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無代価の救い
---- 読者の方々、
聖書のあらゆる教理の中で、何にもまして重要なのは、イエス・キリストに対する信仰を通して得られる無代価の救いという教理である。「イエスを信じる者はさばかれない」*。「すべての点について、信じる者はみな、この方によって、解放されるのです」[ヨハ3:18; 使13:39]。
これはキリスト教全体のかしら石である。ここにおける間違いは致命的である。それは、木の根元に食いついた虫であり、土台における欠陥にほかならない。この点で誤ってしまった人は、そのキリスト教信仰全体が混乱に陥るであろう。この点を正しくつかんでいる人は、決して真理の小道から遠く離れてさすらうことはないであろう。
これこそ、私たちが死んでも守り抜くべき教理である。私たちは、自分自身の魂の平安のために、この教理にしがみつくべきである。たとい天空から太陽を取り去られるとしても、キリスト教からイエス・キリストに対する信仰を通して得られる無代価の赦しを取り去られるよりは千倍もましである。
これこそ、使徒たちが新しい宗教を宣べ伝えるために異邦人たちのもとに出ていったとき、彼らの力であった栄光の教理である。彼らは、数人の貧しい漁師たちで、地上の蔑まれた片隅の出身であった。その彼らが世界をひっくり返したのである。彼らはローマ帝国の面を一変させた。彼らは異教徒たちの神殿に閑古鳥を鳴かせ、偶像礼拝の全体系を瓦解させた。だが、彼らがこれらすべてを行なった武器は何だっただろうか? それは、イエス・キリストに対する信仰を通して得られる無代価の赦しであった。
これこそ、三百年前のヨーロッパに、かのほむべき宗教改革の時代、光をもたらした教理であり、徒手空拳の修道僧マルチン・ルターをして、ローマ教会全体を揺り動かさせた教理である。彼の説教と著述を通して、人々の目からはうろこが落とされ、彼らの魂をつなぐ鎖は緩められた。だが、彼にその力を与えた "てこ" は何だっただろうか? それは、イエス・キリストに対する信仰を通して得られる無代価の赦しであった。
これこそ、わが英国国教会を前世紀の半ばに復興させた教理である。それは、ホイットフィールドや、ウェスレー兄弟や、ベリッジや、ヴェンが、全国を覆っていた、ひどい「鈍い心」[ロマ11:8]を打ち砕き、人々を覚醒させて考えさせた時代のことである。彼らは、一見するとほとんど成功の見込みなどなかったにもかかわらず、大いなる働きを始めた。彼らは、人数は少なく、富者や権力者からの励ましをほとんど受けずに働き始めた。しかし、彼らは大成功をおさめた。だがなぜだろうか?――それは彼らがキリストに対する信仰を通して得られる無代価の赦しを宣べ伝えたからである。
これは、今日における地上のいかなる教会にとっても、真の力となっている教理である。教会を生きたものとするのは、職制でも、寄付金でも、典礼式文でも、学識でもない。キリストを通して得られる無代価の赦しが、忠実に教会の講壇から宣言されていさえすれば、ハデスの門もその教会に打ち勝つことはない。だが、それを葬り去ったり、押し隠したりするとき、その教会の燭台はすみやかに取り去られるであろう。サラセン人が、かつてはヒエローニュムスや、アタナシオスや、キュプリアーヌスや、アウグスティヌスが著述や説教を行なっていた土地に侵入したとき、彼らがそこに主教たちや典礼式文を見いだしたことは疑いない。しかし、残念ながら、彼らは無代価の罪の赦しが全く宣べ伝えられていないのを見いだしたのではなかろうか。それで彼らは、そうした土地から教会を一掃してしまったのである。そうした教会は生きた原理を持たない屍となっていた。それゆえ倒れたのである。私たちは決して忘れないようにしよう。教会にとって最も輝かしい時代は、「十字架につけられたキリスト」が最も称揚されている時代だということを。初期のキリスト者たちが集まって、イエスの愛について聞いていた洞穴や洞窟は、神の前では、ローマの聖ペテロ大聖堂にもまさる栄光と美に満ちていた。今日も、赦しを得るための真の道が罪人たちに差し出されているならば、それがいかに粗末な納屋であろうと、ケルンやミラノの大聖堂にはるかにまさって栄誉ある場所なのである。教会が有用なのは、それがキリストを通しての無代価の赦しを称揚する限りにおいてである。
