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第2章

ブラックフライアーズの聖アン教会の教区牧師となる――その任命に関する困難――ハンティンドン伯夫人への手紙――ブラックフライアーズで用いられる――その話し方と気質の詳細――最後の病と臨終の言葉――1795年に死す――公の葬儀――その遺稿


 ウィリアム・ロウメインの伝記を書こうとする者であれば、1つの事実をまず見逃すはずはないであろう。この人物の生涯が、自然と3つの部分に分かれるということである。最初の部分は、その誕生に始まり、1746年にロンドンで奉仕を開始するまでである。二番目の部分は、1746年から、最終的にブラックフライアーズの聖アン教会に腰を落ち着ける1764年までに及ぶ。三番目は、ブラックフライアーズで行なわれたその伝道牧会活動の全体にわたり、1795年に死を迎える時までである。ロウメインの人生における、この三番目の、そして最後の部分こそ、本章で取り扱いたいと思っている内容にほかならない。

 この人物が、ブラックフライアーズで、聖アン教会の教区牧師職に任命されたのは、その教役者人生における、きわめて重大な時期に当たっていた。18年もの間、ロンドンで講師として説教を行なっていながら、ロウメインは今なお、特定の教区の教会管理司祭としての定職を得ていなかった。あらゆる扉が、この人の前で閉ざされていたかに思われる。どこに行こうと反対と迫害が追いかけてきた。つまり、ロンドンから全く身を退いて、どこか別の土地に足を向けた方が身のためではないかという問題と思われていたのである。ダートマス卿は、自分の領地で聖職者として禄を得てはどうかと申し出てくれていた。ホイットフィールドは、会えば口癖のように、北米フィラデルフィアにある大教会の牧師職を引き受けるように勧めていた。熱い思いに燃える友人たちは、どうか先生のために1つ会堂を建てさせてくださいと要望してやまなかった。この人物が、まさにその敵たちが言い立てていた予言通りに、英国国教会を離れて、正真正銘の非国教徒になる見込みは、決してありえないことではなかったのである。

 しかしロウメインは、英国国教会の値打ちをきわめて深く感じとっていた。並々ならぬ愛情をこめて、その《信仰箇条》と《祈祷書》を愛していた。たとい国教会が、教会政治の上でどれほどの欠陥をかかえていようと、また、その最上の子どもたちをどれほどひどい目に遭わせていようと、その講壇に立つことには著しくすぐれた利点があると考えていた。だから国教会を離れることを堅く拒否したのである。この説教者は心が広く、親切で、国教徒以外の人々に対しても寛容で、その多くと友好的な交わりを保ちながら暮らしていた。この点については、ジョン・ウェスレーでさえ、アルミニウス主義者ではありながらも、はっきり証言している。1763年、ハンティンドン伯夫人に宛てた一通の手紙の中で、こう言っているのである。「ロウメイン氏は真に同情心に富む精神を示しており、兄弟のように行動しています」。しかし、何事をもってしても氏が自分の立場を捨てて、非国教徒になることはありえなかった。その段階でこの人物を大いに力づけたのが、かの卓越した聖職者、トルローのウォーカーから寄せられた助言である。ロウメインは、自分が叙任を受けた《教会》に忠実を尽くそうと決め、何らかの扉が開かれるのを辛抱強く待とうと固く決心した。そしてその忍耐も、とうとう報われる時がやって来た。数々の摂理が奇妙にも立て続けに生じたために、この人物はロンドン市中の重要な教区の教区牧師となり、そこで何の妨げもなしに牧会伝道に励む生涯最後の29年間を過ごすことになったのである。

 この新しい義務の圏域へとロウメインが任命されたいきさつは、いささか意想外なものであった。聖アンドルー・バイ・ザ・ワードローブとブラックフライアーズの聖アンとの合同教区の聖職推挙権は、大法官と教区民に交替で授けられていた。ロウメインの直前の前任者、ヘンレイ氏は、当時のヘンレイ大法官の甥である。この人は、たった六年その聖職禄を受けただけで、ある教区民を訪問中にうつされた発疹チフスのため死んでしまった。その死によって、後任者の任命は教区民が行なう番になった。すると、たちまちロウメイン氏に親しい何人かの人々が、この説教者に知らせもせず、その同意も得ないうちに、空職となった聖職禄への候補者として氏を推薦することを決議したのである。じきに教区民の三分の二がこの人物に味方していることが分かった。そして、ロウメイン自身は、支持を求めて戸別訪問して回ることを拒絶したにもかかわらず、ハンティンドン伯夫人やソーントン氏やマダン氏は、この人を熱烈に支持した。

 他にも二人の候補者がおり、そのような場合の慣例に従ってロウメインは、教区民の前で試験的な説教を行なうように求められた。1764年9月30日に、IIコリ4:5から行われたこの説教は、その出版された著作集の中で読むことができるが、この人物の心情と頭脳にとって名誉となるものである。ある箇所においてロウメインは、自分が個人的に選挙民のもとを戸別訪問していない理由について語っており、その言葉は特に注目に値している。この人は言う。――

