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福音の宝!

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読者の方々、

私があえて確信するところ、この論考を読む方々の中には、自分の罪がまだ赦されていないと感じている人々がいるであろう。いま読んでいるあなたは、そのような人だろうか?

私が心から願い、また祈っているのは、あなたが一刻も早く自分の赦しを求めることである。イエス・キリストのうちには、それを喜んで受けたいと願いさえするなら、いかなる人も受けられる赦しがある。今日のこの日、あなたが自分の罪を告白し、この赦しをつかみとろうとするなら、あなたの魂が必要とする励ましがふんだんにある。

読者の方には、よく耳を傾けてほしい。私はあなたに、福音の赦しという宝を示して見せよう。私もその豊かさを十二分に描写することはできない。その富は実際測りがたいものである(エペ3:8)。しかし、もしあなたがそれに背を向けるとしたら、最後の審判の日にあなたが、それがいかなるものか全然知らなかった、とは云えないようにしたいと思う。

それでは、まず1つのこととして、あなたの前に置かれている赦しが、広大な赦しであることを考えてみるがいい。《平和の君》ご自身が何と宣言しておられるか聞くがいい。「人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます」(マコ3:28)。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる」(イザ1:18)。しかり! たとえあなたの罪過が、あなたの髪の毛の数や、天の星々や、森の木の葉や、草原の葉や、浜の真砂よりも多かったとしても、それでもそれらはみな赦されることができる! ノアの洪水の際に、水がいかなる高い山々の頂も覆い隠してしまったように、イエスの血はあなたのいかに著しい罪をも覆い隠すことができる。「彼の血はすべての罪から私たちをきよめます」*(Iヨハ1:7)。たとえそれらが、あなたにとっては金剛石の切っ先で書きつけられているように思えても、それらはみな、この尊い血によって、神の記憶の書からかき消されることができる。パウロは、コリント人たちがかつて犯していた忌まわしいことを長々と列挙した後で、こう云っている。「あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし……あなたがたは洗われ……たのです」(Iコリ6:11)。

さらに、それは十分にして完全な赦しである。それは、ダビデがアブシャロムに与えた赦しのようなものではない。――家に帰ることは許すが、完全な寵愛は回復させないようなものではない(IIサム14:24)。それは、ある人々が思い描くような、単に刑罰を免除し、後はほったらかしにするようなものではない。それは完全な赦しであって、そのような赦しを得た者は、あたかも今まで何1つ罪を犯したことのない義人であるかのようにみなされるのである! その人の咎は帳消しにされている。それらは、東が西から遠く離れているように、その人から遠く離される(詩103:12)。その人はいかにしても罪に定められることはない。御父はその人がキリストに結び合わされているのをごらんになって、それをお喜びになる。御子はその人がご自分の義をまとっているのを見て、こう云われる。「あなたのすべては美しく、あなたには何の汚れもない」(雅4:7)。このようになさる神はほむべきかな。私が真実信ずるところ、もし私たち全員の中で最良の者に、たった1つだけ汚れた点があり、それを自分でぬぐい取らなくてはならなかったとしたら、その人は永遠のいのちを取り逃すことになるであろう。もしアダムの子らのうち最も聖い者が、小指の先1つを残して天国に入り、あとは自分自身により頼んで中に入ろうとしたなら、私の確信するところ、その人は決して御国に入れないであろう。もしもノアや、ダニエルや、ヨブが、たった一日分の罪でも洗い落とさなくてはならなかったとしたら、彼らは決して救われなかったであろう。神はほむべきかな。私たちの赦しという件においては、人間がすべきことは何も残されていない! イエスがすべてを行なっておられ、人間はただ、からっぽの手を差し出して受け取ればいいのである。

