであろう。しかし、今から私が云うことによく注意して、私がありのままの真実な言葉を用いていないかどうか考えてみるがいい。

 では私は尋ねたい。私たちのうち、だれよりもすぐれた、最良のキリスト者たちの人生はいかなるものだろうか? それは、短所の連続でつづられた一大生涯でなくて何だろうか? 私たちの《祈祷書》のこの言葉を、日ごとに実践することでなくて何だろうか?----「なすべきことをなさざるままにし、なすべからざることをなす」。私たちの信仰の、何と微弱なことか! 私たちの愛の、何と冷たいことか! 私たちの行ないの、何と僅かなことか! 私たちの熱心の、何とちっぽけなことか! 私たちの忍耐の、何とつかの間にすぎないことか! 私たちのへりくだりの、何と貧弱なことか! 私たちの自己否定の、何と矮小なことか! 私たちの知識の、何と薄暗いことか! 私たちの霊性の、何と底の浅いことか! 私たちの祈りの、何と形式的なことか! 私たちの恵みを求める願いの、何とかすかなことか! かの最大の賢者の言葉の中でも、何にもまして賢明な言葉はこれである。「この地上には、善を行ない、罪を犯さない正しい人はひとりもいない」(伝7:20)。「私たちはみな、多くの点で失敗をするものです」(ヤコ3:2)。また、最良のキリスト者たちによってこれまでなされてきた最善の行ないはいかなるものだろうか? 結局の所それは、それ自体の値うちによって試されるとき、不完全な働きでしかないのではないだろうか? それは、ルターが云っているように、「華麗なる罪」でしかない。それには常に、多かれ少なかれ欠陥が伴っている。その動機において誤っているか、その達成において不完全である。----完全な原理からなされたものでも、完全なしかたで実行されたものでもない。人間の目はそこに何の欠点も見ないかもしれないが、神のはかりで量られるとき、それは目方の足りないことがわかり、天国の光で見られるとき、それは傷だらけのものであることが示されるであろう。それは一滴の水にも似て、裸眼には透き通って見えるが、顕微鏡下に置かれると、不純物で一杯であることが発見されるのである。ダビデの記述は文字通り正しい。「善を行なう者はいない。ひとりもいない」(詩14:3)。

 それにまた、私たちの生き方すべてに目を注ぎ、私たちがいつの日か申し開きをしなくてはならない、主なる神はいかなるお方だろうか? 「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」、という尋常ならざる表現が、このお方の最も身近に接する者たちが、この方にささげている言葉である(イザ6:3; 黙4:8)。これは、あたかも一言ではこのお方の強烈な聖さを云い尽くせないかのように聞こえる。この方の預言者のひとりは云っている。「神の目はあまりきよくて、悪を見ず、咎に目を留めることができない」*(ハバ1:13)。私たちは、御使いたちのことを気高く、人間をはるかに越えた存在であると考えているが、聖書の中ではこう告げられている。「神は……その御使いたちにさえ誤りを認められる」(ヨブ4:18)。私たちは、月や星々を光輝く壮麗な天体として賞賛しているが、こう記されている。「ああ、神の目には月さえも輝きがなく、星もきよくない」(ヨブ25:5)。私たちは天のことを被造世界の中で最も高貴で、最もきよい部分として語っているが、それらについてすら、こう記されている。「天も神の目にはきよくない」(ヨブ15:15)。それでは、私たちのうちのいかなる者であれ、このような神の目にとっては、みじめな罪人以外の何であろうか?

 確かに私たちはみな、自分について高慢な思いをいだくのをやめるべきである。自分の口に手をあてて、アブラハムとともに、「私はちりや灰にすぎません」、と云うべきである。またヨブとともに、「私はつまらない者です」、と云い、イザヤとともに、「私たちはみな、汚れた者のよう」、と云い、ヨハネとともに、「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません」、と云うべきである(創18:27; ヨブ40:4; イザ64:6; Iヨハ1:8)。《いのちの書》の全名簿の中で、「私はあわれみを受けた」、という以上のことを云える者がどこにいるだろうか? 栄えある使徒たちの一団や、敬虔な預言者たちの集いや、高貴な殉教者たちの集団は何だろうか?----それはみな、赦された罪人たち以外の何だろうか? 確かにここから引き出される結論は1つしかない。----私たちはみな大いなる罪人であり、私たちはみな大いなる赦しを必要としている。

 こういうわけで、私は云う。真のキリスト教信仰において第一のことは、自分が赦しを必要とするのを知ることなのだ、と。この言葉が、いかに正当な根拠に立っているか見てとるがいい。罪は重荷であって、取り去られなくてはならない。罪は汚れであって、きよめられなくてはならない。罪は莫大な負債であって、返済されなくてはならない。罪は私たちと天との間に立ちふさがる山であって、動かされなくてはならない。幸いなことよ、私たちの間でこれらすべてのことを感じている母親の子どもは! 天国への第一歩は、自分が地獄に値しているのを明確に見てとることにある。私たちの前には2つの選択肢しかない。----私たちは、赦されるか、永遠に悲惨なままかの2つに1つである。

 また、いかに多くの人々がキリスト教国に生きていながら、キリスト教の主目的をほとんどわかっていないか見てとるがいい。彼らが思い描くところ、教会に行くのは自分の義務を学ぶため、道徳の強い主張を聞くためであって、それ以外に何の目的もない。彼らが忘れているのは、その程度のことなら異教徒の哲学者でも告げることができたはずだ、ということである。彼らが忘れているのは、プラトンやセナカのような人々が与えていた教えは、キリスト者と自称する嘘つきや、キリスト者と自称する酔いどれや、キリスト者と自称する盗人を恥じ入らせてしかるべきものであった。彼らが学ばなくてはならないのは、キリスト教の主要な特徴となるのは、それが罪について与えている治療法だ、ということである。これこそ福音の栄光であり、何よりもすぐれた点である。それは、人間の真の姿にぴたりと当てはまっている。それは、ありのままの人間を扱っている。それは罪が人間を至らせた境遇まで下りてきて人間と相対し、そこから人間を引き上げようと申し出ている。それは人間に、その病に相当する治療法を告げている。----大いなる病に対する大いなる治療法を、----大いなる罪人のために大いなる赦しを告げている。

 私は読者であるあらゆる方々に願いたい。もしあなたがこうした事がらを一度も考えたことがなかったとしたら、今よくよく考えるがいい。あなたが自分の魂の必要を知っているか否かは、軽い問題ではない。生死に関わる問題である。私は切に願う。自分の心をよく知るように努めるがいい。腰を据えて、自分が神の前でいかなる者であるか静かに考えてみるがいい。あなたの人生のうち、ある一日の思いや、言葉や、行為を寄せ集めて、それらを神のことばという物差しで測ってみるがいい。正直に自分に判断を下して、最後の審判の日に罪に定められないようにするがいい。おゝ、願わくはあなたが自分の真の姿を見てとれるように! おゝ、あなたがヨブの祈りを祈れるようになるように。「私のそむきの罪と咎とを私に知らせてください」(ヨブ13:23)。おゝ、あなたがこの大いなる真理を見てとれるように。----すなわち、あなたが赦されない限り、あなたのキリスト教はあなたにとって何の役にも立たない、ということを!

 II. 第二のこととして私が指摘したいのは、赦されるための道である。

 この点には格別な注意を払ってほしいと思う。というのも、これほど重要な点はありえないからである。かりにあなたが赦罪と赦しを必要としているとしたら、何をあなたは行なわなくてはならないだろうか? どこへあなたは行くだろうか? いかなる方角へ向かうだろうか? すべては、この問いにあなたがいかなる答えを返すかにかかっている。

 あなたは教役者のもとに向かって、彼らに信を置くだろうか? だが彼らはあなたに赦しを与えることができない。彼らにできるのは、せいぜい、どこで赦しが見いだされるかを告げることだけである。彼らはあなたの前にいのちのパンを置くことはできるが、あなた自身がそれを食べなくてはならない。彼らはあなたに平安の道を示すことはできるが、あなた自身がそれを歩まなくてはならない。ユダヤ教の祭司はらい病人をきよめる力はなく、ただ相手をきよめられたと宣言することしかできなかった。キリスト教の教役者にも罪を赦す力はない。----彼は単に、赦された者らがいかなる者であるかを宣言し、宣告することができるだけである。

