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1. 霊感


「聖書はすべて、神の霊感によるもので……す」----IIテモ3:16

 聖書はいかにして書かれたのだろうか?----それは、「どこから来たものですか。天からですか。それとも人からですか」。----聖書の記者たちは、その働きを行なうにあたって、特別な、また独特の助けを何か受けていたのだろうか?----聖書は、他のあらゆる本と異なったものであり、それゆえ、敬意をもって注意せざるをえないものであるとされる格別な理由が何かあるのだろうか?----こうした問いかけに対して私は、この論考で答えを差し出したいと願うものである。ありていに云えば、私が吟味しようとしているのは、かの深遠な、聖書の霊感という主題にほかならない。私は聖書が神の霊感によって書かれたと信じており、他の人々にも同じ信念をいだいてほしいと思う。

 この主題は常に重要なものである。私は故意に、本書の内容をなしている種々の論考の真っ先にこの主題を置いた。私が、以下で取り扱う数々の教理に耳を傾けるよう要請しているのは、それらが「神のことば」たる書物から引き出されたものだからである。つまり、霊感こそはキリスト教の竜骨にほかならず、土台石にほかならないのである。もしキリスト者たちが、自分の教えと行ないの裏づけとすべき何の《天来の》書も持ち合わせていないとしたら、彼らには現世における平安や希望を保証する何の堅固な基盤もなく、人類に向かって当然のごとく注意を要求すべき何の権利もないことになる。彼らは砂上の楼閣を築いているのであって、彼らの信仰はむなしい。私たちはこう大胆に云っていいであろう。「私たちが、今ある通りの私たちであるのは、また今している通りのことをしているのは、ここに、私たちが神のことばと信ずる書物を有しているからなのだ」、と。

 この主題は、現代にあっては格別に重要なものの1つである。不信心と懐疑主義は至る所ではびこっている。これらは、社会のいかなる身分、階級の中にも、何らかの形で見いだされる。何万人もの英国人が恥ずかし気もなく云うところ、彼らは聖書を、古くさい時代遅れのユダヤ人の教典であるとみなしており、ことさらに私たちの信仰と従順を要求できる権利など全くないもの、多くの不正確な記述や欠陥を含んだものであるという。そこまでは云おうとしないおびただしい数の人々も、その信仰の内容においてよろめき、ぐらついていて、その生き方を見れば、彼らが聖書の真実さについて確固たる確信を有していないことは一目瞭然である。このような時代にあって、真のキリスト者は自分の足を堅く踏みしめ、神のことばについてなぜ自分が確信をいだいているか、その理由を示せなくてはならない。その人は、健全な議論によって、反対者たちに真っ向から立ち向かい、たとえ納得させることはできなくとも、沈黙させることができるべきである。自分がなぜ聖書を、「天からのものであって、人からのものではない」、と考えているのか、その確固たる根拠を示せるべきである。

 この主題は、疑いもなく非常に難解なものである。この主題を追求しようとすれば、定命の人間にとっては暗く、神秘的な土地に入り込まずにはいられない。これは、奇蹟的で、超自然的で、理性を超えた事がら、完全には説明しきれない事がらに関する議論を伴っている。しかし、困難があるからといって私たちは、キリスト教信仰におけるいかなる主題の前からも、すごすごと引き下がってはならない。世のいかなる科学分野においても、だれにも答えられない問題というものはあるものである。自分はあらゆることが理解できるまで何も信じない、などと云うのは、貧弱な哲学の持ち主だけである! 私たちは、霊感という主題が「理解しにくい」事がらを含んでいるからといって、絶望してあきらめてはならない。普通の理解力をしたあらゆる人にとって平明な土地が、まだまだ広大に残っているのである。私は読者の方々に願いたい。ぜひ、きょう私とともにその土地を領有し、神のことばの《天来の》権威について私が云わなくてはならないことに耳を傾けてほしい。

 私たちの前にある主題を考察するにあたり、私は2つのことを行なおうとするものである。----

 I. まず第一に私は、聖書は神の霊感によって与えられているという一般的な真理を示したいと思う。
 II. 第二に私は、聖書が霊感されている範囲を示したいと思う。

 私はこの論考を読むすべての人々が、この主題を真剣に、また畏敬の念を込めて取り上げるであろうと信じたい。この霊感という問題は決して軽々しく扱ってよいことではない。そこには、はなはだ重大な結果が関わっている。もし聖書が神のことばでなく、霊感されていないとしたら、キリスト教界全体は千八百年もの間、途方もない迷妄のもとに置かれていたのであり、----人類の半数は欺かれ、たぶらかされていたことになり、教会という教会は愚行の記念碑となるであろう。----だが、もし聖書が神のことばであって、霊感されているとしたら、それを信じようとしないすべての人々はすさまじい危険に陥っていることになる。----彼らは永遠の悲惨さの崖っぷちで生きているのである。まともな神経をしている人であればだれしも、この主題全体がこの上もなく真剣な注意を払われるべきものであることを見てとるに違いない。

 I. まず第一に、私が示したいと思うのは、一般的な真理、----聖書は神の霊感によって与えられている、ということである。

 こう云うことによって私が主張したいのは、聖書は、いまだかつて書き記されたことのある、他のすべての書物とは全く異なるものであり、その理由は、その記者たちが特別に霊感されていた、すなわち、彼らの行なった働きのため神によって力を与えられていたことにある、ということである。私は云う。この《本》は、他のどの本も有していない1つの主張を伴って私たちのもとに来ているのだ、と。それには《天来の》権威の刻印がなされている。この点で、それは全く類例を見ないものである。いかなる種類の説教であれ、小冊子であれ、神学的著作であれ、それらは、たとえ健全な、徳を建て上げるものであったとしても、霊感されていない人間の手のわざにすぎない。聖書だけが《神の書》なのである。

 さて、私は、聖書の各巻が純粋で真正なものであること、それらがそれを書いたと告白している人々によって本当に書かれたこと、また、それらが彼らの書いたことをそのまま含んでいることを証明することで時間を浪費しようとは思わない。私は、いわゆる外的証拠と普通呼ばれているものに触れようとは思わない。私はこの本そのものを持ち出して、それを証人席に立たせたいと思う。私が示したいのは、聖書が今ある通りのものであること、また、聖書がこれまでなしてきたようなことを行なってきたことは、それが神のことばであるという理論以外の何物によっても到底説明がつかない、ということである。私はこのことを、くつがえしようのない立場として、おおっぴらに規定したい。すなわち、聖書そのものこそ、公正に吟味されるならば、自らの霊感に対する最上の証人なのである。私は、聖書に関するいくつかの平明な事実を言明するだけでよしとしたい。それらは否定することも、うまく説明し去ることもできない事実である。そして、私が取り上げる根拠はこれである。----すなわち、こうした事実は、聖書が神から出ているか、人から出ているかを探求しようとしている、いかなる道理をわきまえた人をも満足させるはずである。それらは単純な事実である。ヘブル語や、ギリシャ語や、ラテン語の知識がなければ理解できないようなものではない。だが、それらは私自身の考えるところでは、聖書が超人間的なもの、すなわち、人から出ていないものであることを決定的に証明している事実なのである。

 (a) 1つの事実として、聖書の内容には、異様なほど満ち満ちた豊かさ、豊穣さがある。聖書は、膨大な数のこの上もなく重要な主題について、世の他のすべての本を合わせてもかなわないほどの光を投げかけている。それは、人間が独力では達しえないような問題を大胆に取り扱っている。それは、神秘的な、目に見えない事がらを扱っている。----魂や、来たるべき世や、永遠といった、----人間がいかなる手だてをもってしても測り知りえない深みを扱っている。聖書の光なしに、こうした事がらを書こうと試みたすべての人々は、ほとんど自分自身の無知を示すだけでしかなかった。彼らは盲人のように手探りする。彼らは思弁を巡らす。推測する。概して彼らは、暗闇をよりまざまざと示し、私たちを不確実さと疑惑の領域に行き着かせる。ソクラテスや、プラトンや、キケロや、セネカの見解の何とおぼろなことか! 現代の、よく教えを受けた日曜学校教師の方が、こうした賢人たちを寄せ集めたよりもずっと多くの霊的真理を知っている。

 聖書だけが、私たちの生きている地球の始まりと終わりについて、筋の通った説明をしている。それは、現在の秩序のもとにあるような太陽や、月や、星々や、地上といったものの誕生日から始めて、被造世界がゆりかごの中にあった姿を示している。またそれは、万物が崩れ落ち、地とそのすべてのわざが焼け落ちるという、被造世界が墓に入る姿を示している。それは、世界の青春時代の物語を語り、世界の老年時代の物語を語っている。それは、その最初の日々の姿を描き出し、その最後の日々の姿を描き出している。この知識の何と広大かつ重要なことか! これが、霊感を受けていない人間の手のわざでありえようか? できるなら、この問いに答えてみるがいい。

 聖書だけが、人間について真実で嘘偽りのない説明をしている。それは小説や物語本のように人間にへつらいはしない。人間の短所を隠したり、その善良さを誇張したりしない。それは人間のありのままの姿を描き出している。それは人間を堕落した被造物であると述べ、それ自身の性質として悪に傾く者----赦しを必要とするだけでなく、新しい心を与えられない限り天国にふさわしくない者であると述べている。それは人間を、腐敗した存在として示している。人間は、いかなる状況下にあっても、放置されれば腐敗する者らである。----楽園を失った後でも腐敗し、----洪水の後でも腐敗し、----天来の律法や戒めで囲まれたときにも腐敗し、----神の御子が天から下って肉において訪れてくださったときにも腐敗し、----警告や、約束や、奇蹟や、審きや、あわれみを前にしても腐敗している。一言で云うと、聖書は人間が生まれながらに常に罪人であると示している。この知識の何と重要なことか! これは霊感を受けていない精神のわざでありえようか? できるなら、この問いに答えてみるがいい。

 聖書だけが私たちに神の真の姿を示している。人間は、生まれながらに神については何も明確に、あるいは完全に知ることがない。人間の神観念はことごとく低俗で、卑しく、あさましいものである。カナン人やエジプト人の神々----バビロンや、ギリシャや、ローマの神々ほど卑俗なものがありえただろうか? この現代のヒンドゥー人その他の異教徒らの神々ほど下劣なものがありえるだろうか?----聖書によって私たちは神が罪を憎まれることを知らされる。洪水による古代世界の破滅、ソドムとゴモラの焼却、パロとその軍勢の紅海における水死、カナン人の国々の聖絶、エルサレムとその神殿の転覆、ユダヤ人たちの離散、----これらはみな取り違えようのない証言である。----聖書によって私たちは、神が罪人たちを愛しておられることを知らされる。神が、アダムの堕落した日に恵み深い約束をお与えになったこと、ノアの時代に寛容を示されたこと、エジプトの国からイスラエルを解放してくださったこと、シナイ山で律法という賜物を与えてくださったこと、十二部族を約束の国に導き入れてくださったこと、士師や列王の時代に忍耐を示されたこと、その預言者たちの口を通して何度となく警告してくださったこと、バビロン捕囚後にイスラエルを回復してくださったこと、時満ちてその御子を世に遣わし、十字架上での死に至らせなさったこと、福音を異邦人に宣べ伝えよと命令なさったこと、----これらはみな雄弁な事実である。----聖書によって私たちは神が一切をご存知であることを学ばされる。私たちは神が、あることを、実際にそれが起こる何百年も何千年も前に予告しておられること、また神が予告しておられる通りにそれが実現してきたことを見ている。神はハムの家系がしもべらのしもべとなると予告なさった。----ツロが網を干す岩になること、----ニネベが廃墟となること、----バビロンが荒野となること、----エジプトがどの王国にも劣るものとなること、----エドムが荒廃し、人の住まない地となること、----ユダヤ人が諸国の民の1つとは認められないであろうことを予告なさった。こうしたことすべては、全くありそうもない、起こるとは思えないことであった。だが、すべては成就してきたのである。もう一度私は云う。こうした知識すべてのいかに広大かつ重要なことか! この《本》が霊感を受けていない人間のわざでありえようか? できるなら、この問いに答えてみるがいい。

