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用意はできているか?

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読者の方々、

 新年の始めにあたり、私は1つ簡単な問いかけをしたい。あなたは用意ができているだろうか?

 古い年と別れるのは厳粛なことである。だが、それよりさらに厳粛なのは、新しい年を始めることにほかならない。それは暗黒の通路に入っていくようなものである。私たちは、自分が何に出会うことになるか最後までわからない。私たちの前にあるすべては不確かである。一日のうちに何が起こるか、私たちは知らない。いわんや一年のうちに何が起こるかなどわからない。読者の方々。あなたは用意ができているだろうか?

 あなたはに対して用意ができているだろうか? 年がら年中健康にしていられる保証などない。あなたのからだは、恐ろしいほど精妙に造られている。いかに多くの疾病がそれに襲いかかりうるかを考えると、慄然とさせられるものがある。

   「奇しきかな、千弦(ちすじ)の琴の
    かくも永くに、調子(ふし)乱さずは」。

痛みと弱さは辛い試練である。それらは、屈強の男の心もくじき、子どものようにすることができる。それらによって人は怒りっぽくなり、忍耐を擦り切れさせ、朝には、「ああ夕方であればよいのに」、と云い、夕方には、「ああ朝であればよいのに」、と云うようになることがありえる。こうしたことすべてが、まさに今年起こるかもしれない。あなたの理性は損なわれるかもしれない。――あなたの五感は弱められ、あなたの神経は衰弱し、いなご一匹を負ってすらのろのろとしか歩けなくなるかもしれない。読者の方々。もし病があなたにふりかかるとしたら、あなたは用意ができているだろうか?

 あなたは患難に対して用意ができているだろうか? 聖書は、「人は生まれると苦しみに会う」、と云っている[ヨブ5:7]。この証言は本当なのである。あなたの財産は取り去られるかもしれない。あなたの富には羽根が生えて飛んでいき、あなたの友人たちはあなたを裏切り、あなたの子どもたちはあなたを失望させ、あなたの使用人たちはあなたを欺くかもしれない。あなたの人格が攻撃され、あなたの行動が誹謗中傷されるかもしれない。困難や、苛立ちや、悩みが、武装した軍勢のように四方八方からあなたを取り囲むかもしれない。幾多の波浪が、あなたの頭の上を越えて行くかもしれない。あなたは自分が心痛と心労のあまり疲弊し、神経がばらばらになるような気がするかもしれない。読者の方々。もし患難があなたにふりかかるとしたら、あなたは用意ができているだろうか?

 あなたは死別に対して用意ができているだろうか? 疑いもなく、この世の中にはあなたの愛する人々がいるに違いない。あなたがその名を心に刻みつけ、だれよりも愛しく大事に思っている人々がいるに違いない。あなたの目の光となり、あなたの生きがいとも云うべき人々がいるに違いない。しかし、彼らはみな不死身ではない。彼らのうちだれかが今年死なないとも限らない。雛菊がまた咲き誇る前に、彼らのうちだれかが墓に横たわっているかもしれない。あなたのラケルが埋葬され、――あなたのヨセフがあなたから連れ去られ、――あなたの最も大切にしている偶像が壊されるかもしれない。苦い涙と深い悲しみがあなたの受ける分となるかもしれない。十二月の声を聞く前に、あなたは途方もない孤独を感じているかもしれない。読者の方々。もし死別があなたにふりかかるとしたら、あなたは用意ができているだろうか?