 あなたは礼典や典礼のもとに向かって、それらに信を置くだろうか? だがそれらは、いかに勤勉に用いようとも、あなたに赦しを与えることはできない。礼典によって、それらを正しく用いる者らのうちにある「信仰は確証され、恵みは増し加えられる」(第二十七箇条を参照)。しかし、それらは罪人を義と認めることはできない。そむきの罪を取り去ることはできない。あなたは一生の間、毎日曜、聖卓のもとに集うことはできるかもしれないが、そのしるしをはるかに越えて、そこで象徴されているものを見上げない限り、あなたは結局自分の罪の中で死ぬであろう。あなたは、規則正しく毎日の礼拝に集えるかもしれないが、もしあなたがそれによって自分自身の義を打ち立てようなどと、ほんの少しでも考えているとしたら、あなたは単に日々神から遠ざかっているにすぎない。

 あなたは自分自身の行ない努力、自分の美徳や、自分の善行、自分の祈り、自分の施し物に信を置くだろうか? それらは決して天国への入場権を買い取ることにはならない。それらは決して神に対するあなたの負債の支払いにはならない。それらはみな、それ自体が不完全で、単にあなたの咎を増し加えるだけである。最良の状態であっても、それらのうちには何の功績も価値もない。主イエス・キリストは明言しておられる。「自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです……』と言いなさい」、と(ルカ17:10)。

 あなたは自分自身の悔い改めや生活改善に信を置くだろうか? あなたは過去のことを非常に残念に思っている。今後は、もっと良いことをしようと望んでいる。神があわれみ深くあられることを望んでいる。悲しいかな、もしあなたがこれによりかかるならば、あなたは折れた葦を支えにしているのである! 裁判官は、盗人が過去の非を残念に思っているからといって、相手を赦したりはしない。きょうの悲しみによって、昨日の罪という事実がぬぐい去られることはない。たとえ海のように涙を流したとしても、それで不安にかられた良心をきよめ、それに平安を与えることは決してないであろう。

 それでは人はどこに赦罪を求めなくてはならないだろうか? どこに赦しは見いだされるべきだろうか? 確実かつ平明な道が1つある。その道に私たちは、あらゆる求道者の足を導きたいと望むものである。

 その道とは、単純に主イエス・キリストをあなたの《救い主》として信頼することである。それは、あなたの魂を、そのもろもろの罪とともに、何の留保もつけずに、キリストに投げかけること、----自分自身のわざや行ないに依存するのを、全体としても、部分的にも、完全にやめること、----あなたの希望の根拠としては、キリストのみわざの他いかなるわざにも頼らず、キリストの義の他いかなる義にも頼らず、キリストの功績の他いかなる功績にも頼らないことである。こうした道筋に従うならば、あなたの魂は赦罪を受ける。ペテロは云う。「イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししています」(使10:43)。アンテオケでパウロは云っている。「あなたがたに罪の赦しが宣べられているのはこの方によるということを、よく知っておいてください。……すべての点について、信じる者はみな、この方によって、解放されるのです」(使13:38)。コロサイ人に宛ててパウロはこう書いている。「この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています」(コロ1:14)。

 主イエス・キリストは、大いなる愛と憐れみにより、私たちの身代わりに十字架上で死を味わうことを通して、完全にして完璧な罪の償いを成し遂げてくださった。十字架上で主は、ご自分を私たちのためのいけにえとしてささげ、私たちが受けてしかるべき神の御怒りがご自分の頭上に下ることをよしとしてくださった。私たちの罪のために、私たちの《代理人》として、主はご自分を捨て、----正しいお方が正しくない者のために、罪なきお方が咎ある者のために、----苦しみを受け、死なれた。それは主が、私たちを違反された律法ののろいから解放し、受けたいと願う者ならだれにでも完全な赦しを与えるためだった。そして、そのようにすることによって、イザヤが云うように、----主は私たちの罪をになった。バプテスマのヨハネが云うように、----主は罪を取り除いた。パウロが云うように、----主は私たちの罪をきよめ、罪を取り除いた。ダニエルが云うように、----主は罪を終わらせそむきをやめさせた(イザ53:11; ヨハ1:29; ヘブ1:3; 9:26; ダニ9:24)。

 そして今、主イエス・キリストは父なる神によって、《君》また《救い主》として証印を押され、任命されて、罪の赦しを得たいと願うすべての人々に赦しを与えてくださる。死とハデスとのかぎは主の御手に握られている。天国の門の管理は主の肩にかかっている。主ご自身が門であり、主を通って入る者はみな救われるのである(使5:31; 黙1:18; ヨハ10:9)。

 一言で云えばキリストは、私たちが受けたいと願いさえするなら受けられる、完全な赦しをかちとったのである。主は、私たちが神と和解させられるために必要だったすべてを成し遂げ、すべてを支払い、すべての苦しみを受けた。主は私たちにまとわせる義の衣を与えてくださった。私たちをきよめる生ける水の泉を開いてくださった。私たちと父なる神の間にあるあらゆる障壁を取り除き、いかに悪逆な者も立ち返ることのできる道を作ってくださった。すべての準備は整えられており、罪人は単に信じて救われ、食べて満足し、尋ねて受け入れられ、洗ってきよめられるだけでよいのである。

 そして信仰が、単純な信仰こそが、あなたや私が赦されるために求められる唯一のことである。私たちが、罪人として自分の罪を携えたまま、信仰によってイエスのもとに行くこと、----イエスに信頼し、----イエスにより頼み、----イエスによりかかり、----イエスにゆだね、----自分の魂をイエスにまかせ、----他のあらゆる望みを打ち捨てて、ただイエスだけにすぎりつくこと、----これだけが、神が求めておられるすべてなのである。人がこのことをしさえするなら、その人は救われる。その人の咎は完全に赦され、その人のそむきの罪は全く取り除かれる。そのように信頼するあらゆる人は完全な赦しを受け、完璧に義と認められる。その人の罪はきれいに消え失せ、その人の魂は、それまでいかに悪と咎に彩られてきたとしても、神の前では義とみなされる。

 信仰こそ唯一求められていることであって、知識ではない。人は、あわれで無学な罪人で、書物のことなどほとんど知らないかもしれない。しかしもしその人が十字架の根元を見いだすだけのことを見てとり、赦しを求めてイエスに信頼するなら、私は聖書の権威によって保証するが、その人が天国を取り逃がすことはない。キリストを知ることは、あらゆる信仰上の知識の土台石である。

 私は云う。信仰であって、回心ではない、と。人は、最初に福音を聞くときまで、広い道をずっと歩き続けているかもしれない。しかし、もしそれを聞くことによって目を覚まし、自分の危険を感じ、救われたいと思うなら、キリストのもとに行くがいい。一刻も早く行くがいい。そのように行くことそのものが、回心の始まりなのである。

 もう一度云うが、信仰であって、聖潔ではない。人は、自分が罪の固まりで、救われる価値などないと感じるかもしれない。しかし、その人は、もっとましな人間になるまでと箱舟の外でぐずぐずしていてはならない。今の自分のまま、一刻も早くキリストのもとに行くがいい。後になれば、その人は聖くなるはずである。

 私は、このページを読んでいるあらゆる方々に求めるものである。いかなることがあろうと、この強固な地盤から動かされてはならない、と。----キリストに対する信仰こそ、私たちが義と認められるために必要な唯一のことである。自分の魂の平安を大切に思うなら、ここに堅く立つがいい。私の目にする多くの人々が暗闇の中を歩き、何の光も持っていないのは、信仰とはいかなることかについて混乱した考え方をしているからである。彼らは、救いに至る信仰が愛によって働き、聖潔を生み出すものであると耳にして、それらすべてが自分の内側にはすぐには見いだせないと、自分には何の信仰もないのだと考えてしまう。彼らが忘れているのは、こうした事がらは信仰の成果であって、信仰そのものではないということ、また、そうしたものがすぐに見てとれないからといって自分が信仰を持っているかどうか疑うのは、地面に木を植えたその日に実が生っていないからといって、その木が生きているかどうかを疑うのと同然だ、ということである。私はこのことを心に堅く刻んでおくよう命ずる。あなたの赦しと義認に関しては、求められているのはただ1つであり、それはキリストに対する単純な信仰なのである。

 生まれながらの心がこの教理を嫌うことは私も重々承知している。それは人間の宗教観とは真っ向から対立している。それは人間に誇る余地を何も与えない。人間の考え方は、自分の手に代価を持ってキリストのもとに行くことである。----自分の真面目さ、----自分の道徳、----自分の悔い改め、----自分の善良さ、----それらにより、いわば、自分の赦しと義認を買い取ろうとするのである。御霊の教えは全く異なっている。それは何よりもまず信ずることである。だれであれ、信ずる者はひとりとして滅びることはない(ヨハ3:16)。

