Apostolic Fears         目次 | BACK | NEXT

7. 使徒の心配


「蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています」(IIコリ11:3)

 このページの冒頭に冠した聖句には、非常に高名なキリスト者の経験の一端が含まれている。ことによると、使徒パウロほど、世界に永続的な刻印をきざみつけたキリストのしもべはいないかもしれない。彼が生まれたとき、ローマ帝国の全体は、辺境の一地方を除き、最暗黒の異教主義に埋没していた。彼が死んだとき、この異教主義の大殿堂は根底まで揺るがされ、崩壊寸前になっていた。そして、神がこの驚嘆すべき変化を生じさせるためにお用いになった者らのうち、回心後のタルソのサウロほど多くをなした者はいない。だがしかし、それほど成功をおさめ、用いられつつある最中にあってすら、彼は、「私は心配しています」、と叫んでいるのである。

 この言葉には、私たちが注目すべき憂鬱な響きがある。この言葉によって示されているのは、多くの煩いと不安に満ちた人物である。聖パウロが、単に選ばれた使徒であり、奇蹟を行ない、諸教会を創設し、霊感された書簡をいくつも書いたからといって、悠々自適の生活を送っていたと思っているような人には、まだまだ知らないことが多い。それほど真実からかけ離れたことはない! コリント人への第二の手紙11章の告げるところは、それとは大違いである。部分的には異教徒の哲学者や司祭たちがその生業を脅かされて起こした反対により、----部分的には未信の同国人からの痛烈な敵意により、----部分的にはにせ兄弟や弱い兄弟たちにより、----部分的には自分自身の肉体のとげにより、----この異邦人への大使徒は、自分の《主人》に似て、----「悲しみの人で病を知っていた」(イザ53:3)。

 しかし、聖パウロが負わなくてはならなかったすべての重荷の中でも、とりわけ重く彼にのしかかっていたらしく見えるのは、彼がコリント人への手紙の中で、----「すべての教会への心づかい」(IIコリ11:28)----と言及しているものである。初代の多くの教会の貧弱な知識、----彼らの弱い信仰、----彼らの体験の底の浅さ、----彼らの希望の薄弱さ、----彼らの聖潔における低い基準、----こうした事がらすべてによって彼らは、ことのほかにせ教師たちによって道を踏み迷わされやすく、信仰から引き離されがちであった。歩くこともおぼつかない幼子のように彼らは、途方もない忍耐をもって扱われる必要があった。温室の中の外来植物のように、絶え間ない心配りによって見守られなくてはならなかった。これらの教会のために、その創設者である使徒が、常にはらはらさせられ通しだったことに何の不思議があるだろうか? 彼がコロサイ人に対して、「あなたがたのために私がどんなに苦闘しているか」*、と云っていることに何の不思議があるだろうか?----ガラテヤ人に対して、こう云っていることに何の不思議があるだろうか? 「私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています」。----「ああ愚かなガラテヤ人。……だれがあなたがたを迷わせたのですか」(コロ2:1; ガラ1:6; 3:1)。新約書簡を注意深く読む人であればだれしも、この主題が何度となく持ち上がっていることを見てとらずにはいられないはずである。そして私がこの論考の冒頭に掲げた聖句は、私がいま述べていることの一典型にほかならない。----「蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています」。この聖句には、3つの重要な教訓が含まれており、これらすべてに注意するよう、私は強く読者に求めたいと思う。私が良心において信ずるところ、それらは今の時代に対する教訓である。

 I. 第一に、この聖句が示しているのは、霊的に私たちが陥りがちな、また心配しなくてはならない病である。その霊的病とは、私たちの思いが汚されることである。----「あなたがたの思いが汚されることがあってはと、私は心配しています」*。
 II. 第二に、この聖句が示しているのは、戒めとして私たちが覚えておくべき前例である。
 III. 第三に、この聖句が示しているのは、私たちが特に用心を固めなくてはならない点である。その点とは、思いを汚されて「キリストに対する真実と貞潔を失う」、ということである。

 この聖句は深い鉱脈であり、困難がないわけではない。しかし、大胆に下って行くことにしよう。私たちはそこに多くの貴金属が含まれているのを見いだすであろう。

 I. まず第一に、ここには私たちが陥りがちな、また心配しなくてはならない霊的な病がある。それは、「思いが汚され」ることである。

 私が考えるに、「思いが汚される」こととは、キリスト教信仰において偽りの、非聖書的な教えを受け入れることによって、自分の思いに害を受けることを意味している。そして私の信ずるところ、使徒は、このように云おうとしているのである。「私は、あなたがたの思いが、誤った不健全なキリスト教の見解に染まってしまわないかと心配しています。あなたがたが真理でもない種々の原理を真理であると受け取らないかと心配しています。あなたがたが、聖徒にひとたび伝えられた信仰から離れ去り、キリストの福音にとって実質上破壊的な種々の見解をいだいてしまわないかと心配しています」。

