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3. 救われる者は少ない!


「救われる者は少ないのですか」----ルカ13:23

 私は、この論考を読んでいる方々がみな、キリスト者であると自認しているものとして話を進めたいと思う。あなたは理神論者であるとも、不信心者であるともみなされたくないであろう。あなたは聖書が真理であることを信じていると告白している。《救い主》キリストの誕生、----《救い主》キリストの死、----《救い主》キリストによって備えられた救い、----これらはみな、おそらくあなたが決して疑ったことのない事実であろう。しかし、結局のところ、このようなキリスト教が最終的に何かあなたに益をもたらすだろうか? それはあなたが死んだとき、あなたの魂に何か善を施すだろうか? 一言で云うと、----あなたは救われるだろうか?

 もしかすると、今のあなたは若く、健康で、力に満ちているかもしれない。ことによると、あなたはこれまで一日たりとも病に伏したことがなく、からだの弱さや痛みを感ずるということがどういうことか、ほとんど実感したことがないかもしれない。あなたは将来の年月のために思案を巡らし、計画を立てつつあり、死などはるか彼方のこと、およそかけ離れたことのように感じている。だが、覚えておくがいい。死は時として青春の盛りにある若者をも打ち倒すのである。家族の中で力と健康に満ちた者が必ずしも最も長生きするわけではない。あなたの太陽は、あなたの人生が真昼にさしかかる前に没してしまうかもしれない。もうしばらくすると、あなたが狭く、しんとした家に横たわり、あなたの墓の上を雛菊が生い茂ることになるかもしれない。では、考えるがいい。----あなたは救われるだろうか?

 あなたはこの世で富と繁栄を手にしているかもしれない。あなたには金銭があり、金銭で自由になることならすべてを所有している。あなたには、「栄誉と、愛と、従順と、山なす友人たち」がある。しかし、覚えておくがいい。「富はいつまでも続くものではない」*。あなたは、ほんの数年しかそれらを手元に置いておくことができない。「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(箴27:24; ヘブ9:27)。では、考えるがいい。----あなたは救われるだろうか?

 あなたは貧しく、困窮しているかもしれない。あなたには自分と家族のためにあてがえる満足な食物や衣類がほとんどない。あなたは、人生を快適にするものがなく、それを手に入れられないために、しばしば悩まされる。ラザロのようにあなたは、「悪い物」だけを受け、良い物を受けていないように思われる。しかし、それにもかかわらずあなたは、こうしたことすべてには終わりがあるだろう考えて慰められている。来たるべき世には、貧乏も欠乏もないはずである。だが、しばし考えてみるがいい。----あなたは救われるだろうか?

 あなたはからだが弱く、病気がちかもしれない。あなたは、痛みを感じないということがどういうことか、ほとんど実感したことがない。あなたは、あまりにも長く健康から切り離されていたために、それがどういうことかほとんど忘れてしまっている。あなたはしばしば、朝には、「ああ夕方であればよいのに」、と云い、夕方には、「ああ朝であればよいのに」、と云っている。あなたは、非常に倦み疲れてしまったために、ヨナとともにこう叫びたい気持ちにかられる日々がある。「私は生きているより死んだほうがましです」(ヨナ4:3)。しかし、覚えておくがいい。死はすべてではない。墓の向こう側にはまだ何か他のものがあるのである。では、考えてみるがいい。----あなたは救われるだろうか?

 もし救われるのがたやすいことだとしたら、私もこの本でしているような書き方をしようとは思わない。しかし、本当にそうだろうか? よく調べてみようではないか。

 もし救われる者の数について、この世で一般に持たれている意見が正しいとしたら、私も心えぐるような、深刻な問いかけで人々を悩まそうとは思わない。しかし、本当にそうだろうか? よく調べてみようではないか。

 もし神が救われる者の数について決してはっきり聖書の中で語っておられないとしたら、私も口をつぐんでいる方がよいであろう。しかし、本当にそうだろうか? よく調べてみようではないか。

 もし実体験と事実とにより、救われる者が多いか少ないかがあやふやだとしたら、私も沈黙を守っている方がよいであろう。しかし、本当にそうだろうか? よく調べてみようではないか。

 私たちの前にある主題を考察するにあたり、私は4つの点を吟味してみたいと思う。

 I. まず私に、救われるとはいかなることかを説明させてほしい。
 II. 救われる者の数について世間一般に流布している誤りを指摘させてほしい。
 III. 救われる者の数について聖書が何と云っているかを示させてほしい。
 IV. 救われる者の数に関するいくつかの平明な事実を提示させてほしい。

 この4つの点について冷静に吟味することは、生きたキリスト教信仰について無頓着な態度がはびこっている時代にあって、私たちの魂にとって非常に重要であることがわかるであろう。

 I. まず第一に、救われるとはいかなることかを説明させてほしい。

 これは、はっきり決着をつけておかなくてはならない問題である。このことが明白になるまで、私たちは全く先へ進めないであろう。「救われる」ということで私が意味していることと、あなたが意味していることがまるで違うこともありえる。そこで、聖書が「救われる」とはいかなることであると云っているか示させてほしい。そうすれば何の誤解もなくなるであろう。

 救われるとは、単に自分がキリスト者であると告白し、自称することではない。私たちはキリスト教の外的部分をことごとく有していながら、結局は失われてしまうことがありえる。私たちはバプテスマを受けてキリスト教会に所属しているかもしれない。----聖卓のもとに集い、----キリスト教の知識を有し、----だれからもキリスト者であるとみなされているかもしれない。----だがしかし、生きている間ずっと魂が死んだままであり、----ついには、最後の審判の日に、キリストの左手に立つ山羊の間に見いだされることになるかもしれない[マタ25:33]。否、これが救いではない! 救いはこれよりはるかに高く、はるかに深いことである。ではそれはいかなることだろうか?

 (a) 救われるとは、この現世において、《救い主》イエス・キリストを信ずる信仰によって、罪の咎から解放されることである。それは、キリストの血と仲立ちを信ずる信仰によって、赦され、義と認められ、あらゆる罪の責めから自由にされることである。だれしも心から主イエス・キリストを信ずる者は、救われた魂である。その人は滅びることがない。永遠のいのちを持つことになる。これが救いの最初の部分であり、その他のすべての部分の根幹である。しかし、これですべてではない。

 (b) 救われるとは、この現世において、新しく生まれることにより、かつ、キリストの霊によって聖なるものとされることにより、罪の力から解放されることである。それは、聖霊によって私たちのうちに吹き入れられた新しい性質を有することによって、罪と、世と、悪魔との憎むべき支配から自由にされることである。だれしもこのように自分の心の霊において更新された者、回心した者は、救われた魂である。その人は滅びることがない。栄光の神の国に入ることになる。これが救いの第二の部分である。しかし、これですべてではない。

 (c) 救われるとは、最後の審判の日に、罪の戦慄すべき結果すべてから解放されることである。それは、他の人々が有罪とされ、永遠の断罪を受けつつあるときにも、非難されるところなく、しみなく、傷なく、キリストにあって欠けなき者であると宣言されることである。それは、他の人々が、「のろわれた者ども。わたしから離れていけ」*、との恐ろしいことばを耳にしているときにも、「さあ、……祝福された人たち」、という慰めに満ちたことばを耳にすることである(マタ25:34、41)。それは、他の人々がキリストによって何の関係もないと永遠に切り捨てられるときにも、その愛する子どもたち、しもべたちであると認められることである。悪者どもの受ける分----尽きることのないうじ----消えることのない火----いつまでも泣き、うめき、歯がみすること----から免れていると宣告されることである。キリストの再臨の日に、義人のために用意されていた報い----栄光のからだ----朽ちることのない王国----しぼむことのない冠----とこしえの喜び----を受け取ることである。これこそ完全な救いである。これこそ、真のキリスト者が待ちこがれるように命ぜられている「贖い」である(ルカ21:28)。これこそ信仰を有し、新しく生まれたあらゆる人々の受け継ぐべき財産である。信仰によって彼らはすでに救われている。神にとって彼らの最終的救いは絶対的に確定した事がらである。彼らの天の救いは今からすでに整えられている。しかし、それでも彼らは、肉体のうちにある間は、贖いと救いの完成に達していない。彼らは罪の咎と力からは救われている。----だが罪に対して油断せず祈っているべき必要から救われてはいない。この世への恐れと愛から救われてはいる。----だが日々この世と戦う必要から救われてはいない。悪魔に仕えることから救われてはいる。----だが彼の誘惑によって悩まされることから救われてはいない。しかし、キリストが来られるとき、信仰者の救いは完成することになる。彼らはすでに完全な救いを萌芽のかたちで有している。来たるべきときには、それが開花した姿を見るのである。

