Our Souls!          目次 | BACK | NEXT

2. 私たちの魂!


「人は、たとい全世界を得ても、魂を損じたら、何の得がありましょう」----マコ8:36 <英欽定訳>

 このページの冒頭に記された私たちの主イエス・キリストのことばは、吹き鳴らされるラッパのように、私たちの耳に鳴り響くべきものである。これは私たちの最高にして最良の益に関わることである。《私たちの魂》に関わることである。

 聖書のこの言葉は、何と厳粛な問いかけを含んでいることか! これは何と大いなる損益決算を、私たちに要求していることか! これを算定できるような会計士がどこにいるだろうか? いかに優秀な算術家といえども、その決算に途方にくれないような者がいるだろうか?----「人は、たとい全世界を得ても、魂を損じたら、何の得がありましょう?」

 私は、いくつかの平易な言葉を申し述べて、私たちの前にある箇所で主イエスが尋ねておられる問いを強調し、例証したいと思う。この本を読んでいるすべての人々には、真剣な注意を払っていただきたい。願わくは、この本を手に取るすべての人が、今まで以上に不滅の魂の価値を深く感じとれるように! 自分の魂の真の値うちを見いだすことこそ、天国へ向かう第一歩である。

 I. 私が《第一に》申し述べたいのは、このことである。《私たちひとりひとりには不死の魂がある》。

 私は、自分の論考をこうした言葉で始めることを恥とはしない。あえて云えば、これは一部の読者には奇妙で愚かしく聞こえるであろう。ある人々はこう叫ぶと思う。「だれかこれくらいのことを知らない者があろうか? 私たちに魂があることを疑おうなどと、だれが考えるだろうか?」、と。しかし私には、この世が現時点において、物質的な事物にきわめて尋常ならざる注意を注いでいることを忘れることができない。私たちは進歩の時代に生きている。----蒸気機関と機械装置の時代、移動と発明の時代である。私たちが生きている時代は、おびただしい数の人々がしだいに地上的な物事に没頭しつつある時代である。----鉄道や、造船所や、鉱山や、商業や、貿易や、銀行や、商店や、木綿や、麦や、鉄や、黄金に没頭しつつある時代である。私たちが生きている時代は、時の間にある事物に偽りの脚光が浴びせかけられ、永遠の事物が深い霧で覆われている時代である。このような時代、キリストの教役者にとって必須の義務となるのは、第一の諸原則に立ち戻って、それを拠り所にすることにほかならない。そのことは、私たちがどうしてもしなければならないことである。もし私たちが、魂に関する私たちの主の問いかけを人々の心に突きつけなかったら、私たちはわざわいに会うであろう! こう声高に叫ばなかったら、わざわいに会うであろう。「世界がすべてではない。私たちがいま肉体にあって生きている生だけが、唯一の生ではない。来たるべき生がある。私たちには魂があるのだ」、と。

 私たちはみな、自分の胸の内側に、決して死なないものをかかえているのである。それを私たちは、不動の事実として思いの中に据えておこう。私たちのこの肉体が、----私たちの思いと時間のこれほど大きな部分を占めているこの肉体が、----それを暖め、服を着せ、飢えを満たし、快適にしてやるために、これほどの手間暇をかけさせるこの肉体が、----この肉体だけが、人間のすべてではない。それは、一個の高貴な居住者の宿所にすぎない。そして、その居住者とは不滅の魂である! 私たちひとりひとりがいつの日か迎えなくてはならない死が、人間の終末ではない。人が最後の息を引き取り、医者が最後の訪問を終えたときも、すべてが終わったわけではない。----棺が墓穴にゆっくりと横たえられ、葬儀の準備がなされるときも、----墓所の上で、「灰は灰に返り、土は土に返る」、と唱えられるときも、----この世で私たちの抜けた穴がふさがれ、社会から私たちがいなくなったことがもはや目立たなくなったときも、すべてが終わったわけではない。否、そのときですら、すべてが終わったわけではない! 人間の霊はまだ生き続ける。あらゆる人の内側には、不死の魂があるのである。

 私はそのことの証明をわざわざしはしない。それは時間の無駄でしかないであろう。全人類の中には、形而上学的な論議を一千集めたのと同じくらい値うちのある意識がある。人の内側では、時として聞きとれるほどに大きな声が発されている。----私たちの好むと好まざるとにかかわらず、私たちのうちでは、ひとりひとりの人間には不死の魂がある、と告げる声がしているのである。私たちに自分の魂が見えないからといって、それが何だろうか? 現存するおびただしい数のものは、肉眼では見えないではないか。望遠鏡や顕微鏡をのぞいたことのある人であれば、だれにそれを疑いえようか?----私たちに自分の魂が見えないからといって、それが何だろうか? 私たちはそれを感じることができる。私たちが病床に伏し、世界から閉め出されて、孤独になるとき、----自分の友人が臨終を迎えるのをかたわらで見守るとき、----自分の愛する者が墓穴に下っていくのを見るとき、----このような時に、人々の思いにいかなる感情が去来するか知らない人がいるだろうか? このような折に、心の中で、私たちに告げるものがあることを知らない人がいるだろうか? 来たるべき生があるのだ、身分の上下にかかわらず、すべての人には不死の魂があるのだ、と告げるものがあることを知らない人がいるだろうか?

 あなたは全世界を経巡って、あらゆる時代と年代の証拠をかき集めてもよい。この主題についてあなたが受け取る答えは、ただ1つしかないであろう。あなたは、民族によっては下劣な迷信に埋没し、偶像神に熱狂しているのを見いだすであろう。民族によっては、最低の暗愚さに沈みこみ、真の神知識は何もないであろう。しかしあなたは、来たるべき生があるという意識をかけらも持たないような民族や部族は見いださないであろう。エジプトや、ギリシャや、ローマのさびれた神殿や、わが国におけるドルイド僧らの廃墟、ヒンドスタンの壮麗な仏塔、アフリカの呪物崇拝、ニュージーランドの酋長たちの葬儀、北米部族の間の魔術使いの天幕、----これらはすべて、すべてが異口同音に同じ物語を語っている。人間の心のはるかな深部、《堕落》によって堆積された塵芥の底には、何物によっても消し去ることのできない碑文があり、それは私たちに告げているのである。この世がすべてではなく、私たちひとりひとりには不死の魂があるのだ、と。

