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十字架につけられたキリスト
---- 読者の方々、
キリスト教のありとあらゆる教理の中で、十字架につけられたキリストという教理ほど重要なものはない。これほど悪魔がやっきになって消滅させようとしているものはない。これを理解することほど、私たち自身の平安にとって必要なものは何1つない。
「十字架につけられたキリスト」ということで、私が意味しているのは、キリストが十字架上で死を味わうことによって、私たちの罪のために贖いを成し遂げられた、ということである。――その死によってキリストが、不敬虔な者らに代わって、全く完全にして完璧な償いを神に対してなされたということ、――その死の功績によって、キリストを信ずる者がみな、そのすべての罪を、それがいかにおびただしく大きな罪であっても、ことごとく、永遠に赦される、ということである。
このほむべき教理について、私は少し語っていきたいと思う。
十字架につけられたキリストという教理は、キリスト教信仰の一大特色である。他の宗教にも律法や道徳的戒め、形式や儀式、報いや刑罰はある。しかし他の宗教に、死にたもう救い主のことを告げることはできない。それらは十字架を私たちに示すことができない。これは福音の冠であり栄光である。これは福音だけに属する特別な慰めである。まことにみじめなことよ、キリスト教と自称しながら、そこに十字架について何も含んでいないような宗教的教えは。そのようなしかたで教える人間は、太陽系の説明をすると公言しながら、自分の聴衆に全く何も太陽について語らないのと同じであろう。
十字架につけられたキリストという教理は、教役者の力である。私なら、全世界とひきかえにしても、この教理なしに済まそうとは思わない。私は武器を持たない兵士のように感ずるであろう。鉛筆を持たない画家、羅針盤を持たない水先案内、工具を持たない労働者のように感ずるであろう。他の人々は、そうしたければ、律法や道徳を宣べ伝えるがいい。他の人々は、地獄の恐怖や、天国の喜びを述べ立てるがいい。礼典や教会に関する種々の教えを力説するがいい。ただ私にはキリストの十字架を伝えさせてほしい。これこそ、これまで世界をひっくり返し、人々にその罪を捨て去らせてきた唯一のてこなのである。これにそれができなかったとしたら、他の何をもってしても無理であろう。人は、ラテン語とギリシャ語とヘブル語の完璧な知識を身につけていれば、説教を始めることはできるかもしれない。だが、もしその人が、十字架についてまるで何も知らないとしたら、聞く人々に対してほとんど、あるいは全く何の善を施すこともないであろう。過去に魂を回心させる大きな働きをした教役者はみな、ひとりの例外もなく、十字架につけられたキリストを力説していた。ルターや、ラザフォードや、ホイットフィールドや、マクチェーンはみな、何にもまして力強い十字架の説教者であった。これこそ聖霊が喜んで祝福をお与えになる説教にほかならない。聖霊は、十字架に栄誉を与える者たちに栄誉を与えることをお喜びになるのである。
十字架につけられたキリストという教理は、あらゆる宣教活動に勝利をもたらす秘訣である。いまだかつて、この教理のほか何物も異教徒の心を動かしたことはない。これがいかに高く掲げられているかに正比例して、伝道団体は伸長してきた。これは地球上のいかなる場所においても、あらゆる種類の人々の心において勝利をおさめてきた武器にほかならない。グリーンランド人も、アフリカ人も、南洋諸島人も、ヒンドゥー人も、中国人も、みな同じようにその力を感じてきた。メナイ海峡にかかっている巨大な鉄の管が、その内側からかかる全荷重にもまして、半時間ほど太陽の直射を受けただけで影響を受けて曲がるのと同じように、未開人の心は、他のいかなる議論をもってしても、まるで石のように動かされることがないのに、十字架の前では溶かされてきたのである。ある北米インディアンは、その回心の後でこう云っている。「兄弟たち。私は異教徒でした。異教徒がどう考えるものかがわかります。あるときひとりの説教者がやって来て、私たちに向かって、この世に神がいることを説明し始めました。だが私たちは彼に、出て来た場所に帰ってくれと云いました。別の説教者がやって来て、私たちに向かって、嘘をつくな、盗みをするな、酒を飲むな、と云いました。だが私たちは全く気にも留めませんでした。とうとうある日、別の説教者が私の小屋にやって来て云いました。『私は、天と地の主の御名の名によって、あなたのところに来ました。この方がお遣わしになったのは、ご自分が、あなたを幸福にし、惨めさから解放してくださることを知らせるためです。そうするために、この方は人間になり、そのいのちを身代金として投げ出し、罪人たちのためにご自分の血を流してくださったのです』。私はこの人の言葉が忘れられませんでした。それで他のインディアンたちに彼の言葉を告げたところ、私たちの間で覚醒が始まったのです。ですから私は云います。もしみなさんが、異教徒に耳を貸してもらいたければ、私たちの救い主キリストの苦しみと死を宣べ伝えてください」。実際、これまで悪魔が手にした中でも最も徹底的な勝利は、中国に赴いたイエズス会の宣教師たちを説きつけて、十字架の物語を押し隠させたことである!