 これが救いである。それは罪の咎と、力と、結果から救われることである。現時点では信仰を持ち、聖なるものとされることであり、最後の審判の日には神の御怒りから救い出されることである。今のこの世で最初の部分を有している人は、疑いもなく来たるべき世で第二の部分も有することになる。双方の部分は一蓮托生である。だれも疑ってはならない。もしだれかが現世で新しく生まれているとしたら、その人は確実に死後も救われることになる。

 福音の教役者のおもな目的が、魂の救いを提示することにあることを決して忘れてはならない。このことを実感していない者は、決して真の教役者ではない。それを私は確固たる事実としてここに規定するものである。聖職者の叙階のことなど語らぬがいい! すべてが適正に、規則にのっとって行われているかもしれない。その人は黒服を身にまとい、「〜師」と呼ばれているかもしれない。しかし、もし魂の救いが一大関心事でないとしたら、----それが支配的な情熱、----心のすべてを呑み尽くす思いでないとしたら、その人は決して真の福音の教役者ではない。雇い人であって羊飼いではない。その人は、会衆によって召されたかもしれない。----だが、聖霊によって召されてはいない。主教らがその人を叙任したかもしれない。----だがキリストはその人を叙任してはいない。

 教役者たちが派遣されているのは何のためだと人は考えているだろうか? 単に聖職者用白衣を着るためだろうか?----また、礼拝式次第を読み上げ、----ある特定の数だけ説教を語るためだろうか? 単に礼典を執行し、結婚式や葬儀の司式をするためだろうか? 安楽な暮らしをし、人の尊敬を集める職業につくだけのためだろうか? 否、そうではない! 私たちが派遣されているのは、これらとは別の目的のためである。私たちが遣わされているのは、人々を暗闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせるためである。人々を確信させて、必ず来る御怒りから逃れさせるためである。人々を世に仕える道から神に仕える道へと引き寄せ、----眠っている者の目を覚まさせ、----無頓着な者を覚醒させ、----「何とかして、幾人かでも救うため」である(Iコリ9:22)。

 私たちは、たとえ規定の礼拝式を守り、人々を説得してそこに集わせたとしても、それですべてがなされたと考えてはならない。全会衆が集い、聖卓の前に群れをなしてやって来て、教区学校が満員になっても、すべてがなされたと考えてはならない。私たちは、人々の間に御霊の明瞭なみわざを見たいと思う。----はっきりとした罪意識、----生き生きとしたキリストに対する信仰、----心の断固たる変化、----この世からの明確な分離、----神とともなる聖い歩みを見たいと思う。一言でいえば、私たちは魂が救われるのを見たいのである。そして、もし私たちがそれ以下のことに黙って満足しているとしたら、----私たちは愚か者で詐欺師であり、----盲人を手引きする盲人である。

 結局において、キリスト教信仰を有する一大目的は救われることなのである。これこそ私たちが自分の良心によって決着をつけなくてはならない大問題である。私たちが考えなくてはならないのは、私たちが教会や会堂に通っているかどうかではない。----私たちがある特定の形式や儀式を受けたかどうか、----私たちが特定の日を守り、特定の数のキリスト教式義務を果たしているかどうかではない。つまるところ問題は、果たして私たちは「救われる」かどうか、である。このことがなければ、私たちがキリスト教信仰において行なう一切合切は、骨折り損のくたびれ儲けである。

 決して、決して、救いに至るキリスト教信仰に導くことのない、いかなるものでも満足しないようにしよう。確かに、生において平安を与えることも、死において希望を与えることも、来たるべき世において栄光を与えることもないような信仰で満足しているのは、子どもじみた愚劣さにほかならない。

 II. 第二のこととして、私は、救われる者の数について世に流布している誤りを指摘したい

 この主題について遠方に証拠を求める必要はあるまい。だれでも自分の目で見てとり、自分の耳で聞きとれる事がらを私は語るであろう。

 私が示したいのは、この件に関しては1つの迷妄が蔓延しており、この迷妄そのものこそ、私たちの魂がさらされている最大の危険の1つだということである。

 (a) では人々は、他の人々が生きている間、その霊的な状態について、概していかなる考え方をしているだろうか? 自分の親族や、友人や、隣人や、知人の魂について、人はどのように考えているだろうか? この問いかけにいかなる答えが返せるか、少し調べてみよう。

 彼らは、自分たちの周囲にいる人々がやがて全員死ぬこと、また審かれることを知っている。そうした人々には失われるか救われるかする魂があることを知っている。では彼らは、そうした人々の末路がどのようなものになると考えているように見受けられるだろうか?

 彼らは自分たちの周囲にいる人々が地獄に落ちる危険にさらされていると考えているだろうか? 彼らがそのように考えていることを示すものは皆無である。彼らは飲み食いをともにし、ともに笑い、語り、歩み、働いている。彼らはめったに、あるいは決して、神や永遠について語り合ったりしない。私は世間を知っているあらゆる人に向かって、神の前において尋ねる。それが現実ではないだろうか?

 彼らは、だれかが悪人であるとか不敬虔であるとか認めることがあるだろうか? 決してそのようなことはない。相手の生き方がいかなるものであろうと、まずそのようなことはない。その人は安息日を破っているかもしれない。聖書をないがしろにしているかもしれない。真のキリスト教信仰を有している証拠を何1つ持っていないかもしれない。それがどうした! その人の友人たちは、しばしばあなたに告げるであろう。あの人は、一部の人ほどはっきりした告白をしていないかもしれないが、心の底には「善良な心」を有しており、悪人ではないのだ、と。私は世間を知っているあらゆる人に向かって、神の前において尋ねる。それが現実ではないだろうか?

 そして、これらすべては何を証明しているだろうか? それが証明しているのは、人々は自分たち自身にへつらい、天国に行き着くことに大した困難はないと思っている、ということである。これは、人々が、ほとんどの人は救われるであろうという意見をいだいていることを、あからさまに証明している。

 (b) しかし、人々は、他の人々が死んだ後で陥る霊的状態について、概していかなる考え方をしているだろうか?  この問いかけにいかなる答えが返せるか、少し調べてみよう。

 人々の認めるところ、死んだ人はみな、不信心者でさえなければ、悲惨の場所にではなく幸福の場所に行くのである。では彼らは、この世を離れた大多数の人々が、この2つの場所のどちらに行くと考えているのだろうか?

 反駁を恐れずに云えば、世間では、この世を去ったすべての人々の状態について良いことだけを語るのが、不幸なならわしとなっている。見たところ、人が生きている間にいかにふるまっていたかは、ほとんど重要ではない。その人は、悔い改めや、キリストを信ずる信仰のいかなるしるしも示していなかったかもしれない。福音によって示された救いの計画について、まるで無知であったかもしれない。回心や聖化を示すいかなる証拠も見せていなかったかもしれない。魂を持たない動物なみの生き方をし、死んでいったかもしれない。だがしかし、この人が死ぬや否や人々は、彼が「おそらく生きていた間よりもずっと幸せに」なっているだろう、などとぬけぬけと語るのである。彼らは悦に入って云うであろう。自分たちは、「彼がより良い世界に行ったことを望んでいる」、と。彼らは重々しく頭を振って云うであろう。自分たちは「彼が天国にいることを望んでいる」、と。彼らは、恐れも身震いもせずにその人の棺の後について行き、後でその人の死のことを「彼にとっては幸せな変化」であると語る。生前は、彼らはその人を毛嫌いし、悪人だと思っていたかもしれない。だがひとたび鬼籍に入ると、手の平を返すように意見を変えて、自分は彼が天国に行ったと思う、と云うのである! 私は世間を知っている人に、このことだけを尋ねたい。----これが現実ではないだろうか?