 「一部の人々は、私が教区の家々を訪問して自分への投票を求めて歩こうとしないのは高慢によるものだとほのめかしている。だが真実を言えばそれは別の動機から出ている。――そのような行動が神の栄光を高めるものとは思えないのである。イエスに仕える教役者たちは、名声も、富も、安楽も捨て去っている者にほかならない。その教役者が、自分の捨て去った当のそのものを、しゃにむに追い求めるような態度を取ることが、どうしてイエスの誉れになりえるだろうか。確かにそれは、この世的な精神、また政治的なかけひきを行なう精神に陥ることであろう。さらに、このような戸別訪問という方法は、イエスのためになりえないのと同じくらい、私たちの名誉にもならない。そのような行ないは、私たちの役割よりもはるかに低いものであり、あなたがたの益にもならない。考えてみてほしい。あなたがたにとって少しでも関わりのある誰彼が、あるいは、あなたがたが少しでも頼りにしている誰彼が、あなたがたの自宅に次々と差し向けられてくるか、支援を要請しにやって来るというのである。それが、あなたがたの魂にどのような善を施すだろうか。――あなたがたの理解力に対して、どのような誉め言葉となるだろうか。――どんな姿かたちにおいてであれ、あなたがたにとって何の得になるだろうか。それは、あなたがたから選択の自由を奪うものではないだろうか。このような種々の動機に決定づけられたために私は、ある友人たちが全く自分たち自身の独自の考えに基づいて、――今この時点に至るまで、この人々に対して私は、直接的にも間接的にも決して自己推薦したことはないのである。――私を候補者として挙げたときに、事をあなたがたの自由にまかせたである。もしもあなたがたが私を選ぶのであれば、私はイエスのゆえにあなたがたのしもべになりたいと願っている。そして、もしもあなたがたが私を選ばないとしたら、主のみこころがなされるように」。

 特に注目すべきことに、この説教は、この説教者の不利益にはならず、むしろ、かえってこの人物を利することになった。教区民に好感をいだかせるもととなり、教区民の要請によって出版されたのである。

 強い支持を受けていたにもかかわらず、ロウメインの任命が最終的に確定するまでには非常に大きな困難と反対を乗り越えなくてはならなかった。選挙は激烈な戦いとなり、いざ投票が行なわれると、その結果が厳密に審査され、さらには衡平法裁判所への訴えが行なわれるという事態が、友人たちによる最初の推挙から、その願いの成就までの間に相次いだのである。しかしついに、十八箇月も遅れてではあったが、あらゆる障害が克服され、ヘンレイ卿によってこの説教者を是とする判決が下ったために、1766年2月、ロウメインはブラックフライアーズの聖アン教会の教区牧師に任じられ、就任した。もしかすると、この不安と緊迫に満ちた時期を通じて、誰よりも心からこの人物のために働いたのは、ハントティンドン伯夫人かもしれない。夫人は、このようにキリストの福音のために戦う勇士が、ロンドンで確固たる地歩を占めることがどれほど重要であるかを明らかに見てとっていた。だから、あらゆる手を尽くしてロウメインがこの地位をかちとるように努めたのである。きわめて意外な方面からの助けもやって来た。同教区で居酒屋を営んでいるある男が、きわめて精力的にこの人を支持し、そのため家々を訪問して回っていたのである。最初は誰もがこの事実に首をひねった。しかし、すべてが終わった後でロウメインがその家を訪ねてお礼を述べたとき、この天晴れな居酒屋の主人は答えたという。「本当のところ、あっしの方がずっと先生のお世話になっておりやす。というのも先生のおかげで、うちの女房は、箸にも棒にもかからねえ女だったのが、世界で一番素晴らしい女になりやしたからね」。

 ロウメインは、この新しい働きに着手したとき、自分自身の足りなさを心の底から感じていた。この人物を賢い建築家にしようと意図しておられたお方は、自己卑下と謙遜という土台を据えるようにこの人物に教えてくださったのである。自分の選挙が行われていた折に書かれたその手紙は、いずれもこの説教者の感情をありありと描き出している。

 その一通でこの人物は言っている。「友人たちは周りで喜んでおり、私にも喜ぶよう言ってくれるのですが、そのような喜びを感じることはできません。事は私の《主人》のみこころであり、私はそれに服します。主はご自分の栄光のためにも、御民の益のためにも、何が最善かをご存知であり、どちらの点でも決して間違いを犯すことがないものと自分は確信しています。しかし私は、魂を世話するというこの畏怖すべき務めを案じて、今この時にうなだれています。ただひとりの魂の見張りをするだけでも大仕事だというのに、二、三千人もの魂の見張りをすると思うと恐ろしくてなりません。自分自身の心の疫病によって死ぬほど疲れ果てています。これほどおびただしい数の人々に対して何ができるというのでしょうか」。

