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「これは神の指です」

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 この小冊子の題名をなしている言葉を眺めて、それをよく考えてみるがいい。それは今から三千年以上も前の異教徒の人々によって語られたものである。それを発したのはエジプトの呪法師たちの口であった。それは、エジプトの国にかの有名な災厄の1つが臨んだときのことである。「そこで、呪法師たちはパロに、『これは神の指です。』と言った」(出8:19)。英国人がみな、このエジプト人たちと同じくらい賢かったならばどんなに良いことかと思う。

 現在のわが国には、だれしも真剣な注意を払わなくてはならない災害が臨んでいる。それは、私たちの好むと好まざるとに関わらず、私たちの注意を引きつけてやまない。それは、わが国全体の喉首を引っ掴み、いやでもそれを耳に入れざるをえないようにしている。その災害とは、《口蹄疫》である。

 これは、重大な災難である。おびただしい数の牛たちがすでに死んでいる。さらにおびただしい数の牛たちが死んでいくものと思われる。国富の損失、私財の損害がいかほどにのぼるか、考えるだに空恐ろしいものがある。さながら金銀が私たちの手元からごっそりとひったくられ、海にばらまかれているも同然である。莫大な資産がきれいさっぱり失われ、取り返すことができないのである。

 これは、広範囲にわたる災難である。英国中どこを見ても、この惨禍に遭っていないような州は1つもない。この惨禍の影響を受けずにすむような家庭は、遅かれ早かれ、1つもなくなるであろう。富者の食卓に並ぶ肉が、あばら屋で食される乾酪が、わが国の食品のかくも大きな割合を占めている牛乳と乳酪が、そのすべてが、この疫禍の影響を受けるであろう。これは、あらゆる家庭にやって来て、あらゆる人を痛撃するであろう。

 これは、頭をかかえこませる災難である。いかなる薬餌も、いかなる治療法も、いかなる処置法も、この疫害には何の効果もないように見える。現代の誇る科学の諸発見も、博学な医師たちの処方も、高度な飼育技術も、全く手をつかねている。政治家や指導者たちすら、なすすべがないように見受けられる。十九世紀の英知を結集させても私たちは、自分たちを完全にうちのめす敵がいることを知ったのである。無力さという呪いが全土を覆っているように思える。

 さて、私はこの牛疫について、キリストの教役者として語りたいと思う。いま私たちにふりかかっている危機への焦燥感の中で、ややもすれば失念されかねない二三のことに、私は注意を引きたいと思う。国会議員たちは、この牛疫を政治的見地から眺めるがいい。医師や科学者たちは、その防疫理論や治療法を提議するがいい。私は、そのどちらも咎めだてしようとは思わない。ただ私は、聖書を信ずる者として、またキリスト者として、この主題全体について、いくつかの考えを述べさせてほしいだけである。

1. まず第一に、この牛疫がどこから来ているのかを考えよう。

 私はためらうことなく答える。それは神から来ているのだ、と。天と地の中にあるすべての物事を定めておられるお方、――その賢き摂理により万物を指揮しておられるお方、そして、そのお方を抜きにしては何も起こりえないお方、――そのお方こそ、この災いを私たちにお送りになったお方にほかならない。これは神の指なのである

 私は、この点を長々と証明しはすまい。その証拠を求める人がいれば、神のことば全体の基調を指し示したいと思う。私はその人に注目するように云うであろう。いかに神が常に、この下界における万物――極小のものから極大のものに至るすべてのもの――の支配者として、また管理者として語られているか、と。だれがあの洪水をノアの時代の世界に送ったのだろうか? それは神であった(創6:17)。だれがあの飢饉をヨセフの時代に送ったのだろうか? それは神であった(創41:25; 9:3)。契約の箱がペリシテ人の間にあったとき、だれがあの病を彼らの上に臨ませたのだろうか? それは神であった(Iサム5:7; 6:3-7)。だれがあの疫病をダビデの時代に送ったのだろうか? それは神であった(IIサム24:15)。だれがあの飢饉をエリシャの時代に送ったのだろうか? それは神であった(II列8:1)。だれがあの大風と暴風をヨナの時代に送ったのだろうか? それは神であった(ヨナ1:4)。

