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4. 私たちの望み!


「恵みによるすばらしい望み」----IIテサ2:16 <英欽定訳>

 「望みます」、というのは、ごく普通に用いられる表現である。だれでも、「望みます」、と云うことはできる。だが、いかなる主題にもまして頻繁にこの表現が用いられるのは、キリスト教信仰に関する場合にほかならない。良心の痛いところを突かれた人々が、その切っ先をそらそうとして、真っ先に逃げ口上にしたがるのが、この都合のいい云い回し、「望みます」なのである。----「結局、万事問題ないと私は望んでいます」。----「私も、いつかはもっとまともな人間になるのを望んでいますよ」。----「私たちは、みんな天国に行けると望みます」。----しかし、なぜ彼らはそう望んでいるのだろうか? 彼らの望みは何に基づいているのだろうか? ほとんどの場合、彼らは何も告げることができない! ほとんどの場合、それは不愉快な主題を避けるための云い訳でしかない。「望みながら」、彼らは生き続ける。「望みながら」、彼らは老いていく。「望みながら」、彼らは最後には死ぬ。----そして彼らは、あまりにもしばしば、自分が永遠に失われていることに地獄で気づくのである。

 私はこの論考を読むあらゆる方々に、真剣な注意を払ってほしいと思う。この主題は、この上もなく深い重要性を有する主題の1つである。「私たちは、この望みによって救われているのです」(ロマ8:24)。では、私たちの望みが健全なものであることを確かめようではないか。----私たちは自分の罪が赦されており、自分の心が更新されており、自分の魂が神との平安を得ているという望みがあるだろうか? それでは、私たちの望みが、「すばらしい」望み、「生ける」望み、「失望に終わることがない」*望みであるようにしようではないか(IIテサ2:16; Iペテ1:3; ロマ5:5)。私たちの現状をよく考えてみよう。自分の魂の状態について、正直な、心探る省察をすることから尻込みしないようにしよう。もし私たちの望みがすばらしいものであるとしたら、吟味されても何の害もこうむらないであろう。もし私たちの望みがお粗末なものであるとしたら、いいかげんにそのことに気づき、よりすばらしい望みを求めてよい頃のはずである。

 真に「すばらしい望み」には5つの目印がある。私はそれを順々に読者の方々の前に提示したいと思う。そして私たちは、自分がそれらについて何を知っているか自問してみよう。自分自身の状態をそれらによって試してみよう。幸いなことよ、こうした目印の1つ1つについてこう云える人は。----「私はこれを経験によって知っています。これが私の魂について私のいだいている望みです」、と。

 I. まず第一のこととして、すばらしい望みとは、人が説明することのできる望みである。聖書は何と云っているだろうか? 「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい」(Iペテ3:15)。

 もし私たちの望みが健全なものであるとしたら、私たちはそれについて何らかの説明ができなくてはならない。私たちは、なぜ、いかにして、いかなる根拠に基づき、いかなる理由によって、自分が死んだときには天国に行けると期待できるのか示すことができなくてはならない。さて、私たちにはそれができるだろうか?

 だれも私の云わんとすることを誤解しないでほしい。何も私は、救われるためには、深い学識と広範な知識が絶対に必要だと云っているのではない。人は二十箇国語に通じ、神学全般を知悉していようと、失われることがありえる。人は読み書きができず、非常に乏しい理解力しかなくとも救われることはありえる。しかし、私が云いたいのは、人は自分の望みがいかなるものであるか知っていなくてはならず、その性質について語ることができなくてはならない、ということである。何かを所有しているという人が、それについて何も知らないでいるなどということは、私には信じられない。

 それとは別の面でも、だれも私の云わんとすることを誤解しないでほしい。何も私は、弁舌さわやかに語れることが救いに必要だと云っているのではない。人は、その唇には多くの巧言を上せていても、その心にはこれっぽっちも恵みを有していないことがありえる。逆に、言葉数の少ない、訥弁の人でも、聖霊によって植えつけられた、深い感情を内側に有していることがありえる。ある人々はキリストのために多くの言葉を語ることはできないが、キリストのためなら喜んで死ぬであろう。しかし、こうしたすべてにもかかわらず、私が云いたいのは、すばらしい望みを得ている人は、そのわけを語ることができなくてはならない、ということである。たとえその人が、「私は自分が罪人だと感じています。私の望みは、ただキリストだけにかかっています」、としか語れないとしても、これはそれなりの意味がある。しかし、もしその人が全く何も語れないとしたら、私はその人がちゃんと中身のある望みを有しているか疑わざるをえない。

 ここに表明したような意見が多くの人々の気にくわないものであることは、百も承知している。おびただしい数の人々は、私の信ずるところ、救いに至る望みに明確な知識が欠かせないことを全く理解できない。彼らの考えによると、人は、日曜日に教会に通っている限り、また自分の子どもたちに洗礼を授けさせている限り、それで満足すべきなのである。彼らは私たちに告げて云う。「知識は、教職者や神学教授には結構しごくなものかもしれませんが、それを一般庶民に求めるのは行き過ぎですよ」、と。

 こうしたあらゆる人々に対する私の答えは、単純明快なものである。新約聖書のどこを見れば、キリスト教の内容を全く知りもしない人が、キリスト者であるなどと呼ばれているだろうか? コリントや、コロサイや、テサロニケや、ピリピや、エペソのキリスト者たちは、魂について自分がいかなる望みをいだいているか告げられなかったとでも云うのだろうか? そのようなことを、大真面目に云い立てる人がだれかいるだろうか? そうしたことを信じたい人は信ずればいいだろうが、私としては、到底信じられない。人は自分の望みの根拠をわきまえている必要がある。これは単に、私の信ずるところ、新約聖書の基準を掲げているにすぎない。無知は、ローマカトリック教徒にはあつらえむきのものかもしれない。その人は自分が真の教会と考えるものに所属しているのである。自分の司祭が云う通りのことを行なうのみである!----しかし、決して無知は、プロテスタントのキリスト者の特徴であってはならない。その人は、自分が何を信じているかをわきまえているべきであって、わきまえていないとしたら、間違った道に立っているのである。

 私はこの論考を読んでいるあらゆる方々に、自分の心を探ってみるよう願いたい。自分の魂がいかなる状態にあるかを見てとるがいい。あなたは単に、「自分は救われると望んでいます」、としか云えないのだろうか? あなたの確信の根拠については何も説明できないのだろうか? 漠然とした期待のほかには、何も満足のいくものを示せないのだろうか? だとすると、あなたは永遠に失われるという途方もない危険に陥っている。あなたは自分の旅路の終わりに達したとき、『天路歴程』の無知者のように、さしたる支障もなく、空頼み者の渡し舟で川を渡れるかもしれない。しかし、あなたを嘆かせることに、無知者のようにあなたは、天の都に入るのを許されないことに気づくであろう。そこに入れるのは、ただ、「自分の信じて来たことと、自分の信じてきた方をよく知っている」人々だけである*1

 私はこの原則を、まず第一の点として規定し、読者の方々にじっくり考えるように願うものである。私も、真のキリスト者たちの恵みに程度の差があることを認めるのにやぶさかではない。神の家族の中には、信仰が非常に弱い者、望みが非常に小さな者が大勢いることを忘れているわけではない。しかし、私が確信をもって信ずるところ、いま必須のものとして掲げた基準は、いささかも高すぎはしない。私の信ずるところ、「すばらしい望み」を有している人は常に、その説明を何かしらできるはずである。

 II. 第二のこととして、すばらしい望みとは、聖書から引き出されている望みである。ダビデは何と云っているだろうか? 「私はあなたのみことばを待ち望んでいます」。----「どうか、あなたのしもべへのみことばを思い出してください。あなたは私がそれを待ち望むようになさいました」。聖パウロは何と云っているだろうか? 「昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです」(詩119:81、49; ロマ15:4)。

 もし私たちの望みが健全なものであるとしたら、私たちはその源泉として、神のみことばにある何らかの聖句か、事実か、教理を頼りにすることができなくてはならない。私たちの確信は、神が私たちを教えるために聖書に書かせ、私たちの心が受け入れ、信じた何かから生じていなくてはならない。

