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二とうの くま

「エリシャは そこからベテルへのぼっていった。かれが みちをのぼっていくと、このまちから小さい子どもたちがでてきて、かれをからかって、『のぼってこい、はげあたま。のぼってこい、はげあたま。』 といったので、かれはふりむいて、かれらをにらみ、しゅの な によって かれらを のろった。すると、もりの中から 二とうの めぐま がでてきて、かれらのうち、四十二にんの子どもを かきさいた」。 だい二れつおうき2:23-24

 みなさん。あなたは、くまを みたことがありますか? ないかもしれませんね。いま、この くに には、やせいのくまは、一とうもいません。やせいどうぶつの みせものごやには、くさりでつながれた くまがいたり、おりにいれて はこばれる くまが なんとうか います。でも、もりや、のはらを じゆうにあるきまわっている くまは、一とうもいません。ですから、あなたは 一ども くまをみたことがないかもしれません。

 くまは、大きくて、けむくじゃらで、あらあらしい、やせいのけものです。なんでもかみくだく は と、するどい かぎつめをもっていて、とてもつよいちからがあります。くまは、ひつじや、こひつじや、こうしや、やぎをころして、たべてしまいます。はらぺこになると、おとなの男の人や、女の人や、子どもをおそって、ばらばらに ひきさいてしまいます。小さな こぐま といっしょにいる、めぐま[めすのくま]は、とくに らんぼうで、ざんこくです。えいこく[イギリス]のどこをあるきまわっても、くまにつかまるしんぱいをしなくていいというのは、なんと ありがたいことでしょう!

 さて、いまからわたしが おはなししたいのは、ひとりの よい人と、二とうのくまと、なんにんかの子どもたちの おはなしです。これは、せいしょの中にあるものがたりですから、ぜんぶ ほんとうにおこったことに ちがいありません。ほかのごほんにある ものがたりのおおくは、「ごっこ」でしかなく、ぜんぜん ほんとうにはおこらなかったことを ものがたりにしたものです。でも、ぜったいに おぼえていなくてはならないのは、せいしょの中にある ものがたりが、ひとことのこらず、ぜんぶ ほんとうのことだ、ということです。それを けっして わすれてはなりません!

 むかしむかし、いまから 二せん七ひゃくねんくらいまえに、エリシャというなまえの、よい人がいました。その人は、はじめは、かみさまの ゆうめいな よげんしゃエリヤの しもべ[おつかえする人]でした。エリヤが、もえる せんしゃにのって、てんに つれていかれたあとで、エリシャは、エリヤのかわりに、よげんしゃになるように いいつけられました。そのときから、しぬ日まで、エリシャは とてもえらい人で、とても大きなはたらきをする人でした。エリシャは、たくさんの きせきを おこないました。いつもイスラエルのくにじゅうを、いったりきたりして、人々にどのようにしたら かみさまにおつかえできるかを おしえたり、つみびとを しかったり していました。いろいろなところで、「よげんしゃたちの がっこう」とよばれるがっこうをつくって、おしえてもいました。このようにして、エリシャは、くにじゅうで ゆうめいになりました。くにじゅうの人がエリシャのことをしっていて、よい人々はみんな、エリシャのことを あいしていました。

 ある日、エリヤが てんにつれていかれてから、しばらくしたあとで、エリシャは、ベテルというところにいきました。そこには、一つのがっこうがありました。もしかすると、エリシャは、そのがっこうが、どうなっているか、きちんとよいはたらきをしているか、みにいったのかもしれません。どんながっこうも、ときどき、ようすをみられたり、しらべられたりすることが ひつようです。しらべられるのは、がっこうにとって とてもよいことです。どのくらい べんきょうしているか、きかれることをきらいなのは、わるい男の子や女の子たちだけです。

