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19. 堅忍


「彼らは決して滅びることがなく」----ヨハ10:28

 キリスト教信仰の中には、聖書で非常に平明かつ明確に教えられている2つの点がある。その1つは、不敬虔な人々の恐ろしい危険であり、もう1つは、義人の完璧な安全さである。1つは回心した人々の幸福であり、もう1つは未回心の人々の悲惨さである。1つは天国への途上にあることの祝福であり、もう1つは地獄への途上にあることのみじめさである。

 信仰を告白するキリスト者の精神に、この2つの点を絶えず銘記させることは、途方もなく重要であると私は主張するものである。私の信ずるところ、神の子らのこの上もない特権と、世の子らのすさまじい危難とは、キリスト教会の上に何にもましてくっきりと掲げられているべきである。私の信ずるところ、キリストのうちにある人と、キリストのうちにない人との違いは、いかに強く、いかに詳細に強調しても決して十分ではない。この主題について隠し立てすることは、人々の魂にとって明白に有害である。そのような隠し立てが行なわれているところでは常に、無頓着な人々は覚醒されることがなく、信仰者たちは確立されることがなく、神の御国の進展は多大な損害をこうむるであろう。

 私が恐れるに、多くの人々は、聖書の中にいかに膨大な数の、慰めに満ちた真理が、真のキリスト者に特有の恩恵として含まれているか気づいていないのではないだろうか。みことばの中には、多くの人々が決して入ることなく、一部の人々など見たことすらないような霊的宝庫があるのである。そこには、悔い改めや、信仰や、回心といった初歩の教えのそばに、黄金の真理が数多く見いだされるであろう。そこには、幾多の真理が輝かしく並べられているであろう。キリストにある聖徒たちの永遠の選び、----神が彼らを世界の基の置かれる前から、特別の愛で愛しておられたこと、----彼らと、よみがえって天におられるそのかしらとの神秘的な結合、およびそれゆえの、彼らに対するこのお方の同情、----彼らの《大祭司》なるイエスの絶えざるとりなしの恩恵に彼らがあずかっていること、----御父および御子と日ごとに交わることのできる彼らの自由、----彼らの確固たる希望、----彼らが最後まで堅忍すること、が見られるであろう。こうした事がらこそ、神を愛する人々のために聖書の中に貯えられている貴重な事がらの一部である。こうした真理を、ある人々は無知によってないがしろにしている。カリフォルニアを領有していた頃のスペイン人のように、彼らは自分の足の下にあった黄金の鉱脈を知らないのである。だがアメリカ人はその鉱脈からあれほど莫大な富を引き出した。また、ある人々は、こうした真理を偽りのへりくだりによってないがしろにしている。彼らは、これらを遠くから恐れおののきながら眺めているが、これらに触れてみようとはしない。しかし、こうした真理は、神が私たちに教えるためにお与えになったもの、私たちが学ばなければならないものなのである。これらをないがしろにすれば、害を受けずにはすまされない。

 私は今、信仰者が有するこうした一連の特権の中でも、1つの特別な真理に注意を引きたいと思う。その真理とは、堅忍の教理である。----真のキリスト者は決して滅びることも、捨て去られることもないという教理である。これは、生まれながらの心をした人々が、いつの時代にも激しく反発してきた真理である。だがこれは、多くの理由から、現在の時代には格別な注意を受けてしかるべき真理である。何にもまして、これは神の子らすべての幸福と密接に関わっている真理である。

 堅忍という主題を考察するにあたり、私は4つのことを行なおうと思う。

 I. 私は、堅忍の教理とはいかなることを意味しているかを説明するであろう。
 II. 私は、この教理がいかなる聖書的基盤の上に築かれているかを示すであろう。
 III. 私は、多くの人々がなぜこの教理を拒否しているかといういくつかの理由を指摘するであろう。
 IV. 私は、この教理がなぜ大いに実際的重要性を有しているかといういくつかの理由に言及するであろう。

 私はこの主題を遠慮がちに取り扱うものである。というのもこれは、聖なる人々が意見を異にしている主題であると承知しているからである。しかし神が私について証ししてくださるように、この論考を書きながら私が願っているのは、聖書的真理の主張を通したいということだけである。堅忍を主張するにあたり、私は曇りなき良心とともにこう云うことができる。私は、自分が教理の福音の重要な部分を主張していることを堅く信じている、と。願わくは御霊なる神が、この論考の書き手と読み手の双方を、すべての真理に導き入れてくださるように! 願わくは、すべての人が完全に主を知り、意見の相違や分裂が永遠に過ぎ去る、そのほむべき日がすみやかに訪れるように!

 I. まず私は、堅忍の教理ということで私がいかなることを意味しているかについて説明したい。

 この点を明確にしておくことは、何にもまして重要である。これは、この主題の土台そのものである。これは、この議論全体の門口に位置している。神学上の論争点に関するいかなる討論においても、用語はできるだけ正確に定義しておくにこしたことはない。不幸にも堅忍に対して浴びせかけられてきた悪口の半分は、問題の教理に対する完全な誤解から生じているのである。この教理の反対者たちは、自分で作り上げた幽霊を相手に戦っているのであって、宙を打つ拳闘に力を空費しているのである。

 堅忍の教理について語るとき私は、次のようなことを意味している。私は云う。聖書の教えによると、真の信仰者たち、まことの真正なキリスト者たちは、そのキリスト教信仰を生涯最後まで持ち続けるのである、と。彼らは決して滅びることがない。彼らは決して失われることがない。彼らは決して打ち捨てられることがない。いったんキリストのうちに入るなら、彼らは常にキリストのうちにある。いったん子とされる恵みによって神の子らになったならば、彼らは決して神の子らであることをやめて、悪魔の子らになることはない。いったん御霊の恵みを授けられたならば、その恵みは決して彼らから取り上げられることはない。いったん赦罪と赦しを受けたならば、彼らは決してその赦しを奪われることはない。いったん生ける信仰によってキリストに結び合わされたならば、彼らの結合は決して断ち切られることはない。いったん神によって、いのちに至る狭い道に召されたならば、彼らは決して地獄に堕ちることを許されない。一言で云うと、救いに至る信仰を受けたあらゆる人は、遅かれ早かれ、永遠の栄光を受け取ることになるのである。いったん義と認められ、キリストの血で洗われたあらゆる魂は、最終的には、最後の審判の日に、キリストの右側に無事に見いだされることになる。

 このような言明は、途方もなく強烈なものに聞こえる。それは重々承知している。しかし私はこの主題をここで打ち切るつもりはない。もう少し詳細にわたって語らなくてはならない。私が擁護している教理には、多くの人々が誤伝や虚説の雲を覆い被せて、それを翳らせている。私はそれを一掃したいのである。私が人々に見てほしいのは、この教理がそれ自体のしかるべき衣裳をまとっている姿である。----無知や偏見の手によって描き出された姿ではなく、真理の聖書の中で示されている姿である。

 (a) 堅忍とは、不敬虔な人々や、世的な人々とは何の関係もない教理である。これは、単に名ばかりのキリスト教以外に、何の知識も、何の信仰も、何の恐れも、その他何も持っていないようなおびただしい数の人々のものではない。こうした人々については、彼らが「決して滅びない」などとは云えない。逆に彼らは、悔い改めない限り、悲惨な末路に至るであろう。

 (b) 堅忍とは、偽善者や、偽りの信仰告白者たちとは何の関係もない教理である。これは、そのキリスト教信仰の本質が口先や、言葉や、見せかけの敬虔さにある一方で、心に御霊の恵みが欠けているという不幸な人々のものではない。こうした人々については、彼らが「決して滅びない」などとは云えない。逆に彼らは、悔い改めない限り、永遠に失われるであろう*1

 (c) 堅忍とは、真実の、まことの、霊的なキリスト者たちに特有の特権である。これは、キリストの御声を聞き、キリストに従っていく、キリストの羊のものである。「主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって……洗われ、聖なる者とされ、義と認められた」人々のものである(Iコリ6:11)。悔い改めて、キリストを信じ、聖い生活を送っている人々のものである。新しく生まれ、回心し、聖霊によって新しく造られた人々のものである。砕かれた、悔いた心をし、御霊に属することをひたすら考え、御霊の実を結ぶ人々のものである。「夜昼神を呼び求めている選民」のものである(ルカ18:7)。主イエスを体験によって知っており、信仰と、希望と、愛を有している人々のものである。ぶどうの木の、実を結ぶ枝や、----賢い娘たちや、----世界の光や、----地の塩や、----御国を相続する者たちや、----《小羊》に従って行く者たちである人々のものである。「決して滅びることがない」と書かれているのは聖徒たちであり、聖徒たちだけなのである*2

 私の語っていることは、傑出した聖徒にしかあてはまらない、などと考えている人がだれかいるだろうか? 使徒たちや、預言者たちや、殉教者たちなら、ことによると最後まで堅忍できたかもしれないが、普通の種類の信仰者たちにはそのようなことは云えない、と思っている人がいるだろうか? そういう人は、自分がとんでもない思い違いをしていると知るがいい。この堅忍の特権は、神の家族全員のものであると知るがいい。----最年長の者と同様、最年少の者もこれを有し、----最も強い者と同様、最も弱い者もこれを有し、----最古老の教会の柱たちと同様、恵みにおける幼子たちもこれを有していると知るがいい。最も小さな信仰も、最も大きな信仰と同じくらい、確かに滅びることはありえないであろう。最もちっぽけな恵みの火花も、最も盛んに燃えて輝くともしびと同じくらい、消しえないものであることがわかるであろう。あなたの信仰は非常にかすかで、あなたの恵みは非常に弱く、あなたの力は非常に小さく、あなたは霊的な事がらにおいて自分が子どもでしかないと感じているかもしれない。あなたは自分の回心が真実なものかどうか疑っているかもしれない。だが恐れてはならない。おののいてはならない。約束は、人の恵みの多さにではなく、その恵みが真実なものか、純粋なものかどうかにかかっているのである。青銅の1ファージング貨は、価値に開きはあっても、黄金の1ソヴリン金貨と同じくらい真実に英国内で通用する貨幣である。罪が真実に悔い改められ、キリストが真実に信頼され、聖潔が真実に追い求められているところでは常に、決してくつがえされることのないみわざがなされつつあるのである。それは地とその中にあるすべてのものが燃え尽きるときにも、立ち続けるであろう。

 堅忍については、まだ多少補足することが残っており、ぜひとも特別に注意を払ってほしいと思う。こうした補足がなければ、この教理の説明は不十分なもの、不完全なものとなるであろう。これらに言及することによって、この主題を取り巻いている困難がいくらかは晴らされ、神の子らの理解しがたいと感ずる、キリスト者経験の何がしかの点に光が投ぜられるかもしれない。

 (a) まず覚えておいてほしいのは、信仰者が最後まで堅忍すると云うとき私は、彼らが決して罪に陥ることがない、などとは一瞬たりとも云っていない、ということである。彼らは、痛ましく、不潔で、浅ましい転落をして、真のキリスト教信仰に泥を塗り、彼らの家族を傷つけ、自分自身に深く痛切な悲しみを招くことがありえる。ノアは一度酩酊に陥った。アブラハムは二度も、サラを妹にすぎないという偽わりを語った。ロトはソドムに居を構えた。ヤコブは自分の父イサクを欺いた。モーセは軽率なことを口にした。ダビデはおぞましい姦淫の罪を犯した。ソロモンはその最初の愛を失い、多くの妻たちによって道をそらされた。ヨシャパテはアハブと縁戚関係を結んだ。ヒゼキヤは神を忘れ、自分の富を誇った。ペテロは自分の主を三度も誓って否定した。パウロとバルナバは「激しい反目」を演じたあげく、互いに別行動をとらざるをえなくなった。これらはみな、見事な実例である。これらはみな、キリスト者が転落しうるという陰鬱な証明である。しかし、信仰者は決して、完全に、決定的に、最終的に転落することはない。彼らは常に、悔い改めによってその転落から立ち上がり、神とともに歩くその歩みを再び始める。たとい痛烈にへりくだらさせ、打ちひしがれはしても、彼らは決してその恵みを全く失ってしまうことはない。恵みの慰めは失うかもしれないが、恵みの実質まで失うことはない。月食時の月のように、彼らの光は一時の間暗闇になる。だが彼らが退けられたり、捨てられたりすることはない。冬の間の木々のように、彼らはしばらく葉も実も見られなくなるかもしれない。だが、そのいのちは、その根のうちにまだあるのである。彼らは過ちによって圧倒され、誘惑にわれを忘れるかもしれない。しかし、彼らは決して滅びることはない。