 自分の魂の状態についてすばらしい感情をいだくだけでは十分ではない。私たちは自分にへつらって、万事問題はない、自分は死んだら天国に行くことになっているのだ、と考えていながら、しかし自分の期待について、ただの思い込みや想像のほか何も示せないということがありえる。「人の心は何よりも陰険で」----「自分の心に頼る者は愚かな者」(エレ17:9; 箴28:26)。----私はこれまで何度も、死につつある人々が、「私はたいそう幸せな感じがしています、いつお迎えが来ても大丈夫です」、と云うのを耳にしてきた。彼らが、「まるでこの世には何の未練もないように感じています」、と云うのを聞いてきた。だが、そうした間に私が気づくのは、彼らが聖書について途方もなく無知であり、福音の真理をただの1つもしっかりつかみきれていないように思われるということなのである! 私はこうした人々について決して慰めを感じることができない。私の確信するところ、彼らの状態には何か間違ったものがある。すばらしい感情だけで聖書の何の裏づけもないのは、すばらしい望みではない。

 自分の魂の状態について、他人からすばらしい評価を受けるだけでは十分ではない。人は、臨終の床についたとき、他の人々から、「気を確かに持って」、「心配しないで」、などと云われることがある。あなたは「善良な生活を送ってきたし、----善良な心を持っているし、----だれにも恨まれる筋合いはないし、----多くの人ほど悪辣ではありませんでしたよ」、などと云われるかもしれない。が、その間そうした友人たちは、一言も聖書の言葉を口にせず、相手に毒を飼っているということがありえる。そのような友人たちは、みじめな慰め手である。確かに善意から出ているとはいえ、彼らは私たちの魂にとってはまぎれもない敵である。他の人々のすばらしい意見だけで、神のみことばの裏づけがないのは、すばらしい望みではない。

 もしも自分の望みが健全なものかどうかを知りたければ、自分の心の中に、神の書から出た何らかの聖句か、教理か、事実があるかどうかを探ってみるがいい。もしあなたが真に神の子どもだとしたら、あなたの魂の拠り所となっているものが1つか2つは必ずあるであろう。ひとりの窃盗犯が、ロンドンの監獄で死にかけていた際に、ロンドン市内宣教団の訪問を受けたという。彼はキリスト教については完全に無知であることがわかったが、読み聞かされた聖ルカの福音書の一箇所から1つの事実だけはしっかりとつかみとった。その事実とは、悔い改めた強盗の物語であった。再度訪問されたときに彼は云った。「先生。きのう読んでくださった本の中には、もっと盗人がおりませんか?」、と。----ある宣教師が、道端で死にかけているのを見いだしたヒンドゥー人は、聖ヨハネの第一の手紙にあるたった1つの聖句を握りしめ、そこに平安を見いだしていた。その聖句とは、この尊い言葉であった。「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」(Iヨハ1:7)。----これは真のキリスト者全員の経験である。その多くの者たちは学問もなく、卑しく、貧しい者らではあるが、彼らは聖書の中に何かをつかみ、それによって望みをいだかされているのである。「失望に終わることがない」望みは、決して神のみことばから切り離せない。

 人々の中には、教役者が、これほど強く聖書を読むように強要することを不思議がる人々がいる。彼らは、説教の重要性についてこれほど多くを私たちが語り、これほどしばしば説教を聞くよう彼らに促すことに驚く。そうした人はもう不思議がることも、驚くこともよすがいい。私たちが目指しているのは、あなたを神のことばに親しませることである。私たちが求めているのは、あなたにすばらしい望みをいだかせることであり、すばらしい望みは聖書から引き出されなくてはならないことを私たちは知っているのである。読むことも、聞くこともしないような人は、無知の中で生き、死んでいくほかはない。それゆえ私たちは叫ぶのである。「聖書を調べなさい」。「聞け。そうすれば、あなたがたは生きる」、と(ヨハ5:30 <新改訳欄外訳>; イザ55:3)。

 私は、聖書から引き出されていないような望みに用心するよう、あらゆる人に警告するものである。それはまがいものの望みであり、多くの人々はそのことを見いだしてほぞをかむことになるであろう。かの栄光ある完璧な書物、聖書は、人々がいかに蔑もうとも、人間の魂が平安を引き出しうる唯一の源泉にほかならない。多くの者らは、生きている間はこの古い本を冷笑するが、死ぬ段になるとその必要に気づく。宮殿の女王も救貧院の乞食も、書斎の哲学者もあばら屋の子どもたちも、----いかなる人々もみな、少しでも望みを得たければ、甘んじて聖書に生ける水を求めなくてはならない。あなたの聖書を重んじ、----あなたの聖書を読み、----あなたの聖書にすがりつくがいい。墓のこちら側の地上では、いかに堅固な望みも、その切れ端でさえ、みことばから引き出されていないものはないのである*2

 III. 第三のこととして、すばらしい望みとは、イエス・キリストに完全により頼んでいる望みである。聖パウロはテモテへの手紙で何と云っているだろうか? 彼の云うところ、イエス・キリストは「私たちの望み」である。コロサイ人への手紙では何と云っているだろうか? 彼は、「あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望み」、について語っている(Iテモ1:1; コロ1:27)。

 すばらしい望みを有している人は、自分が赦され救われるという期待のすべての土台が、神の御子イエスの仲立ちと贖いのみわざであることを悟っている。その人は自分の罪深さを知っている。自分が生まれつき咎のある、よこしまで、失われた者であることを感じている。だがその人は、赦しと、神との平和が、キリストを信ずる信仰を通して、無代価で自分に差し出されていることを見てとっている。その人はその申し出を受け入れている。自分のありとあらゆる罪とともにわが身をイエスに投げかけ、イエスの上に安らいでいる。イエスとその十字架上での贖罪、----イエスとその義、----イエスとその完成されたみわざ、----イエスとそのすべてに打ち勝つとりなし、----イエス、そしてイエスのみが、その人の魂の確信の土台なのである。

 キリストに土台を置いてもいない望みを、すばらしい望みと考えないように用心しようではないか。他の望みはみな砂の上に建てられたものである。それらは、若くて何もかも順調な夏の間は申し分なく見えるが、病の日や死を迎える時には役立たずになるであろう。「だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです」(Iコリ3:11)。

 教会員籍は、決して望みの土台ではない。私たちは最良の教会に所属していても、決してキリストに属していないことがありえる。毎日曜日、きちんと教会の座席を占め、正統的で、叙任を受けた教職者の説教を聞いていても、決してイエスの声を聞くことなく、イエスに従ってないことがありえる。もし私たちに教会員籍しか頼るものがないとしたら、私たちの状況は悲惨である。私たちの足下には何1つ堅固なものがない。

 礼典を受けることは、決して望みの土台ではない。私たちはバプテスマの水で洗われても、いのちの水について何も知らないことがありえる。私たちは一生の間、毎日曜、聖卓のもとに出てきても、決して信仰によってキリストのからだを食べ、キリストの血を飲まないことがありえる。もし私たちがこのこと以外に何も云えないとしたら、私たちの状態は実にみじめなものである! 私たちはキリスト教の外側のほか何も有していない。私たちは葦に寄りかかっているのである。

 キリストご自身こそ、すばらしい望みの唯一まことの土台である。キリストは岩である。----そのみわざは完全である。キリストは石である。----堅く据えられた石、----試みを経た、かしら石である。キリストは、私たちが投げかけることのできるあらゆる重みを担うことができる。キリストの上に建てる者、「彼に信頼する者」だけが唯一、「決して失望させられることがない」(申32:4; イザ28:16; Iペテ2:6)。

 これこそ、あらゆる時代の神の真の聖徒たち全員が、全く同意してきた点である。他の事がらでは意見を異にしていても、彼らは常にこの点にかけては思いを1つにしていた。教会政治や、戒規や、典礼式文については同じ意見を持てなくとも、望みの土台については常に意見を同じくしていた。彼らのうちひとりとして、自分自身の義に頼って世を去った者はなかった。キリストこそ、彼らの確信のすべてであった。彼らはキリストに望みをかけ、失望させられることがなかった*3

