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序 文

 今読者が手にとっておられる本は、一連の論考を組織的に並べたものであって、その内容は、キリスト教で「救いに必要とされる」主要な真理である。

 おそらくほとんど異論のないことだと思うが、キリスト教信仰の中には、いかに途方もなく誤った見解であると思えても、それを奉ずる人々が最終的に滅びる危険に瀕している、とまでは云えないものがある。バプテスマや主の晩餐、----キリスト教聖職者の務め、----祈りの形式や礼拝の様式、----教会と国家の結びつき、----こうしたすべての事がらについては、広く認められているように、どれほど意見を異にする人々も、最終的には救われうる。むろん、疑いもなく世には、偏狭頑迷の徒や極論に走る輩が常におり、上にあげたような点について、自分たちのシボレテを唱えられないいかなる者にも破門宣告をするものである。しかし、一般的に云って、こうした点について自分たちに同意しないすべての人々を天国から閉め出すというような立場は、ほとんどの思慮深いキリスト者によって、非聖書的で、偏狭な、愛のない立場であると非難されるはずである。

 その一方でキリスト教信仰には、救われるためには、多少なりとも絶対に知っておかなくてはならないと広く認められている、特定の偉大な真理がいくつかある。その真理とは、魂の不滅、----人間性の罪深さ、----私たちの贖い主としてのキリストのみわざ、----私たちのうちにおける聖霊のみわざ、----赦し、----義認、----回心、----信仰、----悔い改め、----正しい心のしるし、----キリストの招き、----キリストのとりなし、----そういった事がらである。もしも、こうした真理でさえ救われるために絶対に必要ではないとするなら、一体いかなる真理を必要と呼べるのか理解に苦しむ。人が、こうした真理について何1つ知らずに救われうるとしたら、私たちは自分の聖書を完全に放り出し、キリスト教信仰など何の役にも立たないと宣言してもよいであろう。だが、多くの人は、このようにみじめな結論からは怖気をふるって後ずさりするものと私は信じたい。

 こうした必須の重要な真理を解き明かすこと、----それらを聖書によって確証すること、----胸に迫る訴えをすることで、それらをこの本を読むすべての方々の良心に強く主張すること、----それが、いま出版しようとしている一連の論考の純然たる目的である*1

 私が選んだ書名に目をとめる読者であれば、おのずと、この本に、何か新しい教理が記されているなどと期待はしないであろう。本書は、単純で、混じりけのない、昔ながらの、《福音主義》神学である。ここには、「昔ながらの通り道」以外の何物も含まれてはいない。使徒的なキリスト者たち、宗教改革者たち、過去三百年にわたる英国の最良の信者たち、そして現代の最良の福音主義的キリスト者たちが、それることなく歩んできた道しか含まれていない。こうした「通り道」から離れる理由は、私には何1つ見当たらない。それらは、この十九世紀には、古くさいとか、錆びついているとか、擦りきれているとか、力を失っているとか云われ、しばしば鼻で笑われ、嘲られている。それなら、それでよい。「私は、そのようなことによって動かされようとは少しも思いません」。寡聞にして私は、いかなるキリスト教の教義体系であれ、----その名が《高い》か《広い》か《ローマ的》か《新解釈派》かを問わず----、この古くさい、《福音主義》と呼ばれるのを常とする、見下された体系の半分の半分ほども、人間性に深い影響を及ぼせるものがあることを知らない。私は、《福音主義的》ならざるキリスト教の教師たちの多くが、熱心で、真剣で、献身的であることを認めることにやぶさかではない。しかし私が断固として主張したいのは、私の属している立場の道の方が、「さらにまさる道」だということである。私は年を重ねるごとに確信している。世界に必要なのは、一部の人々が公言するところとは違い、何の新しい《福音》でもない、と。私は完全に確信している。世界が必要としているのは、この「昔ながらの通り道」を大胆に、余す所なく、断固として教えることである、と。人の心は、いかなる時代にも変わらない。それが求める霊的薬は常に同じである。ラティマーや、フーパーや、ブラッドフォードによって宣べ伝えられたのと同じ《福音》、----またホールや、ダヴナントや、アッシャーや、レノルズや、ホプキンズによって、----マントンや、ブルックスや、ワトソンや、チャーノクや、オーウェンや、ガーナルによって、----ロウメインや、ヴェンや、グリムショーや、ハーヴェイや、セシルによって宣べ伝えられたのと同じ《福音》、----これが、現代において唯一善を施すことのできる福音なのである。その福音の主要な教理こそ、この本におさめられた数々の論考の中身である。それらは、私の堅く信ずるところ、聖書と、英国国教会の三十九信仰箇条との教理である。私の見いだしたところ、それらは、いつまでも古びることのないものであり、それらを信ずる信仰によって私は生き、死んでいきたいと思う。

