"Alive or Dead?"         目次 | BACK | NEXT

5. 「生きているか、死んでいるか?」


「神は死んでいたあなたがたを生かしてくださいました」----エペ2:1 <英欽定訳>

 この論考の題名となっている問いかけは、幾多の考えを巡らすに値するものである。私は本書を読んでいるあらゆる方々に、この問いに注意深く向き合い、じっくり考えを巡らすように願いたい。本書を措く前に、ぜひとも自分自身の心を探って、厳粛な自己省察をするがいい。----あなたは、生きている人々の中に入るだろうか、死んでいる人々の中に入るだろうか?

 私の言葉に耳を傾けていただきたい。私はあなたが答えを返す手助けをしようと思う。注意してほしい。私はこの問題を解き明かし、この件について神が聖書で何と云っておられるかをあなたに示したいと思う。もし私が厳しい事を云うとしても、それはあなたを愛していないからではない。私が今から書くようなことを書くのは、あなたに救われてほしいと願えばこそなのである。人間にとって最良の友とは、その人に最も真実のことを告げてくれる人にほかならない。

 I. まず最初に、私たちがみな生まれながらにいかなるものであるかを告げさせてほしい。----私たちは霊的に《死んでいる》!

 「死んでいる」とは強烈な言葉だが、これは私が勝手にひねりだした表現ではない。私が選んだ言葉ではない。聖霊がこの言葉を聖パウロに教えて、エペソ人たちについて書き記させたのである。「神は死んでいたあなたがたを生かしてくださいました」(エペ2:1 <英欽定訳>)。主イエス・キリストはこの言葉を放蕩息子のたとえの中で用いられた。「この息子は、死んでいたのが生き返……ったのだ」(ルカ15:24、32)。この言葉はテモテへの手紙第一にも記されている。「自堕落な生活をしているやもめは、生きてはいても、もう死んだ者なのです」(Iテモ5:6)。定命の人間が、書かれたことを越えて賢くなるべきだろうか? 私は、自分が聖書の中に見いだすことを語るように留意し、それ以下のこともそれ以上のことも語らないように努めなくてはならないのではないだろうか?

 「死んでいる」とは、ぞっとする観念であり、人が何にもまして受け入れたがらないものである。人間は、自分の魂がいかに病んでいるかを素直に認めることを好まない。自分の危険のありのままの姿に目を閉ざす。多くの人々が、云われても許せると思うのは、せいぜい次のようなこと止まりである。すなわち、生まれながらにほとんどの人々は、「自分のあるべき姿に完全には達していない。彼らは無思慮で、----不安定で、----軽佻浮薄で、----だらしなく、----十分な真面目さがない」。しかし、死んでいる? おゝ、否! そのような口をきいてはならない。そこまで云っては行き過ぎだ。この観念はつまずきの石、妨げの岩である*1

 しかし、私たちにとってキリスト教信仰のどこが好ましく思われるかなどということには、吹けば飛ぶような重要性しかない。唯一の問題は、何と書かれているかということである。主は何と云われているだろうか? 神のみ思いは人の思いとは違い、神のことばは人の言葉とは違う。神は、まことの、徹底した、純粋な、断固たるキリスト者となっていない、あらゆる生者について、こう云っておられる。----身分の上下、貧富の差、その老若にかかわらず----、その人は霊的に死んでいる、と。

 この点においても、他のあらゆることと同じく、神のことばは正しい。これほど当を得た、これほど正確な、これほど云い得て妙な、これほど真実なことばはありえない。もうしばしがまんしてほしい。私に筋道を立てて論じさせていただきたい。来て、そして、見るがいい。

 もしあなたが父ヤコブにすがりついて泣くヨセフの姿を見たとしたら、何と云っただろうか?----「ヨセフは父の顔に取りすがって泣き、父に口づけした」(創50:1)。しかし、彼の示した愛情には何の答えもなかった。その年老いた顔つきには、何の動きも、何のいらえも、何の変化も起こらなかった。あなたは理由を察したに違いない。----ヤコブは死んでいたのである。

 もしあなたが、ギブアの戸口の前に横たわっている妻に向かって言葉をかけているあのレビ人の声を聞いたとしたら、何と云っただろうか? 彼は云った。「立ちなさい。行こう」(士19:28)。その言葉は何にもならなかった。そこに彼女は横たわったまま、動かず、硬く、冷たくなっていた。あなたにはその理由がわかるはずである。----彼女は死んでいたのである。

 もしあなたが、あのアマレク人がギルボア山上のサウルから、国王のしるしたる装身具をはぎ取っているところを見たとしたら、何と考えただろうか? 彼は、「その頭にあった王冠と、腕についていた腕輪を取っ」た(IIサム1:10)。そこには何の抵抗もなかった。その誇り高い顔立ちは、ぴくりとも動かなかった。相手を妨げようとして指一本動かすことはなかった。だがなぜだろうか?----サウルは死んでいたのである。

 もしあなたが、ナインの町の門で、やもめの息子が、棺に横たえられ、死衣にくるまれ、涙にくれる母親に先立って出てくるのに会ったとしたら、何と考えただろうか(ルカ7:12)? 疑いもなく、あなたにとってすべては一目瞭然であろう。何の説明も必要ないであろう。----その青年は死んでいたのである。

 さて私が云いたいのは、これこそ生まれながらのすべての人が、その魂について陥っている状況にほかならない、ということである。私は云う。これこそ私たちの周囲にいる膨大な数の人々が霊的な事がらにおいて陥っている状態にほかならない、と。神は彼らに絶え間なく呼びかけておられる。----種々のあわれみによって、患難によって、教役者によって、みことばによって、呼びかけておられる。----だが彼らには神のみ声が聞こえない。主イエス・キリストは彼らのことを嘆き悲しみ、彼らに訴え、彼らに恵み深い招きを送り、彼らの心の戸を叩いてくださる。----だが彼らはそれを一顧だにしない。彼らの存在の冠であり栄光であり、その尊い宝石たる彼らの不滅の魂は、捕えられ、略奪され、奪い去られている。----だのに彼らは全く気にも留めていない。悪魔は彼らを日々、滅びに至る広い道に沿ってさらいつつある。----だのに彼らは何の抵抗もせず唯々諾々と悪魔のとりことなっている。そしてこれは至る所で行なわれつつある。----私たちの周囲のすべてで、----あらゆる階級の間で、----全国の津々浦々でなされつつある。あなたはそれを、この論考を読んでいる間、自分の良心でわきまえているはずである。そう自覚しているはずである。それを否定できないはずである。それでは、私は尋ねたいが、神が云っておられること以上に、完璧に真実なことを何が云えるだろうか? ----私たちはみな生まれながらに死んでいるのである。

 しかり! 人の心がキリスト教信仰に関して冷たく、無関心であるとき、----人の手が決して神のわざを行なうために用いられていないとき、----人の足が神の道に親しんでいないとき、----人の舌がめったに、あるいは決して祈りと賛美のために用いられていないとき、----人の耳が福音におけるキリストのみ声に対して閉ざされているとき、----人の目が天国の美しさに対して目しいているとき、----人の精神が世のことで一杯になり、霊的な事がらのためには何の余地も残されていないとき、----こうした目印が人のうちに見いだされるとき、こうした人について用いられている聖書の言葉は正しい。----そして、その言葉とは、「死んでいる」、である。

 ことによると私たちはこの言葉を好まないかもしれない。世の事実にも、聖書の聖句にも私たちは自分の目を閉ざすかもしれない。しかし、神の真理は語られなくてはならず、それを押し隠すことは積極的な害を及ぼす。真理は、たとえいかに厳しい糾弾であろうと、語られなくてはならない。人は、肉体と、魂と、霊によって神に仕えていない限り、真に生きてはいない。人は、第一のことを最後にし、最後のことを第一にし、役に立たないしもべのように自分のタラントを地に埋めて、主に何の栄誉の収益ももたらさない限り、神の前で死んでいるのである。その人は、被造世界の中で自分が造られた位置を占めていない。その人は自分の力と精神機能を、神が意図された通りには用いていない。かの詩人の言葉は、まぎれもなく真実である。----

     「生者とは、神に対して生きる者のみ
      その余の者みな死者に他ならず」

 これこそ、罪が感じとれない真の理由である。----これこそ、説教が信じられず、----良き助言が従われず、----福音が受け入れられず、----世が捨てられず、----十字架が負われず、----我意が抑制されず、----悪しき習慣が放棄されず、----聖書がめったに読まれず、----膝が祈りのために屈められない理由である。なぜこうしたことすべてがあらゆるところに見受けられるのだろうか? その答えは単純である。人間は死んでいるからである。