 あなたはに対して用意ができているだろうか? それは、いつかは、やって来ざるをえない。今年やって来ないとも限らない。あなたは永遠に生きていることはできない。まさに今年があなたの最期の年となるかもしれない。あなたがこの世で自由に保有しているものは何1つない。――あなたの持ち物はみな借り物である。あなたは神のみこころしだいで、いつ追い出されるかわからない借地人でしかない。最後の病があなたを訪れ、臨終のときを告げるかもしれない。――医者があなたを往診して、その匙を投げるかもしれない。――友人たちがあなたの枕頭に立ち、日ごとに深刻な顔つきになっていくかもしれない。――あなたは自分の力が徐々に衰えていくのを感じ、身の裡で何かがこう云うのに気がつくかもしれない。「私は二度とこの寝床から出ることはなく、死んでいくのだ」、と。あなたは世界が足下からすり抜けつつあり、自分の立てていた計画や、練っていた案が突然中断したのを悟るかもしれない。自分が棺桶と、墓場と、地中の虫と、未知の世界と、永遠と、神とに近づきつつあるのを、まざまざと感じるかもしれない。読者の方々。もし死があなたにふりかかるとしたら、あなたは用意ができているだろうか?

 あなたはキリストの再臨に対して用意ができているだろうか? 主はいつの日かこの世に再びやって来られる。千八百年前、最初にやって来られたのと同じくらい確実に、二度目もやって来られる。ご自分を信じ、地上でご自分を告白してきた、すべての聖徒たちに報いるために来られる。ご自分のすべての敵ども――無頓着な者、不敬虔な者、悔い改めない者、信じようとしない者ども――を罰するために来られる。主は、だれも思いもよらない時に、夜中の盗人のようにして、全く突然やって来られる。恐るべき尊厳とともに、御父の栄光を帯びて、聖なる御使いたちを引き連れてやって来られる。炎の剣が主の前に先立つ。死者はよみがえり、――さばきの座が立てられ、――数々の書物が開かれる! そのとき、ある人々は天国に引き上げられる。だが、多くの、非常に多くの人々は地獄に叩き落とされる。悔い改めの時は過ぎ去っている。多くの人々は、「主よ。主よ。開けてください!」、と叫ぶが、あわれみの扉が永遠に閉ざされているのに気づく。それから先には何の変更もないであろう。読者の方々。もし今年キリストが再臨なさるとしたら、あなたは用意ができているだろうか?

 おゝ、読者の方々。これらは厳粛な問いである! それらによって、あなたは自分を吟味させられるべきである。考えさせられるべきである。不意をつかれれば、ほぞをかむことになるであろう。生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことである。

 しかし、ここで私は話を打ち切るだろうか? そうはすまい。私は心を探らせただけで、いのちの道をあなたの前に示さずにおくだろうか? そうはすまい。もうしばらくの間、耳を傾けてほしい。私はあなたに、用意ができている人とはいかなる人かを示してみたいと思う。

 用意ができている人は、用意のできている救い主を有している。その人には、いつでもその人を助けようと待ちかまえているイエスがおられる。その人は、神の御子を信ずる信仰によって生きている。その人は自分自身の罪深さを悟っており、平安を求めてキリストのもとに逃れ来ている。自分の魂と、それに関わる一切のことをキリストの守りにゆだねている。苦い患難の杯を飲まなくてはならないとしても、それを混ぜ合わせた御手が、自分の罪のために十字架に釘付けられた御手であることを知っている。死ななくてはならないとしても、墓は主が横たえられた場所であることを知っている。自分の愛する人々が取り去られるとしても、自分にとってイエスが兄弟よりも親密な友であること、決して死ぬことのない夫であることを覚えている。主が再び来られるとしても、何も恐れることはないのを知っている。万物の《審き主》は、自分の罪を洗い流してくださった同じイエスにほかならないのである。幸いなことよ、ヒゼキヤとともに、「主は、私を救ってくださる」、と云える人は(イザ38:20)。