 福音の教役者が、付き添っていて自ら慰めを感ずるような死の床がいかなる種類のものか、知りたい人がいるだろうか? あなたは、いかなる最期が私たちを元気づけ、私たちの思いに心地よい印象を残すものか知りたいだろうか? 私たちが見たいのは、死に行く人々がキリストを重んじている姿である。彼らが「全能者」や「摂理」や「神」や「あわれみ」についてしか語れない限り、私たちは疑いを解くことができない。このような状態で死んでいく人々は、満足のいくしるしを何も残さない。私たちが欲しているのは、自分のもろもろの罪を深く実感し、イエスにすがりついている人々である。----イエスの死にたもう愛に深く感謝し、----イエスの贖いの血潮について聞くことを好み、----イエスの十字架の物語に何度も何度も立ち返っていくような人々である。こうした臨終の床こそ、その人々が世を去った後にすばらしい証拠を残していくものである。私としては、死につつある親類の唇から心を込めて発されたイエスの御名を聞くことの方が、その人がキリストについて一言も語らずに死んだ後で、彼は救われたと御使いから聞かされるよりも、どれだけまさっているかわからない*4

 IV. 第四のこととして、すばらしい望みとは、心の内側で感じられる望みである。聖パウロは何と云っているだろうか? 彼の語っている望みは、「失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」、というものであった。彼は、「望みを抱いて喜ぶ」ことについて語っている(ロマ5:5; 12:12)。

 すばらしい望みを有している人は、そのことを自覚している。その人は自分の内側に、他の人が感じていない何かを感じている。後に来るすばらしいものに対する期待、確かな根拠のある期待を有していることを自覚している。この自覚は、人それぞれで非常に差があるものである。ある人にとって、これは力強く、明確なものであろう。他の人にとって、これはかすかで、ぼんやりしたものであろう。----同一の人の経験においても、この自覚は異なる段階段階で非常に差があるであろう。その人は、あるときには「信仰によるすべての喜びと平和」に満たされているかもしれない。別のときには、失意と落胆のうちにあるかもしれない。しかし、程度の差はどうあれ「すばらしい望み」を有しているすべての人には、この自覚が存在している。

 この真理が、すさまじいほどに悪用され、歪曲されてきたものの1つであることは私も承知している。これは、狂信者や熱狂主義者たちの教えにより、また、一部の信仰を告白するキリスト者たちの無軌道な言動によって、たいへんな悪評をこうむってきた。単なる動物的な興奮が、聖霊のみわざと混同されてきた。精神の薄弱な、また神経質な人々がたかぶらせる種々の感情が、恵みの結果であると早まって、性急に考えられることがあった。人々は、軽率な者らにより「回心した」と宣言された後で、すぐに世に舞い戻り、全く「未回心の」者、罪の中に死んでいる者であることを明らかにしてきた。そしてそこに悪魔がやって来るのである。ありとあらゆる種類の信仰的な感情に軽蔑が注ぎ出された。そうした信仰的な感情の存在そのものが否定され、鼻であしらわれることになった。そしてその結果、キリスト教信仰における「感情」という名前そのものが、多くの方面では恐れられ、忌避されているのである。

 しかし、ある真理が悪用され歪曲されたからといって、決して私たちは、その真理を用いる権利をみすみす奪い取られてはならない。狂信や熱狂主義に対して云いたいだけのことが云われた後でも、それでも否定しがたいこと、それは、聖書の中では、種々の信仰的な感情のことがはっきりと語られ、述べられている、ということである。神のことばが私たちに告げるところ、真のキリスト者たちには、「平安」と、「安らぎ」と、「喜び」と、「信頼」がある。聖書が私たちに告げるところ、ある人々には「御霊のあかし」があり、----ある人々は「わざわいを恐れ」ず、----ある人々には「確信」があり、----ある人々は「自分の信じて来た方をよく知っており」、----ある人々は、「キリストにある神の愛から自分が引き離されることは決してないと確信して」いる。こういった感情こそ、私が擁護したい感情なのである。これこそ、何の無軌道さも、熱狂も、狂信も見られることのない、慎み深い、内的な経験である。大胆に云うが、このような感情について、いかなる人も恥じる必要はない。さらに云うが、いかなる人であっても、こうした感情を自分の心の中で、たとえどれほどかすかであっても、いささかも知らないと云うような人は、決して「すばらしい望み」を有していないのである。さらにさらに云うが、これ以外の教えをいだくことは、聖霊のみわざ全体に恥辱を塗りつけることである。

 神は、真のキリスト者が自分のキリスト教についていかなる内的な自覚も感じずにいることを意図しておられる、などと云う人がいるだろうか? 人は死からいのちに移り、赦され、更新され、聖なるものとされても、なおもこの途方もない変化を内側に感じないでいることがありえるのだ、それが聖書の教えだ、などと云う人がいるだろうか? そう思いたい人はそう思うがいい。私はそのような教えを信ずることはできない。私としては、ラザロが墓からよみがえったことを自覚しなかったとか、バルテマイが視力を回復しても自覚しなかったと信ずるのも、人が神の御霊を内側に宿していながらそれを感じることができないなどと信ずるのも、五十歩百歩であると思う。

 くたくたに疲れ切った人が寝床に横たわって、安らぎを感じずにいられるだろうか? アフリカの砂漠を行く、からからに喉の渇いた旅人が、水を飲んでも清新にされたことを感じずにいられるだろうか? 極寒に苦しみながら北極地方を航海する船乗りが、火に近づいても暖まったことを感じずにいられるだろうか? この町の街路にいる、半裸の、飢えた、家のない浮浪者が、服を着せられ、食事を与えられ、家に収容されても、慰安を感じずにいられるだろうか? 気絶しかかった病人が薬用の強壮剤を与えられても、元気づいたことを感じずにいられるだろうか? 私にはそのようなことは信じられない。私の信ずるところ、いずれの場合にも何かしら感ずるところがあるはずである。----それと全く同じくらい信じられないのは、人が真のキリスト者になっても、内側に何かしらも感ずることがありえない、ということである。新生、罪の赦し、キリストの血の注ぎかけを受けた良心、聖霊の内住、これらは、人々が一見考えているように小さな事がらではない。こうしたことを少しでも知っている者は、それらを感じとるであろう。その人の内なる人の中には、現実の、明確な証しがあるであろう。

 感じとれないような望みや、何ら内的な経験に欠けているキリスト教に対して用心しようではないか。そうしたものが現代の偶像なのであり、その偶像を幾万もの人々が伏し拝んでいるのである。人は新しく生まれて、御霊を有するようになっても、それを感じとらずにいることがありえるとか、----人はキリストの肢体となり、キリストから恩恵を受け取っても、キリストの御名に対する信仰も愛も持たずにいることがありえる、などと、幾万もの人々が思い込もうとしている。こうしたことこそ、現代もてはやされている教えなのである! これらが、アルテミスやヘルメスや「天から下ったそのご神体」に取って代わった神々なのである! これらは、あわれで、頭の弱い、偶像を拝む人間が発明した最新の神格である! こうしたあらゆる偶像たちから、私たちは執拗な注意を払って身を引き離そうではないか。彼らの頭は黄金かもしれないが、その足は粘土以上のものではないのである。彼らは立つことができない。遅かれ早かれ倒壊ざるをえない。まことにみじめなのは、それらを礼拝する者たちの期待である。そうした人々の望みは聖書の望みではない。それは死体の望みである。キリストと御霊がおられるところでは、その臨在が感じとれるものである!

 使徒パウロが、内的な感情を何1つ知らないようなキリスト者たちに満足していたなどと考える、正気の人がどこにいるだろうか? この力強い神の人が、受け入れた人の内側に何物も経験させないようなキリスト教信仰を是認するなどということを考えられるだろうか? 彼の創設した教会に所属するひとりの人が、全くもって平安も、喜びも、神への信頼も知ってはいないというのに、そうした人が、この偉大な異邦人への使徒から、真の信仰者であると認められているような姿を思い描けるだろうか! そのような考えは追い払うがいい! それは一瞬たりとも熟考に耐える考えではない。聖書の証言は平明で明確である。人々が熱狂主義や興奮についていかに語ろうとも、キリスト教信仰には種々の感情というものがあるのである。そうした感情を全く知らないというキリスト者は、まだ回心しておらず、学ばなくてはならないことだらけなのである。冷たい大理石のギリシャ彫像であるなら冷徹にしていてもいいかもしれない。ひからびたエジプトのミイラなら、硬く、静かにしていてもいいかもしれない。剥製にされた博物館の動物なら、動くこともなく冷たくしていていいかもしれない。しかし、いのちのあるところであれば、そこには常に何らかの感情があるものである。「すばらしい望み」とは、感じとることのできる望みなのである。

 V. 最後のこととして、すばらしい望みとは、生き方の中で外的に明らかに現わされている望みである。もう一度云うが、聖書は何と云っているだろうか? 「キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします」(Iヨハ3:3)。

