Our Sins!           目次 | BACK | NEXT

6. 私たちの罪!


「私のそむきの罪と咎とを私に知らせてください」----ヨブ13:23
「私たちの罪が、私たちに不利な証言をする」----イザ59:12
「私の罪から、私をきよめてください」----詩51:2
「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」----Iヨハ1:7

 このページの冒頭に冠された言葉は、非常に心探られる思いを私たちの内側にかき立てるべきものである。これは、この世に生まれ出たあらゆる人々に関わっている。「私たちの罪」を知ることは、救いに至るキリスト教信仰のイロハのイである。神の前で自分がいかなる立場にあるかを理解することは、天国に向かう第一歩である。良心に平安をもたらす真の秘訣は、「私たちの罪」が取り除かれたと感ずることである。いのちを愛しているというのなら、この問いに満足のいく答えを返せるようになるまで、決して安んじてはならない。----「《私の罪はどこにあるだろうか?》

 私がきょう読者の方々に願いたいのは、この単純な問いに真っ正面から向かい合うことである。やがて、この問いにいやでも答えなくてはならないときが近づきつつある。その他の問いかけがみな、この問いとくらべると水一滴にしか見えない時がやって来る。そのとき私たちは、「私の金はどこにあるのか?」、とも、----「私の土地はどこにあるのか?」、とも、----「私の財産はどこにあるのか?」、とも云わないであろう。私たちの唯一の思いはこうなるであろう。「私の罪! 私の罪!----私の罪はどこにあるのか?」、と。

 私はこれから、私たちの前にあるこの大いなる主題に光を投ずる助けとして、いくつかの所見を提示したいと思う。私は心から願い、神に祈るものである。----この論考が本書を読んでいるすべての魂にとって有益なものとなるように。私は切に願う。ぜひ公平な目で読んでほしい。読むがいい、読むがいい! 最後まで読むがいい! 聖霊がこの論考を用いてあなたの魂を救うことにならないとだれに云えよう。

 I. 私の最初の所見はこのことである。あなたには多くの罪がある

 私はこのことを大胆に、いささかのためらいもなく云うものである。私は、あなたがいかなる人かも、あなたの人生がこれまでどのように費やされてきたかも知らない。しかし、私が神のことばによって知るところ、アダムの子孫はひとり残らず、神の前では大罪人なのである。それには何の例外もない。これは、地上のあらゆる場所における人類の全家族が、ひとり残らず罹患している病である。玉座についた国王から、道端にうずくまる乞食まで、----大邸宅に住まう地主から、あばら屋に住む労働者まで、----応接間でさんざめく貴婦人から、台所で働く下女中まで、----講壇に立つ教職者から、日曜学校に通う幼子まで、----私たちはみな、生まれながらに神の前では咎があり、咎があり、咎がある者なのである。「私たちはみな、多くの点で失敗をするものです」。----「義人はいない。ひとりもいない」。----「全人類が罪を犯した」。----「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません」(ヤコ3:2; ロマ3:10; 5:12; Iヨハ1:8)。このことを否定しても無駄である。私たちはみな、多くの罪を犯している!

 こうした言葉の正しさを疑う人がだれかいるだろうか? では行って、神の御子ご自身によって解き明かされている神の律法によって吟味してみるがいい。聖マタイの福音書の第5章を注意深く読んでみるがいい。神の戒めがいかに私たちの行動のみならず私たちの言葉にもあてはまるものか、いかに私たちの言葉のみならず私たちの思いや動機にもあてはまるものかを見てとるがいい。知るがいい。主は、「人が見るようには見ない……。人はうわべを見るが、主は心を見る」。主の前では、「愚かなはかりごと」すらも罪なのである(Iサム16:7; 箴24:9)。

 さてここで、あなた自身の人生の物語に目を転じ、それをこの聖なる律法の基準で試してみるがいい。あなたの幼少時代のことを思い起こし、あなたの意地っ張りや、わがまま、かんしゃく、ひねくれ、良いことに対する飲み込みの悪さといったことをみな考えてみるがいい。あなたの青春時代を思い起こし、----あなたの依怙地さや、あなたの高慢、あなたの俗気、他人の締めつけに対するあなたの苛立ち、禁止されている物事に対するあなたの切望を思い出すがいい。----成人してからのあなたの行ないを想起し、正道からはずれた多くの歩みや、年ごとにあなたが犯している、道をはずれた歩みを思い返してみるがいい。----確かに、あなたの人生の物語に直面するとき、あなたは立ち上がって、「私は罪を犯したことなどない!」、とは云わないであろう。

 さらに、あなた自身の心の物語に目を転ずるがいい。その心の中を、いかに多くの悪い事がらが、世間には全く知られないまま通り過ぎていったかを考えてみるがいい。----あなたが、うわべは品行方正で、道徳的で、上品にしている間も、心でいだいていた幾万もの罪深い想像や、腐敗した考えを思い起こすがいい。----あなたの近親の者たちですら何が起こっているか夢にも思わず、思い及びもしないうちに、あなたの内なる人の中を行きつ戻りつしていた邪悪な想念や、陰険な意図や、偽りの動機や、悪意、ねたみ、意地悪といった感情について考えてみるがいい。----確かに、あなたの心の物語に直面するとき、あなたは立ち上がって、「私は罪を犯したことなどない!」、とは云わないであろう。

 もう一度、私はこの論考を読んでいるあらゆる方々に尋ねたい。あなたは私が云っていることを疑っているだろうか? 自分が多くの罪を犯してきたかどうか疑わしく思っているだろうか?----ならば行って、聖マタイの福音書の第25章を吟味してみるがいい。その章の結論の部分を読んでみるがいい。そこには最後の審判の日に行なわれる審理のもようが記されている。左手に立っている悪人たちが永遠の火に断罪される根拠がいかなるものであるか、よくよく注意してみるがいい。彼らは殺人や、窃盗や、偽証や、姦淫の罪を非難されているのではない。彼らは不作為の罪のゆえに断罪されているのである! 彼らがなすべきであったことをなさずにいたという事実だけで、彼らの魂を永遠に滅ぼすに十分なのである。つまり、人は不作為の罪だけでも、簡単に地獄に沈んでいくのである!

 さてここで、この驚愕すべき聖書箇所の光に照らしてあなた自身を眺めてみるがいい。あなたにできたはずなのに、あなたが行なわなかった無数のこと、あなたに云えたはずなのに、あなたが云わなかった無数のことを、思い出してみるがいい。あなたに行なえたはずなのに、しないですませた無私の親切な行為、----それがいかに多いことか! あなたが苦もなく施せたはずの善や、たやすくもたらすことのできたはずの幸福、----その総量の何と莫大なことか! 確かに、不作為の罪に関する私たちの主の教えに直面するとき、あなたは立ち上がって、「私は罪を犯したことなどない!」、とは云わないであろう。

 もう一度、私は尋ねる。あなたは私が云っていることを疑っているだろうか? それも、きわめてありえることだと思う。四半世紀以上もキリストの教役者として過ごしてきた私は、人間が自分の生まれながらの状態についていかにはなはだしく盲目であるか知らないわけではない。もうひとたび、私に耳を傾けてほしい。私はあなたの良心に別の議論を投げかけてみよう。おゝ、願わくは神があなたの目を開き、あなたに自分の真の姿を示してくださるように!

 椅子に腰をかけて、ペンと紙を取り、善悪の区別がつくようになってからこのかた、あなたが犯してきたであろう罪を計算してみるがいい。私は云う。腰をかけて、総計をはじきだしてみるがいい。かりに、二十四時間のうち、あなたが目を覚ましていて、積極的に活動でき、自分に責任をとれる時間を十五時間としてみよう。かりに、こうした十五時間のうち、一時間ごとに2つだけ、あなたが罪を犯すものとしよう。確かにあなたはこれが不公平な想定であるとは云わないであろう。私たちは思いによっても、言葉によっても、行為によっても、神に対して罪を犯しうることを思い出すがいい。繰り返すが、あなたの人生の中で、あなたが覚醒している一時間ごとに、あなたが思いか、言葉か、行為によって、2つの罪を犯すと想定することは、極端なことではありえない。さてここで、あなたの人生の罪の総和を計算し、それがいかなる数に達するか見てみるがいい。

 一日に十五時間、目を覚ましている時間がある勘定でいくと、あなたは一日あたり三十もの罪を犯しているのである!---- 一週間に七日ある勘定でいくと、あなたは毎週、二百十もの罪を犯しているのである!---- 一箇月に四週間ある勘定でいくと、あなたは毎月八百四十もの罪を犯しているのである!---- 一年に十二箇月ある勘定でいくと、あなたは毎年一万八十もの罪を犯しているのである!----そしてつまり、これ以上の計算は続けないが、人生の十年ごとにあなたは《十万以上もの罪》を犯しているのである!