 この点について詳しく述べるのは全く時間の無駄であると思う。いやしくも聖書を信ずる信仰者と呼ばれる者が、いかにしてこの世に及ぼされる神の摂理を否定することなどできるのか、私には理解できない。私としては、神は変わってはおられないと完全に信じている。私の信ずるところ神は、旧約時代にそうしておられたのと全く同じように、今も地上の万物を支配しておられる。私の信ずるところ、戦争も、飢饉も、疫病も、牛疫も、みなこの世を支配するための神の道具である。それゆえ私は、この牛疫のような災いを見るとき、いかなる手がそれを送り込まれたかについて、微塵の疑いも持たないのである。「町にわざわいが起これば、それは主が下されるのではないだろうか」(アモ3:6)。これは、神の指なのである

 この牛疫について、それよりも妥当な説明をだれかできるだろうか? もしできるというなら、男らしく口を開き、この疫禍がなぜ起こったのか告げてみるがいい。これが他の国で発祥したことや、ことさらに新しくない古くからの病であることや、過去にも大きな惨禍をもたらしたことなどを云い立てるのは、――ことごとく答えのはぐらかしでしかない。私が聞きたいのは、これが、なぜ今の私たちのもとにやって来たのか?、ということである。いかにして、また、何を理由に、この急激な大発生が、今の時期に起こったのか、説明がつくだろうか? この数百年の間には存在していなかった、いかなる原因がそのかげにあると云えるのだろうか? 私の信ずるところ、こうした問いに答えを返すのは不可能である。私の信ずるところ、私たちが最後には直面せざるをえない唯一の原因は、神の指である。

 だれか私の主張をばかげた、筋の通らないものとみなす人がいるだろうか? 疑いもなく多くの人はそうするだろうと思う。おそらく多くの人は、神はこの世の物事に決して干渉などしないと考えているであろう。そして種々の疫病や牛疫は、特定の自然法則の結果にすぎないと思っているであろう。自然法則は、絶えず何らかの効果を生じさせているのだから、と。私はそのように考える人をあわれに思う。その人は無神論者なのだろうか? この精妙に設計された世界が偶然に組み上がったもので、何の《創造主》もいないと信じているのだろうか? もしそうだとするなら、その人は、どれほど馬鹿げたことも鵜呑みにする、おめでたい人種に違いない。しかしもし、神が世界を《造った》とその人が信じているとしたら、私は問いたい。神が世界を《支配しておられる》と信ずることの何がばかげているのだろうか? もし神が宇宙を組み立てたと認めるのなら、なぜ神がそれを管理しておられることも認めないのだろうか? この現代の懐疑主義を追い払うがいい! それは常識にとってはつまづきと不快を催させるものである。《創造主》をご自分の被造世界から締め出そうとするような者に耳を傾けるべきではない。初めに世界を、その創造の知恵という指によって造ったお方は、キリストが再臨なさるときまで、その摂理の指によって世界を支配するのをやめることは決してなさらない。この牛疫は、神の指である。

 それとも、このように云おうとする人がいるだろうか? 愛に満ちた神が、このような災いを私たちにお送りになるはずがない、神から何らかの悪が発しうるなどと考えるのは間違いだ、と。私は、こういうしかたで論ずることのできる人をあわれに思う。――その人には子どもがいるだろうか? その人は自分の子どもを全然懲らしめることをしないのだろうか? 賢明で分別のある人であれば、きっと子どもを懲らしめないことはないに違いない。――しかし、その人は子どもを懲らしめるからといって、わが子を憎んでいるのだろうか? その人は、子どもが間違ったことをしたときにそれを押し止めることによって、最も気高い愛を示しているのではないだろうか? では、私たちの天におられる御父も同じことをなさるのではないだろうか? しかり、確かにそうなさる! 神は私たちを憎んでおられるのではない。神はあわれみと愛の神であり、それゆえ神は、その摂理によって人類を支配し続けておられる。私たちに今ふりかかっている、この災いの中にすら愛はある。この牛疫は、賢く愛に満ちた神の指なのである。

2. 第二のこととして、なぜこの牛疫が私たちのもとに来たのかを考えよう。

 私はこの問いにためらうことなく答える。この疫禍が私たちのもとに来たのは、私たちの国家的な罪のためである、と。神は英国と云い争っておられる。私たちの間にある多くの事がらが、神の御目にとって不快なものだからである。神は私たちを目覚めさせ、私たちの数々の不義に気づかせようとしておられる。この牛疫は天からの使信なのである。

 個々人ひとりひとりの罪は、しばしば、彼らが生きている間は清算されることがない。だが、それは審きの日がまだ来ていないためである。その日には、「私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります」(ロマ14:12)。国々には、将来の審きの日はありえない。国々の罪は、現世において清算される。ある国家の特別の罪や腐敗は、特別の懲らしめを必要とする。私の信ずるところ、この牛疫は、英国が特に犯している数々の国家的な罪のために下された、特に英国に対する国家的な懲らしめなのである。

