VI.
ウィリアム・ロウメインとその伝道活動
第1章 1714年、ハートルプールに生まれる――ホートン・ル・スプリングと、オックスフォードのクライスト・チャーチで教育を受ける――オックスフォードにおける学識の性格――1736年に叙任される――リュートレンチャード教会およびバンステッド教会の牧師補――1748年聖ボトルフ教会、1749年聖ダンスタン教会で説教師――聖ダンスタンにおける騒動――1750年、ハノーヴァー広場の聖ジョージ教会で午前の部の説教者となる――1755年、説教者資格を失う――グレシャムで天文学教授となる――サザクのオレイヴ教会および聖バーソロミュー大教会で午前の部の説教者となる――オックスフォード大学前で説教する――人々を激昂させる
キリストの真の《教会》は、奇妙なことに、よく整備された軍隊に似ている。その兵士たちは、全員ひとりの君主に忠誠を尽くす義務を負い、同じ1つの戦役に従事している。ひとりの将軍の指揮を受け、同じ1つの敵と戦う。だがしかし、その兵士同士は、種類において際立った違いがあり、多くの異なるあり方をしている。騎兵隊と、歩兵部隊と、砲兵隊は、それぞれ独特の戦い方をする。どの部隊もそれなりの形で役に立つ。3つの部隊が、均衡を保ちながら組み合わされている場合こそ、全軍が効率良く強大な力を発揮できる状態にほかならない。
キリストの真の《教会》も、全くそれと同じである。教会内のひとりひとりは、みな同じ《救い主》を愛しており、同じ御霊の導きを受けている。みな罪と悪魔に対する同じ戦いに携わっており、みな同じ福音を愛している。しかし、あるキリストの兵士の働きは、別の兵士と同じではない。めいめいが《大司令官》によって自分独自の持ち場を受け持つように任命されており、めいめいが各自の部門で特別な役目を果たしている。
そのような考えが思い浮かんだのは、ホイットフィールドと、ウェスレーと、グリムショーから、前世紀における第四の霊的英雄――ウィリアム・ロウメイン――に目を転じたときである。教理および実際上の敬虔さにおいて、この四人の善良な人々は、おおかた思いを同じくしていた。だが、その働きの様子において、四人は奇妙なほど互いに異なっている。ホイットフィールドとウェスレーは霊的な騎兵隊であって、全国津々浦々を駆け巡り、いずこにおいてもその姿を見ることができた。グリムショーは、ホーワースに本部を置く歩兵隊の兵士であり、その本拠から決して遠くには行かなかった。一方ロウメインは、重砲部隊の指揮官であり、いずれかの大都市の中心にある要塞に陣取り、その防壁を越えた所で活躍したことはめったにない。だが、この四人は神の御手にあって善のために大きく用いられた器であったし、全員がかけがえのない存在であった。各人は、自分の専門とする分野ですぐれた奉仕を行なった。そして今から示したいと思うが、その貢献の大きさにおいておさおさ余人に劣らなかったのは、ブラックフライアーズの教区牧師ウィリアム・ロウメインにほかならない。いわゆる<民衆向けの>賜物においては、疑いもなくロウメインは同時代の偉大な三人と同等ではなかった。しかし、おそらくその三人であっても、ロウメインがロンドンで占めていたような立場に就くことになったとしたら、この人物ほどすぐれた働きを行なうことは決してできなかったであろう。
ウィリアム・ロウメインは、1714年9月25日、ダラム州のハートルプールで生まれた。父親はフランスのプロテスタント教徒のひとりで、ナントの勅令の廃止後に英国に避難してきた人物である。この人は、穀物商人としてハートルプールに身を落ち着けると、その事業に成功したらしい。いずれにせよ、二人の息子と三人の娘を育て上げ、1757年に85歳の天寿を全うしたときには、親切で尊敬に値する立派な人物だとの声望を得ていた。