さらに、それは無代価で無条件の赦しである。それは、アドニヤに対するソロモンの赦しのように、「もし」という重荷を負ってはいない。もし「彼がりっぱな人物であれば」(I列1:52)。また、あなたは手に代価を携えて行くことも、あわれみを受けるにふさわしい人格を錬り上げてから行くことも必要ない。イエスが要求している人格はただ1つ、自分が罪深く、悪い人間であると感じていることだけである。イエスはあなたに、「代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え」、と招き、「いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい」、と宣言している(イザ55:1; 黙22:17)。アドラムの洞穴にいたダビデのようにイエスは、困窮していると感ずる者、負債のある者をみな受け入れ、だれをも拒まない(Iサム22:2)。あなたは罪人だろうか? あなたは《救い主》を求めているだろうか? ならば、ありのままのあなたでイエスのもとに行くがいい。そうすれば、あなたの魂は生きるであろう。

また、それは差し出されている赦しである。私が読んだことのある地上の王の中には、いかにあわれみを示すべきか知らなかった者たちがいた。男も女も容赦しなかった英国のヘンリー八世や、――ダグラスという者に何の恩顧も示さなかったスコットランドのジェームズ五世がそうである。王の《王》は彼らとは違う。この方は人々に向かって、私のもとに来て赦されよ、と呼びかけている。「人々よ。わたしはあなたがたに呼ばわり、人の子らに声をかける」(箴8:4)。「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い」(イザ55:1)。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」(ヨハ7:37)。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタ11:28)。おゝ、読者の方よ。あなたや私にとって、赦しについて聞けるだけでも大きな慰めのはずである。だが、イエスご自身が私たちを招く御声を耳にし、イエスご自身が私たちに向かって差しのべている御手を目にし、――罪人が《救い主》を求める前から、《救い主》が罪人を求めているのを知ること、――これこそ励ましであり、これこそ実に強い慰めである!

また、それは快く与えられる赦しである。私が聞いたことのある赦しの中には、長々となされた嘆願に答えてようやく与えられたものや、非常に根気強く催促された末にしぶしぶ与えられたものがある。英国王エドワード三世は、カレーの市民たちが端綱を首にかけて自分のもとに出頭し、自分の女王が彼らのために膝を屈めてとりなしをするまでは、彼らを赦してやろうとはしなかった。しかし、イエスは「いつくしみ深く、赦しに富」んでおられる(詩86:5)。「いつくしみを喜ばれる」(ミカ7:18)。審きは、そのみわざとしては「異なっている」。イエスは、ひとりでも滅びることを望まない(イザ28:21; IIペテ3:9)。すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられる(Iテモ2:4)。イエスは、不信仰を続けるエルサレムを見下ろして涙された。イエスは云われる。「わたしは誓って言う。……わたしは決して悪者の死を喜ばない。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。……なぜ、あなたがたは死のうとするのか」(エゼ33:11)。あゝ、読者の方よ。あなたも私も、大胆に恵みの御座のもとに出てきてよいのである! その座に着いておられるお方は、私たちの方で望むよりはるかにまさって快く進んであわれみを与えようとしておられるのである。

それだけでなく、それは実証済みの赦しである。何百万何千万もの人々が、キリストのあわれみの御座で赦しを求めてきたが、そこであわれみを求めたのは無駄だった、などと云って戻ってきた者はひとりもいない。ありとあらゆる名前と民族の罪人たち――ありとあらゆる種別、類別の罪人たち――が、その囲いの門を叩いてきたが、中に入ることを拒まれた者はひとりもいない。ゆすり屋のザアカイも、遊女のマグダラのマリヤも、迫害者サウロも、自分の主を否んだペテロも、《いのちの君》を十字架につけたユダヤ人も、偶像礼拝者のアテネ人も、姦淫を犯していたコリント人も、無知蒙昧なアフリカ人も、血に飢えたニュージーランド土人も、――すべてが自分の魂をキリストの与える赦しの約束にゆだねて、ひとりたりとも裏切られることはなかった。あゝ、読者の方よ。もしも福音が私たちの前に置いている道が、新奇な、だれも通ったことのない道だったとしたら、私たちが心ひるむのを感じても当然かもしれない。しかし、そうではない。それは昔からの通り道である。多くの巡礼たちの足で踏み固められてきた通り道、その足跡が一方にしか向かっていない通り道なのである。キリストのあわれみの宝庫は決して空になったことがない。生ける水の泉は決して枯渇したことがない。