 聖書だけが私たちに、神は堕落した人間の救いのために、十分にして、完全な、また完璧な備えをしてくださったことを教えている。それは、世の罪を償う贖いがなされたこと、そのため神ご自身の御子のいけにえと死が十字架上でささげられたことを告げている。それは私たちに、罪人のためにその《身代わり》となった御子が、その死によって、ご自分を信じるすべての者への永遠の救済を獲得なさったことを告げている。違反された神の律法の要求は、今や満足させられている。キリストは罪のために死に、正しい方が悪い人々の身代わりとなった。神は今や、ご自身が義でありながら、不敬虔な者を義とお認めになることができるようになっている。それは私たちに、今や罪の咎に対する完璧な救済策があることを告げている。----すなわち、キリストの尊い血がそれである。そして、キリストを信ずるすべての人に平安と、良心の安らぎがあることを告げている。「御子を信じる者は、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つ」*。それは私たちに、罪の力に対する完璧な救済策があることを告げている。----すなわち、キリストの御霊の全能の恵みがそれである。それは私たちに、聖霊が信仰者たちを生きた者とし、彼らを新しく造られた者とすることを示している。それは、キリストの声を聞き、キリストに従おうとするすべての者に新しい心と、新しい性質とを約束している。もう一度私は云う。こうした知識のいかに重要なことか! こうした慰めに満ちた真理すべてについて、聖書なしに私たちはどれだけ知りえようか? このような《本》が、霊感を受けていない人間の文章でありえようか? できるなら、この問いに答えてみるがいい。

 聖書だけが、私たちが周囲の世界で目にしている物事の状態を説明している。地上の多くの事がらを、生まれながらの人は説明できない。物事の驚くほど不公平な状態、----貧困と困窮、----抑圧と迫害、----騒乱と暴動、----政治家や立法者たちの失敗、----矯正されざる不正と悪弊の絶え間ない存在、----こうした事がらはみな、しばしば生まれながらの人にとって困惑の種である。彼はそれらを見ることはできるが、理解できない。しかし聖書はそれをことごとく明瞭にしている。聖書は人に、全世界が悪い者の支配下にあると告げることができる。----世を支配する者、悪魔が跋扈していること、----現在の物事の状態にあっては、完全を求めても無駄であることを告げることができる。聖書は人に、法律も教育も人間の心を決して変えられないと告げるであろう。----さながら、摩擦を計算に入れずには、だれも円滑に動作する機械を作れないのと同じように、----人間性が堕落したものであること、自分の労している周囲の世界が罪に満ちていることを常に覚えていなければ、だれも世に多くの善を施せないことを告げるであろう。聖書は人に、「良い時代」が確実にやって来ることを告げるであろう。----完全な知識、完全な正義、完全な幸福、完全な平和の時代が来つつあることを告げるであろう。しかし、聖書は、この時代をもたらすものが、再び地上にやって来られるキリストの力以外のいかなる力でもないことを告げるであろう。そして聖書は、そのキリストの再臨に備えるように人に告げるであろう。もう一度私は云う。こうした知識すべての何と重要なことか!

 こうした事がらはみな、聖書の中以外のどこにも見いだせない。おそらく私たちは、もし聖書がなければ、こうした事がらについて自分がいかに微々たる知識しか得ていなかったか、思いもよらないであろう。私たちは、自分が呼吸している空気の価値、自分を照らしている太陽の価値をほとんど知らない。それらがなければどうなるかを、一度も体験したことがないからである。私がここまで詳しく述べてきたような真理を私たちが尊ばないのは、こうした真理を啓示された人間性のどす黒さを、私たちが悟っていないからである。確かにいかなる舌も、この一巻の書物に含まれている財宝の価値を十分に告げることはできない。この事実をあなたの精神に書きとめて、忘れないようにするがいい。聖書の異様な内容は、その霊感を認めずには決して説明できない偉大な事実である。私の云うことをよく聞くがいい。内容という点において、聖書のごとき書物は全く類例がなく、他のいかなる本も聖書と同日の談ではない。これは単純にして、あからさまな事実である。聖書が霊感されていないなどと云う人は、できるものなら、この事実に筋の通った説明をつけてみるがいい。

 (b) もう1つの事実として、聖書の内容には、異様な統一性と調和がある。それは全く人間業ではない。周知のように、同時代に生きていなかった三人の人から、1つの物語を得ようとするのは非常に困難である。そこには、少なからぬ矛盾や食い違いがある。もしその物語が長いもので、おびただしい数の詳細に関わっている場合、普通の人間であれば、統一性などほとんど不可能に思える。しかし、聖書についてはそうではない。ここにあるのは、三十人は下らない別々の人間によって書かれた長大な本である。その記者たちは、ありとあらゆる社会身分と階級の人々であった。ある者は律法賦与者。ある者は軍人王。ある者は平時の王。ある者は牧夫。ある者は取税人として育てられた。----別の者は医者として、----別の者は学識あるパリサイ人として、----ふたりは漁師として、----数人は祭司として育った。彼らは、千五百年もの時間にわたって、それぞればらばらの時代に生きていた。そして、彼らの大多数は、一度も顔と顔を合わせて会ったことがなかった。だがしかし、このすべての記者たちの間には、完全な調和があるのである。彼らの文章はみな、あたかもひとりの人の言葉を書き取っていたかのようである。文体や筆跡は異なるかもしれないが、彼らの著作を流れている精神は常に同一である。彼らはみな同じ物語を語っている。彼らはみな人間について同じ説明をしている。----神について同じ説明を、----救いの道について同じ説明を、----人間の心について同じ説明をしている。あなたは、彼らの書いたものを巻を追って読み進めるうちに、真理が彼らの手によって述べられているのを見てとるであろう。----だが、決してあなたは、如実な矛盾だの、見解の不一致だのは1つもその存在を発見しないのである。

 この事実を私たちの精神に書きとめ、よくよく思い巡らそうではないか。この統一性は偶然の産物かもしれない、などと云わないでほしい。そのようなことを信じられるのは、きわめて軽はずみな人間だけである。私たちの前にある事実に対して、満足のいく説明は1つしかない。----聖書は人から出たものではなく、神から出ているのである。

 (c) 別の事実として、聖書の文体には、異様な知恵と、崇高さと、尊厳がある。これは人間業を超えている。実に不思議、かつ、考えられないことではあるが、聖書の記者たちが生み出した本に比肩しうるものは、今日においてすら、全く存在していないのである。私たちの誇るあらゆる科学、芸術、学識上の達成にもかかわらず、それらは、私たちの聖書にくらべられるようなものを何1つ生み出すことができない。1877年の現時点においてすら、この本はいかなる類例も見ないままである。この本の調子、文体、思想の基調は、これを他のあらゆる書き物から全く別の次元に置くものである。ここには何の弱点も、汚点も、瑕疵も、傷もない。いかに最上のキリスト者の著作にも見いだされるような弱さや、不十分さは何1つ混入していない。そのあらゆるページには、「聖なる、聖なる、聖なるかな」、と記されているように思われる。聖書を、他のいわゆる「聖典」----コーランやサストラ、あるいはモルモン教典など----と比較するというような話は、愚にもつかないほどばかげている。それは、太陽を灯心草ろうそくとくらべるようなもの、----あるいは、スキドー山をもぐらづかと、----聖ポール大寺院をアイルランドのあばら屋と、----ポートランド石の花瓶を植木鉢と、----王室秘蔵のコイヌール・ダイヤモンドをビー玉とくらべるようなものである*1。神がこうした偽りの啓示の存在を許しておられるのは、思うに、ご自分のことばのはかり知りがたい優越性を証明するためであろう。聖書の霊感は、ホメーロスや、プラトンや、シェイクスピアや、ダンテや、ミルトンの著作と、その程度においてしか異なっていないなどというのは、冒涜的な愚劣さの一片にほかならない。正直に、かつ偏見のない目で読むいかなる人も、聖書とその他の本との間には、人間にとって底知れない深淵が口を開いていることを見てとらざるをえない。聖書から他の著作に目を転ずるとき、あなたは雰囲気ががらりと変わるのを感じるはずである。あなたは、黄金と卑金属を引き替えにし、天と地を引き替えにしたような気分になる。では、この大きな差異は、いかにして説明できるだろうか? 聖書を書いた人々に特別に有利な点は何1つなかった。彼らは文明の地から遠く隔たった辺地に住んでいた。彼らの大多数は、余暇も、書物も、知識も----この世が知識とみなすような知識は----ほとんど持っていなかった。だが、彼らの書きつづったこの本に比肩しうるものはないのである! この事実を説明する道は1つしかない。----彼らは神の直接的な霊感のもとで書いたのである

 (d) 別の事実として、聖書の中の種々の事実や言明には、人間業を超えた異様な正確さがある。ここにあるのは、千八百年前に完成し、それ以来、世界中の目にさらされてきた一冊の本である。この千八百年間は、有史以来、最もあわただしく、最も変化に富んだ期間であった。この期間には、この上もなく大きな科学上の発見がいくつもなされ、この上もなく大きな変化が社会のあり方や慣習の上にもたらされ、この上もなく大きな改善が生活上の習慣やならわしの上に及ぼされた。私たちの先祖たちを満足させ、喜ばせていたものでありながら、私たちがとうの昔に、時代遅れで、役立たずで、古くさいものであるとして捨て去った物事は、何千何百とあげることができるであろう。法律も、書物も、家屋も、家具も、衣裳も、武器も、機械も、引き続く各世紀の営みも、それに先立つ世紀のありように対して、絶え間ない改善が加えられてきたものである。ほとんどいかなるものについても、欠点や弱点が何ら発見されないということはなかった。ほとんどいかなる制度についても、一連のふるい分けや、きよめや、洗練や、単純化や、改革や、改善や、変化を経なかったことはなかった。しかし、こうしたすべての間、人々は聖書の中にいかなる弱点も欠陥も発見しなかった。不信心者がいかに聖書を攻撃しようと、それは無駄であった。今も聖書は立ち続けている。----千八百年前と同じくらい完全で、清新で、欠けないものとして立ち続けている。知能の発達は、決して聖書に追いつけなかった。賢者たちの知恵は、決して聖書を追い越せなかった。哲学者たちの科学は、決して聖書の誤りを証明しなかった。旅行家たちの発見は、決して聖書に過誤ありとの判決を下せなかった。----太平洋の遠い島々のあり方は、今や人々に知られているだろうか? 聖書の人間の心についての記述と矛盾するようなことは、これっぽっちも見いだされていない。----ニネベやエジプトの廃墟は引っかき回され、探り究められているだろうか? 聖書の歴史的叙述をくつがえすようなことは一点一画たりとも見いだされていない。----この事実に、私たちはいかなる説明をつけるだろうか? 一体だれが、これほど浩瀚な、これほど多種多様な主題を扱っている本が、千八百年経っても、過誤の言明を全く含んでいないことがわかるなどと考えられただろうか? この事実に対して与えることのできる説明は1つしかない。----聖書は神の霊感によって書かれたのである

