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小さなこと

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 みなさん。わたしが たのまれたのは、「ことりのす えん」という なまえの、子どもたちのおうちのために、おかねをあつめている、男の子や女の子たちに、おはなしをすることです。まず さいしょに、これは たいへん むずかしいことだと いわなくてはなりません。みなさん ぜんいんに、たすけてもらわなければ できないことです。どうすれば、あなたは わたしをたすけることができるでしょうか? わたしを たすけてあげたいとおもうなら、できるだけ しずかに、よく おはなしをきいて、できるだけ じっとしていて、できるだけ みみをすませていてください。

 みなさん。「ことりのす えん」の男の子や女の子たちのために、わたしたちがしてあげたい さいしょのことは、なんでしょうか? おしえてあげましょう。わたしたちの一ばんだいじな つとめは、その子たちが てんごくに いけるようにすることです。わたしたちは、その子たちのたましいが、しゅイエス・キリストをしんずる しんこう によって、すくわれてほしい、とおもいます。その子たちが、イエスさまの ち で あらわれ、イエスさまの ぎ[ただしさ]のころもを きせられ、イエスさまの めぐみに あずかるようになってほしい、とおもいます。その子たちが、きよい人になり、いつも おいのりをし、いつも せいしょをよみ、いつも かみさまをおそれる人にそだってほしい、とおもいます。

 けれども、ある人たちは いうかもしれません。「こんな男の子や女の子が、『ことりのす えん』のために、なにができるだろう。なぜ、そうした おかねをあつめることは、ぜんぶ、おとなの人に まかせておかないのか。そうしたことは、おとなのほうが、じょうずにできるではないか。このはたらきには、男の子や女の子など、およびではないよ」。

 ですが、あいするみなさん。このよの中で、子どもたちほど、しゅイエス・キリストと、人々のたましいのために はたらくべき人はいません。子どもたちほど、イエス・キリストのふくいんを 人々にしらせるために、いっしょうけんめいに ならなくてはならない人はいません。ほんとうの かみさまを しらない くに で、子どもたちが どうなるか、しっていますか? この しあわせな キリストきょうの くにでは、男の子や女の子がうまれることは、とてもうれしく、よろこばしいことです。それとはぎゃくに、ほんとうの かみさまをしらない くに では、小さな子どもをころしたり、いきたまま うめたり、しめころしたり、ごはんをたべさせないで しなせたりすることが、たいへん よくあるのです。これは、とても ひどいことではないでしょうか? けれども、ほんとうの かみさまをしらない、こうした かわいそうな人たちは、それより まともなことを なに一つしらないのです。

 あなたは、なんようしょとう[みなみの うみの しまじま]のことを きいたことがありますね。せかいちずを みてごらんなさい。みなみアメリカのひだりがわにある、小さな てんてんが、なんようしょとう です。よろしい。このしまじまは、ほんの なんねんかまえまでは、ぐうぞうを れいはいする人たちで いっぱいでした。このかわいそうな人たちは、ぼうきれや いしころをおがんでいて、しゅイエス・キリストのことは なに一つしりませんでした。そこへ、しんせつな せんきょうしの せんせいたちがやってきて、この人たちに、キリストや、キリストによるすくいについて おはなししました。かみさまは、このせんせいたちのはたらきを しゅくふくしてくださり、ほんとうの かみさまをしらなかった、かわいそうな人たちの おおくが、かみさまを しんじるようになりまた。そして、かみさまをを しらなかった、このしまじまのおおくが、いまでは、キリストきょうの しまじまに なっています。ほんとうのかみさまを しんじるようになったあとで、この人たちのおおくは いいました。「もっとまえに、わたしたちが こういうことを きいていたら、どんなによかった ことでしょう! もし あなたがたが、こうしたことを、もっとまえに わたしたちに おしえてくれさえしたなら、わたしたちは これまでしてきたような、ねじまがったことを、ぜったいに おこなわなかったでしょうに」。そして、このしまじまの一つでは、ひとりの女の人が、ある せんきょう たいかい[ふくいんをつたえる はたらきのための はなしあい]のあとで たちあがって、いいました。「おお、せんせい。もし わたしが こうしたことを まえにきいていさえしたなら! わたしには、十九にんのこどもたちがいましたが、その子たちをひとりのこらず ころしてしまいました! せいしょのことを なに一つしらなかったので、かわいい子どもたちのことを、どうでもいいとおもっていたのです。おお、わたしが、もっとまえからイエス・キリストと、このすばらしい せいしょと、てんごくへいくみちのことを しっていたなら!」