十字架につけられたキリストという教理は、教会を伸展させる土台である。いかなる教会といえども、十字架につけられたキリストを絶えず高く掲げていない限り、決して誉れを与えられることはないであろう。何をもってしても、十字架の抜けた穴を埋めることはできない。これなしでも、あらゆることを上品に、秩序をもって行なうことはできるかもしれない。これなしでも、荘重な儀式や、典雅な音楽や、壮麗な大伽藍や、学識ある教役者や、人々の押し寄せる聖餐卓や、貧者への莫大な募金はありえるかもしれない。しかし十字架なしには、いかなる善も施されないであろう。決して暗闇の中にある心に光が与えられることも、高慢な心がへりくだらされることも、悲嘆に暮れた心が慰められることも、弱り果てた心が元気づけられることもないであろう。公同の教会および使徒的な聖職者の務めに関する説教、バプテスマおよび主の晩餐に関する説教、一致と分派に関する説教、断食と聖体拝領誦に関する説教、教父や聖人に関する説教、こうした説教は、決してキリストの十字架に関する説教の欠けを補うことはないであろう。そうした説教を面白がる者はあるかもしれない。だが、そうした説教で養われる者はひとりもない。
豪勢な宴会場に、美麗な黄金の食器がずらりと並べられていても、食べ物を持たない飢えた人にとっては何にもならない。十字架につけられたキリストは、人々に善を施すための神の定めである。教会が十字架につけられたキリストを押し隠すたびに、あるいは、常に十字架につけられたキリストのものたるべき第一の場所に他の何かを据えるたびに、その瞬間から教会は有益なものであることをやめてしまう。十字架につけられたキリストがその講壇に欠けている教会は、地面にころがった場所ふさぎ程度のものでしかない。それは、死骸か、水のない泉か、実の生っていないいちじくの木か、眠りこけた見張り人か、音の鳴らないラッパか、おしの証人か、講和条項を持たない大使か、知らせを持たない使者か、灯のともっていない灯台か、弱い兄弟たちへのつまづきの石か、不信者たちの慰めか、形だけの信仰の温床か、悪魔にとっての喜びか、神にとっての怒りの対象でしかない。
十字架につけられたキリストという教理は、真のキリスト者たちを結ぶ一致の一大中心である。私たちの外的な違いは疑いもなく多い。ある者は監督派であり、別の者は長老派である。ある者は独立派であり、別の者はバプテスト派である。ある者はカルヴァン主義者であり、別の者はアルミニウス主義者である。ある者はルター派であり、別の者はプリマス・ブレズレン派である。ある者は国立教会の支持者であり、別の者は任意参加教会の支持者である。ある者は祈祷書を支持し、別の者は即興の祈りを支持する。しかし、結局において、こうした差異のほとんどについて私たちは、天国では何を聞くことになるだろうか? ほぼ間違いなく、何1つ聞かれまい。全く何も聞かれまい。人は真実に、また真摯に、キリストの十字架を誇りとしているだろうか? それこそ重大な問いかけである。もしそうだというなら、その人は私の兄弟である。私たちは同じ道を旅している。私たちの旅する目当てたる故郷では、キリストがすべてであり、信仰上のあらゆる外的な部分は忘れ去られるであろう。しかし、もしその人がキリストの十字架を誇りとしていなければ、私はその人といても居心地の悪いものを感ずる。外的な種々の点についての一致は、一時的な一致にすぎないが、十字架についての一致は、永遠の一致である。外的な種々の点についての過誤は、表皮上の病にすぎないが、十字架についての過誤は、心臓部の病である。外的な種々の点についての一致は、人が作り出した一致にすぎないが、キリストの十字架についての一致は、聖霊によってしか生み出されることができない。
読者の方々。こうしたすべてについて、私はあなたがどう考えているかわからない。私は、十字架についてあなたに告げたいと願っていることの半分も語りきれなかったような気がする。しかし私は、あなたを考えさせるだけのことは語ったと思いたい。さて、もうしばらく耳を傾けていただきたい。この主題全体を、あなたの良心に適用するため、いくつかのことを語りたいと思う。
あなたは、何らかの種類の罪のうちに生きているだろうか? あなたは、この世の流れに従い、自分の魂のことをないがしろにしているだろうか? 私はあなたに願う。きょうのこの日、私があなたに云うことを聞くがいい! 「キリストの十字架を見るがいい」。そこに、いかにイエスがあなたを愛してくださったかを見てとるがいい! そこに、いかなる苦しみによってイエスが、あなたのために救いの道を備えてくださったかを見てとるがいい! しかり。無頓着な人たち。あなたのためにその血は流されたのだ! あなたのために、その御手と御足は釘で刺し貫かれたのだ! あなたのために、そのからだは十字架にかけられて苦悶したのだ! あなたをイエスは愛して、あなたのためにイエスは死んだのだ! 確かに、その愛はあなたを溶かしてしかるべきである。確かにこの十字架を思うとき、あなたは悔い改めに引き寄せられてしかるべきである。おゝ、まさにこの日にそれがなされたらどんなによいことか! おゝ、あなたがすぐさまこの、あなたのために死なれ、いつでも救おうと待っておられる救い主のもとに来るならどんなによいことか! 来るがいい。そして信仰の祈りによってこの方に向かって叫ぶがいい。私はこの方が聞いてくださると知っている。来るがいい。そして、この十字架を握りしめるがいい。私はこの方があなたを捨てないことを知っている。来るがいい。そして十字架の上で死んだこの方を信じるがいい。そうすれば、きょうのこの日、あなたは永遠のいのちを受けるであろう。