 私は、人間に魂があることをわざわざ証明しはしないが、この論考を読むあらゆる読者に願うものである。それを常に念頭に置いていてほしい、と。ことによるとあなたは、どこかのせわしない都市の中心に住んでいるかもしれない。あなたは自分の周囲で絶え間なく、一時的な物事を巡る争いが起こっていることを見ている。喧噪と、ざわめきと、取引とが、あなたを四方八方から取り囲いている。時としてあなたが、この世がすべてであり、この肉体だけが気を遣うべきすべてなのだと考えたがる誘惑にかられることも想像に難くない。しかし、その誘惑に抵抗し、それを振り捨てるがいい。毎朝起床したら、また毎晩床につくときに、自分に向かってこう云うがいい。「この世の有様は過ぎ去る。私がいま生きている生だけがすべてではない。取引や、金銭や、楽しみや、商売や、売買のほかにも何かがある。来たるべき生があるのだ。私たちにはみな、不滅の魂があるのだ」、と。

 私は、この点をわざわざ証明しはしないが、あらゆる読者に願うものである。魂を有しているという尊厳と責任を悟ってほしい、と。しかり、あなたの魂にこそ、神があなたの責任に任せてくださった最高の賜物があるのだと悟るがいい。あなたの魂には、値うちのつけようもない真珠があり、それにくらべれば地上のいかなる所有物も空気のように軽く取るに足らないものだと知るがいい。ダービー競馬で、あるいは聖レジャ競馬で勝ちをさらった馬には、何万もの人々が注目する。画家はその姿を描き、彫刻家はその姿を彫刻し、巨額の富がその成績次第で定まる。だが、いかなる労働者の家庭に生まれた、か弱い幼子も、神の前ではその馬にはるかにまさって重要なのである。獣の霊は地の下に降りて行く。だが、その子には不滅の魂があるのである。----各地で開かれる展覧会では、多くの絵画が押し寄せる群衆によって賞賛される。人々は賛嘆の面持ちでそれらに目を凝らし、ルーベンスや、ティツィアーノや、その他の巨匠たちの「不滅の作品」についてうっとりと口にする。しかし、こうした物事にはいかなる不滅性もない。地と、その生み出したすべてのものは、やがて焼きつくされる。屋根裏部屋で泣き声をあげている小さな赤子は、美術のことなど何1つ知らないが、そうした絵画のいかなるものよりも長生きする。その子には決して死ぬことのない魂があるからである。----ピラミッドもパルテノンもやがて崩れ去る時がやって来る。----ウィンザー宮やウェストミンスター寺院が倒壊し、過ぎ去り、----太陽が輝くことをやめ、月が光を放つことがなくなる時がやって来る。しかし、いかに卑しい労働者の魂も、それよりもはるかに永続するのである。それは全宇宙が最期を迎える破滅にも生き残り、永遠に生き続ける。もう一度私は云う。決して死ぬことのない魂を有しているという責任と尊厳を悟るがいい。あなたはこの世では貧しいかもしれない。だがあなたには魂がある。あなたは肉体においては病み衰えているかもしれない。だがあなたには魂がある。あなたは国王でも、女王でも、公爵でも、侯爵でもないかもしれない。だがあなたには魂がある。魂こそは神が私たちの内側で主としてごらんになっておられる部分である。魂こそは「人」である。

  「ギニー貨の値うちはその黄金にこそあれ、
   上に押された刻印にはなし」

人のうちにある魂は、その人の中で最も重要なものである。

 私は、人々に魂があるとわざわざ証明しはしないが、すべての人々がそう信じているかのように生きることを願うものである。私たちがこの世に遣わされたのは、ただ単に木綿を紡いだり、麦を育てたり、黄金を貯め込んだりするためではなく、「神の栄光を現わし、神を永遠に喜ぶ」ためである、と本気で信じているように生きるがいい。自分の聖書を読み、その内容によく親しむがいい。祈りによって主を求め、主の御前に自分の心を注ぎ出すがいい。定期的に礼拝所に行き、福音が説教されるのを聞くがいい。安息日を聖なるものとして守り、神にその日をお渡しするがいい。そしてもしだれかからその理由を訊かれたなら、----妻か、子どもか、仲間から、「あなたは、なぜそのようなことをしているのか」、と云われたなら、----男らしく、大胆に、こう云うがいい。「私がこうした事がらをしているのは、私には魂があるからなのだ」、と。

 II. 私が《第二に》申し述べたいのは、このことである。《だれしも、自分の魂を損ずることがありえる》。

 これは私の主題の中でも悲しい部分である。しかし、到底見過ごせない部分、見過ごしにできない部分である。私は、平安だけしか預言しない人々や、人は自分の魂を損ずることがありえるという、すさまじい事実を人から押し隠すような人々には全く共感できない。私は、聖書の全体を信ずるという、----また聖書に含まれているあらゆることを信ずるという、----古くさい教役者のひとりである。聖書のどこを探しても、あらゆる人が最後には天国に行き着ける、などといった当世流行の耳当たりのいい神学を支持する根拠は全く見当たらない。私の信ずるところ、地獄は現実に存在している。私の信ずるところ、人が失われうるということを人々から押し隠すのは愛ではない。それが愛だと? あなたは兄弟が毒を飲もうとしているのを見たとき、沈黙を守るだろうか?----それが愛だと? あなたは盲人が断崖の方へよろよろと歩んでいこうとするのを見たとき、「止まれ」、と叫ばないだろうか? そのような偽りの愛の観念は打ち捨てるがいい! このほむべき恵みの名を偽りの意味に用いることで、その名誉を毀損しないようにしよう。真理の全体を人々の前に提示することは最高の愛である。人々が危険に陥っているとき、それとはっきり警告することは真の愛である。人が自分の魂を永遠に地獄で失うことがありえると人々に強く訴えることは愛である。

 人間は、驚くほどの悪を行なう力を身に備えている。善であるすべてのことについてはいかに弱くとも、私たちは自分自身に害を施すことにかけては強大な力を持っている。あなたは自分の魂を救うことはできない。兄弟よ。それを覚えておくがいい! あなたは自分で自分を神と和らがせることはできない。ただの1つも罪を拭い去ることはできない。神の書の中にある、あなたの非を問う暗黒の記録を1つも消すことはできない。あなたは自分の心を変えることはできない。しかし、あなたにできることが1つある。----あなたは自分の魂を損ずることができる。

 しかし、それがすべてではない。私たちはみな、自分の魂を損ずることができるだけでなく、今にもそうしかねない危険の中にあるのである。罪の中に生まれ、御怒りの子らである私たちは、自分の魂を救おうとする願いを生まれながらには何ら持ち合わせていない。弱く、腐敗し、罪に傾きがちな私たちは、「善を悪、悪を善と言っている」。暗愚で盲目な、また罪過の中に死んでいる私たちは、自分の足元にぱっくりと口を開けた穴を見る目を持っておらず、自分の咎と危険を感じとっていない。だがしかし、私たちの魂はその間ずっとすさまじい危険のうちにあるのである! もしだれかがアメリカをめざして、漏れ孔のある船で、羅針盤もなく、水も食糧も積まずに出帆するとしたら、その人が大西洋を無事に渡れる見込みがほとんどないことは誰の目にも明らかではないだろうか? もしあなたが王室秘蔵のコイヌール・ダイヤモンドを小さな子どもの手に渡して、タワーヒルからブリストルまで持っていくように命じたとしたら、そのダイヤモンドが無事に旅の終わりまで到達できるかどうか疑わしく思わない者がいるだろうか? だが、こうした比喩も、私たちが生まれながらに立ち至っている、自分の魂を損ずるという途方もない危険をおぼろげにしか伝えていないのである。

