HOME | TOP | 目次 | BACK | NEXT

----

しんりのうちを あゆんでいる

子どもたち

「あなたの子どもたちの中に……しんりのうちをあゆんでいる人たちがあるのをしって、わたくしは ひじょうによろこんでいます」。 IIヨハ4

 あいするみなさん。このおことばが かかれているのは、せいしょの中で、一ばん みじかいほんです。おうちにかえったら、せいしょをみてごらんなさい。それが ほんとうだとわかるでしょう。ここには、たった13せつしかありません。けれども、いくらみじかくても、このほんには、たいせつなことが たくさんかいてあります。そして、いまよみあげたせつも、その一つだと、わたしはおもいます。

 このほんは、しとヨハネによってかかれた しょかん[てがみ]です。ヨハネはそれを、じぶんのしりあいの、りっぱなキリストしゃ[クリスチャン]の女の人にあてています。この女の人には、子どもたちがいました。そして、その子どもたちの中の、ある子たちのことが、このおことばでは いわれているのです。

 どうやらヨハネは、たまたまでかけたところで、このりっぱな女の人の子どもたちの中の なんにんかを みかけたようなのです。そして、みるとわかるように、その子たちが、たいへん よい子たちであることが わかったようなのです。ヨハネは、その子たちのことを、おかあさんに ほめてあげることができました。それが、このおことばにかいてあることです。「あなたの子どもたちの中に……しんりのうちを あゆんでいる人たちがあるのをしって、わたくしは ひじょうによろこんでいます」。

 さて、みなさん。わたしが このおことばから あなたにおはなししたいことは、たった二つしかありません。もしかすると、みなさんの中には、いま こうかんがえている人がいるかもしれません。「しんりのうちを あゆんでいる、って、どういうことなのかしら?」 また、ほかの人は、こうかんがえているかもしれません。「どうしてヨハネは、こんなに たいへん よろこんでいるのかしら?」

 わたしは、この二つのしつもんに こたえようとおもいます。さいしょに、わたしが あなたにしめしたいのは、子どもたちは、どんなときに しんりのうちを あゆんでいる、といえるのか、ということです。二ばんめに、わたしが あなたにしめしたいのは、しとヨハネが これほど たいへんに よろこんだ りゆう は、なんだったのか、ということです。

 みなさん。わたしは、みなさんぜんいんに、一つのおねがいをしたいとおもいます。わたしは、あまりながく おはなしはしません。いまからおはなしすることを、ぜひとも、よくきいていてください。どうか、せいれいさまが、みなさんぜんいんのこころを ひらいてくださって、わたしのいうことを しゅくふくしてくださいますように。

 わたしは まず、子どもたちが しんりのうちを あゆんでいる、といえるのは どんなときかをしめしたい、といいました。さっそく、とりかかりましょう。

 ここで「あゆんでいる」というのは、どういういみでしょうか? こんばん、あなたが、ここにくるまでにしてきたように、あしであるくことだ、とかんがえてはなりません。そうではなく、そのいみは、わたしたちが、おぎょうぎを よくするやりかた――わたしたちのいきかた、すごしかたのことです。それは、せいしょをもとにした、ほんとうのキリストきょうのみちを あゆむ、ということです。ざんねんながら、このせかいには、まちがったかんがえかたや、ほんとうでないおしえが、いっぱいある、といわなくてはなりません。そして、とくに、いっぱいあるのが、かみさまについての、ほんとうでないおしえです。それらはぜんぶ、わたしたちの おそろしい てき、あくまから でてきたものです。あくまは、エデンでアダムとエバをだまし、ほんとうでないことをいって、ふたりに つみを おかさせました。あくまは、ふたりに、たべてはいけない きのみを たべても、しぬことはないよ、といいましたが、それは ほんとうではありませんでした。そして、いまも あくまは、いつも それとおなじことをしています。おとなにも こどもにも、かみさまについて、また、キリストきょうについて、いつも まちがったかんがえかたを させようとしています。あくまは人々に、ほんとうはわるいことを よいことだとしんじこませ、ほんとうはよいことを わるいことだとしんじこませます。――かみさまに おつかえすることは よろこばしいことではない、とか、つみをおかしても たいしてひどいことにはならない、と しんじこませます。そして、たいへんかなしいことに、とてもたくさんの人々が、あくまによって だまされて、こうした ほんとうでないことをしんじているのです。