 ある人々は、このような教理が正しいはずがないと云う。なぜなら、それが天国への道をあまりにも簡単にしてしまうからだ、と。残念ながら、そうした人々の多くは、真実が語られたならば、この教理が困難すぎると思うのではないだろうか。実は私の信ずるところ、ヨーク大聖堂のような大聖堂を築くために一財産を投げ出したり、火刑柱に赴いて焼き殺されたりすることよりもはるかに難しいのは、「律法の行ないによらず信仰によって義と認められる」ことを徹底的に受け入れ、恵みによって救われた罪人として天国に入ることなのである。

 ある人々は、この教理がたわごとで熱狂主義だと云う。私は答えよう。まさにそれこそ、この教理について千八百年前に云われたことであって、当時と同じく、それは無駄な揚げ足取りである、と。このような非難が正しいどころか、この教理が神から出たものであることは、一千もの事実によって証明できるのである。確かに、他のいかなる教理にもまさって強大な影響を世界に及ぼしてきたのは、この、キリストに対する信仰を通して無代価で赦しが得られるとの単純な宣告にほかならない。

 これこそ、使徒たちが新しい宗教を宣べ伝えるために異邦人たちのもとに出ていったとき、彼らの力であった栄光の教理である。彼らは、数人の貧しい漁師たちで、地上の蔑まれた片隅の出身であった。その彼らが世界をひっくり返したのである。彼らはローマ帝国の面を一変させた。彼らは異教徒たちの神殿に閑古鳥を鳴かせ、偶像礼拝の全体系を瓦解させた。だが、彼らがこれらすべてを行なった武器は何だっただろうか? それは、キリストに対する信仰を通して得られる無代価の赦しであった。

 これこそ、三百年前のヨーロッパに、かのほむべき宗教改革の時代、光をもたらした教理であり、徒手空拳の修道僧マルチン・ルターをして、ローマ教会全体を揺り動かさせた教理である。彼の説教と著述を通して、人々の目からはうろこが落とされ、彼らの魂をつなぐ鎖は緩められた。だが、彼にその力を与えた "てこ" は何だっただろうか? それは、キリストに対する信仰を通して得られる無代価の赦しであった。

 これこそ、わが英国国教会を前世紀の半ばに復興させた教理である。それは、ホイットフィールドや、ウェスレー兄弟や、ベリッジや、ヴェンが、全国を覆っていた、ひどい「鈍い心」[ロマ11:8]を打ち砕き、人々を覚醒させて考えさせた時代のことである。彼らは、一見するとほとんど成功の見込みなどなかったにもかかわらず、大いなる働きを始めた。彼らは、人数は少なく、富者や権力者からの励ましをほとんど受けずに働き始めた。しかし、彼らは大成功をおさめた。だがなぜだろうか?----それは彼らがキリストに対する信仰を通して得られる無代価の赦しを宣べ伝えたからである。

 これは、今日における地上のいかなる教会にとっても、真の力となっている教理である。教会を生きたものとするのは、職制でも、寄付金でも、典礼式文でも、学識でもない。キリストを通して得られる無代価の赦しが、忠実に教会の講壇から宣言されていさえすれば、ハデスの門もその教会に打ち勝つことはない。だが、それを葬り去ったり、押し隠したりするとき、その教会の燭台はすみやかに取り去られるであろう。サラセン人が、かつてはヒエローニュムスや、アタナシオスや、キュプリアーヌスや、アウグスティヌスが著述や説教を行なっていた土地に侵入したとき、彼らがそこに主教たちや典礼式文を見いだしたことは疑いない。しかし、残念ながら、彼らは無代価の罪の赦しが全く宣べ伝えられていないのを見いだしたのではなかろうか。それで彼らは、そうした土地から教会を一掃してしまったのである。そうした教会は生きた原理を持たない屍となっていた。それゆえ倒れたのである。私たちは決して忘れないようにしよう。教会にとって最も輝かしい時代は、「十字架につけられたキリスト」が最も称揚されている時代だということを。初期のキリスト者たちが集まって、イエスの愛について聞いていた洞穴や洞窟は、神の前では、ローマの聖ペテロ大聖堂にもまさる栄光と美に満ちていた。今日も、赦しを得るための真の道が罪人たちに差し出されているならば、それがいかに粗末な納屋であろうと、ケルンやミラノの大聖堂にはるかにまさって栄誉ある場所なのである。教会が有用なのは、それがキリストを通しての無代価の赦しを称揚する限りにおいてである。

 この教理は、他のいかなる教理にもまして、サタンの王国を倒壊させることのできる強大な兵器である。グリーンランド人は、モラヴィア派の人々が天地創造や人間の堕落について語っている限りはまるで無感動であった。だが彼らが贖いの愛について耳にしたとき、彼らの凍てついた心は春先の雪のように溶かされた。礼典による救いを説教し、教会をキリストよりも称揚し、《贖罪》の教理を押し隠している限り、悪魔はほとんど注意を払わない。----彼の持ち物は安全である。しかし、完全なキリストと、キリストに対する信仰による完全な赦しを説教するや、サタンは激怒する。自分の残り時間が少なくなったことに気づくからである。ジョン・ベリッジの云うところ、彼が道徳だけを語り続け、それ以外何も語らずにいたとき、ついに彼は自分の教区に道徳的な人間がひとりもいないことに気づいたという。しかし、彼が自分の計画を変更し、罪人に対するキリストの愛と、信仰による無代価の救いを説教し出したとき、ひからびた骨々は音を立て始め、神に対する大いなる立ち返りが起こったのである。

 この教理こそ、不安に満ちた良心に平安をもたらし、惑乱する魂に安らぎをもたらすであろう唯一の教理である。人は、自分の霊的状態について眠り込んでいる限り、それなしでも、きわめて順調にやって行くことができる。しかし、いったんそのまどろみから目を覚ますと、《贖罪》の血と、キリストを信ずる信仰によって得られる平安のほか、何をもってしてもその人をなだめることはない。この教理を堅く握ることもなしに、いかにキリスト教の教役者となることを引き受けられる人がいるのか、私には全く理解できない。私としては、云えることはただ1つ、もし私が、自分の伝えるべきものとして無代価の赦しという使信を有していなかったとしたら、自分の職務を何よりも悲痛なものと考えるであろう。病人や、死にかけている人々を訪問するのは、もし私が、「見よ。神の小羊。----主イエス・キリストを信じなさい。そうすればあなたも救われます」、と云えないとしたら、実にみじめな働きであろう。キリスト教の教役者の片腕は、キリストに対する信仰を通して得られる無代価の赦しという教理である。この教理がありさえすれば、私たちには力がある。私たちは決して人々の魂に善を施すことに絶望しないであろう。だが、この教理を取り去られたなら、私たちは衰え弱くなる。祈りを読み上げたり、一連の形式的な勤めを繰り返すことはできるかもしれないが、私たちは髪の毛を剃り上げられたサムソンのようなものである。私たちの力は去っている。魂が私たちによって益を受けることはなく、善が施されることはないであろう。

 私は、あらゆる読者に向かって、ここまで語られたことに注意を払うよう勧めたい。私は、キリストに対する信仰を通して得られる無代価の赦しを恥とは思わない。ある人々がこの教理に反対して何と云おうと関係ない。私がそれを恥と思わないのは、その成果が自ら語っているからである。それは、他のいかなる教理もできないことを行なってきた。それは、法律や刑罰が作り出せなかったような道徳的変化を生み出してきた。----判事や警官が生じさせようとして無駄な努力をしてきたような変化、----工科大学や世俗の知識が生み出そうとして全くの無力を露呈したような変化を生み出してきた。ベスレヘム病院の凶暴な精神患者が親切な扱いを受けるや突然穏やかになったように、それと全く同じく、最悪の、また最もかたくなな罪人たちも、イエスが彼らを愛し、いつでも赦そうとしていることを聞かされると、しばしば幼子のようになってきた。私は、パウロがそのガラテヤ人への手紙のしめくくりにあたって、この厳粛な感情のほとばしりを記しているのがよく理解できる。「私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません」(ガラ6:14)。信仰による義認の教理を置き去りにするとき、そのキリスト者の頭からは、実際に冠が転がり落ちているのである。

 あなたは私が詳しく語ってきた真理を自分が本当に受け入れているか、またそれを経験的に知っているかどうか自問すべきである。イエス、そしてイエスに対する信仰こそ、御父に至る唯一の道である。それ以外の道によってパラダイスまで登っていこうとする人は、やがて自分がすさまじい思い違いをしていたことに気づくであろう。いかなる人も、不滅の魂のためには、私がここまで微力を尽くして語ってきた土台以外の土台を据えることはできない。ここに自分を賭ける人は安全である。だが、この岩から離れる人は、立つべき基盤をまるで持たない。