ロウメインの両親が誰の目から見ても敬虔な人々であったこと、またロウメインがその実家において幼少期から、真のキリスト教の教えと具体的な現われに接していたことは、ほぼ間違いないであろう。このように類まれな特権の価値は、どれほど高く評価しても十分ではない。主への有用な奉仕をささげる長い生涯の種子は、確かにハートルプールの生家において聖霊によって蒔かれていたに違いない。70歳になったときロウメインは、ある友人宛の手紙の中で次のような表現を用いている。「ホイットフィールド氏によって私はしばしば、自分がどれほど著しい恵みを得ていたかを思い起こさせられたものです。氏の家族の中には、回心した人がひとりもいませんでした。ところが私の父母や三人の姉たちは、聖書にこう書かれている、あの幸いな人々にそっくりだったのです。『イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた』。そして、この姉弟が主を愛していたように、私たち家族も主を愛していました」。
10歳のときロウメインは、ダラム州にある有名な私立学校に送られた。プロテスタント宗教改革期に、高名なバーナード・ギルピンによって創設された学校である。この少年は同校に7年間在籍している。そこからロウメインは、1731年にオックスフォードに送られ、最初はハートフォード学寮に入学した後で、最後にはクライスト・チャーチ学寮に転寮している。続く6年間は、もっぱらオックスフォードで暮らしていたらしく、1737年10月に修士号を取得した。
オックスフォードにおけるロウメインの暮らしぶりについては、何も分かっていない。ただし、書物を読みふけり、優秀な学生だと折り紙をつけられたことは事実である。この人物の友人や仲間や交際相手たちについても全く記録はない。これは一見すると、いささか意外に思われる。思い起こせば、まさにこの時期にこそ、いわゆる「メソジスト派」が同大で勃興していたからである。事実、それはジョン・ウェスレー、チャールズ・ウェスレー、ジョージ・ホイットフィールド、インガム、ハーヴェイらがキリストのための働きをオックスフォードで開始し、一種の宗教団体を結成した時期に当たっていた。しかしながら、この人々とロウメインの間に何らかの通信があったという痕跡は、ひとかけらも残っていない。最も自然に考えれば、この人物はその学問上の探求に没頭しきっていて、他の働きのために時間を割こうとはしなかったのではないかと思う。それに加えて、この人物の性格が帯びていた生来の傾きからして、おそらくこの学生は自分ひとりで過ごし、他から遠ざかっていたのであろう。
ロウメインが学者として大学内で到達した高尚な性格は、後にこの人物の牧師補を務め、その死後に後を継いだグッド氏の語った逸話が明らかに示している。氏がロウメインの告別説教において語るところ、「着道楽は決してロウメイン氏の弱点ではなかった。氏の知性は、そのような借り物の装飾品にまさっていたからである。文学という高貴な研究に没頭していた氏は、いやまさって気高い目的へと献身するまでは、外面を飾り立てることには、ほぼ全く注意を向けなかった。ある折にオックスフォードで、身なりに気を遣わずに歩いていたところを、ひとりの訪問客から見咎められた。この客人は、とある学寮の講師をしていた人の友人だったが、こう言った。『あのだらしない格好をした、靴下のずり下がった人間は誰だね?』 講師は答えた。『あなたの仰る、だらしない格好をした人間は、この時代有数の天才のひとりであり、じきにわが王国で最も偉大な人物のひとりになるでしょうよ』」。
もちろん、このような賛辞は多少大げさに誇張されたものであった。しかし、いずれにせよ、オックスフォードを出た際のロウメインが、博覧強記の綿密な学者になっていたことには何の間違いもありえない。その後半生においてロウメインを目の敵にした人々でさえ、決してこの人物が「無学で無知の輩」だと責めることはできなかった。人々は、ロウメインの教理的な見解を嫌うことはできたが、ヘブル語、ギリシヤ語、ラテン語の原典批判のいかなる点においても、この人物の意見が尊重に価するものであることは否定できなかった。この点でロウメインの足跡にならう福音派の教役者たちがもっと多くいるなら、諸教会にとって大きな益となるであろう。恵みと健全な信仰、勤勉と個人的な敬神こそ、最もすぐれた特質であることに疑いはない。しかし、本から学んだ知識も蔑むべきではない。知的な活動が盛んに行なわれている時代には、無知で無教養な牧会伝道活動は、遅かれ早かれ軽蔑されるに違いない。