 しかし、ある人は尋ねるかもしれない。人はいかにして自分の魂を損ずることができるのか?、と。その問いに対しては多くの答えを返せる。肉体に襲いかかり、それを害する多くの病があるように、魂に襲いかかり、それに損害を与える多くの悪がある。だが、人が自分の魂を損ずるやり方がいかに数多くとも、それらはざっと3つのことに大別される。それが何かを手短に示してみよう。

 1つのこととして、あなたは自分の魂を殺すことができる。公然たる罪に走り、欲望と快楽を追求することによってそうすることができる。姦淫や不品行、酩酊や放蕩、冒涜や安息日破り、不正直や虚偽、これらはみな破滅への多くの近道である。「むなしいことばに、だまされてはいけません。こういう行ないのゆえに、神の怒りは不従順な子らに下るのです」(エペ5:6)。

 もう1つのこととして、あなたは自分の魂を毒することができる。何らかの偽りの宗教を受け入れることによってそうできる。あなたは、人の発明した種々の伝統や、決して天から下ったものではない一連の儀式や典礼という麻薬を魂に飲ませることができる。良心を無感覚にするが、心を癒しはしない阿片で魂を眠り込ませることができる。ストリキニーネや砒素は、大して音を立てないが、拳銃や刀剣と同じ役目を立派に果たすものである。だまされないようにするがいい。「にせ預言者たちに気をつけなさい」。人が自分の魂を盲人の手引きに任せるとき、ふたりとも穴に落ち込まずにはいられない。偽りのキリスト教信仰をいだくのは、何のキリスト教信仰も持たないのと同じくらい完全に破滅的なことである。

 もう1つのこととして、あなたは自分の魂を飢えさせることができる。ふらふらと、どっちつかずな態度をとり続けることによって、それを餓死させることができる。あなたは一生の間、受洗簿には名前を記載されていながら、《小羊のいのちの書》には記名されないまま、無為に時を過ごすことがありえる。----見えるところは敬虔であっても、その実を否定して一生を終えることがありえる。十年一日のごとくふらついて過ごし、ほんとうに良いものには何の興味も持たず、信仰を告白する者たちの首尾一貫のなさをあざ笑うことで満足し、自分は偽善者でも、党派心に満ちた者でも、信仰告白者でもないから、最後には自分の魂にとっては「万事がうまく行く」だろうと自分にへつらっていることがありえる。「むなしいことばに、だまされてはいけません」。どっちつかずでいることは、偽りのキリスト教信仰をいだいたり、何のキリスト教信仰も持たないのと同じくらい魂にとって破滅的なことである。人生の流れは決してじっととどまってはいない。あなたが眠っていようが起きていようが、あなたはその流れを漂い下っている。あなたはじきに滝を越えてしまい、もし断固とした信仰を持たずに死ぬなら、永遠にわたって捨てられることになる。

 大きく分ければ、こうした3つの道によって、あなたは自分の魂を損ずることができるのである。この論考を読んでいる人の中に、自分がどの道をとっているかわかる人がいるだろうか? 心を探り、私があなた自身のことを語っていなかったかどうか見きわめるがいい。あなたが自分の魂を損じつつあるかどうか、はっきりさせるがいい。

 しかし、魂を滅ぼすにはそれなりの手間がかかるだろうか? おゝ、否! それは下り坂の旅である。あなたの方でしなくてはならないことは何もない。奮起勉励しなくてはならないようなことは何1つない。あなたはただ何もせずに、神が摂理によってあなたを置いてくださった環境の中で他の人々と同じようにしていさえすればいい。----流れに乗り、大勢に従い、ただ流れ下って行くだけでよい。----そうすれば、じきにあわれみの時が永遠に過ぎ去るであろう! 「滅びに至る門は大きい」*。

 しかし、あなたは尋ねるであろう。自分の魂を損じているたくさんの人がいるのではないだろうか? しかり、実に多くの人々がそうしている。この問いかけに対する真の答えを知りたければ、人々の墓石に記された碑文や碑銘を眺めてはならない! ウォッツ博士が云うように、それらは、

   「人にへつらい、嘘をつくよう教え込まれている」。

いかなる人々も、死去するやいなや、立派な人であった、「善良な種類の人」であったと考えられる。しかし、神のことばを見て、それが何と云っているか注意してみるがいい。主イエス・キリストは宣言しておられる。「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。----滅びに至る門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多いのです」*(マタ7:13、14)。

 しかし、私たちが魂を損ずるのは、だれに責任があるのだろうか? 自分以外の何者でもない。私たちの血の責任は私たち自身の頭上に帰する。その責任は私たち自身にしかない。最後の審判の日、大きな白い御座の前に私たちが立ち、数々の書物が開かれるとき、私たちには何の抗弁もできないであろう。《王》が客を見ようとしてはいって来て、「あなたは、どうして礼服を着ないで、ここにはいって来たのですか」、と云うとき、私たちは黙っているしかないであろう。私たちは、自分の魂を損じたことについていかなる弁解も申し立てられないであろう。

 しかし、損じられた魂はどこへ行くのだろうか? この問いかけには1つの厳粛な答えを返すしかない。それが行ける場所は1つしかなく、それは地獄である。魂の死後絶滅などということはない。失われた魂は、うじが尽きることなく、火が消えることのない場所へ行く。----暗黒と暗闇、悲惨さと絶望が永遠に続く場所へ行く。それは地獄へ行く。----その魂にとってふさわしい唯一の場所へ行く。----それが天国にはふさわしくないからである。「悪者どもは、よみに帰って行く。神を忘れたあらゆる国々も」。「それらのもの行き着く所は死です」(ロマ6:21)!