 わたしは いつも いうのですが、女の人たちや、子どもたちや、びんぼうな人たちこそ、せかいじゅうのだれよりも、ふくいんのために たくさんはたらくべきです。ふくいんは、そうした人々のところに、とてもたくさんの しゅくふくを もたらす[つれてくる]からです。

 けれども、そこからが もんだいです。みなさんには、なにが できるでしょうか? おおくの人々は いうでしょう。「よろしい。この小さな男の子や女の子たちに、なにができるというのか? 『ことりのす えん』に、こんな小さな てだすけが いくらあっても、それが なんのやくにたつのか?」 おお、あいするみなさん。「小さな」ものに、どんな ちから があるか、だれにわかるでしょう? 「小さな」ものの ちから は、とてもすばらしいものです! 「小さな」ことと、「小さな」ことと、「小さな」ことが あわさると、どれほどのことが できるか、だれにもわからないのです。

 あなたは、ノアのはこぶね のことを かんがえたことがあるでしょうか? ノアのはこぶね が、どれほど 大きなものであったにちがいないか、かんがえたことがありますか? かんがえてもごらんなさい。ノアは、どんなどうぶつも、どんなとりたちも、ぜんぶ つみこめるだけの大きさのふねを つくらなくては ならなかったのです。その はこぶねは、どうやって つくられたとおもいますか? それは、一どに たちまち できあがったのではありません。とんでもない! それは、小さな いた の一まい、一まい、小さな ざいもくの いっぽん、いっぽんを、すこしずつくみあわせて、つくられたのです。もしかすると、みなさんが、そのしごとをしているとちゅうのノアを みたとしたら、こういったかもしれません。「おお、そんな ちっぽけな ざいもくが、なんの やくに たつのかしら?」 あるいは、「そんな いたが、なんの やくに たつのかしら?」、と。みなさん。小さなものを すこしずつ つみあげていくことこそ、さいごには大きなものを つくりあげることになるのです。それとおなじように、わたしたちも、「ことりのす えん」のために、できるだけ たくさんの小さなことが なされてほしいとおもいます。そして、それらが 一つにまとめられたとき、それは、わたしたちのほしいもの ぜんぶになることでしょう。

 かみさまは、ゼカリヤしょ4しょう10せつで、こういっておられます。「だれが、その日を小さなこと として さげすんだのか[ばかにしたのか]」。わたしたちの しゅイエス・キリストも、小さなことについて、おかたりになりました。「小さいことに ちゅうじつな人[きちんとする人]は、大きいことにも ちゅうじつであり、小さいことに ふちゅうじつな人は、大きいことにも ふちゅうじつです」。ほんとうのキリストしゃ[クリスチャン]は、大きいことだけでなく、小さなことにも、ちゅうじつでなくてはなりません。

 小さなことが どんなにたいせつかを しっていた、ひとりの人のおはなしをしましょう。この人は、パリのまちで、一ばんえらい人のひとりになりました。パリが、フランスで一ばんのまちであることは、みなさんもしっていますね。よろしい。この人は、パリにやってきたときには、まだ男の子でした。いまのみなさんのおおくよりも とししたの、小さな男の子でした。そこにやってきたとき、その子は、なにか しごとを せわしてくれる人をみつけたいと思っていました。かわいそうに、小さなこの子は、くる日もくる日も、なにかしごとを させてくれる人をさがしましたが、がっかりすることばかりつづきました。「おねがいです。おじさん、ぼくに なにかできる しごとはありませんか?」、と だれに たのんでも、「いいや、おまえに できるようなしごとはないよ。おまえみたいな小さな子どもに なにができるっていうんだい」、と こたえられるだけだったのです。ものをたのむのが いやになってくるほどでした。