 (e) 別の事実として、聖書の中には、異様に全人類の霊的欲求に適したものがある。これは、あらゆる身分や階級、あらゆる国や気候、あらゆる時代や人生の時期における人間の心に、ぴったりとあてはまる。これは、現存する本のうちでも、決して場違いにも時代遅れにもならない唯一の本である。他の本は、ある程度の時間が経つと、すたれた、古くさいものとなってしまうが、聖書は決してそうではない。他の本は、特定の国か民族には適合しても他の国や民族には適合しないが、聖書はあらゆる国と民族に適合する。これは、金持ちや哲学者のための本であるのと全く劣らず、貧乏人や無学な者たちのための本である。これは、掘っ立て小屋に住む労務者の精神の糧となると同時に、ニュートンや、チャーマズや、ブルースターや、ファラデーといった巨大な知性の持ち主たちをも満足させる。マコーレー卿や、ジョン・ブライトや、『タイムズ』紙の華々しい記事の著者たちはみな、同じ書物の恩恵をこうむっている。これは、南半球の回心したニュージーランド土人からも、寒冷の北米に住むレッド川インディアンからも、熱帯の太陽のもとにあるヒンドゥー人からも、等しく尊ばれている。

 さらにこれは、常に清新で、新鮮で、さわやかに思われる唯一の本である。千八百年もの間、聖書は、何千何百万ものキリスト者たちによって個人的に学ばれ、祈りを積まれ、また、何万何千もの教役者たちから解き明かされ、説明され、説教されてきた。教父たちや、スコラ神学者たちや、宗教改革者たちや、ピューリタンたちや、現代の神学者たちは、絶え間なく聖書の鉱脈を掘り進めてきたが、まだ決してそれを汲み尽くしてはいない。これは決して干上がることのない泉、決して不作になることのない畑である。これは、それが最初に完成された頃のギリシャ人やローマ人の精神と良心にあてはまったのと全く同じくらい十分に、十九世紀のキリスト者たちの精神と良心にもあてはまる。これは、ペルシスや、ツルパナや、ツルポサに適していたのと同じく、「酪農夫の娘」にも適している。----また、シエラレオーネで回心したアフリカ人に適しているのと同じく、英国人貴族にも適している。これは今なお、キリスト教信仰を学び始めた子どもたちの精神にうってつけの最初の本であり、世を去りつつある老人がすがりつく最後の本である*2。つまり、これは、あらゆる時代、身分、気候、精神、状況に適しているのである。これこそ世界に適する唯一の本である。

 さて、いかにすれば私たちは、この異常な事実を解説できるだろうか? 何か満足のいく説明をつけられるだろうか? 考えられる解説、説明は1つしかない。----聖書は天来の霊感によって書かれたのである。これは世界の本である。なぜなら、これを霊感なさったお方は、世界を形作ったお方、----1つの血からすべての国の人々を造り出したお方、----人間の共通した性質をご存じのお方だからである。----これはあらゆる心のための本である。なぜならこれを口述なさったお方は、ただひとり、あらゆる心をご存じで、あらゆる心の必要としていることを知っておられるからである。これは神の書なのである

 (f) 最後に、しかしこれも重要で明白な事実として、聖書は、それが知られ、教えられ、読まれている国々の状態に、きわめて異様な影響力をもたらしてきた

 私は、正直な心持ちをしたあらゆる読者に、世界地図を眺めてみるよう勧めたい。そして、その地図がいかなる物語を告げているか見てとってほしい。現時点の世界において、どこよりも大量の偶像礼拝か、残虐さか、暴政か、不潔さか、悪政か、人命と自由と真実に対する軽視をきわだたせているのは、いかなる国々だろうか? まさしく聖書が知られていない国々である。----現時点におけるいわゆるキリスト教国の中で、どこよりも大量の無知と、迷信と、腐敗とが見いだされるのは、いかなる国々だろうか? 聖書が禁書とされているか、かえりみられていない国----スペインや、南米諸国----である。自由と、公私双方における道徳性とが、どこよりも高い程度に達しているのは、いかなる国々だろうか? 聖書が万人に自由に開かれている英国や、スコットランドや、ドイツや、米国といった国々である。しかり! ある国が聖書をいかに扱っているかがわかれば、概してそれがいかなる国であるかはわかるのである。

 しかし、それですべてではない。さらに身近な例を眺めてみよう。今の世界で治安を維持するために、どこよりも少数の兵士や警察しか必要としていないのはいかなる都市だろうか? ロンドン、マンチェスター、リヴァプール、ニューヨーク、フィラデルフィア、----聖書がそこら中にあふれている都市である。----欧州諸国の中で、どこよりも殺人や私生児の出生が少ないのはいかなる国々だろうか? 聖書が自由に読めるプロテスタント諸国である。----世界中の教会や宗教団体の中で、どこよりも光を伝播し暗闇を追い散らすことに大きな成果を挙げているのは、いかなる組織だろうか? 聖書を重んじ、それを神のことばとして教え、宣べ伝えている教会や宗教団体である。ローマカトリック教徒や、新解釈派や、ソッツィーニ主義者や、理神論者や、懐疑論者や、単なる世俗的教えの支持者たちは、決して私たちに、いかなるシェラレオーネも、いかなるニュージーランドも、いかなるティルネルヴェリも、彼らの原則の成果として示したことがない。それができるのは、聖書を神のことばとして尊び、敬っている私たちだけである。この事実もまた覚えておこう。聖書の《天来の》霊感を否定する人は、できるものならこの事実を説明してみるがいい*3

 私は、聖書に関するこの6つの事実を読者の前に置き、それらを熟考してほしいと願うものである。この6つすべてを合わせて考え、それらを公平に扱い、正直に眺めてみるがいい。天来の霊感という原理以外のいかなる原理に立っても、これらの6つの事実は、私には説明不可能なもの、解説不能なものと思われる。ここにあるのは、世界の片隅にいた、一連のユダヤ人たちによって書かれた、他に全く類例を見ない本である。その記者たちは、単に他の国民から独特のしかたで孤立し、切り離されていたばかりでなく、彼らの属していた民族は、聖書の他、決していかなる著名な本も生み出したことがなかった! 何の助けも受けず、独力で放置されたならば、彼らがギリシャ人やローマ人のように卓越した文学作品を著述できたなどという証拠はこれっぽっちもない。だが、これらの人々が世界に与えた書物は、その深遠さと、統一性と、崇高さと、正確さと、人間の欲求に対するふさわしさと、その読者に影響する力とにおいて完全に比類ないものなのである。これはいかにして説明できるだろうか? これをいかに解説できるだろうか? 私の考えるところ、その答えは1つしかない。聖書の記者たちは、彼らの行なった働きのために、天来の助けを受け、それにふさわしい資質を授けられたのである。彼らが私たちに与えた本は、神の霊感によって書かれたのである*4

 私に云わせてもらえば、キリスト者たちは、懐疑論者や、不信者や、聖書の敵たちを相手にする際、あまりにも守勢にだけ回りがちであると思う。彼らはあまりにもしばしば、聖書の中からつまみだされて、引き合いに投げつけられた、あれこれの小さな反論に答えたり、あれこれの小さな困難を論ずるだけで満足してしまう。だが私の信ずるところ、私たちは、今よりもはるかに攻勢に出るべきであり、霊感を敵視する者たちに、彼ら自身の立場の途方もない困難さをつきつけるべきである。もし彼らが、聖書を天来の権威から出たものであると認めないというなら、一体全体いかにして聖書の起源と性質を説明できるのかを、私たちは彼らに問いただす権利がある。私たちにはこう云う権利がある。----「ここにある本は、ひととおり調べれば済むようなものではなく、精密な研究がなされなくてはならないものである。私たちはあなたに申し入れたい。いかにしてこの《本》が書かれたのかを、私たちに告げてほしい」、と。----いかにして彼らは、この《本》を説明できるだろうか? これほど他に類例を見ず、これほどこれに比肩しうるもの、これに似たもの、これに近いもの、これと一瞬でもくらべられる資格を持つものが他に一冊もないこの本を。私は彼らに大胆に要求する。あなたがた自身の原則に立った合理的な答えを何か出してみよ、と。私たちの原則に立つならば、それはできる。私たちに向かって、聖書は、何の助けも受けていない人間の精神でも書かれることができたはずだ、などと告げるのは、悪い冗談である。否、冗談よりも悪い。それは、軽はずみな盲信のきわみである。つまり、不信仰に伴う困難は、信仰に伴う困難よりもはるかに大きいのである。疑いもなく、聖書を神のことばとして受け入れても、「理解しにくい」事がらはある。しかし、結局のところそうした困難は、ひとたび霊感を否定しなら、たちまち途上に立ち上がり、解決を求めてやまない困難な事がらにくらべれば、何ほどのものでもない。他に選択肢はない。人々に選びうる道はただ2つ。はなはだありそうもない事がらをいくつも信じ込むか、あるいはこの一般的な真理、すなわち、聖書は神の霊感されたことばであることを受け入れるか、である

 II. 私が考察したいと思う第二のことは、聖書が霊感されている範囲である。一般的な真理として、聖書が《天来の》霊感によって与えられたことを受け入れた上で、私は、その記者たちがどこまで、また、いかなる程度まで《天来の》助けを受けていたのかを吟味したい。つまり、私たちが聖書を「神のことば」として語るとき、それは、正確にはいかなることを意味しているのだろうか?

 これは、疑いもなく困難な問いかけであり、最良のキリスト者たちも完全には合意しない事がらの1つである。あからさまな真実を云うと、霊感とは1つの奇蹟なのである。そして、あらゆる奇蹟と同じく、そこには私たちが完全には理解できない部分が多々ある。----私たちはこれを、偉大な詩人や著述家が有している類の知力と混同してはならない。シェイクスピアや、ミルトンや、バイロンが、モーセや聖パウロと同じように霊感されていたなどと語るのは、私の考えるところ、ほとんど神聖冒涜である。----また私たちは、これを初代教会における初期のキリスト者たちに授けられた種々の賜物や恵みと混同してはならない。使徒たち全員は説教し奇蹟を行なうことができたが、その全員が霊感されて聖書を書きはしなかった。----私たちはむしろこれを、全人類の中の約三十名の者たちに特別に授けられた、超自然的賜物であるとみなさなくてはならない。それが授けられたのは、聖書を書くという特別な務めにふさわしい資質を彼らに与えるためであった。そして私たちは、奇蹟に関わるあらゆることと同様、それを信じることはできても、完全に説明することはできないということを認めて満足しなくてはならない。もし説明がつくとしたら、奇蹟は奇蹟ではないであろう。奇蹟が可能であることを、私はわざわざここで証明するつもりはない。私がそうした主題について心を悩ますとしたら、それは、奇蹟を否定する人々が、キリストの死者の中からのよみがえりという偉大な事実と公平に取り組むようになってからである。私の堅く信ずるところ、奇蹟は可能であり、何度もなされてきた。そして、そうした数々の偉大な奇蹟の間に私は、人々が神の霊感の下で聖書を書いたという事実を置くものである。それゆえ私は、霊感が奇蹟である以上、そこには種々の困難が伴っており、現在のところ完全にはそれを解決できないと率直に認めるものである。