 使徒が云い表わしているこの心配は、痛ましいほど教えに満ちており、一見しただけでは驚きすら生じさせかねない。一体だれに考え及んだだろうか? キリストご自身がお選びになった弟子たちの眼前で、----カルバリの血潮がほとんど乾いてもおらず、奇蹟の時代がまだ過ぎ去ってもいない間に、----このような時代に、キリスト者たちが信仰から離れ去ってしまうような危険があるなど、考えられただろうか? だがしかし、使徒たちの生前から、すでに「不法の秘密」が働いていたことはまぎれもない事実である(IIテサ2:7)。聖ヨハネは云う。「今や多くの反キリストが現われています」(Iヨハ2:18)。そして、教会史におけるいかなる事実も、次のことほどまざまざと証明されているものはない。----すなわち、過去十八世紀の間、偽りの教えは決してキリスト教会における疫病であることをやめはしなかった。預言者の目によって将来を見通しつつあった聖パウロには、「私は心配しています」、と云うだけの理由があった。----「私はあなたがたの道徳が汚されるだけでなく、あなたがたの思いが汚されてはと、心配しています」。

 あからさまな真実を云えば、偽りの教えこそ、あらゆる時代にサタンがキリストの福音の伸展をくいとめるために用いてきた、えり抜きの道具だったのである。《いのちの泉》が開かれるのを妨げることができないことを知った彼は、努めてそこから湧き出す流れに絶え間なく毒を投げ込んできた。それを破壊することはできなくとも彼は、ひっきりなしに、それが役に立たないようにつけ足しをしたり、差し引きをしたり、置き換えをしたりして中和してきた。一言で云えば彼は、「人々の思いを汚して」きたのである。

 (a) 偽りの教えは、使徒たちの死後たちまち原始教会にはびこった。一部の人々が初代教会のきよさについて云いたがることなど関係ない。部分的には三位一体とキリストのご人格に関する奇妙な教えにより、部分的には修道生活と人間の作り出した禁欲主義の導入により、教会の光はたちまちぼやかされ、教会は全く役立たずなものとなった。アウグスティヌスの時代においてさえ、英国国教会の祈祷書の序文が告げるように、「種々の儀式の数があまりにも増大したため、この件に関するキリスト者たちの状態は、ユダヤ人たちの状態よりもひどいものとなった」。ここで人々の思いは汚されていた。

 (b) 偽りの教えは、中世の教会において余すところなく蔓延したため、イエスにある真理は完全に埋没したか、かき消されてしまったと云えるほどであった。宗教改革にさかのぼること三世紀もの間、「救われるためには、何をしなければなりませんか?」、という問いに答えることのできるキリスト者はおそらくほとんどいなかったであろう。教皇たちや枢機卿たち、大修道院長たちや小修道院長たち、大司教や司教たち、司祭や助祭たち、修道僧や尼僧たちは、ごくまれな例外を除き、どっぷりと無知と迷信にひたり込んでいた。彼らは深い眠りに陥っており、宗教改革の激震によっても部分的にしか目覚めることがなかった。ここでもまた、「人々の思いは汚され」ていた。

 (c) 偽りの教えは、宗教改革の時代からこのかた、絶えず生起を繰り返し、改革者たちが始めた働きをだいなしにしようとしてきた。ヨーロッパのある地域では新解釈主義が、別の地域ではソッツィーニ主義が、さらに別の地域では形だけの信仰と信仰無差別論が、かつては良い実りを約束していた花々をしぼませ、プロテスタント主義を単なる不毛な形式にしてしまった。ここでもまた、「人々の思いは汚され」てきた。