 とうとう、ある日、その子は、ある ぎんこうに いきました。そのじむしょには、とても たくさんの人々がたっていました。それで、その子は、その中のひとりのところにいって、いいました。「おねがいです。おじさん、ぼくに なにか しごとをさせてくれませんか?」

 「いいや、だめだね」、というのが こたえでした。

 その子は、とぐちから でていきかけましたが、そのとき、ゆかにおちている ピンをみつけました。その子は、かがんで それをひろい、ふくのそでに さして とめました。それをみていた、じむしょの 一ばんえらい人は、その子を よびもどしました。「ぼうや」、と その人はいいました。「そのピンを なぜひろったのかな。わしは それをほしくはない。わしには、それは、なんのねうちもない。だが、おまえが なぜ それをひろったのか、りゆうをおしえてくれんか」。

 その男の子は、こたえました。「はい、おじさん。おしえてあげましょう。ぼくのおかあさんは、ぼくに いつも、いっていたんです。小さなものを ぜったいに むだにしちゃいけない。小さなものを だいじにしなさい、って。おかあさんは、いってました。『ぼうや、もし、おまえが小さなものを ピンいっぽんでも、だいじにするなら、いつだって、なにか それで やくにたつことがあるんだよ』。ぼくは、いつもおかあさんがいってくれたことをしたいんです。おかあさんが大すきなので、いつも小さなものをだいじにするんです」。

 このことばに、ぎんこうのえらい人は、とてもこころをうごかされて、こういいました。「ぼうや、あすのあさ、わしのところに きなさい」。その子がそうすると、このしんしは、ぎんこうの中に しごとをするばしょを あたえてくれました。その子は、とても まじめに、また、ねっしんに はたらく子だということがわかったので、すぐに どんどん いろいろなことを まかされるようになり、やがて、そのぎんこうの一ばんえらい人になりました。そして、その人がしんだときには、その人は、パリのまちじゅうで、一ばんおかねもちになっていました。その人のなまえは、ラフィット[1767-1844]といいます。

 みなさん。小さなピンをひろったことで、どんなに 大きなことがおこったか、みてごらんなさい。そのことは、こころのなかみを あらわしていたのです。そのことは、その男の子がどんな子であるかを あらわしていたのです。その男の子は、小さなことも たいせつにする子でした。そして、その子が、それからいっしょうのあいだ、うけとることになった、いろいろなよいことは、みんな、この小さなできごとから はじまったのです。小さなことを けっして ばかにしてはなりません。わたしは いつも じぶんのこどもたちに、まいにちのように することも、ぜったいに いいかげんにしてはいけないよ、とおしえています。おお、小さなしゅうかんの なんとたいせつなことでしょう! どくしょのしゅうかん、おいのりのしゅうかん、しょくじのしゅうかん、一日のうちにおこなう小さなしゅうかんの一つ一つ――これらはぜんぶ小さなことですが、それがあつまって、ある人が どういう人か がきまるのです。これは、なによりもだいじなことです。ですから、みなさん。人々が、みなさんのような小さなてだすけは、なんの やくにも たたない、と いっても、それを きにしては なりません。小さなことをだいじにすることによって、あなたは「ことりのす えん」のために大きなことができるのです。

 さて、あなたには なにができるでしょうか?

 1. このはたらき ぜんたいのことを、ふかく こころにかけるようにしましょう。「ことりのす えん」では、男の子や女の子たちが、いつも きれいにしていることを おそわっています。はたらくこと、おぎょうぎよくすること、せいしょをよむこと、てんごくにいくみちを おそわっています。これは、なんとたいせつな はたらきでしょう! そのおてつだいができるとは、なんとすばらしいことでしょう!