 そして、これはみな何を証明しているだろうか? それは、単にもう1つのすさまじい証拠を提供しているのである。人々は、天国に達することがたやすいことだと信じ込む決心をしている、という。人々は、ほとんどの人は救われると主張したがっているのである。

 (c) しかし、さらに人々が、新約聖書の諸教理を余すところなく説教する教役者たちについていだく考えはいかなるものだろうか? この問いにいかなる答えが返せるか、調べてみよう。

 「神のご計画の全体を知らせ」ようとし、「益になることは、少しもためらわず」に知らせようとする聖職者をひとり、どこかの教区に遣わしてみるがいい。その人は、信仰のみによる義認、----御霊による新生、----生活の聖さ、を明確に宣言する人々のひとりだとする。回心者と未回心者との間にくっきりと線を引き、罪人にも聖徒にも、それぞれふさわしい教えを与える人々のひとりだとする。その人は、新約聖書の中から、平明で、反駁しようのない描写を、真のキリスト者の性格としてしばしば提示するとする。そうした性格を有していないいかなる者にも、救われているという筋の通った希望は全くないことを示すとする。その描写を自分の聴衆の良心に向かって絶えず強調し、そうした性格なしに死ぬ魂はみな失われるであろうと幾度も幾度も聴衆に向かって云い立てるとする。そうしたことを、その人は立派に、また愛情をこめて行なうとする。では、最終的にいかなる結果になるだろうか?

 その結果、確かに数人は悔い改めて救われるが、聴衆の大多数は、彼の教理を受け入れず、信じようとしないであろう。彼らは表立っては反対しないかもしれない。彼のことを熱心で、真摯で、親切な心をした、善意の人であると尊重し、敬いさえするかもしれない。しかし彼らは、それ以上は決して先に進もうとしないであろう。その人は彼らに、キリストとその使徒たちの言葉を明白に示すかもしれない。聖句や引用箇所を山のように積み上げるかもしれない。だが、何の役にも立たないであろう。大多数の聴衆は彼を「厳格すぎる」とか、「窮屈すぎる」とか、「やかましすぎる」、と考えるであろう。彼らは互いに云い交わすであろう。あの教役者が考えているらしく思われるほど世の中は悪いものではない。----人間は、あの教役者が求めるほど善良にはなれない、----結局、最後には自分たちは大丈夫ということになるさ、と! 私は、ある程度の牧会経験を持つ、あらゆる福音の教役者に訴えたい。私の述べていることは真実ではないだろうか? こうした事がらが現実ではないだろうか?

 では、これは何を証明しているだろうか? これは単にもう1つの証拠を示しているにすぎない。概して人々は、救いが非常に困難な務めであるなどとは考えず、結局の所ほとんどの人は救われるだろうと考える決意を固めている、という。

 さて、こうした世間一般の意見について、人はいかなる堅固な理由を示せるだろうか? いかなる聖句に基づいて彼らは、救いはたやすいことで、ほとんどの人は救われるだろう、というこの観念を打ち立てているのだろうか? 私たちを満足させるような、彼らの意見が健全で真実なものであると私たちを納得させるような、いかなる神の啓示を彼らは示せるだろうか?

 そのようなものは何1つない。----文字通り皆無である。公平に釈義されたとき、彼らの見解を支持するような聖句を、彼らはただの1つも持ち合わせていない。彼らには、吟味に耐えるような理由が1つもない。彼らが互いの霊的状態について耳障りの良いことを語るのは、まさに彼らが、自分には危険があると認めたくないためなのである。彼らが互いに互いを、頓着しない、自己満足的な魂の状態に仕向けあっているのは、自分の良心をなだめて、居心地よく過ごしたいがためである。彼らが互いの墓の上で、「平安だ、平安だ」、と云い交わしているのは、そうあってほしいと願っているためであり、その願い通りであると喜んで納得したいからである。確かにこのように空虚で、根拠のない意見に向かって、福音の教役者は抗議してしかるべきである。

 あからさまな真実を云うと、世間の意見はキリスト教信仰の問題については何の価値もない。雄牛や、馬や、農場の値段や、労働の価値について、----賃金と労働について、----金銭と、木綿と、石炭と、鉄と、麦について、----芸術と、科学と、製造物について、----鉄道と、商業と、貿易と、政治について、こうしたすべての事がらについてなら、世の人々は正確な意見を下すことができるかもしれない。しかし、いのちを愛するというなら、私たちは用心しなくてはならない。救いに関する事がらにおいて、人間の判断に導かれないように用心しなくてはならない。「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです」(Iコリ2:14)。

 何にもまして覚えておきたいのは、もし私たちが天国に達したければ、他の人々の考えを受け売りにすることは決して役に立たない、ということである。疑いもなく、キリスト教信仰に関わる事がらについても、「寄らば大樹の陰」を決め込むのはたやすいことである。流れや潮に乗って進めば、多くの難儀を避けられるであろう。私たちは、ほとんどあざけりを受けずにすみ、ほとんど不愉快な目に遭わずに済むであろう。しかし、はっきりと覚えておこう。救いに関するこの世の誤りは数多く、危険なものである。それらに対して用心を固めていない限り、私たちは決して救われることがない。

 III. 第三のこととして、聖書は救われる者の数について何と云っているだろうか?

 私たちが訴え出るべき真偽の基準はただ1つしかない。その基準とは聖書である。そこに何と書かれていようと私たちは受け入れ、信じなくてはならない。聖書によって証明できないことは何であれ拒否しなくてはならない。

 この論考を読む方々のうち、このことに同意できる方がいるだろうか? もしできないというなら、その人が私の言葉によって少しでも動かされる見込みはほとんどない。だが、もし同意できるというなら、しばしの間、私の云うことに注意を傾けてほしい。私はいくつかの厳粛な事がらを告げたいと思う。

 まず、1つのこととして私たちは、聖書の一聖句に目をとめ、それをよく吟味してみよう。その聖句はマタイ7:13、14に見いだされる。----「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです」。さて、これは私たちの主イエス・キリストのことばである。神ご自身であられるお方のことば、決してすたれることのないおことばを語るお方のことばである。これは、人間のうちに何があるかを知っておられたお方のことば、----来たるべき事がら、過ぎ去りし事がらを知っておられたお方、----ご自分が最後の審判の日にすべての人を審くことになると知っておられたお方のことばである。では、このことばは何を意味しているのだろうか? これは、ヘブル語やギリシャ語の知識がなければだれひとり理解できない言葉だろうか? 否、そのようなものではない! これは、黙示録の幻や、エゼキエルの神殿描写のように、曖昧で、成就されていない預言だろうか? 否、そのようなものではない! これは、いかなる人間知性も測り知ることのできない深遠で神秘的な云い回しだろうか? 否、そのようなものではない! このことばは明確で、平明で、取り違えようのないものである。字を読める労働者をひとりつかまえて尋ねてみるがいい。彼はあなたにそう云うであろう。これらに賦与することのできる意味は1つしかない。その意味は、多くの人々が失われ、ごく少数の人々しか救われない、ということである。

 次に私たちが眺めたいのは、聖書の中で示されている、信仰に関わる人類史の全体である。聖書の中に記されている、四千年に及ぶ歴史の全体を眺めわたしてみよう。できるものなら、敬虔な人々が多数を占めて、不敬虔な人々が少数であった時期を1つでも見つけてみよう。

 ノアの時代はどうだっただろうか? 地は「暴虐で満ちていた」、と明確に告げられている。人の心に計ることはみな「いつも悪いことだけに傾く」ものであった(創6:5、12)。「すべての肉なるものが、地上でその道を乱していた」。楽園の喪失は忘れ去られていた。ノアの口による神の警告は蔑まれていた。そしてついに、洪水が世に臨み、すべての生き物を溺死させたとき、難を避けて箱舟に逃れ来るだけの信仰を持っていたのは八人しかいなかった! では、その当時に救われた者は多かっただろうか? 聖書を正直に読んでいるすべての人はその問いに答えを返してみるがいい。その答えがいかなるものにならざるをえないか何の疑いもありえない。

