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カルバリ!
---- 読者の方々、
あなたはおそらく、カルバリがエルサレムに接する土地の名前であること、そこで神の御子、主イエス・キリストが十字架にかけられたことを知っているであろう。私たちは、カルバリについて、それ以外のことは何も知らない。私がこの小冊子を『カルバリ』と名づけたのは、これからキリストの苦しみと十字架刑についてあなたに語っていきたいと思うからである。
残念ながら、人々の間では、イエス・キリストの苦しみという主題について、大きな無知がはびこっているのではないだろうか。私は、多くの人々が、十字架刑の物語に、ことさら何の誇るべきことも美しさも見てとっていないのではないかと疑うものである。逆に彼らは、それを痛ましいもの、屈辱的なもの、不面目なものと考えている。彼らはキリストの死と苦しみの物語に、ほとんど何の益も見てとることがない。彼らはむしろ、不快なものででもあるかのように、これから顔をそむけている。
さて私は、こうした人々は全く間違っていると信ずるものである。私はそれに賛成できない。私の信ずるところ、キリストの十字架について常に考えているのは、私たちすべてにとって、この上もなく素晴らしいことである。いかにイエスが悪人たちの手に引き渡されたかをしばしば思い起こすのは良いことである。----彼らがいかなる不正な裁判によってこの方を断罪したか、----いかにしてこの方につばを吐きかけ、むちで打ち、こぶしでなぐりつけ、いばらの冠をかぶせたか、----いかにこの方を、ほふり場に引かれる小羊のように引き出し、この方がつぶやくことも、あらがうこともなさらなかったか、----いかにこの方の御手と御足に釘を刺し通し、カルバリでふたりの盗人の間に掲げたか、----いかにこの方の脇腹を槍で貫き、この方の苦しみを嘲り、この方を裸で血を流すまま死ぬまで放置していたか。私は云う。こうしたすべてのことを思い起こすのは良いことである。この十字架刑は、あだやおろそかに四度も新約聖書の中で叙述されているのではない。福音書の四人の記者全員が描写しているようなことは非常に少ない。一般的に云って、マタイとマルコとルカが私たちの主の生涯の何か1つの事件を告げている場合、ヨハネはそれを告げていない。しかし、四人全員が、これ以上ないほど詳細に記していることが1つある。そして、その1つとは十字架の物語である。これは雄弁な事実であり、見過ごしにされてはならないことである。
人々が忘れているように見受けられるのは、キリストのカルバリにおける苦しみがみな、あらかじめ定められていた、ということである。そうした苦しみがキリストにふりかかったのは、偶然でも、たまたまでもない。それらはみな計画され、予定され、永遠の昔から定められていたことであった。十字架は、罪人の救いのために、永遠の三位一体が備えてくださったすべての中で見越されていた。神のご計画において十字架は、永遠の昔から入念に計画されていた。イエスが感じたほんの一筋の苦痛、イエスが流されたほんの一滴の尊い血潮といえども、はるか昔から定められていなかったものは1つもない。無限の知恵によって、救済は十字架によるものと計画されていた。無限の知恵によって、イエスは定めの時に十字架へと至らされた。彼が十字架につけられたのは、神の定めた計画と神の予知とによってであった[使2:23]。
人々が忘れているように見受けられるのは、キリストのカルバリにおける苦しみがみな、人間の救いにとって必要であった、ということである。もし私たちのもろもろの罪の肩代わりがなされるとしたら、キリストがそれを負わなくてはならなかった。彼の打ち傷によってのみ、私たちはいやされることができた。これは、私たちの負債の支払いとしては、神が受け入れなさる唯一のものであった。これは、私たちの永遠のいのちがかかっている大きな犠牲であった。もしキリストが十字架のもとに赴いて私たちの代わりに苦しむことも、正しい方が悪い人々の身代わりとなってくださることもなかったとしたら、私たちには火花1つほどの希望もなかったであろう。私たちと神との間には、いかなる者も渡ることのできない、大きな淵があるばかりだったであろう。十字架は、罪の贖いがなされるために必要だったのである。
人々が忘れているように見受けられるのは、キリストの苦しみがみな、自発的に、またご自分の自由意志によって忍ばれた、ということである。キリストは何の強制も受けておられなかった。ご自分の選択によってキリストはそのいのちを投げ出し、ご自分の選択によってキリストはカルバリに赴き、ご自分がなそうとして来られたわざを完成してくださったのである。キリストは、一声かければ御使いたちの大軍団を簡単に呼び寄せて、ピラトもヘロデもその全軍勢も、風に吹き飛ばされるもみがらのように、木っ端微塵にすることができたはずであった。しかしキリストは、自ら進んで苦しみを受けた。その心は罪人たちの救いにひたと据えられていた。キリストは、ご自身の血を流すことによって、罪と汚れをきよめる一つの泉を開こうと決意しておられたのである[ゼカ13:1]。