 けれども、しんりのうちをあゆむ人々は、それとは大ちがいです。そういう人々は、キリストきょうについて、よの中にひろまっている、まちがったかんがえかたを ぜんぜん きに しません。かみさまが、せいしょの中で、わたしたちにおしえておられる、ほんとうのみちに したがいます。ほかの人がどうしていようと、そうした人々の一ばんのねがいは、かみさまを およろこばせし、かみさまの ほんとうの しもべ[おつかえする人]になることです。さて、これこそ、このおことばでかたられている子どもたちの、とくに めだっていたところでした。ヨハネは、きっぱりと、この子どもたちのおかあさんにむかって、こうかいているのです。「わたしは、あなたの子どもたちが、しんりのうちを あゆんでいるのを、しりました」、と。

 みなさん。あなたは、じぶんが しんりのうちを あゆんでいるかどうか、しりたいと おもいますか? それがわかるような めじるしを しりたいと おもいますか? では、ひとりひとり、よくみみをすませてください。そうしためじるしについて、いまから じゅんじゅんに おはなししていこうとおもいます。いまからはなすことを、どの男の子も女の子も、よくきくようにしましょう。

 1. さて、一つのこととして、おしえたいのは、しんりのうちを あゆむ子どもたちは、つみについての しんり[ほんとうのこと]を しっている、ということです。

 つみとは なんでしょうか? かみさまのめいれいを なにか一つでもやぶれば、それが つみです。かみさまが してはいけないと いっておられることを なにか一つでもすることは、つみです。かみさまは、とても せいなる[きよらかな]、とてもきよい おかたで、どんなつみがおかされても、それは かみさまを、たいへん ふゆかいにします。けれども、こうしたすべてのことがあるのに、よの中のほとんどの人々は、としとった人も わかい人も、つみについては、ほとんど かんがえようとしません。ある人々は、じぶんが それほど ひどい つみびとではないとか、それほどたくさん かみさまのめいれいを やぶったことはない、といってききません。べつの人々は、つみなんて、けっきょく、それほど たいしたことじゃないのだ、かみさまも、ぼくしせんせいがいうほど、きびしくて、こまかいおかたではないのだ、といいます。これが、二つの、とてもたいへんな、おそろしい まちがいです。

 しんりのうちを あゆむ子どもたちは、まったくちがう かんがえかたをします。その子たちは、そんなにいばった、なまいきな かんじかたをしません。その子たちは、じぶんが つみで いっぱいだとかんじますし、そのことで、かなしくなり、じぶんを ちっぽけだ とかんじます。その子たちは、つみが、かみさまのにくむ、とてもいやなものであると しんじています。つみを、じぶんたちの一ばんの てき であり、いやでたまらないものであると おもいます。このよの中のなによりも、それをにくみます。つみから じゆうになることほど、こころからねがうことはありません。

 みなさん。これが、しんりのうちを あゆんでいるという、さいしょの めじるしです。それを みてごらんなさい。かんがえてごらんなさい。あなたは、つみをにくんでいますか?

 2. もう一つのこととして、おしえたいのは、しんりのうちを あゆむ子どもたちは、つみびとたちの ほんとうの すくいぬしをあいして、このかたに ついていく、ということです。

 ほとんどの人々は、じぶんが どうにかして すくわれるひつようがある、とかんじています。しんだあとには、さばき[ばつをうけるとき]がある、とかんじていて、その おそろしいさばきから、すくいだされたいものだ、とおもっています。

 けれども、かなしいかな! そうした人々のうち、ほとんどの人は、せいしょが、すくいぬしは ただひとり、イエス・キリストしかいない、といっていることを わかりません。そして、イエス・キリストのところにいって、わたしを おすくいください、とおねがいする人は、ほとんどいません。ほとんどの人々が たよりにしているのは、じぶんのおいのりや、じぶんの わるかった とおもうこころや、じぶんが きょうかいにかよっていることや、じぶんが きちんと せいさんしきに しゅっせきしていることや、じぶんがよいことをしていることや、そういったしゅるいのことのほうです。でも、こうしたことがらは、それなりに やくにたつことではあっても、だれひとり、じごくからすくいだすことはできません。こうしたことは、すくいのみちとしては、まちがっています。それらは、つみをなくすことができません。それらはキリストではありません。