 あなたは真剣に考えるべきである。選択の余地があるとしての話だが、あなたが出席するのを常としている教会では、いかなる種類の牧会がなされているだろうか? 実際あなたには注意深くなるべき理由がある。人が何と云おうと、どの教会に集っても同じことだなどということはない。残念ながら、多くの礼拝所では、あなたがいかに長いこと十字架につけられたキリストを探し求めても、決して見いだせないのではなかろうか。キリストは外的な儀式の数々によって埋没しているか、----洗礼盤の後ろに押しやられているか、----教会の背後で影が薄くなっている。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです」(ヨハ20:13)。 自分の落ち着き先については気を遣うがいい。すべては、この単純な試金石で試すがいい。「イエスと無代価の赦しはここでは宣言されているだろうか?」 そこには快適な会衆席があるかもしれない。----上手な聖歌隊がいるかもしれない。----学識のある説教がなされているかもしれない。しかし、もしキリストの福音がその場所全体の太陽でも中心でもなければ、そこにあなたの天幕を張ってはならない。むしろイサクとともに云うがいい。「火とたきぎはありますが……羊は、どこにあるのですか」、と(創22:7)。これがあなたの魂のための場所でないようによくよく確かにしておくがいい。

 III. 第三のこととして私は、赦されたいと願っているすべての人々を励ましたい。

 私があえて確信するところ、この論考を読む方々の中には、自分がまだ赦された魂となっていないと感じている人々がいるであろう。私が心から願い、また祈っているのは、そのような人が今すぐ自分の赦しを求めるようになることである。そして私はその人を喜んで助けたいと思う。その人に向かって、いかなる種類の赦しが差し出されているのか、また、いかに栄光ある特権が手の届くところにあるのかを示したいと思う。

 それでは、よく耳を傾けてほしい。私はあなたに、福音の赦しという富を示して見せよう。私もその豊かさを十二分に描写することはできない。その富は実際測りがたいものである(エペ3:8)。しかし、たとえあなたがそれに背を向けるとしても、最後の審判の日にあなたが、それがいかなるものか全然知らなかった、と云うことはできないようにしたいと思う。

 まず1つのこととして、あなたの前に置かれている赦しが、広大な赦しであることを考えてみるがいい。《平和の君》ご自身が何と宣言しておられるか聞くがいい。「人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます」(マコ3:28)。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる」(イザ1:18)。しかり。たとえあなたの罪過があなたの髪の毛の数や、天の星々や、森の木の葉や、草原の葉や、浜の真砂よりも多かったとしても、それでもそれらはみな赦されることができる! ノアの洪水の際に、水がいかなる高い山々の頂も覆い隠してしまったように、イエスの血はあなたのいかに著しい罪をも覆い隠すことができる。「彼の血はすべての罪から私たちをきよめます」*(Iヨハ1:7)。たとえそれらが、あなたにとっては金剛石の切っ先で書きつけられているように思えても、それらはみな、この尊い血によって、神の記憶の書からかき消されることができる。パウロは、コリント人たちがかつて犯していた忌まわしいことを長々と列挙した後で、こう云っている。「あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし……あなたがたは洗われ……たのです」(Iコリ6:11)。

 さらに、それは十分にして完全な赦しである。それは、ダビデがアブシャロムに与えた赦しのようなものではない。----家に帰ることは許すが、完全な寵愛は回復させないようなものではない(IIサム14:24)。それは、ある人々が思い描くような、単に刑罰を免除し、後はほったらかしにするようなものではない。それは完全な赦しであって、そのような赦しを得た者は、あたかも今まで何1つ罪を犯したことのない義人であるかのようにみなされるのである! その人の咎は帳消しにされている。それらは、東が西から遠く離れているように、その人から遠く離される(詩103:12)。その人はいかにしても罪に定められることはない。御父はその人がキリストに結び合わされているのをごらんになって、それをお喜びになる。御子はその人がご自分の義をまとっているのを見て、こう云われる。「あなたのすべては美しく、あなたには何の汚れもない」(雅4:7)。このようになさる神はほむべきかな! 私が真実信ずるところ、もし私たち全員の中で最良の者に、たった1つだけ汚れた点があり、それを自分でぬぐい取らなくてはならなかったとしたら、その人は永遠のいのちを取り逃すことになるであろう。もしアダムの子らのうち最も聖い者が、小指の先1つを残して天国に入り、あとは自分自身により頼んで中に入ろうとしたなら、私の確信するところ、その人は決して御国に入れないであろう。もしもノアや、ダニエルや、ヨブが、たった一日分の罪でも洗い落とさなくてはならなかったとしたら、彼らは決して救われなかったであろう。神はほむべきかな! 私たちの赦しという件においては、人間がすべきことは何も残されていない! イエスがすべてを行なっておられ、人間はただ、からっぽの手を差し出して受け取ればいいのである。

 さらに、それは無代価で無条件の赦しである。それは、アドニヤに対するソロモンの赦しのように、「もし」という重荷を負ってはいない。もし「彼がりっぱな人物であれば」(I列1:52)。また、あなたは手に代価を携えて行くことも、あわれみを受けるにふさわしい人格を錬り上げてから行くことも必要ない。イエスが要求している人格はただ1つ、自分が罪深く、悪い人間であると感じていることだけである。イエスはあなたに、「代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え」、と招き、「いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい」、と宣言している(イザ55:1; 黙22:17)。アドラムの洞穴にいたダビデのようにイエスは、困窮していると感ずる者、負債のある者をみな受け入れ、だれをも拒まない(Iサム22:2)。あなたは罪人だろうか? あなたは《救い主》を求めているだろうか? ならば、ありのままのあなたでイエスのもとに行くがいい。そうすれば、あなたの魂は生きるであろう。

 また、それは差し出されている赦しである。私が読んだことのある地上の王の中には、いかにあわれみを示すべきか知らなかった者たちがいた。男も女も容赦しなかった英国のヘンリー八世や、----ダグラスという者に何の恩顧も示さなかったスコットランドのジェームズ五世がそうである。王の《王》は彼らとは違う。この方は人々に向かって、私のもとに来て赦されよ、と呼びかけている。「人々よ。わたしはあなたがたに呼ばわり、人の子らに声をかける」(箴8:4)。「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い」(イザ55:1)。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」(ヨハ7:37)。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタ11:28)。あなたや私にとっては、赦しについて聞けるだけでも大きな慰めのはずである。だが、イエスご自身が私たちを招く御声を耳にし、イエスご自身が私たちに向かって差しのべている御手を目にし、----罪人が《救い主》を求める前から、《救い主》が罪人を求めているのを知ること、----これこそ励ましであり、これこそ実に強い慰めである!

 また、それは快く与えられる赦しである。私が聞いたことのある赦しの中には、長々となされた嘆願に答えてようやく与えられたものや、非常に根気強く催促された末に不承不承与えられたものがある。英国王エドワード三世は、カレーの市民たちが端綱を首にかけて自分のもとに出頭し、自分の女王が彼らのために膝を屈めてとりなしをするまでは、彼らを赦してやろうとはしなかった。しかし、イエスは「いつくしみ深く、赦しに富」んでおられる(詩86:5)。「いつくしみを喜ばれる」(ミカ7:18)。審きは、そのみわざとしては「異なっている」。イエスは、ひとりでも滅びることを望まない(イザ28:21; IIペテ3:9)。すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられる(Iテモ2:4)。イエスは、不信仰を続けるエルサレムを見下ろして涙された。イエスは云われる。「わたしは誓って言う。……わたしは決して悪者の死を喜ばない。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。……なぜ、あなたがたは死のうとするのか」(エゼ33:11)。あなたも私も、大胆に恵みの御座のもとに出てきてよい。その座に着いておられるお方は、私たちの方で望むよりはるかにまさって快く進んであわれみを与えようとしておられるのである(ヘブ4:16)。

 それだけでなく、それは実証済みの赦しである。何百万何千万もの人々が、キリストのあわれみの御座で赦しを求めてきたが、そこであわれみを求めたのは無駄だった、などと云って戻ってきた者はひとりもいない。ありとあらゆる名前と民族の罪人たち----ありとあらゆる種別、類別の罪人たち----が、その囲いの門を叩いてきたが、中に入ることを拒まれた者はひとりもいない。ゆすり屋のザアカイも、遊女のマグダラのマリヤも、迫害者サウロも、自分の主を否んだペテロも、《いのちの君》を十字架につけたユダヤ人も、偶像礼拝者のアテネ人も、姦淫を犯していたコリント人も、無知蒙昧なアフリカ人も、血に飢えたニュージーランド土人も、----すべてが自分の魂をキリストの与える赦しの約束にゆだねて、ひとりたりとも裏切られることはなかった。もしも福音が私たちの前に置いている道が、新奇な、だれも通ったことのない道だったとしたら、私たちが心ひるむのを感じても当然かもしれない。しかし、そうではない。それは昔からの通り道である。多くの巡礼たちの足で踏み固められてきた通り道、その足跡が一方にしか向かっていない通り道なのである。キリストのあわれみの宝庫は決して空になったことがない。生ける水の泉は決して枯渇したことがない。