 さて、この、りっぱな おとしよりのエリシャがベテルのちかくにきたとき、とてもかなしい できごとがおこりました。とてもたくさんの小さな子どもたちが、まちからでてきて、たいへんに おぎょうぎの わるいことをしたのです。その子たちはエリシャをからかって、よってたかって わるぐちをいいはじめました。よい子どもたちのように、エリシャをうやまって、おじぎをするかわりに、エリシャをわらいものにして、おばかさんなことを いいました。「のぼってこい、はげあたま」、と その子たちは おおごえでいいました。「のぼってこい、はげあたま」。その子たちがエリシャのことを「はげあたま」、とよんだのは、まちがいなく、この りっぱなよげんしゃが としをとっていて、あたまに かみのけが なかったからにちがいありません。その子たちが、「のぼってこい」、といったのは、エリシャのごしゅじんのエリヤが、だれでも しっていたように、さいきん てんに いったからではないか、とおもいます。そして、その子たちがいいたかったのは、エリシャも、ごしゅじんのあとをおって てんに いってしまえばいいんだ、じぶんたちを やかましく おしえたりしないようになればいいんだ、ということでした。それは、こんなふうに いっていたのとおなじでした。「あっちにいって、いなくなってしまえ。おまえのしゅじんと おんなじに、いいかげんに てんに のぼっていってしまえ」、と。

 すこしのあいだ、かんがえてごらんなさい。この子どもたちが、なんと ねじけたこころをしていたことでしょう! その子たちは、たくさんのよいことを べんきょうできるまちに すんでいました。ベテルには、よげんしゃたちの がっこうがありました。でも、ざんねんなことに、この子たちは、せっかく よいところにすんでいたのに、べんきょうよりも、あそぶことが大すきでした。この子たちには、エリシャをからかったり、こんなひどいめにあわせる けんりは、なにもありませんでした。エリシャは、この子たちに なにもわるいことをしたことがなく、一ども ふしんせつなことをしたことがありませんでした。エリシャは、よい人で、この子たちの一ばんのともだちだった人でした。なによりも、この子たちは、「のぼっていって、いなくなれ」、などというべきではありませんでした。むしろ、こういうべきでした。「わたしたちといっしょにいて、てんごくにいくみちをおしえてください」、と。ほんとうに かなしいことですが、小さい子どもたちでさえ、こころが大きくねじけてしまうことがあります。かなしいことに、男の子や女の子たちも、こころが くさりはて、ほんとうに ひどいことを いうことがあります。それは、どれほど がっこうのちかくにすんでいても、かんけいありません!

 でも、この子どもたちが、こんなにおぎょうぎをわるくしたときに、エリシャは なにをしたでしょうか? こうかかれています。エリシャは、かなしみと、ふゆかいなきもちをこめて、「ふりむいて、かれらをにらみ」ました。おそらく、この子たちは、まえにも、なんども、おなじことをしていたのでしょう。それは、その子たちの くせ になっていて、やめようにも、やめられなくなっていたのです。いいかげんに、その子たちが、ばつをうけなくてはならないときがきていました。そして、そのときエリシャは、「しゅの な によって かれらを のろった」、とかかれています。うたがいもなく これは、けっしてエリシャが、どこかの がらのわるいとしよりがするように、かんしゃくをおこして、くちぎたなく ののしった、ということではありません。エリシャは、そうしたことをするような人ではありませんでした! そのいみは、ただ一つ、エリシャが、しんけんなきもちで、その子たちにたいする、かみさまのおいかりと、ふゆかいさを はっきり しめした、ということです。エリシャは、おもおもしく、「しゅの な によって」、かみさまは、かくじつに、その子たちにばつをあたえるだろう、と いいました。そして、かみさまのしもべとして、そのようにいうことは、エリシャの つとめでした。そうです。たしかにエリシャは、かんしゃくをおこしたり、ふきげんになって、そういったのではありません。さいばんしょにいる さいばんかんは、わるいことをした人を ろうやにいれなさい、といいつけるとき、おこっているのではありません。エリシャが、かみさまの のろいを、この ねじくれた子どもたちにむかって はっきり しめしたとき、エリシャは、かみさまからの やくめをあたえられた しもべとして、へなへなすることなく、ただしいこころをもって、けれども かなしみながら、そうしたのです。かみさまはエリシャに、なにをすべきか おつげになったにちがいありません。それでエリシャは、すなおな めしつかいのように、そのことをしたのです。