 (b) もう1つのこととして覚えておいてほしいのは、信仰者が最後まで堅忍すると云うとき私は、彼らが自分の魂の安全について何の疑いや恐れもいだくことがない、などと云うつもりはない、ということである。それどころか、どれほど聖い神の人も、時として自分の霊的状態について懸念するあまり、激しく悩むことがある。彼らは自分の心にある弱さがあまりにも多く、自分の行ないが自分の願うところよりもあまりにもつたないものであるため、自分の恵みが真実なものかどうか強い疑いにかられ、自分など偽善者ではないか、天国になど絶対に行き着けないのではないかと思い込む。安全であることと、自分が安全であると確かに感じることとは全くの別物である。真の信仰者たちの多くは、一生の間、確固たる希望を決して享受することがない。彼らの信仰があまりにも弱く、彼らの罪意識があまりにも強いため、彼らは決して自分がキリストの恩恵にあずかっているという確信を感じないのである。幾度となく彼らは、ダビデとともにこう云うことであろう。「私はいつか、いまに……滅ぼされるだろう」(Iサム27:1)。また、ヨブとともに云うであろう。「私の望みはいったいどこにあるのか」(ヨブ17:15)。ある人々の感じているような「信仰によるすべての喜びと平和」や、ある人々が体験しているような「御霊の証し」は、一部の信仰者たち----信仰を持っていること自体は決して否定できないような信仰者たち----には、決して到達できないように思われる。彼らが神の恵みによって召されていることは明白だが、彼らは決して自分たちの召しの慰めを十分に味わっていないように見える。しかし、それでも彼らは完全に安全なのである。彼ら自身がそれを知ることを拒んでいても関係ない。

   「幸い増せども、安泰(たしか)さ変わらじ。
    栄えを受けし 天つ霊らは」

 確固たる希望は救いにとって必要ではない。それに欠けているからといって、人が最後まで堅忍できないという理屈にはならない。かの神学の大家ジョン・バニヤンは、落胆者と心配子が、基督者や真勇者と同様、最終的には天の都に無事行き着けたと告げたとき、自分の書いていることをよく承知していた。いかに疑いに満ちた神の子どもであっても、最も強い神の子どもと同じく、その人は「決して滅びることがない」。その人はそうとは決して感じられないかもしれない。しかし、それが真実なのである*3

 (c) 最後のこととして覚えておいてほしいのは、信仰者が確実に堅忍するからといって、彼らが、油断しないで祈っていることや、種々の手段を用いることを必要としなくなったり、彼らにしきりに実際的な勧告を与えることが不要になるわけではない、ということである。それどころか、まさにそうした手段を用いることによってこそ、神は、彼らが信仰に立ち続けることができるようにしておられるのである。神は彼らを「人間の綱」で引いておられる[ホセ11:4]。神は種々の警告や条件つきの約束を、彼らの最終的安全を確保するための仕掛けの一部として用いておられる。もしもだれかが、神がお定めになった助けや典礼を軽視するとしたら、その事実そのものにより、彼らが何の恵みも持ち合わせておらず、滅びへの道をたどっていることは明白に証明されるであろう。聖パウロは、難破する前に神からの特別な啓示を受けて、自分と船に乗り込んでいるすべての人々が無事に陸地にたどりつくと知っていた。しかし、驚くべき事実は、彼が兵士たちにこう告げていることである。「あの人たちが船にとどまっていなければ、あなたがたも助かりません」(使27:31)。彼は、結末が確定されていることを知ってはいたが、その結末が特定の手段を用いることによって達成されることをも信じていたのである。聖書の中に山ほどある、信仰者に対する戒めや、条件つきの約束や、訓戒はみな、彼らの堅忍をもたらすための、天来の媒介手段の一部なのである。古の一著述家が云うように、「それらは、聖徒たちが堕落しうることを暗示しているのではない。むしろ、彼らが堕落することがないように彼らを守る防止手段なのである」。自分はそのような戒めがなくともやっていくことができると考え、それらを律法的であるとして軽蔑するような人は、その心がまだ更新されていない詐称者であると疑われてしかるべきであろう。真に御霊によって教えられている人は、通常、自分自身の弱さをへりくだりつつ実感しており、自分の良心を燃え立たせ、自分の用心を固めさせてくれるものには、何であれ感謝するものである。最後まで堅忍する人々は、いかなる手段に依存してもいないが、それでも彼らは、そうした手段なしにやっていけるわけではない。彼らの最終的救いは、彼らが実際的な勧告の数々に従うこと次第で決まりはしないが、そうした勧告に留意することによってこそ、彼らは常に最後まで持ちこたえるのである。勤勉な者、油断しない者、祈り深い者、へりくだっている者こそ、この約束----「彼らは決して滅びることがない」----を受けている者らなのである。

 私はいま、堅忍の教理について私が語るとき、自分が何を意味しているかを説明し終えた。これが、これだけが、私がこの論考で擁護すると心を決めている教理にほかならない。私が人々に願いたいのは、ここまで私が述べてきたことをよくよく考量し、私が語った言明をあらゆる面から吟味するということである。私の信ずるところ、これはいかなる検分にも耐え抜けるはずである。

 (a) この堅忍の教理には無頓着で不敬虔な生き方を助長するような傾向がある、などと云っても通用しない。そのような非難は完全に真実に欠けたものである。公正に考えれば、そのような非難は決して持ち出されえない。私は、故意に罪の中を歩んでいるようないかなる者をも、弁護するつもりはない。その人が、いかにご大層な信仰告白をしていようと関係ない。その人は自分を欺いているのである。その人の告白は虚言である。その人は、神に選ばれた人々の目印を何1つ身に帯びていない。私が擁護している堅忍は、罪人の堅忍ではなく、聖徒の堅忍である。肉的で不敬虔な生き方における堅忍ではなく、信仰と恵みの生き方における堅忍である。好んで聖くない生活をしていながら、自分は回心しており決して滅びないのだ、などと豪語している者がいるとしたら、私は、はっきり云って、その人を有望な者であるとは決して考えない。その人は、あらゆる奥義に通じ、御使いの異言で語れるかもしれないが、その生活が全く変化していない限り、私には地獄への道をまっしぐらにたどっている人間としか思えない*4

 (b) この堅忍の教理は、単にカルヴァン主義の一片にすぎない、などと云っても通用しない。真理に対する偏見を、最もたやすく引き起こす方法は、それに悪名を着せることにほかならない。人々は自分の好まない教理に対して、ネロが初期のキリスト者に対して行なったような仕打ちをする。彼らは、それに見るも厭わしい衣を着せては、それを掲げ上げて軽蔑し、こきおろすのである。聖徒の堅忍は、しばしばそのようなしかたで取り扱われてきた。人々はそれを打ち砕こうとして、何かカルヴァン主義に関する嘲りに満ちた所見を述べるか、オリヴァー・クロムウェルの臨終に関する出所の怪しい妄説を引き合いに出すかして、それで事は片づいたと考える*5。だが確かに、それよりもずっとふさわしい態度は、果たして堅忍がもともと聖書で、そしてカルヴァンの生まれるはるか前から、教えられているのかどうかを探求することであろう。決すべき問題は、この教理がカルヴァン主義的かどうかではなく、これが聖書的かどうかである。高名なホーズリ主教の言葉は広く知られている。彼は云っている。「カルヴァン主義にあなたの矢を射かける前に、まずカルヴァン主義とは何であって、何でないかを自分がわきまえているかどうか、よくよく注意を払うがいい。----近年、カルヴァン主義であるとして散々に悪口を云うのが流行りのようになっている多数の教理の中には、確かにカルヴァン主義以上の何物でもない部分もあれば、私たちに共通したキリスト教の、またプロテスタント諸教会の一般的な信仰に属している部分もあるのである。あなたは確実にそれらの見分けがつけられるようにしておくがいい。----さもないとあなたは、単にカルヴァン主義を悪し様にののしろうとしか思っていなかったのに、それよりもはるかに聖なる、はるかに高い起源を有する何かを軽率にも攻撃することになりかねない」。

 (c) 最後に、しかしこれも重要なこととして、堅忍は英国国教会のキリスト教ではない、などと云っても通用しない。これに対して人々が好き勝手に何を云おうと、少なくともこうした主張だけは、証明するのが困難であるはずである。堅忍は、英国国教会の《信仰箇条》の第十七箇条で明確に、平明に、取り違えようのないしかたで教えられている。それは、最初の五人のカンタベリー大主教である、パーカー、グリンダル、ホウィットギフト、バンクロフト、アボットの教理であった。それは賢明なるフッカーによって説き明かされた教理であって、彼の説教を読めばそれはだれにでもわかる*6。それは、英国国教会の主要な神学者たち全員が、チャールズ一世の登位まで主張してきた教理であった。その時点に至るまで、この教理を否定することは、大概は厳しく非難されていた。この教理を疑問視した教役者のうち、少なくともふたりは、ケンブリッジ大学の前で公に自説撤回状を読み上げるように強制された。つまり、ロード大主教が実権を握った時代まで、堅忍は英国国教会において公然と福音の真理であるとみなされていたのである。ロードが持ち込んたローマカトリック的なパン種とともに、真の信仰者も堕落し、滅びることがありえるとの不幸な教えがやって来た。これは厳然たる歴史の事実である。聖徒の堅忍は英国国教会の昔ながらの教理である。それを否定することこそ新奇なことなのである*7

 そろそろこの主題のこの部分を後にして、先に進むべき時である。私は、すでに言及した、わが教会の第十七箇条におさめられている、堅忍に関するはっきりとした言明以上に、明確で、明瞭なものは何も必要ない。同箇条は神に選ばれた人々についてこう語っている。「かくも卓越した神の恩恵を授けられている者たちは、神のご目的に従い、時至って働くその御霊によって召される。彼らは、恵みを通して、その召しに従い、無代価で義と認められ、子とされることにより神の子どもたちとされ、神のひとり子なる御子イエス・キリストのかたちに似たものとされ、信仰深く良い行ないのうちを歩み、ついには、神のあわれみによって永遠の至福に達することになる」。こうしたことこそ、まさしく私が主張している見解にほかならない。これこそ、私が遠い昔に承諾したキリストである。この真理を弁護することこそ、聖職者としての義務であると私の信ずるところである。これこそ、私がいま読者の方々に受け入れてほしい、信じてほしいと願っている真理なのである*8

 II. さて私は次に進んで、堅忍の教理がいかなる聖書的基盤の上に築かれているかを示したい

 ほとんど多言を要さないことだが、聖書こそは、キリスト教信仰におけるいかなる教理の正しさをも試すことのできる唯一の試験である。英国国教会の第六箇条の言葉は、黄金の文字で記されるに値している。「聖書の中に読むことができないような、あるいは、聖書によって証明できないようなあらゆることは、何人にも、信仰の箇条として信じることを……求めてはならない」。この規則に私は喜んで従おうと思う。私は聖書の最終的堅忍が神のことばの教理であると証明されえない限り、いかなる人にもこの教理を信じるように求めはしない。聖書の平明な一節は、私が思うに、人間理性の到達しうるいかなる論理的結論よりもはるかに重い。

 この論考の根拠となっている聖句を提示するにあたり、私は故意に旧約聖書からの引用はしないこととしたい。それは、だれかが、「旧約聖書の約束は、民族としてのユダヤ人だけに属しており、個々の信仰者に関係した論議には有効ではない」、などと云うかもしれないからである。私はそのような理屈が健全なものとは認めないが、いかなる人にもそのようなことを云い立てるすきは与えまい。私の見るところ新約聖書の中だけでも証拠は山ほどあり、それに限定することで私はよしとするであろう。

 また私は、そうした最終的堅忍を証明すると思われる聖句を、何の注記も注釈もなしに書き記そう。私が読者の方々に願いたいのはただ1つ、この教理の土台がいかに深く、いかに広いものであるか見てとることである。聖徒たちが最後まで信仰を持ち続けるのが、決して彼ら自身の強さや善良さのゆえではないことを見てとるがいい。彼らは、自分自身では、弱く、もろく、他の人々と同じくらい転落しがちな者らである。だが彼らの安全さの基盤は、決して破られることのない神の約束である。----無駄になされることがありえない、神の選びである。----《全能》なる偉大な《仲介者》キリスト・イエスの力である。----くつがえされることのない聖霊の内的なみわざである。私はあなたに願いたい。以下に記す聖句を注意深く読んで、果たしてそうでないか見てみるがいい。

 「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。
 「わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません」(ヨハ10:28、29)。

 「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
 「『あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。』と書いてあるとおりです。
 「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
 「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、
 「高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」(ロマ8:35-39)。

 「彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。もし私たちの仲間であったのなら、私たちといっしょにとどまっていたことでしょう。しかし、そうなったのは、彼らがみな私たちの仲間でなかったことが明らかにされるためなのです」(Iヨハ2:19)。

 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです」(ヨハ5:24)。

 「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます」(ヨハ6:51)。

 「わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです」(ヨハ14:19)。

 「生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません」(ヨハ11:26)。

 「キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです」(ヘブ10:14)。

 「神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます」(Iヨハ2:17)。

 「罪はあなたがたを支配することがないからです」(ロマ6:14)。

 「主も、あなたがたを、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところのない者として、最後まで堅く保ってくださいます」(Iコリ1:8)。

 「あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです」(Iペテ1:5)。

 「イエス・キリストのために守られている、召された方々へ」(ユダ1)。

 「主は私を、すべての悪のわざから助け出し、天の御国に救い入れてくださいます」(IIテモ4:18)。

 「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。
 「あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます」(Iテサ5:23、24)。