 聖書の記者たちが霊感によって記述している間、その精神がどのようなしかたで働いていたかを私は、正確に説明するふりはしない。おそらく彼ら自身、それは説明できなかったであろう。ただし私が一瞬たりとも認めないのは、彼らが筆を握った機械でしかなく、さながら印刷所の植字機のように、自分が何をしているかを理解していなかった、という説明である。私は、霊感の「機械的な」理論、すなわち、モーセや聖パウロといった人物が、聖霊によって用いられた、風琴の音管程度のものでしかなかったとか、無知な秘書か写字生のように、自分の理解しもしていないことを口述で書きとらされていた、などという考え方を忌み嫌うものである。私は、そうした類のいかなることをも認めない。私の信ずるところ、聖霊は、何らかの驚嘆すべきしかたによって、聖書各巻の記者の理性と、記憶と、知性と、思考様式と、各自の精神的気質とをお用いになったのである。しかし、これがいかにして、またいかなるしかたでなされたのかを私は説明できない。私たちのほむべき主イエス・キリストのご人格における、神と人との二性の結合を説明できないのと同じくらい説明できない。私にわかっているのはただ、聖書には《天来の》要素と、人間的な要素の双方があり、それを書いた人々は確かに現実に、また真に人間ではあったものの、彼らが書いて私たちに伝えた本は現実に、また真に神のことばである、ということである。私は結果はわかっているが、その過程は理解できない。その結果とは、聖書が書かれた神のことばであるということである。だが、その過程を私は説明できない。いかにしてカナで水が葡萄酒になったか、あるいは、いかにして5つのパンが五千人の人々を満腹させたのか、あるいは、いかにしてラザロが一言で死者の中からよみがえらされたのかを説明できないのと同じくらい説明できない。私は奇蹟を説明できるふりはしないし、霊感という奇蹟的な賜物を完全に説明できるふりもしない。私が採っている立場によれば、確かに聖書記者たちは、一部の人々が冷笑しつつ云うような「機械」ではなかったものの、神が彼らに書くように教えられたことだけを書いたのである。聖霊は、彼らの精神に、種々の思想と観念を吹き入れて、それから彼らがそれらを書く際に、彼らの筆先を導かれたのである。聖書を読む人は、私たち自身と同じように誤りがちな人間たちが独力で、自ら考え出した文章を読んでいるのでなく、永遠の神によって示唆された思想と言葉を読んでいるのである。聖書をしたためるために用いられた人々は、自分から語ったのではない。「聖霊に動かされ」て語ったのである(IIペテ1:21)。聖書を手にしている人は、自分が手にしているものが「人間のことばではなく、神のことば」*であると知るべきである(Iテサ2:13)。

 聖書が霊感されている正確な範囲に関しては、私もキリスト者たちの意見が大きく隔たっていることを認めるのにやぶさかではない。この主題について提示されている見解の中には、私の見るところ、極端に誤ったものがある。私は自分自身の意見を示し、それを主張する理由を述べることから尻込みするものではない。こうした事がらにおいては、いかなる人をも先生と呼ぶつもりはないからである。信仰上の問題で、有能かつ才能ある人々と意見を異にするのは痛ましいことだが、私は、自分の頭と心が不健全であると告げているような霊感説をあえて採ろうとは思わない。いかに著名で尊ばれている人々がそうした見解を奉じていようと同じである。私が良心において信ずるところ、この主題に関する卑俗で、欠陥のある見解は、この終わりの時代、キリストの御国の進展にとって途方もない害悪を及ぼしつつある。

 一部の人々の主張によると、聖書の中のある巻は全く霊感されておらず、普通の人の書いた書き物にまさって、私たちの畏敬を要求するいかなる権利もない。他の人々は、ここまで云うことはなく、聖書の全巻が霊感されていると認めはするものの、その霊感は単に部分的なものであって、ほとんどすべての巻に、霊感されていない部分があると主張している。----他の人々の主張によると、霊感とは一般的な監督と方向指示だけを意味しており、確かに聖書記者たちは、救いに必要な大きな事がらや問題においては過誤を犯すことから奇蹟的に守られたとはいえ、重要でない事がらにおいては、他の著述家と同様に、自前の、何の助けも受けていない精神機能に頼るにまかされたのだという。----ある人々の主張によると、聖書中のあらゆる観念は霊感によって与えられたが、それらがまとっている用語や言葉遣いはそうではない。----観念を用語からいかにして切り離せるのか私には理解しがたいが!----最後に、ある人々は、聖書全体がことごとく霊感されているとは認めるが、だがしかし、記者たちが時たまその言明において誤りを犯すことはありえたし、そうした誤りは今日においても存在していると主張する。

 こうした見解のすべてに対して私は、完全に、徹底的に、意見を異にするものである。これらはみな私にとっては、多かれ少なかれ欠陥のあるもの、真実以下のもの、その傾向において危険なもの、深刻かつ打ち勝ちがたい数々の難点にさらされているものと思われる。私の主張する見解は、聖書のあらゆる巻、章、節、文節が、初めから神の霊感によって与えられた、というものである。私の信ずるところ、単に聖書の実質のみならず、その言葉遣いが、----単に聖書の観念のみならず、その用語が、----単に聖書の特定の部分のみならず、この本のあらゆる章が、----これらすべてが、それぞれ《天来の》権威から出ているのである。私の信ずるところ、聖書は単に神のことばを含んでいるだけならず、聖書そのものが神のことばなのである。私の信ずるところ、創世記の物語や言明、また歴代誌の一覧は、『使徒の働き』と全く同じくらい真実に霊感によって書かれている。私の信ずるところ、エズラの二十九の香炉や、聖パウロの上着や羊皮紙に関する伝言は、出エジプト20章や、ヨハネ17章や、ロマ書8章と同じように《天来の》指示のもとで書かれたのである。覚えておいてほしいが、私もこうした聖書箇所のすべてが、私たちの魂にとって同等に重要なものであるとは云っていない。決してそのようなことはない! しかし私が云っているのは、それらはみな同等に霊感によって与えられた、ということである*5

 このように言明するにあたり私は読者に、私の意図を誤解しないように願いたい。私は旧約聖書がヘブル語で、新約聖書がギリシャ語で書かれたことを忘れてはいない。私の強く主張する、あらゆる言葉の霊感とは、聖書が最初に書き記された際の、原典におけるあらゆるヘブル語およびギリシャ語の霊感である。私が弁護しているのは、それ以上のことでもそれ以下のことでもない。私は、神のことばの多種多様な版や翻訳におけるあらゆる言葉の霊感を奉じているなどと主張してはいない。こうした翻訳や版が忠実かつ正確になされている限りにおいて、それらは原典のヘブル語およびギリシャ語と同等の権威を有しているのである。私たちは、こうした翻訳の多くがおおむね忠実で正確なものであることを神に感謝すべき理由がある。いずれにせよ、私たちの英語訳聖書は、完璧なものではなくとも、相当に正確なものであって、それを読んでいるとき私たちは、自分が母国語で、人間の言葉ではない、神のことばを読んでいるのだと信ずる権利を有している。

 さて、私が強く主張しているこの見解----聖書のあらゆる言葉が霊感されているとする説----は、多くの善良なキリスト者たちの受け入れるところではなく、多くの方面で痛烈に反駁されている。それゆえ私は、なぜそれが私には、採ることのできる唯一安全な筋道だった見解、無数の難点から免れている唯一の見解であると思われるのか、といういくつかの理由に言及しよう。たとえそう主張することにおいて私が誤っていたとしても、何はともあれ私には、自分が善良な仲間たちと同じ誤りを犯しているという慰めがある。私は、ほとんどすべて教父たちが占めたのと同じ立場をとっているにすぎない。それはジューエル主教が、フッカーが、オーウェンが、はるか昔にとった立場である。チャーマズが、ロバート・ホールデーンが、ゴサンが、ワーズワース主教が、マコールが、バーゴンが、アイルランド教会のリー大執事が、現代でも立派に擁護している見解である。しかしながら、人間の精神が多種多様な成り立ちをしていることは私も知っている。ある人々にとって重く見える議論や理由が、別の人々にとっては何の重みもない。私はただ、私を満足させている理由を順々に書きとめておくことで良しとしよう。

 (a) 1つのこととして、もし聖書がすべて霊感されておらず、何らかの欠陥や不完全さが含まれているとしたら、私には、いかにして聖書が信仰と行為との完全な基準となりうるのかがわからない。聖書を何か一言で云い表わせるとしたら、それは神の国の法令集である。----その国の臣民が守って生きるべき法律や法規の法典である。----彼らがいま平安を持ち、死後に栄光を持てる条件を明記した登記証書である。では、なぜこのような本が、地上の法律証書の作成よりも、いいかげんに、また不完全なしかたで作成されたと考えるべきなのだろうか? どんな法律家に聞いても私たちは、法律証書や法令集においては、あらゆる言葉が重要なものであり、財産や、人の生死が、しばしばほんの一語にかかっているものだ、と告げられるであろう。考えてみるがいい。もしも遺言状や、財産授与証書や、不動産譲渡証書や、合弁事業証書や、借用証書や、契約書や、国会制定法が、注意深く作成されることも、注意深く解釈されることも、あらゆる言葉が正当な強調をもって読まれるのを許されることもないとしたら、いかなる混乱を招くことか。もしもある文書中の特定の語句が何事をも指しておらず、だれでも自由にその文書中に語句を追加したり、取り除いたり、変更したり、何らかの語句の効力を否定したり、好き勝手に削除したりできるとしたら、そのような文書が何の役に立つだろうか? そのようなことでは、私たちは、自分の法律文書を全く放り出してよいであろう。私たちが永遠を取得する権利証書を含んでいる本の中では、一言一句が霊感されたものであり、一言も不完全な語句は入り込んでいない。そう期待する権利が私たちにはあるはずである。もし神の法令集が霊感されておらず、あらゆる言葉が《天来の》権威から出ていないとしたら、神の臣民はあわれむべき状態に置かれているのである。この議論は重いと思う。

 (b) 別のこととして、もし聖書が完全には霊感されておらず、不完全な部分を含んでいるとしたら、私は聖書そのもののページ上で聖書についてしばしば用いられている言葉遣いを理解できない。たとえば、「神のことば」----「(神により)こう言われています」----「(神は)こう言われます」----「聖霊が預言者イザヤを通して……語られた」----「聖霊が言われるとおりです。『きょう、もし御声を聞くならば』」----こういった云い回しは、私の見るところ、傷や、欠陥や、誤りが時たま含まれているような本についてあてはめられているとしたら、説明しようのない、とっぴなものに思われる(使7:38; ロマ3:2; ヘブ5:12; Iペテ4:11; エペ4:8; ヘブ1:8; 使28:25; ヘブ3:7; 10:15; ロマ9:25)。だが、いったん聖書のあらゆる言葉が霊感されていると認めるならば、こうした言葉遣いが見事に適切なものであることはわかる。私に理解できないのは、「聖霊」が間違いを犯したり、「神のことば」に何か欠陥が含まれていたりするなどという考えである! もしだれかが、聖霊は常にイザヤによって語りはしなかったのだ、と答えるとしたら、私はこう尋ねるであろう。聖霊がいつお語りになり、いつお語りにならなかったのかを、だれが決定するのか、と。この議論は重いと思う。

 (c) 別のこととして、私の見るところ、聖書が神の霊感によって与えられたものではないという理論は、徹底的に、新約聖書の中に見られる旧約聖書からの種々の引用と矛盾している。私が云っているのは、その箇所全体の趣旨が、ただ一語にのみかかっているような引用句のことである。一例では、ある名詞の複数形ではなく単数形が用いられていることに、全体の趣旨がかかっていることさえある。たとえば、次のような引用句を取り上げてみるがいい。「主は私の主に言われた」(マタ22:44)。----「あなたがたは神である」(ヨハ10:34)。----「約束は、アブラハムとそのひとりの子孫に告げられました。神は『子孫たちに』と言って、多数をさすことはせず、ひとりをさして、『あなたの子孫に』と言っておられます。その方はキリストです」(ガラ3:16)。----「主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。『わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう。』」(ヘブ2:11、12)。----こうした場合のすべてにおいて、引用句の急所となっているのは、ただの一語なのである*6。しかし、こうしたことが云える以上、いかなる原則に立てば聖書の言葉すべての霊感を否定できるのか、理解しがたいものがある。いずれにせよ、逐語霊感説を否定する人々は、どの言葉が霊感されていて、どの言葉が霊感されていないかを私たちに示すことに困難を覚えるであろう。だれが線引きをするのか? また、どこに線を引くべきなのか? この議論は重いと思う。