 アブラハムと、イサクと、ロトの時代はどうだっただろうか? 明らかに真の信仰という件にかけて彼らは非常に孤立していた。彼らが取り出された家族は、偶像礼拝者たちの家族であった。彼らが生活していた国々は、はなはだしい暗黒と罪の中に沈み込んでいた。ソドムとゴモラが焼き尽くされたとき、その平原の4つの町の中に、義人は五人と見当たらなかった。アブラハムとイサクが自分の息子に妻を見つけたいと思ったとき、彼らが居留した土地にはひとりとして、息子にめとらせたいと思えるような女はいなかった。では、その当時に救われた者は多かっただろうか? 聖書を正直に読んでいるすべての人はその問いに答えを返してみるがいい。その答えがいかなるものにならざるをえないか何の疑いもありえない。

 士師たちの時代のイスラエルはどうだっただろうか? 士師記を読むいかなる人も、そこに記されている人間の腐敗ぶりの実例に衝撃を受けずにはいられないであろう。何度となく告げられるのは民が神を捨てて偶像に従ったということである。これ以上ないほど明白な警告にもかかわらず、彼らはカナン人と姻戚関係を結び、彼らのわざを習い覚えた。何度となく記されているのは、彼らがその罪ゆえに外国の王たちに抑圧され、その後奇蹟的に解放されたことである。何度となく記されているのは、その解放が忘れ去られ、身を洗ってまた泥の中に転がる豚のように、民が以前の罪に舞い戻っていったということである。では、その当時に救われた人は多かっただろうか? 聖書を正直に読んでいるすべての人はその問いに答えを返してみるがいい。その答えがいかなるものにならざるをえないか何の疑いもありえない。

 列王の時代のイスラエルはどうだっただろうか? 最初の王サウルから最後の王ゼデキヤに至るまで、彼らの歴史は信仰後退と、堕落と、偶像礼拝との陰惨な記述である。----輝かしい例外的な時期がまれにあるにすぎない。その最良の王たちの治世においてすら、そこには膨大な不信仰や不敬虔が存在していたように思われる。それらはほんの一時隠されているにすぎず、折良い機会が最初に訪れるや、たちまち噴出するのである。何度も何度も、私たちは、最も熱心な王たちの治世においても、「高き所は取り除かれなかった」ことを見いだす。見るがいい。ダビデでさえ、自分の周囲の情勢についてこう語っているのである。「主よ。お救いください。聖徒はあとを絶ち、誠実な人は人の子らの中から消え去りました」(詩12:1)。見るがいい。イザヤがいかにユダとエルサレムの状況について述べていることかを。「頭は残すところなく病にかかり、心臓もすっかり弱り果てている。足の裏から頭まで、健全なところは……ない」。----「もしも、万軍の主が、少しの生き残りの者を私たちに残されなかったら、私たちもソドムのようになり、ゴモラと同じようになっていた」(イザ1:5-9)。見るがいい。いかにエレミヤが自分の時代について述べているかを。「エルサレムのちまたを行き巡り、さあ、見て知るがよい。その広場で捜して、だれか公義を行ない、真実を求める者を見つけたら、わたしはエルサレムを赦そう」(エレ5:1)。見るがいい。いかにエゼキエルが自分の時代の人々について語っているかを。「次のような主のことばが私にあった。『人の子よ。イスラエルの家はわたしにとってかなかすとなった。彼らはみな、炉の中の青銅、すず、鉄、鉛であって、銀のかなかすとなった』」(エゼ22:17、18)。見るがいい。いかに彼が16章および23章に記されたその預言の中で、ユダとイスラエルの王国について云っているかを。では、その当時に救われた者は多かっただろうか? 聖書を正直に読んでいるすべての人はその問いに答えを返してみるがいい。その答えがいかなるものにならざるをえないか何の疑いもありえない。

 私たちの主イエス・キリストが地上におられたときのユダヤ人についてはどうだろうか? 聖ヨハネの言葉が、彼らの霊的状態を最もよく説明している。「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった」(ヨハ1:11)。主は、いまだかつて女から生まれたいかなる者とも異なる生き方をなさった。----非難されることなく、罪なく、聖い生涯を送られた。「巡り歩いて良いわざをなし……た」(使10:38)。主は、いまだかつていかなる者もしたことがないような説教をなさった。敵の遣わした役人たちでさえ、「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません」、と告白していた(ヨハ7:46)。主は、ご自分の宣教活動を確証する数々の奇蹟を行なわれた。一見するとそれは、いかにかたくなな者をも確信させるに違いないと思われるものであった。しかし、これらすべてにもかかわらず、ユダヤ人の大多数は主を信ずることを拒否した。私たちの主の後についてパレスティナ中をたどってみれば、どこでも同じ物語が繰り返されているであろう。主の後について町に入ろうが荒野に入ろうが、カペナウムやナザレに行こうがエルサレムに行こうが、律法学者やパリサイ人の間にいようがサドカイ人やヘロデ党の者らの間にいようが、どこでも同じ結末に達するであろう。彼らは驚嘆した。----沈黙した。----驚愕した。----不思議がった。----だが、ごく僅かしか弟子にはならなかった! 国中の大多数の人々は、主の教えを全く受け入れようとせず、その邪悪さの頂点を飾るものとして、主を死に至らせた。では、その当時に救われた者は多かっただろうか? 聖書を正直に読んでいるすべての人はその問いに答えを返してみるがいい。その答えがいかなるものにならざるをえないか何の疑いもありえない。

 使徒たちの時代の世界はどうだっただろうか? 真の信仰が栄えた時期が一度でもあったとすれば、まさにそれはこの時代であった。聖霊がこれほど多くの魂を、同時期にキリスト教の囲いの中に召し入れたことは一度もなかった。パウロやその同労者たちが説教者であったときほど多くの回心が、福音説教によって起こったことはなかった。しかしそれでも、『使徒の働き』からはっきり見てとれるように、真のキリスト教には「至る所で非難がある」のが常であった(使28:22)。明らかに、あらゆる町において----エルサレムそのものにおいてすら----、真のキリスト者たちは少数派であった。使徒たちは、ありとあらゆる種類の危難を経なくてはならなかったと記されている。----外部から来る危難だけでなく、内部から来る危難、----異教徒たちから来る危難ばかりでなく、にせ兄弟たちから来る危難があった。パウロの訪れた町の中で、彼が公然たる暴力や迫害の危険にさらされなかった町はほとんど1つもなかったと記されている。彼の書簡の何通かから明白に読みとれるように、信仰を告白する諸教会は混合集団であって、その中には多くの腐った会員がいた。彼はピリピ人への手紙で、自分の経てきた経験の痛ましい部分を語っている。----「私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです」(ピリ3:18、19)。では、その当時に救われた者は多かっただろうか? 聖書を正直に読んでいるすべての人はその問いに答えを返してみるがいい。その答えがいかなるものにならざるをえないか何の疑いもありえない。

 私が、正直な心持ちと、偏見のない目で本書を読んでいるあらゆる方々に願いたいのは、いま私が提示してきた聖書の教訓をじっくり考量することである。確かに、こうした教訓は深刻かつ厳粛なものであり、真剣に注意を払ってしかるべきものである。

 聖書は単にユダヤ人の話を告げているにすぎない、などと云って、こうした教訓の圧力をかわそうなどとだれも考えてはならない。「もしかするとユダヤ人は他の民族にまさって格別によこしまな民だったのかもしれない。ユダヤ人の中からは僅かしか救われなかったとしても、おそらく他の民族の中からは多くの人々が救われるだろう」、などと云って、気慰めにしようなどと考えてはならない。あなたは、こうした議論があなたにとって不利なものであることを忘れているのである。ユダヤ人には、異邦人が有していなかった光と種々の特権があったこと、またユダヤ人が、そのあらゆる罪や過誤にもかかわらず、おそらく地上で最も聖く、最も道徳的な民族であったことを、あなたは忘れているのである。アッシリヤ人や、エジプト人や、ギリシャ人や、ローマ人の間における人々の道徳的状態がいかなるものであったに違いなかったかは、考えるだにそら恐ろしいものがある。しかし、このことだけは確かであろう。----すなわち、ユダヤ人の間の多くの人々が不敬虔であった以上、異邦人の間で不敬虔だった人々の数ははるかに大きなものであったろう。若木の中で僅かしか救われるものがいなかったとしたら、悲しいかな、枯れ木の中で救われる者は、いかにいやまして僅少であったに違いないことか!