 「主は真実な方ですから、あなたがたを強くし、悪い者から守ってくださいます」(IIテサ3:3)。

 「神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます」(Iコリ10:13)。

 「神は約束の相続者たちに、ご計画の変わらないことをさらにはっきり示そうと思い、誓いをもって保証されたのです。
 「それは、変えることのできない二つの事がらによって、----神は、これらの事がらのゆえに、偽ることができません。----前に置かれている望みを捕えるためにのがれて来た私たちが、力強い励ましを受けるためです」(ヘブ6:17、18)。

 「わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです」(ヨハ6:39)。

 「神の不動の礎は堅く置かれていて、それに次のような銘が刻まれています。『主はご自分に属する者を知っておられる』」(IIテモ2:19)。

 「神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました」(ロマ8:30)。

 「神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです」(Iテサ5:9)。

 「神は、御霊による聖めと、真理による信仰によって、あなたがたを、初めから救いにお選びになったからです」(IIテサ2:13)。

 「神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器」(ロマ9:23)。

 「神の賜物と召命とは変わることがありません」(ロマ11:29)。

 「できれば選民をも惑わそうとして」(マタ24:24)。

 「ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです」(ヘブ7:25)。

 「あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方に」(ユダ24)。

 「私は、自分の信じて来た方をよく知っており、また、その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができると確信しているからです」(IIテモ1:12)。

 「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました」(ルカ22:32)。

 「聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください」(ヨハ17:11)。

 「彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします」(ヨハ17:15)。

 「あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください」(ヨハ17:24)。

 「もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです」(ロマ5:10)。

 「その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです」(ヨハ14:17)。

 「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです」(ピリ1:6)。

 「キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、----その教えは真理であって偽りではありません。----また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです」(Iヨハ2:27)。

 「新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり」(Iペテ1:23)。

 「主ご自身がこう言われるのです。『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない』」(ヘブ13:5)。

 私はこの三十九の聖句を読者の方々の前に置き、これらに真剣な注意を払うように願うものである。もう一度云うが、私はこれらに何の注釈も加えようとは思わない。むしろ私はこれらを、聖書を読むすべての人々の正直な常識にゆだねたい。これらの聖句のうち、あるものは疑いもなく、最終的堅忍の教理を他にまさって明確に打ち出している。これらのうちのいくつかの解釈については、人々の判断は大きく分かれるかもしれない。しかし、この三十九のうち少なからぬ数のものは、私が思うに、あまりにも平明であって、私が私の見解を確証するための言葉をこしらえなくてはならなかったとしたら、これほど取り違えようもなく自分の意図を伝えられる言葉をこしらえることができず途方に暮れていたに違いない。

 私は、聖書的な証拠として提示できるものが、こうした聖句のほか何もない、などと云うつもりは毛頭ない。だがとりあえず、この論考で主張されている教理は、大きな重みと力のある他の数々の議論によっても確証されうる、と云うだけでよしとしたい。

 (a) 私は、聖書で啓示された神のご性質の種々の属性を指摘し、いかに神の知恵と、不変性と、力と、愛と、ご栄光とがみな、聖徒の堅忍に関わっているかを示せるであろう。もし選ばれた人々が最終的には滅びることがありうるとしたら、彼らに対する神の永遠のご計画は、また現世における彼らに対する神のお取り扱いはどうなってしまうだろうか?*9

 (b) 私は、主イエスが果たしておられる職務のすべてを指摘し、万が一、信仰を有する主の民がひとりでも最終的に失われるようなことがあるとしたら、主のそうした職務遂行のしかたに対して、いかなる不面目が浴びせられるかを示せるであろう。もしも一頭でも荒野に羊を置き去りにしてきたとするなら、主はいかなる種類の《羊飼い》となるだろうか? もし自分の担当している患者がひとりでも最終的には病を根治できないとしたら、主はいかなる種類の《医者》となるだろうか? もし主がご自分の宝石を組み合わせようとなさるとき、ご自分の胸にひとたび記された名前のうち1つでも欠けているのがわかったとしたら、主はいかなる種類の《大祭司》となるだろうか? もし信仰によって主と結ばれた者のうちひとりでも離されるようなことがあったとしたら、主はいかなる種類の《夫》となるだろうか?*10

 (c) 最後に私は、聖書のどこを見ても、神に選ばれた人々のだれかが、最終的な信仰の破船をして、地獄に落ちたなどという例は、ただの1つもないという大いなる事実を指摘できるであろう。にせ預言者や偽善者についてなら記されている。実を結ばない枝や、岩地の心をした、あるいは、いばらの生えた心をした聞き手や、入れ物に油を入れていなかった娘たちや、自分のタラントを地面に埋めたしもべたちについてなら書かれている。バラムや、ロトの妻や、サウルや、イスカリオテ・ユダや、アナニヤとサッピラや、デマスについてなら書かれている。私たちは彼らの空疎な人格を見てとることができる。彼らの末路について告げられている。彼らには何の根もなかった。彼らは心が腐っていた。彼らはしばらくの間しか持ちこたえられなかった。彼らは最後には自分の場所に行くことになった。しかし、聖書のどこを見ても、疑問の余地なく恵みの証拠を示していた者が堕落しきった例など、ただの1つもない。アブラハムや、モーセや、ダビデや、ペテロのような人々は、常に自分たちの道を守り抜いた。彼らも足を滑らすことはあった。一時的に転落することはあった。しかし、彼らは決して完全に神から離れることはなかった。彼らは決して滅びることがない。確かに、もし神の聖徒たちが打ち捨てられることがありえるとしたら、聖書が、その平明な実例を1つも私たちに告げていないととうのは、奇妙な、驚くべき事実である。

 しかし、いま私が指摘したような領域に入っていくとしたら、時間も紙数も足りないであろう。私の立場の立証は、すでにあげた聖句にのみ依拠させた方がよいと思う。これらの聖句によっても全く説得力を認められないような精神の人が、他の議論によって影響を受けるとは思えない。私にしてみれば、これらは、ひとまとめにして考えるとき、膨大な証拠の山を含んでおり、一キリスト者として、到底堅忍が真理であることを否定できない。なぜかといえば、もしこれを否定するようなことになれば、福音の中のいかなる教理にも難癖をつけることができるように感じるからである。私は、もし、私が引用したいくつかの聖句のように平易な聖句を説明し去ることができるとしたなら、キリスト教のほとんどすべての主要な真理を説明し去ることができるように感じる。

 私も、いくつかの聖句や聖書箇所が、一見すると、私がこの論考で主張している教理とは正反対のことを教えているかのように見受けられることは百も承知している。多くの人々がそうした聖句に非常な重きを置いていて、それらによって、神の聖徒が滅びうること、堕落しうることは証明されていると考えていることも承知している。私が云いたいことはただ1つ、私はこうした聖句を注意深く吟味してきたが、それらのうちには、堅忍に関する私の意見を変更するだけの理由を何1つ見いださなかった、ということである*11。それらの数は少ない。それらの意味は、私の引用した三十九の聖句の多くのものにくらべれば、疑いもなく議論の余地あるものである。そのすべては、堅忍の教理と矛盾しないような形で解釈することが可能である。私が聖書の講解において、無謬の規則として主張するもの、それは、もし2つの聖句が矛盾するように思われたならば、より平明でない方の聖句が、より平明な方の聖句に対して譲歩しなくてはならず、より弱い方が、より強い方に対して譲歩しなくてはならない、ということである。ほとんどの聖句を調和できる教理の方が、ほぼ間違いなく正しい教理である。ほとんどの聖句を互いに相争わせるような教理は、ほぼ間違いなく誤っている。

 私は読者の方々に願いたい。もし私がここまで語ってきたすべてによっても納得しないというのであれば、私が堅忍を擁護するために引用した聖句と、堅忍に反対するために普通引用される聖句とを、それぞれ一覧表にして並べてみるがいい。それらを1つずつ比較考量してみるがいい。公平で、正直な思いによって判断するがいい。明確で、取り違えようのない主張の数が多いのは、どちらの表の方だろうか? 説明し去ることのできない言葉の数が多いのは、どちらの表の方だろうか? どちらの表の方が力強いだろうか? どちらの表の方が弱々しいだろうか? どちらの表の方が弾力的だろうか? どちらの表の方が動かしがたいほどに確固としているだろうか? もし、このような世界においても、この問題が、偏見を持たない、聡明な陪審員によって審理されうるとしたら、私はその判決がどちらに下されるかについて少しも疑いはしない。私の堅く信じ、かつ確信するところ、聖徒の最終的堅忍は、聖書という土台の上に深々と築かれており、聖書を審判とする限り、打ち崩されることはありえない

 III. 第三に私が行ないたいのは、多くの人々がなぜ堅忍の教理を拒否するのかといういくつかの理由を指摘することである。

 信仰を告白するキリスト者の多数が、この論考で表明された見解と全く意見を異にしていることは否定できない。この見解を多くの人々が忌み嫌い、危険なもの、熱狂主義的なもの、狂信的なものとみなし、折あらば人々に対してこれを信じないように警告していることは私も重々承知している。さらに私が承知しているのは、神の聖徒も堕落しきって滅びることがありえる、と主張している人々の中にも、数多くの聖く、自己否定的で、霊的な考え方をしている人々がいるということである。----それは私が、地上では必ずしもその教えに賛成できなくとも、天国では喜んでその足元に座りたいと思うような人々である。

 このような事態がある以上、できればなぜ堅忍の教理がこれほど多くの人々から拒否されているのかという理由をつきとめることは、非常に深い関心事となって当然であろう。これほど多くの聖書箇所を根拠に主張されうる教理が、なぜ頑強な反対を受けるなどということがあるのだろうか? 改革された英国国教会の最初の百年間には、疑問視することなどまず許されもしなかったような教理が、いかにして今では、これほど多くの人から拒否されるようになってしまったのだろうか? 過去二世紀の間に、いかなる新見解が生じたために、この善良なるキリストの老僕が、お役ご免にならざるをえなくなったのだろうか? 私の確信するところ、これを探求することは、今日において非常に重要なことである。この問いかけには、一見するところよりも、はるかに大きなことがかかっている。この主題に多少の光を投じようと努めることは、確かに時間の無駄ではないと思う。

 まず前置きとして認めたいのは、多くの善良な人々が堅忍の教理を拒否するのは、単に、それが彼らにとって強烈すぎるからでしかない、ということである。現時点における、おびただしい数の誠実なキリスト者たちは、決して強烈なことに耐えられない。彼らの信仰的な体質はあまりにも虚弱で、彼らの霊的消化力はあまりにもか弱いため、彼らには常に「乳を与えて、堅い食物を与え」てはならないように思われる。彼らに向かって強烈に恵みのことを語れば、彼らはそれは無律法主義だと断ずる!----聖潔のことを強烈に語れば、それは律法的だと断ずる!----選びのことを強烈に語れば、それは偏狭なカルヴァン主義だと断ずる!----個人の責任と自由意志について語れば、それは粗野なアルミニウス主義だと断ずる!----つまり、彼らはいかなる種類の、いかなる方向における強烈さにも全く耐えられないのである! もちろん彼らは堅忍の教理も受け入れることができない。

 私は、こうした人々のことはそっとしておこう。私は彼らを気の毒に思う。現時点のキリスト教会には、こうした人々が悲しいほど多すぎる。私に願えることはただ、彼らがより強壮な霊的健康を得て、より広いものの見方ができるようになり、霊的知識においてよりすみやかに成長するようになることだけである。私の論考のこの部分において、私が念頭に置いている人々は、彼らとは違う種類の人々であり、そうした人々に対していま私は語りかけようと思う。

 (1) 私の信ずるところ、多くの人々が堅忍を信じられない1つの理由は、一般に彼らが、キリスト教全体の系統だった知識に欠けているからである。彼らは、福音を構成する種々の教理の性質についても、順列についても、釣り合いについても、何ら明確な見方を持っていない。福音に属する個々の真理は、彼らの精神の中で何ら明確な立場を占めていない。福音の全体的輪郭は、彼らの理解の中におぼろにしか映し出されていない。彼らにあるのは単に、キリスト教会に所属し、キリスト教の信仰箇条をもれなく信ずるのは良いことだという漠然とした考えである。彼らのいだいている、ゆらゆらとした、薄ぼんやりした観念によると、キリストは彼らのために何かを行なってくださり、彼らはキリストのために何かを行なうべきであり、もし彼らがそれを行なうなら、最後には万事がうまくいくのである。しかし、これ以上のことを彼らは、事実上、全く何も知らない! ロマ書やガラテヤ書やヘブル書の中にある偉大な体系的言明について、彼らは途方もなく無知である。《義認》についての明確な説明を彼らに求めることなど、高等数学の問題を解くか、サンスクリット語で手紙を書くよう求めるのと同じである。この主題は、彼らがその指先ですら一度も触れたことのないものである。これは重病であり、英国ではあまりにも蔓延している病である。不幸にしてこれは、卓越した国教徒として通っている幾万もの人々の病である。このような人々に、堅忍を信ずるのを期待する方がどうかしている。人は、義と認められるとはいかなることかを知りもしないでは、最後まで堅忍するとはいかなることかなど、当然理解できないに違いない。