 はっきり云わせてもらうが、私たち教役者たちは、キリスト者であると自称し、公言している多くの人々について恐れで満ちている。私たちは恐れている。彼らが最後には自分の尊い魂を損じてしまうのではないかと。詐欺師の親玉であるサタンが、彼らをだまして救いから遠ざけ、思うがままにとりこにしているのではないかと。永遠の中で彼らが目覚めたとき、自分が永劫に失われていることに気づくのではないかと! 私たちが恐れているのは、あまりにも多くの人々が罪深い習慣の中に生きており、あまりにも多くの人々が神が決して命じもしなかったような形式や儀式の中で安んじており、あまりにも多くの人々がキリスト教信仰の一切合切をいいかげんに扱っており、つまり、あまりにも多くの人々が自分自身の魂を滅ぼしつつあるからである。私たちは、こうしたことを目にして不安を覚えるのである。

 こうした魂が危険に陥っていると感じていればこそ、私はこの論考を書いて、人々にそれを読むよう促しているのである。もし地獄などという場所がないと考えているとしたら、私もこのようなしかたで書きはすまい。すべての人々が当然のように最後には天国に行くと考えているとしたら、私は沈黙を守り、彼らを放っておくであろう。しかし、私はとてもそうはできない。私は行く手に危険が見える。それであらゆる人に、必ず来る御怒りから逃れるように警告せざるをえないのである。私には難破の危険が見える。それで灯台に火をともし、あらゆる人に安全な港を求めよと懇願しているのである。あなた自身の心を吟味するがいい。自分が失われる道にいるか、救われる道にいるかを悟り知るがいい。心を探って、あなたと神の間柄がどうなっているか見てとるがいい。自分自身の魂を損ずるという途方もない愚行を犯してはならない。私たちの生きている時代は、大きな誘惑の時代である。悪魔はうろつき回り、せっせと立ち働いている。夜はふけている。時は縮まっている。あなた自身の魂を損じてはならない。

 III. 私が《第三に》申し述べたいのは、このことである。《ある人が魂を損じたなら、それは、その人がこうむりうる最悪の損失である》。

 私はこの点をしかるべく述べることができないような気がする。いかなる生者も、魂を失うことがいかに大きな損失であるかを完全に示すことはできない。いかなる者も、その損失の真の有様を描き出すことはできない。否。私たちは、死の影の谷を通って、来世で目覚めるときまで、決してそれを理解できない! そのときまで決して私たちは不滅の魂の価値を知ることはない。

 この現世において、魂を損ずることは何物によっても埋め合わせることができない、と云うことはできよう。あなたは世界中の富を得られるかもしれない。----オーストラリアとカリフォルニアを合わせた黄金と、あなたの国が授けることのできるあらゆる栄誉を手に入れることができるかもしれない。一国の半分をも所有できるかもしれない。あなたは、国王が喜んで誉れを与え、国中の人々から賛嘆の目で見られるような人かもしれない。しかし、その間ずっとあなたは、もしも自分の魂を損じつつあるとしたら、神の前では貧しい人間なのである。あなたの栄誉はほんの数年しか続かない。あなたの富は最後には残して行かなくてはならない。「私たちは裸で世に出てきた来た。また、裸で出て行かなくてはならない」。魂が救われない限りあなたは、生きている間いかなる軽やかな心も、朗らかな良心も持つことはないであろう。あなたがいかに金銭を貯め込み、いかに広大な地所を所有しようと、死ぬときには何1つ持ってゆくことはないであろう。人生が終わったとき、ほんの数尺の土地もあれば、あなたのものであった肉体をおおうのに十分であろう。そしてそのとき、もしあなたの魂が損じられたなら、あなたは自分が永遠にわたって乞食であることに気づくであろう。まことに、人は、たとい全世界を得ても、魂を損じたら、何の得もないはずである。

 魂が損じられたとき、それは取り返しのつかない損失である、と云うことはできよう。いったん失われたなら、それは永遠に失われたままである。この世の財産を失った場合、それを取り戻すことはできる。健康や評判を失ったとしても、それらは必ずしも回復できないわけではない。しかし、最期の息を引き取ったいかなる人も、決してその損じられた魂を取り戻すことはできない。聖書は墓の彼方にいかなる煉獄も啓示していない。聖書の教えるところ、いったん失われたなら、私たちは永遠に失われたままである。まことに、自分のいのちを買い戻し、それを贖うために、人は何も差し出せないことに気づくであろう。

 しかし、私が深く感ずるところ、こういった議論はみな、この主題の水準にはるかに達さないものである。やがて来たるべき日に私たちは、魂がいかなる価値をしているか完全に悟り知るはずである。私たちは、はるかに先を眺めなくてはならない。私たちは、今の私たちが占めているのとは全く異なる立場に立っている自分を想像して初めて、いま考察している事がらを正しく評価できるに違いない。盲人は美しい風景を理解できない。聾者は洗練された音楽を理解できない。生者は来たるべき世の驚くばかりの重要性を完全には悟れない。

 この論考の読者の中に、魂の価値をぼんやりとでも知りたいという人がいるだろうか? ならば、行って、死に行く人々の意見によってそれを推し量ってみるがいい。その終幕の厳粛さは、物事の虚飾や見せかけをはぎとり、人々に、物事が真にそうある通りの姿を見させる。そのとき人々は自分の魂のために何をするだろうか? 私は、キリスト教の教役者として、そのいくばかを見たことがある。めったにない、ごくごく僅かな例外を除いて私は、死を迎える時に、来たるべき世について無頓着で、考えなしで、無関心な人を見たことがない。話し上手で、にぎやかな一座を前に陽気な歌を歌える人が、自分のからだからいのちが抜け始めるのを感じ出すとき、非常に深刻な人に変わる。自信満々だった不信心者が、そうした折にはしばしば自分の不信心を打ち捨ててしまう。ペインやヴォルテールのごとき人々がしばしば見せるのは、彼らのご自慢の哲学が、墓場を目の当たりにするとき崩れ去るということである。ある人の体がぴんぴんしているときに、その人が魂について何と考えているかなど、どうでもよい。むしろ私が知りたいのは、世界が自分の下で沈みつつあるとき、また死と、審きと、永遠が薄気味の悪い姿を現わしつつあるときにその人がどう考えるか、である。そのときには、私たちの存在の大いなる種々の現実が注目されなくてはならないし、考えられなくてはならない。時間に照らしたときの魂の価値と、永遠に照らしたときの魂の価値とは全く別物である。生者が、魂の価値を最も確かに知るのは、その人が死につつあるとき、また世界をもはや手元に置いておけなくなったときである。

 魂の価値について、もう少しはっきりとしたことを知りたいという人がいるだろうか? ならば行って、それを死者の意見によって推し量るがいい。聖ルカの福音書16章にある、金持ちとラザロのたとえ話を読むがいい。この金持ちが地獄と苦悶の中で目覚めたとき、彼はアブラハムに何と云っただろうか? 「ラザロを私の父の家に送ってください。----私には兄弟が五人ありますが、----彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、----よく言い聞かせてください」。この金持ちは、おそらく地上で生きていた間は、他人の魂のことなどほとんど、あるいは全く考えたことがなかったであろう。だがいったん死んで、苦しみの場所に来てしまうと、彼には物事の真の姿が見えたのである。そのとき彼は自分の兄弟たちのことを考え、彼らの救いのことを気遣い始めている。そのとき彼は叫んでいる。「ラザロを私の父の家に送ってください。私には兄弟が五人ありますが、……よく言い聞かせてください」、と。この素晴らしいたとえ話が他に何もしなかったとしても、それは私たちに教えるであろう。人々が来世で目覚めるときに何を考えるかを。それは、来世の上にかけられた垂れ幕のの片隅を持ち上げて、死者が魂の価値についてどう考えるかを私たちに一瞥させているのである。