 用意ができている人は、用意のできている心を有している。その人は新しく生まれており、その心の霊において新しくされている。聖霊はその人に、地上のあらゆるものの真価を示し、上にあるものを思うように教えておられる。また、自分がいかなる報いを受けて当然であるかを示し、あらゆることに感謝させ、いかなる状況にも満足すべきであると感じさせてくださる。患難がふりかかるとしても、その人の心はこう囁く。「これには何か必要があるに違いない。私は矯正を受けて当然だ。これは私に何か有益な教訓を教えるためのものなのだ」、と。死別がふりかかるとしても、その人の心は、主がそのみこころに応じて与えたまい、取りたもうお方であることを思い起こさせる。命旦夕に迫るとしても、その人の心は云う。「私の時はあなたの御手のうちにあります。あなたのみこころのままに、みこころのときに、みこころの所で行なってください」、と。主が来られるとしても、その人の心は叫ぶであろう。「これは私が長い間祈り求めてきた日だ。御国がついにやって来たのだ」、と。幸いなことよ、用意のできた心を有している人は。

 用意ができている人は、天国に、その人のために用意のできている家を有している。主イエス・キリストはその人に、ご自分がその人のために「場所を備えに」行っていることを告げておられる。手で作られたものではない、天国にある永遠の家がその人を待ち受けている。その人は、まだ自分の完全な相続財産には至っていない。その人の最善のことはまだ来ていない。その人は病を忍ぶことができる。もうしばらくすれば栄光のからだが与えられるからである。損失や苦難も忍ぶことができる。その人の最も貴重な宝はいかなる害もはるかに及ばないところにあるからである。失望も忍ぶことができる。その人の最大の幸福の泉は、決して枯れることがないからである。死のことを考えても平静でいられる。それは、その人の前で下院から上院への扉を開き、――その人を、玉座の間にすら至らせるであろう。その人は、自分の務めをなし終えるまでは不死身である。怯えることなしに主の来臨を待ち望むことができる。また、用意のできている者らが主とともに小羊の婚宴に入るであろうことを知っている。幸せなのは、キリストの御国にその住まいが備えられている人である。

 読者の方々。あなたは私がいままで語ってきたような事がらについて少しでも知っているだろうか? 用意のできている救い主、用意のできている心、天国で用意のできている家について、少しでも知っているだろうか? 正直にあなた自身を吟味してみるがいい。あなたは今いかなる状態にあるだろうか?

 おゝ、自分自身の魂をあわれに思うがいい! あなたの内側にある、その不死の部分に対して、思いやりを持つがいい。魂のためになることを、決して世俗の務めでしかないことのためにないがしろにしてはならない。商売も、快楽も、金銭も、政治も、まもなく永遠に幕切れとなるであろう。それゆえ、私があなたに発しているこの問いについて考えるのを拒んではならない。――《あなたは用意ができているか? あなたは用意ができているのか?》

 読者の方々。もしあなたに用意ができていないとしたら、私は切に求める。一刻も早く用意を整えるがいい。私は、主イエス・キリストの御名によってあなたに云う。神の側ではあなたの救いのための用意をことごとく整えておられる。御父はあなたを受け入れる用意ができておられる。――主イエスはあなたの罪を洗い流す用意ができておられる。――御霊はあなたを更新し、聖なるものとする用意ができておられる。――御使いたちはあなたについて喜びの声を上げる用意ができている。――聖徒たちはあなたに右手を差し出す用意ができている。おゝ、まさに今年、あなたも用意を整えるべきではなかろうか。

 読者の方々。もしあなたに、自分は用意ができている、と希望できる理由があるとすれば、私は助言したい。それを確かにするがいい。神とより近く歩むがいい。――キリストにより近づくがいい。――希望が確証になり代わるように努めるがいい。年ごとに御霊の証しをより身近に、また、より明確に感ずるよう努めるがいい。一切の重荷と、からみつく罪とを捨てるがいい。目標をめざして一心に走るがいい。生きる限り、年ごとに勇敢な戦いを戦い、年ごとに良い戦いをするようになるがいい。おゝ、願わくはあなたが、恵みにおいて毎年成長し、あなたの後の事がらが、先の事がらよりもはるかにすぐれたものとなり、あなたのキリスト者としての走路の終着点が、その出発点よりもはるかにまさるものとなるように!

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