 あなたや わたしを すくえるのは、つみびとのために じゅうじかの上でしんでくださったイエス・キリストしかいません。イエスさまに かんぜんに おたよりする人々だけしか、じぶんのつみをゆるされて、てんごくにいける人はいません。そうした人々だけが、さいごのさばきの日に、《なんでもできる ともだち》がじぶんのみかたになってくれることに きづくのです。これこそ、すくわれるための ほんとうのみちです。

 しんりのうちを あゆむ子どもたちは、こうしたことをみな おしえられていて、もしも だれかから、なにをたよりにしているのか ときかれれば、「キリストしかありません」、とこたえるでしょう。その子たちは、イエスさまの、めぐみぶかい おことばをおぼえています。「子どもたちを、わたしのところに こさせなさい。とめてはいけません」。その子たちは、こひつじたちが よいひつじかいについていくように、イエスさまについていこうとしてます。そして、その子たちはイエスさまをあいします。せいしょの中には、イエスさまがその子たちをあいして、ごじぶんを その子たちのために おすてになった、とかかれているからです。小さなみなさん。これが、しんりのうちを あゆんでいる 二ばんめのめじるしです。それを みてごらんなさい。かんがえてごらんなさい。あなたは、キリストをあいしていますか?

 3. また、わたしが みなさんに おしえたいのは、しんりのうちを あゆむ子どもたちは、ごまかしのないこころで、かみさまに おつかえする、ということです。

 あなたもしってのとおり、みかけだけで かみさまに おつかえすることも できます。たくさんの人がそうしています。そうした人々は、しかつめらしいかおつきをして、まじめなふりをしていますが、じつは こころでは そうしたことを かんじていないのです。くちさきでは、きれいなことばでおいのりしますが、じぶんの いっていることを ほんきでは しんじていません。まいしゅう にちようびに、きょうかいの きまったせきに すわりますが、そのあいだじゅう、べつのことを かんがえています。――こういう つかえかたは、みせかけだけの つかえかたで、とても よくないことです。

 ざんねんながら、とてもたくさんの わるい子どもたちが、このつみを おかしています。そうした子たちは、おとうさんや おかあさんから そうさせられるときには、きちんと おいのりをしますが、そうでないと、ぜんぜん おいのりしません。せんせいから みられているときには、きょうかいの中で よく おはなしをきいているようにみえますが、せんせいが いないと そうではありません。そうした子たちのこころは、とおくに いっているのです。

 しんりのうちをあゆむ子どもたちは、そうではありません。この子たちは、それとはべつの きもちをもっています。その子たちののぞみは、かみさまのためにすることはなんでも、しょうじきにすることであり、れい と まことをもって、かみさまを れいはいすることです。その子たちは、おいのりするときには、しんけんになり、じぶんがほんきでしんじていることを いのろうとします。きょうかいに いくときには、ほんとうに まじめになり、おはなしを いっしょうけんめい、きくようにします。そして、その子たちの大きななやみの一つは、じぶんが まだまだ、こころからかみさまに おつかえできないということなのです。

 小さなみなさん。これこそ、しんりのうちをあゆむことの三ばんめのめじるしです。それを みてごらんなさい。かんがえてごらんなさい。あなたのこころは、にせものですか? ほんものですか?