 すばらしい望みを有している人は、それをその人のあり方すべての中で示すものである。それはその人の生き方、性格、日常のふるまいに影響を及ぼすであろう。その人をして、聖く、敬虔で、良心的で、霊的な人になるよう努力させるであろう。その人は、自分の望みの出所であるお方に仕え、そのお方を喜ばせようという絶えざる義務感を覚えるであろう。そして、自分に云うであろう。「主が、ことごとく私に良くしてくださったことについて、私は主に何をお返ししようか」? その人はこう感ずるであろう。「私は、代価を払って買い取られたのだ。私の自分のからだと霊をもって、神の栄光を現わそう」*。----「私は、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、宣べ伝えよう」*。私は、自分がキリストの友であることを証明するために、「キリストの戒めを守ることにしよう」*(詩116:12; Iコリ6:20; Iペテ2:9; ヨハ15:14)。

 これは、あらゆる時代の教会において、途方もなく重要であった点である。これは、サタンから常に攻撃されている真理であり、執拗な注意を払って擁護する必要のある真理である。私たちはこれを堅く握って、自分のキリスト教信仰における確固たる原則としようではないか。もしも家の中にあかりがあるなら、それは窓を通して輝くであろう。もしある人の魂の中に本当の望みがあるなら、それはその人のあり方の中に見られるであろう。あなたの望みを、あなたの生き方と日々のふるまいの中で見せてほしい。それはどこにあるのか? どこにそれは現われているのか? もしあなたがそれを見せられないというのなら、それは迷妄であり、罠のほか何物でもないことは確実と思ってよい。

 今の時代に、あらゆる教役者は、この主題について非常に明確な証しをせざるをえない。この点に関する真理は、非常に歯に衣着せない語り口で提示されなくてはならない。私たちはこのことを自分の思いに深く銘記しておき、それを手放さないように用心しよう。むなしいことばに、だまされてはならない。「義を行なう者は……正しいのです」。「神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません」(Iヨハ2:6; 3:7)。人を、そのあらゆる人間関係において、正直にも、廉潔にも、誠実にも、慎み深くも、勤勉にも、利他的にも、愛ある者にも、柔和にも、親切にも、忠実にもしないような望みは、上から出たものではない。それは単に「欠損を招くだけのおしゃべり」*である。「贈りもしない贈り物を自慢する者は、雨を降らせない雲や風のようだ」(箴14:23; 25:14)。

 (a) 現代のある人々は、自分にへつらい、自分にはキリスト教信仰の知識があるからといって、すばらしい望みを有していると考えている。彼らは自分の聖書の文字には親しんでいる。教理上の様々な点について議論をぶったり論じたりできる。自分の神学的な意見を擁護するために、そらで聖句を引用できる。彼らは論争においては完璧なベニヤミン人である。----彼らは「一本の毛をねらって石を投げて、失敗することがない」*(士20:16)。だがしかし、彼らには御霊の実が何1つない。何の愛も、柔和さも、温和さも、謙遜さも、キリストにある心もない。では、こうした人々には望みがあるだろうか? そう信じたい人は信ずるがいいが、私はとてもそのようなことは云えない。私は聖パウロとともにこう信じている。「たとい、ある人が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たといその人が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません」*。しかり、愛のない望みは、望みでも何でもない(Iコリ13:1-3)。

 (b) やはりある人々は、神の永遠の選びのゆえに、自分にはすばらしい望みがあると思い込んでいる。大胆にも彼らは、かつて自分が神によって救いへと召され、選ばれたと確信している。かつて自分たちの心には御霊のみわざが現実になされ、それゆえすべてが問題ないと当然のように考えている。彼らは、自分たちより不安げにしか告白できない他の人々を見下す。あたかもこう考えているかのようである。「私たちは神の民で、私たちは主の宮で、私たちはいと高き方のお気に入りのしもべなのだ。----私たちは天で支配する者、ならびもなき者なのだ」、と。だがしかし、まさにこうした当の人々が、うそをつき、人を騙し、金銭を詐取し、恥ずべき生活を平然と送っているのである! 彼らのある者は、私宅では平然と酒に酔い、口にするのも恥ずべき罪をひそかに犯しているのである! では彼らにはすばらしい望みがあるだろうか? 私には断じてそのようなことは云えない! 「聖め」へと向かわないような選びは、神から出たものではなく、悪魔から出たものである。人を聖くしないような望みは、望みでも何でもない。

 (c) 今日ある人々は、福音を聞くことを好んでいるからといって、自分にはすばらしい望みがあると夢想している。彼らは良い説教を聞くことが好きである。ひいきの説教者の話を聞くためなら何マイルも出かけて行き、その言葉によって泣いたり、大感動を覚えることすらある。教会内で彼らを見ると、人は考えるであろう。「確かにこの人たちはキリストの弟子である。確かにこの人たちは、すぐれたキリスト者である!」、と。----だがしかし、こうした当の人々が、平然とこの世のあらゆる愚行と歓楽に同調しているのである。夜な夜な彼らは、心からの喜びをもって、何のこだわりもなく歌劇や、劇場や、舞踏場に出かけて行く。彼らの姿は競馬場に見受けられる。彼らは、この世のあらゆるお祭り騒ぎに没頭する。日曜日の彼らの声はヤコブの声だが、平日の彼らの手はエサウの手なのである。----ではこうした人々にはすばらしい望みがあるだろうか? 私にはそうと云えない。「世を愛することは神に敵することである」。世にならうことを妨げないような望みは、望みでも何でもない。「神によって生まれた者はみな、世に勝つからです」(ヤコ4:4; Iヨハ5:4)。

 私たちの心と、生き方と、趣味と、ふるまいと、生活とを聖なるものとする影響力を振るわないような望みに私たちは用心しようではないか。それは決して上から出た望みではない。それはただの卑金属であって、贋金である。それは聖霊の造幣局印を欠いており、決して天国では通用しない。まことの望みを有している人も、疑いもなく、過誤に陥ることはある。そのふるまいにおいて時にはつまずき、しばし正しい道から脇にそらされることがある。しかし、神の律法を、何らかの点で、故意に、また常習的に破っている人は、心が腐っているのである。その人は好きなだけ自分の望みについて語れるが、現実には何の望みも有していないのである。そうした人のキリスト教信仰は、悪魔にとっては喜び、世にとってはつまずきの石、真のキリスト者たちにとっては悲しみ、神にとっては怒りの種である。おゝ、願わくは人々がこうした事がらを考慮するように! おゝ、多くの人々がこのような祈りをささげるように! 「無律法主義と偽善から、良き主よ、われを救い出したまえ」、と。

 さて私は、先に行ないたいと語ったことをなし終えた。私は、健全な、すばらしい望みに伴う、5つの主立った目印を示してきた。----(1) それは人が説明できる望みである。(2) それは聖書から引き出された望みである。(3) それはキリストに土台を置いた望みである。(4) それは心の内側で感じとれる望みである。(5) それは生き方の中で外的に現わされる望みである。----私の堅く信ずるところ、このような望みこそ、真のキリスト者全員の望みである。それは、名称や、教会や、教派や、民族や、国語の違いを越えて変わらない。このような望みこそ、天国に行きたければ私たちが有さなくてはならないものである。このような望みがなければ、いかなる人も救われることはできないと、私は堅く信ずるものである。このような望みこそ、「恵みによるすばらしい望み」である。

 ここでしばし、読者の方々全員の良心に、この主題の全体を実際的なしかたで適用したいと思う。真理を知ったところで、それを用いなければ、私たちにとって何の益になるだろうか? すばらしい望みのまことの性質について認識したとしても、私たち自身の魂に、その問題が身にしみて感じられなければ、それが何の役に立つだろうか? 神のみ許しがあれば、それこそ私が今この論考の残りの部分で行なおうとしていることである。願わくは神の霊が大いなる力をもって、このページを読むあらゆる方々の心に私の言葉を適用してくださるように! 人は語り、説教し、書くことができるが、神おひとりのみ回心させることがおできになるのである。

 (1) 私が適用としたい最初の言葉は、1つの問いかけである。私はそれを、この論考を読んでいるすべての人に差し出し、すべての読者に答えを返すよう切に願うものである。その問いかけとは、こうである。「いかなる望みをあなたは自分の魂についていだいているだろうか?」