 (d) 偽りの教えは、現代の私たちの目の前においてすら、英国国教会の心臓部を食い荒らしつつあり、その存在を危うくさせている。国教徒の一派は宗教改革の諸原理に対する嫌悪をためらうことなく公言し、国教会をローマ化するためなら海と陸とを飛び回っている。----別の一派は、それと等しい大胆さによって霊感を軽んずる発言を行ない、超自然的な宗教という観念そのものを鼻であしらい、種々の奇蹟をがらくたででもあるかのように打ち捨てようと力を尽くしている。----別の一派は、ありとあらゆる見かけや色合いの宗教的意見をいだくのは自由であると宣言し、いかなる教師も、互いにいかに異質で、いかに矛盾していようと、同等に私たちの信頼に値すると告げている。こうした各派、またそのすべてには同じことがあてはまる。彼らは「人々の思いが汚され」ることを、まさに示しているのである。

 こうした事実を前にするとき私たちは、この論考の冒頭に冠した聖句に含まれた使徒の言葉を心に銘記するのがよいであろう。彼と同じく、私たちには恐れを感ずるべき、あまたの原因がある。英国のキリスト者たちにとって、用心を固めるべき必要がこれほど大きかったことは、いまだかつて一度もなかったと思う。忠実な教役者たちが、これほど声をふりしぼって叫ぶ必要が大きかったことは一度もなかった。「ラッパがもし、はっきりしない音を出したら、だれが戦闘の準備をするでしょう」(Iコリ14:8)。

 私は英国国教会の忠実なすべての会員に命ずる。目を見開いて、自分の教会がいかなる危地に陥っているかを見てとり、それが無関心や、病的な平和への愛好によって害をこうむらないように用心するがいい。論争は憎むべきものであるが、時代によってはそれが積極的な義務となることがある。平和はいとすぐれたものだが、黄金のように代価が大きくなりすぎることがある。一致は大いなる祝福だが、それが真理を犠牲に得られるとしたら無価値である。もう一度私は云う。自分の目を見開き、用心するがいい。

 ある国が、通商上の利益に満足しきって、国家の防衛を厄介であるとか、費用がかかりすぎるとかいう理由でないがしろにする場合、その国は、攻撃をしかけることに決めた最初のアラリックや、アッティラや、ティムールや、ナポレオンのえじきとなるであろう。教会が、「富んでいる、豊かになった」と云うような場合、その教会は、その由緒正しさや、秩序や、遺産のゆえに、「乏しいものは何もない」と考えるかもしれない。「平安だ。平安だ」、と叫んで、自分は何のわざわいにも会っていないと云うかもしれない。しかし、もしそれが、その教役者や教会員の間に健全な教理を保持することを怠っているとしたら、その燭台が取り去られても決して驚いてはならない。

 私は、この危機に際して、落胆したり臆病風に吹かれたりする者がいないように衷心から祈るものである。私が云っていることはただ、私たちは敬虔な心配を働かせよう、ということにほかならない。この古い船を見捨てて、それを沈み行くものと見限らなくてはならない必要など私にはこれっぽっちも見当たらない。私たちの箱船の中では物事が悪く見えようとも、外側の物事はみじんもましなものではない。しかし私は、多くの国教徒の目を固く閉ざさせている、無頓着な眠りの霊に対しても抗議するものである。多くの国教徒は、現今の偽りの教えの勃興によって、途方もない危険が私たちに押し寄せていることに盲目であるように見える。一致は健全な教理よりも重要であり、平和は真理よりも大切であるという、高位の人々によってしばしば宣言されてきたよくある考え方に私は抗議するものである。そして私は、英国国教会を真に愛するすべての読者に求めたい。時代の危険を悟り、男らしく精力的に、一致した行動と祈りによって、そうした危険に抵抗するという義務を果たすがいい、と。私たちの主はゆえもなくこう云われたのではない。「剣のない者は着物を売って剣を買いなさい」(ルカ22:36)。聖パウロの言葉を忘れないようにしよう。「目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。男らしく、強くありなさい」(Iコリ16:13)。わが国の気高い改革者たちは、自分自身の血という代価を払って真理をもたらし、それを私たちに伝え渡した。では私たちは、一致と平和というもっともらしい名前のもとで、それを一椀のあつものと引き換えに売り払うような卑しい真似をしないように注意しよう。

 II. 第二に、この聖句が私たちに示しているのは、戒めとして私たちが覚えておくに越したことはない前例である。「蛇が悪巧みによってエバを欺いた」。

 ここで読者に思い起こさせる必要はほとんどないと思うが、この箇所で聖パウロは、創世記3章の堕落物語を、明解に歴史的事実として言及している。創世記は神話や伝説の愉快な寄せ集めにすぎない、などという現代の考え方を、彼は一切支持していない。悪魔などというものは存在していないとか、禁断の木の実を文字通りに食べることなどなかったとか、罪が実際このようにしてこの世に入り込んできたなどということはないとかいうようなことを、パウロは毛ほども示唆していない。逆に彼は、創世記3章の物語を、あることが実際に起こった通りの正確な歴史として物語っている。