 つまり、こういうことである。聖書と、世の人々は、救われる者の数について、非常に異なることを語っているのである。聖書によれば、救われる者は少ない。世の人々によれば、多い。----世の人々によれば、僅かな人しか地獄に行かない。聖書によれば、僅かな人しか天国に行かない。----世の人々によれば、救いはたやすいことである。聖書によれば、その道は狭く、その門は小さい。----世の人々によれば、最後の最後で天国に入らせてもらおうとしさえするなら手遅れになる人はほとんどいない。聖書によれば、多くの人々がその悲しい状態に陥り、「ご主人さま、ご主人さま。あけてください」、とむなしく叫ぶことになる。だがしかし、聖書はこれまで一度も誤っていたことがない。ツロや、エジプトや、バビロンや、ニネベに関する、いかにありうべからざる、いかにまともには受け取れない数々の預言も、ことごとく一字一句に至るまで成就してきたのである。そして、他の事がらと同じく、救われる者の数についても、それは同様であろう。聖書はきわめて正しいことが示され、世の人々はきわめて誤っていることが示されるであろう。

 IV. 最後のこととして、救われる者の数について、いくつかの平明な事実を示させてほしい。

 この主題のこの部分には、格別な注意を払ってほしいと思う。人々が自分にへつらって、世界は千八百年前よりもはるかに良いもの、はるかに賢明なものになっていると云っていることは百も承知している。私たちには教会があり、学校があり、書籍がある。文明があり、自由があり、良い法律がある。道徳性も、かつて社会で横行していたものより、はるかに高い水準に達している。私たちの先祖たちが夢にも思わなかったような快適さや楽しみを獲得できる力が私たちにはある。蒸気や、瓦斯や、電気や、化学は驚異的な発展をもたらしている。これらはみな完璧に真実である。私にもそれはわかるし、ありがたいことだと思っている。しかし、これらすべてをもってしても、この問いかけの重要性はいささかも減じていない。----私たちのうち救われる見込みのある人々は少ないだろうか、多いだろうか?

 私が徹底的に確信するところ、この問いかけの重要性は痛ましいほどに見過ごしにされている。私の得心するところ、ほとんどの人々が、この世における不信仰と不敬虔の多さについていだいている見解は全く不適切で不正確なものである。私の確信するところ、教役者であると一般のキリスト者であるとを問わず、救われる途上にある人々の少なさについていささかでも悟っている人は、ごく僅かしかいない。私はこの主題に注意を引きたいと思う。それゆえ私は、その点に関する、いくつかの平明な事実を提示したい。

 しかし、私はどこからそうした事実を引き出すであろうか。おびただしい数の異教徒たちの方に向かうことはたやすいであろう。彼らは世界各地で知りもしないものを礼拝している。しかし、私はそうはすまい。----おびただしい数のイスラム教徒の方に向かうのもたやすいであろう。彼らは聖書よりもコーランを尊び、キリストよりもメッカのにせ預言者を尊んでいる。しかし、私はそうはすまい。----おびただしい数のローマカトリック教徒の方に向かうのもたやすいであろう。彼らは、自分たちが受け継いだ云い伝えによって、神のことばを空文にしている。しかし、私はそうはすまい。私は、より身近な方面に目を向けよう。私は自分の事実を私の住んでいる土地から引き出すこととし、正直な読者の方々ひとりひとりに、果たして救われる者が少ないということが厳密に正しいかどうか、尋ねてみることにする。

 私は、このページを読んでいる聡明な読者の方々ひとりひとりに、自分が今日の英国かスコットランドのどこかの教区に立っているものと想像してほしいと思う。いかなる教区でもよい。都市部でも、農村部でもよい。----大教区でも、小教区でもよい。私たちの新約聖書を手に携えていこう。その教区の住民がいだいているキリスト教を、家族ごとに、また個人ごとにふるい分けてみよう。真のキリスト者であるという新約聖書の証拠を有していない人をみな、片側に寄せておこう。その調査にあたっては正直で公正な扱いをし、信仰と行為の新約聖書的な基準に達さない者は、だれであれ真のキリスト者とは認めないようにしよう。いくらかでもキリストから出たものが見られる人、----真の悔い改め改めの証拠が少しでもあり、----救いに至るイエスへの信仰の証拠が少しでもあり、----真の福音的な聖潔の証拠が少しでもある人は、みな救われた魂であるとみなすことにしよう。だが、いかに愛をもって解釈しようと、こうした証拠が見あたらないような人はみな、「はかりで量られて、目方の足りないことがわかった」者として、排除することにしよう。このふるい分け処理を、この国のどこかの教区に施し、その結果がいかなるものになるか見てみよう。

 (a) まず第一に、ある教区内で、何らかの公然たる罪の中に生きている人々を脇へ寄せておこう。この言葉によって私が意味しているのは、不品行な者や、姦淫をする者、うそをつく者、盗む者、酒に酔う者、人を騙す者、そしる者、略奪する者のことである。こうした者たちについては、いかなる意見の相違もありえないと思う。聖書がはっきりと語るように、「こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません」(ガラ5:21)。さて、このような者たちが救われるだろうか? その答えは私には明白である。今のような状態であり続ける限り、そのようなことはないであろう。

 (b) 次のこととして、安息日を破っている人々を脇へ寄せておこう。この云い回しによって私が意味しているのは、自分にそうする力があるにもかかわらず、礼拝の場所へめったに、あるいは決して集うことのない人々、----安息日を神にささげず、自分のものとしている人々、----日曜日には自分の好きなようにふるまい、自分の楽しみを見いだすことしか考えない人々のことである。彼らははっきりと自分が天国にふさわしくない者であることを示している! 天国の住人と一緒にいても、彼らは嬉しくなれないであろう。天国における務めは、彼らにとって喜びではなく、退屈であろう。さて、このような者たちが救われるだろうか? その答えは私には明白である。今のような状態であり続ける限り、そのようなことはないであろう。

 (c) 次のこととして、無頓着で無思慮なキリスト者であるすべての人々を脇へ寄せておこう。この云い回しによって私が意味しているのは、キリスト教信仰に関わる多くの外的典礼には出席するが、その教えや実質に本気で関心をいだいているという、いかなる証拠も示していない人々のことである。彼らは、教役者が福音を説教していようがいまいがほとんど意に介さない。良い説教を聞こうが聞くまいがほとんど意に介さない。たとえ世界中の聖書が焼かれたとしても、ほとんど意に介さないであろう。たとえ、いかなる者にも祈ることを禁ずる国会制定法が通過したとしても、ほとんど意に介さないであろう。つまり、彼らにとってキリスト教信仰は、「どうしても必要なこと」ではないのである。彼らの宝は地上にある。彼らはまさしくガリオと同じく、人がユダヤ人であろうがキリスト者であろうがどうでもいいのである。彼は、「そのようなことは少しも気にしなかった」(使18:17)。さて、このような者たちが救われるだろうか? その答えは私には明白である。今のような状態であり続ける限り、そのようなことはないであろう。

 (d) 次のこととして、形式尊重主義者で、自分を義としているすべての人々を脇へ寄せておこう。この云い回しによって私が意味しているのは、自分がキリスト教の種々の形式を規則正しく用いていることを誇りとし、直接的にか間接的にか、自分自身の行ないにより頼んで神に受け入れられようとしている人々のことである。それは、自分の魂の安らぎをキリストのみわざ以外のわざに基づかせ、キリストの義以外の何らかの義に基づかせているすべての人のことである。こうした人々について聖パウロははっきりと証言している。「律法を行なうことによっては、だれひとり……義と認められない」。----「だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです」(ロマ3:20; Iコリ3:11)。それでは私たちは、こうした聖句を面前にしても、まだぬけぬけと、このような者たちが救われるなどと云えるだろうか? その答えは私には明白である。今のような状態であり続ける限り、そのようなことはないであろう。