 もう一度、声を大にして云う。私は、いわゆる「福音主義的な原理」と呼ばれるものを恥とはしない。いかにそうした原理が四方八方から激しく痛烈に攻撃されていようと、----たとえ一部の人々が、そんなものは昔は役に立ったが、今では用済みであると声高に、あざけりをこめて宣言していようと、----私はそれらに欠陥があるとか朽ち果ててしまったという証拠を何も目にしていないし、それらを捨てなくてはならない理由など何1つ見当たらない。疑いもなく、他の思想を奉ずる人々の方が、外見上は人類に対してより大きな影響を及ぼしているし、多数の聴衆を集め、たいへんな人気を博し、音楽や装飾や挙措や仕草やおおむね歴史伝統に添った儀式などによって、キリスト教信仰を美々しく飾り立てているかもしれない。私はそれら一切を目にしているし、何も驚きはしない。これはまさに、聖書の光に照らして人間性を学ぶならば、当然予期されてしかるべきことでしかない。しかし、心に及ぼされる真の内面的な効果と、生活に及ぼされる外的な効果について云えば、《福音主義的》な教えを徹底的に、純粋に教えることにまさって力強いものを私は知らない。私には、他の主義に立った説教者たちが得ている影響力も、《福音主義的》な武器と、《福音主義的》な用語を借りる度合に正比例しているように思える。疑いもなく、世になされつつある善はごく僅かで、悪は蔓延している。しかし、私の確信するところ、世に最も大きな善を施している教えは、この見下されている《福音主義的》な立場の教えである。それは、一部の人々の考えとは違い、単にある程度までは真実で良いものだが、残りは欠陥だらけでつけ足しを必要としているようなものではない。それは、いかなる部分においても真実で良いものであり、何のつけ足しも必要としてはいない。もしも《福音主義的》な見解を奉ずる人々が、自らの原理にもっと忠実でありさえするなら、また、自らの説教においても生活においても、もっと大胆で、もっと妥協することなく、もっと断固としていさえするなら、彼らはすぐに見いだすはずである。不信者やローマカトリック教徒が何を好き勝手に云おうが、自分たちは世界を揺るがすことのできる唯一のてこを握っているのだ、と。

 読者のうち、私が三十年間にわたって、神のみ許しにより送付してきた幾多の小冊子を読んでこられた方々は、『昔からの通り道』の中に、以前読んだことのある内容が多々含まれていることに気づくに違いない。経験によって私がついに学んだこと、それは、もしも出版物によって善を施そうとするなら、社会の中のあらゆる種別の人々それぞれの嗜好を顧慮しなくてはならない、ということである。私の確信するところ、英国にいるおびただしい数の人々は、書物なら喜んで読もうとするが、小冊子という形式のものには全く目もくれようとしない。そういう人々のためにこそ、私はいま、『昔からの通り道』を発行しようとしているのである。

 この本を、何の中断もなく、最後まで読み通す人は、疑いもなく、何編かの論考で、相当程度に同じこと、似通ったことが述べられていることに気がつくであろう。同じ思想が装いを変えては、時おり繰り返されているであろう。その理由の申し開きとして私が願いたいのは、これらの論考がもともとは独立して書かれたこと、しかも長い間隔を置いて----場合によっては二十年も間を置いて----書かれたものであることを思い出してほしい、ということである。熟慮の上で私は、それらを最初に発表されたときとほとんど変わらぬ形のまま再出版する方がよいと考えた。このような信仰書を読む人々の中に、それを一度に読み切ってしまうような読者はほとんどいないはずである。そして大方の人々は、一度に一章か二章を静かに読むだけで十分とするのではないかと思う。

 本書の出版にあたり、私はその多くの欠点を痛感している。だが、これが何がしかの善をなすものであってほしいと、心から祈るものである。

J・C・リヴァプール

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*1 とは云うものの、この本におさめられた論考のうち、最初の一編と最後の二編だけは例外であると私は率直に認めるものである。《霊感》、《選び》、《堅忍》は、疑いもなく、あらゆる時代の善良な人々が意見を異にしてきたし、ことによると、この世の続く限り意見を異にし続ける点であろう。現代における霊感問題の途方もない重要性と、選びと堅忍が、第十七箇条にもかかわらず異様なほど無視されているという状態こそ、私がこの三編の論考を本書に挿入した理由である。[本文に戻る]

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