 4. さいごに おしえたいのは、しんりのうちをあゆむ子どもたちは、かみさまの目からみて、ただしく、ほんとうのことを ほんきでしようとする、ということです。

 かみさまは、ごじぶんが どんなことをただしいとかんがえておられるか、わたしたちに はっきり おしえてくださいました。しょうじきなこころで せいしょをよむ人なら、だれでも このことについて、かんがえちがいをすることはありません。けれども、かなしいことに、なんとすくない人しか、かみさまを およろこばせしようとしていない ことでしょう。たくさんの人々が、かみさまのめいれいを ひっきりなしに やぶっていながら、それをなんとも おもっていないように みえます。ある人々はうそをつき、わるいことばをくちにし、けんかし、人をだまし、ものをぬすみます。ほかの人々は、よくないはなしかたをし、にちようびに きょうかいにいかず、ぜんぜん かみさまにおいのりせず、ぜんぜん せいしょをよみません。べつの人々は、ほかの人たちに ふしんせつだったり、なまけたり、くいしんぼうすぎたり、すぐにぷりぷりしたり、わがままです。そして、こうしたことはぜんぶ、人が どうかんがえていても、きよいかみさまにとっては、とても ねじくれた、また ふゆかいなことなのです。

 しんりのうちをあゆむ子どもたちは、いつも わるいいきかたから とおざかっているようにします。どんなしゅるいの つみぶかいことにも、ぜんぜん よろこびをかんじず、そうしたことをする人たちと なかまになることを きらいます。その子たちの一ばんののぞみは、イエスさまのようになることです。きよく、つみなく、つみびとたちから はなれていることです。その子たちは、いっしょうけんめい、しんせつで、やさしくて、人のめんどうをよくみて、ただしいことにしたがい、しょうじきで、うそをいわず、どんなことをしていても、よい子でいようとします。その子たちがかなしいのは、じぶんが、まだまだ、きよくなれないことです。

 小さいみなさん。これこそ、しんりのうちをあゆむということで、わたしがあなたにおはなししたい、さいごのめじるしです。それを みてごらんなさい。かんがえてごらんなさい。あなたは、ただしいことをしていますか? わるいことをしていますか?

 みなさん。あなたはいま、しんりのうちをあゆむことの めじるしをいくつかききました。わたしは、それを はっきり あなたにおしえたつもりです。あなたは、それがわかったはずです。つみについて しること、ほんとうの すくいぬし、イエス・キリストをあいすること、ごまかしのないこころで かみさまに おつかえすること、かみさまの目からみて、ただしくて ほんとうのことをすること――これが、この四つのことがぜんぶ、そのめじるしです。ぜひ、こうしたことについて かんがえるようにおねがいします。そして、ひとりひとり、じぶんに こうしつもんしてみてください。「いまの このとき、わたしは どのようにしているかしら? わたしは、しんりのうちを あゆんでいるかしら?」、と。

 おおくの男の子や女の子は、じぶんが どんなこたえをしなくてはならないか、よくしっている、とわたしはおもいます。そして、かみさまも、それを ごぞんじです。かみさまは、あなたのこころの中を、いまこのしゅんかんに、わたしがあなたのかおを はっきりみているのとおなじくらい、はっきり みておられるからです。みなさん。なにかも みておられるかみさまが、こんばん、わたしのくちをとおして、あなたに 一つのしつもんを おくっておられます。かみさまは、「あなたは、しんりのうちをあゆんでいますか?」、といっておられるのです。

 どうして、あなたも おなじようにしていけないわけがあるでしょうか? かぞえきれないほど たくさんの子どもたちが、これまでに しんりのうちをあゆんできて、それが よろこばしいものであることを しってきました。そのみちは、あなたのまえにすすんでいった、たくさんの子どもたちの小さなあしで ふまれてきました。かぞえきれないほど たくさんの男の子や女の子たちが、いまこのときにも、しんりのうちを あゆんでおり、まだまだ なかまになれる すきまはのこっています。みなさん。こんばん、そのことをかんがえてごらんなさい。「どうして、あなたも おなじようにしていけないわけがあるでしょうか?」

 さて、いまからわたしは、おはなしするとやくそくした、二ばんめのことにうつりたいとおもいます。

 なぜヨハネは、この女の人の子どもたちが しんりのうちを あゆんでいることを よろこんでいるのか、そのりゆうをいくつか しめしたい、と わたしはいいました。このおことばには、「わたくしは ひじょうによろこんでいます」、とかかれています。さて、なぜヨハネはよろこんでいたのでしょうか? それには、なにか、ちゃんとしたりゆうがあったはずです。ヨハネは、わけもなく よろこぶような人では ありませんでした。みなさん、よくきいてください。そのりゆうがなにか、おはなししましょう。