 (d) 別のこととして、もしも聖書の言葉のすべてが霊感されていないとしたら、論争の武器としての聖書の価値は大いに損なわれる。へたをすると、全く無価値なものとなってしまう。衆知のように、ユダヤ人や、アリウス主義者や、ソッツィーニ主義者との議論において、私たちが彼らへの反証として引用する聖句の急所は、しばしばただの一語にかかっているのである。だが、もし敵対相手が、私たちの議論の基盤となっている何らかの聖句の、その特別な一語が、記者の誤りであり、それゆえ何の権威もないと主張したら、私たちは何と答えるだろうか? 私が思うに、この反論は致命的なものと思える。いったん私たちが、それぞれの聖句を組み立てている一言一言が必ずしも霊感によって与えられたものではないと認めるや否や、そうした聖句を引用することは何の役にも立たなくなる。私たちが頼りにできる何か確固たる基準がない限り、舌をつぐんだ方がましであろう。もし私たちの口が、「その聖句は霊感されていないのだ」、という反駁によってふさがれてしまうのだとしたら、いかなる論陣を張っても無駄骨折りである。この議論は重いと重う。

 (e) 別のこととして、逐語霊感説を放棄することは、私の見るところ、聖書が有する公の説教と教えの器としての有用性をだいなしにしてしまう。ある聖句のあらゆる言葉が霊感されていると信じていないとしたら、その聖句を選んで公の語りかけの主題とすることが何の役に立つだろうか? 聖書の記者たちが、特定の言葉の用い方において誤りを犯したことがありえるという考えを、いったん私たちの聴衆に握らせてしまったが最後、彼らは、言葉に基づいたいかなる叱責も、勧告も、注意も、ほとんど意に介さなくなるであろう。----彼らは私たちに尋ねるであろう。「あなたが昨日あれほど大騒ぎをしていたあの言葉が、聖霊によって与えられたものであると、どうしてあなたにわかるのですか? 聖パウロが、聖ペテロが、聖ヨハネが間違っていなかったと、また誤った言葉を使わなかったと、どうしてあなたにわかるのですか? 彼らが言葉に関して誤りを犯すことがありえたことは、あなた自身認めているではありませんか?」、と。----他の人がどう考えるかはわからない。だが私のことを云えば、私には返す答えがない。この議論は重いと思う。

 (f) 最後に、しかしこれも重要なこととして、逐語霊感説を否定することは、私の見るところ、聖書を個人的に読むことが有する、慰めと教えの源泉としての有用性を大きく損なってしまう。真のキリスト者のうち、聖書を日々学ぶ中で、ある日の聖書箇所から引き出せる益の大きな部分が、ある特定の言葉や語句に存していることを知らない者がどこにいるだろうか? 多くの愛唱聖句のいかに大きな価値が、特定の一語句か、名詞の単複か、動詞の時制にかかっていることであろう。悲しいかな! いったん逐語的に霊感されてはいないと認めるや否や、こうしたすべてのことには終止符が打たれるであろう。これまで私たちが非常に愛し、好んできた何らかの名詞や、動詞や、代名詞や、副詞や、形容詞は、私たちがどう考えるかに関わりなく、使徒の誤りであり、人間の言葉であり、神から出たことばではないと認めるや否や、そうなるであろう! 他の人がどう考えるかはわからないが、私のことを云えば、私は自分の聖書を絶望しきって投げ捨て、すべての人の中で最もみじめな人間になるであろう。この議論は重いと思う。

 さて私は、多くの卓越したキリスト者たちが、私の主張する見解には数々の深刻な難点が伴っていると考えていることを認めるのにやぶさかではない。一般的に云って聖書が霊感によって与えられたものであること、それは彼らも堅く主張している。しかし、彼らは、霊感が聖書のあらゆる言葉にまで及んでいると主張することには尻込みする。私はこうした立派な人々と意見を異にすることを残念に思う。しかし、私には彼らの反論に重みや力があるとは思えない。公平に、また正直に吟味するとき、それらは私が曇りなく納得できるものではないのである。

 (a) ある人々の反論によると、聖書の中には、時たま歴史の事実と矛盾する言明があるという。そうした言明もみな、逐語的に霊感されているのだろうか?----私は答える。それは主張するのは簡単だが、証明するのははるかに困難なことである、と。ありとあらゆるものの中でも、太古の歴史に関する信頼の置ける遺物ほど稀少なものはなく、もし霊感されていない古代史と聖書の歴史とが食い違うように思われるとしたら、概して安全で賢明な道は、聖書の歴史を正しいと信じ、他の歴史を間違っていると信ずることである。いずれにせよ、アッシリヤや、バビロンや、パレスティナや、エジプトにおいてなされた近代のあらゆる調査の示すところ、神のことばの完全な正確さが異様なほど確証される傾向にあることは、無類の事実なのである。故スミス氏がバビロンで行なった踏査は、私の意図していることの著しい一例である。そこに埋蔵されていた数々の証拠は、さながら神が、この終わりの時代のために保管しておいたもののように思われる。もし聖書の歴史とその他の歴史が現時点では一致しないとしたら、最も安全なのは将来の進展を待つことである。

 (b) ある人々の反論によると、聖書の中には、時たま自然科学の事実と矛盾する言明があるという。そうした言明もみな、逐語的に霊感されているのだろうか?----やはり私は答える。それは主張するのは簡単だが、証明するのははるかに困難なことである、と。聖書が書かれたのは、地質学や、植物学や、天文学や、系統だった鳥類や昆虫や動物に関する記述を教えるためではない。それで聖書は、こうした主題に関わる問題では、賢明にも、一般人が理解できるような、通俗的な言葉遣いを用いているのである。だれも王立天文台長が「日の出、日の入り」などと語っているからと云って、彼が科学と矛盾しているなどと云おうとは考えまい。もしも聖書がいずれかの箇所で、地球は平べったい平面であるとか、----それは固定された球体であってその回りを太陽が回っているとか、----それがアダムとエバ以前にはいかなる状態においても存在していなかったとか語っていたとしたら、----この反論にも聞くべき点はまだあるかもしれない。しかし、聖書は決してそのようなことを語っていない。それは科学的な主題を目に見える通りに語っている。しかし、それは決して科学と真っ向から矛盾してはいない*7

 (c) ある人々の反論によると、聖書の中には、時たまとっぴで、ばかげた、また信じられないような言明があるという。本気で自分たちは、エバが蛇の形をした悪魔によって誘惑されたと信じなくてはならないのだろうか?----ノアが箱舟によって救われたと、----イスラエル人が2つの水の壁となった紅海の間を横断したと、----バラムのろばが口をきいたと、----ヨナが現実に鯨の腹に呑み込まれたと信じなくてはならないのだろうか? こうした言明もみな、霊感されているのだろうか?----私は答える。キリストの使徒たちはこうした事がらを歴史的事実として語っており、彼らは私たちよりもずっとそれらが真実であったかどうかを知っていたはずである、と。結局のところ、私たちは奇蹟を信じているのだろうか? 信じていないのだろうか? 私たちはキリストご自身が死者の中からよみがえったと信じているのだろうか? まず、この壮大な奇蹟だけに限定して考えてみよう。そして、できるものならそれが虚偽であると証明してみよう。もし私たちがキリストの復活を信ずるとしたら、物事が奇蹟的だからという理由でそれらに反対するのは愚かである。

 (d) ある人々の反論によると、聖書の中には、時たま、あまりにも取るに足らない、霊感されていると呼ばれる値うちなどないような事がらが言及されているという。彼らは、聖パウロが自分の上着や、書物や、羊皮紙について書いていることを指摘し、彼がこうした些細なことを神の霊感によって書いたと本気で信じているのかと私たちに尋ねる。----私は答える。神の子どもたちに関わることであれば、いかに些細なことであっても、「私たちの頭の毛さえも数えておられる」お方の注意を引くのに小さすぎることはない、と。この上着と羊皮紙には、ロバート・ホールデーンがその《天来の啓示の証拠》に関する著書で非常な説得力を持って示しているように、この上もなくすぐれた、また徳を建て上げる数々の教訓が含まれている。結局のところ、人間は、神にとって何が大きなものであり、何が小さなものであるかについてほとんど知らない。「力ある猟師」ニムロデの生涯は、創世記ではたった3節であっさり片づけられているのに、アブラハムと呼ばれる天幕住まいのシリヤ人の生涯は、14章にもわたっているのである。自然という書物を顕微鏡で眺めてみるときわかるのは、神の手が、レバノンの杉に劣らず、スコーフェルの頂上に生えている、いかにちっぽけな地衣類にも及んでいる、ということである。聖書という書物の中でも、これほど取るに足らないものはないと思われるほど些細なことは、この真理を最も驚くべきしかたで確証していることかもしれない。ペイリはこのことをその『パウロの時間論』の中で、ブラント教授はその『意図せざる偶然の一致』の中で見事に示している。

 (e) ある人々の反論によると、聖書の歴史の一部、特に四福音書の中には、互いに調和できず、符合できない、重大な矛盾点がいくつもあるという。こうした場合にも、あらゆる言葉が霊感されているのか? 記者たちは何の間違いも犯さなかったのか? そう彼らは問う。----私は答える。こうした矛盾点の数は、はなはだしく誇張されており、多くの場合、それらは単に見かけ上の矛盾でしかない。それも、ほんの少し常識を働かせれば消え去るものである。それらのうち最も困難な場合でさえ、通常の公平さを発揮して、こう思い出すべきなのである。すなわち、きわめてありうべきこととして、もしも、私たちには隠されている何らかの状態が、ひとたび明らかになりさえすれば、すべてを完全に調和させることになるのかもしれない、と。現代においても、非常にしばしば、ふたりの正直な、真実を語る人が、1つの長い話を別々に行なうときには、ふたりの話は、何から何まで符合するということはないものである。なぜなら、それぞれの人は一面的なものの見方しかしていないからである。よく教えを受けた歴史学徒であればだれしも知るように、清教徒革命の時、チャールズ一世がノッティンガムに軍旗を打ち立てた正確な日にちは、現時点に至るまで決着がついていない。

 (f) ある人々の反論によると、ヨブの友人たちは、その長広舌において、多くの下らぬ愚かなことを云っているという。こうした言葉もみな霊感されているのだろうか?――このような反論のもととなっているのは、霊感とはいかなることかに関する、非論理的で混濁した考え方にほかならない。ヨブ記は、この古代の族長[ヨブ]の生涯における、素晴らしい一時期の歴史的記述を含んでおり、彼の語りかけと、彼の友人たちの語りかけの双方を含んでいる。しかし私たちは、ヨブ、あるいはエリファズと彼の仲間たちが聖霊によって彼らの語ったすべてのことを語ったとは、どこを見ても書かれていない。ヨブ記の記者は、完全な霊感の下に、彼らの語ったすべてのことを記録した。しかし、彼らが正しいことを語ったか、間違ったことを語ったかは、聖書の一般的な教えによって判断されるべきである。だれも、聖ペテロが大祭司の中庭で、「そんな人は知らない」、と語ったときに彼が霊感されていたなどとは云わないであろう。しかし福音書の記者は、霊感の下で、私たちを教えるためにそれを書いたのである。『使徒の働き』の中にあるクラウデオ・ルシヤの手紙は確かに霊感によって書かれたものではないし、ガマリエルや、エペソの書記や、テルトロなどがその演説をしたとき、彼らは霊感されていたわけではない。しかし、それと同等に確かなことは、聖ルカが霊感の下にそれらを書き記し、自分の著書の中に記録した、ということである。