 私はこれを、くだらない好奇心から尋ねているのではない。キリストの大使として、またあなたの最善の利益を求める友として尋ねているのである。私がこう尋ねるのは、自己省察の思いをかき立て、あなたの霊的な幸福を押し進めるためである。私は尋ねたい。「いかなる望みをあなたは自分の魂についていだいているだろうか?」

 私が知りたいのは、あなたが国教会の教会堂に通っているか、非国教会の会堂に通っているかではない。そのような違いは天国ではまるで取るに足りないこととなるであろう。私が知りたいのは、あなたが福音に賛同するかとか、人としてキリスト教信仰を有して祈りを唱えることは非常に正しく適切なことであると考えているかどうか、ということではない。こうしたことはみな的はずれである。これが問題の中心ではない。私があなたに見つめてほしい中心点はこのことである。「いかなる望みをあなたは自分の魂についていだいているだろうか?」

 あなたの親戚が何と考えていようと、それには何の意味もない。教区の、あるいは町の人々が何と認めていようと、何の意味もない。神は人を、町々や、教区や、家族ごとにお審きになるのではない。あらゆる人は、ひとりひとり個別に立たされ、自分で答えなくてはならない。「私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります」(ロマ14:12)。では、あなたは、いかなる弁明を申し立てるつもりだろうか? あなたの訴えはいかなるものとなるだろうか? 「いかなる望みをあなたは自分の魂についていだいているだろうか?」

 時は縮まっており、急速に過ぎ去りつつある。もう数年もすれば、私たちはみな死に絶えているであろう。ことによると、私たちの棺が作られることになる木は、もう切り倒されているかもしれない。ことによると、私たちのからだをくるむことになる死衣は、もう織り上げられているかもしれない。ことによると、私たちの墓を掘ることになる鋤は、もう作られているかもしれない。永遠が迫りつつあるのである。浪費していられる時間などない。「いかなる望みを、いかなる望みをあなたは自分の魂についていだいているだろうか?」

 来世はすぐに始まるであろう。貿易も、政治も、金銭も、土地も、田舎家も、王宮も、飲むことも、食べることも、着ることも、読むことも、狩猟も、射撃も、絵画も、仕事も、舞踏も、饗宴も、すぐ永遠に終わりを告げるであろう。そこには、ある人々にとっては天国が、それ以外の人々にとっては地獄が残っているのみであろう。「いかなる望みを、いかなる望みをあなたは自分の魂についていだいているだろうか?」

 私は私の問いを発した。さて今、私は神の前であるかのようにして、あらゆる読者の方々に尋ねたい。あなたの答えはいかなるものだろうか?

 私の信ずるところ、多くの人々は、本音を語るとすればこう云うであろう。「私はそのようなことがまるでわからない。私も、自分があるべき姿をしてはいないと思う。今の自分よりも、もっと深くキリスト教を信仰すべきだとも思う。いつかは、もっと深い信仰を持てるのではないだろうか。しかし、現在のところ、どんな望みがあるかと云われれば、皆目見当もつかない」、と。

 私の全く信ずるところ、これが多くの人々の状態である。私は、人々の霊的に無知なありさまを、心が悲しみではち切れるほど見てきた。私の確信するところ、いかなる過誤、いかなる異端、いかなる「主義」にもまして多くの魂を滅ぼしているのは、無知の異端である。私の確信するところ、英国内のおびただしい数の人々は、キリスト教のイロハすら知らず、洗礼を受けた異教徒に何らまさるところがない。聞くところによると、ある男性が臨終を迎える際に語った唯一の望みというのは、彼が「欠かさず教会に通っていたこと、いつも保守党に投票していたこと」、だけであったという。また、聞くところによると、ある女性は、その臨終の床で、自分がどこに行けると思うかと聞かれて、「みんなと一緒のところに行けると思います」、と云ったという。ほとんど何の疑いもなく、この国には、これと寸分変わらぬ状況の人々、自分が神の前でいかなる状態にあるかまるで何もわかっていない人々が、幾万もいるはずである。もしこれがこの論考を読んでいるだれかの状況であるとしたら、私はただこう云うしかない。願わくは神があなたを回心させてくださるように! 神があなたを目覚めさせてくださるように! 手遅れになる前に、あなたの目を開いて下さるように!、と*5

 配当金支払日に英国銀行に出かけて、多額の金額を請求した人がいるとしよう。その人の名前は支払い対象者名簿に記載されているだろうか? 否!----その人には何か支払いを要求できるような資格か権利があるだろうか? 否、何もない!----その人にわかっているのは、ただ他の人々が金銭を受け取っているので、自分も何がしかの金銭を受け取りたいと思ったということでしかない。当然ながらあなたは、そういう人を「頭がおかしい」と云うはずである。しかし、待つがいい! 自分の云っていることに気をつけるがいい! もしもあなたが本気で最後には天国に入れると主張していながら、その望みを保証する何の資格も、何の裏づけも、何の根拠も示せないとしたら、あなたこそは真の狂人なのである。もう一度私は云う。願わくは神があなたの目を開いてくださるように!

 しかし、私の信ずるところ、多くの人々は私の問いかけに対して、「私には望みがあります」、と答えるであろう。「ともかく、私はある種の人々ほど悪人ではありません。私は異教徒ではありません。不信心者ではありません。私は自分の魂について、何がしかの望みは持っています」、と。

 もしこれがあなたの立場だとするなら、私はあなたに願いたい。ぜひ自分の望みの実体がいかなるものであるかを冷静に考察してほしい。私はあなたが、おうむのように「私は望んでいます、----私は望んでいます、----私は望んでいます」、と云うだけで満足しないように切に願う。むしろ、あなたの確信の性質を真剣に吟味し、それが確かな根拠に基づくものであることを確かめてほしい。----それは、あなたが説明できるものだろうか?----聖書的なものだろうか?----キリストに基づいているだろうか?----あなたの心に感じとれるものだろうか?----あなたの生き方を聖なるものとしつつあるだろうか?----光るものすべてが金とは限らない。すでに警告したように、望みにはまことの望みばかりでなく、まがいものの望みもある。私はその警告をもう一度差し出したい。私はあなたがだまされないように用心することを切に願う。間違いを犯さないように用心するがいい。

 ロンドンやリヴァプールの埠頭には、世界中の至る所に出航しようとしている船舶が静かに停泊している。入港している限り、それらはみな、同じくらい信頼できるように見える。それらはみな同じくらい立派な船名を有し、同じくらい立派な索具と塗装が施されている。だが、それらは必ずしも同じくらい頑丈で、同じくらい安全であるわけではない。いったん海に乗り出し、荒天にさらされれば、堅牢な船と腐った船の違いはたちまち明らかになる。----これまでも多くの船が、埠頭では立派に見えていながら、遠洋に出たときに航海に耐えるものでないことがわかり、最後には全乗組員もろとも沈没してしまったのである! それと全く同じことが、多くのまがいものの望みについても云える。それは最も頼りとされるときに、完全に人を裏切ってきた。最後には崩れ落ち、その持ち主の魂を滅ぼしてしまった。まもなくあなたも海に乗り出すときが来るであろう。もう一度云うが、間違いを犯さないように用心するがいい。

 私の問いかけはここまでとしておこう。私は切に祈るものである。神がこの問いを、この論考を読むあらゆる人々の心に適用してくださるようにと。それが非常に必要とされていることは確かである。私の信ずるところ、いまだかつて、これほど多くの、似非キリスト教信仰が繁盛し、これほど多くの「偽りの望み」が本物として通用していた時代はなかった。これほど多くの高らかな信仰告白がなされていながら、これほど僅かしか霊的な行為がなされず、これほど多くの、説教者や党派や教会についての声高な話がなされていながら、これほど僅かしか神との親しい歩みと、御霊のまことのみわざがなされていなかった時代はなかった。キリスト教界は、さながら百花繚乱の趣があるが、熟した果実の僅少さは陰惨な光景である。議論的な神学なら山ほどあるのに、実際的な聖潔は払底している。おびただしい数の人々は、生きているとは名ばかりで、心を真実イエス・キリストにささげている人はほとんどいない。----真実に心を上にあるものに向けている人はほとんどいない。多くの方面では、やがてすさまじい失望が起こるであろう。最後の審判の日には、さらにすさまじい暴露がなされるであろう。現今には多くの望みがあるが、それは全く土台の欠如したものである。最後にもう一度だけ云う。間違いを犯さないように用心するがいい。