 1. 一つのこととして、ヨハネがよろこんだのは、ヨハネじしんも、よい人だったからです。

 よい人々はぜんいん、じぶんたちとおなじように、ほかの人たちも しんりのうちを あゆむようになるのを みたい、とおもっています。てんの みつかいたちは、ひとりのつみびとが くいあらためるのをみるとき、よろこぶのだ、ということを、おそらくあなたも、きいたことがあるでしょう。みなさんの中には、そのことをルカのふくいんしょ15しょうで よんだことがある人がいるに ちがいありません。よろしい。よい人々は、このことについて、みつかいたちと にているのです。そうした人々は、あいと おもいやりで いっぱいで、だれかが つみから むきをかえて、ただしいことをするのを目にすると、しあわせにかんじるのです。

 よい人々は、しんりのうちをあゆむことが とてもよろこばしいことをしっているので、ほかのみんなにも、しんりのうちをあゆんでほしいと おもうのです。このよろこばしさを ぜんぶ じぶんたちだけで ひとりじめしていたいと おもったりはしません。じぶんたちのまわりの すべての人たちが、イエス・キリストをあいして、イエスさまにしたがうようになるのを、みたいとおもいます。――じぶんのしんせきのぜんいん、じぶんのちかくにいる人々ぜんいん、じぶんのむかしからのともだちぜんいん、じぶんの子どもたちぜんいん、――そうです、ぜんせかいの人々に、そうなってほしいとおもいます。しんりのうちを あゆんでいる人々をみるのが おおければおおいほど、よい人々はよろこびます。

 みなさん。ヨハネはよい人で、人々のたましいをあいするおもいでいっぱいでした。これこそ、ヨハネがよろこんでいた一つのりゆうでした。

 2. ヨハネがよろこんだのは、子どもたちが しんりのうちを あゆんでいるのをみるのは、とても めずらしいことだからです。

 みなさん。とてもざんねんなことですが、よの中には、たくさんのわるい男の子や女の子たちがいる、といわなくてはなりません。あまりにもおおくの子どもたちが、ふまじめで、かんがえなしで、わがままで、なまいきにしています。だれも、そうした子どもたちのことをよろこぶことはできません。わたしは、たくさんのおとうさんや おかあさんたちが、そういっているのを きいています。

 わたしは、たくさんの がっこうのせんせいたちが、そういっているのを きいています。かなしいことですが、それは ほんとうではないでしょうか。

 どんなよいことにも、ぜんぜん きょうみをもとうとしない子どもたちは、たくさんいます。そうした子たちは、いいつけられたことを しようとしません。ぶらぶらとなまけてすごし、すきなようにしていたいのです。べんきょうよりも、あそぶことのほうが大すきなのです。かみさまが、ねじまがったことだ、まちがったことだ、といっておられることを、この子たちはおこなって、はずかしいとおもいません。こうしたことすべてをみるのは、とてもかなしいことです。

 ヨハネは、たしかに こうしたことをしっていたにちがいありません。ヨハネは しと のひとりであっただけでなく、もう としよりになっていて、おおくのことを みてきたからです。ヨハネは、よい人々の子どもたちでさえ、とてもわるい子になることを しっていました。おそらくヨハネは、ヤコブや、ダビデのこと、そして、ふたりがじぶんのかぞくによって、どれほどかなしい目にあったかをすべて おぼえていたことでしょう。そして、うたがいもなくヨハネは、ソロモンが しんげん22しょう15せつで かいていることを、しっていたにちがいありません。「おろかさは子どもの こころに つながれている」。

 ですから、この女の人の子どもたちが、ほかの子たちのようにわるい子にならずに、ただしいみちに あゆんでいるのをみたとき、ヨハネが、これは とくべつの かみさまの あわれみだ、とかんじたとしても、むりはありません。わたしは、ヨハネが たいへん よろこんだのも、まったく とうぜんだとおもいます。