1736年、ロウメインは、ヘレフォードでエジャトン主教によって執事に叙任された。そして1738年には、ウィンチェスターの主教、悪名高きホードリー主教によって司祭に叙任された。ロウメインが送った教役者生活の最初の11年は、確かな事跡がほとんど分かっていない。誰から聖職を受ける資格を得たのかも、なぜヘレフォードで叙任されたのかも、読者に告げることはできない。突きとめられたのはただ、この人物が最初に務めた職務が、デヴォンシアはオークハンプトン近郊の、リュートレンチャードの牧師補だったということにとどまる。ロウメインが同地に赴いたのは、オックスフォードの友人を訪ねてのことだった。その友人の父親がリドフォードの近くに住んでおり、友人はロウメインに仕事を見つけるとはっきり約束してくれていたからである。だが、その土地にとどまっていた期間は、ほぼ6箇月にすぎない。その後ロウメインはリュートレンチャードからウィンチェスター教区に移り、エプソムに近いバンステッドで牧師補になり、私たちに分かっている限りは十年間途切れなくその務めを続けた。後にこの人物が進むことになった道筋の多くは、おそらくこの牧師補職によって決定づけられたのであろう。この地においてこそロウメインはダニエル・ランバート卿の知遇を得たからである。卿はロンドンの参事会員で、ロンドン教区に居住しており、1741年にはロンドン市長を務めた。そしてロウメインをきわめて高く評価していたため、その在職中は、この人物を市長付牧師に任命した。――このような状況によってロウメインは、聖ポール大聖堂その他の、ロンドンにある多くの講壇において説教者として注目を集めるようになったのである。
ロウメインがバンステッドで過ごした十年間が深い学びと文献研究の歳月であった可能性はきわめて高い。この時期にロウメインは、ウォーバートンの『モーセの神託(Divine Legation of Moses)』に答えて二冊の本を著し、その有害な著作の主要な立場に巧みな反論を加えている。さらにこの人物は、マリウス・ド・カラジオによるヘブル語用語索引辞典の新版を、大部の四巻本として刊行する準備を行なった。――きわめて緻密な注意を要する働きであり、その作業の完了までには丸々七年も要したという。バンステッドにおける牧師職がごく小さなものであったおかげで、疑いもなくこの人は学びのために膨大な時間を手にすることができたに違いない。そして、その時間は有意義に費やされた。その後半生にこの人物が、教理上の各点について自分のものとした、きわめて堅固な、また決して揺るぐことがなかった立場は、十中八九、サリー州で牧師補として過ごしたこの静かな十年間にまで遡ることができるであろう。多くの場合、このような立場にある若い教役者たちの知性には、礎となる石が据えられるものであり、そのような礎石は、後半生に何事が起こっても揺らいだり、位置を動かしたりすることはない。
ともあれ、ロウメインの教役者としての端緒について他にどのような物事が不確かであろうと、1つのことだけは確かである。その叙任から始まる、いついかなる時期においても、この人物が明確で、際立った、取り違えようもなく福音的な諸教理を説教せずにいたことは一度としてなかった。栄光に富む福音の諸真理は、ハートルプールにおける幼少時代から聖霊によってこの人物の心に適用されていたように見受けられる。最初からこの牧師補は、良く教えられた神学者であり、多くの聖職者とは違い、叙任後に捨て去るべき知識を何も持っていなかった。
その点を証明しているのは、1741年9月2日、聖ポール大聖堂においてこの人が、ロンドン市長付牧師として行なった説教であろう。思い出してほしいが、そのときこの人物はまだ27歳にしかなっていなかったのである。その説教の題名は、「自然の法により義と認められることなし」であり、主題聖句はローマ2:14、15であった。ロウメインの伝記作者カドガンは、いみじくもこの説教についてこう述べている。「確かにこの講話には、師が後に著述した内容に見られる滋味豊かな経験や効用や適用や真理は見られないが、同じ真理がはっきり存在している。この時代の数々の過誤から師を自由にした真理、その喜びにおいて師が生き、そして死んでいった真理そのものがである。……真実を言えば、師は偽りのない信仰に支配されていた信仰者であった。それは師に先立つご両親に宿っていた信仰であって、私たちはそれが師にも宿っていたと確信している」。