 (g) ある人々の反論によると、聖パウロは、コリント人への手紙第一において、コリント教会にいくつかの忠告を与える際、ある所では、「私ではなく主です」、と云い、別の所では、「主ではなく、私です」、と云っているという。そこで彼らは尋ねる。これは、彼の忠告が、部分的には霊感されていないと示しているのではないか?、と。----私は、決してそのようなことはない、と答える。その章を注意深く調べてみるとわかるように、「主ではなく、私です」、と云うときの使徒は、すでに主がお語りになったことに基づいて何らかの原則を規定しており、「主ではなく、私です」、と云うときの使徒は、これまで何の啓示もなかった点について忠告を与えているのである。しかし、彼がその間、神の直接的霊感の下で書いていたのではないという証拠は皆無である。

 (h) ある人々の反論によると、聖書の言葉には多くの異なる読み方があり、それゆえ私たちは、自分が霊感された神のことばの原典を有していると確信することはできないという。私は答える。そうした異読は、公平に吟味すれば、その数についても重要度についても、ばかげているほどに誇張されていることがわかるであろう、と。ケニコット博士や、ベンゲルその他の人々がこのことをとうの昔に証明している。疑いもなく私たちは、原典の言葉のうち数語を失ってしまったかもしれない。印刷術の発明前の筆写者や写字生に無謬性を期待できるいわれは何もない。しかし、たとえあらゆる異なる読み方を認めようと、また、議論中の、あるいは疑わしい言葉をすべて削除したとしても、聖書の中のただ1つの教理といえども影響を受けたり、変化をこうむるものはない。印刷術の発明前に、いかに多くの手を介して聖書が伝えられてきたか、また、その筆写者がいかなる者たちであったかを考えてみるとき、驚嘆せざるをえないのは、異なる読み方の数がこれほど僅少であることである! 古のヘブル語聖書とギリシャ語聖書のあらゆる語句の圧倒的多数について一点の疑いもないという事実、これは奇蹟と云ってよく、神に大いに感謝しなくてはならないことである。1つのことは非常に確かである。ありとあらゆる古代文書の中で、現代まで伝えられているもののうち、これほど信頼の置ける、これほど異読の少ない原文を有するのは聖書だけである。

 (i) 最後に、ある人々の反論によると、時たま聖書の中には、歴史的年代記や、系図や、人名の一覧など、霊感を受けていない人々の著作から抜粋され、引き出され、書き写された部分があるという。これらもみな霊感されているとみなされるべきなのだろうか?----私は答える。聖霊が聖書記者たちに命じて、彼らの手の届くところにあった史料を、彼らがその目で見た事実と同様に、用いさせてならない理由、またそのように彼らに明示ことによって彼らの用いた言葉に《天来の》権威を帯びさせてならない理由は、何1つないように思われる、と。聖パウロが異教徒の詩人たちからの詩句を引用したとき、彼は何も、彼らが霊感されているとみなされることを意図してはいなかったのである。しかし、彼は神の教えの下にあって、自分の種々の観念に、彼らが用いた言葉をまとわせた。そうすることによって彼は、多くの人々から好感をもって読んでもらえることが期待できたに違いない。そして私たちがそうした引用句を読む際、あるいはユダヤ人の年代記や登記簿から引き出された人名一覧を読む際、聖書記者たちが神の霊感によってそうした史料を用いるように教えられたことを私たちは疑う必要はない。

 私は逐語霊感に対する種々の反論をここで打ち切りにし、これ以上その件で読者の方々を引き留めないことにする。この主題にも、おそらく決して完全には解決しないであろう困難な点がいくつかあることを否定するつもりは私にはない。ことによると私は、マタイ27章の「預言者エレミヤ」に関する言及についてそうした困難を解くことはできず、聖ヨハネと聖マルコの十字架刑の記事にある三時と六時について調和させたり、使徒7章でステパノが述べたヤコブの埋葬の記事を、私自身完全に納得のいくまで説明することもないかもしれない。しかし、私が疑いもなく信じていること、それはこうした種々の困難には説明がつくということ、ことによると、いつの日か実際に説明されるかもしれない、ということである。こうした事がらで私は動揺したりしない。霊感のように深遠で奇蹟的な問題においては、何もかも見通すことのできない種々の困難があって当然である。私は喜んで待つことにする。いみじくもファラデーは云う。「多くの問題において、最も高次の原則は、しばしば、思慮をもって判断を未決のままにしておくことである」。1つの大原理をつかみとったならば、種々の困難があからといってそれを放棄してはならない。これは、私たちの不動の大原則とすべきである。時が経つにつれて、しばしば最初は難解に思えたものが判然としていくものである。私の精神に最も少ない困難しか伴っていないように見える霊感説とは、聖書のあらゆる言葉を、その思想と同じくらい霊感されたものとみなす見解である。ここに私は立つことにする。

 私がいま云ったことを覚えておくがいい。決して神学上の大原則を種々の困難のゆえに放棄してはならない。忍耐強く待っていれば、難点はみな失せ去るかもしれない。それをあなた精神の公理としておくことである。私の意味していることを例示する話を1つさせていただきたい。天文学に造詣の深い方々なら知っているように、海王星が発見される前には、厳密な考え方をするほとんどの天文学者たちを大いに苦しめていた困難があった。それは、天王星に特定の光行差が生ずるという問題であった。この光行差に多くの天文学者は頭を悩まし、一部の学者はこれをニュートン力学の全体系が間違っていることを証明するものかもしれないと示唆していた。しかし、その時、レヴェリエという名の高名なフランス人天文学者が、科学学会の前で、この偉大な公理を規定した論文を読み上げたのである。----すなわち、科学的な人間にとって、説明できない何らかの困難があるからといって、ある原理を放棄するのはふさわしくない、と。つまるところ彼はこう云ったのである。「私たちは、今は天王星の光行差を説明できない。しかし、私たちはニュートン力学体系の正しさが、遅かれ早かれ証明されると確信してよいであろう。いつの日か、こうした光行差が発生する理由を説明する何かが発見されるかもしれない。だがしかし、ニュートン体系は真実であり続け、微動だにしない」。それからほんの数年もしないうちに、天文学者たちの血眼の探求によって、最後の大惑星、海王星が発見された。この惑星こそ、天王星のあらゆる光行差の真の原因であることが示された。そして、かのフランス人天文学者が、科学の原理として規定したことは、賢明で、真実なことであると証明されたのである。この逸話の適用は明白である。私たちは神学の第一原則を1つも放棄しないように用心しよう。見かけ上の困難があるからといって十全の逐語霊感という大原則を捨てないようにしよう。いつの日か、そうした困難はみな解決されるであろう。それまでの間は、他のいかなる霊感説にも、私たちの採っている霊感説に伴っている困難よりも十倍も大きな困難がつきまとっていることを思って心を安んじていよう。

 さて、この論考のしめくくりに、明白な適用の言葉をいくつか告げさせてほしい。私たちは、霊感という問題に関わる難解な事がらの深遠な議論をみなわきに置こう。私たちが説明できるかできないかに関わらず、私たちは聖書が神のことばと主張されて当然であるとみなすことにしよう。この点から始めることにしよう。読者の方々は、私の云うことに耳を傾けてほしい。私は、あなたの注意を引くに値すると思われることをいくつか語りたいと思う。

 1. 聖書は神のことばだろうか? では、それをないがしろにしないようにこころがけるがいい。それを読むがいい。読むことである! それを、きょうのこの日、読み始めるがいい。神に対して人間が犯しうる侮辱として、神が天から人にお送りになっている手紙を読むのを拒絶するほど大きな侮辱があるだろうか? おゝ、確かにあなたがあなたの聖書を読もうとしないなら、あなたは自分の魂を失うすさまじい危険に陥っているのである!

 あなたが危険に陥っているというのは、神は最後の審判の日に、あなたが聖書をないがしろにしてきたことについて罰を与えるからである。あなたは、自分の時間と、力と、金銭の使い方について報告しなくてはならないが、みことばの読み方についても報告しなくてはならないであろう。そのさばきの座に着くとき、あなたは、聖書のことを一度も聞いたことのない、中央アフリカの住民とは、責任という点において、同じ水準に立つことはないであろう。おゝ、否! 多く与えられた者は多く求められるであろう。人間たちが地に埋めたタラントのうち、何にもまして重く彼らを沈み込ませるのは、ないがしろにされた聖書であろう。あなたが聖書を扱うしかたに応じて、神はあなたの魂を扱われるであろう。あなたは悔い改め、心機一転して、あなたの聖書を読む気にはならないだろうか?

 あなたが危険に陥っているというのは、キリスト教信仰においてあなたが陥りかねない過誤に際限がないからである。あなたは、たまたま最初に出会うことになるイエズス会士か、モルモン教徒か、ソッツィーニ主義者か、イスラム教徒か、ユダヤ人のなすがままとなるであろう。迫り来る敵を前にして村という村が壁に囲まれていない国といえども、自分の聖書をないがしろにしている人ほど無防備ではない。あなたは、ある迷妄の段階から次の段階へところげ落ちて行き、最後には地獄の穴に至っているかもしれない。もう一度私は云う。あなたは悔い改めて、あなたの聖書を読む気にはならないだろうか?

 あなたが危険に陥っているというのは、聖書をないがしろにしていることについて、あなたが申し立てることのできる、筋の通った云い訳が何1つないからである。あなたに聖書を読む時間がないというのは確かであろう! しかし、あなたは食べたり、飲んだり、眠ったり、金儲けをしたり、散財をしたり、ことによると新聞を読んだり、煙草を吸ったりするためには時間を作れるのである。みことばを読むための時間も簡単に作ることができよう。悲しいかな、魂を滅ぼすもととなるのは、時間の不足ではなく、時間の浪費である!----あなたが聖書を読むのが億劫だというのは確かであろう! そう云うのだとしたら、天国に行くのも億劫だとか、地獄に行っても悔いはない、とも云った方がいいであろう。まことにこういった云い訳は、ネヘミヤの時代にエルサレムの城壁を取り巻いていたちりあくたのようなものである。それらは、ユダヤ人のように「働く気」がありさえすれば、たちまちみな消え失せるであろう。最後にもう一度だけ云うが、あなたは悔い改めてあなたの聖書を読む気にはならないだろうか?

