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聖霊の力

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読者の方々、

 福音は、いかなる人に対しても――その人が生きている限り――希望を差し出している。キリストには、罪を赦す無限の意欲がある。聖霊には、心を変える無限の力がある。

 肉体の病には、治癒不可能なものが数多くある。いかなる名医といえども、それらを治すことはできない。しかし、神に感謝すべきかな! 魂の病に治癒不可能なものはない。いかなる種類の、いかに多くの罪といえども、キリストによって洗い流されることができる。いかにかたくなで、いかに邪悪な心も変えられることは可能である。

 読者の方々。もう一度云うが、いのちがある限り希望はある。いかに年老い、いかに堕落した、いかに人でなしの罪人でも救われることはできる。ただその人がキリストのもとに行き、自分の罪を告白し、キリストに赦しを乞い求めさえするなら、――ただその人が自分の魂をキリストにゆだねさえするなら、その人は癒されるであろう。聖霊が、キリストの約束に従って、その人の心に上から送られ、その人はその《全能の》力によって、新しく造られた者へと変えられるであろう。

 私は決して、だれが断固たるキリスト者となることについても絶望しない。その人がこれまでいかなる生き方をしてきたとしても、それは変わらない。私は死からいのちへの変化がいかに大きなものであるかを知っている。私たちのうちのある者たちと天国との間を隔てているかに思われる山々が、いかに大きなものであるかを知っている。生まれながらの心のかたくなさ、種々の偏見、この上もない罪深さを知っている。しかし私は、父なる神がこの美しく、整然と秩序だった世界を無から造り出したことを思い起こす。主イエスのみ声が、死んでから四日経ったラザロにも届き、彼を墓の中からさえ呼び戻したことを思い起こす。神の御霊が、天が下のあらゆる国々でかちとってこられた、驚くばかりの勝利の数々を思い起こす。私はこうしたことすべてを思い起こし、決して絶望する必要がないと感じる。しかり! 私たちの中で、今はだれよりも全く罪の中で死んでいるように思われる人々も、やがて新しいあり方へとよみがえらされ、神の前でいのちにあって新しい歩みをすることになるかもしれない。

 なぜそうなってならないわけがあるだろうか? 聖霊は、あわれみ深く、愛に満ちた御霊である。御霊はいかなる者からも、その邪悪さのゆえに顔をそむけたりなさらない。いかなる者をも、その罪がどす黒く、緋のようであるからといって、見過ごしにはしない。

 コリント人たちの内側には、御霊が下って彼らを生かす理由になるような何物もなかった。パウロが彼らについて語るところ、彼らは「不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、……盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者」であった。彼は云う。「あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした」。だがしかし、その彼らをさえ御霊は生かしてくださった。パウロは書いている。「主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ……たのです」(Iコリ6:9-11)。

 コロサイ人の内側には、御霊が彼らの心を訪れなくてはならないようなものが何もなかった。パウロが私たちに告げるところ、彼らは、「不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼり……このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです……、以前、そのようなものの中に生きていた」。だがしかし、彼らをも御霊は生かしてくださった。御霊を彼らに、「古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着」させた。「新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ……るのです」(コロ3:5-10)。

 マグダラのマリヤの内側には、御霊が彼女の魂を生かす理由となるような何物もなかった。かつて彼女は「七つの悪霊」に取り憑かれていた。噂が確かであれば、かつて彼女は、そのよこしまさと不義とで名うての女であった。だがしかし、その彼女をも御霊は新しく造られた者としてくださり、――そのもろもろの罪から切り離し、――キリストのもとに連れ来たり、――最後に十字架のもとから離れ、最初に墓のもとにやって来た者としてくださったのである。

 決して、決して御霊は、ある人から、その腐敗のゆえに顔を背けたりなさらない。これまで決してそのようなことをしたことはなかったし、――今後も決してそのようなことはないはずである。御霊が汚れ果てた者たちの思いをきよめて、ご自分がお住まいになる宮としてこられたこと、それが御霊の格別な栄光なのである。御霊は今なお、この小冊子を読んでいる人々の中でも最悪の者を取り上げて、その人を恵みの器とすることがおできになる。