 これこそ、多くの人々が「みな同じように」[ルカ14:18]際限もなく断わりを設ける真の解説である。ある人には学問がなく、ある人には時間がない。ある人は仕事や、金銭上の心遣いにのしかかられており、ある人は貧困にのしかかられている。ある人は自分の家族の間に困難があり、ある人は自分の健康に困難がある。ある人は自分の職業に特有の障害があり、他の人には理解できないと云う。また別の人々は家庭内に特有の障害があり、それが取り除かれるまで待つという。しかし神は、それよりも簡潔なことばを聖書の中に有しておられる。一言で神は、こうしたすべての人々を云い表わしておられる。神は云う。彼らは死んでいる、と。もし霊的いのちがこうした人々の心の中で始まったならば、彼らの断りはたちまち消失するであろう。

 これこそ、忠実な教役者の心をしめつける多くの事がらの真の説明である。彼の周囲の多くの人々は、決して礼拝所に出席しようとしない。多くの人々は、出席のしかたがあまりにも不規則なために、彼らがそれを何も重要なものと考えていないことはありありと見えている。多くの人々は、しようと思えば簡単に二回集えるのに、日曜には一度しか出席しない。多くの人々は、決して聖卓に集おうとしない。----そして平日に持たれるいかなる種類の恵みの手段にも決して姿を現わさない。だが、なぜこうしたすべてが起こるのだろうか? しばしば、あまりにもしばしば、こうした人々についてはたった1つの答えしか返すことができない。彼らは死んでいるからである。

 では、いかに信仰を告白するキリスト者たち全員は、自分を吟味し、自分の状態を試すべきだろうか? 死んだ人々が見いだされるのは教会墓地の中だけではない。私たちの諸教会の中には、また私たちの講壇の間近には、あまりにも多くの死んだ人々がいる。----講壇の上も、会衆席の上も、死んだ人々だらけである。この国は、エゼキエルの幻の谷のようである。----ここには、「非常に多くの骨があり、ひどく干からびて」いる(エゼ37:2)。わが国のあらゆる教区には死んだ魂が満ちており、あらゆる通りには死んだ魂が満ちている。家族全員が神に対して生きているような家族はほとんどない。死んでいる者がひとりもいないような家中はほとんどない。おゝ、私たちはみな自分を探り、心を眺めてみよう。自分の状態を試してみよう。私たちは生きているだろうか? 死んでいるだろうか?

 やはりまた、何の霊的変化も経ておらず、生まれた日のままの心しか持っていないあらゆる人々の状況の、何と悲しいものであることかを見てとるがいい。彼らと天国の間には山ほどの不一致がある。彼らはまだ「死からいのちに移っ」てはいない(Iヨハ3:14)。おゝ、願わくは彼らが自分の危険を見てとり、それを知りさえしたら! 悲しいかな、霊的な死の恐るべき目印の1つは、自然の死のように、感覚がない、ということなのである! 私たちは自分の愛しい親族をそっと静かに、その狭苦しい寝床に横たえるが、彼らは私たちが何をしているか全く感じない。かの賢人は云う。「死んだ者は何も知らない」(伝9:5)。そして、これは死んでいる魂についても全く同じである。

 やはりまた、教役者が自分の会衆について心配すべきいかなる理由があるか見てとるがいい。私たちは、時が縮まっていること、人生が不確かであることを感じている。私たちは、霊的な死が永遠の死へと続く大道であることを知っている。私たちは、私たちの聴衆のひとりでも自分の罪の中で、備えなく、更新されておらず、悔悟することなく、変えられていないまま死ぬことがないようにと恐れている。おゝ、もし私たちがしばしば強い調子で語り、熱心にあなたに訴えるとしても驚いてはならない! 私たちはあなたにへつらうような題目をあげたり、くだらない小話であなたを楽しませたり、耳障りの良いことを語り、「平安だ、平安だ」、と叫んでいることなどできない。他でもない生死の問題がかかっているのである。あなたがたはわざわいの中にある。私たちは、生者と死者の間に立っているように感じている。私たちは「きわめて大胆に語」らなくてはならず、実際にそう語るであろう。「ラッパがもし、はっきりしない音を出したら、だれが戦闘の準備をするでしょう」(IIコリ3:12; Iコリ14:8)。

 II. 第二のこととして、あなたに告げたいのは、救われたいと思うあらゆる人にはいかなることが必要か、ということである。----その人は、生かされて、霊的に生きた者とされなくてはならない。

 いのちは、あらゆる持ち物の中で最も強大なものである。死からいのちへの変化は、あらゆる変化の中で最も強大なものである。そして、こうしたものに達さない変化は、人の魂を天国にふさわしくする役には決して立たない。

 しかり! 求められているのは、決して小手先の改善や小細工でも、----小手先のきよめや浄化でも、----小手先の上塗りや取り繕いでも、----小手先のごまかしやその場しのぎでも、----小手先の心機一転や身繕いではない。求められているのは、何か徹底的に新しいものを導き入れること、----私たちに新しい性質を植えつけること、----新しい存在、----新しい原理、----新しい思いを吹き入れることである。これだけが、これ以下の何物でもないこのことだけが、人間の魂の種々の必要に答えるであろう。私たちに必要なのは単に新しい皮膚ではなく、新しい心臓なのである*2

 採石場から大理石の一片を切り出し、それから高貴な彫像を刻み出すこと、----不毛の荒れ地を開墾し、それを花咲く庭に転ずること、----鉄鉱石の塊を溶解し、それを時計用のぜんまいに鍛造すること、----これらはみな大きな変化である。だがしかし、これらもみな、アダムのあらゆる子らが必要としてる変化にくらべれば、全く取るに足りない。というのも、これらは単に同じものを新しい形にすること、同じ実質に新しい形状を取らせることにすぎないからである。しかし人間に求められているのは、以前は有していなかったものを接ぎ木されることである。人間に必要な変化は、死者の中からの復活にあたるほど大きな変化である。人は新しく造られた者にならなくてはならない。「古いものは過ぎ去って、すべてが新しくならなくてはならない」*。人間は、「新しく生まれ、上から生まれ、神から生まれ」なくてはならない*。肉体的生命が自然的な誕生を必要とするのと寸分も違わず、魂のいのちは霊的な誕生を必要とするのである(IIコリ5:17; ヨハ3:3)。

 これがひどい言葉であることは百も承知している。この世の子らが、新しく生まれなくてはならないと聞かされるのを嫌うことは重々承知している。それは、彼らの良心をえぐることである。それは、彼らが自分で認めたがる限度をはるかに超えて、自分が天国からかけ離れているように感じさせることである。それは、彼らがこれまで一度もしゃがんでくぐり抜けたことのない狭い戸口のようにように思われ、彼らはむしろ、その戸口をもっと広くするか、どこか別の所でそれを乗り越えることを望むのである。しかし私は、この件では腰くだけて人に譲るつもりはない。私は、迷妄を助長するつもりはない。ほんの少し悔い改めて、自分の内側にある賜物をかき立てさえすれば、真のキリスト者になれますよ、などと人々に告げはしない。私は聖書に記された言葉遣い以外のいかなる言葉遣いも用いるつもりはない。そして私は、私たちを教えるために書かれた言葉によって、云うものである。「私たちはみな新しく生まれなくてはならない。私たちはみな生まれながらに死んでおり、生きた者とされなくてはならない」、と。

 もし私たちが、ユダの王マナセの2つの姿、すなわち、一時はエルサレム中を偶像で埋め尽くし、にせの神々に敬意を表するためにわが子を殺している姿と、別の時には神殿をきよめ、偶像礼拝を弾圧し、敬虔な生活を送っている姿を見たことがあったとしたなら、----もし私たちがエリコの取税人ザアカイの2つの姿、すなわち、一時は欺きと、収奪と、貪欲に身をまかせている姿と、別の時にはキリストに従い、自分の財産の半分を貧しい人々のためにささげている姿を見たことがあったとしたなら、----もし私たちがネロの家のしもべたちの2つの姿、すなわち、一時は自分の主人の放蕩三昧な生活にならっている姿と、別の時には使徒パウロと心も思いも1つにしている姿を見たことがあったとしたなら、----もし私たちが古代の教父アウグスティヌスの2つの姿、すなわち、一時は不品行の中に生き、別の時には神と親しい歩みをしている姿を見たことがあったとしたなら、----もし私たちがわが国の改革者ラティマーの2つの姿、すなわち、一時は熱心にキリストにある真理に反駁する説教をしている姿と、別の時にはキリストの御国の進展のために財を費やし、また自分自身をさえ死に至るまで使い尽くしている姿を見たことがあったとしたなら、----もし私たちがニュージーランド土人や、ティルネルヴェリのヒンドゥー人の2つの姿、すなわち、一時は血に飢えた、不道徳な、忌まわしい迷信に埋没している姿と、別の時には聖く、純粋で、信仰を有するキリスト者となった姿を見たことがあったとしたなら、----もし私たちがこうした素晴らしい変化を、そのいくらかでも見たことがあったとしたなら、私は道理の分かるキリスト者に尋ねたいが、私たちは何と云っていただろうか? 私たちは、それらを、ちょっとした改善や手直しにすぎないなどと呼ぶことで満足していただろうか? 私たちは、アウグスティヌスは「自分の生き方を改善したのだ」、だの、ラティマーは「心機一転やり直したのだ」、だのと云うことで満足していただろうか? まことに私たちがそれ以上何も云わないとしたら、足元の石が叫ぶであろう。私は云う。こうしたすべての場合において、そこにはまぎれもない新生、人間性の復活、死者の生き返り以外の何物でもないものがあったのだ、と。これらこそ用いるべき正しい言葉である。それ以外の言葉遣いはみな、弱く、貧しく、お粗末で、非聖書的で、真実に達していない。