 この点に関する聖書の教えは、私の思うところ、はっきりしており、明確で取り違えようのないものである。それを疑うというなら、だれでも、神がバビロンや、ツロや、エジプトや、ダマスコや、モアブや、エドムや、アモン人や、ニネベについて神が何と云っておられるか読んでみるがいい(イザ48:1; 15:1; 17:1; 19:1; エレ46:2; 48:1; 49:1、7; ナホ3:1)。次のような聖句を読んでみるがいい。――「神である主の目が、罪を犯した王国に向けられている。わたしはこれを地の面から根絶やしにする」(アモ9:8)。「神は国々を富ませ、また、これを滅ぼし、国々を広げ、また、これを連れ去(る)」(ヨブ12:23; 34:29)。そうした人々は、ダニエル4章や5章のような学ぶがいい。確かに、もしも人が聖書を信じているというなら、こうした箇所はその人を考えさせてしかるべきである。聖書の神は今も同じである。――神は決して変わることがない。

 だれか、英国が特に犯しているという、その国家的な罪とは何か、と尋ねる人がいるだろうか? これから私は、現在この国で、ことのほか際立って目立っているように私には思われる、いくつかのことをあげてみよう。私は全く間違っているかもしれない。ただ私は、事態を注意深く眺め、時のしるしに注目している者として、自分の判断を提示するだけである。

1) 私が第一にあげたい国家的な罪は、貪欲さである。過度の金銭欲と、この世で裕福になりたいという欲望こそ私の意味していることである。確かに現在ほど、人々が先を争って富をかき集めようとしていることは、いまだかつてなかった。金を儲けて、裕福な境遇で死ぬことが、何にもまさる徳であるとも、最高の知恵であるとも考えられているように見える。だが、神はこう云っておられる。「むさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです」。また、「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです」(コロ3:5; Iテモ6:10)。

2) 私が第二にあげたい国家的な罪は、奢侈と快楽への愛である。確かにこれほど人々が、興奮と、娯楽と、官能の満足を貪欲に求める時代は、いまだかつてなかった。多くの人々は、「神よりも快楽を愛する者」となっている(IIテモ3:4)。

3) 私が第三にあげたい国家的な罪は、主の日をないがしろにすることである。このほむべき日は、多くの方面で急速に、神の日ではなく、行楽や快楽の日になりつつある。だが、安息日を汚すことは、神の審きをユダヤ人に招き寄せた特別の罪の1つであった。「わたしの安息日を彼らはひどく汚した」(エゼ20:13 <英欽定訳>; ネヘ13:18)。

4) 私が第四にあげたい国家的な罪は、酩酊である。毎年必要もなしに英国で消費されている、人を酔わせる飲料は、ぞっとするほどの量にのぼる。わが国の大都市に林立する居酒屋や、安酒場や、麦酒飲場の数は、私たちが酒に溺れた国民であることを不断に証言している。ロンドンのいくつかの教区では、安息日の夜ごとに、教会や会堂よりも酒場にいる人の数の方が多い。私たちは、この点にかけてはフランスやイタリアよりもひどい状態にある。だが、神はこう云っておられる。「酒に酔う者……はみな、神の国を相続することができません」(Iコリ6:10)。

5) 私が第五にあげたい国家的な罪は、第七戒の侮りである。都市部でも農村部でも、富者の間でも貧者の間でも、性的純潔に対する青年層の感覚は、最悪の傾向にある。だが、神はこう云っておられる。「むなしいことばに、だまされてはいけません。こういう行ないのゆえに、神の怒りは不従順な子らに下るのです」(エペ5:6)。

6) 私が第六にあげたい国家的な罪は、ローマ・カトリック教会を好意的に眺める趨勢の高まりである。三百年前にわが国の殉教者たちを焼き殺し、わが国の民衆に聖書を与えることを差し止め、わが国の自由を蹂躙し、今日に至るまで処女マリヤを実際的にキリストの地位にまつりあげている、その当の教会が、多くの人々によって好意的に遇され、適当にあしらわれているのである。私たちの批判精神の上には、盲目さが臨みつつあるように思える。寛容と好意とを分かつ一線が、きれいに抹消されてしまったように見受けられる。多くの人々が渇望しているのは、「エジプトに帰る」ことである。