 それだけでなく、それは今すぐ与えられる赦しである。イエスを信ずるすべての人は、あらゆることから、たちどころに解放される(使13:39)。弟息子が父親の家に戻ってきたその日に、彼は最上の着物を着せられ、指輪をはめられ、靴をはかされた(ルカ15)。ザアカイは、イエスを迎え入れたその日に、この慰めに満ちたことばを耳にした。「きょう、救いがこの家に来ました」(ルカ19:9)。ダビデは、「私は主に対して罪を犯した」、と口にしたその日に、「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった」、とナタンから告げられた(IIサム12:13)。あなたが最初にキリストのもとに逃れ行くその日に、あなたの罪はみな取り除かれる。あなたの赦しは、何年もしなければ手に入らないような、遠くにあるものではない。それはすぐ手の届く所にある。あなたの身近に、あなたのそば近くに、ただ授けられるばかりになっている。嘘ではない。その瞬間にあなたのものとなるのである。「信じる者はさばかれない」(ヨハ3:18)。その人は、「さばかれないことになる」、とも、「やがては、さばかれなくなる」、とも云われておらず、今の時点で、「さばかれない」のである。その人が信じた時点から、有罪の宣告は消え失せるのである。「信じる者は永遠のいのちを持つ」(ヨハ3:36)。その人は、「持つことになる」、とも、「やがては持つ」、とも云われておらず、今の時点で「持っている」のである。永遠のいのちは、あたかもその人がいま天国にいるかのように確実にその人のものである。その人自身としては、それほどはっきりそうとは思えないかもしれないが、それは全く関係ない。信仰者にとって赦しとは、最後の審判の日の方が、最初に信じたその時よりも近くなっているようなものではない。決してそのような考え方をしてはならない。その人の罪のからの完璧な救いは、年を追うごとにだんだんと近づいてくる。だが、その人の赦しと義認について、また罪の咎からの解放については、その人が最初に自分をキリストに任せた瞬間から、完成されたわざなのである。

 最後に、そして最も素晴らしいことに、それは永遠の赦しである。それは、シムイに与えられた赦しのようなものではない。----しばらく立つと無効になり、取り消されるようなものではない(I列2:9)。いったん義とみなされたならば、あなたは永遠に義とみなされている。いったんいのちの書に書き記されたならば、あなたの名前は決して削除されることはない。神の子どもたちの罪は、海の深みに投げ入れられていると云われている。----見つけようとしても、それはなく、----二度と思い出されることはなく、----神のうしろに投げやられると云われている(ミカ7:19; エレ50:20; 31:34; イザ38:17)。ある人々の思い描くところ、彼らはある年に義と認められたかと思うと、翌年には罪に定められることがありえるらしい。----いったんは子とされても、次第に赤の他人となり、----初めのうちは御国の世継ぎだが、最後には悪魔のしもべとなり果てることがありえるらしい。私はこうしたことを聖書の中に見いだすことができない。----あのニュージーランド土人がローマカトリックの司祭に向かって、「この本にはそう書いてありませんがのう」、と云ったのと同じである。私には、それは福音の良き知らせをくつがえし、その慰めを根底から引き裂くものと思われる。私の信ずるところ、イエスが差し出している救いは永遠の救いであって、その血潮によって証印を押された赦しは決して取り消されることはない。

 私はあなたの前に、あなたに差し出されている赦しの性質を示してきた。私はあなたにそのごく一部しか告げられなかった。というのも私の言葉は、私の欲するところよりも貧弱なものだからである。その半分も語られてはいない。その大きさは、私のいかなる説明よりもはるかに大きい。しかし、私はあなたに、それが求めるに値するものであるとわかるだけのことは述べたと思う。いま私が最も願いとするところは、あなたがそれを自分自身のものとするよう努力しはじめることにほかならない。

 恐れなく死を待ち望み、疑いなく審きを待ち望み、心沈むことなく永遠を待ち望めることは、あなたにとってどうでもいいことだろうか? この世があなたの手からすり抜けつつあるのを感じ、墓があなたを迎え入れようと待ちかまえているのを目前にし、死の影の谷があなたの目の前に開けていくときも不安にならずにいられるのは、どうでもいいことだろうか? かの大いなる最後の清算の日と、御座と、数々の本と、《審き主》と、一同に会した世界と、秘密の暴露と、最後の宣告のことを考えても、それでも、「私は安全だ」、と感じられることは、どうでもいいことだろうか? これこそ赦された魂の分け前であり、これこそその特権なのである。

 そのような人は、岩の上に立っている。神の御怒りの雨が降ってきて、洪水がやって来て、風が吹くときも、その人の足は滑らず、その人の住まいはびくともしない。

 そのような人は、箱舟の中に入っている。最後のすさまじい氾濫が地の面のあらゆるものを流し去るときも、それはその人には近づかない。その人はつまみ上げられ、それらすべての上を無事に運ばれていく。

 そのような人は、隠れ家の中にいる。神が立ち上がって地上を荒々しく審くとき、また人々が岩や山々に向かって自分たちの上に倒れかかり自分たちを覆ってくれと呼び求めるときも、その人は《永遠の腕》によって抱きかかえられ、嵐はその人の頭上を過ぎていく。その人は、「全能者の陰に宿る」(詩91:1)。

 そのような人は、逃れの町の中にいる。兄弟たちの告発者[サタン]も、その人には何の非難を浴びせることもできない。律法もその人を罪に定めることはできない。その人と血の復讐をする者との間には壁がある。その人の魂の敵どもは、その人を傷つけることができない。その人は安全な聖所の中にいるのである。

 そのような人は、富んでいる。その人は、世界がどう変わっても影響されることのない富を天国に有している。その富にくらべれば、ペルーもカリフォルニアも無でしかない。その人は、いかに富裕な商人や銀行家をもねたみはしない。その人は、銀行紙幣やソヴリン金貨が無価値になるときも、何の影響も受けないような分け前を有している。その人は、ヴェネツィアの宝庫を見せられたときのスペイン人大使のように云うことができる。「わが《主人》の宝物庫には底がありませんぞ」。その人はキリストを有しているのである。

 そのような人には、確かな保証がある。その人は、起こりかねないいかなることにも備えができている。何事もその人を傷つけることはできない。銀行は倒産し、政府は転覆するかもしれない。飢饉や疫病がその人の周囲で荒れ狂うかもしれない。病や悲しみがその人自身の炉辺を訪れるかもしれない。しかし、それでもその人はすべてに備えができている。----健康に対する備えも、病気に対する備えも、----涙に対する備えも、喜びに対する備えも、----貧困に対する備えも、裕福に対する備えも、----生に対する備えも、死に対する備えもできている。その人はキリストを有しているのである。その人は赦された魂なのである。まことに、「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は」(詩32:1)。

 もしだれかがこれほど素晴らしい救いをないがしろにした場合、どうして逃れることができるだろうか? なぜあなたは、いますぐその救いをつかみとり、「お赦しください、私をもお赦しください、おゝ、わが《救い主》!」、と云わないのだろうか? もし私があなたの前に示してきた道があなたを満足させないとしたら、あなたは何を持とうというのだろうか? 扉がまだ開いているうちに来るがいい。求めるがいい。さらば与えられるであろう。

 IV. 最後のこととして私は、この論考を読んでいる方々に、赦しを見いだした人々が帯びているいくつかの目印を示したい。

 この点を抜きにするわけにはいかない。あまりにも多くの人々が、人に示せる何の証拠もないのに、自分は赦されていると当て込んでいる。少なからぬ数の人々が----自分ではそう思えなくとも----明らかに天国に向かう途上にいるにもかかわらず、自分が赦されているなどとは考えられないでいる。私は喜んである人々のうちには希望をかき立てたいし、別の人々のうちには自己省察の思いをかき立てたい。そして、それをするために、私は赦された魂に伴う主要な目印を順々に提示していきたいと思う。