 魂の価値について、考えうる限り最も明確な観念を持ちたいという人がいるだろうか? ならば行って、千八百年前、そのために支払われた代価によってそれを推し量るがいい。そこで支払われた代価のいかに莫大な、いかに法外なものであったことか! いかなる金も、いかなる銀も、いかなる金剛石も、贖いを提供するには不十分であるとわかった。天のいかなる御使いも、贖いの代価をもたらすことはできなかった。キリストの血による以外、----永遠の神の御子が十字架について死ぬこと以外、何物も、魂の地獄からの解放を買い取るには不十分であるとわかった。霊においてカルバリに行き、主イエスが死なれたとき、そこで何が行なわれたか考えるがいい。そのほむべき《救い主》が十字架上で苦しんでおられるのを見るがいい。この方が死なれたとき何が起こっているか注意するがいい。いかに地上に三時間も暗黒があったか見るがいい。地が揺れ動いている。岩々が裂けている。墓場が開いている。この方のいわまのことばを聞くがいい。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか?」 では、こうした驚嘆すべき現象すべてのうちに、魂の価値をあなたに悟らせるものを見てとるがいい。そのすさまじい光景の中に、私たちは、人々の魂を十分贖うに足る唯一の代価が支払われるのを目撃しているのである。

 私たちはみな、今は魂の価値を理解していなくとも、いつの日かそれを理解することになる。願わくは神が、この論考を読むいかなる人もそれを理解するのが遅すぎないようにしてくださるように。----精神病院は不憫な眺めである。その陰鬱な建物の中に、かつては王侯然とした財産の持ち主だった人々が、それを浪費しつくしたあげく、酒に溺れてどうしようもない狂気に自分を追いやった姿を見ると、心がしめつけられるように感ずる。----難船は不憫な眺めである。かつては「生き物のように水上を歩む」堂々たる船だったものが、岩がちな岸辺に座礁し、四囲の岸辺に、溺死した乗組員と、四散した積荷が散らばっているいる姿を見るのは無惨そのものである。しかし、目をおおわせ、心を痛ませるいかなる光景にもまして不憫な眺めは、人間が自分の魂を滅ぼしつつある姿である。イエスが最後にエルサレムに近づきつつあるとき、涙を流されたのも不思議ではない。こう記されている。「都を見られたイエスは、その都のために泣いた」*(ルカ19:41)! 魂の価値を、律法学者やパリサイ人たちは知っていなかったが、主は知っておられた。私たちは、このお方の涙から学ぶことができるであろう。----たとえ他の何から学ぶことができなかったとしても、----人間の魂の価値と、その魂が打ち捨てられた場合に人がこうむることになる損失の大きさとを。

 私はこの論考を読むあらゆる人に命ずる。「きょう」と云われている間に、自分の魂の値うちに目を開くがいい。立ち上がって、魂を損ずることがいかにすさまじいことか感じとるがいい。あなたの責任に任せられている、この大いなる宝物の真の尊さを知るように努めるがいい。あらゆる事物の価値は、いつの日か一変することになる。銀行券が紙くず同然となり、金や金剛石が道端のくずのようになる時が来ようとしている。----貴族の宮殿も、百姓のあばら屋もみな同じように地に崩れ落ちる時、----株券も公債もみな売れなくなる時、しかし信仰や良い望みがもはや見くびられたり、蔑まれたりしなくなる時が来ようとしている。その時、あなたは、それまで決して見いだしたことがないようなしかたで、不滅の魂の価値を見いだすであろう。魂の損失はそのとき、最大の損失とみなされ、魂の利得は最大の利得とみなされるであろう。では今、魂の損失を知るように求めるがいい。愚かしい見せびらかしのために、非常な価値のある真珠を酸で溶かして飲み干したという、あのエジプトの女王のような真似をしてはならない。彼女のように、神があなたの責任に任せてくださった、「すばらしい値うちの真珠」を打ち捨ててはならない。ひとたび損じたならば、魂の損失にくらべられるほどの損失はない。

 IV. 私が《第四に》、そして最後に申し述べたいのはこのことである。《いかなる人の魂も救われることができる》。

 神をほむべきことに、キリストの福音によって私は、この喜ばしい知らせを宣言し、それをこのページを読むあらゆる人に向かって、自由に、無条件で宣言することができる。神をほむべきことに、私がここまで語ってきたあらゆる厳粛な事がらの後で、私は平和の使信によってそれをしめくくることができる。人々に向かって、だれにでも魂があること、----だれでも自分の魂を損ずることがありえること、----魂の損失こそ何物によっても埋め合わせることのできない損失であることを告げるというのは、すさまじい責任である。もしもそれと同時に、いかなる人の魂も救われることができると宣言できなかったとしたら、私はその責任に耐えることができなかったであろう。

 この宣言は、ことによると、この論考の一部の読者にとっては驚くべきものと思えるかもしれない。私も、これが自分にとって驚くべきものに聞こえたであろう時期のことを覚えている。しかし私の確信するところ、これは永遠の福音の声以上のものでも以下のものでもない。そして私は、聞く耳を持っているすべての人に向かってそれを知らせることを恥とはしない。私は大胆に云う。福音には、罪人のかしらのためにも救いがある、と。私は確信をこめて云う。いかなる人も、だれであれ、自分の魂が救われることはできる、と!

