--
キリスト者の自己満足の危険
---- 時代が私たちに要求しているのは、キリスト教教理に関する明確で、きっぱりとした見解である。私は自分のこの確信を胸のうちに抑えておくことができない。信仰を告白する教会が、内部における教理的な締まりなさ、不明瞭さから受けている損害は、外部の懐疑主義者や不信者から受ける損害にも劣らないものである。近年では、信仰を告白する多数のキリスト者が、違っているはずのものの区別を全くつけられないように見受けられる。色盲を病む人々のように彼らは、真実なものと偽りのもの、健全なものと不健全なものを見分けることができない。どこかの説教者が、才気にあふれ、雄弁で、熱心だとすると、それだけで彼らは、説教の中身がどれほど奇妙で異質なものであったとしても、何の問題もないと考えてしまうようである。彼らには見るからに霊的感覚が欠如しており、誤りを見抜くことができない。彼らについて唯一はっきり云えることと云えば、彼らが明確な区別を嫌悪し、極端で、きっぱりした、積極的な見解をすべて非常に邪悪で非常に誤ったものと考えるということである!
こうした人々は、一種の霞か霧の中で生きている。彼らには何も明確に見えず、自分が何を信じているかも知らない。彼らは福音の中核となる種々の点についても自分の考えを持っておらず、あらゆる学派の名誉会員であることで満足しているように見受けられる。一生のあいだ彼らは、義認について、新生について、聖化について、主の晩餐について、バプテスマについて、信仰について、回心について、霊感について、未来の状態について、自分が何を真理だと考えているか語ることができない。彼らは論争に対する病的な恐怖、および「党派心」に対する無知な嫌悪にとりつかれているが、実はそうした語句が何を意味しているか定義することもできないのである。それで彼らはそのように、はっきりしないまま生きていく。そしてあまりにもしばしば、はっきりしないまま墓場へとただよい下っていく。自分の信仰に何の慰めもいだかず、残念ながら何の希望も持たずに死んでいくのである。
こうした骨抜きの、締まりのない、クラゲのような魂の状態の説明は簡単につけることができる。まず最初に、人間の心は生まれながらにキリスト教信仰に関しては暗闇の中にあり、----真理を直観的に感じとることができず、----教えと光を与えられることを真実に必要としている。それに加えて、ほとんどの人々の生来の心は、信仰生活における骨折りを憎み、忍耐強く労を惜しまず探求することを心底から嫌っている。何よりも生来の心は一般に他者からの賞賛を好み、衝突から尻込みし、思いやりがあって寛大な人とみなされたいと切に願っている。これらすべての結果、一種の大ざっぱな宗教的「不可知論」こそ、大多数の人々にとって最適なものであり、特に若い人々の気に入るものとなるのである。彼らは議論の種になるような点はことごとく屑として放り投げることで満足している。もし彼らを優柔不断だと云って非難するなら、彼らはこう答える。「私は論争を理解できるふりなどしません。論争の種になるような点の吟味などお断りです。長い目で見れば、どれもこれも大差ないかもしれないでしょう?」。----こうした人々が至るところに群がっていることを知らぬ人がいようか?
さて私がすべての人に願いたいのは、キリスト教信仰におけるこうしたあいまいな心持ちに用心してほしい、ということである。これは、暗やみに歩き回る疫病、真昼に荒らす滅びである。確かにこうした怠惰で無為な魂の状態にあれば、人は頭を使ったり探究したりする手間からは免れるに違いない。しかし、こうした魂の状態は、聖書で何の保証もされていないものである。あなた自身の魂のために、何が真理で誤りか、勇をふるってはっきりとした明確な見解を持つようにするがいい。決して決して、きっぱりとした教理的意見を持つことを恐れてはならない。人への恐れや、人から党派心の持ち主、狭量で論争的な人物だと思われることに対する病的な恐怖にとらわれるあまり、不活発で、骨抜きで、無味乾燥で、ぼやけた、なまぬるい、教理抜きのキリスト教で安閑としていてはならない。
私の云うことに注意するがいい。この時代で善をなしたいのであれば、あなたは優柔不断さを打ち捨てて、明確で、輪郭のはっきりした、教理的な信仰姿勢をとらなくてはならない。もしあなたがほとんど何も信じていなければ、だれかに善をなそうとしても彼らは何も信じないであろう。キリスト教の勝利は、どこで勝ち取られたものであろうと、常に明確な教理的神学によって勝ち取られてきた。すなわち、キリストの身代わりの死と犠牲のことを人々に率直に告げ、十字架上におけるキリストの代償とその尊い血潮のことを彼らに示し、信仰による義認のことを彼らに教えて十字架につけられた救い主を信ずるよう彼らに命じ、罪による滅びとキリストによる贖いと御霊による新生を説き聞かせ、青銅の蛇を高く掲げ、仰ぎ見て生きよ、信じて、悔い改めて、回心せよと人々に告げることによってであった。これが、これこそが何世紀もの間、神が成功をもって栄誉を与えてこられた、また今日も国内で海外で栄誉を与え続けておられる唯一の教えである。
教理こそ----明瞭で、あいまいなところのない教理こそ----エリコにおける雄羊の角笛のように、悪魔と罪との反抗を打ち壊すものである。私たちは、近時どんなことが云われていようと、きっぱりとした教理的立場に固着しようではないか。そうすれば私たちは、自分にとっても他人にとっても、キリストの御国の進展にとっても、善を施すことになるであろう。
HOME | TOP | 目次 | BACK | NEXT