 同じ日付に書かれたハンティンドン伯夫人宛の手紙で、ロウメインはこう言っている。「先頃までの私は、のんびりとくつろぎ、自分の魂に向かって、『さあ、安心せよ』と言っていましたが、今や公の職務に就くよう召されており、冬営地に向かうように、この上もなく苛酷な働きに召されています。このからだに息が残っている限り、私の前に見えるのはただ、戦いしかありません。それも、理不尽な人々や、分裂した教区や、怒りを発する聖職者、そして邪悪な世界との戦いであり、そのすべてに抵抗し、打ち勝たなくてはなりません。それら一切に加えて、一個の不倶戴天の敵、狡猾で冷酷な敵、決して和平を結べない敵が――そうです、昼夜を問わず、一瞬たりとも和らぐことなどできない敵が――そのあらゆる子らと軍勢をけしかけて、私の破滅をはかろうとしています。血肉に相談するとき、私は気を失いそうになります。ですが聖所に入ったとき、私は自分の大望の正しさを見てとり、自分の全能の《主人》と真の《友》を見てとり、その上で、このお方によって勇気をよみがえらせていただくのです。私は、決してこの働きにふさわしい者ではありませんが、それでも主からその働きに召していただいたたのであり、主により頼みつつ、事を行なう力を授けられ、その力によって事に成功させていただくつもりです。私は自分自身の力で行なう何事にも本当に絶望しています。ですから、行なわなくてはならない仕事が多ければ多いほど、主を信じる信仰によって生きるよう仕向けられるはずです。そのような意味で私は、自分の<聖職禄>から大きな収益を得たいと望んでいます。イエスをより欲し、イエスにより近づきたいのです」。

 その思いの中で、どのような困難を予期していたにせよ、ロウメインはブラックフライアーズでは比較的わずかな困難にしか向き合わなかった。事実、同教区におけるこの人物の29年間の牧会伝道活動は、その前半生に比べると、穏やかな歳月であった。確かに、福音を忠実に宣べ伝えるどのような聖職者とも同じく、敵や反対者たちはいたに違いない。しかし、その種の者らはロウメインを大して邪魔できなかった。その結果、この人物の後半生は、前半生よりも用いられなくなったわけではないが、確かに波乱に富むことは少なくなった。さながら最初は山の中腹を騒々しく流れ下っていた急流が、平原に達し、舟を浮かべられるくらいになる頃には、音もなく悠然と流れるようになる姿にも似て、ブラックフライアーズに着任した時からロウメインの伝道牧会活動は、さほど騒ぎを起こすものではなくなった。とはいえ、おそらくキリストの《教会》にとってずっと有益なものになったであろう。必然的にこの人物が行なう巡回説教や伝道説教の数はぐっと減らざるをえなくなった。自分自身の教区と講壇で必要とされる働きのために、多くの時間を自宅で過ごし、時間と注意を集中させなくてはならなかったからである。しかし、一部の人々が性急にどのような判断を下すにせよ、この説教者が用いられる度合は、単に減らなかったばかりでなく、いやまさるものになったと言った方が良いかもしれない。

 有り体に言えば、ロンドンの一教区の教区牧師としてロウメインは、ロンドン在住の、英国国教会に所属し、かつ福音的な真理を愛するあらゆる人々にとって、一個の結集地となったのである。ひとり、またひとり、そして一家族、また別の一家族と、人々はこの人物が講壇から行なう説教を聞きに集まり、ついにはこの会衆が中核となって、首都で途方もなく大きな善を施すまでとなった。この牧師が絶えず、ひるむことなくキリストの真理全体を宣言していたために、知らず知らずのうちに人々の思いには強力な印象が刻み込まれ、英国国教会の真の聖職者のあるべき姿が理解されるようになっていった。その否定しがたい学識のおかげで、この人物を向こうに回して敵対しようとするような者はほとんどおらず、ろくに教育も受けていない者の口から出たなら、必ずしもただではすまなかっただろう主張にも途方もない重みが加わった。その立ち位置にも、ことのほか有利な点が多々伴っていた。聖ポール大聖堂とウェストミンスター寺院の目と鼻の先といっても良いほどの所で働いていたロウメインは、弁舌においてであれ文筆においてであれ、いつなりとも出て行って戦闘を行なう準備があったのである。過誤が蔓延するときには、直ちに攻撃を行なう備えができていた。真理が攻撃を受けるときには、同じように打って出ては擁護に回る備えができていた。つまり、ブラックフライアーズの教区牧師になったこの人が行なった善は、それ以前ほど人目を引くものではなかったが、おそらくずっと実質の伴った、後世まで残り続けるものであったに違いない。

 たとい十分な資料があったとしてさえ、ブラックフライアーズにおける29年の間にこの人の人生に起こった出来事を残らず年代順に記録しようとすることは、大した役に立たないであろう。着任後のロウメインは、そもそもの最初から、自教会の礼拝式をきわめて敬虔に、秩序正しく行なおうとすることに非常な意を用いた。他の多くの聖職者たちと同じく、自教会の建材をきちんと補修し、まともな牧師館を建て、教区学校を徹底的に効率なものにするまで気を休めたことはない。その上で、一切の事業が完成した後には、自分の役職の中心的な働きに一心に打ち込んだ。決して怠惰に過ごすことなく、《安息日》に一言も発さないことはめったになかった。説教を行ない、教区民を訪問し、出版のために執筆し、助言を求める多くの人々に手紙を書くことに、生涯最後に至るまで、ほとんどすべての時間を費やした。