それだけでなく、それは今すぐ与えられる赦しである。イエスを信ずるすべての人は、あらゆることから、たちどころに解放される(使13:39)。弟息子が父親の家に戻ってきたその日に、彼は最上の着物を着せられ、指輪をはめられ、靴をはかされた(ルカ15)。ザアカイは、イエスを迎え入れたその日に、この慰めに満ちたことばを耳にした。「きょう、救いがこの家に来ました」(ルカ19:9)。ダビデは、「私は主に対して罪を犯した」、と口にしたその日に、「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった」、とナタンから告げられた(IIサム12:13)。あなたが最初にキリストのもとに逃れ行くその日に、あなたの罪はみな取り除かれる。あなたの赦しは、何年もしなければ手に入らないような、遠くにあるものではない。それはすぐ手の届く所にある。あなたの身近に、あなたのそば近くに、ただ授けられるばかりになっている。嘘ではない。その瞬間にあなたのものとなるのである。「信じる者はさばかれない」(ヨハ3:18)。その人は、「さばかれないことになる」、とも、「やがては、さばかれなくなる」、とも云われておらず、今の時点で、「さばかれない」のである。その人が信じた時点から、有罪の宣告は消え失せるのである。「信じる者は永遠のいのちを持つ」(ヨハ3:36)。その人は、「持つことになる」、とも、「やがては持つ」、とも云われておらず、今の時点で「持っている」のである。永遠のいのちは、あたかもその人がいま天国にいるかのように確実にその人のものである。その人自身としては、それほどはっきりそうとは思えないかもしれないが、それは全く関係ない。あゝ、読者の方よ。信仰者にとって赦しとは、最後の審判の日の方が、最初に信じたその時よりも近くなっているようなものではない。決してそのような考え方をしてはならない! その人の罪の力からの完璧な救いは、年を追うごとにだんだんと近づいてくる。だが、その人の赦しと義認について、また罪の咎からの解放については、その人が最初に自分をキリストに任せた瞬間から、完成されたわざなのである。

最後に、そして最も素晴らしいことに、それは永遠の赦しである。それは、シムイに与えられた赦しのようなものではない。――しばらく立つと無効になり、取り消されるようなものではない(I列2:9)。いったん義とみなされたならば、あなたは永遠に義とみなされている。いったんいのちの書に書き記されたならば、あなたの名前は決して削除されることはない。神の子どもたちの罪は、海の深みに投げ入れられていると云われている。――見つけようとしても、それはなく、――二度と思い出されることはなく、――神のうしろに投げやられると云われている(ミカ7:19; エレ50:20; 31:34; イザ38:17)。ある人々の思い描くところ、彼らはある年に義と認められたかと思うと、翌年には罪に定められることがありえるらしい。――いったんは子とされても、次第に赤の他人となり、――初めのうちは御国の世継ぎだが、最後には悪魔のしもべとなり果てることがありえるらしい。私はこうしたことを聖書の中に見いだすことができない。――あのニュージーランド土人がローマカトリックの司祭に向かって、「この本にはそう書いてありません」、と云ったのと同じである。私には、それは福音の良き知らせをくつがえし、その慰めを根底から引き裂くものと思われる。私の信ずるところ、イエスが差し出している救いは永遠の救いであって、その血潮によって証印を押された赦しは決して取り消されることはない。

読者の方々。私はあなたの前に、あなたに差し出されている赦しの性質を示してきた。私はあなたにそのごく一部しか告げられなかった。というのも私の言葉は、私の欲するところよりも貧弱なものだからである。その半分も語られてはいない。その大きさは、私のいかなる説明よりもはるかに大きい。しかし、私はあなたに、それが求めるに値するものであるとわかるだけのことは述べたと思う。いま私が最も願いとするところは、あなたがそれを自分自身のものとするよう努力することにほかならない。

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