 さらにあなたが覚えておくべきなのは、こうした言及が他に例のないものではない、ということである。注目すべき事実であるが、五書における最も尋常ならざる物語と奇蹟の数々は、新約聖書において明確に言及されており、それは常に歴史的事実として語られているのである。カインとアベル、ノアの箱船、ソドムの破滅、エサウがその長子の権を売り渡したこと、エジプトで初子が打ち殺されたこと、紅海の横断、青銅の蛇、マナ、岩から流れ出た水、バラムのろばが口をきいたこと、----こうした事がらはみな、新約聖書の記者たちによって述べられている。伝説としてではなく、真の事実として述べられている。このことを決して忘れないようにしよう。旧約聖書の種々の奇蹟をさんざんに軽蔑し、五書の権威を軽んずることを好む人々は、自分が私たちの主イエス・キリストや使徒たちよりもものをよく知っているのかどうか考えてみる方がよい。私としては、いま私たちの前にあるような聖句を前にしていながら、創世記を神話や伝説の寄せ集めとして語るのは、筋の通らない、不敬なことに聞こえる。聖パウロは、この誘惑と堕落の物語を述べているとき、間違っていたのか、いないのか。もし彼が間違っていたとしたら、彼は頭の弱い、信じ込みやすい人物だったことになり、他の五十もの主題についても間違っていたことがありえる。このようにしていけば、彼の記者としてのすべての権威には終止符が打たれるであろう! 私たちは、このように奇怪な結論を物笑いとして、背を向けるべきである。しかし、私たちが覚えておいてよいのは、多くの不信心が、旧約聖書に対する不遜な軽蔑から発している、ということである。

 結局のところ、使徒がこのエバの堕落の物語において私たちに注目させたい点は、悪魔が彼女を罪へと導いた「悪巧み」である。悪魔は決して彼女に向かって、自分はお前を欺いて害を加えてやりたいのだ、などとあけすけに語りはしなかった。逆に彼は彼女に、禁じられているものが、「まことに食べるのに良く、目に慕わしく、……いかにも好まし」いものであると告げた(創3:6)。彼は、たとえ禁断の木の実を食べても彼女は「決して死にません」、と告げてはばからなかった。彼は彼女の目を、そむきの罪の罪深さと危険に対してくらました。彼は彼女を説き伏せて、神のあからさまな命令から離れることが彼女のためになり、彼女の滅びとはならないことを信じさせた。つまり、彼は「悪巧みによってエバを欺いた」のである。

 さて、聖パウロが私たちに告げているこの「悪巧み」こそ、偽りの教えにおいて私たちがまさに心配しなくてはならないことだ、ということである。私たちは、偽りの教えが私たちの思いに近づいてくるとき、過ちの衣を身にまとっているなどと期待すべきではなく、むしろ真理の装いをしてくるはずだと考えるべきである。悪貨は、良貨に似通ったところがなければ決して流通するまい。狼は、羊の衣をかぶっていなければ、めったに羊の囲いに入り込むことはないであろう。ローマカトリック教や不信心は、もしその真の名を明らかにして世を歩き回っていたとしたら、ほとんど害をなせないであろう。サタンは、そのような軍事行動をとるほど愚鈍な将軍ではない。彼は、「公同性、使徒性、一致、教会の秩序、健全な教会観、自由思想、懐広い理解、思いやりある判断、聖書の自由な解釈」といった高尚な言葉や仰々しい語句を用い、このようにして、不用心な思いの中に橋頭堡を築く。そしてこれこそまさに、聖パウロがこの聖句で言及している「悪巧み」にほかならない。疑うまでもなく彼は、自分の《主人》の厳粛なことばを山上の説教の中で読んでいたであろう。「にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です」(マタ7:15)。