 もしかするとこの人物は、当今、「にこやかな人」と呼ばれる質の人ではなかったかもしれない。カドガンによると、「生まれつき打ち解けにくく、遠慮がちで、いささか短気な所もあり、木で鼻をくくったような返事をした。そのため、決してそのつもりもないのに、無作法で気難しい人だと誤解されることが少なくなかった。だがもしもこの牧師が、自分の前にやって来る人々の訴える、魂やからだの様々な苦悩に、それ以上の注意を払っていたとしたら、聖書を読む時間も、瞑想する時間も、祈りのための時間も、つまり、公で用いられようとする人々が決してないがしろにできない密室における時間が、ひとかけらも残らなかったであろう。良心の問題や、霊的に悩んでいる問題について話に訪れる人々に向かって師が、自分が語れることはみな講壇で語っていますよと告げる場合も、まれではなかった。このようにして人々は、一時的にはそのようにはねつけられて傷ついたかもしれないが、この人物の膝元に来て、この人物の語る説教に耳を傾けさえすれば、じきに分かったはずである。自分たちの様々な困難は、自分たちと同じくらいこの説教者にも強い印象を残していたのだと。それらの困難は、神のもとに差し向けられ、この人物が真剣に愛情をこめて考察する主題とされていたのである」。

 カドガンのこのような所見は、特別な注意に値する。残念ながらロウメインのみならず、教役者の中には、はなはだ歪んだ形で言行を伝えられ、悪く取られる人々が少なくない。不幸なことに、この世のほぼどのような者にもまして不当なさばきを受けるのは、顕著な立場を占めており、賜物と美質において傑出した教役者である。キリスト者たちでさえ、そのような教師たちを、あまりにも簡単に、偉ぶっているとか、高慢だとか、冷たいとか、よそよそしいとか、打ち解けないとか、非社交的だと、全く正当な根拠もなしに切り捨ててしまう。この人々が、その働きのために日々どれほど途方もない時間と体力を費やしているか、どれほど多くの個人的な困難と戦わなくてはならないか、どれほど毎日聖書を読み、瞑想し、神との交わりの時間を持つことを絶対に必要としているか――こうした事実をみな、世間はいとも簡単に忘れ去ってしまう。筋の通らない要求を行なう教会員の心ない言葉によって、教役者がその繊細な心を傷つけられる場合は何と多いことか。ロウメインが飲まなくてはならなかった杯を、今日も多くの聖職者は飲まなくてはならない。

 ロウメインについて残されている数少ない逸話は、いずれもカドガンが描いている通りの人物の特徴を、多かれ少なかれ表わしている。みな、人とのやりとりにおいて極度に言葉数が少なく、素っ気ない人の様子を示している。実際、あら探しをしたがる人々が、かちんと来たのも分からなくもないほどである。だがしかし、それらの逸話はみな、この人物が決して、平凡な美質や賜物や良識の持ち主ではなかった事実を証明する方向にある。

 ある晩、ひとりの友人宅に招待されたとき、お茶の時間の後で、同家の女主人から骨牌遊びをいたしませんかと乞われて、この人物はそれに何も反対しなかった。骨牌が出されて、何もかも準備が整い、遊び始めるばかりとなったとき、ロウメインは言った。「神様の祝福を祈り求めましょう」。「神様の祝福を祈り求めるですって!」と女主人は仰天した。「骨牌遊びの前にお祈りするなんて聞いたこともありませんわ」。そこでロウメインは尋ねた。「私たちは、神様の祝福を祈り求めることもできないような物事に携わって良いものでしょうか?」 この叱責を受けて、骨牌遊びは立ち消えになってしまった。

 別の折にこの説教者は、ひとりの奥方から話しかけられた。先生の説教をうかがって、私たいそう大きな喜びを味わいましたわと語ったこの夫人は、続いて、ある1つのことを除けば、先生のお求めになることには何でも従えますのよと告げたのである。「その1つのこととは何です?」とロウメインが答えると、「骨牌遊びですの」。「骨牌遊びができなければ幸せになれないとお考えなのですか?」 「ええ、先生。幸せになれないんですの」。「それでは、奥様。骨牌があなたの神なのですから、骨牌に救っていただくのですね」。記されるところ、このつぼを突いた一言によって婦人は真剣に思いを巡らすようになり、とうとう骨牌遊びを全くやめるに至ったという。

 あの哀れなドッド博士が債務証書偽造のかどで死刑宣告を受けたとき、他の人々と同じくロウメインは、博士に対して深い、陰鬱な関心をいだいた。ロウメインとドッドは一時期、ヘブル語の学識を追求しようという志を共有していたために親しい間柄だったことがあるのである。しかしながら、哀れなドッドがキリストよりも世を愛するようになり始めたとき、二人は次第に疎遠になり、ドッドは面と向かってロウメインに、もう表で出会うことがあっても他人のような顔をしてくれたまえと言い放ったという! 処刑日の前にロウメインは、ドッドのたっての頼みによってニューゲート監獄を訪ねている。多くの人々は囚人の霊的状態についてどう思ったかを聞きたがったが、この説教者から引き出すことのできた唯一の答えはこうであった。「博士が真に悔い改めているものと思いたくはあります。ですが、『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください』と、口で言うことと、心で本当にそう感じることとは大違いですから」。