ロウメインの教役者生活における第二の際立った時期は、1748年から1766年にわたっている。この18年間のうちに、この人物は生涯最大の試練のいくつかに直面し、主の葡萄畑において多くの異なる役職に就くことになったが、常にロンドンにとどまっていた。こうも言い足せると思うが、もしかすると、その人生のいかなる時期にもまして、このときのロウメインは有用な働きを行ない、大衆の人気を博していたかもしれない。心身ともに活力が充実し、大胆に、妥協することなく福音的な教理を説く説教者として、首都全域で世評が高かった。在世中の人物のうち、これほどの声望を得ていた説教者はほとんどおらず、それにまさる説教者はさらに少なかった。
ロンドンでロウメインが定期的に果たすことになった最初の役職は、ビリングズゲートは聖ボトルフ教会の講師である。その任命に至った状況はことのほか奇異なものであるため、ここで言及しておく価値があると思う。それは、神が、ご自分の民のためのしかるべき立場を探す際に、摂理によってどのようにお働きになるかを見事に示す例証となっている。さて、カラジオの辞典の改訂を終えた後にロウメインが意図していたのは、生まれ故郷に帰り、実家の近くで職を求めることであったように思われる。実際、それを目的にこの人は現実に荷造りを行ない、いくつもの大型鞄を船便で送ってしまっていた。しかし、身1つの船旅に乗り出すため河岸に行こうとしていたとき、ひとりの紳士に出会った。自分の前で立ち止まった、全く見知らぬ人から、もしやあなたの名前はロウメインと言いなさらんかと尋ねられたのである。その紳士は、かつての父親の知り人であり、道端で出会った聖職者の面影が旧知の人と強く似通っていたために、問いかけてみたのだという。説教者の家族について多少おしゃべりをした後で、ある程度まで町の有力者であったこの紳士は、ビリングズゲートの聖ボトルフ教会では講師職がいま空席になっていますよと告げ、応募してみる気があるなら、喜んで口利きしますぞという。ロウメインは、この思いもかけない摂理に神の指を認めて、即座に同意したが、選挙人である人々への戸別訪問を行なう義務を負わないという条件をつけた。そのような慣習を常々聖職者職とは矛盾していると思っていたからである。その結果、1748年秋に、この人物は聖ボトルフ教会の講師に選ばれ、在ロンドンの聖職者としての長い経歴を開始した。
このような場合に、神がどのようにご自分の民の居住地を選び、民にとって最善であるとご存知の場所に配してくださるかを観察すると、深く教えられるものがある。あのすぐれたロウメイン伝を著したカドガンは、その生涯のこの部分についてこう注釈している。「首都に腰を落ち着けるなど、他の何にもまして師が全く考えもしておらず、決して望んではいないことであった。自然や鉱物、化石、植物、そして神が創造された世界の驚異を研究したいという、師の天才の傾向からすると、そのような探求にとって実に好都合な田園生活こそ師の選ぶ土地だったであろう。しかし神は師のために別の道を選ばれた。そして一見すると些細で、偶然によるような状況、だが実はほとんどの人々の状態を決定する摂理の変化によって、師を都市部の講師職に召し、ロンドンにお引き留めになった。そして、その町で師は、世にある最後の時までイエス・キリストの証人としてとどめられた。また、その環境にとって師は、真に最適の能力を備えていた人物であった。まさに使徒パウロがエペソや、コリントや、ローマという環境にとって最適であったのと変わらない」。
1749年、ロウメインは西ロンドンの聖ダンスタン教会の講師に選ばれた。――そして、その任命のおかげで、その教役者職において直面しなくてはならなかった中でも、最も熾烈な迫害の嵐の1つを身に招くことになった。聖ダンスタンの教区牧師は、何らかの理由のために、この人物が講壇に立つ権利について異議を唱え、祈りの間中講壇を独占し、この講師を締め出しておいた。その間ロウメインは、常にきちんと自分の席に着いては、講師職が自分のものであること、その役職に伴う義務をいつなりとも喜んで果たそうとしていることを主張していた。ついにこの問題は王座裁判所にまで持ち込まれ、訴訟理由を聞いた後でマンスフィールド卿は、こう裁決した。ロウメインには講師職を果たすべき法的な資格があり、夕刻の7時がその講話を行なうべき好都合な時間であると。