 3. ヨハネがよろこんだのは、しんりのうちに あゆんでいることによって、この子どもたちが このよで ほんとうに しあわせになれる、と しっていたからです。

 ある おばかさんな人々は、キリストきょうに ねっしんになることをきらい、キリストきょうで人はふしあわせになる、とおもっていますが、ヨハネは そうした人々のひとりではありませんでした。ヨハネは、ほんとうのキリストきょうを しんじればしんじるほど、人々は しあわせになることを しっていました。

 ヨハネは、じんせい[いきていくこと]には、しんぱいごとや、なやみごとが いっぱいあること、また、じんせいを きもちよく くぐりぬけていくための たった一つのみちは、キリストにほんとうに ついていく、しもべ[おつかえする人]になることしかない、としっていました。

 みなさん。こんばん わたしがいうことを おぼえておいてください。もし あなたが この わるいよの中でしあわせになりたければ、あなたは じぶんのこころをイエス・キリストにおささげし、イエスさまに ついていかなくてはなりません。イエスさまに、あなたのたましいのことは かんぜんにおまかせし、どうかわたしの《すくいぬし》になり、わたしのかみさまになってください、とおねがいしなくてはなりません。そうすれば、あなたは しあわせになるでしょう。じぶんかってなこころを けっしてもたず、ただ、イエスさまを およろこばせしようとすることです。そうすれば、あなたのじんせいは よろこばしいものとなるでしょう。

 キリストに すべてをおまかせすれば、あなたのたましいにかかわることは ぜんぶキリストがひきうけてくださいます。いつ、どんなときにも、イエスさまを おたよりしましょう。どんなばあいにも――びょうきのときも、げんきなときも、わかいときも、としとったときも、びんぼうなときも、おかねもちのときも、かなしいときも、うれしいときも――、イエスさまに おたよりしましょう。イエスさまに おたよりすれば、イエスさまは あなたのせわをする《ひつじかい》になってくださるでしょう。――あなたのみちあんないをする《みちびきて》、あなたをまもる《おうさま》、あなたがこまっているときに たすけてくれる《ともだち》になってくださるでしょう。イエスさまに おたよりすることです。イエスさまは、ごじぶんで、こういっておられます。「わたしは けっして あなたをはなれず、また、あなたを すてない」(ヘブル13しょう5せつ)。イエスさまは、ごじぶんの みたまさまを あなたの中にいれて、あなたに あたらしいこころを あたえてくださいます。かみさまの ほんとうの子どもになる ちから をあたえてくださいます。あなたが かんしゃくをおさえ、もう わがままにならず、あなたじしんのように、ほかの人たちをあいせるようになる めぐみをあたえてくださいます。あなたのしんぱいごとを かるくし、あなたの しごとを かんたんにしてくださいます。なやみごとがあるとき、あなたをなぐさめてくださいます。キリストは、ごじぶんを たよりとする人々を しあわせにすることができます。キリストは、その人々をすくうために しんでくださいました。そしてキリストは、いつもいきていて、その人々に やすらかなこころをあたえてくださるのです。

 みなさん。ヨハネは、こうしたことがらを、よくわかっていました。そのことは、じぶんでも みにしみて、しっていたのです。ヨハネは、この女の人の子どもたちが このよの中でしあわせになろうとしているのをみました。ヨハネがよろこんだのもふしぎはありません!

 4. さいごに、ヨハネがよろこんだのは、いまのじんせいの中で しんりのうちを あゆんでいる人が、やがてくる じんせいの中で えいこう[かがやくように りっぱになること]と えいよ[とても ほめられること]をあたえられることを、しっていたからです。

 やがてくる じんせいのことは、わたしたちがぜんいん、なによりも かんがえておくべきことです。たくさんの人々が きにしているようにみえるのは、このじんせいの中で、じぶんにおこることだけです。けれども、そうした人々は、かなしいほどに、たいへんなまちがいをしています。このじんせいは、とてもみじかいものです。それは、すぐにおわってしまうでしょう。どんなに としをとった人でも、じぶんが子どもだったころから、ほんの なんねんかしか たっていないようなきぶんがする、というものです。やがてくる じんせいこそが、ほんとうにたいせつな じんせいなのです。それには、おわりがありません。それは、けっして おわることのないしあわせか、けっして おわることのない なやみくるしみ か、どちらかなのです。おお、それは、なんと しんけんな いみのあることでしょう!