 ブラックフライアーズの教区牧師は、そのふるまいにおいては確かに口数が少なく、素っ気なくはあったが、自分自身の気質的な欠点を痛感しており、自分の非を常に認めようとしていた。あるとき、この人物の講義をよく聞きに来ていた、ひとりの非国教会の教役者が、ロウメインのもとを訪問し、あなたが非国教徒について告げた言葉は厳しすぎますと苦情を言った。その苦情を聞くなり、ロウメインは、「あなたにお話ししたいと思うことは何もありません」と答えた。――「もし聞いていただけるのであれば」と相手はさらに言いつのった。「私の名前と職業をお知らせしましょう。私はプロテスタント教徒で、非国教会の教役者をしております」。――「あなたのお名前だの職業だのは、何も聞きたくはありませんね」とロウメインは語った。それを聞いて、この可哀想な非国教徒はお辞儀をして立ち去った。ほどなくしてロウメインは、自分をたしなめにやって来たこの聴衆の自宅を訪れ返して、相手の目を白黒させたという。当たり障りのない挨拶を交し合った後で、この訪問者は口を切った。「さて、T先生。私がやって来たのは自分の原則を放棄するためではありません。私は自分の意見を変えてはいませんし、いまだに英国国教会の方を好ましく思っています。ですが、ここにやって来たのは、キリスト者として、多少のおわびをするためです。先日の先生に対する私のふるまいは、ふさわしいものでも、しかるべきものでもありませんでした」。二人は握手をし、良い友人となって別れた。

 ロウメインが最後の病にかかったのは、今なお御父の務めに携わり、その働きを喜んで行なっている間のことである。この教役者はすでに81歳という高齢に達していたが、知力も記憶も全く衰えてはいなかった。晩年の十年間には、大いに人格が練れて和らぎ、あの、「正義の道に見いだされるしらが」*[箴16:31]をいただく敬虔な老人の姿を麗しく示す模範となっていた。夏の日に没していく入り日とも言うべき黄金の豊かさをことごとく伴いながら、ゆっくりと谷間を下流へと向かっていたのである。その説教も生活も、ほとんど天国のように見受けられた。そして、死に臨んだバクスターのように、自分の将来の家を、すでに見たことのある人のように全く勝手知ったる様子で語っていた。

 その牧会伝道活動の最後の日々に接した、ある友人たちは、いみじくもこう語っている。この説教者は、真の金剛石であって、生来荒々しく尖ってはいたが、年を追って砕かれるにつれて、一層輝きを増していったのだと。老牧師の顔はしばしば――特に説教を行なっているときには――輝いて見えた。暁のように、あるいは、微かな栄光の現われのようにである。お元気にしていますかと尋ねられると、たいていの場合こう答えた。「悪くありませんよ。天国の外で暮らしている限りにおいてはね」。死の少し前に、そのように答えた相手は、別の教派の友人だったが、ロウメインはさらにこう言い足したという。「中心となる点は1つだけです。その点については、私たちはみな一致しなくてはなりません。――十字架につけられたキリスト・イエスです」。それこそ、この人物が常に視野においていた対象であった。――かの素晴らしい、神―人である。この人物自身の言葉によると、「私が、からだのために魂のために、時間のために永遠のために、自分の現在のために永遠のために、すべてのために受け取っているお方」をである。

 ロウメインの単純で規則正しい生活習慣は、疑いもなく、その寿命の長さと、精力的な老齢とに大きく関係していたに違いない。むろん一部の教役者たちは、規則正しい食事や生活時間を全く抜きにしても働くことができ、その鉄のような肉体はどのような重圧にも耐え抜くことができる。だが、その数は多くない。ロウメインについて、カドガンはこう言う。「この人物が朝食を取るのは午前6時、昼食は午後1時半、夕食は午後7時であった。午前9時には祈りのために家族を集め、午後9時にも同じように行なう。ヘブル語の詩篇を常に欠かさずその朝食の友とし、自分の最初の食事がどれほど神のことばと祈りによって聖別されることかと折にふれ語るのだった。10時から1時の間に、普通は病者や友人のもとを訪れる。昼食後には書斎に引き取り、夏には夕食後に改めて散歩に出かけることもあった。夜の家庭礼拝の後では、再び書斎に引き取り、10時には就寝した。このような生活の様式から、この牧師は決して逸れることなく、例外を設けたのは友人宅を訪問しているとき以外にはない。その場合には、7時に朝食を取り、2時に昼食、8時に夕食を取るのである。この点におけるロウメインの規則正しさが、ことのほか際立っていたのは、生涯最晩年の頃に起こったある状況にほかならない。そのとき、この人物は《教会》のある高位聖職者から、5時に食事を取るよう招待を受けた。ロウメインは招待者への敬意を感じており、目に見える形でその敬意を表わしたいと願った。それゆえ、断り状を書いて送る代わりに、自ら相手のもとに赴き、招待へのお礼を述べると、長年の早起きと、自分の高齢と、重なりつつある不調を訴えて、辞退したのだった」。