 実際なぜそうなってならないわけがあるだろうか? 御霊は《全能の霊》であられる。御霊は石の心を肉の心に変えることができる。御霊は最も強固な悪習をも、糸くずのように断ち切り、消滅させることができる。この上もなく困難な事がらを容易なことに見せ、いかに強大な反対をも春先の雪のように溶かし去ることができる。青銅のかんぬきをへし折り、偏見のとびらを開け放つことができる。すべての谷をうずめ、すべての険しい地を平野とすることができる。御霊はそれをしばしば行なってこられ、今も再びそう行なうことができる。

 御霊はひとりのユダヤ人を取り上げて、――たといそれがキリスト教の不倶戴天の敵であり、真の信仰者たちの熾烈な迫害者であり、パリサイ人的な観念を墨守する頑固者であり、福音の教理への偏見に凝り固まった反対者であっても、――その人物を、一度は自分が滅ぼそうとした当の信仰の熱烈な説教者に変えることができる。御霊はすでにそれをなしたことがある。――そうされたのが使徒パウロであった。

 御霊はひとりのローマカトリック教徒の修道僧を、ローマカトリック教の迷信のただ中から取り上げて、――たといそれが、幼少期から偽りの教理を信じ込み、教皇に服従するよう訓練され、過誤にどっぷりと埋没している人物だとしても、――その人物を、史上かつてないほど明確な、信仰による義認の主唱者にすることができる。御霊はすでにそれをなしたことがある。――そうされたのがマルチン・ルターであった。

 御霊は、学問も、縁故も、財産もないひとりの英国の鋳掛け屋を取り上げて、――たといそれが、かつては冒涜と悪態をつくことで悪名を馳せていた男だとしても、――その男に、ある意味で使徒たちの時代以来いかなる本によっても比肩されることのない、無類の宗教書を書かせることができる。御霊はすでにそれをなしたことがある。――そうされたのが、『天路歴程』の著者、ジョン・バニヤンであった。

 御霊は、世俗の塵と罪に埋もれていたひとりの船乗りを取り上げて、――たといそれが、放蕩無頼の奴隷船の船長だとしても、――その男を無類に有能な福音の教役者とし、実践的キリスト教信仰の宝庫とも云うべき書簡集の著者とし、英語の語られる所ならどこででも知られ、歌われている数々の賛美歌の著者とすることができる。御霊はすでにそうなさったことがある。――それがジョン・ニュートンであった。

 こうしたことすべてを御霊は行なってこられ、ここでは逐一語ることのできないさらに多くのことを行なってこられた。そして御霊の腕は短くなってはいない。その力は衰えてはいない。御霊は主イエスのように、――きのうもきょうも、いつまでも、同じである[ヘブ13:8]。御霊は今なお不思議を行なっておられ、最後に至るまでそうし続けるであろう。

 私は、この現世においてすら、私の見知っている者たち全員の中でも最もかたくなな人が心柔らかくされ、最も高慢な人が、乳離れした子どものようにイエスの足元に座を占めている、と聞いたとしても、驚きはしない。

 私は、自分が世を去るときには広い道を旅しているであろう多くの人々と、最後の審判の日に、右の方で出会うとしても驚きはしない。

 私が決して絶望しないのは、聖霊の力を信じているからである。私たち教役者が自分自身の能力を眺めているとしたら、絶望しても無理はない。私たちはしばしば自分にうんざりする。私たちが自分の会衆に属するだれかを眺めているとしたら、絶望しても無理はない。彼らは石臼の下側のように固く、無感覚に見える。しかし私たちは聖霊と、聖霊がなしてこられたことを思い起こす。聖霊を思い起こし、聖霊が変わっておられないことを考える。聖霊は火のように降って、いかにかたくなな心も溶かすことができる。私たちの聴衆の間の最悪の人々をも回心させることができ、その全人格を新しい型に作り上げることができる。それで私たちは説教し続けるのである。私たちが希望を持てるのは、聖霊のおかげである。おゝ、願わくは私たちの聴衆たちが、真のキリスト教信仰の進展のよりどころは、権力によらず、能力によらず、主の霊にかかっていることを理解できるように! おゝ、その多くが教役者に頼ることをより少なくし、聖霊を求めて祈ることをより多くすることを学ぶように! おゝ、すべての人々が学校や、小冊子や、教会組織などに期待するのをより少なくすることを学び、すべての手段を勤勉に用いつつも、御霊の注ぎ出しをより熱心に求めるようになるように。