 私は、私たちがみな生まれながらに罪人であると知っている。----堕落した、咎ある、腐敗した、罪におおわれた者らであると知っている。私たちが弁明をする相手である神が、何にもまして聖なるお方であられること、不義を見ることもできないきよい目をしておられ、悪を目にとめることもできないお方であられることを私は知っている。また、私たちが生まれ合わせた世界が、キリスト教信仰にとっては困難な世界であることも知っている。これは、煩いと困難、不信仰と汚れ、神への反抗と憎悪に満ちた世界である。これは、キリスト教信仰が外来植物のようである世界、----キリスト教信仰を枯らす雰囲気に満ちた世界である。しかし、これらすべてにもかかわらず、いかにこの世が困難な場所であれ、いかに神が聖なるお方であれ、いかに私たちが生来罪深い者であれ、----私は云う。いかなる人も、だれであれ、魂が救われることはありえる、と。いかなる人であれ、罪の咎と、力と、種々の結果から救われることができ、ついには永遠の栄光のうちに神の右側に立つことがありえる、と。

 私は、読者の一部がこう叫んでいるのが目に浮かぶ。「どうして、そのようなことがありうるのでしょう?」 あなたがそう問いかけるのも無理はない。これは異教徒の哲学者たちが決して解くことのできなかった大いなる結び目である。これこそギリシャとローマのあらゆる賢人たちが解決できなかった難問である。これこそ、主イエス・キリストの福音以外の何物も答えることのできない問題である。福音のその答えを私は今あなたの前に提示したいと願っている。

 では私は、全き確信をもって宣言する。いかなる人の魂も救われることができるというのは、(1) キリストが一度死なれたからである。神の御子イエス・キリストは人々の罪の贖いをするために十字架上で死なれた。「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは……私たちを神のみもとに導くためでした」(Iペテ3:18)。キリストは、木にかけられて、ご自分の肉体において私たちの罪を負われ、私たちが受けてしかるべき呪いがご自分の頭上にふりかかるのをよしとしてくださった。キリストは、私たちが破った神の聖なる律法に、その死によって償いをつけてくださった。その死は、ただの死ではなかった。単なる自己否定の模範ではなかった。リドリや、ラティマーや、クランマーの死のような、単なる殉教者の死ではなかった。キリストの死は、全世界の罪のためのいけにえであり、なだめの供え物であった。それは、人の子らの《全能の代理者》、《保証人》、《代表者》の代償死であった。それは、私たちが神に対して負っている莫大な負債を支払った。すべての信仰者が天国に行くことのできる道を開いた。あらゆる罪と汚れをきよめる泉を開いた。それによって神は義であり、なおかつ不敬虔な者を義とすることができるようになった。それは神との和解を獲得した。イエスによって神に近づく者すべてのために、完璧な平和を手に入れた。イエスが死んだとき、牢獄の扉は開かれた。罪の縛めを感じ、自由にされることを願うすべての人に向かって、自由が宣言された。

 イエスがカルバリで忍ばれた、こうした苦しみのすべては、だれのために耐えられたとあなたは思うだろうか? なぜ聖なる神の御子が悪人のように扱われ、咎人とみなされ、これほどむごたらしい死に方をすべく断罪されたのだろうか? あの御手と御足はだれのために十字架に釘づけられたのだろうか? あの御脇はだれのために槍で貫かれたのだろうか? あの尊い血はだれのためにあれほどふんだんに流されたのだろうか? こうしたすべては、なにゆえだったのだろうか? それがなされたのは、あなたのためなのである! 罪深い者のため、----不敬虔な者のためなのである! それは、無条件で、自ら進んで、----強制されてではなく、----罪人たちに対する愛により、罪の贖いをするためになされた。それでは確かに、キリストは不敬虔な者のために死なれたのであり、私には、いかなる者も救われうると宣言する権利があるのである。

 それだけでなく、私は全き確信をもって宣言する。いかなる人も救われることができるというのは、(2) キリストが今も生きておられるからである。罪人のために一度死なれたこの同じイエスは、今も神の右の座に着いて生きておられ、ご自分が天から下って成し遂げようとなされた救いのみわざを行ない続けておられる。主は生きておられ、ご自分によって神に近づく者を受け入れ、彼らに神の子どもとされる特権を与えてくださる。主は生きておられ、重荷にのしかかられたあらゆる良心の告白に耳を傾け、全能の《大祭司》として完全な赦罪を与えてくださる。主は生きておられ、子とされる御霊を、ご自分を信ずるすべての者に注ぎ出し、彼らが、「アバ、父よ!」、と叫べるようにしてくださる。主は生きておられ、神と人との間の唯一の《仲介者》となり、倦むことなき《とりなし手》となり、いつくしみ深い《羊飼い》となり、最年長の《兄》となり、何者にも打ち勝つ《弁護者》となり、ご自分によって神に近づくすべての人々にとって、決して変わることなき《祭司》また《友》となってくださる。主は生きておられ、ご自分のすべての民の知恵となり、義と聖めと、贖いになってくださる。----生にあっては彼らを守り、死にあっては彼らを支え、最後には彼らを永遠の栄光に至らせてくださる。

 イエスはだれのために神の右の座に着いておられるとあなたは思うだろうか? それは人の子らのためである。天に高く挙げられ、言葉に尽くすことのできない栄光に包まれていながら、主は今も、ベツレヘムのかいばおけの中に生まれたときに引き受けた大いなるみわざに気を配っておられる。主はほんの少しも変わってはおられない。主は常に1つの心をしておられる。主は、ガリラヤ湖の岸辺を歩いていたときの主と全く同じ主である。パリサイ人のサウロを赦して、自分が滅ぼそうとしていた信仰を宣べ伝えるために彼を遣わしたときの主と同じ主である。マグダラのマリヤを受け入れ、----取税人のマタイを召し、----ザアカイに下りて来させ、彼らをご自分の恵みに何ができるかの見本となさったときの主と同じ主である。そして主は変わっておられない。主は、きのうもきょうも、いつまでも、同じである。確かに私には、イエスが生きておられるのだから、いかなる者も救われうると云う権利があるのである。

 もう一度私は全き確信をもって宣言する。いかなる人も救われることができるというのは、(3) キリストの福音の約束が欠けることなき、無代価で、無条件のものだからである。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい」、と、この《救い主》は云われる。「わたしがあなたがたを休ませてあげます」。----「信じる者はみな滅びることなく、人の子にあって永遠のいのちを持つ」。----「御子を信じる者はさばかれない」。----「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」。----「子を見て信じる者はみな永遠のいのちを持つ」*。----「信じる者は永遠のいのちを持ちます」。----「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」。----「いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい」(マタ11:28; ヨハ3:15 <英欽定訳>、18; 6:37、40、47; 7:37; 黙22:17)。

 こうしたことばは、だれのために語られたとあなたは思うだろうか? それはユダヤ人だけのためだっただろうか? 否、異邦人のためでもあった!----それは過去の時代の人々だけのためだっただろうか? 否、あらゆる時代の人々のためであった!----それはパレスチナとシリヤだけのためだっただろうか? 否、全世界のためであった。----あらゆる名前と国籍と民族と国語の人々のためであった!----それは富者だけのためだっただろうか? 否、富者のみならず貧者のためでもあった!----それは非常に道徳的で品行方正な人々だけのためだっただろうか? 否、それはすべての人のため----罪人のかしらのため----最低最悪の犯罪者のため----それを受け取ろうとするすべての人々のためであった! 確かにこうした約束を思い起こすとき、私には、いかなる者であれ、だれでも救われることはできると云う権利があるのである。こうした言葉を読んでいる、まだ救われていないいかなる人も、決して福音を非難することはできない。もしあなたが失われるなら、それはあなたに救われることができなかったからではない。もしあなたが失われるなら、それは罪人たちのために何の赦しがなかったからでも、何の《仲保者》もいなかったからでも、何の《大祭司》もいなかったからでも、何の罪と汚れをきよめる泉も開かれていなかったからでも、何の扉も開かれていなかったからでもない。それは、あなたが自分勝手な生き方をしたがり、自分のもろもろの罪にしがみつき、キリストのもとに来ようとも、キリストにあっていのちを得ようともしなかったからである。

