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私たちは聖くなくてはならない

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読者の方々、

 私たちは、死んだ後に天国へ行きたいと思うなら、死ぬ前に地上で聖くなっていなくてはならない。来たるべき生で永遠に神とともに住みたいと望むのなら、今の生で神に似た者となろうと努力しなくてはならない。私たちは聖潔を賞賛し、聖潔を得たいと願うだけでなく、聖くなくてはならない

 聖潔は私たちを義と認めることも、救うこともできない。聖潔は私たちの不義を覆うことも、そむきの罪を帳消しにすることも、神に対する私たちの負債を支払うこともできない。私たちの最上の行ないも、神の律法の光に照らせば、不潔な着物と何らかわるところがない[イザ64:6]。イエスが差し出しておられる義こそ、私たちの唯一の頼りでなくてはならない。――贖いの血こそ、私たちの唯一の希望でなくてはならない。こうしたすべては完璧に正しい。だがしかし、私たちは聖くなくてはならない

 私たちが聖くなくてはならないのは、聖書の中で神がそれを明白に命じているからである。「あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。それは、『わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなくてはならない。』と書いてあるからです」(Iペテ1:15、16)。

 私たちが聖くなくてはならないのは、それこそキリストが世に来られた大目的の1つだからである。「キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです」(IIコリ5:15)。

 私たちが聖くなくてはならないのは、それこそ私たちが、キリストに対する、救いに至る信仰を有しているという唯一の確かな証拠だからである。「信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです」。「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです」(ヤコ2:17、26)。

 私たちが聖くなくてはならないのは、それこそ私たちが主イエス・キリストを心から愛しているという唯一の証明だからである。主ご自身のことば以上に明々白々なものがありえるだろうか? 「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです」。「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です」(ヨハ14:15、21)。

 私たちが聖くなくてはならないのは、それこそ私たちが真に神の子であるという唯一の確かな証拠だからである。「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです」。「義を行なわない者はだれも、神から出た者ではありません」(ロマ8:14; Iヨハ3:10)。

 最後に、私たちが聖くなくてはならないのは、地上で聖くなっていない限り、私たちは決して天国に入る、ふさわしい備えのできた者ではないからである。「すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行なう者は、決して都にはいれない」(黙21:27)。聖パウロは明白に述べている。「聖くなければ、だれも主を見ることができません」(ヘブ12:14)。

 あゝ、読者の方々。いま引用した最後の聖句は非常に厳粛なものである。それは、あなたを考えさせてしかるべきである。それは霊感を受けた人物の手で記されたものである。私の空想ではない。この言葉は、聖書の言葉である。私がでっちあげたものではない。神がそれを語られた。神はそれを守るであろう。「聖くなければ、だれも主を見ることができません」。

 これは何と途方もない言葉であろう! この言葉を書きつけている間、何という思いが私の脳裏に浮かんだことであろう! この世を見ると、その大部分が邪悪の中に横たわっている。キリスト者だと公言する人々を見ると、その大部分が単に名ばかりの信仰者である。ところが聖書を見ると、御霊がこう語っているのが聞こえるのである。「聖くなければ、だれも主を見ることができません」。

 確かにあなたは、この聖句に照らして自分の生き方、自分の心を再検討してみるべきである。厳粛な思いになって、祈りへ向かうべきである。

 あなたは私を黙らせようとして云うであろう。自分はそうしたことを――多くの人が思うよりもずっと――感じているし、考えているぞ、と。私は答えたい。「そういうことが問題なのではない。そんなことは、地獄に落ちた哀れな人々でさえ行なっている。問題はあなたが何を考え、何を感じているかではない。何を《行なっているか》なのだ」、と。あなたは聖いだろうか?

 あなたは云うであろう。キリスト者の全員が聖くならなくてはならないなんてことは絶対にない。私の云うような聖潔を身につけることができるのは、大聖人か、特別な賜物を有する人だけだ、と。私は答えたい。「そのようなことは聖書に書いていない。聖書に書いてあるのは、キリストに望みを抱く者はみな自分を清くするということなのだ」(Iヨハ3:3)。「聖くなければ、だれも主を見ることができません」。

 あなたは云うであろう。聖く生き、なおかつ実社会の義務を果たすなどということは不可能だ、できっこない、と。私は答えたい。「それは違う」。これは可能である。神がともにおられるなら何事も不可能ではない。これはすでに多くの人に行なえたことである。ダビデやオバデヤ、ダニエル、ネロの家の奴隷たちは、みなこれを実証した人々である。

 あなたは云うであろう。そんなに聖い生き方をすると、周りから目立ってしまうではないか、と。私は答えたい。まさしくその通りである。それこそ私の望むところである。キリストの真のしもべは、常にまわりの世とは違った様子をしている――彼らは選び別たれた国民、神の所有とされた民なのだ。もし救われたいと思うのなら、あなたもそのようでなくてはならない。

 あなたは云うであろう。そんなことを云ったら、救われる人などほとんどいないではないか、と。私は答えたい。その通り。そう主イエスは千八百年前に語られた。救われる者はまれである。救いを求めて努力する者がまれだからである。人は、ほんの一瞬も、罪の楽しみや好き勝手な生き方を放棄しようとはしない。彼らは、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産に背を向ける。イエスは云われる。「あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません」(ヨハ5:40)。

 あなたは云うであろう。これはひどいことばだ、何と偏狭な道ではないか、と。私は答えたい。その通り。主イエスはそう千八百年前に語られた。主は常に云われた。私の弟子になりたい者は、日々十字架を負い、手や足を切り落とす覚悟でなくてはならない、と。「労苦なくして報いなし」、という原則は、信仰の世界においても変わらない。何の犠牲もなしに手に入るものには何の価値もない。