しかしながら、それでもなお、この講師職に伴う困難は終わらなかった。カドガンの告げるところ、マンスフィールド卿の裁決が下った後でさえ、教区委員たちは7時になるまで教会の扉を開くことを拒み、必要があっても教会の照明を灯そうとしなかったのである。その結果、ロウメインはしばしば片手に持った一本の蝋燭をたよりに祈りを読み上げ、説教を行なうのだった。それに加えて、講話を行なう定刻になるまで教会の扉が閉ざされていたため、会衆は普通、フリート街に集まって入場できるようになるのを待っていた。その結果、首都の大通りに大群衆が集合することになり、騒々しくも無秩序でもなかったが、通行人たちにとっては不便な状況が引き起こされた。そのような事態はしばらくの間続いた。どの方面にとっても幸いなことに、自らもかつてはその講師職に就いていた、ロンドンの主教であるテリック博士がある晩、たまたまフリート街を通り抜けようとしていた際に、聖ダンスタン教会の外側で会衆が待っている姿を目にした。群集を認めた博士は、何が原因かと尋ね、それがロウメインの会衆であると告げられると、この人々のために教区牧師と教区委員たちのやり口に横槍を入れた。この講師に対する非常な敬意を表明し、この人物とその聴衆のために、礼拝が6時から開始され、扉がしかるべき時間に開かれ、冬季には明かりが供されるように取りはからった。このとき以来ロウメインは、何の邪魔も受けずに、聖ダンスタンにおける教役者活動を静かに実行し続け、その生涯の最後に至るまで、多くの人々の徳を高めていった。事実この人物は、この講師職を46年間も保っていたのである。その俸給は、年間18ポンドでしかなかったが!
1750年、ロウメインは、ハノーヴァー広場の聖ジョージ教会における午前の部の説教者補に任命され、その役職に五年間就いていた。その長い教役者職の間に占めた数ある講壇の中でも、この講壇こそ最も重要な場所にほかならない。ロンドン西側の富裕地区の、きわめて目立った場所に立っており、首都の最も高級な方面の母教会として広く知られていた聖ジョージのおかげで、この説教者の前には、その力強い働きによって価値ある成果を収める扉が大きく開かれたのである。多くの点でロウメインこそは、まさにこの役職のためにうってつけの人物であった。その説教者としての否定しがたい力量は多くの人々の注意を引き寄せた。その広く知られた学識のおかげで、意見を異にする人々からさえ敬意を受けずにはおかなった。そして何よりも良いこととして、キリストの本物の福音を大胆に、妥協することなく宣言し、あれこれの流行の罪を歯に衣着せずに糾弾するその言葉は、まぎれもなく、聖書からすれば神によって祝福されると期待される使信そのものであった。ことによると、こう言っても過言ではないかもしれない。ハノーヴァー広場に聖ダンスタン教会が建てられた日から今日に至るまで、日曜ごとにその講壇に立った他のどのような人物よりもすぐれた働きを行なっていたのは、ロウメインによる五年間であったと。
この人物が聖ジョージ教会で説教していた頃の様々な状況からすると、その証しはとりわけ貴重で重要なものとなっていた。キリスト教の主要な真理に関しては、冷たく血の通わない懐疑主義が上流階級や中流階級の間に広く行き渡っていた。バトラー主教は、さほど以前ではない時期にこう苦情を述べている。「多くの者らは、キリスト教を当然のように虚構であると見なしており、キリスト教には、もはや主として嘲弄とあざけりの的としての意味しかないかのように考えている」。そのような考え方から自然と生じたものが極度の放蕩であり、見境のなさであり、実生活の不道徳さであったと聞かされても、聖書を読んでいる者にとって何の驚きでもないであろう。事実、その時代の全く不敬虔さは徹底しきっていたために、現今に生きているほとんどの人々は、そのはなはだしさをほとんど思い描くこともできまい。この不敬虔さに対抗してロウメインは、1つの軍旗を大胆に掲げ、喨々と角笛を吹き鳴らしたのである。この人は、最高の意味においてその時代のための人物であり、まさに最適の場所を占めていた。この説教者がその《主人》の使信をどれほど大胆に力強く伝えていたかを見てとりたければ、この人が聖ジョージ教会で語った2つの説教を読むと良い。その1つの題名は「盗みと殺人の横行を防ぐ方法」であり、もう1つは「イエス・キリストの自存に関する講演」である。