 (2) 私が思うに、多くの人々が堅忍を信じていないもう1つの理由は、人と人との間に区別立てをするような、いかなる信仰体系をも彼らが嫌っているからである。少なからぬ数の人々は、会衆を異なる種別の人々に分割するようなキリスト教教理に全く同意しない。彼らは、ある種別の人々の方が、他の種別の人々よりもましであるとか、神の前でより望ましい状態にあるというように語る教えを毛嫌いする。こうした人々は、「そうした類の教えはみな愛がない」、と云ってこきおろし、「私たちは、いかなる人についても良いことを期待すべきである。あらゆる人は天国に行くものと考えるべきである」、と云う。彼らの考えによると、ある人には信仰があるが別の人には信仰がないとか、ある人は回心しているが別の人は未回心であるとか、ある人は神の子どもだが別の人は世の子どもであるとか、ある人は聖徒だが別の人は罪人であるとか語るのは、全くの誤りなのである。彼らは云う。「一体いかなる権利があって私たちがそのようなことに判断を差し挟めるのか? 私たちには到底わかりっこないはずである。私たちが良い状態にあると云う人々は、他の人々よりも全然ましではないことが大いにありうる。----偽善者や、詐称者であることがありうる。----私たちが悪い状態にあると云う人々は、それ以外の人々と全く同じように天国への道のりをたどっていることが大いにありうる。心の奥底には良い心をしていることが大いにありうる」、と。----自分が確実に天国に行けると感じている人や、自分の救いに確信を持っている人について云えば、彼らはそれを全く言語道断であると考える。「だれひとり確実なことはわからないはずだ。私たちはあらゆる人について最善を期待すべきだ」、と。----現代には、こういった種類の人々があまりにも多い。もちろん堅忍の教理は、彼らにとっては全く我慢のならないものである。人が、いかなる人についても選ばれた人であるとか、恵みを有しているとか、神のいつくしみの特別の目印をその隣人にまさって享受しているとかいうことを全く認めようとしないとき、理の当然としてその人は、だれかが堅忍の恵みを有していることがありうる、などということを否定するであろう。

 (3) 私が思うに、多くの人々が堅忍を信じようとしない、もう1つのよくある理由は、救いに至る信仰の性質についての不正確な見方である。彼らは信仰のことを、単なる感情か印象でしかないとみなしている。彼らは、だれかが福音の説教に少しでも感銘を受けていたり、キリストについて聞くことに少しでも喜びを現わしているのを見ると、たちまちその人を信仰者であると断定する。だが、やがてその人の感銘は薄れ去り、その人のキリストや救いに関する興味は完全になくなってしまう。その人が持っていたように見えた信仰はどこにあるのか? それは消えてしまった。その人を信仰者であると宣言した友人たちは、これをどう説明するだろうか? 彼らにできる説明はただ1つ、「人は信仰から堕落することがありえる」、と云い、「堅忍などというものはない」、と云うことだけである。そして、つまり、これが彼らのキリスト教信仰の確立した原理となるのである。さて、これは有害な過誤でり、私の恐れるところ、多くの方面で悲しいほどに良く見受けられるものである。その原因をたどれば、信仰的な感情の真の性質についての無知へと行き着く。人々が忘れているのは、人間精神の中には、恵みとは何の関係もないような、数多くの宗教感情が存在している、ということである。「岩地」のような心をした聞き手は、みことばを喜んで受け入れたが、そこには根がなかった(マタ13:20)。信仰復興の物語を読めば必ず、そこにはしばしば、非常に多くの人々が、見かけ上は信仰的な印象と見えるものを、御霊の真のみわざなしに生じさることがてあったと示されている。救いに至る信仰は、ちょっとした突発的感情よりもはるかに深く、強大なものである。それは感情だけの動きではなく、良心と、意志と、理解力と、内なる人の総体的な動きなのである。それは明確な知識の結果である。それは、単にかすり傷を負った良心からではなく、徹底的に覚醒した良心から生ずる。それは、じっくり考え抜いた末に、自発的に、へりくだりつつキリストにより頼むことによって自らを現わす。そのような信仰は神の賜物であり、決してくつがえされない。信仰を単なる感情の問題にするとき、堅忍を主張することなどもちろん不可能である。

 (4) 私が思うに、多くの人々が堅忍を信じようとしない、もう1つの理由は、今しがた言及したものに非常に近い。それは、回心の性質についての不正確な見方である。少なからぬ人々は、ある人の人格が良い方に変わったしるしを見るや否や、それを回心であると宣言する。彼らが忘れているのは、春先の木々に咲いた多くの花々が、秋には何の実も結ばないことがありえるということ、新しく塗料を塗ったからといって古扉が新品になるわけではないということである。ある人々は、もしだれかが何らかの説教に影響されて泣いているのを目にすると、たちまち、それは回心であると断定する! 他の人々は、もし隣人が突然、飲酒や、悪態や、骨牌遊びをやめて、陪餐者になり、立派に信仰を告白するようになると、たちまち勢い込んで、その人は回心したのだと云う! 数え切れないほどの場合、そうした成り行きの結果は失望に終わる。回心であると彼らが考えたものは、しばしば外的な生活改善でしかなく、心が全く変化していなかったことがわかる。回心したとされる隣人は、豚が身を洗って、またどろの中にころがるように、時としてその昔ながらの悪習に舞い戻る。しかし、そのとき不幸にも人々は、自分が間違っていたとは決して認めたがらない生まれながらの心によって、こうした場合、間違った結論を引き出してしまう。その人が全く一度も回心してはいなかったのだと云うかわりに、彼らは、「彼は回心したが、後でその恵みを失って堕落したのだ」、と云うのである。これに対する真の解決策は、回心について正しく理解することである。回心とは、多くの人々が思い描いているような、安っぽく、手軽で、ざらにあることではない。それは心に大いなるみわざが及ぼされること、世界をお造りになったお方以外の何者ももたらすことができず、いつまでも残り続け、いかなる試練にも耐え抜けるみわざである。しかし、いったん回心について低俗で皮相的な見方をとったが最後、最終的堅忍を主張することなど不可能であるとわかるであろう。

 (5) 私が思うに、多くの人々が堅忍を信じようとしない、もう1つのごく普通の理由は、バプテスマの及ぼす効果についての不正確な見方である。彼らが自分たちの神学の主要点として据えているのは、バプテスマを受けたすべての者はバプテスマによって新しく生まれ、例外なしに聖霊の恵みを受け取っている、ということである。彼らの意見を支持する平明な聖句など1つもないにもかかわらず、また国教徒としての彼らが記名承諾しているはずの第十七箇条に真っ向から逆らって、彼らはそれでも、バプテスマを受けたすべての人は、必然的に「新生している」、と告げるのである。もちろん、こうしたバプテスマについて見解は、真の恵みが決してくつがえされることはありえないという教理にとって完全に破壊的なものである。真昼の光のように明らかなことだが、バプテスマを受けた人々のうち、おびただしい数の人々は、一生の間、恵みの火花すら示すことが決してなく、神によって生まれたというごくかすかな証拠すら見せることがない。彼らは無頓着で世俗的な者として生き、無頓着で世俗的な者として死に、どこをどう見てもみじめに滅びることになる。私がいま言及しているような見方に従えば、「彼らはみな恵みから落ちてしまった! 彼らはみな恵みを得ていた! みな神の子どもとされていた! しかし、彼らはみな自分の恵みを失ってしまった! 彼らはみな悪魔の子どもとなってしまった!」 私には、自分がこのような教理について何か所見を述べることができるとは思えない。だれか、できるものなら、これを聖書と調和させてみるがいい。私の云いたいことはただ、「もし洗礼新生」が正しいとしたら、それは最終的堅忍の息の根を止める、ということである*12

 (6) 私が思うに、多くの人々が堅忍を信じようとしない、もう1つの理由は、教会についての不正確な見方である。彼らは、「義人もいれば悪人もいる」目に見える教会と、神に選ばれた人々、真の信仰者以外の何者も含んでいない目に見えない教会との間に、何の区別もつけない。彼らは、一方に属している特権と、祝福と、約束を、もう一方にあてはめる。彼らは、目に見える教会を、その不敬虔な成員の群衆とともに、「キリストの神秘的なからだ、《花嫁》、《小羊》の妻、《聖なる公同の教会》」などと呼んでいる! 彼らはフッカーが遠い昔に指摘したことを見てとろうとしないが、これは彼を敬うと云っている人々が覚えておくべき言葉である。----すなわち、こうした栄光に富む称号のすべては、いかなる目に見える教会にも正当には属しておらず、神に選ばれた人々という神秘的な集まりに属しているのである。こうしたあらゆる混同の結果は確かであり、明らかである。こうした、人の作り上げた体系に立つとき、彼らが結論せざるをえないのは、キリストのからだに属する幾万もの人々には、何のいのちも、何の恵みも、自分の《かしら》に対する何の共感もなく、最後には永遠の滅びという末路を迎え、地獄で、失われたキリストの肢体になる、ということである! もちろん、こうした調子であれば、彼らが堅忍の教理を主張することなどありえない。いったん非聖書的な観念----目に見える教会のあらゆる成員が、その教会籍を理由として、キリストの肢体であるという考え方----をいだいてしまえば、この論考の教理は打ち捨てなくてはならない。おゝ、まことにフッカーの所見は至言である。「神の神秘的な教会と、目に見える教会との違いを注意深く見分けなかったがために犯されてきた過ちは、決して少ないものでも、軽いものでもない」。

 私は、ここまで語ってきたことに、このページを読んでいるあらゆる方々が真摯に、また祈り深く注意を払うように勧めたい。私が、一見退屈と思われかねない危険を冒してまでも、こうしたことを長々と語ってきたのは、これらが途方もなく重要であると深く確信しているがゆえである。私の確かに信ずるところ、もしこの論考の何らかの部分が考察に値するとしたら、それはこの箇所である。

 私はあなたに切に願いたい。キリスト者が信仰において健全であること、福音の全体系について明確な聖書的知識で武装しておくことが、いかに重要であるかを、よくよく見てとるがいい。私が恐ろしく思うのは、いかなる教理的な問題も意見の問題にすぎないとみなし、「熱心な気概のある」人であれば、いかなる教理を主張していようと正しいとみなそうとするような傾向が、日に日に増大しつつあることである。私はあなたに警告する。こうした傾向に屈するとき確実にもたらされる結果は、漠然とした、低俗な、つかみどころのない神学、----はっきりとした希望、はっきりとした動機、はっきりとした慰めを全く含んでいない神学、----それが最も必要とされるときに、患難の日に、病の折に、死の床につく時に、手ひどく信頼を裏切ることになる神学である。

 このような警告を差し出すことが、感謝されない務めであることは重々承知している。こうした警告を与える者が、狭量で、心の狭い、排他的な人間だと呼ばれる覚悟をしなくてはならないことは百も承知である。しかし私は、堅忍という主題についてはびこっている多くの過誤を調べてみるとき、いかなる人々にも、教理には細心の注意を払うよう力説すべき火急の必要があると、かつてないほどに見てとらざるをえないのである。おゝ、自分はキリスト教の教理を信じていると語るとき、自分の意味していることを知っておくようにするがいい。あなたの希望について弁明できるようになるがいい。キリスト教信仰において、あなたが何を真理と考え、何を偽りと考えてるかを云えるようになるがいい。そして、決して決して忘れてはならない。信仰における健全さの唯一の土台は、聖書の聖句の徹底的な知識にある、ということを。

 最後に私があなたに切に願いたいのは、いかにキリスト教信仰における1つの過誤が別の過誤に至らせるものかということである。偽りの諸教理には密接なつながりがある。偽りの教理を1つしか信じないでいる、などということはほとんど不可能である。いったん人が、教会や礼典についての過ちに陥ったなら、その人がいかに激しく逸脱するか、最後にはどこまで行き着くかは、全くわからない。それは根源における過ちであって、それはその人のキリスト教信仰のあらゆる道筋に影響するのである。バプテスマに関する過ちは、私がいま述べていることを驚くほど例証している。これは、ある人の神学全体を一色で染め抜いてしまう。それは知らず知らずのうちに、その人のいだく義認や、聖化や、選びや、堅忍の見解に影響をもたらす。それは、主要な信仰箇条のすべてについて、その人の精神を、もつれあった混乱の迷路で満たしてしまう。その人は、平明な聖句を1つとして根拠に引用できないような1つの理論から始めて、この理論を前に、聖書の平明な箇所を片っ端から踏みにじる! むろんそうした箇所は、彼のお気に入りの理論にとって邪魔者だからである。それゆえそれらは、常識的に読みとれるような意味のことを語っているはずがないとされる! 私たちは、小さな罪にも執拗に目を光らせておくべきであるのと同じく、小さな偽りの教理にも執拗に目を光らせているべきである! 偽りの教えに関する使徒パウロの言葉を覚えておくがいい。----「わずかのパン種が、こねた粉の全体を発酵させるのです」(ガラ5:9)。