 読者の方々。ひどい言葉であろうとなかろうと、主を見たいと願う者は聖くならなくてはならない。もしあなたが聖くないとしたら、あなたのキリスト教は一体どこにあるのか? 聖さなしのキリスト教などというものを見せてほしい。私たちは、単にキリスト者としてふさわしい名前やキリスト者としてふさわしい知識があるだけでなく、キリスト者としてふさわしい人格を持っていなくてはならない。天国で聖徒になりたければ、地上で聖徒でなくてはならない。神は確かに語られた。神は前に云った言葉を取り消すような方ではない。「聖くなければ、だれも主を見ることができません」。ジェンキンは云う。「カトリックの聖人暦は死人を聖人にするだけだが、聖書は生きている人に聖さを要求する」。「だまされてはいけない」、とオーウェンも云う。「キリストに導かれて救いへ進もうという者にとって、聖化は欠かせない資格である。主が天国へ導くのは、御自分が地上でお聖めになる者たちだけである。この生きたかしらは、死んだ肢体などお認めにならない」。

 確かに、「あなたがたは新しく生まれなくてはならない」、と聖書が語るのも道理である(ヨハ3:7)。確かに、あなたがたの多くは、少しでも救われたければ、完全に変えられることが――新しい心、新しい性質が――必要である。これは、誰の目にも明らかであろう。古いものは過ぎ去らなくてはならない。あなたは新しく創造されなくてはならない[IIコリ5:17]。聖くなければ、だれも、――たとえそれがどのような人であっても――主を見ることはできない。

 読者の方々。私が語ってきたことをよく考えるがいい。あなたには、聖くなりたいという願いが少しでもあるだろうか? あなたの良心は、こう囁いているだろうか? 「私はまだ聖くなっていないが、そうなりたいものだ」、と。では、今から私が述べる助言に耳を傾けるがいい。願わくは主があなたに、それを受け入れ、それに従って行動できるようにしてくださるように!

 あなたは聖くなりたいか。新しく造られた者となりたいか。もしそうなら、キリストから始めるがいい。自分の罪と弱さを感じてキリストのもとへ逃れていかない限り、あなたは全く何もできないであろう。キリストこそ、あらゆる聖潔の発端である。御民にとってキリストは、知恵であり義であるばかりでなく、聖さであられる[Iコリ1:30]。世の中には、まず自分で自分を聖くしようとして痛ましい努力をする人がいる。克己奮励し、何度も何度も心を入れかえて色々なことをしてみるが、あの長血をわずらう女のように、キリストのもとへ行くまでは、何のかいもなく、かえって悪くなる一方でしかない[マコ5:26]。歯を食いしばって努力しても全く無駄である。何の不思議もない。出発点が誤っているのである。砂で壁を造ろうとしても、造るそばから崩れていくであろう。穴だらけの船から水を掻い出そうとしても、浸水する方が早いであろう。誰も、聖潔の土台としてパウロが据えた土台以外のものを据えることはできない。すなわち、キリスト・イエスである。キリストを離れて私たちは何もすることができない(ヨハ15:5)。トレイルは、強烈だが、正しい言葉を述べている。「キリスト抜きの知恵は痴愚、キリスト抜きの義は不義と咎、キリスト抜きの聖さは汚猥と罪、キリスト抜きの救いは束縛と奴隷の道である」。

 あなたは聖くなりたいと願うか。神の性質にあずかりたいと思うか。もしそうなら、キリストのもとへ行くがいい。一刻も早くそうするがいい。先延ばしにしてはならない。愚図愚図していてはならない。少しましになってからにしようなどと思ってはいけない。すぐ行って彼に告げるがいい。あの美しい賛美歌の言葉で告げるがいい。――

   手に持つものは 他に何もなし
   ただ我れすがらん 汝が十字架に
   裸のままでみもとに逃れ 無力なままで御顔を仰がん
   ころもを求め 恵みを求めて

 キリストのもとへ行くまで、聖化という大普請は煉瓦一個、石材一本すら積まれはしない。聖潔は、主がご自分を信ずる民に与える特別の賜物である。彼らの内側で主が、その心にお授けになった御霊によって行なわれるみわざである。主が「君とし、救い主として」任じられたのは、罪の赦しだけでなく「悔い改め」を与えるためである。主は、受け入れた者に神の子となる特権をお与えになる[使徒5:31; ヨハ1:12、13]。聖潔は血筋ではない。――親は子に聖潔を授けられない。肉の欲求でもない。――人は自分の内側に聖潔を造り出せない。人の意欲でもない。――牧師は洗礼で聖潔を造り出せない。聖潔はキリストから生ずる。これは主との生きた結合の成果である。まことの葡萄の木の生きた枝が結ぶ果実である。だからキリストのみもとに行って云うがいい。「主よ。私を、罪の咎から救うだけでなく、お約束の御霊を送って、罪の力からもお救いください。聖めてください。みこころを行なう者としてください」、と。

 あなたは、いったん聖くされたら、聖くあり続けたいか。ではキリストにとどまるがいい。主ご自身がそう云っておられる。「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。……人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます」(ヨハ15:4、5)。

 主こそ、健康でいたい者が日々通わなくてはならない医者である。主こそ日々食すべきマナ、日々飲むべき岩である。主の腕こそ、この世の荒野を歩む者が日々よりかかるべき腕である。人はキリストのうちに根ざすだけでなく、建て上げられなくてはならない。

 願わくは、あなたと私が、こうしたことを、単なる又聞きでなく実際に体験できるように! これからはみな、今まで以上に、はるかに聖潔を重要なものとして実感できるように! 私たちの人生が魂にとって聖い年月となるように! そうすれば、それらは幸福な年月となることは確実である! しかし、もう一度云っておく。「私たちは聖くなくてはならない」。

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