 (2) 私の第二の適用の言葉は、1つの要請である。私はこれを、この論考を読んでいる方々の中でも、自分がいかなる望みもないことを感じ、それを得たいと願っているすべての方々に向かってなすものである。それは単純明快な要請である。私はそうした人々に願うものである。見つけようとすれば見つかるうちに「すばらしい望み」を追い求めるがいい。

 すばらしい望みは、人がそれを追い求めようとしさえするなら、だれの手にも届くところにある。それは、聖書の中では強調して、「恵みによるすばらしい望み」と呼ばれている。それは、惜しげもなく買い取られたのと同じように、惜しげもなく差し出されている。それは無償で、「代価を払わないで」得られる。私たちの過去の生活がいかに悪逆なものであっても、それを得られないことはない。私たちの現在の弱さと欠陥がいかに大きなものであっても、私たちが閉め出されることはない。人類に望みをもたらしたの同じ恵みが、無代価の、豊かな、無制限の招きをしている。----「いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい」。----「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります」(黙22:17; マタ7:7)。

 主イエス・キリストは、本気で求める者にはだれにでも「すばらしい望み」を与える力も意欲も持っておられる。主は、父なる神の証印と任命とにより、飢えている者にはだれにでもいのちのパンを与え、渇いている者にはだれにでもいのちの水を与えてくださる。「神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ」なさった(コロ1:19)。主のうちには、赦しと、神との平和がある。それは、主が十字架上で流した尊い血によって買い取られたものである。主のうちには、いかなる信仰者も受けることのできる喜びと平安がある。後に来るすばらしいものに対する堅固で、しっかりとした根拠に基づく期待がある。主のうちには、倦んだ者に対する安息があり、恐れる者に対する隠れ家があり、汚れた者に対するきよめの泉があり、病んだ者に対する治療薬があり、心砕かれた者に対する癒しがあり、失われた者に対する望みがある。だれでも疲れた者、罪の重荷を負っていると感じている者、自分の魂について不安と苦悩を感じている者、死を恐れ、死ぬ備えができていないと感じる者、----そのような者はだれであれ、キリストのもとに行って、キリストに信頼するがいい。これこそなすべきことであり、これこそ従うべき道である。「望み」をほしい者は、だれでもキリストのところに行くがいい。

 もしこの論考を読んでいる方々の中に、本当にすばらしい望みを享受したいと思う人がいるなら、その人はそれを主イエス・キリストに乞い求めるがいい。そうするための励ましには事欠かない。古の時代のテサロニケ人たちは、エペソ人たちと同じく、罪過と罪の中に死んでおり、この世にあって望みもなく、神もない人々であった。だが、聖パウロが彼らにキリストを宣べ伝えたとき、彼らはそのみじめな状態から起き上がって、新しい人となったのである。神は彼らに、「恵みによるすばらしい望み」をお与えになった。マナセや、マグダラのマリヤがくぐり抜けた扉は、まだ開いている。ザアカイやマタイが洗われた泉は、まだ封印されていない。キリストに望みを乞い求めるならば、あなたはそれを見いだすのである。

 それを誠実に、またいかなる内心のわだかまりもなしに求めるがいい。多くの人々を滅ぼしてきたのは、彼らが公明正大でも、率直でもなかったことにある。彼らは、「自分にできる限り試してみます」、と云い、本当に「救われたいと願っています」、と云い、自分が本当に「キリストにより頼んでいます」、と云ってはいるが、その心の奥底には、何らかの最愛の罪があり、彼らはひそかにそれにしがみついており、それを手放さない決心をしているのである。彼らはアウグスティヌスのように、「主よ、われを回心させたまえ。ただし今ではなく」、と云っている。もしあなたがすばらしい望みを見いだしたいと願うなら、誠実に求めるがいい。

 それを謙遜な祈りによって求めるがいい。あなたの心を主イエスの前に注ぎ出し、自分の魂のあらゆる欲求を主に告げるがいい。もしあなたが千八百年前のガリラヤに住んでいて、らい病に冒されていたとしたら、きっとしたであろうように行なうがいい。キリストのもとに直接に行き、あなたの心痛をキリストの前に洗いざらい打ち明けるがいい。自分があわれな罪深い存在であること、しかし、主が恵み深い《救い主》であることを耳にしたこと、自分が主のもとに来たのは自分の魂への「望み」を求めてのことであることを、主に告げるがいい。自分のためには何1つ申し立てができないこと、----いかなる弁明もできず、自分自身で訴えられるいかなるものもないこと、----しかし、主が「罪人たちを受け入れ」なさることを聞いたこと、その罪人として主のもとに来たことを申し上げるがいい(ルカ15:2)。

 それを今すぐに一刻も早く求めるがいい。二度とどっちつかずにふらついていてはならない。一日たりともぐずぐずしていてはならない。あなたをまだ引き留めようとしている高慢の残りかすを投げ捨てるがいい。重荷を背負った罪人としてイエスに近づき、「前に置かれている望みを捕える」がいい(ヘブ6:18)。これこそ、いかなる人も救われようとするならば、最後には行き着かなくてはならない点である。遅かれ早かれ、彼らは恵みの扉を叩き、入れてくださいと頼まなくてはならない。なぜそれを今すぐ行なわないのか?----なぜ指をくわえていのちのパンを見ているだけなのか? なぜ前に進み出てそれを食べないのか?----なぜ逃れの町の外にとどまっているのか? なぜ中に入って安全になろうとしないのか?----なぜ今すぐ望みを求めて、しゃにむにそれを見いだそうとしないのか? いま私が定めたようなしかたで誠実に求めた魂のうち、それを見いだせなかったものはいまだかつて1つもなかった!*6

 (3) 私の最後の適用の言葉は、助言である。私はこれを、すでに本当に「恵みによるすばらしい望み」を獲得しているすべての人々に差し出すものである。私はこれを、本当にキリストによりかかり、狭い道を歩み、神の御霊によって導かれているすべての人々に差し出したい。私がそうした人々に願いたいのは、「彼らの兄弟であり、彼らとともにイエスの御国と忍耐とにあずかっている者」*(黙1:9)でありたいと願っている者からの助言を受け入れてほしい、ということである。私の信ずるところ、この助言は健全で良いものである。

 (a) もしあなたにすばらしい望みがあるなら、それを執拗に見張って、守り抜くがいい。サタンがそれを、ダビデやペテロに対してそうしたように、一時の間盗み出さないように用心するがいい。裏表のある生き方や、世にならうことによって、それを見失わないように用心するがいい。それをしばしば吟味し、それが薄ぼんやりしたものになっていないかどうか確かめるがいい。自分の機嫌や、考えや、言葉に日々気をつけて、その輝きを保つがいい。心からの、熱烈な、絶えざる祈りによって、その健康を保つがいい。キリスト者の望みは非常に繊細な植物である。それは天から来た外来植物であって、自然に生え出たものではない。それは、この世の冷ややかな霜によって、簡単にこごえて、生長を止めてしまう。注意深い水やりと手入れがなされないと、たちまちやせ細り、しなびてしまい、ほとんど感じることも、見ることもできなくなる。このことをだれよりも痛切に感じるのが、神とあまり親しい歩みをしてこなかった信仰者が、臨終を迎えたときである。彼らは、自分が自分の臨終の枕にいばらを蒔いてきたこと、自分と太陽との間に雲を招き入れていたことに気づくのである。

 (b) もう1つのこととして、もしあなたにすばらしい望みがあるなら、それが常に備えの整ったものにしておくがいい。いつでも迅速に用いることができるように、手近にとどめておくことである。それをしばしば眺めて、それが良い状態にあるように気を遣うがいい。種々の試練は、しばしば武装した人のように、突然私たちに降りかかる。私たちの死すべき肉体がこうむる病や怪我は、時として何の警告もなく私たちを打ち倒して横たわらせてしまう。幸いなことよ、自分のともしびの手入れをまめにしておき、キリストとの交わりを日々感じながら生きている人は!