 読者の方々。あなたは、神に対して少しでも引き寄せられるものを感じているだろうか?――自分の不滅の魂について、ほんの少しでも懸念を覚えているだろうか? あなたの良心は、今日、あなたがまだ御霊の力を感じてはいないと告げているだろうか? また、あなたは、何をすべきか知りたいと思っているだろうか? 聞くがいい、私があなたにそれを告げよう。

 1つのこととして、あなたはすぐさま祈りによって主イエス・キリストのもとに行き、私をあわれんでください、御霊を私に送ってください、と嘆願すべきである。あなたは、まっすぐに生ける水の開かれた泉、主イエス・キリストのもとに行かなくてはならない。そうすればあなたは聖霊を受けるであろう(ヨハ7:39)。すぐに聖霊を求めて祈り始めるがいい。自分は望みから閉め出され、断ち切られているのだなどと考えてはならない。聖霊は求める人たちに約束されている[ルカ11:13]。聖霊の名前そのものが《約束の御霊》であり、《いのちの御霊》なのである。御霊が下って、あなたに新しい心を作ってくださるまで、休みなく御霊を乞い願うがいい。主に向かって大声で願うがいい。――主に云うがいい。「私を、私をも祝福してください。――私を生かし、私を生きた者としてください」、と。

 あえて云うが私としては、心悩む魂をキリストのほかだれのもとにも送ろうとは思わない。私は、まず第一に聖霊を求めて祈るように人々に告げ、第二番目にキリストのもとに行かせようとする者たちには、これっぽっちも同調しない。そのように云うことのできる裏づけを、私は聖書の中に何1つ見てとれない。私に見てとれるのは、ただ、もし人々が自分を困窮した、滅びつつある罪人であると感じたならば、彼らは真っ先に、まっしぐらに、一直線に、イエス・キリストにその求めを訴えるべきだ、ということである。私が見るに、主ご自身がそう云っておられる。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」(ヨハ7:37)。私の知るところ、こう記されている。「彼は人々のために賜物を受けられました。頑迷な者どものためにすら。神であられる主が、彼らの間に住まわれるために」*(詩68:18)。私の知るところ、聖霊によってバプテスマを授けるのは主の特別な職務であり、「御子のうちには満ち満ちた神の本質が宿っている」*[コロ1:19]。私は聖書よりも組織的になるつもりはない。私の信ずるところ、キリストは神と魂が相会うところであり、御霊を欲する人に対する私の第一の助言は、常にこうであろう。「イエスのもとに行き、あなたの求めを彼に告げるがいい」。

 もう1つのこととして、私は云いたい。もしあなたが御霊の回心される力をまだ感じていないとしたら、あなたは御霊がお働きになる恵みの手段に熱心に携わらなければならない。あなたは規則正しく、御霊の剣たるみことばに耳を傾けなくてはならない。御霊の臨在が約束されているような集会に定期的に集わなくてはならない。つまり、もしあなたが御霊から善を施してもらいたければ、あなたは御霊の通る道にいるようにしなくてはならない。盲人バルテマイは、怠けて自宅に座っていたとしたら、決して目が見えるようにはならなかったであろう。ザアカイは、前方に走り出て、いちじく桑の木に登らなかったとしたら、決してイエスを見ることも、アブラハムの子となることもなかったであろう。御霊は愛に満ちた、善良な《霊》である。しかし、恵みの手段を軽蔑する者は、聖霊に逆らっているのである。

 読者の方々。この2つのことを覚えておくがいい。私の堅く信ずるところ、この2つの助言に従って正直に、またねばり強くやり通した人のうち、いかなる人も、遅かれ早かれ、御霊を有さなかったことはなく、彼が「救うに力強い者」であられることを身をもって知らなかった人はいないのである[イザ63:1]。

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