 (a) 赦された魂は罪を憎む。彼らは、私たちの聖餐式礼拝の言葉を心の底から口にすることができる。「われらが過ちの記憶はいと重く、その重荷は耐えがたし」。罪は彼らを咬んだ蛇である。いかにして彼らは、おぞけを振るってそれから身を引かずにいられようか? それは彼らを永遠の死の瀬戸際まで追いやった毒である。いかにして彼らは、敬虔な嫌悪をもってそれを厭わしく思わずにいられようか? それは彼らをエジプトで過酷な奴隷状態に縛りつけておいた敵である。いかにして彼らは、それを思い出すだけでも苦々しい心にならずにいられようか? それは彼らが今なお身に残している斑痕や傷跡のもととなった病、今なおほとんど回復していない病なのである。彼らは当然それをひどく恐れ、それから逃れ、その力から完全に解放されることを切望するに違いない! シモンの家に来た女が、いかにさめざめとイエスの御足に涙をしたたらせたか思い出すがいい(ルカ7:38)。エペソ人たちがいかに公に自分の邪悪な書物を焼き捨てたか思い出すがいい(使19:19)。パウロがいかに自分の若い頃のそむきの罪を嘆いたか思い出すがいい。「私は……使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです」(Iコリ15:9)。もしあなたと罪が友人同士なら、あなたと神はまだ和解していない。あなたは天国にふさわしくない。というのも天国のこの上もない素晴らしさの主たる部分の1つは、いかなる罪もない、ということにあるからである。

 (b) 赦された魂はキリストを愛する。これこそ、そうした人々が、他に云えることが何1つなくとも、確実に云えることである。----彼らはキリストを愛している。キリストのご人格、その職務、そのみわざ、その御名、その十字架、その血潮、そのみことば、その模範、その日、その典礼、----すべてが、そのすべてが赦された魂にとっては尊いものである。キリストを最も尊び重んずる牧会こそ、彼らが最も喜びを感ずる牧会である。キリストで最も満ちている書物こそ、彼らの思いにとって最も喜ばしいものである。彼らが地上で最も心引き寄せられる人々は、キリストの何かが見てとれる人々である。その御名は注がれる香油のようであり、彼らの耳には格別に甘やかに響く(雅1:3)。彼らは、そのように感じないではいられないと告げるであろう。キリストは彼らの《贖い主》、彼らの《羊飼い》、彼らの《医者》、彼らの《王》、彼らの強い《解放者》、彼らの恵み深い《導き手》、彼らの希望、彼らの喜び、彼らの《すべて》なのである。キリストがおられなければ、彼らはあらゆる人の中で最もみじめな者となるであろう。彼らは瞬時も迷わず、自分たちの信仰からキリストを取り除くくらいなら、空から太陽を取り去ってほしい、と云うであろう。「主」や、「全能者」や、「神格」や、そういった類のことについて語りながら、キリストについては一言も云うことがない人々は、到底正しい精神状態にはない。聖書は何と云っているだろうか? 「子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬いません」(ヨハ5:23)。「主を愛さない者はだれでも、のろわれよ」(Iコリ16:22)。

 (c) 赦された魂はへりくだっている。彼らは自分の有しているもの、自分が望みをかけているもののすべてを、無代価の恵みに負っていることを忘れることができない。それが彼らをへりくだらせておく。彼らは火から取り出された燃えさし、----自分では何の返済もできなかった負債者、----受けるに値しないあわれみがなければ、永遠に牢獄にとどまっているしかなかった囚人、----《羊飼い》によって見いだされなければ滅びる寸前であった迷える羊である。それでは、彼らには高ぶるべき何の権利があるだろうか? 高慢な聖徒たちがいることは私も否定しない。しかし、このことだけは云いたい。----そうした者らは神の全被造物の中で最も首尾一貫しない存在であり、神の子ら全員の中で最もつまずくこと多く、最も非常な苦痛をもって自分を刺し通しがちな者らである、と。赦しは、それよりはずっとヤコブのような精神を生み出すことが多いものである。「私はあなたがしもべに賜わったすべての恵みとまことを受けるに足りない者です」(創32:10)。あるいは、彼らはヒゼキヤのような精神をしている。「私は私のすべての年月、……静かに歩みます」(イザ38:15)。あるいは、使徒パウロのような精神をしている。「すべての聖徒たちのうちで一番小さな私----罪人のかしら」(エペ3:8; Iテモ1:15)。あなたや私に、自分自身のものと呼べるものが罪と弱さのほか何もないとき、へりくだりほど似つかわしい衣はないに違いない。

 (d) 赦された魂は聖い。彼らの主たる願いは、自分を救ってくださったお方を喜ばせ、その方のみこころを行ない、その方の所有物である肉体においても霊においても、その方の栄光を現わすことである。「主が、ことごとく私に良くしてくださったことについて、私は主に何をお返ししようか」(詩116:12)、こそ、赦しを受けた心を動かす第一原理である。自分にあわれみを示してくださったイエスを思い出すことこそ、パウロをしてあれほど多く働かせ、あれほど倦まずたゆまず善を施させたものであった。赦されたという感覚こそ、ザアカイをして、「私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します」、と云わせたものであった(ルカ19:8)。もしだれかが私に、肉的で、怠惰な魂の状態にある信仰者を指摘するとしたら、私はペテロのこの言葉で答えたい。彼らは「自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまったのです」、と(IIペテ1:9)。しかし、もしだれかが私に、故意に汚れた、放縦な生活を送っていながら、自分の罪が赦されていると豪語しているような人を示すとしたら、私は答えたい。「その人は破滅的な迷妄のもとにあるのであって、赦されてなど全くいないのだ」、と。そのような人が赦されているとは、たとえ天から来た御使いが確言しても私には信じられないし、あなたにもそのようなことを信じないように命ずる。罪の赦しと、罪への愛は、水と油のようなものである。----それらは決して相伴わない。キリストの血で洗われたすべての者は、キリストの御霊によって聖なるものとされてもいるのである。

 (e) 赦された魂は人を赦す。彼らは、自分がそうされたように人に対してふるまう。彼らは、兄弟たちが怒らせるようなことをしてもそれを大目に見る。彼らは、「キリストが彼らを愛して、彼らのためにご自身をおささげになったように、愛のうちに歩む」*(エペ5:2)。彼らは、いかに神がキリストのゆえに自分を許してくださったかを覚えており、自分の同胞に対して同じことを行なおうと努める。神が何ミナもの彼らの負債を赦してくださったというのに、彼らが数デナリを赦さないなどということがあっていいだろうか? 疑いもなくこの点においても、他のあらゆることと同じように、彼らは完全ではない。----だが、これが彼らの願いであり、彼らの目当てである。執念深く、けんか腰のキリスト者は、自分の信仰告白の名折れである。そのような人間が、一度でも十字架の根元に座ったことがあるとは、また、主の祈りを唱えるたびに自分の不利になることを祈っていると一度でも考えたことがあるとは、到底信じられない。その人はいわば、「父よ。われらの罪を全く赦さずにあらせたまえ」、と云っているのではないだろうか? しかし、それよりもさらに理解しがたいのは、そのような人が、もしも天国に行けたとして、そこで何をするのか、ということである。赦しが全く位置を占めていないような天国という考え方は、ことごとく空中の楼閣であり、むなしい空想である。赦しは、救われたあらゆる魂が天国へと辿っていく道である。赦しはその人が天国にとどまっていられるための唯一の資格である。赦しは、天国に住む、贖われたすべての者が口ずさむ歌の永遠の主題である。確かに人を赦そうとしない魂は、自分の心が天国には全く場違いなものであることに気づくであろう。確かに私たちは、自分の兄弟たちを愛さないというのであれば、自分に対するキリストの愛を、お題目としてしか知らないに違いない。

 私はこうした事がらを、この論考を読むあらゆる方々の前に置くものである。私も、人々が恵みにおいて達している程度に非常なばらつきがあることは重々承知している。また、救いに至るキリストへの信仰が多くの不完全さを相伴いうることは承知の上である。しかし、それでも私は信ずるものである。ここまで列挙してきた5つの目印が、多かれ少なかれ、すべての赦された魂のうちに普通は見いだされるものだ、と。

 隠してもしかたないことだが、こうした目印は多くの人々に、非常に心探られる思いを引き起こすはずである。はっきり云わなくてはならない。世間にはキリスト者であると呼ばれていながら、こうした目印について何1つ知らないような幾万もの人々がいるのではないだろうか。そうした人々はバプテスマを受けている。自分の教会の礼拝式に出席している。いかなる点から見ても不信心者であるとみなされることはない。しかし、真の悔い改めと救いに至る信仰、キリストとの結合と御霊による聖化について云うと、それらは彼らがまるで知るところのない、「ことばや名称」なのである。

 さて、もしこの論考を読んでいる方々の中にそうした人々がいるとしたら、こうした言葉はそうした人を激しく不安にさせるか、激しく怒らせることであろう。もしこれが彼らを怒らせるとしたら、私は悲しく思う。不安にさせるとしたら嬉しく思う。私は彼らを不安にさせたいのである。彼らをその現在の状態から目覚めさせたいのである。彼らに、自分がまだ赦されておらず、神との平和を得ておらず、滅びに向かってまっしぐらに進んでいるという大変な事実に気づいてほしいのである。