 この総和を冷静に見つめてほしい。その正しさに反駁することは、到底できはしないであろう。逆に私はあなたに問いたい。私は完全にはあなたの事情を理解していなかったのではなかろうか? 私は、正直な人間としてのあなたに訴えたい。あなたの人生の多くの時間、多くの日々において、実際のあなたは、ひっきりなしに罪を犯しているのではなかろうか? 確信をもってあなたに問いたいが、その総和は、あなたの罪の合計を十倍にした方がずっと正確ではないだろうか?----おゝ、自分を義とすることをやめるがいい! あなたが隠れみのにしようとしている、「それほどひどく悪くはない」、という高慢な気取りを捨て去るがいい。いさぎよく真実を告白するがいい。あの古い偽り者、悪魔に耳を貸してはならない。確かに私がいま合計したばかりの、のっぴきならぬ総和に直面するとき、あなたはあえて、「あなたが多くの罪を犯してきた」ことを否定しないであろう。

 私は、私の主題のこの部分をここで打ち切り、次に進みたい。悲しくも残念なことだが、多くの読者は、私が語ってきたことに目を走らせても、何1つ確信することも、心動かされることもないままではないかと思う。私が沈痛な経験によって学んだのは、人間がどうしても見いだしたり理解したりしようとしないこと、それは神の前における自分の状態だということである。いみじくも聖霊が云うように、まことに私たちはみな生まれながらに「盲目」であり、「耳しい」であり、「おし」であり、「眠っている者」であり、「気が狂って」おり、「死んでいる」! 何事も、聖霊の力以外の何事をもってしても、人間に罪を確信されることは決してない。人は、地獄を示されても、そこから逃れようとはしない。天国を示されても、それを求めようとはしない。警告して沈黙させても、身じろぎもしない。良心を突いて痛ませても、かたくななままである。いと高きところから力が下って、働きをなさなくてはならない。人間にその真の姿を示すことは、神の聖霊の特別なみわざである。

 自分の罪深さについて少しでも感じている人は、そのために神に感謝すべきである。ことによるとあなたを居心地悪くさせている、弱さと邪悪さと腐敗とを感ずる感覚そのものが、実は善を施されているしるしであり、賛美の種なのかもしれない。真に良い者となるべき最初の一歩は、自分が悪い者であると感ずることである。天国への最初の備えは、私たちが地獄のほか何にも値していないと知ることである。私たちは、自分がみじめな罪人であると知って初めて、義人として数えられるのである。自分の多くのそむきの罪によって恥じ入らされ、困惑させられて初めて、内なる幸福と、神との平和を有するのである。私たちは、確固たる根拠に基づく希望を喜べるようになる前に、こう云うことを悟らされなくてはならない。「汚れている、汚れている! 神さま。こんな罪人の私をあわれんでください!」

 自分の魂を本当に愛している者は、この罪深さの内的な感覚を抑えつけたり、妨げたりしないように用心しなくてはならない。私は、神のあわれみによって、あなたに切に願う。それを踏みにじってはならない。それを押しつぶしてはならない。その喉笛を絞めあげてはならない。それにあなた注意を向けることを拒んではならない。それについて、この世的な人々からの助言を受けつけないように用心するがいい。それを気の病だとか、体調不良といったものとして片づけてはならない。それについて、悪魔の助言に耳を傾けないように用心するがいい。飲酒や浮かれ騒ぎでそれをかき消そうとしてはならない。持ち馬や、飼い犬や、馬車や、野外競技でそれを押し流そうとしてはならない。骨牌遊びの会や、舞踏会や、演奏会を立て続けに楽しむことで、それを一掃しようとしてはならない。おゝ、もし自分の魂を愛しているのなら、こうしたみじめなしかたで、最初に感ずる罪の感覚を扱ってはならない! 霊的な自殺をしてはならない。----あなたの魂を殺してはならない!

 むしろ行って、神に祈るがいい。この罪の感覚が何を意味しているか示してくださいと願うがいい。聖霊をお送りになり、自分がいかなる者で、神が何をするよう自分に望んでおられるかを示させてくださいと願うがいい。行って、自分の聖書を読み、あなたが居心地悪くなっていることに正しい原因があるかどうか、また、この「邪悪で、悪い」という感覚があなたに当然伴うものでないかどうかを見てとるがいい。これが天からの種で、いつの日かあなたの完全な救いというパラダイスの実を結ばないとだれに云えよう? それが天からの火花で、神が燃えさかる輝く炎に吹き起こすおつもりのものでないとだれに云えよう? それが上からの小さな石で、あなたの心中に据えられた悪魔の王国を倒壊させ、聖霊の壮麗な宮の最初の土台石となるものでないとだれに云えよう?----まことに幸いなことよ。私のこの最初の所見に異を立てず、こう云うことのできる人は。「《それは本当です。私には多くの罪があります》」、と。

 II. 私の第二の所見はこのことである。私たちの罪が取り去られ、取り除かれることこそ、究極的に重要なことである

 私はこのことを大胆に、何はばかることなく云うものである。この世で「重要」であると考えられており、人々の関心を何よりも真っ先に集めている数多くの物事があることは私も知っている。しかし、私は自分の云っていることを承知している。私は、私の《主人》の務めこそ、他のあらゆる務めの前に置かれるべき価値があると大胆に云うものである。そして、私が私の《主人》の本から学び知るところ、人間にとって自分の罪を赦され、ぬぐい去られることにまさって重要なことは何1つない。

 私たちは、私たちの上には神がおられることを思い起こそうではないか。私たちは、都市の中に神を見ることはできない。そこでは、せわしなさと、喧噪と、取引と、商売が人間の精神を呑み込んでしまっているように思われる。私たちは、田園の中に神を見ることもできない。そこでは農作や労働が連綿と続き、種蒔きと収穫はやむことがない。しかし、その間もずっと、天から見下ろして、すべての人の行ないを見ている、永遠の《目》があるのである。決してまどろむことも、決して眠ることもない目があるのである。しかり! 思い起こさなくてはならないのは、女王や、政府や、地主や、主人や、雇い主のことばかりではない。それよりもはるかに高く、それらすべてを合わせたよりもなおも高貴な《お方》がおられ、ご自分に対するみつぎがおさめらめるのを期待しておられるのである。その《お方》とは、いと高き神である。

 この神は、無限の《聖さ》の神である。神の「目はあまりきよくて、悪を見ず、咎に目を留めることができない」*(ハバ1:13 <英欽定訳>)。神は私たちが全く見てとらないところに欠点や欠陥を見てとる。「天も神の目にはきよくない」(ヨブ15:15)。――神は、無限の知識の神である。神は、アダムの子らのひとりひとりのあらゆる思いと、言葉と、行為とを知っておられる。神から隠されている秘密は1つもない。私たちが考え、語り、行なうすべてのことは、神の記憶の書に書きとめられ、記録される。----神は、無限のの神である。神は最初に万物を造られた。万物をご自分のみこころのままに整えられた。神はこの世の王たちを一瞬のうちに打ち倒す。神の怒りを前にして耐え抜ける者はない。----何にもまして神は、私たちのいのちと、私たちの関心事のすべてを掌握している神である。神は最初に私たちを存在させてくださった。私たちが生まれてからこのかた、私たちを生かし続けてくださった。よしと見られるときには私たちを取り除き、私たちの生き方に応じて私たちを処罰なさる。このようなお方に対して、私たちは弁明しなくてはならないのである。