ロウメインが聖ジョージの講壇から免職される間際の頃、ロンドンの住民たちは突如生じた地震によって、深刻な衝撃を立て続けに味わい、すさまじい恐怖にとらわれていた。一瞬にしてリスボンを壊滅させ、四万人の死者を出した大地震と同時に起こったために、この出来事に人々は心底から震え上がったのである。何万人もの人々がハイド公園に難を避け、そこで一夜を過ごした。何千人もの人々が、いわゆるメソジスト派の教理を説教している礼拝所に群れをなしてやって来ては、不安顔で慰藉を乞い求めた。ロンドンの主教シャーロックでさえ、この出来事に関する書状を自分の教区宛てに発表する必要があると考え、その中で聖職者たちにこう勧告している。「人々を覚醒させ、その惰眠から呼び起こし、自分たち自身の危険を見てとらせなさい」。ここにおいてもロウメインは、まさに折にかなった人物であった。今なお十分に精読するに値する、2つの説教を語っては、出版したのである。その1つは、「無頓着な世に対する警報」と題され、もう1つは「油断せずにいる義務が強化される」であった。そのような時期のものであるからには、それらが、その教役者職におけるこの時期のロウメインによって普通に行なわれていた種類の説教の見本であることには何の疑いもない。その2つの説教を読む人は、ロンドン西側の地区において英国国教会が、これまでそのような説教をもっと多く語らずに来たことに、深い遺憾の念を覚えずにはいられないだろうと思う。
ハノーヴァー広場は聖ジョージ教会における午前の部の説教者補としてロウメインが行なっていた牧会伝道活動は、1750年4月に始まり、1755年9月に幕を閉じた。その間この人物は、時たまニュートン博士と交替してボウ教会で説教することがあり、当時はメイフェアの聖ジョージ教会と呼ばれていたカーゾン会堂でも、その教区牧師と交替して説教を行なった。そのロウメインが聖ジョージ教会を去るに至った経緯は、きわめて尋常ならざるものであるため、特に注意を払うに値している。
この人物が占めていた、午前の部の説教者補という役職は、正規に賦与されたものでも、独立した任命によるものでもなく、教区牧師が随意に、しかるべき考えにより、自腹を切って保っていた職務であって、全く牧師の胸三寸にかかっていたように思われる。その職を得るように最初にロウメインを招聘し、五年経ってから免職した聖ジョージの教区牧師は、アンドルー・トレベック博士であった。その任命のきっかけになったのは、ロウメインの声望や評判の高さであって、個人的な友情ではなかった。その免職のもととなったのは、ロウメインの牧会伝道活動の人気の高さと率直さのためであった。本当のところ、この人物の説教によって、あまりにも大勢の群衆がこの古い教区教会に引き寄せられたために、正規の座席保有者たちが感情を害し、自分たちが不自由な思いをさせられていると苦情を言ったのである。教区牧師は強い圧力を受け、教区民を「喜ばせようと思い」、ロウメインにその雇用の終結を通知したのである。その通知をこの人物は穏やかに受けとめ、こう語った。「そういうことであれば、この職を辞すことに異存はありません。これまで伝えてきた教理はキリストの教えにかなうものであったと願っていますし、教区民の方々にご迷惑をおかけしたことについては申し訳なく思っています」。これ以上に不名誉な事件が、ロンドン教区の教区史を醜く傷つけたことは、おそらく一度としてなかったであろう。ひとりの傑出した敬虔な聖職者が免職された理由が、あまりにも多くの聴衆を引き寄せすぎたからだというのである! それでいながら、まさにそれと同時期のロンドンでは、何十人もの聖職者たちが疑いもなく、毎週毎週、空っぽの、あるいは、五、六人しか座っていない座席に向かって説教を行なっていながら、どこからも妨げを受けずにいたに違いない!