 では、エリシャがそういうと、すぐに、なにがおこったでしょうか? たちまち、そばの もりの中から、二とうの めぐまが でてきて、この、ねじくれた こころをした子どもたちにおそいかかり、てあたりしだいに、ひきさいて、ころしてしまったのです。かんがえてもごらんなさい。それが、なんとすさまじく びっくりさせられることにちがいなかったかを! その子どもたちが、なんと とほうもなく おそろしいきもちになったかを! なんと にげまわり、さけびごえをあげ、おたがいにころびあって、たすけをもとめて なきわめいたことでしょう! じぶんたちのことを なんと あわれに、また、はずかしく かんじたに ちがいないことでしょう! けれども、おおくの子たちにとって、それは、もうておくれでした。子どもたちがベテルのまちのもんの中につくまでに、くまたちは、四十二人もの子どもたちをつかまえて、ころしてしまったのです。そのよる、四十二人の小さな男の子や女の子たちは、いきて おうちにかえることがありませんでした。四十二の小さなばんごはんが、たべられないままでした! 四十二の小さな ねどこは ねむる人がいないままでした! つぎの日、四十二の小さなおそうしきが だされました! わたしは、たくさんの子どもたちが、ぶじに、きずつけられることなく、おうちにかえれた、とねがわざるをえません。けれども、たしかに、その子たちは、じぶんたちのみたことを ぜったいにわすれなかったに ちがいありません。その子たちは、いっしょうのあいだ、その二とうのくまのことをおぼえていたことでしょう。

 さて、みなさん。これは、かなしいものがたりです。でも、とてもやくにたつ、とても かんがえさせられる ものがたりです。せいしょの中にある どのおはなしともおなじように、これは、あなたによいことをするためにかかれたのです。これは、男の子や女の子たちが、けっして わすれるべきではない、たいせつなことをおしえています。ここから なにをおしえられるかを、わたしは いまからおはなししましょう。

 1. まず おしえられたいのは、かみさまは、子どもたちがしていることを、ちゅういしてみておられる、ということです。かみさまは、ベテルの「小さい子どもたち」をちゅういしてみておられ、その ねじくれた たいどのために、その子たちにばつを おあたえになりました。どうか、おぼえていてください。かみさまは、かわってはおられません。かみさまは、いまも おなじです。まいにち、あなたのことを ちゅういしてみておられます。

 ある人々は、子どもたちのおぎょうぎがよくても わるくてもどうでもいいことだ、なぜなら かみさまは、おとなの人のことしか、ちゅういしてみておられないからだ、とかんがえている、とおもいます。これは、とんでもない大まちがいです。かみさまの目は、男の子や女の子にもむけられていて、その子たちのおこなうすべてのことを、じっとみつめています。子どもたちが ただしいことをすれば、かみさまはおよろこびになり、まちがったことをすれば、ふゆかいになられます。みなさん、このことを けっして わすれないでください。

 だれから なんといわれても、小さい子が かみさまに おつかえするのは はやすぎる、とか、おとなになるまでまっていてもだいじょうぶ、などとかんがえてはなりません。それは、まちがいです。キリストきょうをしんずるのに、はやすぎる、などということは、ぜったいにありません。よいことと、わるいことのくべつがつくようになっているとしたら、あなたは、ただしいいきかたを しはじめてよいだけ、大きくなっているのです。わるいことをしたために ばつをうけるだけ大きくなっているとしたら、あなたは、じぶんのこころをかみさまにささげて、キリストにしたがえるだけ、大きくなっているのです。わるいことばを くちにだしたり、うそをついたりしたために、こらしめられてよいだけ大きくなった子どもは、小さすぎて、おいのりをすることや、せいしょをよむことをおしえられない、などということはありません。かみさまを ふゆかいにさせられるくらい大きくなった子どもは、かみさまを およろこばせすることもできるくらい大きくなっているのです。あくまからゆうわくされるだけ大きくなった子どもは、小さすぎて、こころの中に せいれいさまの めぐみをいただけない、などということはありません。