 ロウメインが迎えた臨終は、ジョン・ウェスレーがこのように語った真理を美しく例証している。「われわれの民は良い死に方をする! 世はわれわれの意見をとがめだてするかもしれないが、われわれの民が良い死に方をすることは否定できない」。ロウメインは、その点で他の人にまして傑出していた。1795年6月6日の土曜日に、その命取りになった病に襲われると、7月26日に地上での生涯に幕を閉じた。最後に行なった説教は、二日前の木曜日に聖ダンスタン教会で語られたものである。それは聖ヨハネの福音書18章の講解であり、この人物は自分の牧師補に向かって、こう言っていたという。できるだけ早く話を進めなくてはいけないね、夏の間、講義が中断する前に、この福音書の取り扱いを終えないといけないからと。ブラックフライアーズにおけるしめくくりの説教は、それに先立つ火曜日の午前中に、詩篇103篇13節から行なわれた。――「父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる」。これらの日付は特別な注意に値している。このキリストの、老いてなお優れたしもべは、81歳にして、明らかに毎週少なくとも三回は説教していたのである!

 その病にとらわれた瞬間から、ロウメインはこれが自分の最期になるものと見なしていた。そして、その病が続いた七週間のうち、時たま回復するような兆しがあっても、決して講壇に立つことはしなかった。自分のことを死に行く人間だと語っていたが、常に、信じることにおいて平安を得ているとも言っていた。発病した日の朝、この人物はいつものように、そのとき泊まっていたバラムヒルの家で、朝食に下りてきて、家庭礼拝を執り行なった。そして、神に向かってきわめて熱心に祈っていることに人々は気づいた。「願わくは神がこの家族を、この日もその試練に立ち向かうにふさわしいものとし、支えてくださいますように。その試練が少なくないかもしれないからです」。同じ日にロウメインはロンドンにある自宅に戻り、その道の途中で、死が近づくことと、間近に迫る死の見通しについて、きわめて有益で慰めに満ちた会話を交わしていたという。「今や私が死について得ている眺めは、何と心を躍らせるものでしょう。天国で私のためにたくわえられている望みは、栄光と不滅に満ちているのです!」 そして自宅に着くや否や、その最後の病がこの人物に襲いかかった。

 ロウメインは三週間、医師の助言に従ってロンドンの自宅にとどまり続け、医者が処方すべきだと思ったあらゆる手段を用いた。しかし、医者に向かってはこう言った。「先生はこのひ弱なからだにてこ入れするために、大いに苦労しておられますね。お礼を申し上げます。ですが、今やお手当ては役に立ちません」。そのヘブル語詩篇は絶えず枕頭にあり、そこからこの人物はしばしば一節か二節を読むのだった。それ以上、集中していることはできなかったからである。その病の性質上、ほとんど話はできなかった。そして一度、ご友人の何人かと会いたいかどうか訊かれたときには、「今以上に素晴らしいお方の付き添いは必要ありません」と答えた。

 その伝記作者カドガンは言う。「6月26日、ロウメインは首都を離れ、二週間、トテナムにある友人宅に滞在した。そこでは、相当に持ち直したために、庭を散歩できるほどだった。首都に戻ってくるとすぐに、自分の牧師補にこう告げた。自分は死の腕の中で羽交い締めになっていたので、たとい回復するとしても、その進み具合は遅々たるものでしょうよ。『もっとも、これは良くてせいぜい、貧しくて、死につあるる世にすぎません。しかしながら、私は御手の中にあり、このお方は私のために最善をなしてくださるのです。私はそう確信しています。私は自分の語ってきたこと、書いてきたことをすべて経験するように生かされてきました。そして、そのことゆえに神をほめたたえます』。――別の友人に対してはこう語った。『私の良心には神の平安があり、私の心には神の愛があります。そしてそれは、ご承知のように健全な経験です。以前の私は自分の説教している教理が真理であると知っていましたが、今はそれが祝福であることを経験しているのです』。――見舞いに来てくれた別の友人に感謝しながら、この人物はこう告げている。『救われた罪人のもとによく来てくれましたね』。――今際の息でもそう言いたいと、師はしばしば、きっぱりと語っていたという。あの取税人の言葉を口にしながら死ぬことを願っていたのである。――『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください』[ロマ18:13]」。

 ロウメインは、この幸いな心持ちのままロンドンに何日かとどまってから、7月13日に、バラムヒルにある、友人ホイットリジの家に向かった。この病にかかった最初の日に滞在していた家である。この日を境に、その体力は休息に衰えていったが、その信仰と忍耐は決してくじけることがなかった。老説教者は、事あるたびにこう言っていた。「神は何と良い方でしょう! 何という慰めをお与えになることでしょう! 何という栄光と不滅の見通しを私の前に示してくださることでしょう! この方こそ生においても、死においても、永久永遠に私の神です」。7月23日、朝食の席についていたときにはこう告げている。『今からもう六十年も前に、神は初めて私の口を開いて、キリスト・イエスにある救いがどれほど永遠に十分なものであり、どれほど限りない栄光に富むものであるかを、はっきり公に語ることを許してくださいました。そして今は、私の口を閉ざそうとしておられます。私の口がこれまで何度となく語ってきた真理を、私の心が感じ、経験するためにです』。