 あなたは、どこかの古い別荘にある消防用揚水器を見たことがあるだろうか? あなたは気づいたことがあるだろうか? いかに多くの場合、それが何箇月もの間、暗い納屋の中に、触れられることも、点検されることも、手入れされることもないまま放置されているかを。吸水弁の調節は狂っており、皮製の蛇管は穴だらけで、吸水器官は錆びついて動かなくなっている。それが手桶一杯でも水を汲み上げるまでに、ほとんど家全体が焼け落ちかねない。今のような状態のままでは、それは役立たずと云っていい機械である。

 あなたは、ポーツマスの港で常務している船を見たことがあるだろうか? ことによると、その船体は堅牢で健全かもしれない。竜骨や乾舷や肋材や梁や甲板は、すべて申し分のないものかもしれない。しかし、その船には索具も、糧食も、武装もなく、軍務につかせるのにふさわしい状態にはない。その出航準備には何週間も何箇月もかかるであろう。今のような状態のままでは、それは母国の防衛のためにほとんど何も行なうことができない。

 多くの信仰者の望みは、その消火用揚水器や船のようなものである。----それは存在している。----生きている。----本物である。----まことであり、健全である。----それは良いものである。それは天から出たものである。それは聖霊によって植えられたものである。しかし、悲しいかな、それは用いられる備えができていない! その持ち主は、臨終の床に近づくにつれて、自分に喜びや、はっきり感じとれる慰めが欠けていることによって、そのことを見いだすであろう。あなたの望みがこの種の望みとならないように用心するがいい。もしあなたに望みがあるなら、それをいつでも使えるように保ち、手の届くところに置いておくがいい。

 (c) 別のこととして、もしあなたにすばらしい望みがあるなら、それが年を重ねるごとにいやまさって強くなるように求め、祈るがいい。「小さい事の日」で満足していてはならない。よりすぐれた賜物を求めるがいい。全き確信を享受することを慕い求めるがいい。パウロと同じ水準に達して、こう云えるようになるように努めるがいい。「私は、自分の信じて来た方をよく知って(います)」。----「私はこう確信しています。死も、いのちも、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私を引き離すことはできません」*(IIテモ1:12; ロマ8:38)。

 嘘ではない。私の助言のこの部分は、綿密な注意を払われるべき価値がある。嘘ではない。私たちの前にあるすべての事がらは、私たちの望みがいかなる種類のものであるかを試すことになるであろう。病や死は厳粛なことである。それらは、人のキリスト教信仰からあらゆる虚飾や上塗りをはぎとる。それらは、私たちのキリスト教の弱点を暴き出す。それらは、私たちの望みに、ぎりぎりの力をふりしぼらせ、しばしば私たちを絶望させそうになる。『天路歴程』の中の老いた基督者が、その最後を迎えて、天の都に入る前には、冷たい川を越えるという苦しい試練を経た。忠実で真実な者ではあったが、それでも彼は、「大浪はわが頭の上をこえてゆく」、と叫び、足元がすくわれないように厳しい苦闘をした。私たちもみな、このことを心に銘記していられるように。私たちが、努めて自分がキリストと1つであり、キリストが私たちにおられることを知り、かつ感じるように! 望みを有する人は良いことをしているのだが、確信を有する人は、もっと良いことをしているのである。まことに幸いなのは、「聖霊の力によって望みにあふれさせ」られている人である(ロマ15:13)。

 (d) 最後に、もしあなたにすばらしい望みがあるなら、そのために感謝あふれる者となり、日ごとに神に賛美をささげるがいい。一体だれが、あなたを他と違った者としたのか? なぜあなたは、他の人々が無知で自分を義としているままなのに、自分の罪と無価値さ感じとるように教えられたのだろうか? なぜあなたは、他の人々が自分自身の善良さを頼みとしたり、キリスト教信仰の形式でしかない何かを支えにしているというのに、イエスを頼みとするように教えられたのだろうか? なぜあなたは、他の人々がこの世のほか何も気遣っていないというのに、聖くなることを望みとし、そのために努力しているのだろうか? なぜこのようなことになっているのだろうか? その答えは1つしかない。----恵み、恵み、無代価の恵みがすべてをなしたのである。その恵みのゆえに神をたたえるがいい。その恵みのゆえに感謝あふれる者となるがいい。

 それでは、「神の栄光を望んで大いに喜んで」、あなたの旅路の終わりまで進み続けるがいい(ロマ5:2)。あなたはあわれな罪人にすぎなくとも、イエスはこの上もなく恵み深い《救い主》であること、また、あなたが地上でもうしばらくの間、試練を受けるとしても、まもなく天がそのすべてを償うことを思って喜びつつ進むがいい。

 人生のあらゆる戦いにおいて、望みをかぶととしてかぶって、進み続けるがいい。----赦しの望み、堅忍の望み、最後の審判の日にも無罪放免される望み、最終的な栄光の望みを。あなたは正義の胸当てをつけ、信仰の大盾を取り、腰には真理の帯を締め、勇敢に御霊の剣を振るうがいい。しかし、決して忘れてはならない。----もし少しでも幸いなキリスト者となりたければ、----決して「望みをかぶととして」かぶることを忘れてはならない(Iテサ5:8)。

 意地の悪い世にもかかわらず進み続けるがいい。いかなる笑い声や迫害によっても、いかなる中傷や冷笑によっても動かされてはならない。時が縮まっており、良いものは後に来ることになっており、夜はふけて、「雲一つない朝」が間近に迫っていることを考えて、心に励ましを受けるがいい(IIサム23:4)。悪者が死ぬとき、その期待は消えうせるが、あなたの期待は裏切られることがない。----あなたの報酬は確かである。

 進み続けて、疑いや恐れに悩まされても落胆しないようにするがいい。あなたはまだ肉体のうちにある。この世はあなたの安息ではない。悪魔はあなたが自分のもとから逃げ出したことであなたを憎んでおり、あらん限りの力をふりしぼって、あなたから平安を奪いとろうとするであろう。あなたが恐れを感ずるという事実そのものが、自分には何か失われうるものがあるとあなたが感じている証拠である。真のキリスト者は、その平安によってと全く同じくその戦いによって、またその望みと全く同じくその恐れによっても見分けられる。スピットヘッドに係留されている船舶は、潮の干満により前後に揺さぶられ、南東に吹く強風によって激しく縦揺れさせられるかもしれない。だが、その錨がしっかり陸地を掴んでいる限り、その船は安全に停泊しており、恐れることは何もない。真のキリスト者の望みは、「彼のたましいのために、安全で確かな錨」*の役を果たす(ヘブ6:19)。その人の心は時として激しく揺さぶられるかもしれないが、その人はキリストにあって安全である。波は膨れあがり、その人を上へ下へと揺らすかもしれないが、その人が難破することはない。

 進み続けて、「イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい」(Iペテ1:13)。もうしばらくすれば、信仰は見えるものと引き換えられ、望みは永遠と引き換えられる。あなたは、自分が見られているのと同じように見ることになり、自分が完全に知られているのと同じように、完全に知ることになる。この世の荒波にもうしばらく吹き回され、----私たちの霊的な敵との戦闘や争闘をもうしばらく経て、----涙と別れ、労働と苦難、十字架と心痛、失望と困惑の日々をもう何年か過ごせば、----そのときには、そのときこそは、私たちは故郷に帰り着くのである。港の明かりはすでに目に入っている。安息の避難所は遠く離れてはいない。そこでは、自分たちが望みとしてきたことすべてを見いだし、それが自分のいだいていた望みの百万倍もすぐれたものであることを見いだすはずである。そこでは、私たちはすべての聖徒たちを見いだし、----何の罪も、何の世の心遣いも、何の金銭も、何の病も、何の死も、何の悪魔も見いださないはずである。そこでは、何にもまして、私たちはイエスを見いだし、いつまでも主とともにいることになる(Iテサ4:17)。望みをいだき続けようではないか。十字架を負って、キリストに従うことには、それだけの価値がある。そうしたければ、世には笑わせ、あざけらせておくがいい。「恵みによるすばらしい望み」を有し、徹底的に断固たるキリスト者となることには、それだけの価値がある。もう一度云う。----望みをいだき続けようではないか。

私たちの望み![了]