せめてもの慰めは、聖ジョージ教会の教区民のうち、少なくともひとりは、ロウメインがうけた仕打ちに対して気高く抗議したことである。それはノーサンプトンの老侯爵である。侯は教区教会が混雑していると苦情を言う人々を叱責し、こう指摘した。諸君は、舞踏場や議会や劇場ではそれ以上に押し合いへし合いしていてもそれを我慢し、何の苦情も言わないではないか。「もしも人々を引きつける力が、名優ギャリックの誉れとされているとしたら、なぜそれがロウメインに対しては犯罪だと強弁するのじゃ? 人並みすぐれた力は、聖なる物事に限っては非難すべきものとなるというのか?」――この折の会衆の中で、ロウメインが掲げていた信条を堅く固守していたもうひとりの教会員は、後にジョージ三世の公式馬車の御者となるジョン・サンダーソン氏である。この立派な人物は89歳という高齢まで生き永らえて、1799年に死去するまでの長きにわたって、自分が告白している教えを模範的で敬虔な生き方によって飾った。
ロウメインは、聖ジョージで説教を行なっていた五年間のうちに、短期間グレシャム大学で天文学教授の地位を占めたことがあった。その役職でこの人物が何を行なったかについては、ほとんど記録が残っておらず、その職責において大きな成功を収めたかどうかは疑わしい。この説教者の天分は、まず間違いなく天文学ではなく神学にあったし、太陽や月や星々について講じるよりも、キリストや天国について講じる能力に長けていたであろう。しかし、天文学の教授としてどれほどの信用を失ったにせよ、この人物は、ユダヤ人の公職排除廃止法案に関するふるまいによって、その百倍もの信用を取り戻した。同法案に激しく反対することをこの説教者は自分の義務と考え、多くのロンドン市民を非常に満足させた。事実、この人が挙げた議論はきわめて高く評価されたために、この主題について述べたこの人の様々な手紙が、友人たちの手によって収集され、一冊の小冊子としてロンドン市中で再版されたほどである。
ハノーヴァー広場の聖ジョージ教会から免職された日付から、ブラックフライアーズの聖アン教会の教区牧師に任命されるまで、ロウメインは各種の異なる立場を占めているが、どの1つにも決して長くとどまってはいない。辞することがなかった唯一の役職は、フリート街の聖ダンスタン教会の講師職である。1756年の初頭、この人物はサザクの聖オレイヴ教会で牧師補、また午前の部の説教者となった。1759年までその職務を続け、その大半の間はランベスのツリーウォークに居住していた。聖オレイヴを去った後は二年間、西スミスフィールドに近い聖バーソロミュー大教会で午前の部の説教者を務めた。同教会から移った先は[聖マーガレット教区付属の]ウェストミンスター・チャペルだが、そこでは6箇月しか説教しなかった。同チャペルにおける雇用が突如幕切れを迎えたのは、新たに巻き起こった迫害のためにほかならない。ウェストミンスターの参事会長と参事会は、自分たちの聖職推挙連と保護を同チャペルから引き上げ、ロウメインをその認可説教者として推薦しようとしなかったのである。この時からロウメインは、聖ダンスタンの講師職以外、《教会》に何の定職も持たなくなったが、1766年にブラックフライアーズの聖アン教会の教区牧師として選ばれた。
しかしながら、日曜午前中に安定した職を全く持っていなかったこの年月の間、ロウメインがのらくら暮らしていたとは一瞬たりとも考えてはならない。この人物は、ロンドンの諸教会で絶えず慈善説教を行なっていたように思われる。その目的のためには、その絶大な人気により、この人物の奉仕は絶えず求められていた。さらにこの説教者は、そのような慈善の最初の機関について、ロック病院付き会堂で頻繁に説教を行なった。