 IV. 次に進んで、私が最後のこととして言及したいのは、最終的堅忍の教理がなぜ大いに重要性を有しているかといういくつかの理由である。

 私は、堅忍が重要であると語るとき、一瞬たりとも、それを受け入れることが救いにとって必要であるなどと云うつもりはない。聖徒も堕落しきってしまうことがありえると、一生の間信じ続けてきた、おびただしい数の人々が、天国に行ったことを私は無条件で認める。しかし、こうしたことにもかかわらず、この論考で主張されている教理がどうでもいい問題であるということにはならない。それを信じずに救われている人は、疑いもなく良い状態にはある。だが私の確信するところ、それを信じて救われている人は、はるかに良い状態にあるのである。私はこれが、神の子らの主要な特権の1つであると主張するものである。そして、福音に含まれているいかなる特権も、それを見失うとき魂に害がもたらされずにはすまないと私は考えている。

 (1) 堅忍が大いなる重要性を有する教理である理由は、それが福音の言明全体に、1つの強烈な色合いを投げかけているためである。

 福音の壮大な特徴は、それが喜びの告知である、ということである。それは、反逆の世に対する平和の使信である。遠国から、思いもよらず、何の価値もない者に対して届いた、良い知らせである。生まれながらに失われ、滅びのうちにあり、破産した私たちのような者にさえも、希望はあるのだ、という喜びの告知である。----それは、赦される希望、神と和解させられる希望、栄光の希望なのである。またそれは、この希望の土台が強く、深く、広いという喜びの告知である。----その土台は、ひとりの《救い主》の贖罪死と恵み深い仲介の上に築かれているのである。またそれは、この《救い主》が、実際に生きておられる人格、神の御子イエスであるとの喜びの告知である。このお方は、ご自分によって神に近づくすべての人を、完全に救うことがおできになり、そのように救える力があるというだけでなく、それに劣らぬほどあわれみ深く、同情深く、喜んで救おうとしておられる。またそれは、この《救い主》によるその赦しと平和の道が、考えうる限り最も単純なものであるとの喜びの告知である。それは私たちに手の届かないほど高い天にあるものでも、私たちが探りきわめられないほど深い海の底にあるものでもない。それは単に信じて、信頼して、救われるために自分の身を全くイエスにゆだねるだけでいい。またそれは、信ずる者すべてがたちまち義と認められ、あらゆる点において赦されるとの喜びの告知である。彼らの罪は、いかに多くとも、洗い流される。彼らの魂は、いかにふさわしからざるものでも、神の前で義とみなされる。彼らはイエスを信じている、それゆえ彼らは救われているのである。これこそ良い知らせである。これこそ喜びの告知である。これこそ福音の壮大な特色たる真理である。まことに幸いなことよ、このことを知り、信じている者は!

 しかし、しばしの間、考えてみるがいい。もし私が言葉を継いで、こうしたあわれみのすべてを受け取った後でも、あなたが、やがてこれらを完全に失ってしまうことがありえる、と云うとしたら、それはいかに大きな違いを福音の響きの中に奏でるだろうか? もし私があなたに、あなたはこうした特権のすべてを喪失することがありえるし、キリストの血によって証印を押されたあなたの赦しも、再び取り消されかねない日ごとの危険にさらされているのだ、と告げるとしたら、あなたは何と感ずるだろうか? あなたの安全はまだ不確かなもので、あなたはまだ滅びることがありえるし、結局は、決して天国に行き着けないことがありえるのだ、と私が告げるとしたら、あなたは何と考えるだろうか? おゝ、これは「何たる拍子抜け」に思われることか! おゝ、栄光の福音の恵みや美しさのどれだけ多くが消失し、かき消されてしまうことか! だが、これこそ文字通りに、また正確に、堅忍を否定することによって、私たちにもたらされざるをえない結論なのである。

 いったん神の聖徒が滅びうると認めるとしたら、それは、福音の王冠からその最も輝かしい宝石をもぎとるも同然であると思われる。私たちは断崖の淵にぶらさがっているのである。私たちは死ぬまで、すさまじい緊張感の中に留めおかれることになる。私たちには励ましとなる恵み深い約束がいくらでもあるのだ、ただし、私たちが持ちこたえさえすればだが、と告げるのは悪ふざけでしかない。それは病人に向かって、健康になりさえすれば、強くなれますよ、と云うようなものである。あわれな患者は自分が健康になれるという確信を全く感じていないし、あわれな弱い信仰者は自分のうちに、自分が持ちこたえられるという力を全く感じていないからである。その人は、今日はカナンにいるかもしれないが、明日はエジプトで奴隷になっているかもしれない。今週は狭い道にいるかもしれない。だがそれがどうであれ、来週は広い道に逆戻りしているかもしれない。今月は義と認められ、赦罪を受け、赦された人であるかもしれない。だが、来月には、その人の赦罪はすべて無効にされ、その人は罪に定められた状態になっているかもしれない。今年は信仰を持っており、神の子どもであるかもしれない。だが来年は悪魔の子どもとなり、キリストとは何の関係も、全くあずかることもないかもしれない。こうしたことすべてのどこに良い知らせがあるだろうか? 喜びの告知はどうなってしまうだろうか? まことにこのような教理は、私には福音の喜びを根絶してしまうように思われる。だがしかし、もし私たちが聖徒の最終的堅忍を否定するとしたら、こうした教えこそ、私たちがいだかざるをえない教理なのである*13

 神をほむべきことに、私は神のことばの中に、それとは別種の福音を見ることができる。私の目に聖書が教えていると見えるところ、ひとたびキリストに対する信仰の生活を始めている人は、疑いもなく、背教から保たれ、栄光の終幕へと至ることになる。いったん神の恵みによって生きた者にされたならば、その人は永遠に生きることになる。いったん罪の墓からよみがえらされ、新しい人とされたならば、その人は決して墓の中に戻ることはなく、もう一度「罪過と罪との中に死んでいた」古い人になることはない。その人は神の御力によって守られる。その人は、その人を愛してくださった方によって、圧倒的な勝利者となる。永遠の神がその人の避け所である。その人の下には永遠の腕がある。その人がその恩恵にあずかっている愛は永遠である。その人がまとっている義は永遠である。その人が享受している贖いは永遠である。その感覚慰めであれば、その人の無頓着さによって失われるかもしれない。しかし、そのこと自体は、いったん信じた後では、永遠にわたってその人のものなのである。

 ものを考えることのできる人はだれでも、疲れて、重荷を負った罪人に対するこの2つの語りかけを眺めてみて、どちらが神の恵みの福音らしく思えるか自分で判断するがいい。一方に立っている教えでは、こう云われている。「主イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、あなたも救われます。いったん信じたならば、あなたは決して滅びることがありません。あなたの信仰は決して完全になくなることは許されません。あなたは聖霊によって贖いの日のために証印を押されることでしょう」。----もう一方に立っている教えでは、こう云われている。「主イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、あなたも救われます。しかし、信じた後では注意していなさい。あなたの信仰はなくなることがありえます。あなたは堕落することがありえます。あなたは御霊をあなたから追い出してしまうことがありえます。あなたは最後には永遠に滅びることがありえます」。----この2つの教えのどちらが、より良い知らせを含んでいるだろうか? どちらが、喜びの告知らしいだろうか? どちらの語りかけを受けても罪人にとっては同じだろうか? 罪人に向かって、信じるならば堕落しない限りにおいてあなたは救われます、と云うのと、信じるならば永遠に救われます、と云うのとは、どうでもよい問題だろうか? 私はそうとは思えない。この2つの教えの違いは、非常に大きいと思う。それは一月と六月の違いである。たそがれと真昼の違いである。

 私は自分自身のことについて語ろう。私は他人の経験について答えることはできない。堅固な平安を得ようとするなら私は、自分の現在の立場についてと同じように、自分の将来の見込みについても、ある程度のことを知らなくてはならない。きょう自分の赦しを見てとることは快いことである。だが私は明日のことを考えないではいられない。私をキリストに導き、私に悔い改めとキリストに対する信仰を与えてくださったお方が、決して私から離れることも、私を捨てることもないと告げられたなら、私は堅固な慰めを感ずる。私の足は岩の上に立っている。私の魂はがっしりとつかまれている。私は無事に家に帰り着ける。だが、その一方で、キリストのもとに導かれた後で私は、自分で警戒しかなく、自分で用心し、祈り、心がけることによって、御霊が私から離れるか離れないかが決まると告げられるとしたら、私の心はたちまちしおれてしまうであろう。私は流砂の上に立っている。私は折れた葦によりかかっている。私は決して天国に行き着けない。約束のことを私に告げても何にもならない。それらは、私がその約束にふさわしく歩む限りにおいて私のものとなるのである。キリストのあわれみのことを私に告げても何にもならない。私は、そのあわれみにあずかる資格を自分の怠惰さやわがままによってことごとく失ってしまうかもしれない。堅忍の教理が欠けていることによって、キリストの福音全体は、異なる色で染め上げられてしまうように思われる。あなたも私が、これを大いなる重要性を有するものであるとみなしても、不思議には思わないに違いない。

 (2) しかし、堅忍の教理がやはり重要性を有するものであるのは、それが、キリスト教信仰において、どっちつかずにふらついているすべての人々に対して特別の影響力を持つべきものであるからである。

 キリスト教会には、こうした描写にあてはまる人々がたくさんいる。キリストの福音が宣べ伝えられているあらゆる会衆の中の、幾千もの人々は、何が正しいことかは知っていながら、自分の知識に応じて行動するだけの勇気を持ち合わせていない。彼らの良心は目覚めさせられている。彼らの精神はそれなりに光を受けている。彼らの感情は部分的には、自分の魂の価値に関する感覚を呼び覚まされている。彼らは、自分のとるべき通り道を見てとっている。彼らはいつかはそこに足を踏み入れたいと望んでいる。しかし現在のところ彼らは手をこまねいて待っている。彼らは十字架を負って、キリストを告白しようとはしない。

 それでは、何が彼らを引き留めているのだろうか? 著しい割合において、彼らが事を始めないのは、自分がやがてしくじって、堕落するのではないかと恐れているがためである。彼らは、もしもキリストに仕えるとしたら、自分たちの前に無数の困難があるのを見てとっている。彼らは全く正しい。そこに多くの、また大きな困難があることを否定しても無駄である。彼らは、震えながら大海の淵に立ち、船に乗り込めと叫ぶ私たちの声を耳にしているが、うねり、砕け散る波涛を見るにつけ、心がくじけるのである。彼らはその海域で多くの小舟が、右へ左へ吹きまくられ、散々に苦闘しながら先に進みつつあるのに目を注ぎ、また、それらが逆巻く波に呑み込まれそうになり、決して無事に港に行き着けないかのように見えるのを眺めている。「そんなことをしても何にもならない」、と彼らは感じる。「そんなことをしても何にもならない。私たちは堕落するに決まっている。私たちはまだキリストに仕えることはできない。そんなことは不可能だ」。

 さて、このように立ち尽くしている人々に、何にもまして勇気を与えるものは何だろうか? その航海に乗り出させるために彼らの心を何よりも元気づけるものは何だろうか? 彼らを何にもまして鼓舞し、その思いを勇気づけ、大胆に船出の決行へと至らせるものは何だろうか? 私はためらいなく答える。最終的堅忍の教理である。

 私は喜んで彼らに告げるであろう。キリストに仕えることにいかに大きな困難が伴おうとも、彼らをして、それらすべてを乗り越えさせ、勝利させる恵みと力が貯えられているのである、と。私は彼らに告げるであろう。彼らが目にしている、こうしたあわれな、祈りつつある、心砕けた航海者たちは、今にも難破しそうに見えはしても、ことごとく、すでに港に入港しているのと同じくらい安全なのである、と。彼らはみなそれぞれ、ひとりの水先案内人を乗船させており、その方は彼らをいかなる嵐の中をも安全に乗り越えさせていくであろう、と。彼らはそれぞれ、永遠の神と、決して断ち切ることのできない綱で結び合わされており、みな最後には無事に彼らの主の右側に現われることになるのだ、と。しかり。そして私は喜んで彼らに告げるであろう。彼らもみな、始めさえするなら、栄光ある終幕に至るであろう、と。私は彼らに知らせるであろう。もし彼らが自分をキリストにゆだねさえするなら、彼らは決して難船することはないであろう、と。彼らはサタンによって奪い取られることはない。彼らは決して沈むままに放置されて、恥を見るようなことはない。試練は受けるかもしれないが、御霊によって耐え忍ぶ力が与えられないようなものは1つもない。誘惑には遭うかもしれないが、御霊によって抵抗する力が与えられないようなものは1つもない。ただ始めるがいい。そうすれば彼らは勝利者となるであろう。しかし、最大の問題は始めるということである。

 私の堅く信ずるところ、なぜかくも多くの腰の定まらないキリスト者が断固とした信仰告白を行なうことから尻込みするのかという理由は、堅忍の教理が与えるはずの励ましを欠いているからである。

 (3) 堅忍の教理が重要性を有しているのは、それが真の信仰者たちの思いに特別の影響力及ぼすはずのものであるからである。

 真の信仰者は、いかなる時代にも非常に少数である。彼らは小さな群れである。しかし、その群れの中にさえ、強い信仰の持ち主と呼ばれうる者はほとんどなく、信じることによる間断なき喜びと平安を大いに知っている者、疑いや不安や恐れによってほとんど打ちひしがれることのない者はめったにいない。