 7月24日は、階下に降りてくることのできた最後の日となったが、介添えされて降りてきたロウメインは、「おゝ、神は何と良い方でしょう! 何という夜を恵んでくださったことでしょう!」と言いながらも、信仰と忍耐が尽きないように、自分のために絶えず祈っていてほしいと願った。非常な優しさと愛情をこめて自分の妻について語り、その看護の一切について妻にお礼を言ってから、こう告げた。「こちらにおいで、愛する者よ。あなたを祝福できるように。主が契約の神として、永遠にあなたとともにあり、あなたを救い、祝福してくださるように!」――この人物が最期を迎えた家のホイットリジ夫人は、老説教者がこのように妻を祝福する姿を見、その言葉を聞いて、「先生。私をも祝福してくださいませんか?」と言った。「いいですとも」とロウメインは答えた。「神があなたを祝福してくださるよう祈りましょう」。そして、自分のもとに来るすべての者に同じように語った。

 7月25日土曜日、ロウメインは階下に降りてこられなかったが、一日中寝台の上にいて、からだは弱り果てていても、信仰においては力強く、神に栄光を帰し、キリストの力を受けていた。その日の終わり近くに、ある者らはこの人がこう呟いたように思ったという。「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから」。――その死の1時間前に、同家の主人である友人ホイットリジは言った。「私の愛する先生。どうかイエス・キリストのお救いが、先生にとって尊く、貴重で、価値あるものであると感じられますように」。返ってきた答えは、「主は私にとって尊い《救い主》ですよ」。それが人間に対してこの人が告げた最後の言葉になった。主に対しては、このように語っている言葉が聞こえた。「聖なる! 聖なる! 聖なるかな! ほむべきイエスよ! あなたに永遠の賛美がありますように!」 《安息日》が始まろうとする真夜中頃、ロウメインは息を引き取り、神の民のために残っている永遠の安息に入った。聖書のこの言葉はまことである。「全き人に目を留め、直ぐな人を見よ。その人の最後は平安である」(詩37:37 <英欽定訳>)。

 ロウメインの友人や親族たちは、完全に内輪の葬儀を挙げるつもりでいた。しかし、それは不可能であることが分かった。45年間もロンドンで福音を語っていた教役者に敬意と愛情を示そうとするその聴衆たちが、棺の後を墓地までついて行くのを妨げることはできなかったのである。多数の人々はこの人を自分の霊的な父として仰いでいた。おびただしい数の人々が、この人物の人格と志操堅固さを尊敬していた。たとい、この人の宣べ伝えていた福音を心から信奉してはいなかったとしてもである。その結果、ロウメインの葬儀は、関係者のあらゆる願いや意図にもかかわらず、ことのほか公的なものとなった。五十台もの大型四輪馬車が、クラパム広場から葬儀用馬車の後に続き、多くの人々は徒歩で進んでいった。この行列が聖ジョージ墓地にある方尖塔に達したときには、非常な大群衆の集まりとなっていた。ブラックフライアーズ橋のたもとからは、市の司法官たちが部下たちともどもに黒絹の肩掛けを身につけ、帽子に黒い喪章をつけたまま、教会入口まで霊柩馬車を先導していった。この人々を差し向けたのは、市長の命令である。それこそロンドン市中で長年その人品の高潔さにおいて抜きん出ていた人物の記憶に対する敬意の表われであった。このようにして1795年8月3日、ブラックフライアーズの尊い教区牧師は、どこから見ても敬意と愛情に包まれながら、その奥つきに入った。その45年に及ぶ長い牧会伝道活動の最後に、この人を悪し様に言った者は誰ひとりとしていない。迫害の風や波浪はついに凪いでしまっていたのである。ロウメインは、どのような反対をも立派に鎮め尽くし、人々の尊敬を受け、嘆かれる中で死んだ。聖書のこの言葉は至言である。「主は、人の行ないを喜ぶとき、その人の敵をも、その人と和らがせる」(箴16:7)。

 ロウメインは一度結婚しているが、多くの教役者よりもいささか晩婚ではあった。妻となったのはプライス嬢であり、先に見たように夫よりも長生きした。二人には何人か子どもたちが生まれ、ある息子は1782年にトリンコマリーで死に、父を大いに悲しませた。別の息子は、父親が最後の病を得たときその病床に付き添い、父親から愛情深い言葉をかけられ、お前は信仰の子だと思うと言ってもらっている。他の子どもたちについては、何の記録も見つからなかった。