この教理は、他のいかなる教理にもまして、サタンの王国を倒壊させることのできる強大な兵器である。グリーンランド人は、モラヴィア派の人々が天地創造や人間の堕落について語っている限りはまるで無感動であった。だが彼らが贖いの愛について耳にしたとき、彼らの凍てついた心は春先の雪のように溶かされた。礼典による救いを説教し、教会をキリストよりも称揚し、《贖罪》の教理を押し隠している限り、悪魔はほとんど注意を払わない。彼の持ち物は安全である。しかし、完全なキリストと、キリストに対する信仰による完全な赦しを説教するや、サタンは激怒する。自分の残り時間が少なくなったことに気づくからである。ジョン・ベリッジの云うところ、彼が道徳だけを語り続け、それ以外何も語らずにいたとき、ついに彼は自分の教区に道徳的な人間がひとりもいないことに気づいたという。しかし、彼が自分の計画を変更し、罪人に対するキリストの愛と、信仰による無代価の救いを説教し出したとき、ひからびた骨々は音を立て始め、神に対する大いなる立ち返りが起こったのである。
この教理こそ、不安に満ちた良心に平安をもたらし、惑乱する魂に安らぎをもたらすであろう唯一の教理である。人は、自分の霊的状態について眠り込んでいる限り、それなしでも、きわめて順調にやって行くことができる。しかし、いったんそのまどろみから目を覚ますと、《贖罪》の血と、キリストを信ずる信仰によって得られる平安のほか、何をもってしてもその人をなだめることはない。この教理を堅く握ることもなしに、いかにキリスト教の教役者となることを引き受けられる人がいるのか、私には全く理解できない。私としては、云えることはただ1つ、もし私が、自分の伝えるべきものとして無代価の赦しという使信を有していなかったとしたら、自分の職務を何よりも悲痛なものと考えるであろう。病人や、死にかけている人々を訪問するのは、もし私が、「見よ。神の小羊。――主イエス・キリストを信じなさい。そうすればあなたも救われます」、と云えないとしたら、実にみじめな働きであろう。キリスト教の教役者の片腕は、キリストに対する信仰を通して得られる無代価の赦しという教理である。この教理がありさえすれば、私たちには力がある。私たちは決して人々の魂に善を施すことに絶望しないであろう。だが、この教理を取り去られたなら、私たちは衰え弱くなる。祈りを読み上げたり、一連の形式的な勤めを繰り返すことはできるかもしれないが、私たちは髪の毛を剃り上げられたサムソンのようなものである。私たちの力は去っている。魂が私たちによって益を受けることはなく、善が施されることはないであろう。
読者の方々。私は、あらゆる読者に向かって、ここまで語られたことに注意を払うよう勧めたい。私は、キリストに対する信仰を通して得られる無代価の赦しを恥とは思わない。ある人々がこの教理に反対して何と云おうと関係ない。私がそれを恥と思わないのは、その成果が自ら語っているからである。それは、他のいかなる教理もできないことを行なってきた。それは、法律や刑罰が作り出せなかったような道徳的変化を生み出してきた。――判事や警官が生じさせようとして無駄な努力をしてきたような変化、――工科大学や世俗の知識が生み出そうとして全くの無力を露呈したような変化を生み出してきた。ベスレヘム病院の凶暴な精神患者が親切な扱いを受けるや突然穏やかになったように、それと全く同じく、最悪の、また最もかたくなな罪人たちも、イエスが彼らを愛し、いつでも赦そうとしていることを聞かされると、しばしば幼子のようになってきた。私は、パウロがそのガラテヤ人への手紙のしめくくりにあたって、この厳粛な感情のほとばしりを記しているのがよく理解できる。「私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません」(ガラ6:14)。信仰による義認の教理を置き去りにするとき、そのキリスト者の頭からは、実際に冠が転がり落ちているのである。
あなたは私が詳しく語ってきた真理を自分が本当に受け入れているか、またそれを経験的に知っているかどうか自問すべきである。イエス、そしてイエスに対する信仰こそ、御父に至る唯一の道である。それ以外の道によってパラダイスまで登っていこうとする人は、やがて自分がすさまじい思い違いをしていたことに気づくであろう。いかなる人も、不滅の魂のためには、私がここまで微力を尽くして語ってきた土台以外の土台を据えることはできない。ここに自分を賭ける人は安全である。だが、この岩から離れる人は、立つべき基盤をまるで持たない。