私は読者の方々に云いたい。これらすべてを考えるとき私には、キリストの十字架という主題に何も痛ましいもの、不愉快なものが見当たらない。それとは逆に、そこには知恵と力、平和と希望、喜びと楽しみ、慰めと慰安が見える。私は、心の目の中に十字架を置いておけばおくほど、その中にある豊かさが見分けられるように思える。十字架刑のことを長く思い巡らせば巡らすほど、この世のいかなる場所にもましてカルバリのもとで多くのことが学べることに満足するのである。
私は、罪深い世に対する父なる神の愛の長さと広さを知りたいだろうか? それはどこに最もはっきり示されているだろうか? 私は、神の造られた太陽の輝きが、恩知らずな者にも悪人の上にも日々降り注いでいるのを眺めるべきだろうか? 種蒔きの時と収穫期が、年々歳々、規則正しく繰り返されているのを眺めるべきだろうか? おゝ、否! 私はこういった類のいかなるものよりも強大な愛の証拠を見いだすことができる。私はキリストの十字架を眺める。私がそこに見るのは、御父の愛の原因ではなく、結果である。そこに私が見るのは、神がそのひとり子を与えてくださったほどに、----ひとり子を苦しませ、死なせるために与えられたほどに、----この罪深い世を愛して、----御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つようにしてくださった姿である[ヨハ3:16]。私は、御父が私たちを愛しておられることを知っている。なぜなら御父は、その御子、そのひとり子の御子をも、私たちのため惜しまれなかったからである。あゝ、読者の方々に云うが、私は時として、父なる神は、あまりにも高く、聖なるお方すぎて、私たちのようにみじめで、腐敗した生き物のことを気遣ってくださらないのではないか、とふと思うことがある。しかし、キリストのカルバリにおける苦しみを眺めるときに私は、そのようなことを考えることはできない。そのような考えをいだいてはならない。いだこうとも思わない。
私は、神の御目にとって、いかにこの上もなく罪が罪深く忌まわしいものであるかを知りたいだろうか? それはどこで最も十分明確に現わされているだろうか? 私は、洪水の物語を開き、いかに罪が世界を水没させたかを読むべきだろうか? 死海のほとりに立ち、罪が何をソドムとゴモラにもたらしたかに注目すべきだろうか? さすらえるユダヤ人たちに目を向け、いかに罪が彼らを地の全面に散らしたかを観察すべきだろうか? 否、私は、より明確な証拠を見いだすことができる! 私はカルバリで何が起こったかを眺める。私がそこに見るのは、罪がそのどす黒さと厭わしさのあまり、神ご自身の御子の血のほか何をもってしても洗い流すことができないでいる姿である。そこに私が見るのは、罪が私を、私の聖なる造り主から離反させるあまり、天のいかなる御使いをもってしても、私たちの間に平和を打ち立てることはできない姿である。キリストの死以下の何物によっても、私たちを和解させることはできなかった。あゝ、もし私が、高慢な人々の間で交わされている愚劣な話に耳を傾けるとしたら、私は、罪はそれほど大して罪深くはないと思うことすらあるであろう! しかし、カルバリを眺めるときに私は、罪を軽くみなすことなどできない。
私は、神が罪人たちのためにお備えになった救いの豊かさと完全さを知りたいだろうか? それはどこで最もまぎれもなく見ることができるだろうか? 私は、神のあわれみに関する、聖書の一般的な宣言に向かうべきだろうか? 神は「愛の神」であるとの、一般的な真理に安んずるべきだろうか? おゝ、否! 私はカルバリにおける十字架刑を眺めるであろう。これほどの証拠はどこにもない。悲嘆に暮れた良心と、思い乱れた心を癒す香油として、イエスが私のために呪いの木の上で死につつある姿にまさるものはない。そこに私が見るのは、私の莫大な負債の全額が支払われている姿である。私が破った律法の呪いは、そこで私に代わって苦しまれたお方の上にふりかかっている。その律法の要求はことごとく満足させられている。私のための支払いは、一円一銭に至るまでもなされている。それは二度と繰り返して求められることはないであろう。あゝ、時として私は、自分が赦されようもないほどの悪者だと想像するかもしれない! 時として私自身の心が、お前など邪悪すぎて救われるはずがない、と囁くかもしれない。しかし私は、正気を保っているときには、これらがみな、自分の愚かな不信仰であることを知っている。私は自分の疑いに対する答えを、カルバリで流された血のうちに読みとることができる。十字架を眺めるとき私は、いかに極悪非道な人間に対しても、天国への道は開かれていることを確信していられる。