 みなさん。ヨハネがよろこんだとき、やがてくる じんせいのことをかんがえていたことを、わたしはうたがいません。わたしたちの しゅイエス・キリストは、しんりのうちをあゆむ人々のために よういされている、かがやかしい ごほうびのことを、よくヨハネにかたっていました。ヨハネは、この子どもたちのために、てんごくに とっておかれている ごほうびのことをかんがえて、よろこんでいたのです。

 ヨハネが、じぶんのこころの中で、イエスさまがもう一どもどってくる日を まちのぞんでいたことを、わたしはうたがいません。おそらくヨハネは、そのこころの目で、このあいする子どもたちが、ゆきのように しろいふくをきて、あたまに きんの かんむりをのせて、イエス・キリストのみぎにたっているすがた、そしてえいえんに[いつまでも]たのしみをあじわっているすがたを おもいえがいていたことでしょう。ヨハネは、その子たちが、そのあいするおかあさんとともに、もう一どてんごくであっているすがた――もはや、わかれることも、かなしむこともない、あの すばらしいばしょで、あっているすがた――を、かんがえていたのでした。

 みなさん。こうしたことは、うっとりするように よろこばしい かんがえにちがいありません。ヨハネがよろこんだのも とうぜんのことです。

 さていま、わたしは、このおことばについて いわなくてはならないことは すべて いいおわりました。わたしは、やくそくしたことをはたしました。わたしは、しんりのうちを あゆむとは、どういうことをか、あなたにしめしました。それが一つのことです。わたしは、この女の人の子どもたちが しんりのうちをあゆんでいるのをみたヨハネが、なぜそれほどよろこんだのかを、あなたにしめしました。これが、もう一つのことです。さて、それでは、ぜんぶのしめくくりとして、かみさまのおたすけによって、このせっきょうを、あなたのこころに しっかりむすびつけるようなことを すこし おはなしさせてください。かなしいことに、なんとたくさんのせっきょうが、わすれられてしまうことでしょう! わたしは、このせっきょうが、あなたのこころにぴったりはりついて、それがよいはたらきをしてほしいとおもいます。

 それでは、みなさんひとりひとり、じぶんにしつもんしてみてください。「ヨハネは、もし、いま わたしのことをしっていたとしたら、わたしについて よろこぶかしら? もしヨハネがわたしのいきかたや、たいどをみたとしたら、ヨハネはよろこぶかしら? それとも、かなしそうな、つらいかおになるかしら?」

 おお、みなさん。みなさん。このしつもんを むししてはいけません。これは、けっして たいしてだいじでないことではないのです。それは、あなたのいのちにかかわるかもしれません。かしこい人なら、だれでも、わるい子どもたちのことをよろこんだりしないでしょう。その子たちも、せいけつで、かわいくて、きれいなようふくをきていて、みかけはちゃんとしているかもしれませんが、かしこい人は、そうした子たちをみるとき、かなしいきもちしか かんじないでしょう。その子たちの なかみがまちがっている とかんじるでしょう。――その子たちには、あたらしいこころがないのです。その子たちは、てんごくにいきそうもありません。うそではありません。かわいい子であるよりも、よい子であるほうが、ずっと よいことなのです。ポケットにおかねがはいっていたり、せなかに きれいな ようふくをはおっていたりするよりも、こころに めぐみをいただいていることのほうが、ずっと、よいことなのです。キリストをあいしている子どもたちのほか、だれも、かしこい人のこころをよろこばせる子どもたちはいません。

 あいするみなさん。わたしが あなたに いわなくてはならない、さいごのことばをきいてください。わたしは みなさんぜんいんに、わたしの《ごしゅじん》であるキリストからの おまねきを つたえます。キリストのみなによって、わたしは あなたにいいます。「さあ、しんりのうちを あゆみなさい」、と。