7) 私が最後にあげたい国家的な罪は、懐疑主義と不信心に傾く風潮の高まりである。高位にある人々は、次第次第に神を敬うことをやめつつある。年々歳々、聖書は公然と反駁されるようになってきており、聖書の権威は損なわれつつある。聖書を信ずることは、かつてはキリスト者の目印であった。それが現代の英国の一神学者は、キリスト者であると自称しながら、聖書の多くの部分は真実ではないと思うと豪語しているのである。私の徹底的に確信するところ、他の何にもまして神を怒らせるのは、書かれた神のことばをおとしめることである。

 私の堅く信ずるところ、こうした事がらは、神に向かって英国を断罪する叫びを発している。これらは《王の王》に対する罪であり、これらのゆえに神は私たちを今日罰しておられる。そして神が用いておられる杖こそ、この牛疫なのである。神の指は、私の信ずるところ、私たちの7つの国家的な大罪に向けられている。

 私たちは他のいくつかの国家ほど悪くはないし、私があげたような罪は英国よりも他の諸国の方でずっとはびこっている、などと云っても何の反論にもならない。私たちには他の国々よりも多くの特権が与えられており、それゆえ神がより多くを私たちの手からお求めになるのは当然であろう。「多く与えられた者は多く求められ……ます」。「わたしは地上のすべての部族の中から、あなたがただけを選び出した。それゆえ、わたしはあなたがたのすべての咎をあなたがたに報いる」(ルカ12:48; アモ3:2)。

 いま言及した点は、いくらでも詳述していけるであろう。だが私は、あえてそうはすまい。私はこの小冊子をできるだけ短いものにしたい。そうするために私は、ほんの思索の種子を供するだけで事足れりとしよう。望むらくは、そうした種子が多くの人々の思いの中で芽を出し、実を結んでほしいと思う。さて私の残すところは、いくつかの実際的な結論を提示することだけである。

3. この牛疫によって、あらゆる人は、何を行なうように求められているだろうか?

 この問いに答えるにあたり、読者の方は、私が単にキリスト教の教役者として書き記していることを明確に理解されたい。政治家たちは、現在の緊急事態に対応できる最良の法律を策定するがいい。医学関係者たちは、あらゆる手だてを尽くして、この病をくい止め、あらゆる治療方法を忍耐強く実験するがいい。実際の農家たちは、おさおさ怠りなく、さらなる感染を防ぎ、伝染の恐れを最小にし、この疫病の発生時にはそれを「撲滅させる」ようにするがいい。しかし、私の立場は聖書のそれである。その書に照らして私は、しめくくりとなる問いを発したい。私たちはみな何を行なうべきだろうか?

 1つのこととして、私たちはみな、自分のあり方を考えよう。今の時代は、せわしなく、慌ただしく、落ちつきなく、目まぐるしい生き方の時代である。鉄道と電信によって、あらゆる人々が不健全な興奮状態にとどめられている。では確かに、今の私たちに逆らって神の御手が差し伸ばされ、私たちがみな立ち止まって多少とも考えさせられるとしたら、それは良いことであるに違いない。私たちは英国中で、あまりにも目まぐるしい生き方をしてはいないだろうか? もしも、私たちが今よりも聖書を読み、日曜日を守り、努めて穏やかで物静かに神に仕え、神を尊ぼうとするなら、それは良くはないだろうか? 何と幸いなことか、人が、また国家が、考えることを始めるならば!

 別のこととして、私たちはみな、神の前にへりくだり、神の御手を認めよう。悲しいかな、私たちは高慢で、うぬぼれきった国民である! 私たちは、あまりにもしばしば、われわれ英国民は、世界中で最も賢く、最も偉大で、最も富裕で、最も勇敢な民族であると考えがちである。私たちは、自分たちの多くの欠陥と罪に対して悲しいほどに盲目である。確かに神の御手がこれほどはっきりと私たちに逆らって差し伸ばされているとき、いいかげんにこうした思い上がった精神を打ち捨てるべきである。もし神がお憎みになるものが何か1つあるとしたら、それは高慢である。こう書かれている。――「わたしは高ぶり……を憎む」。――「高ぶりは破滅に先立……つ」。――「高ぶる者よ。見よ。わたしはあなたを攻める」。――「ソドムの不義はこうだった。彼女とその娘たちは高慢で、食物に飽き、安逸をむさぼ……った」。――「(神は)高ぶって歩む者をへりくだった者とされる」。――「だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます」(箴8:13; 16:18; エレ50:31; エゼ16:49; ダニ4:37; マタ23:12)。