 私がこうしたことを云わなくてはならないのは、他に選択の余地がないからである。それを押し隠しておくのは、キリスト者にとってふさわしい忠実さでも、愛でもないと思われる。私は、赦された魂に伴う特定の目印が聖書で規定されていることを見てとっている。また、自分の周囲の多くの人々にそうした目印が全く欠けていることを見てとっている。それでは、いかにして私は、彼らがまだ「赦されて」いないのだという結論を避けることができるだろうか? また、いかにして私は、もしそれをこのように微に入り細に入って書き記さないとしたら、忠実な見張り人の働きをしていることになるだろうか? 平安がありもしないのに、「平安だ、平安だ」、と云うことが何の役に立つだろうか? 人々に何の危険もないと告げながら、その実、彼らが急速に永遠の死に近づいていくとしたら、そんな嘘つきの医者のような役割を演ずることのどこに正直さがあるだろうか? 確かに、もし私があなたに向かって真理以下のものを書くとしたら、魂の血の責は私の手に帰されるであろう。「ラッパがもし、はっきりしない音を出したら、だれが戦闘の準備をするでしょう」(Iコリ14:8)。

 それでは、この主題が忘れ去られる前に、自分を吟味するがいい。あなたのキリスト教信仰がいかなる種類のものか考えてみるがいい。私が今あなたの前に置いた5つの目印によって、それを試してみるがいい。私は努めてそれらを、できる限り、幅の広い、大まかなものとしてきた。神が悲しませてもおられない心を悲しませるようなことをしたくないためである。もしあなたがこうした事がらのいくばくかでも知っているとしたら、たとえそれがほんの少しでも、私は感謝し、あなたには前進するように願いたい。しかしもしあなたがこれらを自らの経験として全く知らないとしたら、心からの愛情をもって云わせてほしい。私はあなたのことを疑わしく思う、と。あなたの魂について私は非常な不安を感ずる。

 1. さて今、しめくくりの前に、この論考を読んでいるあらゆる方々に1つの胸に迫る問いかけをさせてほしい。それは単純明快なものではあるが、何よりも重要なことである。「あなたは赦されているだろうか?」

 私は、赦しについて私に云えることはすべてあなたに告げてきた。あなたが赦しを必要としていること、----赦しを得るための道、----赦しを求めるべき励まし、----赦しを見いだしている目印、----このすべてがあなたの前に置かれている。この主題全体をあなた自身の心につきつけて、こう自問してみるがいい。「私は赦されているだろうか? 私は赦されているか赦されていないかの2つに1つだ。その2つのうちどちらだろうか?」

 ことによるとあなたは、罪の赦しがあると信じているかもしれない。キリストが罪人のために死なれたこと、いかに不敬虔な者にも赦しを差し出しておられることを信じているかもしれない。しかし、あなた自身は赦されているだろうか? あなた自身はキリストを信仰によってとらえ、その血を通して平安を見いだしているだろうか? 赦しなど、もしあなたがその恩恵を得ているのでなければ、何の役に立つだろうか? 難破した船乗りにとって、救命艇が舷側につけられているからといって、もし彼が難破船にしがみつき続け、その救命艇に飛び乗って、逃れようとするのでなければ、何の役に立つだろうか? 医者が病人に薬を差し出しても、もし病人がそれを眺めるだけで飲み下そうとしなければ、何の利益になるだろうか? あなたは、自分自身の魂のためにつかみとるのでない限り、この世に何の赦しもなかった場合と同様、確実に失われるであろう。

 もしあなたの罪が赦されるとしたら、それは今でなければならない。----それが来たるべき生において赦されるとしたら、それは今の、この生において赦されていなければならない。----もしイエスが再臨するときにそれらが削除されていることになるとしたら、それはこの世において削除されていなくてはならない。あなたとキリストの間には、実際のやりとりがなくてはならない。あなたの罪は信仰によってキリストの上に置かれなくてはならない。キリストの義があなたの上に置かれなくてはならない。キリストの血があなたの良心に注がれなくてはならない。さもなければ、あなたの罪は最後の審判の日にあなたの前に立ち、あなたを地獄に沈めるであろう。おゝ、このような事がらの浮沈がかかっているというのに、いかにしてあなたはいいかげんに過ごしていられるのだろうか? いかにしてあなたは自分が赦されているかどうかを不確かなままにして満足していられるのだろうか? 確かに人が自分の遺書を作成し、生命保険に入り、葬儀の一切について指示しておけるにもかかわらず、自分の魂の問題を不確かなままにしておけるというのは、実に不可思議なことである。

 2. 次に私は、この論考を読んでいて、自分の良心の中で、自分はまだ赦されていないことを知っているあらゆる方々に、1つの厳粛な警告を与えたい。

 あなたの魂は、すさまじい危険のうちにある。あなたは今年死ぬかもしれない。そしてもしあなたが今のまま死ぬとしたら、あなたは永遠に失われてしまう。もしあなたが赦しなしに死ぬなら、最後の審判の日には赦しなしによみがえるであろう。あなたの頭上には、髪の毛一筋で吊り下げられている剣がある。あなたと死との間には、ただ一歩の隔たりしかない。おゝ、あなたはなぜ枕を高くして眠れるのだろうか?

 あなたはまだ赦されていない。ならば、あなたのキリスト教信仰は一体あなたにとって何になるだろうか? あなたは教会に通っている。あなたは聖書を持っており、祈祷書を持っており、ことによると賛美歌も持っているかもしれない。あなたは説教を聞いている。礼拝式に参加している。主の晩餐に集っているかもしれない。しかし、結局のところ、そこからあなたは何を得ているだろうか? いかなる希望があるだろうか? いかなる平安が、いかなる喜びが、いかなる慰めがあるだろうか? 無である。文字通り皆無である! もしあなたが赦された魂でないとしたら、あなたは一時的なもののほか何も得ていないのである。

 あなたはまだ赦されていない。しかし、あなたは神があわれんでくださるだろうと当て込んでいる。だが、なぜ神は、ご自分がお定めになった道によってご自分を求めようともしないあなたをあわれまなくてはならないのだろうか? 疑いもなく神はあわれみ深いお方であり、イエスの御名によってご自分に近づくすべての者に素晴らしくあわれみ深いお方である。しかし、もしあなたが神の指示を蔑み、自家製の道で天国に行こうとするなら、あなたは、あなたに対するいかなるあわれみもないことを知って、ほぞをかむことになるであろう。

 あなたはまだ赦されていない。しかし、あなたはいつの日か赦されるだろうと望んでいる。私は、そのような言葉によって引き下がりはしない。それは良心の手を振り払い、良心の喉笛を絞めつけて、その声をふさごうとするようなものである。なぜあなたは、この先の方が赦しを求めるようになると云えるだろうか? なぜ今それを求めないのだろうか? 今はいのちのパンを集めるべき時である。主の日は急速に近づきつつあり、その後ではだれも働くことができない(出16:26)。第七のラッパはすぐに吹き鳴らされるであろう。この世の国は、すぐにも私たちの主およびそのキリストのものとなるであろう(黙11:15)。災いなのは、そのとき赤いひもを結びつけられておらず、戸口に血を塗りつけられていない家である(ヨシ2:18; 出12:13)!

 よろしい、あなたは今は赦しの必要を感じていないかもしれない。しかし、やがてそれを求めるようになるであろう。願わくは主が、そのあわれみによって、手遅れにならないようにしてくださるように。

 3. 次に私は、この論考を読んで、赦しを欲しているすべての方々に1つの熱心な招きを与えたい。

 私はあなたがいかなる人かも、これまでいかなる生き方をしてきた人かも知らないが、大胆に云うものである。信仰によってキリストのもとに来るがいい。そうすれば、あなたは赦しを受けるであろう、と。身分の上下、貧富の差、老若男女に関わらず、----あなたは回心前のマナセやパウロよりも悪逆ではありえない。----回心後のダビデやペテロよりもひどい悪を犯したはずがない。みなキリストのもとに来るがいい。そうすれば、値なしに赦されるのである。

 キリストのもとに来る前に、何か大きなことを行なわなくてはならないはずだ、などと一瞬たりとも考えてはならない。そのような考え方は地から出て、地で造られたものである。福音はあなたに、ありのままのあなたで来るように命じている。人間の考えは、自分と神との平和を悔い改めによって作り上げてから、最後にキリストのもとに来る、というものである。福音の道は、真っ先にキリストから平和を受け取り、キリストとともに始めることである。人間の考えは、償いをし、心機一転して、神との和解および友情に至る道を切り開こうとする。福音の道は、最初にキリストを通して神と友になり、それから働きを始めることである。人間の考えは、山道を苦労してよじのぼり、その頂上でいのちを見いだす。福音の道は、最初にキリストに対する信仰によって生き、それからそのみこころを行なうというものである。