 みなさん。あなたがどんなに小さくて おさなくとも、かみさまはいつも あなたのことを ちゅういしてみておられます。かみさまは、あなたがおうちで なにをしているか、がっこうで なにをしているか、あそんでいるときに なにをしているか、ちゅういしてみておられます。あなたがそれを、おとうさんやおかあさんにいうかどうかを、また、どういうふうにいうかを、ちゅういしてみておられます。あなたが、おかあさんにいわれたことを まもるかどうかを、また、あなたが、おかあさんのいないところで、どんなたいどをとるかを、ちゅういしてみておられます。あなたが、よくばりかどうか、わがままかどうか、ぷんぷんしているかどうか、うそをつくかどうか、ほかの人のものを よこどりするかどうかを、ちゅういしてみておられます。つまり、子どもたちのことで、かみさまがちゅういしてみておられないことは、なに一つないのです。

 せいしょの中には、小さなイシュマエルが、あらので、のどがかわいて、しにそうになったとき、「かみは しょうねんのこえをきかれ」た、とかかれています(そうせいき21しょう17せつ)。いいですか。かみさまは、その子のおいのりを きいてくださったのです。また、サムエルが小さい子どもでしかなかったときに、かみさまはサムエルに かたりかけてくださった、とかかれています(だい一サムエル3しょう10せつ)。ヤロブアムの子どものアビヤがびょうきにかかり、しにそうになっていたとき、かみさまは、そのよげんしゃのくちをとおして、こういわれた、とかかれています。「かれ[アビヤ]は、イスラエルのかみ、しゅ の みこころにかなっていた」(だい一れつおうき14しょう13せつ)。みなさん。こうしたことがらは、あなたを おしえるために かかれたのです。

 さて、わたしは、ほんのちょっと、あなたに じょげんをしてみましょう。まいあさ、おきたときに、じぶんにむかって、こういってみてください。「かみさまは、わたしをみておられます。では、かみさまに みまもられているように、せいかつしましょう」、と。かみさまは、いつもあなたのしていることをながめておられ、あなたのいうことをきいておられます。すべてのことが、かみさまの なんさつもの大きなごほんにかきとめられ、さいごの日には、すべてのことについて せきにんを とらなくてはなりません。せいしょには、こうかかれています。「おさなごでさえ、なにかするとき、そのおこないが じゅんすい[ほんもの]なのかどうか……をあきらかにする」(しんげん20しょう11せつ)。

 2. つぎに おしえられたいのは、よい人々をわらいものにしたり、キリストきょうをばかにしたりするのは、とてもよくないことだ、ということです。ベテルの小さな子どもたちは、エリシャをわらいものにして、「はげあたま」、とよびました。そのために、この子たちは、とてもおそろしい ばつをうけました。

 みなさん。いっしょうのあいだ、ぜったいに、キリストきょうのことをわらったり、キリストきょうをしんじている、どんな人も、わらいものにしたりしないようにしましょう。これは、あなたにできる、一ばん、ねじくれたことの一つです。男の子や女の子たちが、たのしそうで、しあわせそうにしているのをみるのは、よろこばしいことです。わかいころは、たくさん わらったり、たのしくしているころです。けれども、かみさまにかんけいしている、どんなことをも、けっして わらわないように、ちゅういしてください。なにについて わらうにしても、キリストきょうについてわらってはなりません。

 ざんねんなことですが、男の子や女の子たちの中には、このことについて、とても かんがえなしな子たちがいます。そうした子たちは、せいしょをよんだり、おいのりしたり、きちんと にちようびにきょうかいにいったり、きょうかいでいわれていることをまもったりする人々のことを、ばかにするのを かしこいことだ、とかんがえています。ほかの男の子や女の子たちが、おかあさんのいうことをまもろうとしているのを わらって、その子たちを わるい子にしようとします。ある子どもたちなど、こころがとてもねじけているので、ほかの子どもたちが、かみさまを およろこばせしようとするのをみると、その子たちをゆびさして、「せいじんくんしの おとおりだ」、と はやしたてるのです。

 さて、こうしたことはぜんぶ、とてもよくないことで、かみさまを、ひじょうに おこらせることです。てんには、こうした ねじくれた子どもたちのことを みておられる ひとりのおかた[かみさま]がいて、このかたは、その子たちをみると、たいへんに ふゆかいになられます。そうした子どもたちが、なやみごとに ぶつかったり、ひどい目にあったりしても、あたりまえのことです。かみさまにしたがっている人々を みくだす人たちはぜんいん、かみさま ごじしんを みくだしているのです。こうかかれています。「わたしは、わたしを たっとぶものを たっとぶ。わたしをさげすむものは かろんじられる」(だい一サムエル2しょう30せつ)。