 別のこととして、私たちは、ひとりひとり、自分にからみつく罪を断ち切り、自分のあり方を改めよう。困難に陥ったとき、政府のやり方に難癖をつけ、他人を責めるのはいかにも安直なことである。それよりもすぐれている道は、自分の内側を見つめて、事態を好転させるために自分の側でできることを行なうことにほかならない。国家の罪は、おびただしい数の個々人の罪1つ1つから成り立っている。もしも、あらゆる個々人が努めて自分の生き方を改めて、より良くなろうとするなら、国家全体はすぐに向上するであろう。あらゆる人が自分の玄関先を掃ききよめるようになれば、町はたちまちきれいになるものである。

 別のこととして、私たちは、ひとりひとり、自分の持てる影響力によって、他人のうちにある罪を押し止めるようにしよう。両親や、教師や、家庭教師や、雇用主たちの力は、この点にかけては非常に大きい。もしこうしたすべての人々が、渾身の力を傾けて、安息日破りや、過度の虚飾や、怠惰さや、酩酊や、第七戒への違反をくい止めようとするなら、それは国家の一般的状態にとって途方もない利益となるであろう。他者に対する影響力は、私たちが決して忘れてならないように、いつの日か私たちが弁明せざるをえないタラントの1つである。残念ながら、大勢の親や雇用主は、このタラントを全く地中に埋め隠しているのではなかろうか。彼らは、自分たちの目下の者たちが罪に突き進むにまかせ、エリのように決して彼らを叱責することがない。こう書かれている。「(彼は)自分の息子たちが、みずからのろいを招くようなことをしているのを知りながら、彼らを戒めなかった」(Iサム3:13)。

 別のこととして、私たちは、ひとりひとり、より心を込めて自分をささげ、世で何らかの善を施すようにしよう。陰鬱な事実だが、最近の英国における貧窮者への施し物は、富の増加とは全く釣り合いがとれていない。過去25年間で、わが国の貿易と交易は、おそらく倍増しているはずである。だが、わが国の大規模なキリスト教諸団体の収入は、ほとんど微増だにしていない。もし英国民が、自分たちの金銀が単に神から貸し与えられた、神のために用いられるべきものでしかないことを思い出そうとしないのであれば、神がそのことを彼らに思い起こさせようとして、この牛疫のような訪れをお用いになるとしても、彼らが驚くべき筋合いはないであろう。国家に富をお与えになる御手は、それを取り去ることもできる御手なのである。

 最後の最後に、しかしこれも重要なこととして、私たちは、ひとりひとり、私たちの上に臨んでいる審きが取り除かれるように、特別に神に祈り求める決心をしよう。他に何をするにせよ、祈りをささげようではないか。神のことばは、そうするように私たちを励ましている。「あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」。――「苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい」。――「もし、わたしが……わたしの民に対して疫病を送った場合、わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう」(ピリ4:6; ヤコ5:13; II歴7:13、14)。――私たちの主イエス・キリストが天で神の右の座に着いておられることによって、私たちはそうするように促されている。罪人たちのため十字架上で死なれたお方は、罪人の《弁護者》また《友》としてそこに座っておられる。そのお方は、私たちの弱さに同情することがおできになり、私たちの地上における状態がいかに辛苦に満ちているかを知っておられる。――聖書の様々な模範は、私たちに保証を与えている。ニネベの人々は自らへりくだり、神に大きな叫びをあげたので、神は彼らの叫びをお聞きになった。「わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、《数多くの家畜》とがいるではないか」(ヨナ4:11)。――神ご自身のご性格からして、祈らないのは愚行である。「主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない」。神は主なる神、「あわれみ深く、情け深い神、……恵みを千代も保(つ)者」。神は云われる。「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう」(哀3:33; 出34:6; 詩50:15)。それでは、《祈りをささげようではないか。》

祈り

《全能なる神よ。》あなたは天と地にある万物をしろしめし、人と獣のいのちを御手のうちにおさめておられます。どうか私たちをあわれんでください。このみじめな罪人たちの牛たちには、大いなる病と死が訪れています。――私たちは、自分のために何も申し立てるものがありません。ただ身をへりくだらせ、この国の数多くの罪ゆえに、あなたから懲らしめを受けて当然であると告白します。――しかし、いとも良き主よ。あなたの多くのいつくしみによって私たちをあわれんでください。私たちの罪にしたがって私たちをあしらわないでください。私たちから、この重い疫病を取り除き、私たちの牛たちに健康を取り戻させてください。――何にもまして、私たちの間に真の悔い改めをかき立てて、この国で真のキリスト教信仰が増し進むようにしてください。私たちはこの願いを、ただ私たちの主イエス・キリストの御名と、そのとりなしを通してのみおささげします。そのキリストに、あなたと御聖霊とともに、すべての誉れと栄光がありますように。アーメン。

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