 (e) 次のこととして、福音を頭では知っていても、心を込めて従ってはいないすべての人々を脇へ寄せておこう。これは、いのちの道を見る目はあるが、それを歩む意志、あるいは勇気を持たないという不幸な人々のことである。彼らは健全な教理に同意する。健全な教えを含んでいない説教に耳を傾けようとしない。しかし、人への恐れか、世の心遣いか、金銭への愛か、親族を怒らせることへの怯えかによって彼らは、いつまでたっても引き留められている。彼らは、大胆に出て行き、十字架を負い、人々の前でキリストを告白しようとしない。こうした人々についても、聖書は明確に語っている。「信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです」。----「なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です」。----「もしだれでも、わたしとわたしのことばとを恥と思うなら、人の子も、自分と父と聖なる御使いとの栄光を帯びて来るときには、そのような人のことを恥とします」(ヤコ2:17; 4:17; ルカ9:26)。私たちは、このような者たちが救われるなどと云えるだろうか? その答えは私には明白である。今のような状態であり続ける限り、そのようなことはないであろう。

 (f) 最後のこととして、偽善的に信仰を告白しているすべての人々を脇へ寄せておこう。この云い回しによって私が意味しているのは、そのキリスト教信仰の主たる要素が口先と、大げさな告白だけであって、それ以外の何もないというすべての人々のことである。彼らは、預言者エゼキエルがこのように語る人々である。「彼らは、口では恋をする者であるが、彼らの心は利得を追っている」。----「彼らは、神を知っていると口では言いますが、行ないでは否定しています」。----彼らは、「見えるところは敬虔であっても、その実を否定」しているのである(エゼ33:31; テト1:16; IIテモ3:5)。彼らは教会内では聖徒であり、公の場で言葉を交わす際には聖徒である。しかし、彼らは私的な場で、また、その私宅では聖徒ではない。何よりも悪いことに彼らは、心において聖徒ではない。このような人々については何の異論もありえない。私たちは、このような者たちが救われるなどと云えるだろうか? 答えは1つしかありえない。今のような状態であり続ける限り、そのようなことはないであろう。

 さて私は今、ここまで叙述してきたような、こうした分類の人々を脇に寄せた後で、思慮分別のあるあらゆる読者に尋ねたい。英国のいかなる教区においてであれ、後に残る人々はどのくらいいるだろうか? ある教区を徹底的に、また正直にふるい分けた後で、どれほどの数の人々が、----救われる途上にある男女が、どれほどの人数だけ残っているだろうか? 真に悔悟した者たちは何人くらい、----真にキリストを信ずる信仰者たちは何人くらい、----心の聖い人々は何人くらいそこに見いだされるだろうか? 私はこれを本書のあらゆる読者の良心につきつけ、神の前であるかのように、正直な答えを返してほしいと思う。私はあなたに問いたい。今述べたようなしかたで、聖書によってある教区をふるい分けた後で、あなたが達する結論は、果たしてこれ以外にあるだろうか?----すなわち、ごく僅かな人々----悲しいほど僅かな人々しか、救われる途上にはいない、と。

 このような結論に至るのは痛ましいことだが、私には避けようのない結論と思われる。すさまじくも、途方もないことに、かくも多くの国教徒が英国にはおり、かくも多くの非国教徒がおり、かくも多くの人々が教会の有料座席、無料座席に席を占め、かくも多くの聴衆がおり、かくも多くの陪餐者がいるというのに、----だがしかし、結局において、かくも僅かな人々しか救われる途上にないというのである! しかし、唯一の問題は、「それは真実だろうか?」、である。----事実に目を閉ざしても何にもならない。周囲で起こりつつあることを見ないふりをしても無駄である。聖書の言明によっても、私たちが住んでいるこの世界に見られる事実によっても、私たちは同じ結論に導かれるであろう。多くの人が失われつつあり、ごく僅かの人しか救われることがない!、と。

 (a) 多くの人々は、おびただしい数の人々が臨終時に悔い改めをしていると思うからといって、私の云っていることを信じないであろう。それは承知の上である。彼らは自分にへつらい、信仰的な生き方をしていない大勢の人々も、信仰に立って死んでいくのだと云う。彼らは、膨大な数の人々が、最後に病を得たときには神に立ち返り、「五時ごろ」に救いに入るはずだと考えて、心を慰めている。私がこうした人々に思い起こさせたいことはただ1つ、教役者たちのあらゆる経験が、こうした理屈と真っ向から対立している、ということである。概して人々は、それまで生きてきたのと全く同じように死んでいくものである。真の悔い改めは決して遅くはない。----しかし最後の瞬間まで引き延ばされた悔い改めは、めったに真実なものであることがない。生き方こそ、その人の霊的状態の最も確実な証拠であり、もし生き方が証人となるならば、僅かな人しか救われる見込みはない。

 (b) 多くの人々は、それは神のあわれみに反していると思うからといって、私の云っていることを信じないであろう。それは承知の上である。彼らは、福音で啓示された、罪人たちへの愛について長広舌を振るう。聖書にあふれている赦しと赦罪の申し出を指摘する。そして問いかける。こうしたすべてを眼前にしていながら、あなたは僅かな人々しか救われないと主張するのか、と。私は答える。キリストにある神のあわれみがほめたたえられる限り、私も同意見である。だが、それも、このあわれみを故意に拒む者には何の益にもならない、という事実に目を閉ざすことはできない、と。私の見るところ、神の側には、人間の救いのために何1つ欠けはない。罪人のかしらでさえ天国に入れる余地はある。私の見るところ、キリストの方では、いかに不敬虔な者をも喜んで受け入れようとしておられる。私の見るところ、聖霊のうちには、いかに不敬虔な者をも新しくする力がある。しかし、その一方で私の見るところ、人間の内側には絶望的な不信仰がある。人は聖書で神から告げられていることを信じようとしない。私の見るところ、人間の内側には絶望的な高慢がある。人は、幼子のように素直な心になって、福音を受け入れようとはしない。私の見るところ、人間の内側には絶望的な怠惰さがある。人は面倒くささのあまり、起き上がって神を呼び求めようとはしない。私の見るところ、人間の内側には絶望的な世俗性がある。人はつかの間の、あわれな、朽ちていく事物をつかんで離そうとせず、永遠を考えようとしない。つまり、私の見るところ、私たちの主のことばは、絶えず実証されているのである。「あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません」(ヨハ5:40)。そして、それゆえ私は、僅かな者にしか救われる見込みはないという、悲しい結論のもとに向かわざるをえないのである。

 (c) 多くの人々は、世にある悪に注目することを拒むがゆえに、私の云っていることを信じないであろう。それは承知の上である。彼らは善良な人々からなる小さな社会の真ん中で生活しており、その社会の外側の世界でなされつつあることはほとんど知らないのである。彼らが私たちに告げるところ、世界は急速に進歩し、完成に向かいつつある世界である。彼らは自分が耳にしたことがあったり、昨年姿を見かけたことのある、まともな教役者を指折り数えてみせる。彼らは、種々のキリスト教団体や、信仰的な集いに、また寄付金の多さや、絶えず配布されている聖書や小冊子に私たちの注意を引く。そして問いかける。これらすべてを眼前にしていながら、あなたは僅かな人々しか救われる途上にないと云おうとするのか、と。その答えとして私がこうした愛すべき人々に思い起こさせたいのはただ、世の中には、彼らの小さな社会の他にも人々がおり、彼らが自分たちの集会で知っている選ばれた少数以外の人々がいるということである。私は、彼らがその目を開いて、物事の真実の姿を見ることを切に願う。請け合ってもいいが、わが国では、現在の彼らが幸いにも夢にも思わぬようなことが、なされつつあるのである。私は彼らに願いたい。性急に私を非難する前に、ぜひ英国のどこかの教区か会衆を聖書によってふるい分けてみてほしい。もし彼らがこのを正直に行なうならば、私は云う。彼らはすぐに私がそれほど誤ってはいないこと、僅かな人々しか救われる見込みがないことを見いだすであろう。