 嘘ではない、嘘ではない、聖書そのものが、それ自身の霊感の最上の証人である。霊感について揚げ足を取り、難点を云い立てる人々は、あまりにもしばしば聖書を一度も読んだことのない人々にほかならない。彼らが公然と不平を云う曖昧さ、難解さ、不明瞭さは、この本の中よりも、はるかにしばしば、彼ら自身の心の中にあるのである。おゝ、確信を持つがいい! 取りて読み出すがいい。

 2. 聖書は神のことばだろうか? では、常に深い畏敬の念とともにそれを読むがいい。聖書を開くときにはいつも、自分の魂に云うがいい。「おゝ、わが魂よ。お前は神からの使信を読もうとしているのだ」、と。裁判官たちの宣告や、王たちの演説は、尊崇と敬意をもって受け入れられている。ならば、審き手の《審き手》、王の《王》のことばは、いかにいやまさる畏敬を受けてしかるべきであろう! あなたは、呪詛や悪態をつくのを避けようとするのと同じく、現代の神学者たちの一部が不幸にも陥っている、聖書について語る際の不敬な精神の癖を避けるがいい。彼らがこの聖なる本の内容を扱うしかたは、その記者たちが自分たちと同じような人間であったかのように、無頓着で、無礼なものがある。彼らを見ていて思い出されるのは、自分の父親が無知であると思い込んだ子どもが、それを暴露する本を書いている姿、----あるいは、赦免を受けた殺人犯が、自分の執行猶予礼状の筆跡や文体を批判している姿である。むしろホレブ山の上におけるモーセの精神にならうがいい。----「あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である」。

 3. 聖書は神のことばだろうか? では、決してそれを聖霊の助けと教えを乞い求める熱心な祈りなしには読まないようにするがいい。ここにこそ、多くの人々が難破している岩礁がある。彼らは知恵と教導を求めず、そのために聖書の意味が曖昧なものに思われ、そこから何も得て来られないのである。あなたは、御霊があなたをすべての真理に導き入れてくださることを祈るべきである。あなたは主イエス・キリストが、その弟子たちにしてくださったように、「あなたの心を開いて」くださることを乞い願うべきである。この本を書かせた霊感の基である主なる神は、この本の鍵を握っておられ、ただおひとりあなたにそれを適切に理解させることがおできになるお方である。1つの同じ詩篇の中で七度以上もダビデは、「私に教えてください」、と叫んでいる。同じ詩篇の中で五度も、「私に悟りを与えてください」、と云っている。オックスフォード大学クライスト・チャーチ学寮の学長ジョン・オーウェンはいみじくも云う。「みことばの中には聖なる光がある。だが、人々の目には、それを包み隠す覆いがあるため、彼らはそれを正しく見つめることができない。さて、この覆いを取り除くことこそ、聖霊の独特のみわざである」。へりくだった祈りは、プールや、ヘンリーや、スコットや、バーキットや、ベンゲルや、オールフォードや、ワーズワースや、バーンズや、エリコットや、ライトフットや、あるいは、これまでに書かれたいかなる注解書にもまさる光をあなたの聖書に投げかけるであろう。

 聖書は、人々がそれを読む精神に応じて、豊富な本にも貧弱な本にもなり、意味曖昧な本にも明々白々な本にもなる。知性だけあっても何にもならない。最高学府を優等で、あるいは首席で卒業しようが、その頭のみならず心が正しいものとなっていない限り、聖書を理解することはないであろう。最高度の批判的、文法的知識をもってしても、聖霊に教えられていなければ、聖書が封印された本に思えるであろう。その内容はしばしば、「賢い者や知恵のある者には隠され、幼子たちに現わされる」。このことを覚えておき、自分の聖書を開くときには、常にこう云うがいい。「おゝ、神よ。キリストのゆえに、私に御霊の教えをお与えください」、と。

 4. 最後に、聖書は神のことばだろうか? では、私たちはみな、この日以来、聖書をより重んずるように決意しよう。このほむべき本の偶像礼拝者になるのではないかなどとは恐れないようにしよう。人々はいともたやすく教会や、教役者や、礼典や、知性を偶像にしてしまう。だが、みことばを偶像にすることはできない。聖書の権威を損なおうとするすべての者、聖書の信用を排撃しようとするすべての者を、霊的な盗人とみなそう。私たちは荒野をついて旅しつつあるのに、彼らは私たちの唯一の案内書を盗むのである。私たちは荒天の海を航海しつつあるのに、彼らは私たちの唯一の羅針盤を盗むのである。私たちは難儀な道を骨折って進みつつあるのに、彼らは私たちの手から杖を奪い去るのである。そして、こうした霊的な盗人どもが聖書のかわりに何を私たちに与えるだろうか? 彼らは何をもって、私たちの魂にとってより安全な案内書、より良い装備として与えるのだろうか? 無である! 完全に無である。ご大層な大言壮語である! 新しい光という空虚な約束である! 大仰な専門用語だが、実質も実体もないものである! 彼らは嬉々として私たちからいのちのパンを取り上げ、そのかわりとして石しか与えない。こういう輩には頑として耳を貸さないようにしよう。聖書が攻撃を受ければ受けるだけ、これをいやまして堅く握りしめ、重んじよう。

 この問題全体の結論を聞くがいい。神が私たちに聖書を与えておられるのは、それが私たちを永遠のいのちへと導く光となるためである。この尊い賜物をないがしろにしないようにしよう。勤勉にこれを読み、この光の中を歩もう。そうすれば私たちは救われるのである。
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 霊感に関する以下の引用文は、四人の卓越した英国人神学者の著作から抜粋したものだが、私のあえて考えるところ、熟読玩味に値するものである。これらは、そこに含まれている種々の議論のゆえに価値がある。またこれらは、私がこの論考の中で擁護したような、逐語霊感説に対する高い見解が、決して現代にでっちあげられたものではなく、神の最も優秀な子どもたちの多くが歩んできた、また幸いの道であることを見いだしてきた、「昔からの通り道」の途上にあるものであることを、ふんだんに証明するものでもある。

 1. 『弁明』の著者ジューエル主教は、疑問の余地なく、英国の宗教改革者の中でも最も学識に富むひとりであった。その彼が何と云っているか聞いてみよう。----

 「聖パウロは、神のことばについて語る中で、こう云っている。『聖書はすべて、神の霊感によるもので……有益です』。多くの人々は、使徒の言葉は到底、全聖書にあてはまりはしないと考えている。----聖書の全体が、そのあらゆる部分まで含めて有益であるなどとは考えられない。あまりにも多くが、系図や、家系や、らい病人や、やぎと雄牛の犠牲などといったことについて語られている。これらは有益なものをほとんど含んでおらず、下らない、無駄なものに思われる、と。だが、もしこれらがあなたの目に無駄なものに映っているとしても、主はそれをあだやおろそかに書き記されたのではない。主のみことばは混じりけのないことば。土の炉で七回もためされて、純化された銀。いかなる文章も、いかなる語句も、いかなる単語も、いかなる音節も、いかなる文字も、あなたを教えるために書かれなかったものはない。一点一画といえども、《小羊》の血によって証印を押されも、署名されもしていないものはない。私たちの想像は下らないもの、私たちの思いは無駄なものであるが、神のことばにはいかなる下らなさも、いかなる無駄もない。いけにえとしてささげられた、こうしたやぎや雄牛は、あなたの心の汚れと不潔を殺すように、あなたを教えているのである。これらはあなたに教えているのである。あなたには死に当たる咎があり、あなたのいのちは何らかの獣の死によって贖われなくてはならない、と。これらによってあなたは、より完全ないけにえによる、罪の赦しを信ずるように導かれている。雄牛とやぎの血は、罪を除くことができないからである。あのらい病によってあなたは、あなたの魂の汚れと腐れを教えられている。あの系図と家系によってあなたは、私たちの《救い主》キリストの誕生へと導かれている。こういうわけで、神のことばの全体は純粋で聖いのである。その中のいかなる単語も、いかなる文字も、いかなる音節も、いかなる一点一画も、あなたのために書かれなかったもの、保持されなかったものはない」。----ジューエルの『聖書について』。

 2. 『教会政治理法論』の著者リチャード・フッカーは、英国国教会内のあらゆる学派から「賢明なるフッカー」として正当にも尊敬されている。その彼が何と云っているか聞いてみよう。----

 「聖書の預言の霊によって、人々が来たるべき事がらについて語り、また書いたかしかたについて云えば、私たちはこう理解しなくてはならない。すなわち、彼らの語った知識と同様に、彼らの知っていた言辞もまた、普通の、通常の手段によってやって来たものではない。私たちは、通常の手段によって、自分の救いの奥義を理解するように至らされ、その救いについて他の人々を教えようとする。というのは、私たちが何を知っていようと、それは人々が私たちを手ずから教え、助けてくれることによって知るようになったからである。人々が私たちを、子どものように導き、文字から音節へ、音節から単語へ、単語から一行へ、一行から文章へ、文章から一ページへと進ませ、次のページをめくらせてくれたのである。しかし、彼らを教え導いたのは神ご自身であった。神ご自身が彼らを教えてくださった。一部は夢や夜の幻によって、一部は昼日中の啓示によって、神は彼らを、その兄弟たちの中からわきへ連れ出し、人が路上でその隣人に語りかけるように、彼らにお語りになったのである。このようにして彼らは、神の隠れた、秘密のはかりごとについてすら通じるようになった。彼らは、自分自身では口にすることもできないような事がらを見た。人も御使いも驚くようなことを眺めた。終わりの日に、まず何が起こることになるかを理解した。このように彼らの心の目をはっきり見えるようにし、普通でない異常な手段によって彼らに知識を与えた神は、それだけでなく、御自ら、奇跡的なしかたで、彼らの言葉と書き物の表現をつくり、整えることをもなさった。そのため、彼らが知識を得たしかたと私たちが知識を得るしかたと同じくらい、彼らの発言のしかたと私たちの発言のしかたの間には、大きな違いがあると思われる。使徒は云っている。「私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは……神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います」。これこそ預言者たちが語っている、表にも裏にもびっしり字が書いてある巻き物の意味である。そうした巻き物があれほどしばしば彼らに手渡されて食べるように云われたのは、神が彼らを墨と紙で養ったからではなく、それほどしばしば彼らが、神によってこの天的な働きに用いられる際には、自分自身の言葉を語りも書きもせず、御霊が彼らの口に入れてくださる通りに一音節ごとに語ったことを私たちに教えるためであった。それは竪琴やリュートが、それを手に持つ人の手の動きに従い、巧みに奏されるに従って、音色を奏でるのと全く異ならない」。----フッカー『全集』。第3巻、pp.537, 540。

 3. オックスフォード大学クライスト・チャーチの学長、ジョン・オーウェンは、ピューリタンの中でも最も学識深く理論的な人物であった。その彼が何と云っているか聞いてみよう。

 「神の聖なる人々は、聖霊に動かされてあのように語ったのである。このように、みことばが彼らにもたらされたとき、それは決して彼ら自身の理解力や、知恵や、精神や、記憶によって、整えられ、構成され、発言するにまかされたのではない。むしろ彼らは、聖霊によって抱え上げられ、駆り立てられ、事を行なわされて、そのように彼らにもたらされたすべてを、いかなる例外もなく----ほんの一点一画に至るまでも----語り、伝え、書いたのである。彼らは、自分の学んだ事がらにふさわしい言葉を自分でこしらえたのではない。むしろ、自分の受けた言葉を表明したのである。彼らの精神と理解力が言葉の選択において用いられたことは確かだが(こういうわけで、彼ら同士の表現のしかたには相当の差異があるが)、彼らは、彼らの用いた言葉が彼ら自身のものではなく、直接彼らに与えられたものとなるように導かれた。彼らの教えた教理が真理のことば----真理そのもの----であったばかりでなく、彼らがそれを教えるのに用いた言葉も神ご自身から出た真理のことばであった。このようにして、神の御声が預言者たちに臨んだ際に、そのことばを受容し、表現するための相応な道具として、彼らの精神および舌が貢献したことは認めつつも、----書かれたみことばのあらゆる頂は、神が預言者たちによって私たちに語りかけた際にお用いになった御声と等しく天来のもの、それと同じくらい直接神から出たものであって、それゆえ、同じ権威をそれそのものに、また私たちに対して伴っているのである」。----オーウェン、『聖書の天来の起源について』。全集第16巻、p.305。

 4. チャーマズ博士は、スコットランドが輩出した知的巨人の中でも最も優れた知性を有する深い思索に富んだ神学者であった。その彼が何と云っているか聞いてみよう。----