 さて私は、いささかも尻込みすることなく、はっきりこう語るものである。私たちはみな、救われるためには、これと同じ種類の変化を必要としている、と。私たちと、いま私が名前をあげた人々のだれかとの違いは、一見するところよりもはるかに少ない。表面的な上っつらを取り除けば、その下には同じ性質が、私たちにも彼らにもあることがわかるであろう。----それは悪の性質、完全な変化を必要とする性質である。地表は、種々の気候のもとにあって非常に異なるものだが、私の信ずるところ、地核はどこでも同じである。地上のどこでも好きな所に行ってみるがいい。その地中には常に、十分深く掘り下げさえすれば、花崗岩か、他の原始的な岩を常に見いだすであろう。そして、これは人間の心についても全く同様である。習慣や肌の色、風習や法律は、みな全く異なっているかもしれない。だが内なる人は常に同じである。----彼らの心は底の方ではみな似通っている。----みな岩地のようで、みなかたくなで、みな不敬虔で、みな徹底的に更新される必要がある。この件については、英国人もニュージーランド土人も同じ水準にある。両者とも生まれながらに死んでおり、両者とも生かされる必要がある。両者とも、罪によって堕落した同じ先祖アダムの子孫であり、両者とも、「新しく生まれ」、神の子どもたちとされる必要がある。

 私たちの住んでいるのが地球上のいかなる地域であれ、私たちのは開かれる必要がある。生まれながらに私たちは、決して自分の罪深さや、咎や、危険を見ることがない。私たちの属しているのがいかなる国であれ、私たちの理解力には光が与えられる必要がある*3。生まれながらに私たちは、救いの計画をほとんど、あるいは全く知らない。----バベルの塔を建てようとした人々のように、私たちは自分のやり方で天に達そうと考える。いかなる教会に属していようと、私たちの意志は正しい方向に曲げられる必要がある。----生まれながらに私たちは、自分の平安のためになる物事を決して選ばない。私たちは決してキリストのもとに来ようとしない。人生における私たちの階級がいかなるものであろうと、私たちの感情は上にあるものに向けられなくてはならない。----生まれながらに私たちは、自分の感情を下にあるもの、地上的で、感覚的で、つかのまの、むなしいものにしか据えることがない。高慢は謙遜にとって代わられなくてはならない。----自分を義とする思いは、自分を卑下する思いに、----無頓着さは、真剣さに、----世俗性は聖潔に、----不信仰は信仰にとって代わられなくてはならない。私たちの内側では、サタンの支配が引きずり下ろされなくてはならず、神の国が打ち立てられなくてはならない。自我が十字架につけられ、キリストが支配しなくてはならない。こうした事がらが実現するまで、私たちは石も同然に死んでいるのである。こうした事がらが起こり始めるとき、そうなるとき初めて、私たちは生きていると云えるのである。

 あえて云うが、こうしたことは一部の人にはたわごとのように聞こえるであろう。しかし、現代のこの日にも、多くの人々が立ち上がり、それを真実であると証言することができるはずである。多くの人は告げることができるであろう。自分はそれを経験によって知っており、自分が実際に新しい人であると感じている、と。その人はかつては憎んでいたものを今は愛しており、かつては愛していたものを今は憎んでいる。その人には新しい習慣、新しい仲間、新しい生き方、新しい嗜好、新しい感情、新しい意見、新しい悲しみ、新しい喜び、新しい不安、新しい楽しみ、新しい望み、新しい恐れがある*4。つまり、その人という存在のあらゆる性向および傾向が変えられているのである。その人と最も親しい肉親の人々や友人たちに尋ねてみるがいい。彼らはそれを証言するであろう。好むと好まざるとにかかわらず彼らは、もはやその人が以前と同じ人ではないと告白せざるをえないであろう。

 多くの人は、かつては自分がこれほどひどく悪逆な者であるとは考えていなかったと告げることができるであろう。いずれにせよ自分は他の人々よりも何ら劣っているとは考えもしていなかった、と。今のその人は使徒パウロとともに云うであろう。自分は自分が「罪人のかしら」であると感じている、と(Iテモ1:15)*5

 かつてはその人も、自分に悪い心があるなどとは考えもしていなかった。確かに様々な欠点はあり、悪い仲間たちや誘惑によって脇道にそらされることはあるかもしれないが、奥底には良い心があるのだ、と思っていた。だが今のその人は告げるであろう。自分の心ほど悪い心を自分は知らない、と。その人は、それが「何よりも陰険で、それは直らない」ことを見いだしている(エレ17:9)。

 かつてはその人も、天国に行くことがそれほど難儀なことだとは考えていなかった。単に悔い改めて、二言三言祈りを唱え、自分にできることを行ないさえすれば、キリストが欠けているところを補ってくれるものと思っていた。だが今のその人は、その道が狭く、それを見いだす者がまれであると信じている。その人の確信するところ、その人は決して自分で神との平和を得ることはできなかった。キリストの血以外の何物をもってしても、自分のもろもろの罪を洗い流すことはできなかった。そうその人は確信している。その人の唯一の望みは、「律法の行ないによるのではなく、信仰によって義と認められる」*ことしかない(ロマ3:28)。

 かつてはその人も、主イエス・キリストに何の美しさも、すぐれた点も見ることができなかった。一部の教役者たちがなぜキリストをあれほど高く持ち上げるのか理解できなかった。だが今のその人は、こう告げるであろう。キリストこそは値もつけられないほど高価な真珠、万人よりすぐれたお方、----自分の《贖い主》、自分の《弁護者》、自分の《祭司》、自分の《王》、自分の《医者》、自分の《羊飼い》、自分の《友》、自分の《すべて》である、と。

 かつてはその人も、罪について軽く考えていた。その人は、なぜ罪についてそれほどしかつめらしく考えなくてはならないのかわからなかった。その人は、ある人の言葉や、想念や、行為がそれほど重要なものだとは思わず、それほど用心深くしていることが必要だとは考えていなかった。だが今のその人は告げるであろう。罪は自分の憎む忌まわしいものであり、自分の人生の悲しみ、重荷である、と。その人はより聖くなることを切望している。その人は、ホイットフィールドのこの願いに心から共感できる。----「私は、もはや自分が罪を犯すことも、他人が罪を犯すのを見ることもない所へ行きたい」*6

 かつてはその人も、恵みの手段に何の楽しみも感じられなかった。聖書はないがしろにされていた。祈ることも、----祈ったことが一度でもあったとすればだが、----ただの形式にすぎなかった。日曜日は退屈な日であった。説教は大儀なもの、しばしば眠りこまされるものであった。だが今はすべてが一変した。こうした事がらは、その人の魂の糧となり、慰めとなり、喜びとなっているのである。

 かつてはその人も、熱心な心持ちをしたキリスト者たちを嫌っていた。彼らを憂鬱で、陰気で、弱い人々であるとして避けていた。だが今は彼らこそ、地にあって威厳のある者、決して見飽きない人々となっている。その人は、彼らとともにいるときほど幸せなことはない。もしもすべて人が聖徒であったなら、それは地上の天国であるかのように感じる。

 かつてはその人も、この世のことしか考えず、この世の快楽、この世の務め、この世の仕事、この世の報いしか心にかけていなかった。だが今のその人は、この世を空虚で、不満足な場所、----旅の宿、----間借りの場所、----来世への訓練校とみなしている。その人の宝は天にある。その人の故郷は墓の向こう側にある。

 私はもう一度尋ねたい。これらはみな、新しいいのちでなくて何であろうか? 私がいま描写したような変化は、何の幻でも空想でもない。これは現実に実際起こっていること、少なからぬ人々がこの世で知り、感じていることである。これは私の想像の産物ではない。むろん、いくら本物であっても、今この瞬間には、私たちの言葉をうのみにしがたいという人はいるかもしれない。しかし、こうした変化が起こっているところならどこででも、あなたは私がいま語っていることを目にすることができるのである。----あなたは、死んでいた者が生かされている姿、新しく造られた者、新しく生まれた魂を見るであろう。