 わたしのしっている、ひとりのぼくしせんせいは、あるとき、せんきょう たいかいに でかけました。そのとちゅうで、ひとりの男の子が、とてもいっしょうけんめい、はしっているのに であいました。それで、そのせんせいは、その子をとめて、いいました。「ぼうや、きみは、なぜそんなにいそいではしっているんだい? なにがあるというんだい?」

 その男の子はいいました。「おお、せんせい。ぼくは、せんきょう たいかいにいくところなんです。いっぷんでも、おそくなれないんです。もうおくれていますから」。

 「しかし、なんで そんなにいそいでいるのだね? きみに なにかしなくてはならないことがあるわけでは ないだろうに」。

 男の子はいいました。「おお、ぼくにも、そのはたらきの中で やくめがあるんです」。

 「それは、また、どうしたわけだね?」、とぼくしせんせいは ききました。

 「だって、せんせい。それは、ぼくが おうえんしていることですし、ぼくも、そのはたらきの中で、じぶんにできることをするんです」。それで、その子は、そのしゅうかいに はしっていき、そのせんせいも あとを おいました。ほうこくしょがよみあげられ、それをよみあげたしんしは、けんきんされたおかねは、ぜんぶで、なん十なんまん、なんぜん、なんびゃく一えんでした、といいました。

 「おお」、と その男の子はいいました。「それは、ぼくの一えんだよ」。それで、その子は、じぶんがけんきんした 一えんによって、じぶんが、その中で やくめをはたしていると かんじることができたのです。

 2. いつも、「ことりのす えん」のために いのりましょう。かみさまからのしゅくふくをいただきたければ、しゅくふくをください と おねがいしなくてはなりません。子どもたちがぜんいん、じぶんのてがけているはたらきすべての上に、かみさまのしゅくふくがあるように いのることは、とてもたいせつなことです。あるとき、このくにの せんきょうしのせんせいのひとりが、インドからかえってきました。そして、わたしたちに 一つのおはなしをしてくれました。あるばん、そのせんせいが、おうちにかえるとちゅう、あるはやしのそばをとおりすぎたところ、人のこえがきこえました。いったいなんだろうとおもって みみをすますと、とてもうれしかったことに、そのこえは、おいのりをしている子どもたちのこえだったのです。この、ほんとうのかみさまをしらないくにの子どもたちは、キリストきょうをつたえるはたらきに しゅくふくがあるように、おいのりしていたのです。そのせんせいは、ある子が、こういのっているのを ききました。「おお、しゅよ。どうか、わたしのおばあちゃんの みみを、もっと ながくしてください」。

 みなさんのうち、この子がそのいのりによって なにをいいたかったか、わかる子がいるでしょうか? おしえましょう。その子がいいたかったのは、その子のおばあちゃんは、ほんとうのかみさまをしんじていなかったので、おばあちゃんのこころは、かえられていなかった、ということです。おばあちゃんは、キリストについて なんときかされても、みみを かそうとしませんでした。なにをきいても、なんとも おもいませんでした。それで、そのおばあちゃんの小さなまごは、おばあちゃんのみみがもっとながくなって、せんきょうしんのせんせいのいったことに、もっとよく ちゅういできるように、といのったのです!

 みなさん。あなたも、人々のみみが、もっとずっとながくなるように、かみさまに おいのりできるのではないでしょうか? 人々は、「ことりのす えん」について きかされています。あなたも、いろいろな人々に、「ことりのす えん」について はなしています。人々に、たすけてください、「ことりのす えん」になにかをあたえてください、と おねがいしています。けれども、なんと いっても、なんにもならないことがあります。その人たちのみみは、みじかすぎて、きこうとしないか、あなたのいっていることが わからないのです。こうした人々のこころが、うごかされるように、そして、もっとおおくの きふきん が あつまるように、あなたは おいのりできるのではないでしょうか? もっと よくはたらく人たちがおこされて、かみさまのおはたらきが、どんどん すすんでいくように、おいのりできるのではないでしょうか?