 私はあなたがこの点に格別の注意を払うように願いたい。現代の多くの国教徒たちはあまりにも単純で無邪気なために、偽りの教えが如実に偽りに見えるだろうと本気で思い込んでいて、偽りの教えの最も有害な点が、たいていの場合、その神の真理との酷似にあることを理解しようとしないのである。たとえば、生まれたときから福音的な教えのほか何も聞かずに育てられてきた国教徒の青年が、突然ある日だれかから、半ローマ的な、あるいは半懐疑主義的な意見の持ち主である著名な教師の説教を聴こうと誘われたとする。青年はその教会に行くが、その無邪気さのあまり、自分がこれから聴くことになるのは、最初から最後まで異端的な言説にいろどられた話だろうと期待している。ところが驚いたことに、彼が聴くのは、才気あふれる、雄弁な説教で、そこには多大な真理が含まれており、ほんの微量の隠し味のような間違いが散りばめられているだけなのである。あまりにも多くの場合、彼の単純で、無邪気な、疑うことを知らない思いの中には激越な反発が生ずる。彼は、自分の過去の教師たちが不寛容で、狭量で、愛がないと考え出し、彼らに対する信頼は揺らぎ出し、ことによると二度と回復することがない。あまりにも多くの場合、悲しいかな! ついには彼は完全にゆがめられてしまい、最終的には儀式尊重派か、広教会派の陣営に組み込まれてしまう! だが、結局のところ、なぜこのようなことが生じたのだろうか? まさしく、聖パウロがこの聖句で唱えている教訓を愚かにも失念していたためである。「蛇が悪巧みによってエバを欺いたように」、そのようにサタンは、十九世紀においても、不用心な魂を欺くために真理の装いをまとって近づくのである。

 私はこの論考を読むあらゆる人に切に願う。私の主題のこの部分を覚えておき、用心を固めておくがいい。現在どこかのにせ教師について、こう云われるのを聞くことことほどざらにあることがあるだろうか? ----「あれほど善良で、あれほど献身的で、あれほど親切で、あれほど熱心で、あれほど勉強家で、あれほど謙遜で、あれほど自己否定的で、あれほど愛があり、あれほど真剣で、あれほど熱がこもっていて、あれほど真摯に見える人の話を聞くことに、何の危険も何の害もあるはずがない。それに彼は、ほとんど真の福音を説教している。彼が時として行なうほど立派な説教をすることはだれにもできない! 彼が不健全だなんて私には到底、決して信じられない」、と。----このような話を聞きつけていない者がいるだろうか? 見る目のある人ならだれでも見てとれるように、多くの国教徒たちは、不健全な教師たちが公然たる毒売りのような姿をしていると思い込んでおり、彼らがしばしば「光の御使い」のように現われること、決して自分の考えていることを洗いざらい口にしたり、手の内や思いのたけをさらすほど愚かではないことを悟ることができない。しかし、それが彼らの手口なのである。「蛇が悪巧みによってエバを欺いた」との言葉を思い出すことがこれほど必要だった時はない。

 私は、自分の主題のこの部分の最後に、悲しむべき所見を述べておきたい。すなわち、私たちの生まれ合われた時節は、健全な教理という主題に関する猜疑心が義務であるばかりでなく、美徳となっている、ということである。私たちが心配しなくてはならないのは、公然たるパリサイ人やサドカイ人たちではなく、パリサイ人やサドカイ人たちのパン種である。儀式尊重主義が「賢いもののように見え」ることこそ、多くの人々にとってそれがかくも危険なものとなっている装いである(コロ2:23)。それはきわめて善良で、美しく、熱心で、聖く、敬虔で、信心深く、親切に見えるからこそ、多くの善意の人々を洪水のように押し流してしまうのである。危険を冒したくない人は、重要な持ち場に立っている歩哨のような精神を涵養しなくてはならない。その人は笑い者にされたり、「異端を嗅ぎ分ける鼻の持ち主」だと嘲られたりすることを何とも思ってはならない。今のような時代にあるとき、その人は危険を疑ることを恥じてはならない。そしてもしだれかがその人を、そのようにしていることで物笑いにするとしたら、その人はこう答えるだけで満足するがいい。「蛇は悪巧みによってエバを欺いた」、と。