 こうした事がらについて考えてみようではないか。確かにヨブが云うように、「あなたは、これを思うとき、恐れるであろう」*(ヨブ23:15)。確かにあなたは、自分の罪がぬぐい去られることこそ究極的に重要であるのを見てとるであろう。確かにあなたはこう尋ねるであろう。「いったい私と神は、いかなる関係にあるだろうか?」

 さらに私たちは、私たちが死を前にしていることを思い起こそうではないか。私たちはいつまでも生きているわけではない。いつかは終わりが来なくてはならない。いつの日か必ず、私たちの計画や見通し、売ることや買うこと、働くことや労苦することのすべてには終わりがやって来る。私たちの家には否応なしに訪れる客があるであろう。恐怖の王が中に入ることを要求し、私たちに立退き状を手渡すであろう。百年前、何千万もの人々を支配していた支配者たちや王たちはどこにいるだろうか? 富を築き、大邸宅を建てた富者たちはどこにいるだろうか? 小作料を受け取り、畑に畑を加えた地主たちはどこにいるだろうか? 土地を耕し、麦を収穫していた労働者たちはどこにいるだろうか? 礼拝式を執り行ない説教を語っていた教職者たちはどこにいるだろうか? 老いることなどないかのように、日差しの中で遊んでいた子どもたちはどこにいるだろうか? 杖によりかかり、「彼らがまだ若かった頃」の話に花を咲かせていた老人たちはどこにいるだろうか? その答えは1つしかない。彼らはみな死んだ、死んだ、死んでしまった! かつてはいかに強く、美しく、活発ではあっても、彼らはみな、今ではちりと灰になっている。いかに彼らがみな、自分の務めを大いなるもの、重要なものと考えていたとしても、それはみな終わりを迎えた。そして私たちは同じ道を旅しているのである! もう数年もすれば、私たちもまた自分の墓の中に横たわっているはずである!

 こうした事がらについて考えてみようではないか。確かにあなたは、自分の終わりをわきまえるとき、罪がぬぐい去られることを軽いこととは考えないであろう。確かにあなたは、「あなたの罪はどこにあるのか?」、との問いにそれなりの意味があることを見てとるであろう。確かにあなたは、「私はいかにして死ぬことになるだろうか?」、と考えを巡らすであろう。

 さらに私たちは、復活と審きが私たちを待ち受けていることを思い起こそうではないか。私たちが最後の息を引き取り、この肉体が冷たい土くれとなるときも、すべてが終わるけではない。否。すべては終わってはいない! そのときこそ、本当の存在が始まるのである。影は永遠に過ぎ去ってしまうであろう。いつの日か、ラッパが鳴り、私たちをその狭苦しい寝床から呼び起こすことになる。墓は2つに裂けて、その借家人たちは神に会うべく召還されることになる。教会に招く鐘の音には従おうとしない耳も、別の召還には聞き従わざるをえなくなる。説教を聞くことはがまんできない高慢な意志も、神の審きにはいやでも耳を傾けざるをえなくなる。大きな白い御座が打ち立てられ、数々の書物が開かれる。ありとあらゆる男が、女が、子どもが、その大審理に召還されて裁かれる。あらゆる人が、その行ないに応じて審かれる。あらゆる人の罪が弁明を求められる。そして、あらゆる人が受けることになるその永遠の分け前は、天国か地獄かである!

 私たちはこうした事がらを考えようではないか。確かに、その日のことを思い起こすとき、あなたは私が扱っている主題が、注意に値するものであると認めるに違いない。確かにあなたは、自分の罪がぬぐい去られることは究極的に重要なことであると告白するに違いない。確かにあなたはこう考えるであろう。「私はいかにして審かれることになるだろうか?」、と。

 私は、自分の思いにかかっていることを口に出して語らずにはいられない。私はこの世の多くの人々の心について、非常な悲しみと悩みを感ずるものである。私は、キリスト教国と呼ばれているこの国に住む多くの人について恐れを感ずるものである。私は、キリスト者であると公言し、自称している多くの人々について恐れるものである。日曜日ごとに教会や会堂に通い、見かけは上品にキリスト教信仰を奉じている多くの人々について恐れるものへである。彼らが、自分の罪をぬぐい去られることの途方もない重要性を見てとってはいないのではないかと恐れるものである。如実に見てとれるように、彼らには、それよりはるかに重要であると考えている他の多くのことがある。金銭や、土地や、農地や、馬や、馬車や、犬や、食べ物や、飲み物や、着物や、家や、結婚や、家族や、仕事や、娯楽、----こうしたもの、こうした類のものこそ多くの人々が明白に「第一の事がら」としていることにほかならない。そして、自分たちの罪が赦され、ぬぐい去られることは、彼らの思いの中では二義的な位置しか占めていないことなのである。

 商売人が、その元帳や帳簿をつぶさに調べて、数字の列に目を通している姿を見てみるがいい。娯楽の徒が、自分の持ち馬や飼い犬とともにいかに国中を駆け回るか、いかに競馬や、劇場や、骨牌遊びの会や、舞踏会の興奮を求めて殺到しているか見てみるがいい。同様に、貧しく思慮のない労働者が、苦労してかせいだ賃金を握りしめて居酒屋に行き、肉体と魂の双方を滅ぼすためにいかにそれを浪費するか見てみるがいい。こうした者らがみな、いかに心から熱中しているか見るがいい!----それから、その次の日曜日に教会に来た彼らに注意してみるがいい。ものうげで、不注意で、欠伸をし、眠たげで、無関心なそのようすは、まるで神も、悪魔も、キリストも、天国も、地獄も何も存在していないかのように見える! 目をとめるがいい。彼らがその心を教会の外に置き忘れてきたことが何とあからさまなことか! 目をとめるがいい。彼らがキリスト教信仰に真の関心をいだいていないことがいかに明白なことか! では、云ってみるがいい。多くの者らは、自分の罪がぬぐい去られることの重要性を何も知らないということが正しくないかどうかを。おゝ、これがあなたにあてはまらないように留意するがいい!

 このページを読んでいる方々の中に、少しでも赦されることの重要性を感じている人がいるだろうか? ならば、神の御名によって私はあなたに勧めたい。その感覚をいやまして強めるがいい。これこそ、私たちがすべての人々の魂を至らせたいと願っている点である。私たちがあなたに理解してほしいのは、キリスト教信仰の肝心要の点は、一定の意見を公言したり、一定の外的な義務を果たしたり、一定の外的な形式を経験したりすることにはない、ということである。キリスト教信仰の本質は、神と和解させられ、神との平和を享受することにある。自分の罪をぬぐい去られ、それらがぬぐい去られたと知ることにある。王の《王》との友情に再び至らされ、その友情という陽光のもとで生きることにある。----人は定期的に「教会に通って」いさえすれば当然天国に行けるのだ、と思い込ませたがるような人々に耳を貸してはならない。むしろ心に堅く銘記しておくがいい。聖書が教える、真に救いに至るキリスト教信仰は、こうした類のものとは似ても似つかぬものなのだ、と。真のキリスト教の土台とは、自分が多くの罪を有する、地獄に値する者であると自覚すること、----そして、そうした罪がぬぐい去られて、天国に行けるようになることがいかに重要であるかを実感することなのである。

 この世は云う。幸いなことよ、多くの財産を持ち、豪奢な家を持っている人は! 幸いなことよ、馬車や、持ち馬や、召使いや、莫大な預金残高や、友人知己の大群を有している人は! 幸いなことよ、いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らし、自分の富を消費して、楽しく生きることしかしないですむ人は!----だがしかし、こうした幸福の真価はどこにあるだろうか? そうしたことによっては、そうした楽しみの真っただ中にあっても、堅固な、実感できる満足は何も得られない。それは、ほんの数年しか長続きしない。最後には、ベルシャツァルの宴会に現われた手のように死が訪れ、すべてを粉みじんにしてしまう。そしてそのとき、あまりにも多くの場合、このいわゆる幸福は、《地獄で味わう永遠の悲惨》と交換されるのである。