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*1 「さて、これらすべてのことを見つめていた間に、頭をめぐらして振り返ると、無知者が川岸に近づいて来るのが見えた。ところが彼はすぐと渡ってしまった。しかも先の二人が出会ったあの困難の半分も経験しなかった。折からそこに空頼み者という渡し守りがいて、その小舟で彼を助けて渡してくれたからである。こうして彼は、以前に見た人たちと同じように門の所に来るために丘を登って行った。ただし独りきりで、彼を出迎えて少しでも励ましてやろうとする者は一人もなかった。門に達したとき、上に書いてある文字を見上げた。それからすぐ入れてもらえると思って叩き始めた。ところが門の上から見下ろしていた人々から、『どこから来たのですか、何用ですか』と尋ねられた。彼は答えた、私は王のみ前で飲み食いしたことがあります、また王は私たちの街で教えられたこともあります。すると、彼らは証明書をお出しなさい、中に入って王にお見せするから、といったので、彼は懐を手探りしたが見当たらなかった。持っていないのですかと尋ねられたが、彼は一言も答えなかった。
 「そこで彼らは王に申し上げたところ、王は彼を見に下りても来られず、基督者と有望者とを都に案内した二人の輝ける者に、外へ出て無知者をとらえ、手足をしばって追い払えと命ぜられた。そこで二人は彼を引っとらえ、空中を通って丘の中腹に見えた戸口に運び、そこに入れた。その時私は滅亡の都と同様、天の門からも地獄に通じる道があると分かったのである」。----バニヤンの『天路歴程』[ジョン・バニヤン、「天路歴程 正篇」 p.282-283(池谷敏雄訳)、新教出版社、1976]。[本文に戻る]

*2 「永遠のいのちの希望は、思い描ける限り最大の祝福の希望である。これは、純粋な神のことばにのみ基づく希望である。あなたが自分の心を吟味するとき、あなたには、自分が救われるという何らかの希望があるはずである。また主の日には自分が平安と確信をもってあなたの《審き主》の前に立てるという希望を見いだすはずである。なぜそう希望できるのか? こうしたあなたの希望は何に基づいているのか? それは神がそう仰っているからではないだろうか? 偽りを云うことのありえない神がそう語っておられるからではないだろうか? もしあなたが、神がそう云っておられるということ以外の根拠に立って救われることを期待しているとしたら、その思いを変えなくては救われることができない。というのも、あなたは岩から離れているからである。神のイスラエルがみな安んじなくてはならない確かな基盤から離れているからである」。----トレイル。[本文に戻る]

*3 「この上もなく聖く卓越した聖徒たちが死につつあるときいかにふるまうか考えてみるがいい。あなたは、そうした人々のだれかが、自分自身の行ないや功績を少しでも誇るのを見聞きしたことがあるだろうか? 確かに彼らは、自分たちがいかなる者とさせられたか、また、自分たちが、受けた助けによって、いかなることをキリストのために行なったか、また、忍んできたかを認めることはありえるし、実際にそうするかもしれない。しかし、この恐るべき審きの場に近づくにつれ、彼らの目や心に浮かぶのは、ただ無代価の恵みと、贖いをする血潮と、保証人なるキリストにあってすべてが備えられた契約のほかにない。それに対して、自分の聖さや、自分の恵みや、自分の到達した境地などを取り立てて云うことに彼らは耐えられないのである。
 「賢く幸いな人とは、自分の魂を、死の嵐も乗り切れる、かの岩に錨で固定している人のことである。なぜ人は、死ぬ間際になったら放棄せざるをえないとわかっているようなもののために、生きている間争うのだろうか? なぜ自分が頼りにせざるをえないような真理を今ないがしろにしているのだろうか? 救いの道に関する教えが正しいか正しくないかを判別する偉大な試金石、それは道理をわきまえた人々が死につつあるとき、概してそれを是認するかどうかにある」。----トレイル。[本文に戻る]

*4 ピューリタンのアッシュ氏の臨終の言葉は、注目に値するものである。彼は云った。「これまで自分がしてきた最善の義務について考えても、私は落胆し、生気を失い、絶望する。だが、キリストのことを考えるや、それだけで十分である。キリストはすべてのすべてである」。
 セシル氏がその死の直前に語った言葉は非常に尋常ならざるものである。彼は云った。「私は、自分がみじめで、無価値な罪人であること、私たちのうちには貧しさと罪のほか何もないことを知っている。私はイエス・キリストが栄光ある全能の《救い主》であることを知っている。私はキリストの贖いと恵みの十全の効力を見てとっている。そして私は、自分を全くキリストにゆだね、キリストの足台のもとにはべっているのである」。彼は、その死去の少し前に、家族のひとりに次のような言葉をある本に書き取らせた。「『キリストのみ、キリストのみ』、とランバートは、火刑柱について死にながら云った。同じことを、死の状況にあって、衷心から、リチャード・セシルも云うものである」。[本文に戻る]

*5 「私たちが肉的で、安心しきった、無頓着な罪人たちを扱うとき(そうした人々は数限りなくいるが)、また彼らに向かって、自分が天国に行けるという望みの理由を尋ねるとき、これが彼らが普通返す答えではないだろうか? 『私は、人様に迷惑をかけずに生きています。できる限りきちんと神の律法を守っています。間違ったことをしたときには、私は悔い改めて、キリストのゆえに神のあわれみを乞い求めます。そのことは真面目に行なっています。たとえ私の知識や、私の達した境地は、他の人たちに劣るかもしれないとしても』。そしてもし私たちが、さらに進んで、彼らがイエス・キリストについて何を知っているか、彼らの魂がキリストにいかなることを懇願してきたか、キリストに対していかなる信仰を働かせているか、義認のためにキリストの義をいかに用いてきたか、聖化のためにその御霊をいかに用いてきたか、イエス・キリストを信ずる信仰によって生きることについて何を知っているかを問いただすと、私たちは彼らにとって野卑な人間ということになるのである。そして、この悲しい状態のまま、英国中の幾万もの人々が生きて、死んで、永遠に滅びつつあるのである。また、時代の暗黒があまりにも厚いため、彼らのうち多くの者は、すばらしいキリスト者であるという評判をとりながらこの世での生涯を送り、あの世に向かっていく。また、彼らのうちのある者らの告別説教と賛美の指揮は、無知で、おべんちゃらを云う教役者によって執り行われる。だが実は、このあわれな者どもは、その生涯の間、あるいはその臨終に際しても、天国に入るためにイエス・キリストをほとんど用いることがなかったのである。キリストこそ、人が天国に入れる資格をその血で買い取ってくださり、キリストを信じる信仰こそ、人が天国のもとに行ける道であるにもかかわらず、彼らはそのキリストを、まるであわれなトルコ人が、その獣じみた極楽にもぐりこむためにマホメットを用いるようにしか用いないのである!」----トレイル。[本文に戻る]

*6 この、信仰によってキリストのもとに来るという点に関する、以下のトレイルの言葉は、熟考に値する。これは常々誤解されている主題に光を投じてくれている。----彼は云う。「私たちが、あわれで、覚醒した罪人を扱うことになるとき、たとえ彼が自分の失われた状態と、神の律法によって断罪されていることとを見てとっていてもなお、私たちは、同じ原理(高慢と無知)が彼の中で働いていることを見いだす。私たちは、彼が病んで傷ついていることを見てとる。彼に、どこでその助けを見いだせるか、すなわちイエス・キリストのうちにこそ助けがあることを告げる。すると彼は何と答えるだろうか。彼は云う。「あゝ、私はこれまでも、また今も、あまりにも邪悪な罪人で、私の心はあまりにも悪逆で、あまりにも忌まわしく、腐敗に満ちているので、キリストを信ずることなど考えられません。でも、もし私が悔い改めを持ち、心と生活の中に何らかの聖さを持ち、これこれの恵みによる資格を持てるならば、そのときは信じたいと思います」、と。この彼の答えは、云い表わす言葉に窮するほど無意味なたわごとと、無知と、高慢のかたまりもいいところである。これは暗にこう云っているにひとしい。(1) 「もし私がしごく順調に快復したなら、私は《医者》であるキリストを用いよう。(2) こうした良き事がらを、私だけで、キリスト抜きで作り出せる望みはないわけではない。(3) 私が何らかの代価を手にしてキリストのもとに行くならば、私は受け入れてもらえるだろう。(4) 私はいつでも自分の好きなときにキリストのもとに行くことができるのだ」。人々は生まれながらに、イエス・キリストを信ずる信仰については、これほどまで無知なのである。それで、いかなる言葉も、警告も、歯に衣着せない教えも、人間の頭と心にこの真理を叩き込むことはできないのである。すなわち、最初に信仰によってキリストのもとに行くとは、またキリストを信ずるとは、自分がキリストによって救われるだろうと信ずることではなく、キリストを信じることにより、キリストによって救っていただくことなのである」。----『トレイル全集』。[本文に戻る]

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