 III. この聖句が含んでいる第三の、そして最後の教訓を考察しなくてはならい。ここに示されているのは、私たちが特に用心を固めなくてはならない点である。その点は、「キリストに対する真実と貞潔」と呼ばれている。

 さて私たちが前にしている云い回しは、特異なものであり、新約聖書の中で他に例のないものである。ともかく1つのことだけは明々白々である。真実と貞潔という言葉は、単一で混ぜ合わされていない、という意味であって、混ぜ合わされた、二様のものとは対照的なものだ、ということである。そうした観念に沿って、ある人々はこの云い回しが「キリストに対する愛情の一途さ」を意味していると主張している。----心配しなくてはならないのは、私たちが自分の愛情をキリストと他の何かとの間で二分することなのだ、と。これは疑いもなく健全な神学である。だが私は、果たしてそれがこの聖句の真の意味かどうか疑問に思う。----むしろ私は、この云い回しが、純粋で、混じりけがなく、改変されていないキリストの教えを意味している、という意見をとりたい。----あらゆる点において、純粋な、「まさしくイエスにある真理」、----いかなるつけ足しも、差し引きも、置き換えもなされていない真理である。福音のこの純粋で、正真正銘の処方から、何らかの部分を省いたり、何らかの部分を付加したりすることによって離れ去ることこそ、聖パウロがコリント人たちに特に恐れてほしかったことであった。この云い回しは含蓄に富むものであり、この終わりの時代に生きる私たちに教えるために特に書かれていると思える。私たちは、絶えず執拗に用心を固めていなければ、キリストがひとたび聖徒たちに伝えた純粋な福音から離れて、それに混ぜ物をするようなことになりかねない。

 私たちが前にしている云い回しは、この上もなく教えに富むものである。ここに含まれている原則は、言葉に尽くすことのできないほど重要である。もし私たちが自分の魂を愛し、それを健康な状態に保っておきたければ、私たちはキリストの純粋な教えを、その一点一画の詳細に至るまで、固守するように努力しなくてはならない。いったんそれに何かをつけ足したり、何かを差し引いたりしたが最後、あなたは《天来の》薬をだいなしにする危険があり、それを毒にすら変えてしまいかねない。「キリストの教え以外にいかなる教えもなく、それ以上のものも、それ以下のものもなし!」----これをあなたの大原則とするがいい。この原則を堅く握り、決して手放さないようにするがいい。心の板にこれを刻み込み、決して忘れないようにするがいい。

 (1) たとえば、私たちは心に銘記しておくようにしよう。キリストによって切り開かれた純粋な道以外に、いかなる平安への道もない、と。良心の真の安息や、魂の内なる平安は決して、キリストご自身と、キリストの完成されたみわざに対する率直な信仰のほか何物によっても生ずることはないであろう。秘密懺悔や、肉体的な禁欲主義や、四六時中教会の勤行に集うことや、主の晩餐をひっきりなしに受けることによる平安は、迷妄であり、罠である。疲れも重荷も負ったまま、キリストご自身のところにまっすぐ行き、キリストを信じ、キリストとの交わりに信頼することによってこそ、魂は安息を見いだすのである。この点で私たちは、「キリストに対する真実と貞潔」に堅く立ち続けよう。

 (2) 次のこととして私たちは、心に銘記しておくようにしよう。イエス・キリストのほかに、あなたと神との間の仲保者となりうる、いかなる他の祭司もいない、と。主ご自身がそう云っておられ、主のことばは決してすたれることはない。「わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」(ヨハ14:6)。いかなる罪深いアダムの子も、いかなる叙階を受け、いかに高い聖職資格を有していようと、キリストの立場を占めることは決してできず、キリストだけが任命されている務めを果たすことは決してできない。この祭司職はキリストに特有の職務であり、キリストが決して他者に代行させないものである。この点でも私たちは、「キリストに対する真実と貞潔」に堅く立ち続けよう。

 (3) 次のこととして私たちは、心に銘記しておくようにしよう。十字架上におけるキリストの1つの犠牲を除いて、いかなる罪のためのいけにえもない、と。主の晩餐の中には、いけにえに似た何かがあるだの、十字架上におけるキリストの奉献の繰り返しに似た何かがあるだの、聖別されたパンと葡萄酒という形相のもとにおいて、主のからだと血に似た何かが奉納されるだのとあなたに告げる者たちに、一瞬たりとも耳を貸してはならない。キリストがお捧げになった罪のための1つのいけにえは、完全で十分ないけにえであった。それを繰り返そうとするような試みは冒涜以外の何物でもない。「キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです」(ヘブ10:14)。この点でも私たちは、「キリストに対する真実と貞潔」に堅く立ち続けよう。

 (4) 次のこととして私たちは、心に銘記しておくようにしよう。キリストが常に言及しておられたもののほかに、いかなる信仰の基準もなく、いかなる論争の判定者もない、と。----すなわち、書かれた神のことばである。「教会の声、原始教会の所産、初期の教父たちの判断」などといったあいまいな云い回しや、そうした類の大仰な話によって私たちは、いかなる者にも自分の魂を乱されないようにしよう。私たちは、自分の真理の基準を聖書、書かれた神のことばだけとしていよう。「聖書は何と言っていますか」。----「何と書いてありますか」。----「あなたはどう読んでいますか」。----「おしえとあかしに尋ねなければならない」。----「聖書を調べなさい」(ロマ4:3; ルカ10:26; イザ8:20; ヨハ5:39 <新改訳欄外訳>)。この点でも私たちは、「キリストに対する真実と貞潔」に堅く立ち続けよう。