 神のことばは云う。「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人は。----心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです」(詩32:1、2; マタ5:2以降)。----彼らの幸いさは決して終わることがない。彼らの幸福は夏枯れの泉のように、最も激しく必要とされるときに人を裏切るようなものではない。彼らの友人たちは、夏のつばめとは違い、アドニヤの招待客のようにラッパが最初に吹き鳴らされるや否や、彼らを見捨てるようなことはない。彼らの太陽は決して沈まない。彼らの喜びは時間の中で芽吹き、永遠の中で花開く。一言で云えば、彼らの幸福こそ真の幸福なのである。永遠の幸福だからである。

 あなたは私の云っていることを信ずるだろうか? これはみな聖書的で、真実のことである。いつの日かあなたは、だれの言葉が正しかったかを見てとるであろう。人の言葉がか、神のことばがか。時のあるうちに知恵を得るがいい。今日のこの日、心に銘記するがいい。人間が携わりうる最も重要なことは、自分の罪をぬぐい去られ、赦されることである、と。

 III. 私の第三の所見はこのことである。私たちには自分の罪をぬぐい去ることができない

 私はこのことを大胆に、何はばかることなく言明するものである。生まれながらの心はぎょっとさせるであろうが、このことを私は、否定しがたい聖書的真理として提示する。パリサイ人や、ローマカトリック教徒や、ソッツィーニ主義者や、理神論者や、人間理性および人間の力を偶像礼拝する者たちが何をどう云おうと、私はためらうことなく自分の主張を繰り返すものである。----人間の罪は数多く大きい。こうした罪がぬぐい去られることは、究極的に重要なことである。神の前における人間の咎は途方もなく大きい。人間が死後に地獄に至るという危険は、焦眉の急であり、すさまじいものである。だがしかし、人間には自分の罪をぬぐい去ることができない! こう書かれており、それは正しい。「律法を行なうことによっては、だれひとり……義と認められないからです」(ロマ3:20)。

 (a) あなたの罪は、それについて悲しむだけではぬぐい去られない。あなたは、自分の過去のよこしまさについて嘆き、荒布を着、灰をかぶって、身をへりくだらせるかもしれない。滝のように涙を流し、自分の咎と危険を認めるかもしれない。あなたは、こうしたことができるし、----そうしなければならず、----そうすべきである。しかし、あなたはそうすることによって、あなたのそむきの罪を神の書からかき消すことはできない。《悲しみによって罪を贖うことはできない。》

 刑事裁判所で有罪宣告を受けた犯罪者は、しばしば自分の犯した罪について悲しむ。自ら招き寄せた悲惨と破滅とを見てとる。助言に耳を傾けず、誘惑に屈した自分の愚かさを嘆く。しかし、彼が悲しんでいるからといって裁判官は彼を釈放しはしない。行なわれたことは取り返しがつかないのである。法は破られたのである。刑罰は招かれたのである。犯罪者にいかに涙があふれても、処罰がなされなくてはならない。----これこそ、まさに神の前におけるあなたの立場である。あなたの悲しみは正しく、良く、ふさわしいことである。しかし、あなたの悲しみには、あなたの罪をぬぐい去る力は全くない。あなたの心から重荷を取り除くには、悔悟以上の何かが必要である。

 (b) あなたの罪は、あなたの生き方を改めることではぬぐい去られない。あなたは自分のふるまいを改善し、心を入れ替えてやり直し、多くの悪習慣と手を切り、多くの良い習慣を身につけるかもしれない。一言で云えば、あなたは外的な態度すべてにおいて、一変した人となるかもしれない。あなたは、こうしたことができるし、----そうしなければならず、----そうすべきである。このような変化なしには、いかなる魂もいまだかつて救われたことはない。しかし、あなたはそうすることによって、あなたの咎をただの1つたりとも神の書からかき消すことはできない。《生活の改善によって罪を贖うことはできない。》

 一万ポンドの借金をかかえて破産し、10シリングも返済能力がなくなった商売人は、心を入れ替えようと決心するかもしれない。全財産を浪費するほど放蕩三昧に明け暮れた後で彼は、堅実で、決して酒に手を出さない、上品な生き方をする者になるかもしれない。彼がそのようになることはみな正しく、良いことである。だが、これで彼の債権者たちの請求を満足させることにはならない。もう一度私は云う。これこそ、まさに神の前におけるあなたの立場である。あなたは神に一万タラントの借財があり、「返すことができない」。きょう行なう生活改善はみな非常に良いものではあるが、それで昨日の負債が帳消しになるわけではない。----あなたに正しい心を与え、あなたの良心を自由にするには、生活の改善や建て直し以上の何かが必要である。

 (c) あなたの罪は、キリスト教信仰の形式や典礼を勤勉に用いることではぬぐい去られない。あなたは日曜日に関する自分の習慣を改め、朝から晩まで集会に集うかもしれない。万障繰り合わせて、日曜だけでなく平日にも説教を聞くようにするかもしれない。機会がありさえすればいつでも主の晩餐を受け、施しをし、断食するかもしれない。これらはみな、それなりに良いことである。キリスト教信仰に関わる義務を果たすのは正しく、またふさわしいことである。しかし、この世にあるありったけの恵みの手段によっても、あなたがそれらを救い主としてより頼んでいる限り、決していかなる善もあなたに施すことはない。それらはあなた心の傷を包み、あなたに内なる平安を与えることはない。《形式を尊重することによって罪を贖うことはできない。》

 角灯は暗い夜には非常に役に立つものである。それは旅人が家路を辿る助けとなる。それによって人は道に迷いも、危険に落ち込みちもせずにすむであろう。しかし角灯そのものが旅人の炉辺ではない。路上で自分の角灯のそばに座り込んで満足している人が凍え死んだとしても何の不思議でもない。もしあなたが恵みの手段に形式的に携わることで自分の良心を満足させようとするなら、あなたはこの旅人も同然のことをしているのである。あなたの良心から重荷を取り除き、あなたに神との平和をもたらすには、信仰的な形式を尊重すること以上の何かが必要である。

 (d) あなたの罪は、人間に助けを求めることではぬぐい去られない。他人の魂を救うなどということは、いかなるアダムの子の手にも余ることである。いかなる主教も、いかなる司祭も、いかなる教会や教派の叙任を受けた人間も、罪を赦す力は有していない。人間によるいかなる赦罪も、たとえいかに厳粛に授けられたとしても、神によってきよめられていない良心をきよめることはできない。良心が困惑させられるとき、福音の教役者の助言を求めるのは良いことである。疲れている人々、重荷を負っている人々を助け、彼らに平和の道を示すのは、教役者の職務である。しかし、だれかをその咎から解放することは、いかなる教役者の手にも余ることである。私たちは、単に辿るべき道を示すことしかできない。だれもが叩かなくてはならない扉を指さすことしかできない。良心を鎖から解き放ち、とりこを自由にするには、人間の手よりもはるかに強い手が求められる。《アダムのいかなる子も、その兄弟の罪を取り除くことはできない》。

 破産者が、もうひとりの破産者に向かって、自分の商売の立て直しを依頼しても、時間の無駄にしかならない。乞食が、隣の乞食のところに行って、自分の困窮を助けてくれと頼んでも、相手をわずらわせることにしかならない。囚人は、同房の囚人に向かって自分を自由にしてくれと頼みはしない。難破した船乗りは、自分と一緒に難破した仲間に向かって、自分を無事に海岸に引き上げてくれ、と求めたりしない。こうした場合の助けはみな、どこか別の方面に乞い求めなくてはならない。あなたの罪をぬぐい去る件についても、全く同様である。あなたがそれを人間にしてもらおうとしている限り、相手が叙任された人であろうがあるまいが、あなたはそれを見つかるはずのないところで探しているのである。あなたは、さらに先へと向かわなくてはならない。さらに高きを見上げなくてはならない。慰めを得るには、どこか他の場所に目を向けなくてはならない。地上の、あるいは天上の、いかなる人間にとっても、別の人間の魂から罪の重荷を取り除くことは手に余ることである。「人は自分の兄弟をも買い戻すことはできない。彼の身のしろ金を神に払うことはできない」(詩49:7 <英欽定訳>)。