 私が神に願うのは、こうした変化がよりありふれたものとなることである! 私が神に願うのは、このような件について全く何も知っていない人々であると、私たちが涙をもって云わなくてはならないような群衆がいなくなることである。しかし、ありふれていようがいまいが、1つのことだけははっきり云っておきたい。----これは私たちがみな必要とする種類の変化である。私も、すべての人が何から何まで同じ経験をしなくてはならないと主張するものではない。この変化が、その程度や範囲や強さにおいて、人それぞれに違いがあると認めるのにやぶさかではない。恵みは弱くとも真実なものでありえる。----いのちは微弱なものであっても、本物でありえる。しかし私が確信をもって主張したいのは、私たちがみな、救われたいと思うのなら、この種の何かを経験しなくてはならない、ということである。こうした類の変化が生ずるまで、私たちにはいかなるいのちもない。私たちは生きた国教徒かもしれないが、死んだキリスト者である*7

 この論考を読んでいるあらゆる人は、このことを心に深く刻み込むがいい。自分の良心に深々と刻み込み、よくよくそれを眺めてみるがいい。いつかは、揺りかごから墓場に至るまでの、いつかしらの時点では、救われたいと願うすべての人は、生かされなくてはならない。かの善良な老ベリッジの墓石に彫り込まれている言葉は、今も真実でまことである。「これを読む人よ! あなたは新しく生まれているか? 覚えておくがいい! 新生なくして救いはない」。

 さて今、名前と形式ばかりのキリスト者と、行ないと真実によるキリスト者との間に、いかに驚くばかりの深淵が口を開いているか見てとるがいい。それは一方がもう一方よりも多少ましであるとか、片方がその隣人よりも少しばかり素行が悪いとかいう差ではない。----それは生きた状態と、死んだ状態との差である。スコットランド高地の山に生え出た、いかにちっぽけな草の葉といえども、これまで造られたことのある最も優美な蝋細工の造花よりも、はるかに高貴なものである。というのも、それは人間のいかなる科学によっても分かち与えることのできないもの、いのちを有しているからである。ギリシャやイタリアのいかに素晴らしい大理石像といえども、あばら屋の床をはいはいしている、あわれな病気がちの幼児とはまるで比較にならない。というのも、そのあらゆる美しさにもかかわらず、それは死んでいるからである。そして、キリストの家族に属するいかに虚弱なものといえども、神の前では、この世で最も才能豊かな人間にもはるかにまさって高く、貴重な存在である。一方の人は、神に対して生きており、永遠に生きることになっている。----他方の人は、そのあらゆる知性にもかかわらず、まだ罪の中に死んでいるのである。

 おゝ、死からいのちに移った人に私は云いたい。あなたにはまことに感謝にあふれるべき理由がある! あなたがかつて生まれながらにいかなる者であったか思い出すがいい、----死んでいたのである。今のあなたが恵みによっていかなる者となっているか考えてみるがいい、----生きているのである。墓の中から放り投げられた、ひからびた骨々を眺めてみるがいい。あなたはそのような者だったのである。では、だれがあなたを違った者としたのだろうか? 行って、あなたの神の足台の前にひれ伏すがいい。その恵みのゆえに、その無代価の、際だった恵みのゆえに、神をほめたたえるがいい。しばしば神にこう申し上げるがいい。「主よ。私がいったい何者であるからというので、あなたはここまで私を導いてくださったのですか? なぜ私なのですか? なぜあなたは私をあわれんでくださったのですか?」、と。

 III. 第三のこととして私が語りたいのは、このように生かすことは、いかなるしかたによってのみもたらされうるか、----いかなる手段によって死んだ魂は霊的に生かされることができるのか、ということである。

 確かに、もし私がこのことをあなたに告げなかったとしたら、私が書いてきたようなことを書くのは残虐行為であったろう。確かに、それはあなたを陰鬱な荒野に導き入れ、パンも水もなしに放置することとなろう。----それは、あなたを紅海へと追い立てて行き、それから歩いて渡れと云いつけるようなものであろう。----それはパロのように、れんがを作れと命令しながら、わらを支給するのは拒むことになるであろう。----それは、あなたの手足を縛っておいて、あなたが勇敢に戦い、「賞を受けられるように走る」ことを望むようなものであろう。私はそのようなことはしない。私は、あなたが走る目標とすべきくぐり戸を指し示すまで、あなたの側を離れまい。神の助けによって私は、死んでいる魂のために与えられている十分な備えをあなたの前に提示するであろう。もうしばらく私の話に耳を傾けていただきたい。私はもう一度あなたに、真理の聖書に書かれていることを示すであろう。

 1つのことは非常にはっきりしている。----私たちはこの大いなる変化を自分で作り出すことはできない。それは私たちの手に余る。私たちには、そうするためのいかなる強さも力もない。私たちは、自分の罪の種類を変えることはできるかもしれないが、自分の心を変えることはできない。私たちは新しい道をとることはできるかもしれないが、新しい性質を帯びることはできない。相当な改革と改善を行なうことはできるかもしれない。多くの外的な悪習を打ち捨てて、多くの外的な義務を行ないだすことはできるかもしれない。しかし私たちは、新しい原理を自分の内側に創り出すことはできない。無から何かを現出させることはできない。クシュ人がその皮膚を、ひょうがその斑点を変えることはできない。それと同様に私たちも、自分の魂にいのちを吹き込むことはできない(エレ13:23)*8

 もう1つのことも、同じくらいはっきりしている。いかなる人も、私たちのためにそれを行なうことはできない。教役者たちは私たちに説教を語り、私たちとともに祈ってくれるかもしれない。----私たちを洗礼盤で受け入れ、私たちが聖卓に集うことを認め、私たちにパンと葡萄酒を与えてくれるかもしれない。----だが彼らは霊的いのちを授けることはできない。彼らは、混乱している場所に秩序をもたらし、公然たる罪が犯されている所に外的な上品さをもたらすことはできるかもしれない。しかし彼らは、表面より下の部分に至ることはできない。私たちの心に達することはできない。パウロは植えて、アポロは水を注げるかもしれないが、神だけが成長させることができるのである(Iコリ3:6)。

 それではだれに死んだ魂を生かすことができるだろうか? 神のほか何者でもない。アダムの鼻にいのちの息を吹き込まれたお方だけが、死んだ罪人を生きたキリスト者にすることができるのである。天地創造の日に無から世界を造り出したお方だけが、人を新しく造られた者とすることができるのである。「『光よ。あれ』と仰せられた。すると光ができた」、と云われたお方だけが、霊的な光を人の心に射し込ませることがおできになるのである。地のちりから人を形作り、そのからだにいのちを与えたお方だけが、人の魂にいのちを与えることがおできになるのである。その御霊によってこれを行なう職務はこのお方のものであり、その力もまたこのお方のものである(創1:2、3)*9

 栄光の福音には、私たちに永遠のいのちを与えることのみならず、私たちに霊的いのちを与えることも含まれている。主イエスは完全な《救い主》である。この力強い生きたかしらには、いかなる死んだ肢体もない。主の民は、義と認められ、赦されているばかりでなく、主とともに生かされ、主の復活にあずかる者とされている。御霊は罪人を主に結び合わせ、その結合によって罪人を死からいのちへとよみがえらせてくださるのである。主にあって、信じた後の罪人は生きるのである。その人のあらゆる生命力の源泉は、キリストと自分の魂との結合である。その結合は、御霊が着手し、保ち続けてくださるのである。キリストはあらゆる霊的いのちの定められた泉であって、聖霊はそのいのちを私たちの魂に伝える定められた代行者なのである*10

 いのちを持ちたければ、主イエス・キリストのもとに来るがいい。主は、与えるべき賜物を持っておられる。頑迷な者にさえも。あの死人は、エリシャのからだに触れた瞬間に、生き返って自分の足で立ち上がった(II列13:21)。----あなたは主イエスに信仰の手で触れた瞬間に、すべてのそむきの罪を赦されるばかりでなく、神に対して生きた者となる。来るがいい。そうすればあなたの魂は生きるであろう。

 私は決して、だれが断固たるキリスト者となることをも絶望しない。その人がこれまでいかなる生き方をしてきたとしても、それは変わらない。私は死からいのちへの変化がいかに大きなものであるかを知っている。私たちのうちの一部の者たちと天国との間を隔てているかに思われる山の大きさを知っている。生まれながらの心のかたくなさ、種々の偏見、この上もない罪深さを知っている。しかし私は、父なる神がこの美しく、整然と秩序だった世界を無から造り出したことを思い起こす。主イエスのみ声が、死んでから四日経ったラザロにも届き、彼を墓の中からさえ呼び戻したことを思い起こす。神の御霊が天が下のあらゆる国々でかちとってこられた、驚くばかりの勝利の数々を思い起こす。私はこうしたことすべてを思い起こし、決して絶望する必要がないと感じる。しかり! 私たちの中で、今はだれよりも全く罪の中で死んでいるように思われる人々も、やがて新しいあり方へとよみがえらされ、神の前でいのちにあって新しい歩みをすることになるかもしれない。