その生涯のこの時期にロウメインは、オックスフォード大学の全学の前で何度か説教を行なうように招かれている。しかしながら、それはこの人物が2つの説教を行なった後で沙汰やみとなった。その説教とは、1757年3月20日に聖メアリー教会で行なわれた「主、私たちの義」という説教である。この2つの説教は人々を激昂させ、その後この説教者は二度とオックスフォードの講壇に立つことを許されなかった。その二編は現在も、刊行されたロウメインの著作集に見ることができ、百年前のオックスフォードがどれほど霊的な暗闇に閉ざされていたかを示す陰鬱な証拠となっている! その二編が含んでいるような教理を説教したかどで、ひとりの人物を自分たちの講壇から排除して平然としていた大学理事会は、実際、惨めなほど暗愚な精神状態にあったに違いない。ロウメインの献呈の辞は、コーパス・クリスティ学寮の学長、また大学副総長であるランドルフ博士に対するもので、一読の価値がある。そこには、こうある。「私は、これらの講話を語ったとき、それを公にする意図は全くありませんでした。ですが、それ以後その刊行を余儀なくされた次第です。この二編が方々を、わけても貴殿を激昂させたことは理解しておりますし、その結果として私は大学講壇に立つことを拒否されています。いま願うのは、ただ公平な評価がなされることです。私自身に対してではありません。私のことは問題外としてほしいと思っているからです。ここで取り扱われている偉大な教理、すなわち、主イエス・キリストの義こそ、父なる神の御前で私たちが受け入れられ、義と認められるための唯一の根拠であるという教理が公平に評価されることです。そのために、私が講壇から語った内容を印刷するに至りました。その中で聖書と《宗教改革》の諸教理とに反するものが提示されているかどうかは、私たちの《教会》を愛する人々に判断をゆだねます。されていなければ、私は安全です。されているとしたら、貴殿はそれを明らかにする義務があります。貴殿は文筆の才も、大いに余暇もお持ちですから、それらを用立ててください。貴殿のために、また、私のために有益な形で用立ててくださるよう願い、また祈ります」。事のてんまつを述べる必要はない。ロウメインが受けた仕打ちは、この大学にとって、ロンドンの西側における、ハノーヴァー広場の聖ジョージ教会の教区民にとってと同じくらい不名誉なものであった。
ロウメインは、その生涯のこの時期の前後に、かの有名なハンティンドン伯夫人の親しい友人となり、夫人からその家庭付牧師に任じられた。その資格を得たこの人物は、ロンドンとアッシュビー・ドゥ・ラ・ズーシュの双方にある夫人の邸宅でも、様々な会堂でも、さらには夫人がブライトンやパースその他の場所に建てた説教場でも、頻繁に説教を行なうようになった。実際、この貴婦人の友情によってこそロウメインは、52歳にしてついにブラックフライアーズの聖アン教会の教区牧師として任命されたのである。しかしながら、この役職にこの人が任命された経緯や、同地におけるその29年間にわたる教役者活動の次第や、その著作や書簡や人格に関する多少の説明は、別の章で物語るために取っておきたいと思う。
To Be Continued
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