 あらゆる時代の幾万もの人々が、いま私が述べてきたような数々のしかたで自分の罪をぬぐい去ろうとしてきたが、その努力はむなしかった。疑いもなく、今のこの時点においても、幾万もの人々がそうした努力をしつつあり、「何のかいもなく、かえって悪くなる一方」であることに気づいているであろう(マコ5:26)。彼らは、懸命の努力をして、氷壁をよじのぼろうとしているが、登るのと同じくらい早く滑り落ちているのである。----彼らは、やっきになって、穴だらけの桶に水をつぎ込んでいるが、始めた時と全く変わらず、自分の労苦の終わりには近づいていない。----彼らは急流をさかのぼろうと端艇で力漕しているが、実は毎分毎分押し流されつつある。----彼らはくたくたになるまで働いて、流れ落ちる砂で壁を作ろうとしているが、自分たちの積み上げたものが絶え間なく崩れ落ちてくるのを目の当たりにしている。----彼らは沈み行く船から水を汲み出そうと激しく働いているが、どんどん水かさが増してゆき、まもなく溺れ死ぬことになる。----これこそ、世界のいかなる地域においても、自分で自分の罪をぬぐい去ろうと考えているすべての人々が経験していることである。

 私はこの論考を読んでいるあらゆる方々に警告したい。キリスト教信仰における、いかさま療法に用心するがいい、と。悔悟や、生活改善や、形式尊重や、僧職者頼みによって、神との平和が与えられると考えることに用心するがいい。それは決してそれらによっては与えられない。それらにそのような力はない。ある、と云う人は、2つのことについて無知であるに違いない。その人は、人間の罪深さの長さと広さについて、まるで知っていないに違いない。神の聖さの高さと深さについてまるで理解していないに違いない。自分で自分の罪をぬぐい去ろうと試みた人の中で、このようにすることによって救われた人は、いまだかつて地上にひとりも生存したことがない。

 もしあなたがこの真理を経験によって知っているなら、熱心になってこの知識を他の人にも分け与えるがいい。できる限り平明な言葉で、彼らの生まれながらの咎と危険を示してやるがいい。それと劣らぬほどの平明さをもって彼らに告げるがいい。自分の罪が赦され、ぬぐい去られることが途方もなく重要であることを。しかし、そのときには、不当な方法によってきよめられようと努力しないように警告するがいい。『天路歴程』で生き生きと描き出されているような、「遵法者」とその仲間が口にしている、まことしやかな助言に従わないように警告するがいい。魂を癒すという、まがいものの治療方法や、いかさま療法に対して警告するがいい。むしろ彼らを、聖書に述べられている、古いくぐり戸へ向かわせるがいい。その道がいかに困難で険しく見えようとも関係ない。彼らに向かって云うがいい。それは「昔からの通り道、幸いの道」であり、人が何と云おうと、これこそ私たちの罪がぬぐい去られることのできる唯一の道なのだ、と(エレ6:16)。

 IV. 私が述べたい第四の所見はこのことである。イエス・キリストの血は私たちのすべての罪をぬぐい去ることができる

 私は、自分の論考のこの部分に感謝に満ちた心で入っていくものである。神を賛美すべきことに私は、読者の前にその霊的な病の致命的な性質を示した後で、全能の治療法を彼らの前に示すことができるのである。しかし、この治療法については、しばし詳しく述べておく必要があると感じる。この「血」のように素晴らしい効力を有するもののことは、明確に理解しておかなくてはならない。これに関するあなたの考え方には、一点の曇りも疑念もあるべきではない。あなたが「キリストの血」について聞くとき、あなたはその云い回しで何が意味されているか完全に理解すべきである。

 キリストの血とは、主イエスが十字架上で罪人たちのために死んだときに流した生き血のことである。それは主が十字架につけられて殺された日に、いばらで突き刺された主の頭と、釘で打ちつけられた主の手足と、槍で刺された主の脇腹とからふんだんに流れ出た血のことである。その血の量は、おそらくは非常に少なかったであろう。その血の見かけは、疑いもなく私たちの血と何の変わりもないものであったろう。だが、アダムが最初に地のちりから形作られた時以来、これほど人類全体にとって深い意義を有する血が流されたことは一度もなかった。

 それは、古い昔から契約され、約束されていた血であった。罪が世に入ったその日に、神はあわわれみ深くも「女の子孫は、蛇の頭を踏み砕く」*と約束してくださった(創3:15)。いつの日か、女から生まれたひとりの人物が現われ、アダムの子らをサタンの力から解放してくださるというのである。女のその《子孫》こそ私たちの主イエス・キリストであった。主は、十字架上で苦しみを受けた日に、サタンに対して勝利をおさめ、人類の贖いを成し遂げたのである。イエスがその生き血を十字架上で流したとき、蛇の頭は踏み砕かれ、かの古の約束が成就したのである。

 それは、古い昔から予型と象徴によって前もって示されていた血であった。族長たちによってささげられたあらゆるいけにえは、後に来る、さらにすぐれたいけにえに対する彼らの信仰を証言するものであった。モーセ律法のもとで流された、あらゆる小羊と山羊との血は、世の罪のために神の真の《小羊》が死ぬことを予表するためのものであった。キリストが十字架にかけられたとき、こうしたいけにえや予型はその完全な成就を見たのである。罪のための真のいけにえが、とうとうささげられたのである。まことの贖いの血が、とうとう流されたのである。その日以来、モーセ律法のいけにえはもはや必要がなくなった。その働きは終わった。古い暦のように、それらは永遠に打ち捨てられてよくなった。

 それは、神の前で無限の功績と価値を有する血であった。それは、単に抜きんでて聖いひとりの人の血ではなく、神ご自身の「仲間」であるお方、まことの神の神にほかならないお方の血であった(ゼカ13:7)。それは、真理のために殉教した人のように、しいられて死んだ者の血ではなく、自ら進んで人類の《身代わり》となり、《代理人》となること、彼らの罪を負い、彼らの咎をになうことを引き受けたお方の血であった。それは、人間のそむきの罪を贖った。それは人間の、神に対する莫大な負債を支払った。それは、罪深い人と、その聖なる造り主との間に、義なる和解の道を切り開いた。人間が神のみもとに近づき、なおかつ恐れないでいることのできる道路を作り出した。これがなければ、そこには何の罪の赦しもありえない。これによって神は、「ご自身が義であり」、また、不敬虔な者を「義とお認めになる」ことができる。ここから1つの泉が生じており、その中で罪人たちは永遠にわたって身を洗いきよめることができるのである(ロマ3:26)。

 この驚くべきキリストの血が、あなたの良心に塗りつけられるとき、それによってあなたは、すべての罪からきよめられる。あなたの罪がいかなるものであろうと全く関係ない。「あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる」(イザ1:18)。若い時の罪や年老いてからの罪から、----無知による罪や故意の罪から、----公然たる不品行の罪や隠れた悪徳の罪から、----律法に反する罪や福音に反する罪から、----頭と心と舌と思いと想像力の罪から、----十戒の1つ1つの戒めに反する罪や十戒すべてに反する罪から、----こうしたすべてから、キリストの血は私たちを自由にすることができる。これを目当てとして、それは定められたのである。この大目標のためにそれは流されたのである。この目的のために、それは今も全人類の前に開かれた泉なのである。あなたが自分ではできないそのことが、この尊い泉によれば一瞬で成し遂げられるのである。《あなたは、あなたの罪をことごとくぬぐい去られることができるのである》。

 この血の中で、これまでのすべての死んだ聖徒たちはきよめられ、いまは義人の復活を待っているのである。そうした者の中で私たちが最初に読むアベルから、きょう眠りにつく最後のひとりに至るまで、彼らはみな「その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです」(黙7:14)。ひとりたりとも、自分の行ないや功績によって安息に入った者はいない。ひとりたりとも、自分の善良さや、自分の力によって神の前で自分をきよくした者はいない。彼らはみな「小羊の血……のゆえに……打ち勝った」(黙7:11)。そして、パラダイスにおける彼らの証言は明確で、あいまいさのないものである。「あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために私たちを贖いました」(黙5:9 <英欽定訳>)。