 天国への道が狭いことを否定してもしかたないであろう。信仰者たちの信仰を試みるものは数多くある。彼らには、この世が理解することのできない試練がある。彼らの内側にあるのは、弱く、欺きがちで、信頼の置けない心である。----熱していてほしいときに冷たく、----前向きであってほしいときに後ろ向きで、----油断せずにいるよりは眠り込むことの多い心である。彼らの外側にあるのは、キリストの真理をも、キリストの民をも愛していない世である。----中傷や、あざ笑いや、迫害に満ちた世、----彼ら自身の最愛の親族がしばしば手を組む世である。彼らの間近にいるのは、じっとしていない悪魔である。六千年もの間、人間の心を読んできて、誘惑の種類や頃合を正確に知っている敵、----彼らの途上に罠を仕掛けることを決してやめない敵、----決してまどろむことも眠ることもない敵である。彼らには、他の人々と同じく、気を遣わなくてはならない人生の心労がある。----子どもたちのための心遣い、----取引上の心遣い、----しもべたちに関する心遣い、----金銭上の心遣い、----地上的な計画や取り決めに関する心遣い、----あわれな弱い肉体に関する心遣いが、日々彼らの魂に押し寄せてくる。信仰者たちが時として落胆することがあるとしても、だれが不思議に思えるだろうか? むしろひとりでも信仰者が救われることに驚嘆しない者があるだろうか? まことに私がしばしば思うところ、救われたひとりひとりの人格の救いは、イスラエル人たちの紅海横断よりも大きな奇蹟である*14

 しかし、信仰者の恐れや不安に対する最上の解毒剤は何だろうか? その人がまだ見ぬ将来に向き合い、うんざりするような過去を思い起こすときに、何にもましてその人を朗らかにしてくれるものは何だろうか? 私はためらうことなく答える。神に選ばれた人々の最終的堅忍の教理である。その人は、自分のうちで良いわざをお始めになった神が、決してそれをくつがえされないようにしてくださると知るがいい。その人は、キリストの小さな群れの足跡がみな一方向にしか続いていないことを知るがいい。彼らは過ちを犯すかもしれない。困惑させられるかもしれない。誘惑に遭うかもしれない。しかし、彼らのうちひとりとして失われた者はない。その人は、イエスが愛しておられる者を、イエスは最後まで愛されることを知るがいい。その人は、イエスがご自分の群れのいかに小さな小羊もみすみす荒野で滅びるままにまかせたり、ご自分の花壇のいかに華奢な小花をもみすみすしぼませて、枯らしたりなさらないことを知るがいい。その人は、獅子の穴の中のダニエルや、燃えさかる炉の中の三人の少年や、難破船の中のパウロや、箱舟の中のノアたちの中にひとりとして、現代、キリストのうちにある個々の信仰者にまさって気遣われ、安全を確保されてはいなかったことを知るがいい。その人は、自分が御父と御子と聖霊との全能の力によって囲われ、城壁をめぐらされ、防護され、防衛されていること、滅びることなどありえないことを知るがいい。その人は、今ある者も後に来る者も、----人間も悪霊も、----内側にある心遣いも外側にある悩みも、----キリスト・イエスにある愛から神の子どもをひとりたりとも引き離す力はないと知るがいい。

 これは強力な慰めである! こうした事がらこそ、神がご自分の民を確立し、堅く立たせるために、福音の中に貯えておられることなのである。もしもこうした事がらが、キリスト教会の中で今なされている以上に大々的に提示されるとしたら、神の民にとってどんなに良いことであろう。まことに私の信ずるところ、聖徒たちの弱さの一因は、神が彼らを強くするために啓示なさった数々の真理に対する彼らの無知にあるのである。

 私は、堅忍の重要性という主題をここで打ち切ろうと思う。この論考において私が、あだやおろそかに読者の注意を引いたのではないと示すだけのことは告げたと思う。私が強く感ずるところ、人の心のかたくなさを思うとき、それに善を施すと思われるいかなるキリスト教信仰の教えも省くべきではない。私はあえて真理のいかなる小粒をも省きはしない。それがいかに強烈で、いかに濫用を招きがちであると思われようとも関係ない。私にとっては、福音の美しさを増し加えるもの、あるいは立ち止まっている人々に励ましを与え、神の民を強くし、建て上げるものであればいかなるものも、重要でないものには見えない。私があえて教えたいのは、福音は現在の赦しと平和を差し出すだけでなく、永遠の安全と、確実に終わりまで持続させる保証を差し出している、ということである。私はこれが御霊の思いであると信ずる。そして聖書が啓示していることを私は宣言したいと願うものである。

 さて私は、自分の力の及ぶ限り精一杯、堅忍という主題全体を、読者の前に指し示してきた。もしそれでもあなたが私の主張に納得できないとしたら、私は残念に思う。しかし私の確信するところ、欠陥があるのは私が擁護している教理の方ではなく、それを述べる私の云い方の方にあるのである。私に残された務めはただ1つ、この論考のしめくくりにあたり、いくつかの実際的な適用の言葉を述べることしかない。

 (1) 1つのこととして、私があなたに切に願いたいのは、果たしてあなたがキリスト・イエスの救いに少しでもあずかっているかをよく考えるがいい、ということである。

 あなたが堅忍について何と信じていようと、もしあなたが結局はキリストを信ずる信仰を全く持っていないとしたら、それは何にもならない。あなたがこの教理を支持していようといまいと、救いに至る信仰があなたになく、あなたの罪が赦されておらず、あなたの心が聖霊によって更新されていない限り、それはほぼ無意味である。頭だけの知識がいかに明確でも、人は救われない。いかに正確で正統的な見解を有していても、新しく生まれていないとしたら、確実に人は、最低に無知な異教徒とならんで滅びることにになるであろう。おゝ、あなた自身の魂がいかなる状態にあるかを探り、見てとるがいい!

 あなたは永遠には生きていられない。いつの日か死ななくてはならない。死後の審きを避けることはできない。キリストの法廷に立たなくてはならない。御使いのかしらの召還に従わずにすますことはできない。最後の大集会には集わなくてはならない。あなた自身の魂の状態は、いつの日か徹底的な究明を受けなくてはならない。あなたが神の前でいかなる者であるかは、いつの日かあばかれることになるであろう。あなたの霊的状態は最後には全世界の前でさらけ出されるであろう。おゝ、それがいかなるものであるか、いま見いだすがいい! まだ時間のあるうちに、まだ健康でいる間に、あなたの魂の状態を見いだすがいい。

 あなたの危険は、もしあなたが回心していないとしたら、私が云い表わしえるところを越えて、はるかに大きなものである。信仰者の徹底的な安全と正確に比例して、不信者には、破壊的な危険があるのである。不信者と、尽きることのないうじとの間には、ほんの一歩の隔たりしかない。その人は文字通り、底知れぬ穴の絶端に吊り下がっているのである。聖徒にとって突然の死は突然の栄光である。しかし、未回心の罪人にとって突然の死は突然の地獄である。おゝ、あなたの魂の状態がいかなるものかを探り、見てとるがいい!

 覚えておくがいい。人は自分が福音の招きの恩恵にあずかっているいるかどうかを見いだすことができる。それは、知りうることなのである。だれにもそれはわからない、などと云うのはたわごとである。私は、聖書を手にした正直な人が熱心に自己吟味するとき、自分の霊的状態を悟りえないなどいうことを決して信じはしない。おゝ、正直な人となるがいい。聖書を調べてみるがいい。自分の魂の状態を見いだすまで安心してはならない。ただだらだらと生き続けるだけで、魂の状態を不確かなまま放っておくというのは、賢い人の役割ではなく、愚か者の役割を演じることである。

 (2) 次のこととして、もしあなたが福音の特権を何1つ知らないとしたら、私がこの日あなたに切に願うのは、悔い改めて回心し、キリストの御声を聞き、キリストに従うことである

 私は、あなたさえ本気で望んでいるとしたら、なぜあなたがこの招きを今日受け入れて、救われてはいけないわけがあるのか、天来のものであれ、人間的なものであれ、いかなる理由も思いつくことができない。あなたの罪の量によって、あなたが妨げられるいわれはない。いかなる形の罪も赦されることができる。イエスの血はすべての罪をきよめる。----あなたの心のかたくなさによって、あなたが妨げられるいわれはない。新しい心を神はあなたに与えてくださり、新しい霊をあなたのうちに入れてくださる。----神の意志によって、あなたが妨げられるいわれはない。神は罪人の死を望んでおられない。神は、だれが滅びることをもお望みではない。すべての人が悔い改めに至ることを望んでおられる。----キリストのうちには、いかなる意欲の欠けもない。----キリストは長い間、人の子らに向かって叫んでおられる。「いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい」。「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」(黙22:17; ヨハ6:37)。

 もしあなたが神の子どもになることがあるとしたら、いつかは、あなたが自分の魂の利益をいいかげんに扱うことをやめる日がやって来なくてはならない。あなたがついには本気で真剣に膝を屈して、神の前に自分の心を本気の祈りで注ぎ出す時が来なくてはならない。あなたの罪の重荷が最後には耐えがたく感じられて、あなたがキリストによる安息を得るか滅びるかしかないと感じる瞬間が来なくてはならない。もしあなたが神の子どもとなり救われることがあるとしたら、こうしたすべてのことが起こらなくてはならない。では、それがなぜ今日であってならないだろうか? なぜ今夜であってならないだろうか? なぜ一刻も早くキリストを求めて生きようとしないのだろうか? できるものなら、私に答えてみるがいい!

 (3) 次のこととして、最終的堅忍を信じているあらゆる読者の方々に、私が切に求めたいのは、この尊い教理を正しく用いて、濫用しないようにすることである

 あらゆる人の内側には、神のあわれみを濫用しがちな、すさまじい傾向がある。神の子どもたちといえども、この悲しい伝染病から免れてはいない。いかにすぐれた聖徒のそばでも、悪魔は決してじっとしておらず、いつでも彼らをして自分の特権を無頓着な生き方の口実であると思い込ませよう、彼らの魂の糧を毒に変じさせようとしている。私はキリスト教会を見渡して、立派な信仰を告白している多くの者の末路を見てとるとき、警告を発すべき必要を感じざるをえない。「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」(Iコリ10:12)。

 私たちは、堅忍の教理を濫用するとはいかなることか知りたいだろうか? それを濫用するとは、信仰者たちが自分の安全さを口実にして首尾一貫しない行ないをすることである。それを濫用するとは、自分たちが最終的な滅びからは守られていると云い立てて、低い基準の聖化と、神から遠く離れた歩みで満足することである。こうした双方の濫用に対して、信仰者たちが用心を固めるように私は切に願う。

 私たちは、堅忍の教理を正しく用いるとはいかなることか知りたいだろうか? 私たちは、自分の心が日々どのような働きをしているかを執拗に見張っていよう。いかに些細な霊的な怠惰さも抑制し、それを芽のうちに摘み取ろう。自分の生き方の支配原理として、自分の精神にこう銘記しておこう。神のあわれみが有益なものとされている場合とは、ただそれが、自分の心を聖いものとする効果を及ぼしている場合のみである、と。このことを私たちは自分の内なる人に深々と刻みつけていよう。すなわち、何にもましてキリストの愛を尊ぶとき、私たちは、その愛によって霊的な考え方がいや増し加えられざるをえなくなるはずである、と。自分の思いの前に置いておこう。私たちは自分が安全であると感じれば感じるほど、より聖くなるべきである、と。神が大いなることを私たちのためにしてくださったと悟れば悟るほど、私たちは神のために働くべきである。私たちの負債が大きければ大きいほど、私たちの感謝の念も大きくなるべきである。恵みの富を見れば見るほど、私たちは良いわざに富んだ者となるべきである。

 おゝ、願わくは私たちに使徒パウロのような心が与えられるように! 彼が悟っていたように、キリストにある自分の完璧な安全さを悟り、----彼がしていたように、いかに働いても十分ではないかのように神の栄光のために行なうこと、----これが目当てである。----これが私たちの目指すべき基準である。

 私たちは堅忍の教理を正しく用いて、私たちの益が決して悪口の種にされないようにしよう。私たちは、私たちの生き方によって、この教理を飾るようにしよう。それを他の人々にとって美しいものとし、人々がこう云わざるをえないようにしよう。「聖徒たちが決して滅びることはないと感心するとは、何と素晴らしく、何と聖なることなのだろう」、と。

 (4) 最後のこととして、自分は堕落するのではないかとこれまで恐れてきたすべての信仰者たちに対して私が切に願うのは、堅忍の教理を堅く握り、キリストにある自分の安全さを悟るようになることである