 (a) 「聖書の内容は、選ばれた預言者や使徒たちの精神を通過することなしには、また、そこから言語で発されることなしには、聖書という形で世界に表われることはありえなかった。さて、ここでこそ、私たちは、部分的霊感説、すなわち、弱体化された霊感説の唱道者たちに出会うのであり、そうした者たちのいかなる者に対しても共同戦線を張りたいと思う。そこには、ただ1つの説といえども、いかに些少な程度ではあれ、透徹した完全な霊感説と云うに足るものはない。----そうしたいかなる説によっても、結果的に啓示の内容は、世界を導き、光で照らす、その最終的な形に落ちつくまでの間に、傷を負わされ、堕落させられてしまうのである。それは純粋なかたちで天に存在していた。それは純粋なかたちで天から地上に下った。それは、啓示の偉大な《動作主》により、純粋なかたちで使徒たちの精神に預けられた。しかし、そこで私たちに告げられるところ、もうほんの少しで最後の上陸場に着くというそのときに、この一連の運動全体の偉大な目的が成就されうる唯一の場所へと純粋なかたちで受け渡されるかわりに、そのときに、それはぷっつりと放棄され、そこで人間的な種々の欠陥がそれと混じり合い、その光彩をだいなしにすることを許されるというのである。不可思議なことに、今まさに人類の権威ある導き手、先導者としての働きにつこうとする瀬戸際のとき、そのときに至って初めて、人間の汚点と虚弱さがそのまわりに付着することを許されるというのである。不可思議なことに、思想は霊感されているため、それは純粋なかたちで使徒たちの精神に入来するというのに、言葉の霊感を欠くがために、それは純粋なかたちでは世界に出来しないというのである。その世界のためだけに、またその世界を訓戒するためだけに、この偉大な運動が天で始まり、地上で完結したことなど、まるで関係ない。不可思議なことに、いやまさって不可思議なことに、これらのことは、彼ら自身のためではなく私たちのための奉仕であるとの宣言にもかかわらず[Iペテ1:12]、----不可思議なことに、それにもかかわらず、この啓示は彼ら自身には純粋なかたちでやって来たのに、私たちには不純なかたちでやって来るべきだというのである。何か人間的な短所という染みや、不明瞭さを付着させてやって来るべきものらしいのである。----この天からの真理が私たちの世に下っていく展開のどこで、その不明瞭さが割り当てられるかは、さほど重要ではない。結局のところそれは薄暗く、神聖を汚されたものとして私たちのもとにやって来るのである。そして人は、神の染みなき証言と対話するかわりに、不完全で、弱体化された聖書を手に握らされるのである」。

 (b) 「このような見解をいだいている以上、その必然的な結果として私たちは、啓示のあらゆる目的にとって、聖書が、その教理において完璧なものであるのと同様、その言語においても完璧なものであると主張するべきである。また、このように結論するために、必ずしも監督説と示唆説を調和させなくてはならないことはない。単に過誤が発達するのを差し止めることしかしないような監督説を、私たちは全く捨て去るものである。----というのも、もしも霊感の過程に少しでもこの用語があてはまるとするとしたら、それは、何事も間違っていないことを確実にするというだけの、否定的な意味の監督であるばかりでなく、----肯定的な意味で、聖なる筆者たちから発されるものが、いついかなるときにも最適の主題であり、かつ、それが最適の、また最もふさわしい表現によって盛り込まれることを確実にするという、有能な監督でなくてはならないと考えるからである。このことをもたらすのが、一部は監督により、一部は示唆によるのか、あるいは全く示唆によるのかということは、大して重要ではない。私たちは、こうした区別立てを云々したいという思いも趣味も全く持ち合わせていない。私たちの主張はそうしたもので左右されはしない。また私たちは、私たちの主張が実質的にそれらによって危害を受けるのではないかと考える心配性の人々の恐れに与することは全くできない。私たちにとって重要な問題は、製造の過程ではなく、その結果もたらされた商品の品質なのである。前者について私たちは、それを重要ではないと考え、そうした追究が正当なものであるかどうかさえ疑問に感ずる。後者についてこそ私たちは、自分の立場を固めるものである。そして、聖書があり余るほどふんだんに、みことばの価値と、完璧さと、絶対的な権威とを証言していること、----こうした証言こそ、全的かつ無謬の霊感説を最も厳格に主唱する者たちが願っているすべてのことを確立するのに役立つ議論の拠点をなしているのである。私たちが関心をいだくのは、製作品そのものであって、その製作技術ではない。また私たちには、そうした隠された働きの奥義に足を踏み入れる必要もないであろう。聖書の明確な証言によって、その働きの成果が、実質と表現の双方において、信仰と行為との完璧な手引きであると確証されさえすれば満足だからである。私たちの信ずるところ、この記録を作り上げるにあたり、人々は、自分たちが霊感されたように考えただけでなく、聖霊によって動かされた通りに語ったのである。しかし、聖書の絶対的完璧さを主張する私たちの議論は、何者も打ち勝つことのできない鉄壁のものである。たとえ人々が、地理学的な正確さによって、奇蹟的な部分と天性による部分とを分かつ境界線を突きとめようとしても、それはできない。たとえ彼らが私たちに、使徒たちがいつ御霊によって促された言葉を書き、いつ御霊によって許容された言葉を書いたかを告げるとしても、無駄なことである。卑見によると、結果としてそれは積極的には何の重要性も持たない。もし彼らが御霊の促した言葉を語ったとしたら、----そうした言葉はそれゆえにこそ最上のものだったのである。もし彼らが御霊の許容した言葉を語ったとしたら、----それは、そうした言葉が最上のものだったからなのである。聖書の楽観主義も、同じように、こうした双方の方法によって確実にされている。また、御霊の是認は、言葉の背後にある意味と、言葉そのものという双方の点において、そのあらゆる文節にいたるまで、及ぼされている。どちらの方法においても、それらは実際上、御霊のことばなのである。そして神は、聖書を通して、決して他人の言葉遣いという媒介で真理を提示しておられるのではない。神は実際、それをご自分の言葉遣いにしておられる。神は、聖書を通して私たちに語りかけておられるのである」。

 (c) 「キリスト者たちの役目は、聖書の完全無欠さおよび霊感の周りに、火の壁のようにして立ち上がることである。そして、土台は地に据えられ、銃眼付き胸壁は天に達する塁壁をめぐらすかのように、それらを無傷のまま、神聖不可侵のものとして保つことである。このように種々の限界にみだりに干渉することこそ、すべてを破壊し、摩損するものにほかならない。それゆえ、その限界が破られるまさにそのときには、警戒を鳴らすべきなのである。もしも閧の声をあげるときがあるとするなら、それは最初からあげるべきである。人間的なものが天来のものに混ぜ合わされ出すそのときに、たとえそれがいかに些少な滲出であったとしても、聖書のすべての友は、心と手を携えて、この不潔かつすさまじい神聖冒涜に対して対抗すべきなのである」。----チャーマズ著『キリスト教の証拠』、第2巻、pp. 371、372、375、376、396。

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*1 コーランに対するカーライルの評価は、『英雄崇拝』の中の以下のような言葉で記されている。「これは、退屈きわまりない、雑然とした寄せ集め、粗野で、晦渋で、果てしなく続く繰り返しであふれ、くねくねと入り組み、もつれあう、耐えがたい愚鈍さである。つまり、何らかの義務感にかられない限り、いかなる欧州人も、この読むに耐えないがらくたの山を乗り越えて、コーランを読み通すことなどできない」。
 ジョン・オーウェンは云う。「世界には、聖書の他にも、天来の起源を称する書き物がある。しかしそれらは、その内容からばかりでなく、その書き方や、そこに見られる人間的な技巧や弱点からもまた、十分自らに有罪判決を下しており、その自称のむなしさをさらけ出している」(『信仰の理由』、全集、第4巻、p.34、ジョンストン版)。[本文に戻る]

*2 「かねてから私が非常に好ましく思ってきたのは、世俗的な教育である。すなわち、神学を抜きにした教育である。しかし、告白せざるをえないが、私がそれと劣らず真剣に困惑させられてきたことに、いかなる実際的な手順をとれば、品行の本質的基盤である宗教感情を、その件について百家争鳴的な状態にある現代において、聖書を用いることなしに保持し続けられるかが私にはわからないのである」。
 「この《本》が、英国史上、最良にして最も高貴な三世紀にわたって、あらゆる人々の生活の中に織り込まれてきたという、明白な歴史的事実を考えてみるがいい。----これは大英国の国民詩となっており、 北はジョンオグローツから西はランズエンドに至るまで、貴族にとっても庶民にとっても、さながらイタリヤ人にとってのダンテやタッソーのごとく親しまれている。----これは最上にして最も明晰な英語で書かれており、純粋な文学形式としても絶妙の美しさに満ちあふれている。----そして最後にこれは、自分の村を離れたこともない、いかに辺鄙な田舎者にも、他の国々や、他の文明について、また、世界最古の国々という最果ての限度までさかのぼる過去の偉大な時代について、決して無知のままでいることを許さない。他のいかなる本を学べば、子どもたちはこれほど教化されうるだろうか? いかにすれば彼らは、この茫漠たる歴史の流れの中に立つあらゆる人物が、自分たちと同様、2つの永遠の間にあって、ほんの瞬時の間をふさいでいるにすぎないこと、また、さながら自分たちがその働きに応じて賃金を得ているのと同じく、人が善を行ない、悪を憎むその努力に応じて、祝福をかちとるか、時を超えた呪いを得ているか、のいずれかであることを感じさせうるだろうか?」----ハクスリ教授の『学務委員会について』(ハクスリ著『批評と随筆』、p.51)。[本文に戻る]

*3 「聖書は諸国家における真の愛国主義と忠国心すべての源泉である。----それは、議会や、会議室や、裁判所における、あらゆる真の知恵と、健全な方針と、公平さとの源である。----それは、陸軍や艦隊内、戦場や大海上における、ありゆる真の規律と服従、またあらゆる勇敢さと騎士道精神の泉である。----それは、商業と貿易、市場と店舗、銀行と取引所、人々の寄り集まる場と内心のひそかな沈黙との中における、あらゆる廉潔さと誠実さとの出所である。----それは、家庭および家中における、あらゆる愛と、平安と、幸福と、静謐さと、喜びとの、純粋無垢な源泉である。----それがしかるべく従われている所ならどこでも、それはこの世の砂漠を薔薇のように喜び、開花させる」。----ワーズワースの『霊感について』、p.113。[本文に戻る]

*4 「ユダヤ文学のこの小さな箱舟は、今なお時間の大波を越えて浮かんでいるというのに、東方の巨大帝国や、ユダヤを取り巻いていた数々の小王国の古文書は、とうの昔に難破し、その破片に過ぎないものが、時たま私たちの遠い沿岸に打ち上げられるだけである」。----ロジャーズの『聖書の超人的起源』、p.311。[本文に戻る]

*5 「私たちの肯定するところ、聖書は神のことばであり、それは人間の弱さによって損なわれてはいない。私たちは、一部の人々が想像していることとは違い、聖書が麦も殻も混じり合ったまま放り出されている脱穀場のようなものであるとか、殻から麦をあおぎ分け、ふるい分けることは箕やふるいを手にした読者にまかされている、などととは考えない」。----ワーズワースの『霊感について』(p.11)。[本文に戻る]

*6 この点を証明する聖句は、いくらでも容易にあげることができる。ここでは単に以下を記すだけにしたい。ヘブ2:8; 3:7-19; 4:2-11; 12:27。[本文に戻る]

*7 「聖書の言葉遣いは、必然的に、人間の知的発達の平均的な度合に合わせられている。そして、その度合において人間は、科学を所有しているものとは想定されていない。それゆえ、聖書によって用いられている語句は、まさしく科学を手にした人間が、たちまち不正確なものと考えるべく仕向けられるようなものにほかならない。だがそれらは、だからといって、いささかもその目的に適わない語句であるということにはならない。というのも、もしも、何らかの用語が、知的により進んだ度合に応じて用いられていたとしたら、それらは聖書が最初に語りかける相手であった人々にとっては意味不明なものであったに違いないからである」。----ホウィーウェルの『帰納的科学の哲学』。第1巻、p.686。[本文に戻る]

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