 この血によって、神のすべての生きている聖徒たちは、いま平安と希望を有している。これによって彼らは、大胆に至聖所に入ることができる。これによって彼らは、義と認められ、神に近い者とされている。これにより彼らの良心は日々清浄にされ、聖なる確信で満たされている。このことについては、あらゆる信仰者が同意している。それ以外の点でいかに意見を異にしていようと関係ない。監督派も、長老派も、バプテスト派も、メソジスト派も、----すべての者が、キリストの血こそ魂を唯一きよめうるものであると同意している。----すべての者が、私たちは自分自身では「みじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者である」ことに同意している(黙3:17)。しかしすべての者が、キリストの血において罪人のかしらさえきよい者となれると同意している。

 あなたは、私たち福音の教役者が何をするために叙任されているか知りたいだろうか? 私たちが取り分けられている目的は、単に礼拝を司式し、礼典を執行し、人々を結婚させ、死者を葬るためばかりではない。私たちは、単にあなたがたに、教会や、自分自身や、自分たちの党派を示すほか何もしないためにいるのではない。私たちが特になすべき働きは、人々に「キリストの血」を示すことである。そして、もしも絶えずそれを示していないとしたら、私たちは真に福音の教役者ではないのである。

 あなたは、私たちが仕えている人々の魂について、私たちが心から願い、祈っていることが何か知りたいだろうか? 私たちは彼らを「キリストの血」のもとに至らせたいのである。私たちは、自分の教会が人で一杯になったり、私たちの礼典に集う人がたくさんいたり、私たちの会衆の人数がふくれ上がったり、私たちの働きが見るからに急成長するとしても満足しはしない。私たちが見たいのは、人々がこの、罪と汚れをきよめる、大いなる《泉》のもとに来て、自分の魂をその中で洗ってきよめられることである。ここにしか、良心の安息はない。ここにしか内なる人の平安はない。ここにしか霊的病を癒す道はない。ここにしか、軽やかで幸いな心をいだく秘訣はない。疑いもなく私たちは、自分の内側に悪と腐敗の泉を有している。しかし、神はほむべきかな、それよりもさらに力強い、もう1つの《泉》があるのである。----すなわち、《小羊》の尊い血である。そして、そのもう1つの《泉》で日々身を洗うことによって、私たちはあらゆる罪からきよめられるのである。

 V. 私の第五の、そして最後の所見はこのことである。信仰こそ、この罪をきよめるキリストの血の恩恵にあずかるために私たちが絶対に必要とし、唯一必要とするものにほかならない

 私はこの点に、あらゆる読者が特に注意してほしいと思う。ここで誤りに陥ることによって、多くの人の魂が滅びへと至るのである。キリストと魂とを真に結び合わせる道を明確に見てとっていない限り、あなたのキリスト教の船底には大きな漏れ口が開いている。----その道とは信仰にほかならない。

 教会員籍や、礼典にあずかることは、あなたがキリストの血で洗われているという何の証拠でもない。幾万もの人々がキリスト教の礼拝所に集い、主の晩餐を、キリスト教の教役者の手から受けているが、自分が罪からきよめられていないことを如実に示している。もし救われたいという願いを少しでも持っているなら、恵みの手段を軽蔑しないように用心するがいい。しかし、決して、決して忘れてはならない。教会員籍が信仰ではない、ということを。

 信仰は、あなたが、罪をきよめるキリストの血の恩恵にあずかるために必要なただ1つのことである。キリストは、「その血による、また信仰による、なだめの供え物」と呼ばれている。----「御子を信じる者は永遠のいのちを持つ」。----「すべての点について、信じる者はみな、この方によって、解放されるのです」。----「信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています」(ロマ3:25; ヨハ3:36; 使13:39; ロマ5:1)。----世界中の知恵を寄せ集めても、思い悩む求道者に対しては、あのピリピの看守に対してパウロが与えた答えにまさる答えを与えることは決してないであろう。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも……救われます」(使16:31)。----福音は云う。「あなたは罪を確信しているか? 本当に自分が多くの罪を持っていること、地獄に値していることを知っているか? 自分の力によって自分の罪を自分できよめる望みをことごとく放棄しているか? ならば、あなたは福音が慰めを差し出している、まさにその人である。キリストの贖いの血を見るがいい! その血により頼みさえすれば、この日あなたは無代価で赦されるであろう。信じさえすれば、今この瞬間にも、あなたの罪はぬぐい去られるであろう」。----それは単に、「信じて受ける」だけである。それは単に、「信じてきよくなる」だけである。この教理を誇大妄想であるとか熱狂主義であるとか呼びたい者は呼ぶがいい。私はそれを別の名で大胆に呼ぶものである。それは神の恵みから出た「栄光の福音」である。

 信仰についてこのような話し方をするからといって、だれも私の意図を誤解しないでほしい。私は何も、信仰だけが、罪をぬぐい去られた人のしるしであると云っているのではない。私は何も、キリストの贖いの血の恩恵に人をあずからせる信仰が、他に何も伴わずにぽつんと孤立していることがありえると云っているのではない。救いに至る信仰は決して不毛の、孤独な恵みではない。それには常に、悔い改めや、個人的な聖潔が伴っている。----しかし、私はこのことを確信をもって云うものである。----すなわち、魂をキリストにあずからせる点では、信仰こそ唯一求められていることである、と。神の前において義と認められるという点では、私は何度も強く云うが、信仰こそ並びなきものである。信仰こそキリストをつかむ手である。信仰こそ、罪人にこの《救い主》に対する請求を始めさせ、続けさせ、保たせるものである。信仰によって私たちは義と認められる。信仰によって私たちは自分の魂を、罪のためのこの大いなる《泉》に浸す。信仰によって私たちは、自分の旅路の続く限り、赦しのあわれみを日々清新に受け取り続けていく。信仰によって私たちは生き、信仰によって私たちは立つ。

 この信仰のほか、いかなるものも、あなたが完全に義と認められ、すべての罪からきよめられるためには、求められていない。このことをあなたの思いに深く沈潜させるがいい。福音からの真の慰めを享受したいと願う人がだれかいるだろうか? 私はあなたに切に願う。救いに至る信仰の性質について、明確で単純な見解を持てることを求めるがいい。信仰についての、曖昧模糊とした、混乱した、はっきりしない考え方に陥らないように用心するがいい。そうした考え方によって多くの人々は自分の魂を悩ませているのである。信仰は知性の行なう一行為にすぎない、などという考え方はきれいさっぱり忘れてしまうがいい。信仰は、教理や信条集への同意ではない。ペイリの『証拠論』だのピアスンの『信条の講解』を信じ込むことではない。信仰とは単に、悔いた心が《全能の救い主》によって差し出された手をつかむこと----倦み疲れた者が《全能の友》の胸に頭をもたせかけること----にほかならない。キリストを信ずるということにおいては、いかなる行ないや、功績や、行為や、達成や、支払うことや、与えることや、買い取ることや、労することといった考え方もみな打ち捨てるがいい。理解するがいい。信仰とは与えることではなく、受け取ること、----支払うことではなく、受け入れること、----買うことではなく、豊かにしていただくこと、なのである。信仰は青銅の蛇を見上げる目であり、そのように見ることによっていのちと健康を得ることである。それは、息を吹き返させる治療薬を飲み下すことであり、飲むことによって全身に力と強さを受けることである。それは、溺れかかった人が自分のもとに投げられた綱を握りしめる手であり、握りしめることによってその人は深い海底から傷1つ負わず無事引き上げられることができるのである。このことが、他のいかなるものでもないこのことだけが、救いに至る信仰の真の考え方なのである。これこそが、これだけこそが、あなたをキリストの血の恩恵にあずからせるために求められる信仰なのである。このようなしかたで信ずるがいい。そうすればあなたの罪はたちまちぬぐい去られる!