 私はあなたが、キリストにあるあなたの分け前の長さと広さを知ってほしいと思う。私はあなたに、イエスを信ずる信仰によってあなたが受ける資格を得た富の完全な量を理解してほしいと思う。あなたは自分が途方もない罪人であることを見いだしている。そのことのゆえに神に感謝するがいい。----あなたは赦しと神との平和を求めてキリストのもとに逃れ来ている。そのことのゆえに神に感謝するがいい。----あなたは自分を現世においても永遠においてもイエスにゆだねている。あなたはキリストの血と、キリストの義と、キリストの仲介と、キリストが日ごとに倦むことなくさげておられるとりなし以外に、いかなる希望もいだいていない。そのことのゆえに神に感謝するがいい。----あなたが心から願い、また祈り求めていることは、自分の生き方のあらゆる面で聖くなることである。そのことのゆえに神に感謝するがいい。----しかし、おゝ、この栄光の真理を堅く握りしめるがいい。----すなわち、イエスを信じたあなたは決して滅びることがなく、決して捨てられることがなく、決して堕落することがないのである! これは使徒たちのためばかりでなく、あなたのためにも書かれているのである。----「わたしの羊は決して滅びることはない」、と。

 あなたは生きている間に完璧な平安を持ちたいだろうか? ならば、この堅忍の教理を握りしめるがいい。あなたの試練は多く、また激しいかもしれない。あなたの十字架は非常に重いかもしれない。しかし、あなたの魂のなすべきことは、すべて「とこしえの契約」に応じて行なわれており、「このすべては備えられ、また守られる」のである(IIサム23:5)。すべてのことは相働いてあなたの益となる。あなたの悲しみは、あなたの魂を栄光にとってきよめることでしかない。あなたの愛する者との死別は、あなたが上にある、手で造られない神殿を形作る、磨き上げられた石となるように整えられることでしかない。いかなる方面から嵐が吹いてこようと、それはあなたを天国の間近に吹き寄せることでしかない。いかなる天候をあなたが経なくてはならないとしても、それは神の穀倉に入るためにあなたを熟させることでしかない。何が来ようと、あなたは「決して滅びることがない」。

 あなたは、病のうちにあるとき強い慰めを持ちたいだろうか? ならば、この堅忍の教理を握りしめるがいい。この地上の幕屋の止め釘が一本また一本とゆるんでいくように感じるときには、「何物も私とキリストとの結びつきを断つことはできないのだ」、と考えるがいい。あなたの肉体は役立たずになるかもしれない。あなたの肢体はその役目を果たそうとしなくなるかもしれない。あなたは、古びた、役立たずの丸太のように感じるかもしれない。----他人にとっては厄介者、自分にとっては重荷と感じられるかもしれない。しかし、あなたの魂は安全なのである。イエスは決してあなたの魂のために心遣いをなさることに疲れはしない。あなたは「決して滅びることはない」。

 あなたは死に臨むときに確固たる希望を持ちたいだろうか? ならば、この堅忍の教理を握りしめるがいい。医者たちはさじを投げるかもしれない。友人たちはあなたの必要を満たすことができないかもしれない。視力がなくなり、聴力がなくなり、記憶もほとんどなくなるかもしれない。だが、神のいつくしみがなくなることはない。いったんキリストのうちにあるならば、あなたは決して捨てられはしない。イエスはあなたのそばに立ち続けてくださる。サタンはあなたに害を加えることができない。死はあなたをキリストにある神の永遠の愛から引き離すことはない。あなたは「決して滅びることはない」のである*15

堅忍[了]

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*1 「私たちは決して、最も傑出した教役者やキリスト者によって真のキリスト者であると考えられているすべての人々が、『信仰により、神の御力によって守られており、救いをいただく』であろうなどと主張しているのではない。神だけが心を探ることがおできになる。愛の判断によって私たちが、生きた、永続的なものとみなす信仰をも、神は、死んだ一時的な信仰であるとお見抜きになることがありえる」。----スコットの『トムリン駁論』、p.675。[本文に戻る]

*2 「このように更新された人々が、再び新しく生まれていない者となりうるなどと想像するのは、聖書の真理に真っ向から反している」。----レイトン大主教。1680年。[本文に戻る]

*3 「あらゆる信仰者が、自分は信仰者であると知っているわけではない。それゆえその人は、信仰者に属している特権のすべてを知ることはできない」。----トレイル、1690年。[本文に戻る]

*4 「いかなる者も、罪を犯し放題に犯してよいのだと考えたり、何の手段を用いなくとも神は自分を保ってくださるのだなどと思い上がってはならない。否! この勝利の土台たる選びのご計画は、私たちを結末へと選んだだけでなく、種々の手段へも選んだのである。そのように結論するような人が、一度でもキリスト者であったことがあるかどうか、私は疑わしく思う。こう云っても問題はないと思うが、いかなる人であれ、心から、断固として、故意に自堕落を続けているような者は、決して恵みの契約にいまだあずかってはいないのである」。----チャーノク『弱い恵み』、1684年。[本文に戻る]

*5 私がほのめかしているのは、次のような人口に膾炙した逸話である。臨終の床についていたクロムウェルは、トマス・グッドウィン博士に向かって、信仰者が恵みから落ちることはありえるのかと尋ねたという。グッドウィンは、そのようなことはありえません、と答えた。それを聞いて、クロムウェルはこう云ったと伝えられている。「ならば私は安泰だ。私が一度は恵みの状態にいたことは確実だからな」、と。
 この話の信憑性は著しく疑わしい。注目すべき事実だが、クロムウェルの忠実な従僕は、その主人が最後の病の床についたときに語り、行なった、記憶に値するすべてのことを後日収集して公刊しているにもかかわらず、この会話について言及していないのである。おそらく間違いなくこれは、この偉大な護国卿の敵たちが、彼の死後、その記憶を汚そうとして盛んにでっちあげた、偽りと悪意に満ちた虚説の1つであろう。[本文に戻る]

*6 「さながら死からよみがえられたキリストが、もはや死ぬことなく、もはや死は何の力もキリストに及ぼせないのと同じように、義と認められ、私たちの主キリスト・イエスにおいて神と縁を結んだ人は、必然的に、その時以来、常に生きることとなる。そのいのちのもといなるキリストが常に生きておられるからである」。(ロマ6:10; ヨハ14:19)
 「私たちを活性化し、燃え立たせ、いのちを与えるものが内側にとどまっている限り、私たちは生きるはずである。そして、私たちの知るところ、私たちの信仰の源泉は、永遠に私たちのうちにとどまるのである。もし、いのちの泉なるキリストが引越をして、いったんはご自分の住まいとされた所を立ち去るとしたら、その御約束、『わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます』、はどうなるだろうか? もしキリストを含んでいる神の種が、子を生んでから打ち捨てられるというなら、いかにして聖ペテロはそれを朽ちない種などと云えたのだろうか?(Iペテ1:23) いかにして聖ヨハネはそれがとどまっているなどと確言できたのだろうか?(Iヨハ3:9)」。----フッカーの『義認論』、1590年。[本文に戻る]

*7 この件に関して詳細を知りたいという読者の方は、この論考の末尾に付した注記を参照されたい。[本文に戻る]

*8 「私は正しくものを見る目を持っているあらゆる人に願いたい。第十七箇条の言葉を読み、それを考察し、その秩序と、健全さを見てとるがいい。それから、その人は最終的な堅忍がこの《信仰箇条》で健全に、かつ十分に規定され、断言されていないかどうかを判断するがいい」。----チチェスター教区主教ジョージ・カールトン、1626年。『1つの吟味』、p.63。[本文に戻る]

*9 「そこでもし、あなたがこの民をひとり残らず殺すなら、あなたのうわさを聞いた異邦の民は次のように言うでしょう。
 「『主はこの民を、彼らに誓った地に導き入れることができなかったので、彼らを荒野で殺したのだ』」。----民数記14:15、16。
 「あなたは、あなたの大いなる御名のために何をなさろうとするのですか」。----ヨシュア7:9。
 「もし選ばれた者のひとりでも滅びることがあったとしてら、神は人間の邪悪さによって打ち負かされることになる。しかし、彼らのうちひとりとして滅びることはない。なぜなら神は全能であり、いかにしても打ち負かされることはありえないからである」。----アウグスティヌス。『腐敗と恵みについて』、第7章。[本文に戻る]

*10 「キリストの羊が、最終的には背教し、どぶの中で死んでいくことがありうる、などと云う者らが、何とよくキリストの栄誉のことを考えていることか!
 「キリストとその肢体とは、両者で1つのキリストをなしている。さて、キリストの一部が最後には地獄で焼かれえるなどということが可能だろうか? キリストは、不具のキリストとなりえるだろうか? その肢体の一部が抜け落ちるなどということがあるだろうか? キリストがその神秘的な肢体と分かたれて、そのご栄光を保持していられるだろうか?」----ガーナル。1655年。[本文に戻る]

*11 以下のような聖句を、堅忍に反対する人々は主として頼みとしており、ここで短く注記しておく方がよいと思われる。
 エゼ3:20およびエゼ18:24。ここで語られている「正しい人」には、その外的なふるまいが廉直である人、ということ以上の何かを意味しているという証拠が何も見当たらない。この人が信仰によって義と認められ、神の前で義とみなされている人であることを示すものは何もない。
 Iコリ9:27。私がここに見てとるのは、単に罪に陥ることに対する敬虔な恐れ----信仰者の目印の1つであり、その人を未回心者から区別するもの----、また、パウロが失格者にならないように自分を守ろうとして用いていた手段の単純な宣言でしかない。これはIヨハネ5:18のようなものである。「神から生まれた者は自分を守る」 <英欽定訳>。
 ヨハ15:2。これは真の信仰者がキリストから取り除かれるということは証明していない。「実を結ばない」枝は、信仰者ではない。第十二箇条は云っている。「木がその実によって見分けられるのと同じく、生きた信仰は、良い行ないによって明白に知られる」、と。
 Iテサ5:19。もしここの「御霊」が私たち自身のうちにおられる御霊を意味しているとしたら、それは、エペ4:30の「御霊を悲しませる」こと以上のことを意味してはいない。しかし、ほとんどの良い注解者たちの考えによると、これは他者のうちにある御霊の賜物のことであり、20節との関連で考えられるべきものである。
 ガラ5:4。この書簡全体の基調は、この「落ちる」ことが、御霊の内的な恵みから落ちることではなく、恵みの教理から落ちることを示していると思われる。これと同じ所見が、IIコリ6:1にもあてはまる。
 ヘブ6:4-6。ここで「堕落してしまう」と述べられた人は、未回心の人々の中には見いだされないような特徴を何1つ示してはいない。と同時に、この人が救いに至る信仰や、愛を有しているとか、選ばれた人であるとは、一言も語られていない。
 ヨハ8:31; コロ1:23。これらの節や、やはり引用できる、これらに似た他の箇所にある、条件句の「もし」や「ただし」は、そこで叙述されている人々の救いに関する不確かさを暗示するものではない。それは単に、真の恵みの証拠は「踏みとどまる」ことだという意味でしかない。まがいものの恵みは滅び去る。真の恵みは長続きする。チャーノクは云っている。「聖書の中ではよく見られることだが、ある箇所の約束の中に設けられているこうした条件は、別の箇所では私たちの中に作り出されるものであると約束されているのである」。----チャーノクの『真の恵み』。1684年。
 これらが、最終的堅忍の反対者たちが普通持ち出してくる聖句のすべてでないことは私も十分認める。だが私の信ずるところ、これらは主要なものである。彼らの立場の泣き所は、彼らには、聖徒も堕落することがありえると証明する聖句として、「私の羊は決して滅びることがない」、というような表現と少しでもくらべものになるような聖句が何もない、ということである。また彼らは、私たちの主のこの約束のように力強い云い回しについて、少しでも満足の行くような、あるいは少しでも筋の通った説明すら、何1つ与えることができない。有名なアルミニウス主義者であるジョン・グッドウィンは、この聖句について以下のような説明をしている。「キリストがその羊に対して与えた永遠の安全の約束は、彼らの現世における状態に関するものではなく、来世における状態に関するものである」、と! このようなしかたで論を張ってしまうような人は、実に途方もない窮地に陥っている人であるに違いない。[本文に戻る]

*12 この主題について、十分な論議を知りたいという人々には、はばかりながら、「国教徒のためのバプテスマおよび新生に関する手引」という私の論考を読むように勧めたい。この論考は、私の著書『解かれた結び目』の中に収録されているはずである。[本文に戻る]

*13 「彼らは、キリスト者たちの慰めを弱めているのである。というのも、信仰者のキリストとともなる歩みは、綱渡りをする曲芸師さながらに、いついかなる瞬間に首の根をへし折るかわからない恐怖に満ちたものとなるからである」。----マントン『ユダ書』。1658年。[本文に戻る]

*14 「聖徒が保たれるとき、そこには精密に同じくらい多くの奇蹟がなされているのである」。----ジェンキン著『ユダ書』。1680年。[本文に戻る]

*15 スコットランドの高名な神学者ブルースの臨終は、私の主題のこの部分を驚くべきしかたで例示している。老フレミングは、そのときの模様を次のような言葉で記している。「彼が自分の聖書を持ってくるように頼んだとき、彼にはものを見る力がもはやなかった。だが、自分の視力が失われていることに気づいた彼は、こう云った。『ロマ書8章を開いて、私の指をこの言葉の上に置いてほしい。----私はこう確信しています。死も、いのちも、……私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私を引き離すことはできません、という言葉に』。そして彼は云った。『私の指はその言葉の上にあるだろうか?』 彼らが、指はそこを指していると答えると、彼は云った。『では、子どもたちよ。神がお前たちとともにあるように。私は今朝の食事はお前たちとともにしたが、今晩の食事は私の主イエス・キリストとともにするのだ』。そして、彼は息を引き取った」。----フレミング著『預言の成就』、1680年。[本文に戻る]