 (5) 次のこととして私たちは、心に銘記しておくようにしよう。教会には、拘束力のある権威を持つものとしては、キリストと使徒たちが認可した、よく知られた単純なもののほかに、いかなる恵みの手段もない、と。私たちは人間が作り出した儀式や形式が、神ご自身のお定めになったものを片隅に押しやるほどに誇大な重要性を帯びさせられるとき、それらを執拗な猜疑心とともに眺めることにしよう。人間の考案したものには、神の定めたものに取って代わろうとする不変の傾向がある。私たちは神のことばが人間の小細工によって無効にされないように用心しよう。この点でも私たちは、「キリストに対する真実と貞潔」に堅く立ち続けよう。

 (6) 次のこととして私たちは、心に銘記しておくようにしよう。キリストが何も云っておられないような権能を礼典に与えるような、いかなる礼典に関する教えも健全なものではない、と。私たちは、バプテスマも主の晩餐も、「事効的効力(ex opere operato)」をもって、----すなわち、その外的な執行によって、それらを受ける者たちの心の状態とは関わりなしに、----恵みを自動的に授けることのできるものだなどとは認めないように用心しよう。私たちは覚えておこう。バプテスマを受けた人々と陪餐者たちに恵みがあるという唯一の証拠は、彼らの生き方の中に示された恵みである、と。御霊の種々の実こそ、私たちが御霊によって生まれた、キリストと1つになった者であるという唯一の証拠である。単に礼典を受けることがそれではない。この点でも私たちは、「キリストに対する真実と貞潔」に堅く立ち続けよう。

 (7) 次のこととして私たちは、心に銘記しておくようにしよう。キリストの純粋な教えと調和できないような、いかなる聖霊に関する教えも安全なものではない、と。聖霊が実際にバプテスマを受けた人々全員に、例外なく、そのバプテスマのゆえをもって住んでおられるとか、こうした人々の内側の恵みは単に「かき立てられ」ることしか必要ではないのだとか主張する人々に耳を貸してはならない。私たちの主の純粋な教えによれば、御霊がお住まいになるのは、主を信ずる弟子たる者たちだけであり、世は聖霊を知りもせず、見もせず、受け入れることもできない(ヨハ14:17)。御霊の内住は、キリストの民の特別な特権であり、御霊がおられるところでは、御霊は目で見られるものである。この点でも私たちは、「キリストに対する真実と貞潔」に堅く立ち続けよう。

 (8) 最後に私たちは、心に銘記しておくようにしよう。キリストとその使徒たちの伝えた釣り合いによって真理が説かれていないようないかなる教えも、完全に健全なものではありえない、と。ある教えの中心が、教会や、聖職者の務めや、礼典を絶えず称揚することにあり、悔い改めや、信仰や、回心や、聖潔といった大真理がそれとくらべると影が薄く、劣ったところに押しやられているような場合、私たちは用心しよう。そうした教えを福音書や、使徒の働きや、書簡と隣り合わせに置いてみるがいい。聖句を数え上げるがいい。計算してみるがいい。新約聖書においては、いかに比較的少ししか、バプテスマや、主の晩餐や、教会や、聖職者の務めについて語られていないことか。それにより、自分で何が真理に合致した釣り合いなのかを判断することである。もう一度云うが、この点でも私たちは、「キリストに対する真実と貞潔」に堅く立ち続けよう。

 ではキリストの純粋な教えと基準、----何もつけ足されておらず、何も差し引かれておらず、何も置き換えられていない教えと基準、----これこそ私たちが目当てとすべき目印である。これこそ、私たちが離れ去ることを恐れるべき点である。私たちは主の教えを改善することができるだろうか? 私たちは主よりも賢いだろうか? 私たちは、真に生死にかかわるほど重要な何かを主が書き記させもせず、人間の伝承というあいまいなものにすりかえられていきかねないものになさったと、考えられるだろうか? 私たちは、主がお定めになった儀式を、より良いものに改めたり造りかえたりできるなどという大口を叩けるだろうか? 主が沈黙しておられる事がらにおいては、私たちは非常に注意深く、非常にゆっくりと、非常に穏健に行動する必要があり、自分と違う考え方を持つ人々にそれを押しつけたりしないように用心しなくてはならないことを、私たちは疑えるだろうか? 何にもまして私たちは、キリストが全く何も語らなかった何かを救いに必要なこととして主張するようなことがないように用心しなくてはならないではないだろうか? 私はこうした問いかけに1つしか答えはないと思う。私たちは、「キリストに対する真実と貞潔」から離れるような見かけをしたものをさえ用心しなくてはならない。