 私は、この本を出版する自分の目的を隠し立てはしない。私が心から願いとし、あなたのため神に祈っていることは、あなたの魂が救われることである。これこそ、あらゆる忠実な教役者が叙任を受けている大目的である。これこそ、私たちが説教し、語り、執筆する目的である。私たちは魂が救われてほしいのである。私たちに世俗的な動機があると非難し、私たちの望みはただ教会の力を助長し、俗界に対する聖職者の権力を増大させることだけだ、などと云う人々は、自分が何を云っているかわかっていないのである。そうする気など私たちにはさらさらない。願わくは神が、そうしたことで私たちを非難する人々を赦してくださるように! 私たちはそれより高い目的のために労している。私たちは魂が救われてほしいのである! 私たちは英国国教会を愛している。その『祈祷書』に、その『信仰箇条』に、その『公定説教集』に、その『礼拝儀典書』に深い愛着を覚えている。しかし、それにもまして1つのことを私たちは痛切に感じている。----私たちは魂が救われてほしいのである。私たちは火の中から燃えさしを取り出したと願っている。私たちは、神の御手の中にあって、幾人かの魂でも、私たちの主イエス・キリストの知識へと導く尊い器になりたいと願っているのである。

 さてここで私はこの論考のしめくくりにあたり、愛情をこめて3つの適用の言葉を語りたい。神がそれを多くの魂の霊的な益のために祝福してくださることを私は切に祈るものである。私はこの小文をだれが手に取ることになるのか知らない。私は特に狙いを定めずに矢を射ることにする。ただ私にできるのは神に祈ることだけである。神が幾人かの良心に矢を貫き通してくださり、この本を読む多くの人々が、それを下に置き、自分の胸を叩きながら、「救われるためには、何をしなければなりませんか?」、と云うように、と。

 (1) 私の最初の適用の言葉は、愛情のこもった警告となる。その警告の言葉は短く、単純なものである。----あなたは自分の魂をないがしろにしてはならない。

 ほとんど疑いもなくこの本を手に取ることになる人々の中には、現世の物事に関する心労でしばしば試練にあっている人がいるはずである。あなたは、「いろいろなことを心配して、気を使って」いる。あなたは、絶え間ない仕事と、せわしなさと、問題との渦の中で生きているように見える。あなたは身の回りのおびただしい数の人々が、気にかけることといえば、何を食べるか、何を飲むか、何を着るかということでしかないまま生きているのを目にしている。あなたはしばしば、キリスト教信仰を持とうとすることなど何の役にも立たないと考えさせようとする激しい誘惑にかられる。私は神の御名によってあなたに云う。その誘惑に抵抗するがいい。それは悪魔から出たものである。私はあなたに云う。どうしても必要な1つのことを決して忘れてはならない! 決してあなたの不滅の魂を忘れてはならない!

 ことによると、あなたは私に、今は楽な時勢ではないのだ、と云うかもしれない。それは楽ではないであろう。だが私の義務は、あなたに時が縮まっていることを告げ、今の世がまもなく永遠に一変しようとしていることを思い起こさせることにある。あなたは私に、自分も生きていかなくてはならないのだ、と云うかもしれない。だが私の義務は、あなたが死ななくてはならないことも告げ、あなたの神に会う備えをしなくてはならないことを思い起こさせることにある。飢饉の時に、自分の犬には食べさせながら、わが子を飢えさせているような人間がいたら、私たちは何と考えるだろうか? 何と無情な、人でなしの父親だろう、と云わないだろうか? よろしい。あなたもそれと似たようなことを自分で行なわないように留意するがいい。自分のからだのことを心配するあまり、自分の魂のことを忘れてはならない。今の生について気遣うあまり、来たるべき生のことを忘れてはならない。あなたの魂のことを忘れてはならない!

 これまでのあなたの人生がいかなるものであったにせよ、私は切に願う。これからの人生においては、自分に不滅の魂があると感じている者のような生き方をするがいい! 聖い決意とともにこの本を下に置き、神の助けによって「悪事を働くのをやめ、善をなすことを習う」がいい。今から後は決して、自分の魂の益について気遣うことを恥じてはならない。自分の聖書を読み、祈り、安息日を聖なるものとして守り、福音の説教を聞くことを恥じてはならない。罪や不敬虔についてなら恥じてしかるべきであろう。だが自分の魂に対する気遣いを恥じる必要は決してない。他の人々が笑いたければ笑わせておくがいい。いつの日か彼らもあなたを笑わなくなる時が来るであろう。忍耐強く受け入れるがいい。黙って忍ぶがいい。彼らにはこう告げるがいい。自分は心を決めたのだ、気を変えるつもりはない、と。こう告げるがいい。他に何はなくとも自分には1つわかったことがある、それは自分には尊い魂があることだ、と。そして告げるがいい。自分は、たとえ何が起ころうと、もはやその魂をないがしろにしない決心をしたのだ、と。

 (2) 私の第二の適用の言葉は、自分の魂が救われることを願うすべての人々に対する、愛情のこもった招きである。私は、この論考を読みながら、自分の魂の価値を感じ、救いを願っているすべての人を招くものである。一刻も早くキリストのもとに来て、救われるがいい、と。信仰によってキリストのもとに行き、自分の魂を主にお任せするがいい。そして罪の咎と、力と、種々の結果から救い出していただくがいい、と。

 私の舌の力をもってしては、また私の精神の能力をもってしては、罪人に対する神の愛の広さと、魂を受け入れ救おうとしておられるキリストの意欲の大きさとは、余すところなく告げることも、説明することもできない。あなたは、キリストによって制約を受けているのではなく、自分の心で自分を窮屈にしているのである。キリストがいかに進んで救いを与えようとしておられるかを疑うとしたら大間違いである。私の知る限り、あなたの魂と永遠のいのちとの間にある障害物は、あなた自身の意志しかない。「ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです」(ルカ15:10)。あなたは水晶宮の演奏会で素晴らしい合唱曲を聞いたことがあるかもしれない。しかし、「ハレルヤ・コーラス」におけるいかなる和声のほとばしりも、1つの魂が暗闇から光に立ち返ったときに天国で聞こえる歓喜の激発にくらべれば何であろう? ひとりの罪人が罪の愚かさを見てとり、キリストを求めるように教えられたときの「御使いたちの喜び」にくらべれば、それはただの囁き声でしかないであろう。おゝ、一刻も早く来て、その喜びを増し加えるがいい!