私は、聖い人になるための理由を、その強力な理由を見いだしたいだろうか? どこに私はそれを求めるべきだろうか? 私は単に十戒に耳を傾けるべきだろうか? 聖書で与えられている種々の模範を学んで、恵みに何ができるかを知るべきだろうか? 天国での報いと、地獄での刑罰について瞑想するべきだろうか? それよりも強い動機は何もないのだろうか? 否、私はカルバリと十字架刑を眺めるであろう! そこに私が見るのは、キリストの愛が私に押し迫り、自分のためにではなく、この方のために生きよ、と云っている姿である。そこに私が見るのは、今の私は自分のものではなく、「代価を払って買い取られた」、ということである(IIコリ5:15; Iコリ6:20)。私は、イエスの所有物たるからだと霊とをもって、イエスの栄光を現わすべき、最も厳粛な責務を負っている。そこに私が見るのは、イエスが私のためにご自身をお捨てになっている姿、私をすべての不法から贖い出すためだけでなく、私をきよめて、私を良いわざに熱心なご自分の民のひとりとするためにそうなさっておられる姿である[テト2:14]。木にかけられたご自分のからだによってイエスが私のもろもろの罪を負ってくださったのは、私が罪を離れ、義のために生きるためであった[Iペテ2:24]。あゝ、読者の方々に云うが、十字架のキリストほど人を聖なる者とするものはない! それは、世界を私たちに対して十字架につけ、私たちを世界に対して十字架につける。私たちの罪のためにイエスが死んだことを思い出すとき、どうして私たちは罪を愛することなどできようか? 確かに、十字架につけられた主の弟子たちほど聖くならなくてはならない者はないに違いない。
私は生活のあらゆる煩いと心配事のもとにあって、いかに満ち足りて、朗らかにしていられるかを知りたいだろうか? いかなる学び舎へ私は行くべきだろうか? いかにすれば私は、そのような精神状態へと最も容易に到達できるだろうか? 私は神の主権、神の知恵、神の摂理、神の愛を眺めるべきだろうか? そうすることは良い。しかし私には、もっとすぐれた議論がある。私はカルバリと十字架刑を眺めるであろう。私は、私のために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私に恵んでくださらないことがありましょう、と感ずる[ロマ8:32]。これほどの苦悶と、苦しみと、痛みを私の魂のために耐え忍ばれたお方であれば、確かに、真に良いものを私に与えずにおくことはないに違いない。私のために、はるかに大きなことをなしてくださったお方は、疑いもなく小さなことをもなしてくださるであろう。ご自分の血を与えても、私に天の家を獲得してくださったお方は、議論の余地なく、私がそこに至るまでの間、私にとって真に有益なものを何でも与えてくださるであろう。あゝ、読者の方々に云うが、満ち足りることを学ぶ学び舎として、カルバリと十字架の根元にくらべられるものはない!
私は自分が決して捨てられないという希望をいだくことのできる論拠を得たいだろうか? どこに私はそれを求めるべきだろうか? 私は、自分自身の種々の恵みや賜物を眺めるべきだろうか? 自分自身の信仰や、愛や、悔悟や、熱心や、祈りを眺めるべきだろうか? 自分自身の心に向かって、「この心は今後決して偽ることも、冷たくなることもない」、と云うべきだろうか? おゝ、否! 決してそのようなことはない! 私はカルバリと十字架刑を眺めるであろう。これこそ私の最大の論拠である。これこそ私の頼みの綱である。私の魂を贖うためにこれほどの苦しみを経られたお方が、いったんその魂がご自分に自らをゆだねた後で、結局それをみすみす滅びるにまかせるなどとは考えられない。おゝ、否! イエスはご自分が贖われたものを確かに保ってくださるであろう。イエスはそのために高価な贖い代をお支払いになった。それが簡単には失われないようになさるであろう。イエスは私が薄汚い罪人であったときに私をご自分のもとに召してくださった。決して信じた後の私を捨てることはなさらないであろう。あゝ、読者の方々に云うが、キリストの民が落伍せずに守られるかどうかサタンが私たちを誘惑して疑わせるとき、私たちはサタンに向かって十字架を眺めるよう命ずるべきである。
さて今、私は読者の方々に云いたい。あなたは私が、すべてのキリスト者は十字架を誇りとすべきであると云ったことをいぶかっているだろうか? むしろあなたは、カルバリにおけるキリストの苦しみのことを聞いて感動せずにいられる者などがいることの方を不思議に思うのではなかろうか? はっきり云うが、私の知る限り、キリスト者と呼ばれるおびただしい数の人々が十字架のうちに何も麗しいものを見てとれないという事実ほど、人間の堕落を示す大きな証拠はない。私たちの心が石の心と呼ばれているのも無理はない。私たちの心の目が盲目と呼ばれているのも無理はない。私たちの全性質が病んでいると呼ばれているのも無理はない。私たちがみな死んでいるというのも無理はない。----キリストの十字架のことが聞かされながら、無視されるというのでは、確かに私たちは預言者の言葉を取り上げて、こう云えるに違いない。「聞け。天よ。このことに色を失え。地よ。恐怖と戦慄がなされている」。----キリストは罪人たちのために十字架につけられた。それでも多くのキリスト者たちは、キリストが一度も十字架につけられたことなどないかのような生活をしている!
私は読者の方々に云う。あなたがもし一度もカルバリや十字架刑についてほとんど思い巡らしたことがなかったとしたら、----私はあなたが、きょう何かを学んだことと思いたい。
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