 なぜそうなってならないわけがあるだろうか? 聖霊は、あわれみ深く、愛に満ちた御霊である。御霊はいかなる者からも、その邪悪さのゆえに顔をそむけたりなさらない。いかなる者をも、その罪がどす黒く、緋のようであるからといって、見過ごしにはしない。

 コリント人たちの内側には、御霊が下って彼らを生かす理由になるような何物もなかった。パウロが彼らについて語るところ、彼らは「不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、……盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者」であった。彼は云う。「あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした」。だがしかし、その彼らをさえ御霊は生かしてくださった。パウロは書いている。「主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ……たのです」(Iコリ6:9、10、11)。

 コロサイ人の内側には、御霊が彼らの心を訪れなくてはならないようなものが何もなかった。パウロが私たちに告げるところ、彼らは、「不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼり……このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです……、以前、そのようなものの中に生きていた」。だがしかし、彼らをも御霊は生かしてくださった。御霊を彼らに、「古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着」させた。「新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ……るのです」(コロ3:5-10)。

 マグダラのマリヤの内側には、御霊が彼女の魂を生かす理由となるような何物もなかった。かつて彼女は「七つの悪霊」に取り憑かれていた。噂が確かであれば、かつて彼女は、そのよこしまさと不義とで名うての女であった。だがしかし、その彼女をも御霊は新しく造られた者としてくださり、そのもろもろの罪から切り離してキリストのもとに連れ来たり、「最後に十字架のもとから離れ、最初に墓のもとにやって来た者」としてくださったのである。

 決して、決して御霊は、ある人から、その腐敗のゆえに顔を背けたりなさらない。これまで決してそのようなことをしたことはなかったし、----今後も決してそのようなことはないはずである。御霊が汚れ果てた者たちの思いをきよめて、ご自分がお住まいになる宮としてこられたこと、それが御霊の格別な栄光なのである。御霊は今なお、私たちの間にいる最悪の者を取り上げて、その人を恵みの器とすることがおできになる。

 実際なぜそうなってならないわけがあるだろうか? 御霊は《全能の霊》であられる。御霊は石の心を肉の心に変えることができる。御霊は最も強固な悪習をも、糸くずのように断ち切り、消滅させることができる。この上もなく困難な事がらを容易なことに見せ、いかに強大な反対をも春先の雪のように溶かし去ることができる。青銅のかんぬきをへし折り、偏見のとびらを開け放つことができる。すべての谷をうずめ、すべての険しい地を平野とすることができる。御霊はそれをしばしば行なってこられ、今も再びそう行なうことができる*11

 御霊はひとりのユダヤ人を取り上げて、----それはキリスト教の不倶戴天の敵であり、----真の信仰者たちの熾烈な迫害者であり、----パリサイ人的な観念を墨守する頑固者であり、----福音の教理への偏見に凝り固まった反対者であったが、----それを、一度は自分が滅ぼそうとした当の信仰の熱烈な説教者に変えることができる。御霊はすでにそれをなしたことがある。----そうされたのが使徒パウロであった。

 御霊はひとりのローマカトリック教徒の修道僧を、ローマカトリック教の迷信のただ中から取り上げて、----それは、幼少期から偽りの教理を信じ込み、教皇に服従するよう訓練され、----過誤にどっぷりと埋没していた人物だったが、----その人物を、史上かつてないほど明確な、信仰による義認の主唱者にすることができる。御霊はすでにそれをなしたことがある。----そうされたのがマルチン・ルターであった。

 御霊は、学問も、縁故も、財産もないひとりの英国の鋳掛け屋を取り上げて、----かつては冒涜と悪態をつくことで悪名を馳せていた男だが、----その男に、ある意味で使徒たちの時代以来いかなる本によっても比肩されることのない、無類の宗教書を書かせることができる。御霊はすでにそれをなしたことがある。----そうされたのが、『天路歴程』の著者ジョン・バニヤンであった。

 御霊は、世俗の塵と罪に埋もれていたひとりの船乗りを取り上げて、----それは放蕩無頼の奴隷船の船長だったが、----その男を無類に有能な福音の教役者とし、----実践的キリスト教信仰の宝庫とも云うべき書簡集の著者とし、----英語の語られる所ならどこででも知られ、歌われている数々の賛美歌の著者とすることができる。御霊はすでにそうなさったことがある。----それがジョン・ニュートンであった。

 こうしたことすべてを御霊は行なってこられ、ここでは逐一語ることのできないさらに多くのことを行なってこられた。そして御霊の腕は短くなってはいない。その力は衰えてはいない。御霊は主イエスのように、----「きのうもきょうも、いつまでも、同じです」(ヘブ13:8)。御霊は今なお不思議を行なっておられ、最後に至るまでそうし続けるであろう。

 それではもう一度私は云う。私はいかなる人の魂が生かされることをも決して絶望しはしない。もしそれが人間自身の努力しだいだとしたら私も絶望するであろう。ある人々は、そのかたくなさのあまり、何の望みも持てそうにない。もしそれが教役者たちの働きしだいだとしたら私も絶望するであろう。悲しいかな、私たちのうちの最良の者でさえ、あわれな被造物なのである! しかし、御霊なる神が魂にいのちを伝える代行者であることを思い起こすとき、私は絶望することができない。----というのも、私が知り、確信しているように、神にとって不可能なことはないからである。

 私は、この現世においてすら、私の見知っている者たち全員の中でも最もかたくなな人が心柔らかくされ、最も高慢な人が、乳離れした子どものようにイエスの足元に座を占めている、と聞いたとしても、驚きはしない。

 私は、私が死んだときに広い道を旅していた多くの人々と、最後の審判の日に、右の方で出会うとしても驚きはしない。私は唖然として、「何と! あなたがここにいるとは!」、などと云いはしない。私は単にこう彼らに云うであろう。「私がまだあなたがたの間にいたときに、このことを云ったではありませんか。----死んだ者を生かしてくださるお方には、何事も不可能はない、と」。

 私たちのうちだれか、キリスト教会の手助けをしたいと願う者がいるだろうか? ならばその人は、御霊の大いなる注ぎ出しを求めて祈るがいい。御霊だけが説教を強くし、助言に的を射させ、叱責に力を与え、罪深い心の高垣を引き倒すことができるのである。今日求められているのはより良い説教でも、より洗練された書物でもなく、よりまさる聖霊の臨在である。

 だれか神に対して少しでも引き寄せられるものを感じている人がいるだろうか?----自分の不滅の魂について、ほんの少しでも懸念を覚えている人がいるだろうか? ならば、生ける水の開かれた泉、主イエス・キリストのもとに逃れるがいい。そうすればあなたは聖霊を受けるであろう(ヨハ7:39)。すぐに聖霊を求めて祈り始めるがいい。自分は望みから閉め出され、断ち切られているのだなどと考えてはならない。聖霊は「求める人たちに」約束されている(ルカ11:13)。聖霊の名前そのものが約束の御霊であり、いのちの御霊なのである。御霊が下って、あなたに新しい心を作ってくださるまで、休みなく御霊を乞い願うがいい。主に向かって大声で願うがいい。----主に云うがいい。「私を、私をも祝福してください。----私を生かし、私を生きた者としてください」、と。

 さてここで、今まで語ってきたことすべてのしめくくりとして、いくつか特別な適用の言葉を語らせてほしい。私はイエスのうちにある真理と自分が信ずることを示してきた。本書を手に取ることになるすべての方々の心と良心に、神の祝福によって、その真理を深く印象づけさせていただきたい。

 1. 第一に、この論考を読むあらゆる魂に、この問いかけを投げかけさせてほしい。「あなたは死んでいるだろうか? それとも、生きているだろうか?」

 どうか私に、キリストの大使として、あらゆる方の良心にこの問いかけをつきつけさせてほしい。私たちが歩くべき道は2つしかない。狭い道と広い道である。----最後の審判の日に私たちが一緒になる集団は2つしかない。右手にいる人々か、左手にいる人々である。----信仰を告白するキリスト教会の中には2つの種別の人々しかおらず、そのどちらかに必ずあなたは属している。あなたはどこにいるだろうか? いかなる者だろうか? あなたは生きた者の中にいるだろうか? 死んだ者の中にいるだろうか?