 これこそ、あなたのおとうさんや おかあさんや しんせきの人たちのこころをよろこばせることです。これこそ、あなたのぼくしせんせいや、せんせいたちを、ほかのなによりも よろこばせる ただ一つのことです。あなたが しんりのうちを あゆもうとするとき、あなたがどれほどわたしたちをしあわせにしてくれるか、あなたには おもいもよらないでしょう。そのとき わたしたちは、じぶんがいましんで、このわるいせかいに あなたをのこしていくとしても、すべてはだいじょうぶだ、とかんじるのです。そのとき わたしたちは、じぶんにいま おむかえがきて、もうあなたをたすけたり、おしえたりできなくなっても、あなたのたましいは あんぜんだ、とかんじるのです。そのとき わたしたちは、あなたが しあわせになるためのただしいみちをたどっていて、あなたは どんなにたくさんのなやみごとにあうとしても、そのよういはできている、とかんじるのです。というのもわたしたちは、しんりのうちに あゆむことによって、いまのよでは、やすらかなこころがあたえられるとしんじており、しんだあとでは、えいこうへといたらされる、とたしかにしんじているからです。

 では、こんばん、しんりのうちに あゆむことを おもいきってはじめるようにしてください。あくまは、それはむずかしすぎると、あなたにおもわせようとするでしょう。――そんなことはできない、とおもわせようとするでしょう。それをしんじてはいけません。あくまは、うそつきです! あくまは、あなたをきずつけたいのです。ただキリストにおたよりし、キリストについてくいようにしてください。すぐに あなたはいうことでしょう。キリストのみちは、たのしいみちであり、そのとおりみちは みなやすらかです、と。ただ せいれいさまが あなたのこころの中にきてくださることを おいのりしてください。すぐにあなたは つよくなったようにかんじることでしょう。せいれいさまは、あなたを すべてのしんりに みちびきいれてくださいます。ただ、きちんと せいしょをよむようにしてください。すぐにあなたは ちえ[かしこさ]をあたえられて、すくいをうけることでしょう。せいしょは、しんりのことばです。それをよんで、いのってください。いのって、それをよんでください。こうした しゅうかんをみにつけ、それを まもってください。こうしたことがらをおこなうなら、まもなくあなたは、しんりのうちを あゆむことなんてできない、とはいわなくなるでしょう。では、はじめましょう。いますぐに、やりはじめましょう。

 みなさん。もくしろくの3しょうには、イエス・キリストがこういっておられると かかれています。「みよ。わたしは、との そとに たってたたく」。こんばん、このことがおこっていないと、だれにわかるでしょうか? このせっきょうのあいだじゅう、イエスさまが、みなさんのうちのなんにんかのこころを たたいておられなかったと、だれにわかるでしょうか? もしそうだとするなら、これいじょう、イエスさまをおまたせしてはなりません。もしそうだとするなら、こんばん、ひざまずいて、いのりの中で、イエスさまのところにゆきましょう。イエスさまのところにいって、いますぐおはいりになってください、とおねがいしましょう。わたしのこころの中にきて、すんでください、わたしのこころを、あなたのものとして、おとりください、とイエスさまにおたのみしましょう。わたしのなまえを、あなたのいのちのごほんにかいてください、とおたのみしましょう。しんりのうちに あゆませてください、とおたのみしましょう。

 おお、あなたのようには 一どもまねかれたことのなかった子どもたちが、せかいじゅうに どれほど たくさんいるか、かんがえてごらんなさい! あなたがうけているような、すくわれるきかいを 一ども うけたことのない男の子や女の子が、どれほどたくさんいるでしょうか。もしかすると、まねかれさえしたならば、よろこびおどって、たちまち しんりのうちにあゆんでいたはずの子どもたちが、どれほどたくさんいたかもしれないことでしょうか。あいするみなさん。きをつけてください。すくなくともあなたは、じぶんは まねかれたことがありませんでした、とはいえないのです。イエスさまは あなたをまねいておられます。せいしょは、あなたをまねいています。わたしは、キリストのしもべであるわたしは、みなさんぜんいんを、こんばん まねいています。おお、キリストのところにきてください! きて、しあわせになってください。さあ、しんりのうちを、あゆむようにしてください。

しんりのうちを あゆんでいる子どもたち[了]

HOME | TOP | 目次 | BACK | NEXT