 せいしょをよむと、イシュマエルがアブラハムのいえから おいだされたのは、小さなおとうとのイサクをからかったからだ、とかかれています。パウロせんせいは、イシュマエルがイサクを「はくがいした[ものすごく いじめた]」、といっています(そうせいき21しょう9せつ、ガラテヤ4しょう29せつ)。そういうことをしたとき、イシュマエルは、まだ男の子でしたが、おとうとをばかにして、かみさまをおこらせるくらいは大きくなっていたのです。それで、イシュマエルと、そのおかあさんは、とてもつらい目にあうことになったのです。

 みなさん。みなさんの中には、もしかすると、あなたに せいしょをよみなさい、おいのりをとなえなさい、とおしえてくれる、りっぱなおとうさんや、おかあさんがいる子がいるかもしれません。わたしは、あなたが ぜったいに、そういうおとうさんやおかあさんのことを、かげで わらったり、あなたにキリストきょうについておしえてくれる人々のことを、わらいものにしたりしないでほしい、とおもいます。いいですか。もし、そのようなことをするなら、あなたは、とても大きなつみを おかすことになるのです。こうかかれています。「じぶんのちちをあざけり、ははへの じゅうじゅんをさげすむ目は、たにの とりに えぐりとられ、わしの子に くわれる」(しんげん30しょう17せつ)。

 3. さいごに おしえられたいのは、つみは、おしまいには、かくじつに かなしみをつれてくる、ということです。つみは、ベテルの小さな子どもたちの上に、けが と、し を、つれてきました。それは、その子たちのおとうさんや、おかあさんのおうちに、なみだと、なきごえを、つれてきました。もしこうした、ねじくれた男の子や女の子たちが、かみさまを ふゆかいにさせなかったとしたら、この子たちは、くまに ひきさかれずにすんだでしょうに。

 みなさん。いっしょうのあいだ、あなたはいつも、おなじことを目にすることでしょう。じぶんかってにいきたがって、つみに つきすすんでいく人々は、おそかれはやかれ、かならず、なやみごとにおちいります。このなやみごとは、すぐには やってこないかもしれません。なんねんも、なんねんも、あわずにすむことさえ、あるかもしれません。けれども、おそかれはやかれ、それは かならず やってきます。しまいには、おそろしいじごくがまっており、つみのたねをまきつづける人々は、かならず さいごには、かなしみを かりとることになるでしょう。

 アダムとエバは、エデンで たべてはいけない きのみを たべました。そのために、どうなったでしょうか? かなしみです。ふたりは、はずかしいおもいをさせられて、その[エデン]から おいだされてしまいました。

 だいこうずいのまえの人々は、たべたり、のんだり、こうずいについてのノアのちゅうこくをばかにしたりし つづけました。では、そのために、どうなったでしょうか? かなしみです。だいこうずいが やってきて、その人々はぜんいん おぼれしんでしまいました。

 ソドムとゴモラの人々は、ロトがなんどもちゅういしたにもかかわらず、つみをおかしつづけました。では、そのために、どうなったでしょうか? かなしみです。てんから ひが ふってきて、その人々はぜんいん やかれてしまいました。

 エサウは ひとさらの にものをほしがって、じぶんの ちょうなんの とっけん[とくべつのやくそく]をばかにしました。では、そのために、どうなったでしょうか? かなしみです。エサウは、あとになって、それをほしがりましたが、ておくれでした。どんなに ないても、あとのまつりでした。

 イスラエル人たちは、かみさまのめいれいにしたがおうとせず、かみさまからめいじられたときにも、カナンのくにに せめいろうとしませんでした。では、そのために、どうなったでしょうか? かなしみです。かれらは、あらのを四十ねんかんも、さまようことになりました。

 アカンは、エリコがせめとられたとき、ヨシュアのいいつけにしたがおうとせず、おかねをとって、じぶんの てんまくの下にかくしました。では、そのために、どうなったでしょうか? かなしみです。アカンは、じぶんのしたことがばれて、みんなのまえでいしで うちころされてしまいました。