 3. もう一つのことを わたしはいいましょう。ぜひとも あなたは、このおはたらきのてだすけとして、でんどう ねっしんなきもちを おうちの中で あらわしてください。わたしは、男の子や女の子たちが、おそとでは、「ことりのす えん」のてだすけをしているのに、おうちでは、ぜんぜん やさしいきもち、しんせつなきもちを、じぶんのおとうさんや、おかあさんや、きょうだいにたいして、あらわしていない、などということを、けっして ききたくありません。あいするみなさん。みなさんひとりひとりは、おうちで、せんきょうし[イエスさまのことを おつたえする人]になるべきです。イエス・キリストのおしえが、おうちで ぴかぴか かがやくようにこころがけましょう。しゅイエス・キリストのようになろうと つとめましょう。イエスさまのおことばを こころの中にとどめておきましょう。じぶんのおうちの中では、おとうさんや、おかあさんや、ほかのどんなに人のまえでも、イエスさまにみならう よい子になりましょう。

 わたしが、よくかんがえることのある、一つの いましめ[めいれい]があります。その いましめについては、ひとりの えらい人が、あるとき おもしろいことをいいました。あなたや、わたしや、いまいきている どんな人もうまれるまえの このくにには、アッシャー だいしゅきょう という なまえのせんせいがいました。りっぱな、かみさまを こころからしんずる、えらいせんせいでした。このせんせいは、ある日、スコットランドじんの、とてもりっぱなサミュエル・ラザフォードという ぼくしせんせいの ところに いこうとおもいました。アッシャー だいしゅきょうは、ラザフォードせんせいが、おうちでは どういうふうにしているのか、かぞくの中ではどうしているか、みてみたかったのです。それで、ふつうの はたらいている人のようなふくにきがえて、でかけました。それなら、だれも、えらいせんせいだとは わかりません。とぐちを たたいて、ひとばんとめてください、と とても小さなこえでおねがいしました。

 ラザフォードせんせいは、やさしい、しんせつな人で、しらない人も、じぶんのおうちに とめてあげることにしていました。それで、とぐちがひらいて、アッシャーさんは、ひとばん とめてもらうことになりました。また、だいどころにいくようにいわれて、ばんごはんをいただきました。ばんごはんがおわると、ラザフォードせんせいのおくさんが、まいばん していたように おうちの めしつかいたちに、せいしょの しつもんをしたり、おしえたりするじかんになりました。おくさんは、そこにいる、はじめて とまる人たちに しつもんして、その人たちのたましいについて、おしえはじめました。だいしゅきょうのばんになったとき、おくさんは いいました。「さて、おまえさん。わたしたちが、まもらなきゃいけない いましめは、いくつありますか?」 「おお」、とアッシャーさんは いいました。「十一こ あります、おくさま」。アッシャーさんが「十一」というのをきいて、ラザフォードせんせいのおくさんは いいました。「あれあれ。おまえさんは、なんと ものをしらない おひとなんだろう! おまえさんは、がっこうに いったことがないのかい? いましめが いくつあるか、おまえさんに おしえてくれた人は だれも いなかったのかい?」 それから、おくさんは、モーセがどうやって十のいましめを かいたか、また、しゅつエジプトき の中に、どのくらい はっきりと、《じっかい》が かきしるされているか、おはなししました。

 おくさんは いいました。「いったいぜんたい、どうして おまえさんのように、ものしらずな人がいるのかねえ?」

 アッシャーさんは、しばらくのあいだ、下をむいて、なにもいいませんでした。けれども、おくさんが しつもんをしおわったあとで、とてもしずかなこえでいいました。「ふくいんしょの中には、こういうおことばがあります。『あなたがたに あたらしい いましめを あたえましょう。あなたがたは たがいに あいしあいなさい』。わたしは、わたしたちの しゅイエスさまからあたえられた いましめも、モーセの いましめとおなじくらい、ちゃんと まもらなくてはいけない、と おもいます。そして、十たす一は、十一なのです」。そこにいた人たちは、すぐに、それが えらいアッシャー だいしゅきょう だとわかりました。それがわかったときの、ラザフォードせんせいのおくさんが、どんなふうにかんじたことでしょう!