 (d) 多くの人々は、このような教理は非常に狭量で、排他的だと思うからといって、私を信じようとしないであろう。それは承知の上である。私はその非難を全く否定するものである。私は、自分の教派に属していない人をみな断罪し、自分と意見を異にするあらゆる人々に対して天国の扉を閉ざすようなキリスト者たちには同調する気持ちを全く持っていない。それがローマカトリック教徒であれ、監督派であれ、自由教会派であれ、バプテスト派であれ、プリマス・ブレザレン派であれ、この種のことを行なういかなる者をも、私は排他的な人間とみなすものである。私は天の御国からいかなる人をも閉め出したいとは願っていない。私が云っているのはただ、その御国に入れるのは、回心した、信仰を有する、聖い魂だけだ、ということである。そして、私が差し出がましく主張していること、それは、聖書と事実の双方が一緒になって証明するように、そうした人々が僅かしかいない、ということでしかない。

 (e) 多くの人々は、これは陰鬱で、愛のない教理だと思うからといって、私の云っていることを信じようとしないであろう。それは承知の上である。こうした類の、漠然とした、総論的な主張をするのはたやすい。だが、聖書に基づく、何らかの真実な教理を、「陰鬱で愛のない」ものと呼ばれてしかるべきであると証明することは、それほどたやすくはない。残念ながら世間には、キリスト教信仰におけるあらゆる強固な言明を毛嫌いする、まがいものの愛があるのではなかろうか。----だれにも干渉しようとしない愛、----あらゆる人をその罪の中に放置しておこうとする愛、----何の証拠もなしに、だれもが救われる途上にあると当然視する愛、----あらゆる人々が天国に向かいつつあることを決して疑わず、地獄などという場所の存在を否定しているかに思われる愛があるのではなかろうか。しかし、そのような愛は新約聖書の愛ではなく、愛と呼ばれる資格のないものである。私の求める愛は、すべてを聖書という試金石で試す愛、みことばによって是認されない限り、何事をも信じず、何事をも期待しない愛である。私の求める愛は、聖パウロがコリント人への手紙で述べている愛である(Iコリ13:1以下)。その愛は、目しいでも、耳しいでも、愚鈍でもなく、神を恐れている人と恐れていない人とを区別する目と、識別する感覚とを有している。そのような愛は、「真理」以外の何物をも喜ばず、悲しみとともにこう告白するであろう。私が僅かな人々しか救われる見込みがないと云うとき、それは真実のほか何事をも告げてはいない、と。

 (f) 多くの人々は、救われる者の数について何らかの意見をいだくなど増上慢だと思うからといって、私を信じようとしないであろう。それは承知の上である。しかし、こうした人々は、聖書が救われた魂の性格についてはっきりしたことを何も語っていない、などと私たちに告げるつもりなのだろうか? また、聖書のほかに何か真理の基準があるなどと告げるつもりなのだろうか? だが、聖書に合致したことを主張することには、いかなる増上慢も決してありえないはずである。そうした人々に私ははっきり云うが、増上慢の責めを私に帰すことはできない。私は云う。聖書があることを明確に、また取り違えようのないしかたで語っているときに、それを受け入れるのを拒否する人こそ、真に増上慢な人間である、と。

 (g) 最後に、多くの人々は、私の言明が途方もないもので、正当と認めがたいと思うからといって、私を信じようとしないであろう。それも承知の上である。彼らはこれを熱狂主義の片鱗であるとみなし、道理をわきまえた人間の注意には値しないと考える。彼らはこうした主張をする教役者たちを、頭の弱い、常識の欠けた人間であると考える。私はそのような汚名を着せられても動じはしない。私がそうした非難をする人々に願いたいのは、彼らが正しくて、私が間違っているという、何らかの平明な証拠を私に示してほしい、ということである。もしできるものなら、心が更新されてもおらず、イエス・キリストを信じてもおらず、霊的な考え方をした聖い人でもないだれかが、天国に行ける見込みがあるということを、証明してみせるがいい。もしできるものなら、このような種類の人々が、そうでない種類の人々にくらべると多数であることを証明してみせるがいい。一言で云えば、大多数の人々が不敬虔でなく、真に敬虔な人々が小さな群れでないような場所が《地上の》どこにあるのか指し示してみせるがいい。このことをしてみせるのであれば、私も、私の云ったことを彼らが信じないのは正かったのだと認めるであろう。しかし彼らがそうするまでは、私はこの悲しい結論、僅かな人々しか救われる見込みがないということを主張しなくてはならない。

 さて、もはや残っているのはただ、この論考の主題について、いくつかの実際的な適用をすることだけである。私は自分にできる限り平明に、救われた人々の性格を述べてきた。----救われた者の数に関する世の痛ましい迷妄を示してきた。----この主題に関する聖書の証拠を提示してきた。----私たちを取り巻く世間から、自分の述べた言明を確証する平明な事実を引き出してきた。----願わくは主が、こうした厳粛な真理のすべてを、無駄に語られたものとはなさらないように!

 私は、この論考で自分の語った多くの事がらが人を怒らせるものであることを重々承知している。百も承知している。そうならざるをえないはずである。この論考で扱われている点は、あまりにも深刻で、あまりにも心探るものであるため、ある人々にとっては不快なものとならざるをえないのである。しかし、私が長年いだいてきた深甚な確信によると、この主題は痛ましいほどにないがしろにされてきたものであり、ほとんどいかなる事がらにもまして人々に悟られていないのは、失われる人々にくらべて救われる人々の数がどれほどになるか、ということである。私が書いてきたことはみな、神の真理であると堅く信ずるがゆえに書いてきたのである。私が云ってきたことはみな、魂の敵としてではなく、魂を愛する者として云ってきたのである。あなたは、あなたの命を救うために苦い薬を処方する人を敵とはみなすまい。あなたの家が火事になったとき、眠っているあなたを荒々しく揺り動かす人を敵とはみなすまい。確かにあなたは、あなたの魂のために強烈な真理を物語ったからといって私を敵とはみなさないに違いない。私は友として、本書を手に取ることになるあらゆる人々に訴えるものである。ほんのしばらくの間、私の言葉に耳を傾けてほしい。最後に二言三言語って、この主題の全体をあなたの良心に深く印象づけたいと思う。

 (a) 救われる者は少ないだろうか? では、その僅かな人々のひとりとなりたくはないだろうか? おゝ、願わくはあなたが、救いをどうしても必要なこととみなす人になるように! 健康や、富や、称号は、必要なことではない。人はそうしたものがなくても天国を獲得できる。しかし、救われないまま死ぬ人はどうしようというのだろうか? おゝ、願わくはあなたが、自分が今、この現世で、救いを得なくてはならないことを見てとり、あなたの魂のために救いをつかみとるように! おゝ、願わくはあなたが、「救われているか」、「救われていないか」が、キリスト教信仰における大問題であることを見てとる人になるように! 高教会か低教会か、国教徒か非国教徒か、こうしたすべては、比較的に些細な問題である。人が天国に行き着くために必要なのは、キリストの救いに現実に、個人的にあずかることである。確かに、もしあなたが救われていないとしたら、最後にはあなたは、生まれてこなかった方がましということになるであろう。

 (b) 救われる者は少ないだろうか? では、もしあなたがすでに救われた人々のひとりでないとしたら、一刻も早くそのひとりとなるように力を尽くすがいい。あなたがいかなる人で、何をしている人かは知らないが、私は大胆に云う。キリストのところに来るがいい、そうすればあなたは救われる、と。いのちに至る門は狭いかもしれないが、マナセやタルソのサウロを認め入れるほどには広かったのである。どうして、あなたに入れないわけがあろうか? いのちに至る道は狭いかもしれないが、それは、あなたと同じような、おびただしい数の罪人たちの足跡がしるされているのである。だれしもその道が良い道であることを見いだしてきた。だれしも耐え抜いて、最後には無事にそこへ帰り着いた。イエス・キリストがあなたを招いておられる。福音の種々の約束があなたを励ましている。おゝ、一刻も早く努めてそれに入るがいい。