 では、みな自分で判断してみるがいい、判断してみるがいい。どちらが真のキリスト教だろうか? どちらが良い知らせだろうか? どちらが喜びの訪れだろうか? 最初に御霊の種々の実があって、それから平和が来るのか、それとも最初に平和があって、それから御霊の種々の実が結ばれるのか? 最初に聖化があって、それから赦しに至るのか、それとも最初に赦しがあって、それから聖化されるのか? 最初に奉仕があってからいのちがあるのか、それとも最初にいのちが与えられ、それから奉仕するのか? 心に問うてみただけで答えは自ずと明らかであろう。

 それでは、来るがいい。ただ喜んで受け取るだけのために、また自分がどれだけのものを携えていけるかなどとは全く考えずに、来るがいい。キリストが差し出しておられるものを喜んで受け取るために、だが、そのお返しに自分から何かを与えることができるなどとは夢にも思わずに、来るがいい。あなたの罪を携えて来るがいい。赦されたいとの心からの願い以外のいかなる資格も持たずに来るがいい。そうすれば、聖書が真実であるのと同じくらい確かに、あなたは救われるであろう。

 あなたは私に、自分などふさわしくない、自分は十分善良になっていない、自分は選ばれてなどいない、と云うかもしれない。私は答える。あなたは罪人であり、救われたいと思っている。それ以上、何が欠けているというのか、と。あなたこそ、イエスが世に下って救おうとなさった当の相手である。イエスのもとに来るがいい。そうすればいのちを得るであろう。言葉を用意して、主に立ち返るがいい。そうすれば、主は優しくあなたに耳を傾けるであろう。主にあなたの魂の必要をことごとく告げるがいい。そうすれば、私が聖書から知るところ、主は心に留めてくださるであろう。主に申し上げるがいい。私はあなたが罪人を受け入れてくださると聞きました、私は罪人です、と。申し上げるがいい。私はあなたがいのちの鍵を手に持っておられると聞きました、どうか私を中に入れてください、と。申し上げるがいい。私はあなたご自身の数々の約束により頼んでやって来ました、どうかその約束をお守りになってください、「あなたの約束どおりに行なってください」、と(IIサム7:25)。こうしたことを真心から、真摯に行なうがいい。そうすれば、いのちにかけても誓うが、あなたの求めは決して無駄にはならない。このことを行なうなら、あなたは主が真実な正しいお方で、あなたの罪を赦し、すべての悪からあなたをきよめてくださるのを見いだすであろう(Iヨハ1:9)。

 4. 最後の最後に、私はすべての赦された魂に向かって1つの勧告の言葉を与えたい。

 あなたは赦されている。それでは、あなたの特権の大きさを十二分にわきまえ知り、主にあって喜ぶようにするがいい。あなたと私は大いなる罪人であるが、それでも私たちには、大いなる《救い主》がおられる。あなたと私は人知を越えた数々の罪を犯してきたが、それでも私たちには、より頼むべき「人知をはるかに越えたキリストの愛」がある(エペ3:19)。あなたと私は自分の心が沸々と悪を生じさせる泉であると感じているが、それでも私たちには、はるかにまさって力強い、もう1つの泉をキリストの血において有しており、このお方を日々頼りとすることができる。あなたと私には戦わなくてはならない大きな敵がいるが、だが「私たちの救いの《指揮官》」はそれよりもはるかに強く、私たちと常にともにおられる。私たちはなぜ心を騒がすことがあろうか? なぜ心乱れて、うなだれることがあろうか? おゝ、私たちの何と信仰の薄いことか! なぜ疑うのか?

 私たちは年を追うごとに恵みと、私たちの主イエス・キリストの知識とにおいて成長するべく努めよう。ちっぽけなキリスト教信仰で満足しているのは悲しいことである。よりすぐれた賜物を求めるのは尊いことである。私たちは過ぎ去った年月に自分を満足させてきたのと同じ種類の説教の聞き方や、聖書の読み方や、祈り方で満足しているべきではない。私たちは年を追うごとに、自分のキリスト教信仰において自分の行なうすべてのことにより一心になり、よりそれらを充実させていくべきである。キリストをより強く愛すること、----悪をより徹底的に憎むこと、----良いことにより密接にすがりつくこと、----私たちの生き方のいかに些細な点をもより厳密に見張ること、----自分が、自分の故郷を求めていることをよりはっきり示すこと、----主イエス・キリストを着て、いかなる場所、いかなる人々の間にあっても主をまとっていること、----より多くを見てとること、----より多くを感じとること、----より多くを知ること、----より多くを行なうこと、----こうしたことが新しい年が明けるたびに私たちの目当てとなり、願いとなるべきである。まことに私たち全員には向上の余地がある。

 私たちは、これまでしてきたよりもずっと他人の魂に善を施すように努めよう。悲しいかな、自分自身の霊的関心事に呑み込まれ、自分自身の霊的病気にかまけるあまり、他人についてまるで考えないなどというのは、まことに貧しい働きである! 私たちが忘れているのは、世の中には信仰的な利己主義というものがある、ということである。自分ひとりで天国に行くのを悲しいこととみなし、自分と一緒に仲間を引き連れていくようにしようではないか。私たちが決して忘れるべきでないのは、私たちの周囲にいるあらゆる者たちは、まもなく天国にいるか、地獄にいるかの2つに1つだ、ということである。モーセがホバブに云ったように、他の人々に向かって云おうではないか。「私たちといっしょに行きましょう。私たちはあなたをしあわせにします」(民10:29)。おゝ、この言葉はまことに至言である。「人を潤す者は自分も潤される」(箴11:25)。怠惰で、なまけ者の、利己的なキリスト者は、自分が何を失っているか、ほとんど見当もつかないのである。

 しかし、何にもまして、これまでしてきたよりも、より豊かな、イエスに対する信仰の生活を送るようになろうではないか。常にこの泉のかたわらで過ごしていること、----常にキリストのからだを信仰によって食べ、キリストの血を信仰によって飲むこと、----常にキリストが私たちの罪のために死んだこと、----私たちが義と認められるためによみがえったこと、----神の右の座について私たちのためにとりなしをしておられること、----私たちをご自分のもとに集めるためにやがて来ようとしておられることを心にとめておくこと、----これこそ私たちが絶えず自分の目の前に置いておくべき目印である。私たちには欠点があるかもしれないが、高きを目指そう。義の太陽の陽光を十二分に浴びつつ歩もう。そうすれば私たちの恵みは成長するであろう。私たちは、冷たい北側の壁の上のしなびた、半分凍りついたような、不毛な木のようではないようにしよう。むしろ向日葵のようになって、大いなる《光の泉》がどこへ行こうとその後に従い、そのお方を真っ向から見上げているように努めよう。おゝ、願わくは、このお方のお取り扱いを見てとる、よりさとい目が与えられるように! おゝ、このお方の御声を聞きとる、より鋭い耳が与えられるように!

 最後に私たちは、私たちとイエス・キリストとの間に割り込もうとする、この世のあらゆる物事に向かって、「近寄るな」、と云おう。そして、いかに小さな悪癖であれ、それをつい身につけてしまうことをひどく恐れるようにしよう。知らぬ間にそれが霧のように立ち昇り、私たちの目からキリストを隠してしまわないようにしよう。「私たちはこの方の光のうちにのみ光を見」*、暖かさを感じるのであって、この方から離れれば、私たちはこの世が暗く冷たい荒野であることを見いだすのである(詩36:9)。私たちは、かのアテネ人哲学者の頼み事を思い起こすべきである。地上最大の支配者から、いま一番求めているものは何か、と問われた彼はこう云った。「私には願いは1つしかありません。それは、あなたに私と太陽の間をさえぎらないように立っていただくことです」、と。このような精神こそ、あなたと私が絶えずいだいているものであるようにしよう。この世の種々の賜物のことは軽く考えるようにしよう。世への気遣いに押し迫られても、静かにじっとしていよう。もし私たちが《王》の御顔を見ることができ、キリストにとどまっていることができさえするなら、何も気をもまないでいよう。

 もし私たちの罪が赦されているとしたら、私たちの最良のものはこれからやって来るのである。

 もうしばらくすれば、私たちは「顔と顔とを合わせて見ることになり……、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります」。私たちは、「麗しい王を見」、それから「もはや決して外に出て行くことはない」(Iコリ13:12; イザ33:17; 黙3:12)。「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は」(詩32:1)。

赦し[了]

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