あなたは真剣に考えるべきである。選択の余地があるとしての話だが、あなたが出席するのを常としている教会では、いかなる種類の牧会がなされているだろうか? 実際あなたには注意深くなるべき理由がある。人が何と云おうと、どの教会に集っても別に同じことだなどということはない。残念ながら、多くの礼拝所では、あなたがいかに長いこと十字架につけられたキリストを探し求めても、決して見いだせないのではなかろうか。キリストは外的な儀式の数々によって埋没しているか、――洗礼盤の後ろに押しやられているか、――教会の背後で影が薄くなっている。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです」[ヨハ20:13]。 自分の落ち着き先については気を遣うがいい。すべては、この単純な試金石で試すがいい。「イエスと無代価の赦しはここでは宣言されているだろうか?」 そこには快適な会衆席があるかもしれない。――上手な聖歌隊がいるかもしれない。――学識のある説教がなされているかもしれない。しかし、もしキリストの福音がその場所全体の太陽でも中心でもなければ、そこにあなたの天幕を張ってはならない。むしろイサクとともに云うがいい。「火とたきぎはありますが……羊は、どこにあるのですか」、と[創22:7]。これがあなたの魂のための場所でないようによくよく確かにしておくがいい。
読者の方々。こうした事がらを覚えておくがいい。そうすれば、知恵の心を得るであろう。私はあなたの前にいのちの道を提示してきた。どこで赦しを探すべきを告げてきた。おゝ、用心するがいい。無代価の赦しについて告げられていながら、そこまで達さず、あなた自身でそれをいだくことが全くない、などということにならないように! 自分の心に銘記するがいい。もしこの無代価の救いにあずかりたいというのであれば、主イエス・キリストはいつでもあなたを受け入れ、あなたを救おうとしておられる、と。
イエスが天国の満たされるのを見たがっていないなどと思うような人がいるだろうか? あなたは彼が、多くの子たちを栄光に導くことを願っていないなどと考えているのだろうか? おゝ、だがもしそのように考えられるとしたら、あなたは彼のあわれみと思いやりの深さをほとんどわかっていない! 彼は、不信仰に沈むエルサレムを見下ろして涙を流された。今も彼は、現代の悔悟しない、無思慮な人々を見下ろして嘆き悲しんでおられる。私の口を通して、今まさに彼は、あなたを招待しておられる。聞いて生きよ、と招いておられる。わきまえのないことを捨てて、悟りのある道をまっすぐ歩め、と云っておられる。「わたしは誓って言う」、と仰っておられる。「わたしは、だれが死ぬのも喜ばない。悔い改めよ。立ち返れ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか」[エゼ18:32; 33:11]。
おゝ、読者の方々。もしあなたが今まで一度もいのちを求めてキリストのもとに来たことがなかったなら、きょうのこの日、彼のもとに行くがいい! あわれみと恵みを求める悔悟者の祈りをもって、みもとに行くがいい! 一刻も早くみもとに行くがいい。行って、いのちの水を飲むがいい。行って、無代価で救われるがいい。
もしあなたがこの世と、この世の物事――その快楽とその報酬――その愚かさとそのもろもろの罪――をわが物にしようと心を決めているとしたら、また、是が非でも自分の思い通りにしたいと考え、キリストや自分の魂のためには何1つ犠牲にすることはできないというのであれば、――もしこれがあなたの立場だとしたら、あなたの迎える末路は1つしかない。私ははっきりあなたに警告しておく。――あからさまにあなたに告げておく。――あなたは、遅かれ早かれ地獄の消えない火に落ち込むであろう。
しかしもしだれかが救われたいと願っているなら、主イエス・キリストはいつでもその人を救おうと待っておられる。「疲れた魂よ」、と主は云っておられる。「わたしのところに来なさい。わたしがあなたを休ませてあげよう。咎と罪に満ちた魂よ、来なさい。わたしがあなたに無代価の赦しを与えてあげよう。失われ、滅びつつある魂よ、来なさい。わたしがあなたに永遠のいのちを与えてあげよう。来て、無代価で救われなさい」、と。
おゝ、読者の方々。この使信を時宜にかなった言葉とするがいい。立って、主に願うがいい。神の御使いたちを、もう1つ魂が救われたと喜ばせるがいい。失われていたもう一頭の羊が見いだされたという喜ばしい知らせを天の宮廷に聞かせてやるがいい。主イエス・キリストを信じるがいい。そうすればあなたも救われるのである。
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