注 記

 英国民が何について無知かといって、英国国教会の奉ずる真の教理という主題についてほど無知なことはまずない。多くの人々は、英国の宗教改革者たちが、またプロテスタント宗教改革後のほぼ一世紀にわたる英国の主要な神学者たちの全員がいだいていた神学的意見について全く何も知ってはいない。彼らは、実は新しい意見を昔からあったものと呼び、実は昔にあった意見を新しいものであると呼んでいる。

 こうした無知の原因について探り求めても時間の無駄であろう。ただ、それが存在することだけは間違いない。ほとんどの人は気づいていないように思われるが、現在、福音主義的であると云いならわされている種々の教理は、エリザベス女王およびジェームズ一世の治下にあった英国国教徒たちによって、あまねく受け入れられていたものなのである。それらは、多くの人々が無知ゆえに考えているように、現代にでっちあげられた新奇な教理ではない。それらは単に、宗教改革者たちや、その直接の後継者たちが歩んでいた昔からの通り道でしかないのである。オックスフォード運動や、高教会主義や、広教会主義の方こそ、新しい説なのである。福音主義の教えは、古くからの教え以外の何物でもない。

 この主張の証拠は、エリザベス女王およびジェームズ一世の治下における教会史や、その時期の神学者たちの著作の中に見いだすことができる。私も、当時の神学者たちの言行のすべてを擁護しようなどとは決して考えはしない。彼らの著作を調べてみれば、山ほどの不寛容さや、狭量さや、偏狭さが見つかるはずである。私はそうしたものを批判する点では人後に落ちるものではない。しかし、当時のあらゆる国教徒のうちの大多数が、現在カルヴァン主義的であるとか福音主義的であるとか呼ばれている諸教理を奉じていたことは、私には真昼のように明確であると思われる。そして、いかなる点にもまして明確な証拠が見られるのは、堅忍の教理という点についてであると思われる。

 (1) エリザベス女王の治下の1595年に、ケンブリッジ大学が、カイアス学寮のバレット氏を強制して、最終的堅忍と選びの教理を否定したかどにより、聖メアリー教会で公の自説撤回状と謝罪文を読み上げさせたのは、歴史的事実ではないだろうか?----ウィリアム・プリン著『新しいアルミニウス主義に対する英国国教会の古い反対』。56ページ。

 (2) ケンブリッジ大学の副総長および上席者たちによって、上記のバレットに反して策定された《信仰箇条》が以下のような言葉で結論づけられているのは、歴史的事実ではないだろうか? 「この教理は、さして重要でもない二義的な点に関わるものではなく、私たちの救いの実質的な基盤、主要な慰めかつ拠り所に関わっているものであり、私たちの知る限り、女王陛下の登位以来、本学の講義と、討論と、説教と、諸説教の他の箇所にて、絶えず、また一般に、受け入れられ、教えられ、擁護されてきたもの、また今も奉ぜられているものである。また、私たちはこれを英国国教会の教理に合致していると考える」。----エドワーズ著『真理の再来』、534ページ。

 (3) 同じエリザベス女王治下の同年1595年に、ホウィットギフト大主教およびバンクロフト主教(後のカンタベリー大主教)によってランベス条項が策定されたこと、またそれに以下の言明が含まれていたのは歴史的事実ではないだろうか? 「真の、生きた、義と認めさせる信仰、また義とお認めになる神の御霊は、選ばれた人々の内側から、最終的かつ完全に、消滅することも、なくなることも、消失することもない」。この信条は私たちの信仰告白に付加されることはなかったが、それにもかかわらずフラーのこの言葉は完璧に正しい。「こうした学識ある神学者たちの証言は、当時の英国ではいかなる教理が一般的であり、受け入れられていたかを示す誤りなき証拠である」。----フラー著『教会史』、テッグ版。第三巻、150ページ。

 (4) ジェームズ一世治下の1604年に、この堅忍の教理がハンプトンコート会議で考察されたのは歴史的事実ではないだろうか? ピューリタン派はランベス条項を《三十九信仰箇条》に付加することを望んだ。彼らの要請は認められなかったが、それはいかなる根拠に立ってだっただろうか? 堅忍の教理が反対されたからではなく、ジェームズ王が「信仰箇条の書には神学的結論のすべてを詰め込まない」方がよいとの考えを示したためであった。その間、この点に関して健全であったとは到底思われない、聖ポール大寺院のオウヴァオール主教座聖堂参事会長でさえ、このような注目に値する言葉を用いていた。「神の選びのご目的に従って義と認められた人々は、重大な罪に陥ることがあり、また、それゆえに現在は罪に定められる状態に至ることはあるが、決して完全にも最終的にも義認から転落することはなく、やがては神の御霊により生きた信仰と悔い改めに更新させられる」。----フラー著『教会史』、第三巻、181ページ。

 (5) 宗教改革後に刊行された、《三十九信仰箇条》の最初の解説書の中の第十七箇条を扱う部分に、堅忍の教理の完全にして明確な主張が含まれているのは歴史的事実ではないだろうか? 私が語っているのは、バンクロフト大主教付司祭であったトマス・ロジャーズが書き記し、同大主教に献呈された1607年の著作のことである。----ロジャーズ著『三十九信仰箇条』。パーカー協会版。

 (6) 1612年にジェームズ一世が、アルミニウス主義の神学者ヴォルスティウスなる者に対して、自ら書き記した宣言を公表したのは歴史的事実ではないだろうか? その中でジェームズ一世は、聖徒が堕落しうるとの教理のことを、「邪悪な教理、冒涜的な異端、英国国教会の教理とは正反対のもの」であると呼んでいる。----プリンの『英国国教会の反対』、206ページ。

 (7) 同じジェームズ一世が、同年1612年に、オランダ諸州に向かって手紙を書いたのは歴史的事実ではないだろうか? そのきっかけとなったのはベルティアスというオランダ人神学者が、聖徒の背教について書いた書物をカンタベリー大主教に送りつけた事実にあった。その手紙の中で王はベルティウスのことを「疫病のような異端者」と語り、彼の教理のことを「忌まわしい異端」と呼び、ある箇所ではこう云っている。「この者は、甚だしい虚言を吐いて恥じることなく、同書に含まれている異説が英国国教会の信仰および告白と合致しているなどと明言している」。----プリンの『アルミニウス主義に対する英国国教会の反対』、206ページ。

 (8) 同じジェームズ一世が、1616年に、ケンブリッジ大学トリニティ学寮のフェローであったシンプソンなる聖職者を激しい不興とともに罰したのは歴史的事実ではないだろうか? というのも、ロイストンにおいて、この者が、真の信仰者も完全に堕落することがありえるとの説教を、王の前で行なったからである。----フラー著『ケンブリッジの歴史』、160ページ。

 (9) 1619年のドルト会議において、最終的堅忍の教理が強力に主張されたのは歴史的事実ではないだろうか? さて、この会議には数人の英国人神学者が正式の代表者として出席し、その議事に参加していたが、その代表団の中には、ダヴンポート主教およびカールトン主教が含まれていた。そして、彼らが戒規の件に関しては同会議の結論と大きく意見を異にしたにもかかわらず、彼らが「教理に関するすべての点については同意した」ことは有名な事実ではないだろうか?----フラー著『教会史』、第三巻、279ページ。

 (10) 最後に、しかしこれも重要なこととして、エリザベス女王およびジェームズ一世治下のすべての主要な大主教および主教たちが、教理的な問題においては、徹底したカルヴァン主義者であったのは、歴史的事実ではないだろうか? そして、聖徒の最終的堅忍が、カルヴァン主義的と呼ばれている体系の主要原理の1つであることは、有名な事実ではないだろうか? ヘイリンそのひとすら、こう告白せざるをえないでいる。「当時は、反カルヴァン主義者であると目されるよりは、異教徒や取税人であるとみなされたほうがまだ安全であった」。----ヘイリン著『ロード伝』、52ページ。

 私はこうした十の事実を読者の前に置き、これらに真剣な注意を払うように求めるものである。私に理解できないのは、これらから引き出しうる結論をいかにして避けうることのできる人がいるか、ということである。私の見るところ、聖徒の最終的堅忍という教理が英国国教会の古来の教理であり、この教理を否定する方が新奇であるということは、歴史で確定された点である。

 すでに提示された証拠を強化するために、長々と引用文を付加することはたやすくできることである。私は、パーカー大主教の格別な監督および承認のもとに刊行された『主教聖書』の欄外注を参照することができよう。私は、クランマー、グリンダル、サンズ、ホウィットギフト、アボット、アッシャー、レイトンといった大主教たち----リドリ、ラティマー、ジューエル、ピルキントン、バビントン、ホール、ダヴンポート、カールトン、プリドウ、レノルズといった主教たちの著作から何箇所となく引用につぐ引用を重ねることができよう。つまり、困難なのは、エリザベス女王およびジェームズ一世治下にあって、最終的堅忍を疑問視しようなどと考えたことのある神学的著述家を探すことの方なのである。ウィリアム・プリンは、聖徒が決して滅びることがないと信じていた百三十名にものぼる著述家たちの名前をあげ、彼らの著作を参照している。しかし、その執筆当時(1629年)に、彼は聖徒の堅忍を否定し、その背教の可能性を説いていた著述家を四名しか見つけることができなかった。私はプリンが名指した著述家たちからいくらでも引用できるであろう。しかし読者に負担を強いることはすまい。おそらく読者はもう十分聞いたと思う。

 私は当初意図していたよりもこの注記を長いものとしてしまったが、ここに含まれている諸事実の重要性に免じて許してほしいと思う。今日において、この主題全体は重大きわまりないものの1つなのである。

 英国国教会に属する福音主義者は、絶え間なくその敵対者たちから、新奇な見解をいだいているとしてなじられている。彼らの云うところ、福音主義者の意見は「国教会の意見」ではなく、福音主義者は一刻も早く英国国教会を離脱して、非国教徒になるべきであるという。私はこのページを読んでいるいかなる読者も、このような嘲罵やあてこすりによって、決して動揺しないように切に願いたい。私はその人たちに云いたい。そのようなことを口にしている者たちの方こそ、自分の所属する教派の第一原理についての徹底的な無知を暴露しているにすぎないのだ、と。私はその人たちに云いたい。自分のいだいている見解のゆえに恥じてはならない。そのような理由は何1つないのだから、と。私はその人たちに云いたい。英国国教会に属する福音主義者こそ、宗教改革者や、その直接の後継者たちの見解の真の代表者であり、福音主義者に反対する者たちは自分が何を云っているかわかっていないのだ、と。

 最後に、しかしこれも重要なこととして、私は、福音主義的な意見をいだいているがゆえに迫害を受けているすべての教職者に助言したい。古の英国国教会の神学に関する徹底的な知識で自らを武装し、自分が真理の側に立っていると考えて励まされるがいい、と。そうした教職者は、いずれにせよ、《三十九信仰箇条》を、その編纂者たちの意図に沿って解説しつつあるのである。彼らの敵対者たちはこの《信仰箇条》をないがしろにしているか、それに新しい意味を結びつけているのである。

 宗教改革者たちの見解の方を、ロード[大主教]の見解よりも好んでいるからというだけで迫害することが、どれだけ理にかなっているかは、他の人々に決めてもらうことにしたい。しかし、迫害されている人々は、たとえ自分が誤っていたとしても、多くの立派な人々の側に立って誤っているのだと考えて慰められることができよう。そしてもし彼らが最終的堅忍を信じ、バプテスマと新生が分かちがたく結びついていることを否定するがゆえに、評判や地位を失うようなことがあるとしたら、彼らは世界に対して大胆に告げてよい。自分が苦しみを受けているのは、自分がラティマーや、フーパーや、ジューエルや、ホウィットギフトや、カールトンや、ダヴンポートや、アッシャーや、レイトンや、フッカーや、ホールと同じ意見をいだいているがためなのだ、と。こうした善良な人々の仲間になって苦しみを受けている人は、何ら恥じる理由などない!

 もし私が、この危機的な状況にある福音派の兄弟たちに助言を差し出せる立場にあるとしたら、私は彼らに真剣に忠告したい。最終的堅忍の教理を堅く握り、決してそれを手放さないようにするがいい、と。これはいかなる教理にもまして、洗礼新生という現代の見解を完全にくつがえすものである。それがゆえに、この教理ほど多くの人々が嫌い、覆そうとして激しく精を出しているものはない。これが彼らの通り道の道ふさぎとなっているのである。これが彼らの目の上のたんこぶなのである。これこそ彼らに反駁できない議論なのである。英国国教会の第十七箇条は、私たちの立場の鍵の1つである。堅忍の教理を手放す者は、自分の主義を裏切って敵方についたのだと納得するがいい。いったん救いに至る恵みが完全に失われうると認めたならば、論争の時に、あなたは決して自分の足場を保てないであろう。[注7に戻る] [本文に戻る]

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