 ロウメインの著作のほとんどはよく知られているため、それらについて物語って読者を煩わせる必要はあるまい。その最も大部の著述である、『信仰のいのちと歩みと勝利(The Llife, Walk, and Triumph of Faith)』は何度も再版され、英国における福音主義的な古典として尊敬すべき立場を保っている。その『律法と福音に関する12の説教(Sermons on the Law and the Gospel)』も一度ならず再版されており、私の判断によるとそうされる価値はある。私は同書こそロウメインが出版所に送った中でも最上の、そして最も価値ある著作だと見なしている。この人物の詩篇107篇および雅歌に関する講解説教集は、しかるべきほどには知られていない。特に後者は、聖書の中でもきわめて難解な書の解明を大きく助ける点で、他の、ずっと大仰な名乗りを上げていてる諸書よりもすぐれている。ロウメインが語った1つ1つの説教は、もちろん人にはあまり知られていないものばかりである。しかし、ロウメインがどのような種類の説教者であったかを公正にわきまえたいと思う者であれば、決して個々の説教を読まずにすませるべきではない。単純さ、簡潔さ、的確さ、力強さにおいて、――短く、真実で、力みなぎる文章において、――それらは前世紀のほとんどどのような福音的説教と比べてもひけを取らないであろう。

 公刊されたその書簡集に集録された手紙の多くも、きわめて価値が高い。ジョン・ニュートンのようにロウメインは、種々の協会や、委員会や、エクセター公会堂等々の近代的な仕組みが働き始める前の時代に筆を取っており、当時の人々は今よりも長い手紙を書く余暇があった。ニュートンの『心の声(Cardiphonia,)』や『オミクロン書簡集(Omicron)』を読んで好ましく思う人々であれば、ロウメインの書簡集も精読する値打ちがあると感じるであろう。キリストと聖書こそ、この人物のどの手紙をも貫いている二本の黄金の糸のように思われる。

 もしかすると、結局においてロウメインが世に出した中でも最も有益な出版物の1つは、現在ではほぼ全く知られていない一編かもしれない。これは間違いかもしれないが、私の固く信じるところ、その著述がきわめて大きく用いられたに違いないというこの見積りは、終わりの日には正しかったことが分かるであろう。いま言及している出版物の題名は、『国教会の友人たちに送る熱心な招き――現今の困難な時代の間、ロンドンにおける一部の兄弟たち、聖職者と平信徒とともに、毎週一時間を取り分けて祈りと懇願をささげよ(An Earnest Invitation to the Friends of the Established Church to join with several of their brethren, clergy and laity, in London, in setting apart an hour of every week for Prayer and Supplication during the present trouble some time)』である。この小さな出版物は、最初に刊行されたときに著しく用いられ、かつ、今日に至るまで、驚くばかりの懇願と、とりなしと、祈りとが連綿とささげられ続けているもととなっていると信ずべき強力な理由がある。これは、疑いもなく正しい方向への動きであった。この文書によって人々は、あらゆる者の心を掌中にしているただひとりの《お方》、また死んだような時代にご自分の《教会》を復興させることのできるただひとりの《お方》へと差し向けられた。いったい誰に言えるだろうか。過去六十年における御霊のみわざの大きな部分が、最終的にはロウメインの祈りへの答えではなかったのだと。いずれにせよ、1つの事実は特に記憶にとどめるに値している。ロウメインは、1757年に最初にこの『招き』を送り出したときには、自分と喜んで心を合わせて、この祈りの構想に加わってくれるはずの聖職者を英国中で十二、三人しか知っていなかった。しかし、1795年に死去したとき、この人物が自分と思いをともにしているものと見なしていた国教会内の人々の数は、少なくとも三百人に膨れ上がっていたのである。その事実だけでも事を雄弁に物語っている。

 十八世紀における四番目の霊的英雄については、ここで話をやめることにし、読者の方々には、その名前にしかるべき栄誉を帰すように願いたい。この人物は、同時代の何人かが備えていた大衆向けの賜物を、余すところなく持っていたわけではなかった。当時の多くの人々が帯びていた、愛想の良い魅力的な特徴には欠けていた。しかし全面的に取り上げてみれば、この人は偉大な人物であり、神の御手にあって善のために大きく用いられた器にほかならない。45年にわたり、ロンドンできわめて目立った立場を占め、神の恵みの福音を証しし、一日たりとも決してひるむことがなかったのである。同じ場所に立って、同じ聴衆に対してたゆむことなく説教を行なった。ホイットフィールドや、ウェスレーや、グリムショーその他の、巡回して働きを行なう兄弟たちのようには、古い説教を使い回すことができなかった。同じ講壇に立って、この世で最も不人気な真理の数々を証ししていたため、反対と迫害と軽蔑を招き寄せていた。その立場はきわめて公然たる職務であり、敵対する人々から絶えず見守られ、観察され、注視されているため、少しでも間違いを犯していたとしたら、たちどころに槍玉に上げられずにはすまなかった。だが、その45年間を通じてこの人物は、非の打ち所のない人格を保ち、その最初の原則を最後に至るまで堅く守りぬき、ついには自分の部署についた勇敢な兵士として、日数にも名誉にも欠けることなく死んでいった。そのように言われることのできる人は、決してただ者ではなかったに違いない。地位と立場こそ、ある人の内実を特にはっきりと証明するものである。百年前の英国において、その偉大さと誉れにおいて決して五番手に下ることはありえなかった霊的な戦士は、ウィリアム・ロウメインである。

To Be Continued

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