 私はあなたに、あなた自身に語っており、他のだれにも語ってはいない。----あなたの隣人にではなく、あなたに、----アフリカ人やニュージーランド土人にではなく、あなたに語っている。私は、あなたが御使いであるかとか、あなたにダビデやパウロのような精神があるかどうかを尋ねているのではない。----私は、あなたがキリスト・イエスにあって新しく造られた者であるという、確かな、根拠のある望みを有しているかどうかを尋ねているのである。----私は、あなたが古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を着ていると信ずべき理由があるかどうか、----あなたが心で真の霊的な変化を経験したと自覚しているかどうか、---- 一言で云えば、あなたが死んでいるか生きているかを尋ねているのである*12

 (a) 「私は洗礼を受けて教会に加入しています。その礼典で恵みと御霊を受け取っています。----だから生きています」、など云って私をはぐらかそうと思ってはならない。それはあなたにとって何の役にも立たない。パウロそのひとが、バプテスマを受けても自堕落な生活をしているやもめについてこう云っている。彼女は「生きてはいても、もう死んだ者なのです」、と(Iテモ5:6)。主イエス・キリストご自身、サルデスにある教会の主たる教職者にこう告げておられる。「あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる」(黙3:1)。あなたが語っているようないのちは、目に見えなければ無である。もし私にその存在を信じてほしければ、それを見せてみるがいい。恵みは光であって、光は常に見分けられるものである。恵みは塩であって、塩は常に味がするものである。外的な実によって自らを現わさない御霊の内住や、人々の目にとまらない恵みなど、どちらとも、この上もなく胡乱なものとみなされてしかるべきである。嘘ではない。もしあなたが、自分の霊的いのちの証拠としてバプテスマしか有していないとしたら、あなたはまだ死んだ魂なのである。

 (b) 「これは、どちらとも云えない問題であって、このような問題に自分の意見を述べるのは増上慢だと思います」、など云って私をはぐらかそうと思ってはならない。これはむなしい口実で、まがいものの謙遜である。霊的いのちは、あなたが思い込んでいるように見受けられるほど、かすかな、疑わしいものではない。聖書を知っている者なら、だれでもその存在を見きわめることのできる目印や証拠があるのである。ヨハネは云っている。「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています」(Iヨハ3:14)。この移り変わりが性格にいつ、いかなる時期に起こったかということは、しばしば人から隠されているであろう。だが、それが起こったという事実と実質が全く不確かであるということはめったにないであろう。これは、スコットランドの一少女がホイットフィールドに語った真実の、美しい言葉である。自分の心が変わったかと問われて彼女は答えた。「何かが変わったことが私にはわかります。----変わったのは世界かもしれませんし、私の心かもしれません。----でも、どこかでとても大きな変化があったに違いないことはわかります。なぜって、何もかもが以前とは全く違って見えるのですから」。おゝ、この問いかけをそらそうとするのをやめるがいい! 「目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい」(黙3:18)。あなたは、死んでいるだろうか? 生きているだろうか?

 (c) 「私にはわかりません。----これが大切なことだということは認めます。----いつか死ぬまでには、わかっていたいと望みます。----折を見て、このことを考えてみようと思います。----しかし、今のところ私にはわかりません」、などと答えようと考えてはならない。

 わかっていない、と! だが天国と地獄がこの問いかけには隠されているのである。永遠の幸福か、永遠の悲惨かが、あなたの答えにかかっているのである。あなたは、自分のこの世的な問題の決着ならば、これほどあいまいにしてはおかないはずである。自分の地上的な仕事ならば、これほど締まりなく管理してはいないはずである。あなたは、はるかに先のことを見越しているはずである。あらゆる偶発事故の可能性に手を打っておくはずである。人生と財産に保険をかけているはずである。おゝ、なぜそれと同じようなしかたで、あなたの不滅の魂を扱わないのか?

 わかっていない、と! だがあなたの周囲にあるすべては不確かなのである。あなたはあわれな、もろい虫けらである。----あなたの肉体は恐ろしいほど精緻に造られている。----あなたの健康は、一千ものしかたで調子を狂わされることがありうる。次に雛菊が咲き誇る季節には、それはあなたの墓の上に咲いているかもしれない。あなたの前に何があるかは全く不明である。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らない。いわんや一年のうちに何が起こるかなどわからない。おゝ! なぜ一刻も早くあなたの魂に関わる務めに集中し始めないのだろうか?

 この論考を読んでいるあらゆる方々は、自己吟味という大いなる務めに着手するがいい。神の前における自分の状態が徹底的にわかるまで、安んじてはならない。この件に気乗りがしないというのは、良くないしるしである。それは不安な良心から生じているのである。それは人が自分の症状を悪いと考えていることを示している。その人は、不正直な商売人のように、自分の帳簿が精査に耐えられないことを感じているのである。その人は光に怯えているのである。

 霊的な事がらにおいては、他のあらゆることと同じく、確実な仕事をすることこそ最上の知恵である。何事も当て込んではならない。自分の状況を、他人の状況によって量ってはならない。あらゆることを神のことばという物差しのもとに持ち出すがいい。自分の魂に関する過ちは、永遠の過ちとなる。レイトンは云う。「確かに、新しく生まれていない人々は、いつの日か、生まれなかった方がよかったと思うことになるであろう」。

 この日じっくりと腰を据えて思索するがいい。自分自身の心と親しく語り合い、静かにしているがいい。自分の部屋にこもって沈思するがいい。奥まった部屋にはいるか、いずれにせよ、神とふたりきりになるように努めるがいい。この問いかけを公正に、片寄りなく、正直に、真っ正面から眺めるがいい。それはあなたの心にいかに響くだろうか? あなたは生きている者の中にいるだろうか? それとも死んでいる者の中にいるだろうか?*13

 2. 第二のこととして、心からの愛情をこめて、死んでいる方々に語らせていただきたい。

 私はあなたに何と云うだろうか? 何と云えるだろうか? 私の言葉によって、何かあなたの心に影響を及ぼすことができるだろうか?

 私はこう云うであろう。----私はあなたの魂について嘆いている。私は、全く見せかけでなしに嘆いている。あなたは無頓着で、何も不安を持っていないかもしれない。あなたは私が云っていることにほとんど気を留めないかもしれない。あなたはこの論考に目を走らせ、読み終えて下らないと思い、再び世に戻っていくかもしれない。だがあなた自身がほとんど何も感じなくとも、私があなたについて感ずる思いを妨げることはできない。

 私は、青年が情欲と情動にふけるあまり、自分の肉体的健康の基を削り取り、老年には苦い実となる種を蒔いているのを見て嘆くだろうか? それでは、それよりはるかに多く私はあなたの魂のために嘆くであろう。

 私は、人々が自分の相続財産を湯水のように浪費し、下らないこと、愚かなことに資産をつぎこんでいるのを見て嘆くだろうか? それでは、それよりはるかに多く私はあなたの魂のために嘆くであろう。

 私は、中国人が阿片を吸うように、ただ心地よいからといって効き目の遅い毒を飲んでいる人について聞くとき嘆くだろうか?----自分の寿命の時計の進み方が十分早くないとでも云うかのように、それを早め、----自分の墓を少しずつ掘り進めている人のことを嘆くだろうか? それでは、それよりはるかに多く私はあなたの魂のために嘆くであろう。

 私は黄金の機会があだに投げ捨てられるのを考えて嘆くものである。----キリストが拒絶され、----贖いの血が足で踏みつけられ、----御霊が抵抗を受け、----聖書がないがしろにされ、----天国が蔑まれ、この世が神の位置にまつりあげられていることを嘆くものである。

 私は、あなたが失いつつある現在の幸福を考えて嘆くものである。----あなたが自分で押しのけつつある平安と慰め、----あなたが自分のために蓄えつつある悲惨、----やがてあなたに訪れる苦い目覚めについて嘆くものである。

 しかり! 私は嘆かざるをえない。そうしないではいられない。他の人々は、死んだ肉体のことを嘆くだけで十分だと考えるかもしれない。だが私としては、死んでいる魂のことを嘆くべき、はるかに大きな理由があると考える。この世の子らは、時として私たちがあまりにも真剣で深刻ぶっているといって非難することがある。だが私は、実際この世を眺めるとき、私たちが少しでも微笑むことができることに驚くものである。

 罪の中に死んでいるあらゆる人に向かって、きょう私は云う。なぜ、あなたは死のうとするのか。罪から来る報酬が甘すぎて、素晴らしすぎて、それを放棄できないのだろうか? サタンに使えることがあまりにも快いため、決して彼と引き離されることなどできないのだろうか? 天国があまりにも貧しすぎて、それを求める価値などないのだろうか? あなたの魂はあまりにも取るに足らないもので、それが救われるように苦闘する価値などないのだろうか? おゝ、引き返すがいい! 手遅れにならないうちに引き返すがいい! 神はあなたが滅びることを望んでおられない。神は云われる。「わたしは、だれが死ぬのも喜ばない」。イエスはあなたを愛しておられ、あなたの愚行を見るのを悲しんでおられる。イエスは、よこしまな町エルサレムを見下ろして涙し、云っておられる。「わたしはあなたを集めようとした。それなのに、あなたがたは集められるのを好まなかった」*。確かに、失われるとしたら、あなたの血の責めはあなたの頭に帰されるであろう。「目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる」(エゼ18:32; マタ23:37; エペ5:14)。