あなたは、天国に至る道を尋ね求めているだろうか? あなたは救いを求めていながら、自分にそれが見いだせるかどうか不安になっているだろうか? あなたは、キリストの恩恵にあずかりたいという願いを持ちながら、キリストがあなたを受け入れてくださるかどうか疑っているだろうか? この日、私はあなたにも云いたい。「キリストの十字架を見るがいい」。ここにこそ、もしあなたが本当に求めているなら励ましがあるのである。主イエスに大胆に近づくがいい。あなたを寄せつけないものなど何1つないからである。主の御腕はあなたを受け入れようと大きく開かれている。主の心はあなたへの愛で満ちている。主はあなたが確信をもって主に近づける道を切り開いてくださった。十字架のことを考えるがいい。近づくがいい。恐れることはない。
あなたは、無学な人だろうか? あなたは天国に行きたいと願ってはいるが、自分に説明のつかない聖書の困難な箇所に困惑し、行き詰まりを覚えているだろうか? この日、私はあなたにも云いたい。「キリストの十字架を見るがいい」。そこに御父の愛と、御子のいつくしみを読みとるがいい。それは、だれにも見間違えようもないほど大きく、はっきりとした文字で記されているに違いない。今のあなたが選びの教理に困惑しているからといって何だろうか? 現在のあなたが、自分の完全な腐敗と、自分の責任とを調和させることができないからといって何だろうか? 私は云う。十字架を眺めるがいい。その十字架はあなたに語りかけていないだろうか? イエスは力ある、愛に満ちた、いつでもあなたを迎え入れようとしている救い主である、と。それは1つのことを明らかにしていないだろうか? もしあなたが救われないとしたら、それはあなた自身のせいでしかないのだ、と。おゝ、この真理をつかんで、堅く握りしめるがいい!
あなたは悩み苦しんでいる信仰者だろうか? あなたの心は、病に押しつぶされ、失意に苦しめられ、煩いの重荷を負っているだろうか? この日、私はあなたにも云いたい。「キリストの十字架を見るがいい」。今のあなたを、どなたの御手が懲らしめているか考えるがいい。どなたの御手が、今あなたが飲みつつある苦い杯を量り入れているか考えてみるがいい。それは、十字架につけられたお方の御手である。あなたの魂を愛しているがために、呪いの木に釘づけられたのと同じ御手である。確かにそう思うときあなたは、慰められ、励まされるに違いない。確かにあなたは、自分に向かってこう云うべきである。「十字架につけられた救い主は、私にとってためにならないものを何1つ私に負わせるはずがない。そこには必要があるのだ。それは良いものであるに違いない」、と。
あなたは、死につつある信仰者だろうか? あなたは、もはや生きて出ることはないと何かが身の裡で告げているように感ずる、病の床についているだろうか? あなたは、魂と肉体がつかのま引き離され、未知の世界に乗り出さなくてはならない、あの厳粛な時に近づきつつあるだろうか? おゝ、たゆみなく信仰によってキリストの十字架を眺めるがいい。そのときあなたは安息のうちに保たれるであろう! あなたの心の目を、十字架につけられたイエスに堅く据えるがいい。そのときイエスは、あなたをすべての恐れから解放してくださるであろう。あなたが暗黒の場所を歩むときにも、イエスはあなたとともにおられるであろう。イエスは決してあなたを離れず、----決してあなたを捨てない。十字架の影に最後の瞬間まで座しているがいい。そのとき、その実をあなたは甘く味わうであろう。死の床についたとき必要なことは1つしかない。それは、自分の腕で十字架を抱きしめていることである。
読者の方々。もしあなたが、この日まで一度も十字架につけられたキリストについて聞いたことがなかったとしたら、私が何にもまして願うのは、あなたが信仰によってキリストを知り、キリストに救いをゆだねて安らうようになることである。もしあなたがキリストを知っているとしたら、願わくはあなたが、生ける限り年ごとに、顔と顔を合わせてキリストにまみえるその時まで、一層深くキリストを知っていくことができるように。
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