 自分のいのちを愛するというのなら、私はあなたに切に願う。今すぐキリストをつかみ、あなたの魂を救っていただくがいい。なぜ今日それをしないのだろうか? なぜ今日あなたも、破られることない永遠の契約によって主イエスに結びつこうとしないのだろうか? なぜ明日の日の出の前に、罪に仕える道から向きを変え、キリストに立ち返る決意をしないのだろうか? きょうのこの日、なぜキリストのもとに来て、自分の魂を、そのあらゆる罪と、あらゆる不信仰と、あらゆる疑いと、あらゆる恐れをもろともにキリストに投げかけないのだろうか?----あなたは貧しいだろうか? 天にある宝を求め、富んだ者となるがいい。----あなたは老いているだろうか? 急ぐがいい。あなたの最期のために用意をし、あなたの神に会う備えをするように急ぐがいい。----あなたは若いだろうか? 正しい一歩によって人生へと踏み出し、キリストのうちに決して変わらず、決してあなたを捨てることのない友を求めるがいい。----あなたは困難の中にあり、今の生活について煩いがあるだろうか? 唯一あなたを助けることができ、あなたの仕事を担うことのできるお方を求めるがいい。決してあなたを失望させないお方を求めるがいい。他の人々があなたに背を向けるときも、主なるイエス・キリストはあなたの味方になってくださる。----あなたは罪人だろうか? 最悪の罪人、最低の種類の罪人だろうか? もしあなたがキリストのもとに来さえすれば、それはみな二度と思い出されることがないであろう。キリストの血がすべての罪をきよめるであろう。あなたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなるであろう。

 では行って、主イエス・キリストにお願いするがいい。自分の魂の価値について考え、救われるための唯一の道について考えるがいい。熱心な祈りによって主を呼び求めるがいい。あの悔い改めた強盗のようにするがいい。主の前に自分の心を注ぎ出すがいい。「主よ。私を、私さえをも、思い出してください」、と叫ぶがいい。主に告げるがいい。私があなたのもとに来たのは、あなたが「罪人を受け入れてくださる」お方だと聞いたからです、自分は罪人です、救われたいと思っています、と。あなたの過去の人生の物語をすべて主に告げるがいい。そうしたければ、自分は不信者でした、放蕩者でした、安息日を破ってきました、神を知らぬ、向こう見ずで、怒りっぽい者でした、と告げるがいい。主はあなたを蔑まないであろう。あなたを捨てないであろう。あなたに背を向けないであろう。決して痛んだ葦を折ることも、くすぶる燈心を消すこともなさらないであろう。いかなる人もいまだかつて主のもとに来て捨てられたことはない。おゝ、キリストのもとに来るがいい。そのときあなたの魂は生きるであろう!

 (3) 私の最後の適用の言葉は、この論考を読んでいる、自分の魂の価値を見いだし、すでにイエス・キリストを信じているすべての人々に対する愛情のこもった勧告となる。その勧告は短く、単純なものであろう。私は切に願う。上に召されたあなたは、あなたの心のすべてをかけてキリストにすがりつき、栄冠を得るため目標を目ざして一心に走るがいい、と。

 あなたが自分の道が非常に狭いことに気づくことは想像に難くない。あなたとともにいる人々はほとんどおらず、多くの人々があなたに反対するであろう。あなたの人生の巡り合わせはつらく、あなたの立場は困難なものかもしれない。しかし、それでも主にすがりつくがいい。主は決してあなたを捨てないであろう。迫害の最中にあって主にすがりつくがいい。人々があなたを笑い、からかい、辱めようとしても、主にすがりつくがいい。十字架が重く、戦いが激しくとも、主にすがりつくがいい。主はカルバリの十字架上であなたを恥とはなさらなかった。ならば、地上においてあなたは主を恥じてはならない。さもないと主は、天におられる御父の前であなたを恥となさるであろう。主にすがりつくがいい。主は決してあなたを捨てないであろう。この世においては、数多くの失望がある。----財産や、家族や、住まいや、土地や、種々の状況における失望がある。しかし、いまだかつてキリストに失望した者はいない。いかなる人も、キリストが聖書でそうと云われている通りのお方であると見いださなかったことはなく、かつて聞かされていたより一千倍も素晴らしいお方であることを見いだしてきたのである。

 前を眺め、先を眺め、最後まで見通すがいい! あなたの最良の事がらはまだ来ていない。時は縮まっている。終わりが近づいている。世の終わりの日が私たちに臨んでいる。勇敢に戦うがいい。労苦を続けるがいい。働き続けるがいい。努力し続けるがいい。祈りを続けるがいい。聖書を読み続けるがいい。あなた自身の魂を強くするために刻苦するがいい。他の人々の魂に益をもたらすために刻苦するがいい。努めて自分とともに何人かでも天国に連れ来たり、あらゆる手を尽くして何人かでも救いへ入れるがいい。神の助けによって、天国の住人をもっと増やし、地獄の住人をもっと減らすために、何かをするがいい。あなたの側にいる若者に語りかけ、あなたの家の近所に住む老人に話しかけるがいい。礼拝所に一度も来たことのない隣人に語りかけるがいい。聖書を個人的に一度も読んだことがなく、信仰を真面目に考える人々を茶化している親戚に語りかけるがいい。日曜日には、その人々を永遠のいのちへ至らせるであろう何か良いことを聞けるように、礼拝の場へ来てほしいと頼み込むがいい。滅びるしかない獣のように生きるのではなく、救われることを願う人々のように生きるよう説得に努めるがいい。もしあなたが魂に善を施そうとするなら、天におけるあなたの報いは大きい。人の子らの前でキリストを告白するすべての人々の報いは大きい。この世の栄誉はたちまち永遠に終わりを告げる。私たちの仁慈深い女王が授けてくださる報いは、ほんの数年しか享受できない。「ヴィクトリア十字勲章」は、いかに勇敢な軍人が、いかにしかるべき殊勲を立てたとしても、長くは着用され続けないであろう。彼らは、いま大いに認められているその地位から、すぐに見えなくなるであろう。もう何年もすれば、彼らは先祖たちのもとに集められるであろう。しかし、キリストがお与えになる冠は、決して朽ちることがない。信仰を有する読者の方々に云う。その冠を求めるがいい。その冠のために労するがいい。それは、あなたがこの困難に満ちた世でくぐり抜けなくてはならないすべてのことを償ってくれるであろう。キリストの兵士たちが受ける報いは永遠のものである。彼らの故郷は永遠である。彼らの栄光は決して終わることがない。

私たちの魂![了]

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