 嘘ではない、嘘ではない。真の悔い改めとは、いまだかつて、いかなる人も悔やんだことのない一歩である。幾万もの人々が、その最期になって、自分が「神に仕えることが僅かすぎた」と云ってきた。アダムのいかなる子らも、世を去るときになって、自分の魂について気を遣いすぎたなどと云うことはなかった。いのちの道は狭い小道であるが、その上にある足跡は、みな一方向に向かっている。アダムのいかなる子らも、そこから引き返して、それが迷妄だったと云った者はいない。世の道は広い道だが、何千万何百万もの人々がそれを見捨てて、それは悲しみと失望の道だったと証言してきた。

 3. 第三のこととして、いま生きている人々に語りたいと思う。

 あなたは本当に神に対して生きているだろうか? あなたは心から、「私は死んでいましたが、生き返らされました。私は目しいていましたが、今は見えています」、と云えるだろうか? ならば、勧めの言葉を受けてほしい。そして、あなたの心を知恵に傾けてほしい。

 あなたは生きているだろうか? ならば、自分の行動によってそれを証明するようにするがいい。首尾一貫した証人となるがいい。あなたの言葉と、行ないと、生き方と、気質とのすべてが、同じ物語を語るようにするがいい。あなたの生活が、亀やナマケモノのような、みじめな昏睡状態の生き方でないようにするがいい。----むしろそれが鹿や鳥の生活のような、活気に満ちた、活発な生き方であるようにするがいい。あなたの種々の恵みがあなたの生き方のあらゆる窓から輝き出るようにし、あなたの身近で生きている人々に、御霊があなたの心に宿っておられることを見せるようにするがいい。あなたの光が、暗く、明滅する、判別しがたい炎ではないようにするがいい。それを祭壇の上に絶えずともされている火のように、不断に燃やし、決して火勢を弱めないようにするがいい。あなたのキリスト教信仰の香りが、マリヤの高価な香油のように、あなたの住んでいる家全体に満ちるようにするがいい。----墨黒々と大書されたキリストの手紙となり、走っている人でもそれを読めるようにするがいい。あなたのキリスト教を完全なものとし、あなたの歩みを真っ直ぐなものとし、あなたを見ているすべての人にとって、あなたがどなたの所有物で、あなたがどなたに仕えているかについて何の疑いもないようにするがいい。もし私たちが御霊によって生かされているとしたら、だれからもそのことを疑われるべきではない。私たちの生活は、はっきりと私たちが「自分の故郷を求めている」ことを宣言しているべきである(ヘブ11:14)。下手に描かれた絵のように、「これはキリスト者なり」、という題名をぶらさげておく必要などあってはならない。私たちは、人々が目を近づけて、じっと見つめて、「これは死んでいるのだろうか? 生きているのだろうか?」、と云わなくてはならないような、動作の鈍い、静止したものであってはならない。

 あなたは生きているだろうか? ならば、それをあなたの成長によって証明するようにするがいい。あなたの光が輝きを増していくようにするがいい。----アヤロンの谷におけるヨシュアの太陽のように静止したままではなく、----ヒゼキヤの日時計のように逆戻りするのではなく、----むしろ、あなたの生涯最後の日まで、常に輝きを増し加えていくようにするがいい。あなたがかたどり更新された主のかたちが、月ごとに、より明確になり、よりくっきりしたものとなるようにするがいい。長く使うほどぼやけて磨滅していく、硬貨の像や銘のようにしてはならない。むしろそれを、年経るごとに、よりはっきりとしたものとし、あなたの王の肖像がより豊かに、よりくっきりと際だったものとなるようにするがいい。私は、ただ立ち止まったままのキリスト教信仰など全く信用しない。私が思うに、キリスト者は動物のように、一定の年齢に達したら成長をやめてしまうようなものとして造られてはいない。むしろ私の信ずるところ、キリスト者は樹木のように、その生涯の続く限り、力と勢力においていやまして増進していく者として造られている。使徒ペテロの言葉を思い出すがいい。「あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には……兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい」(IIペテ1:5、6、7)。これこそ用いられるキリスト者となる道である。人々は、常にあなたが向上している姿を見るとき、あなたが真剣であることを信じ、もしかするとあなたとともに行きたいと心引きつけられるであろう*14。----これこそ慰めに満ちた確信を獲得する1つの道である。「このようにあなたがたは、……御国にはいる恵みを豊かに加えられるのです」(IIペテ1:11)。おゝ、自分のキリスト教信仰において用いられる者、幸いな者となりたいと願っているのなら、「前へ、前へ!」、を生涯最後の日まで、あなたの座右の銘とするがいい。

 私が、信仰を有するあらゆる読者の方々に覚えてほしいと切に願うのは、私が、あなたに対してと同じくらい自分に向けて語っている、ということである。私は云う。キリスト者の内側にある霊的いのちは、より明白なものたるべきである、と。私たちのともしびには手入れが必要である。----これほどほの暗く燃えるべきではない。私たちのこの世からの分離は、より明確なものたるべきである。----私たちが神とともに歩む歩みは、より断固たるものたるべきである。私たちのうちのあまりに多くの者がロトのような者、----ぐずついている者である。あるいは、ルベン族や、ガド族や、マナセ族のような者、----境界線のまぎわで生きている者である。あるいは、エズラの時代のユダヤ人たちのような者、----異邦人と入り交じり、自分たちの霊的系図を証明できない者である。そのようなことがあるべきではない。立ち上がって、行ないだそうではないか。もし御霊によって生きているというのなら、御霊によって歩くこともしようではないか。本当にいのちがあるのなら、それを知らせようではないか。

 この世の状態は、それを要請している。終わりの日が私たちには臨んでいる。地の諸国は揺れ動き、倒壊し、崩れ去り、砕け散りつつある(イザ24:1以下)。決して取り去られることのない栄光の王国が近づきつつある。《王ご自身》が間近に来ておられる。この世の子らは、頭を巡らして、聖徒たちがどうしているかを見ようとしている。神は、そのくすしき摂理によって、私たちに呼びかけておられる。----「だれかわたしにくみする者はいないか。だれかいないか」。----確かに私たちは、アブラハムと同じように、いかなる逡巡もなくこう答えるべきである。「はい。ここにおります」!、と(創22:1)。

 「あゝ」、とあなたは云うかもしれない。----「それは昔の話でしょう。確かにそれは勇敢な言葉です。それはみな分かっています。しかし私たちは弱く、そんな雄々しい考えなど持てませんし、何もできません。私たちはただじっとしているしかありません」、と。----私は信仰を持っている読者の方々に云いたい。よく聞くがいい。何があなたの弱さの原因なのだろうか? それはいのちの泉がほとんど用いられていないためではなかろうか? あなたが過去の恵みに安んじていて、日ごとに新しいマナを集めていないため、----日ごとに新しい力をキリストから引き出していないためではなかろうか? キリストはあなたに《慰め主》の約束を残しておられる。「神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます」。----求める者すべてに、恵みの上にさらに恵みを与えてくださる。----主が来られたのは、「あなたがたがいのちを得、またそれを豊かに持つため」*である。----きょう主は云っておられる。「あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう」(ヤコ4:6; ヨハ10:10; 詩81:10)。

 私はこの論考を読んでいるあらゆる信仰者に云いたい。もし自分の霊的いのちをより健やかな、より力強いものとしたければ、あなたはより大胆に恵みの御座に近づかなくてはならない。こうした尻込みしがちな精神を放棄しなくてはならない。----主のことばをその額面通りに受け取ることについて、ためらいを捨て去らなくてはならない。疑いもなくあなたはあ、われな罪人で、何の価値もない存在である。主はそれを知っておられ、あふれるほどの力の蓄えをあなたのために備えておられる。しかしあなたは主が備えておられる蓄えのもとに近づこうとしていない。あなたの弱さの秘密は、あなたの乏しい信仰、あなたの乏しい祈りである。その泉は封印されてはいないが、あなたは、ほんの一滴か二滴しか飲んでいないのである。いのちのパンはあなたの前に置かれているが、あなたはほんの少しパンくずを口に入れただけなのである。天国の宝物庫は開いているが、あなたはほんの数ペンスを取るだけなのである。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか」(マタ14:31)。

 目を覚まして自分の特権を知るがいい。----目を覚まして、もう眠らないようにするがいい。恵みの御座があなたの前にある限り、霊的な飢えだの、渇きだの、貧困さだのについて語ってはならない。むしろ云うがいい、あなたは自分の高慢のために、あわれな罪人として御座のもとに行きたくはないのだ、と。むしろ云うがいい、あなたは自分の怠惰のために、より多くを得ようとして苦労したくない、と。