 この信仰のほかいかなるものをもってしても、あなたをキリストの贖いの血の恩恵にあずからせることはないであろう。あなたは毎日キリスト教会に行くかもしれない。しばしばキリストの御名を用いるかもしれない。イエスの御名が口にされるたびに頭を垂れるかもしれない。キリストが受けるようにお命じになったパンと葡萄酒を口にするかもしれない。しかし信仰がなければ、その間ずっとあなたは、キリストとは何の関係もないし、キリストにあずかることもできず、キリストの血はむだに流されたのである。

 私は、現今この厳粛な主題についてはびこっている数々の観念に対して厳粛な抗議をするものである。多くの人々はいま、キリストを信ずることなどなくともだれでも救われることはできる、と主張している。私はこのような意見に抗議する。ある方面では、「全世界の父なる神」だの「神の愛」だのについての漠然とした話が大々的になされている。まるで、「福音主義者」と呼ばれる私たちが、こうした栄光の真理を否定してでもいるかのようである。私たちはこうしたことを全く否定してはいない。こうしたことを強く主張する点で、人後に落ちはしない。この件において、おさおさ他人に劣るものではない。しかし私たちが全く否定するのは、神が、キリスト・イエスに対する信仰による神の子どもたち以外のだれかの霊的の父である、などということである(ガラ3:26)。私たちが全く否定するのは、神の愛の現われたるお方、すなわち神の愛する御子を信ずる者たち以外の人々にも、神の愛によって慰めを受ける権利がある、などということである。神の御子の贖いの血は、罪人たちに対する愛を神が壮大に披瀝なさったものである。救われたいと願う罪人は、その血を流したお方と個人的な関係に入らなくてはならない。個人的な信仰によってその人は、その血の中で身を洗わなくてはならない。個人的な信仰によってその人は、その血を飲まなくてはならない。個人的な信仰によってその人は、その血のあらゆる祝福を自分のものとして請求しなくてはならない。この信仰がなければ、いかなる救いもありえない。

 私たち教役者が、自分の説教において目指している一大目標が何か知りたい人がいるだろうか? 私たちが説教するのは、あなたが信じるようになるためである。信仰こそ私たちがあなたの魂の中に生み出されるのを見たいと願っているものである。信仰こそ、私たちが、いったん生み出されたならば、成長していくのを見たいと願っているものである。私たちは、あなたが定期的に福音を聞きにやって来るのを見れば喜ぶ。私序正しく、行儀の良い礼拝者たちからなる会衆を見るのを喜ぶ。だが、信仰、信仰、信仰----こそが、私たちがあなたの魂の中で見たいと切望する一大成果なのである。信仰がない限り、私たちはあなたについて心安らかになれない。信仰がない限り、あなたは今にも地獄に落ちかねない危険の中にある。あなたの信仰に応じて、あなたのキリスト教は強くなるであろう。あなたの信仰の程度に応じて、あなたの平安と、希望と、神とともなる歩みは増し加わるであろう。あなたは、私たちが何にもまして気遣っているのが、あなたの信ずることであることを不思議に思わないであろう。

 私は急いでこれらの所見を結論に導きたいと思う。私はあなたに5つのことを示そうとしてきた。また、それらをあなたの前に平易な言葉遣いで提示しようと努めてきた。(1) 私はあなたに、あなたには多くの罪があることを告げた。(2) 私はあなたに、こうした罪がぬぐい去られることの究極的な重要性を告げた。(3) 私はあなたに、あなたが自分自身の罪をぬぐい去れないことを告げた。(4) 私はあなたに、キリストの血がすべての罪からきよめることを告げた。(5) 私はあなたに、信仰こそ、キリストの血の恩恵にあずかるために唯一必要な、しかし絶対に必要なものであると告げた。私があなたに告げてきたのは、神ご自身の真理であると私が固く確信するところのものである。----自分でも、その上に立って生き、そして死にたいと願っている真理である。私は神に祈るものである。願わくは聖霊が大いなる力をもって、この真理を多くの魂にあてはめてくださるように、と。

 最後に、3つの適用の言葉によって、この主題全体をしめくくらせてほしい。私たちの年月は急速に過ぎ去りつつある。だれも働くことのできない夜が来る。もうしばらくすれば、来世における私たちの立場は永遠に定まるであろう。もう何年もしないうちに、私たちは天国か地獄にいることになるはずである。確かにこの事実だけとってみても、私たちは考えこまされてしかるべきである。

 1. 私の最初の適用の言葉は、1つの問いかけである。私はそれを、この論考を手に取ることになるすべての人々に、何の分け隔てもなく語りかけたいと思う。それは、この世の中のありとあらゆる人にとって、身分や立場の別なく、深く関わる問いかけである。それは、私たちの主題から自然に生ずる問いかけである。「あなたの罪はどこにあるだろうか?

 思い出してほしいが、私はあなたが宗教上何と自称しているかを尋ねているのではない。あなたがどの教会に通っているか、----何という説教者の話を聞いているか、----何という派に属しているか、----あなたが国教会や非国教会についていかなる特定の意見を有しているかを問うているのではないか。そのようなことを私は放っておく。こうした事がらに関して、おびただしい数の人々が年々歳々犯している途方もない時間の浪費を見ることに私はうんざりしている。私が求めているのは、キリスト教の実質と実体である。私があなたの注意を据えたいと思うのは、あなたの死のまぎわに、また最後の審判の日に重要であると思われる事がらである。そして私は大胆に云う。あなたの注意が真っ先に求められる問題の1つは、この問いである。「あなたの罪はどこにあるだろうか?

 私が尋ねているのは、あなたがいつか将来の日に何を意図し、何を企図し、何を望み、何を目指そうと決意しているか、ということではない。私はこうしたことすべてを、子どもたちや愚者たちにまかせておく。明日は悪魔の日だが、今日は神の日である。そしていま私は、神の前であるかのように、あなたに求めたい。きょうのこの日、私の論考を読んでいる間に、私のこの問いかけに対する答えを見いだしてほしい。「あなたの罪はどこにあるだろうか?

 私が求めたいのは、今から私が云おうとすることに注意することである。私はこのことを冷静に、よくよく考え、熟慮の上で、あだやおろそかにではなく云うものである。私はあなたに告げたい。今のこの瞬間に、あなたの罪がある場所は、たった2つしかなく、この世のありったけの知恵を傾けても、第三の場所はないはずだ、と。あなたの罪は、赦されもせず、赦罪を受けてもおらず、きよめられもせず、洗い流されもしないまま、《あなた自身の上に》ある、----そして、日々あなたを地獄の近くへ沈めつつある! さもなければ、あなたの罪は《キリストの上にあり》、キリストの血によって取り除かれ、赦され、赦罪を受け、帳消しにされ、ぬぐい去られている! 私は人の罪がありうべき、いかなる第三の場所も見てとることが全くできない。いかなる第三の選択肢も発見できない。赦されているか赦されていないか、----赦罪を受けているか受けていないか、----ぬぐい去られているかぬぐい去られていないか、----聖書によれば、これこそ、あらゆる人の罪の正確な立場である。あなたにとってはどうだろうか? 「あなたの罪はどこにあるだろうか?

 私はあなたに切に願う。この問いかけを心に銘記し、それに答えを返せるようになるまで決して安んじないようにしてほしい、と。私はあなたに懇願したい。自分自身の状態を吟味し、----あなた自身の霊的な状態を試し、----あなたと神との関係がどうなっているかを突きとめるように、と。自分の魂をいいかげんに扱い、ぐずぐずしているのは、過ぎ去った時で十分とするがいい。そうした態度は捨て去るがいい、----捨て去るがいい、----永遠に捨て去るがいい。単なる形式的な、漫然とした、意味も慰めもないキリスト教信仰を有しているのは、過ぎ去った時で十分とするがいい。そうしたものは打ち捨てるがいい、----打ち捨てるがいい、----永遠に打ち捨てるがいい。実質のある者となるがいい。徹底的な者となるがいい。真剣な者となるがいい。理性ある存在として自分の魂を扱うがいい。永遠の資産がかかっていると感じている者のように魂を扱うがいい。心を決めた者のように、また、もはや中途半端のまま生きることはできないと決意した者のように魂を扱うがいい。おゝ、まさにこの日、私の問いに対する答えを見いだそうと決意するがいい。「あなたの罪はどこにあるだろうか?」 それらはあなたの上にあるだろうか? あるいは、キリストの上にあるだろうか?