 イスカリオテ・ユダは、十二しとのひとりでしたが、じぶんのこころのありったけをキリストにおささげしようとはせず、おかねをほしがって、じぶんのせんせいをうらぎりました。では、そのために、どうなったでしょうか? かなしみです。そのおかねは、ユダにとって、なんにもなりませんでした。それでユダはぜんぜんしあわせになることがなく、そとにでていって、くびをつってしにました。

 アナニヤとサッピラは、ペテロとしとたちから よくおもわれようとして、大うそをつきましたが、そのとき、じぶんたちのざいさんを てもとにのこしておきました。では、そのためにどうなったでしょうか? かなしみです。ふたりは、どちらとも、一にちのうちに、うたれてしんでしまいました。

 みなさん、こうしたことを、いっしょうのあいだ、おぼえておいてください。つみからくる ほうしゅう[おきゅうりょう]は、し です。つみがむすぶ み は、さいごには、なやみごとです。うそをついたり、ぬすみをしたり、おさけをのんでよっぱらったり、にちようびに きょうかいにいかなかったりする人々は、さいしょは、それで、なんのくるしい目にもあわないかもしれません。けれども、そうした人々は、やがて そのつみのばつをうけなくてはなりません。おそかれはやかれ、このよでか、しんだあとでか、つみのたねをまく人々は、ベテルの小さな子どもたちのように、かならず かなしみをかりとることになります。そむく ものの みちは、きびしいものです。

 さて、いま、わたしは、ここまでおはなししてきたこと ぜんぶのしめくくりとして、おわかれのまえに、三つのちゅうこくをしたいとおもいます。それをよくかんがえて、こころにきざみつけてください。

 1. しあわせになるみちは、かみさまのまえで ほんとうによいみちなのだ、と きもにめいじておきなさい。もしあなたが、じぶんかってないきかたをしようとし、つみをおいもとめようとするなら、かならず あなたは、なやみごとと かなしみに おちいることでしょう。

 2. もしあなたが、ほんとうによい子になりたければ、しゅイエス・キリストに、わたしをよい子にしてください、あなたの みたまさまを わたしのこころにいれてください、とおねがいしなさい。あなたは、じぶんでじぶんをよい子にすることはできません。それは、わたしもわかっています。あなたのこころはよわすぎて、このよ と あくまはつよすぎます。でも、イエス・キリストは、あなたをよい子にすることができ、いつでもよろこんでそうしようとしておられます。イエスさまは、あなたに、あたらしいこころと、つみにうちかつ ちからをあたえることがおできになります。では、イエス・キリストを、あなたの《ひつじかい》とし、《ともだち》としましょう。あなたのたましいを、イエスさまに おまかせしましょう。

 わたしたちをすくうために、じゅうじかの上でしんでくださったイエスさまは、小さな子どもたちのことを、とくに きにかけてくださいます。イエスさまは、こういっておられます。「わたしをあいするものを、わたしはあいする。わたしをねっしんにさがすものは、わたしをみつける」(しんげん8しょう17せつ)。

 「子どもたちを ゆるしてやりなさい。じゃまをしないでわたしのところに こさせなさい。てんのみくには このようなものたちのくになのです」(マタイ19しょう14せつ)。

 3. さいごのこととして、もしあなたが、このよの中にあるわるいことからとおざかっていたければ、まいにち、かみさまがあなたのことをみておられることをおぼえておき、かみさまの目のまえにいるようにして せいかつしなさい。けっして よい人々をわらいものにしたり、キリストきょうをばかにしてはなりません。かみさまを一ばんあいしている人々をあいしなさい。かみさまのともだちである人々を あなたのともだちにえらびなさい。どんなしゅるいのつみも、にくみなさい。つみびとたちが あなたをさそうときには、いうことをきかないようにしなさい。わるいことは 大きらいになりなさい。よいことに しがみつきなさい。

 みなさん。もしあなたがこのようにせいかつするなら、かみさまは あなたをしゅくふくしてくださり、あなたは、おしまいには、じぶんが、「だれからもとりあげられることのない、よいものをえらんだ」*ことにきづくでしょう(ルカ10しょう42せつ)。

 こうしたことがらをおぼえているとしたら、あなたはこの「二とうのくま」のものがたりから、よいことをおしえられたことになるでしょう。

二とうの くま[了]

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