 あなたにまだぶらさがっている高慢という死衣をかなぐり捨てるがいい。怠惰というエジプトの装束を脱ぎ捨てるがいい。それは紅海を越えて持ち来たるべきではなかったのである。あなたの舌を金縛りにしている不信仰を打ち捨てるがいい。あなたは、神の中で制約を受けているのではなく、自分の心で自分を窮屈にしているのである。「大胆に恵みの御座に近づく」*がいい(ヘブ4:16)。そこでは御父がいつでも恵みを賜ろうと待っておられ、イエスがいつでも御父のかたわらでとりなしをしようと待っておられる。大胆に近づくがいい。というのもあなたは、いかに罪深くあろうとも、かの《偉大な大祭司》の御名によって行くならば、近づくことができるからである。大胆に近づき、大きな求めをするがいい。あなたは豊かな答えを得るであろう。----川のようなあわれみと、大いなる流れのような恵みと力とを得るであろう。大胆に近づくがいい。そうすればあなたは、自分の願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに与えられるであろう。「あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです」(ヨハ16:24)。

 もし私たちが本当に生きていて、死んではいないのなら、人々に私たちの主人がだれかを知らせるようなふるまいを努めてしようではないか。願わくは私たちが、生きている間は、主に対して生きていられるように。死ぬときは、義人が死ぬように死ぬように。そして主イエスが来られるときには、備えのできた者、「その来臨のときに、御前で恥じ入るということのない」者であるように(Iヨハ2:28)。

 しかし、結局において、私たちは生きているだろうか? それとも死んでいるだろうか? それこそ最大の問題である。

「生きているか、死んでいるか?」[了]

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*1 「私たちが良くならない理由、それは私たちの病が完全には知られていないからである。私たちが良くならない理由、それは私たちがいかに自分が悪いかを知らないからである」。----アッシャー大主教の説教集より。1650年オックスフォードでなされた説教。[本文に戻る]

*2 「人を救うのは、ちょっとした改革ではない。否、あるいは世にあるいかなる道徳でも、神の御霊のいかなる一般恩恵でも、人生の外的な変化でもない。それらは、私たちが生かされて、私たちの中に新しいいのちが作り出されるまで、何の役にも立たない」。----アッシャーの『説教集』。[本文に戻る]

*3 「人間の理解力はあまりにも暗くなっているため、人間には神のうちに何も神が見えず、聖潔のうちに何も聖潔が見えず、善のうちに何も善が見えず、悪のうちに何も悪が見えず、罪のうちに何も罪深いものが見えない。否、その暗さのあまり、人間は自分が悪のうちに善を見、善のうちに悪を見、罪のうちに幸福を見、聖潔のうちにみじめさを見ていると思いこむほどである」。----ベヴァリジ主教、『信仰箇条について』。[本文に戻る]

*4 「新しく生まれた魂が、いかに素晴らしく以前の自分と異なっていることか。その人は新しい生活を送り、新しい道を歩み、新しい羅針盤で針路を取り、新しい海岸へと向かう。その人の原理は新しく、その人の生活様式は新しく、その人のふるまいは新しく、その人の考えは新しく、すべてが新しい。その人は、かつて自分が織りあげたすべてのものを解きほぐし、別の仕事に全く打ち込んでいるのである」。----ジョージ・スウィンノク。1660年。[本文に戻る]

*5 「私は祈ることができないが、罪は犯す。私は説教を聞くことも語ることもできないが、罪は犯す。私は施しをすることも礼典を受けることもできないが、罪は犯す。否、私は、自分のもろもろの罪を告白することすらできないが、私の告白によってそうした罪をさらに悪化させている。私の悔い改めを私は悔い改める必要があり、私の涙は洗い流されなくてはならず、私の涙を洗い流すことそのものが、なおも私の《贖い主》の血によって再度洗い流される必要がある」。----ベヴァリジ主教。
 「あゝ、悲しいことだ。人が私のうちに何かすぐれたものがあるなどと考えるとは! 私を水晶であるかのように見通しておられるお方こそ、私について正しく証言なさるであろう。あまりにもしばしば私とともに道を行く隠れた内室の悪魔ども、私が内側に見いだす腐敗により、私が尾羽うち枯らしていることを」。----ラザフォードの『書簡集』。1637年。[本文に戻る]

*6 「私は自分のしているすべてのことにうんざりし、《贖い主》がなおも私を用い続け、祝し続けておられることに驚愕するばかりです。確かに私は他のいかなる人にもまして愚か者です。これほど多くを受けていながら、これほど僅かしか行なっていない者はいません」。----ホイットフィールドの『書簡集』。[本文に戻る]

*7 「もし私たちがまだ古い自我のままであり、変えられた者ではなく、この世に生まれ出たときのままの人間で、自分の腐敗を削られることもなく、恵みと聖めを加えられてもいないとしたら、確かに私たちは別の御父を探さなくてはならない。私たちはまだ神の子どもではないのである」。----ホール主教。1652年。
 「もしあなたが新生に満たないものしか持っていないとしたら、嘘ではない、あなたは決して天国を見ることはない。そうなるときまで、----あなたが新しく生まれるまで----天国に行けるいかなる望みもない」。----アッシャー大主教の『説教集』。[本文に戻る]

*8 「生まれながらの人が行なうことのできる良き義務は1つもない。もし彼が、『1つ良い思念を考えてみるがいい、そうすれば、それだけで天国に行けるであろう』、と云われたとしても、彼はそれを考えることができない。神が彼を、さながらラザロを墓から引き起こしたように、罪の汚水溝から引き起こしてくださらない限り、彼は神のお喜びになることを何も行なえない。彼は道徳的な人の様々なわざを行なうことはできるが、生かされて、光を与えられた人のわざを行なうことは、彼の力を越えている」。----アッシャーの『説教集』。
 「サタンがサタンを追い出すことができないのと同じくらい、天性は天性を追い出すことはできない」。----トマス・ワトソン。1653年。
 「天性は自らをここまで引き上げることはできない。それは、人が動物を人間に引き上げることができないのと変わらない」。----レイトン大主教。[本文に戻る]

*9 「創造すること、すなわち、無から何かを生じさせることは、いかに強い被造物の力をも超えたことである。いかにちっぽけな草の葉を創造することすら、あらゆる人と御使いの力に余ることである。神はこのことをご自分の大権として主張しておられる(イザ40:26)。いみじくもアウグスティヌスは云った。ちっぽけな世の人を回心させることは、大いなる世を創造することにもまさる、と」。----ジョージ・スウィンノク。[本文に戻る]

*10 「そのとき、すなわち、キリストの御霊を授けられることによって私たちが、《いのちの泉》なるキリストとの結合を有し始めるときこそ、私たちは生き始めるのである。このときから私たちは生き始めたと考えるべきである」。----フラヴェル。
 「キリストは、あらゆるいのちの普遍的な原理である」。----シブス。1635年。[本文に戻る]

*11 「新生した人々に対する聖霊の力はかくのごときものであり、それが彼らを新しく生み出すものである。だからこそ彼らは以前の彼らとは全く似て非なるものとなるのである」。----聖霊降臨祭のための公定説教。[本文に戻る]

*12 「すべてはここにかかっている。もしこれがなされていなければ、あなたは終わりである----永遠に終わりである。あなたのあらゆる告白も、礼儀も、特権も、賜物も、義務も、それらの前に新生という数字が置かれていない限り、零の連続であり、無意味である」。----スウィンノク。1660年。
 「嘘ではない。あなたがいかなる者であろうと、決してあなたは、自分が貴族や騎士であるとか、紳士や金持ちであるとか、学者や能弁の雄弁家であるとかいうことのゆえに救われはしない。あるいは、形式的に、カルヴァン主義者であるとか、ルター派であるとか、アルミニウス主義者であるとか、アナバプテスト派であるとか、長老派であるとか、独立派であるとか、プロテスタント教徒であるとかいうだけの理由で救われはしない。いわんやローマカトリック教徒であるとか、そうした、はなはだしく惑わされた一派であるからということで救われはしない。----むしろ、新生したキリスト者としてこそ、あなたは救われなくてはならない。----さもなければ、あなたは何の望みも持てない」。----リチャード・バクスター。1659年。[本文に戻る]

*13 「もしあなたの状態が良いものであるなら、それを探ることによって、あなたは慰めを与えられるであろう。もしあなたの状態が悪いものであるなら、それを探ることによって、別にそれは悪化すまい。否、それこそ、あなたの状態をより良いものとする唯一の道である。というのも、回心は罪の確信によって始まるからである」。----ホプキンズ主教。1680年。[本文に戻る]

*14 「偏見を持った人々は、言葉よりもはるかにまさって行動に注目するものである」。----レイトン。[本文に戻る]

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