 2. 私の第二の適用の言葉は、1つの招きである。私はこれを、私の論考の問いかけに満足な答えを返せないと感じているすべての人々に語るものである。自分が罪深く、失われており、罪に定められていて、死ぬ備えができていないと感じるすべての人々に語るものである。この招きこそ、福音の栄光である。私はあなたに云う。「キリストのもとに来て、一刻も早くその血によりきよめていただくがいい」、と。

 私はあなたが、過去の人生をどのように過ごしてきたか知らない。それは全く問題ではない。あなたは天が下のあらゆる戒めを破ってきたかもしれない。光と知識に真っ向から反して罪を犯してきたかもしれない。父の警告も母の涙も侮ってきたかもしれない。あらゆる行き過ぎた放蕩を貪婪にむさぼり、ありとあらゆる類の忌まわしい不品行に陥っていたかもしれない。神と、神の日と、神の家と、神の教役者と、神のことばとに、全く背を向けて歩んできたかもしれない。私はもう一度云うが、それは全く問題ではない。----あなたは自分の罪を感じているだろうか? それらをもうたくさんだと思っているだろうか? それらを恥じているだろうか? それらにうんざりしているだろうか? ならば、今のままのあなたでキリストのもとに来るがいい。そうすれば、キリストの血はあなたをきよめるであろう。

 私はあなたが、ぐずつき、疑い、話がうますぎて本当と思えない気持ちでいるのが見える。悪魔があなたの耳に囁いているのが聞こえる。「お前は悪すぎる。救われるにはよこしますぎる」、と。私は、神の御名によってあなたに命じる。そのような疑いに屈してはならない。私はあなたに思い起こさせよう。サタンが常に偽り者であったことを。かつて彼はあなたに、キリスト教を信ずるのは「まだ早すぎる」、と語り、今はあなたに、それは「もう遅すぎる」、と語っているのである。私は確信をもって云うが、イエス・キリストは、「ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります」(ヘブ7:25)。私は確信をもって云うが、キリストは、これまであなたと同じくらい悪かった幾万もの人々を受け入れ、きよめ、赦してこられたのである。キリストは決して変わることがない。ただキリストのもとに行きさえすれば、その血はあなたをすべての罪からきよめるであろう。

 私はあなたが途方に暮れて、何をどうすべきかわからないでいるのが見える。私はあなたが、どの道を行くべきか、いかなる一歩を踏み出せばいいのか、どのようにして私の助言に従えばいいのかがわからないでいるのがよくわかる。私はあなたに命ずる。行って、その通りのことを主イエス・キリストに云うがいい! 私はあなたに命ずる。どこか静かな、ひとりきりになれる場所を見つけて、あなたの心をキリストの前に注ぎ出すがいい。キリストに申し上げるがいい。自分はあわれでみじめな罪人です、どう祈るべきかも、何と云うべきかも、何をすべきかもわかりません、しかし私はあなたの血が人をすべての罪からきよめることについて聞きました、どうか私のこともお考えになって、私の魂をきよめてください。そう願い求めるがいい。おゝ、この忠告に従うがいい。----そうすれば、あなたがいつの日かこう云わないとだれにわかろう? 「キリストの血はまことにすべての罪から人をきよめます」、と。

 最後にもう一度、私は私の招きを差し出したい。私は、あなたがしがみついている難破船のかたわらにつけた救命艇の中に立って、あなたにこちらへ来るよう切に願っている。日はまもなく暮れようとしている。夜が近づきつつある。黒雲が密集しつつある。波が高まり出している。もうしばらくすれば、この世という古ぼけた難破船はばらばらに解体するであろう。この救命艇の中に来るがいい。来て、安全になるがいい。キリストの血のもとに来るがいい。身を洗って、きよくなるがいい。あなたのあらゆる罪をもってキリストのもとに行き、それらをキリストの上に投げかけるがいい。キリストはそれらを運び去り、それらをきよめ、それらを赦してくださるであろう。ただ信じて、救われるがいい。

 3. 私の最後の言葉は、1つの勧告である。私はそれを、御霊に教えられて自分の罪を感じるようになり、福音で指し示された希望へと逃れ来たったすべての人々に対して語るものである。私はそれを、この大いなる真理を見いだしたすべての人々に語るものである。すなわち、自分が咎ある罪人であること、キリストの血で身を洗ったこと、そのとき自分の罪がぬぐい去られたことを悟っているすべての人々に語るものである。この勧告は単純明快なものである。私はそうした人々に命ずる。「キリストにすがりつき続けるがいい」、と。

 私は云う。キリストにすがりつき続けるがいい。そして、あなたがキリストに負っている負債を決して忘れないようにするがいい。あなたが最初に聖霊によって召されて、イエスのもとに逃れ来たったとき、あなたは罪人であった。あなたの回心の日以来あなたは、最良のときであっても、やはり罪人であった。あなたが死の時を迎えるときにも、あなたは、自分自身には何1つ誇るところのない罪人であるであろう。では、キリストにすがりつき続けるがいい。

 私は云う。キリストにすがりつき続けるがいい。そして、その贖いの血を毎日用い続けるがいい。毎朝、朝のいけにえとしてのキリストのもとに行き、自分がその救いを必要としていることを告白するがいい。毎晩、せわしない一日が暮れた後でキリストのもとに行き、新たな赦罪を乞い求めるがいい。この世との接触によりあらゆる汚れを受けた後で、毎晩この大いなる《泉》で身を洗うがいい。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません」。しかし、その足は洗う必要があるのである(ヨハ13:10)。

 私は云う。キリストにすがりつき続けるがいい。そして、あなたがいかにキリストを愛しているかを世に示すがいい。それを、キリストの戒めへの従順によって示すがいい。キリストの似姿になっていくことによって示すがいい。キリストの模範に従うことによって示すがいい。人々の前で、あなた自身の気質や生活の聖さによって、あなたの《主人》のために働くことを愛すべき美しいものとするがいい。全世界に見せつけてやるがいい。多く赦された者こそ、よけいに愛する者であり、最も愛する者こそ、キリストのため最も多く働く者である、と(ルカ7:47)。

 私は云う。キリストにすがりつき続けるがいい。そして、十字架上でその血によって成し遂げられた贖いを尊く思うがいい。キリストの受肉とその模範を尊重するがいい。----キリストの奇蹟とみことばを尊重するがいい。----キリストの復活と、とりなしと、再臨を尊重するがいい。しかし、何にもまして、キリストのいけにえと、キリストの死によって成し遂げられたなだめとを、最も尊く思うがいい。キリストの贖いに関する、昔からの信仰のために熱心に戦うがいい。キリストが罪人たちの《身代わり》として死んだ、という昔からの教理の中に、旧約聖書の一千もの箇所、新約聖書の百もの箇所を解き明かす唯一の説明を見てとるがいい。決して、決して人に知らせることを恥じてはならない。あなたが、自分の慰めのすべてをキリストの贖いの血と、あなたのための十字架上の身代わりから引き出しているということを。

 最後に私は云う。キリストにすがりつき続けるがいい。そして、キリストの血による救いという、昔からの土台となる真理を大いに重んずるがいい。これこそ、私たちが世を去る時に、私たちの魂が最後に向かうであろう昔からの友人たちである。これこそ、私たちのいのちが次第に衰え、死が姿を現わしつつあるときに、私たちが自分の痛む頭をもたせることになる古来の教理である。そのときには私たちは、自分が監督派であったか、長老派であったか、国教徒であったか、非国教徒であったかなどと自問しはしない。最新流行の観念や、人間のでっちあげなどに慰めを見いだすことはない。----バプテスマや教会員籍にも、----自分の党派や教派にも、----儀式や形式にも慰めは見いだせない。そのとき私たちに善を施すものはただ1つ、キリストの血しかないであろう。そのとき私たちを支えるものはただ1つ、キリストの血で私たちが身を洗い、その血によってきよめられたという、御霊の証しだけであろう。

 私は、本書を読むすべての方々が、こうした事がらに真剣な注意を払ってほしいと思う。もしあなたが、こうした事がらを以前は全く知らなかったとしたら、今すぐこれらと親しむように! もしあなたがこれらを以前から知っていたとしたら、これからはいやまして深くこれらを知るように! 私たちは、この大いなる問いかけに対する正しい答えをいくら深く知っても十分ということはないのである。----「あなたの罪はどこにあるだろうか?

私たちの罪![了]

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