 さて、あいするみなさん。ぜひとも みなさんは、わたしたちの しゅイエス・キリストによって あたえられた、あたらしい いましめを けっして わすれないでください。あなたは、あいのある きもちを あらわすべきです。わがままをいわず、いらいらせず、かんしゃくをおこさないようにするべきです。これが あいです。これが、おこないに あらわされたキリストきょうです。これが、おうちの中で、キリストきょうがどういうものかを はっきりあらわすということです。このことによって、みなさんが どういう子どもかは、はっきりします。つまり、びんぼうな子どもたちに、かみさまの いましめをおしえたいので、おかねを きふしてください、とおねがいしている、みなさんじしんも、そうした いましめを まもろうとしている、ということです。

 さいごのさいごに、かみさまの いましめは ぜんぶ、その ことばだけでなく、そのこころも うやまうように こころがけてください。ロンドンには、ありとあらゆる しゅるいのものがうられている 一つのばしょがあります。それは、「ソーホーいちば」とよばれています。ある日、ひとりの女の人が、じぶんの子どもたちの中から、ひとりの小さな女の子をつれて、そこへ いきました。その小さな女の子は、みるものきくものが、あまりにも すてきにおもえたので、してはいけないことを するように こころがそそのかされました。そして、そのこころみ[そそのかし]に おちいってしまいました。ざんねんながら、その子は、あさのおいのりをするとき、ほんとうには「いのって」いなかったのではないか、とおもいます。それはともかく、その子は、とても すてきなものをいくつかみかけて、それが ほしくてほしくて たまらなくなりました。それで、その子は、あるうりばの だい に すこしずつちかづき、おかあさんが きをとられていて、じぶんが だれからも みられていないとおもったときに、一つのおもちゃを さっとポケットにいれたのです。けれども、おお、そのポケットが、なんと おもく かんじられたことでしょう! その子の よいこころが、その子に もんくをいいだしました! なんと みじめなきぶんがしたことでしょう。おお、あんな おもちゃを とらなければよかったのに!

 かえるころになって、その子のおかあさんは、さっきと おなじうりばの おかみさんと、たちどまって おはなしをしました。それで、このみじめな小さな女の子は、そのおもちゃをポケットからだして、だれもみていないうちに、もとにもどしておきました。その子はうちにかえり、よるにになってから、おいのりをするじかんになりました。けれども、その子のかおは、ふしあわせそうでした。その子は、じぶんが「いちば」でしてしまったことを かんがえていたのです。

 その子のおかあさんは いいました。「あら、なにか あったの? おかあさんに はなしてごらんなさい」。そして、おかあさんが、しんせつに、やさしく、なんどもたずねてくれるうちに、その子は、こころが うっ となるのをかんじて、いいました。「おお、あたしは、きょう ほんとうに みじめだったの。あたしは、いましめを かんぜんに やぶった わけじゃないわ。だけど、おお、おかあさん。わたしは、いましめにひびを はいらせたのよ」。そして、その子は、すべてをおかあさんに うちあけました。おお、みなさん。きをつけて、どんな いましめにも、ひびを はいらせないようにしてください。

 わたしが おはなしした あたらしいいましめは、ヨハネのふくいんしょ13しょう34せつに かいてあります。「たがいに あいしあいなさい」。それを おぼえておいてください。もしあなたが、このすばらしい「ことりのす えん」をたすけたいとおもうのなら、このあたらしい いましめを わすれてはなりません。「たがいに あいしあいなさい」。このことばのいみは、だれにでも わかりますね。しんげん20しょう11せつには、こうかいてあります。「おさなごでさえ、なにかするとき、そのおこないが じゅんすい[ほんもの]なのかどうか……をあきらかにする」。わたしたちは、小さな子どもが、キリストのあたらしい いましめをまもろうとしているときには、それが すぐにわかります。

 どんな いましめも、いいかげんにしてはなりません。――それに ひびを はいらせたり、ひっかいたりしないようにすることです。どうか かみさまが、わたしたちぜんいんをたすけてくださり、あたらしいこころと、キリストをしんずる、いきた しんこうによって、それを まもらせてくださいますように! そうすれば、わたしたちが、キリストの さばきのざ につくとき、キリストは、こういってくださるでしょう。「よくやった。よい ちゅうじつなしもべだ。しゅじんの よろこびを ともに よろこんでくれ」。

小さなこと[了]

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