 (c) 救われる者は少ないだろうか? では、もしあなたがその少数のひとりかどうか疑わしいのなら、すぐに確かな働きを始めて、二度とあやふやな心になってはならない。あなたの霊的状態を確かめるためとあらば手間暇を惜しんではならない。漠然とした希望や当て込みで満足していてはならない。暖かな感情や、時たま覚える神を求める願望で安んじていてはならない。熱心に、あなたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとするがいい。おゝ、ぜひ私に云わせてほしい。もしあなたが救いについて不確かなまま生きることに甘んじているなら、あなたの生き方は、この世で最も狂気じみたものである! 地獄の火があなたの前にあるというのに、あなたは自分の魂が安全かどうか不確かだというのである。この下界の世はすぐにも離れていかなくてはならないのに、あなたは、自分を迎え入れる住まいが上界の世に用意されているかどうか不確かだというのである。最後の審きがすぐにも打ち立てられようとしているというのに、あなたは自分のために弁論してくれる《弁護者》を有しているかどうか不確かだというのである。永遠がすぐにも始まろうとしてるのに、あなたは自分が神に会う備えができているかどうか不確かだというのである。おゝ、この日じっくりと腰を据えて、救いという主題を研究するがいい! 不確かさが消え去り、自分が救われているとの、理に適った希望をつかみとるまで、休みなく神を呼び立てるがいい。

 (d) 救われる者は少ないだろうか? では、もしあなたが救われている者のひとりであるとしたら、感謝するがいい。あなたの周囲の幾万もの人々が不信仰のうちに沈み込んでいるというのに、あなたは神によって選ばれ、召されている。----あなたの周囲のおびただしい数の人々が全く盲目だというのに、あなたには神の国が見えている。----群衆が今の悪の世界への愛と恐れによって打ち負かされているというのに、あなたはこの世から救い出されている。----見たところ、あなたに何ら劣らぬ大勢の人々が、無知と暗黒の中に生きているというのに、あなたは罪と、神と、キリストとを知るべく教えられている。----おゝ、あなたには毎日でも神をほめたたえ、賛美すべき理由がある! あなたがいま体験している、この罪意識はどこから来たのだろうか? このキリストへの愛は、----この聖潔への願望は、----この義に飢え渇く思いは、----このみことばによる喜びは、どこから来たのだろうか? これは無代価の恵みの働きではないだろうか? それなのに、あなたの若い時代の仲間たちの多くは、まだそのことを何1つ知らないか、その罪の中にあるときに切り倒されてしまっているのである。あなたはまことに神をほめたたえるべきである! 確かにホイットフィールドはこう云って当然であった。天国における聖徒たちの間の頌歌は、「なぜ私なのですか? なぜ私をお選びになったのですか?」、となるであろう。

 (e) 救われる者は少ないだろうか? では、もしあなたが救われている者のひとりであるとしたら、自分がしばしば孤立していることに気づいても不思議に思ってはならない。私があえて信ずるところ、あなたは時として、自分の周囲の世に見る腐敗と邪悪さによって、行き詰まりを覚えそうになることがあるであろう。あなたは、まがいものの教えが横行しているのを見る。ありとあらゆる種類の不信仰と不敬虔を見る。時として、こう云いたくなる気持ちにかられる。「キリスト教信仰において、本当に自分だけが正しいなどということがありえるだろうか? これらの人々の全員が間違っているなどということが本当にありえるだろうか?」 このような考えに屈さないよう用心するがいい。覚えておくことである。あなたは、あなたの《主人》のことばが真実であるという実際的な証拠を得つつあるにすぎない。主の目的がくつがえされるなどと考えてはならない。主のみわざがこの世で前進していないなどと考えてはならない。主は今も、ご自分をほめたたえる民を召し出しつつある。世界中のそこここで、主は今も、ご自分のための証し人を起こしつつある。救われた者たちは、やがて、最後に全員が集められるときには、「だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆」となるであろう(黙7:9)。地はやがて主を知る知識で満ちるであろう。あらゆる国々が主に仕えるであろう。やがてあらゆる王たちが喜んで主に栄誉を帰すであろう。しかし、夜はまだ空けてはいない。主の御力の日はまだ来ていない。それまでの間、すべては主が千八百年前に予告なさった通りに進んでいく。多くの者たちは失われ、僅かな者だけが救われる。

 (f) 救われる者は少ないだろうか? では、もしあなたが救われている者のひとりであるとしたら、キリスト教信仰を持ちすぎることを恐れてはならない。あなたは、最高度の聖潔と、霊的な思いと、神への献身をめざすこととを心に銘記するがいい。----それ以下のいかなる度合の聖化にも甘んじないようにするがいい。神の恵みにより、キリスト教を世の目にとって美しいものとする決意を固めるがいい。覚えておくことである。この世の子らは彼らの前に真のキリスト教信仰の見本をほとんど有していないことを。自分にできる限りの努力をして、こうしたまれな見本によって、あなたの《主人》に仕える道を魅力あるものとするがいい。おゝ、願わくはあらゆる真のキリスト者が、自分は暗黒の世の真ん中で灯台として立てられているのだ、ということを思い起こし、努めて自分のあらゆる部分が光を反射し、どこから見てもくすんだところがないようにするように!

 (g) 救われる者は少ないだろうか? では、もしあなたが救われている者のひとりであるとしたら、あらゆる機会をとらえて魂に善を施そうとするがいい。心に銘記するがいい。あなたの周囲の大部分の人々は、永遠に失われかねない、すさまじい危険のうちにあるということを。いかなる手段を用いても、福音の影響を彼らに及ぼすようにするがいい。あらゆるキリスト教団体を支援して、火から燃えさしを取り出させるがいい。永遠の福音を伝播することを目的とするあらゆる《組織》にふんだんに献金するがいい。あなたのあらゆる影響力を心から、また惜しみなく用いて、魂に善を施す事業を進展させるがいい。時が縮まっており、永遠が近いこと、----悪魔が強大で、罪が蔓延していること、----暗黒が非常に大きく、光が非常に小さいこと、----不敬虔な者たちが非常に多く、敬虔な者たちが非常に少ないこと、----世の事がらが単に移りゆく影にすぎず、天国と地獄がすさまじい現実の事実であること、----これらを完全に信じている者のように生きるがいい。まことに悲しむべきは、多くの信仰者たちが送りつつある生き方である! 多くの者たちの何と冷たく、何と凍てついていることか、----何とキリスト教信仰において断固たることを行なうことに遅く、何と行き過ぎることを恐れていることか、----何と新しい試みには引っ込み思案なことか、----何と健全な運動の足を引っ張ることに急で、----何とただ手をこまねくことこそ最善の策であるとの理由を見いだすことに巧妙で、----何と活発に奮励すべき「時」が来たと認めることをしぶりがちで、----何とあらを探すことに賢く、----何と増大しつつある悪に立ち向かうことにかけては無為無策であることか! まことに人は、時として、信仰者とみなされている多くの人々の生き方に目を留めるとき、全世界が天国に行くことになっており、地獄などは嘘以外の何物でもないと思い込んでも当然かもしれない。

 こうした精神状態に用心するがいい! 私たちが好むと好まざるとにかかわらず、地獄はみるみる住人を増やしつつあるのである。----キリストは日々不従順な民に御手を差し伸ばしておられる。----多くの多くの人々が滅びへの道をたどっている。----僅かな僅かな人々しかいのちへの道をたどってはいない。多くの多くの人々の失われる見込みは高い。僅かな僅かな人々しか救われる見込みが高くはない。

 もう一度、あらゆる読者の方々に私は尋ねたい。この論考の冒頭で尋ねたように尋ねたい。----あなたは救われるだろうか? もしあなたがまだ救われていないとしたら、神にささげる私の心からの願いと祈りは、あなたが一刻も早く救いを求めるようになることである。もしあなたが救われているとしたら、私の願いは、あなたが救われた魂のように生きることである。----また、救われる魂が少ないことを知っている者のように生きることである。

救われる者は少ない![了]

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