 あからさまな真実を云うと、私たちは、主イエス・キリストを教会の偉大な《かしら》としても、またあらゆる典礼の《主》としても、罪人の《救い主》としてと同様、十分に称揚しきれていない、ということである。思うに私たちはみな、ここで失敗を犯している。私たちは、神の御子がいかに気高く、偉大で、栄光に富んだ《王》であるか、またいかに一途な忠誠をこの方に捧げるべき義務があるかを悟っていない。そしてこのお方は、ご自分の職務の何物をも他の者に代行させたり、ご自分の栄光を他の者にお与えになることはない。ジョン・オーウェンが、「キリストの偉大さ」に関する説教において、下院に語りかけた厳粛な言葉は、記憶されるに値するものである。残念ながら、現代において下院は、このような説教をほとんど耳にしていないのではなかろうか。

 「キリストはである。彼を持たない人々は、カインであり、さすらい人であり、放浪者である。彼は真理である。彼を持たない人々は、古の悪魔と同じく、偽り者である。彼はいのちである。彼を持たない人々は、罪過と罪との中で死んでいる。彼はである。彼を持たない人々は、暗闇の中にいて、自分がどこに行くかを知らない。彼はぶどうの木である。彼のうちにいない人々は、焼かれるしかない枯れ枝である。彼はである。彼の上に建てられていない人々は、大水で押し流されてしまう。彼はアルファでありオメガであり、最初であり最後であり、私たちの救いの創始者であり終止者であり、創設者であり完成者である。彼を持たない人は、良きものの端緒を得ることも、悲惨さの終結を得ることもない。おゝ、ほむべきイエスよ。汝を持たざるを生を送るよりは、生を受くることもなかった方がいかにはるかに良いことか! 汝にありて死ぬのでなければ、一度も生まれなかった方がいかに良いことか! 一千もの地獄も、永遠にイエス・キリストを欠くことにくらべれば、取るに足らないものにほかならない」。この証言は真実である。もし私たちが、こうした文章の精神に対して「アーメン」と云えるならば、私たちの魂にとって良いことであろう。

 さて、この論考の結論にあたり、いくつか別れの言葉を、この論考を手に取ることになる人への助言として語らせてほしい。私がそうした言葉を口にするのは、何か権威のある者としてではなく、自分の兄弟たちに善を施したいと心から願う者としてである。こうした言葉は、英国のキリスト者すべてにとって有益なものとなるとは思うが、特に英国国教会のすべての会員に向けて語りたい。私の差し出す言葉は、自分自身の魂にとって有用な助言であり、そのようなものとして、他の人々にとっても有用であろうと、あえて考えるものである。

 (1) 第一のこととして、もし偽りの教えの中に転げ込みたくないと思うのなら、私たちは、神のことばの徹底的な知識で自分の思いを武装しよう。自分の聖書を、最初から最後まで、毎日勤勉に読んでいよう。聖霊の教えを絶えず祈り求めながら、またその内容に精通するよう努めながら読んでいよう。聖書に関する無知こそ、あらゆる過誤の根幹であり、聖書の薄っぺらな知識こそ現代の悲しい曲解や背教の原因である。私の堅く確信するところ、この鉄道や電信の普及したあわただしい時代、多くのキリスト者たちは聖書を個人的に読むことに十分な時間を費やしていない。私は、二百年前の英国の人々の方が、今の人々よりも自分の聖書を良く知っていたのではなかろうかと、真剣に疑うものである。その結果、彼らは、「教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたり」し、最初に出会う才気走った、しかし誤りを説く教師が彼らの思いに影響を与えようとするとき、やすやすとえじきとなるのである。私は読者たちに切に願う。この助言を覚えておき、自分の行く道に注意するがいい。今も昔も変わらずに、聖書の本文に精通した人こそ唯一健全な神学者であり、大いなる主要な聖句に親しんでいることこそ、私たちの主が誘惑に際して明らかに示したように、過誤に対する最上の防護壁の1つである。御霊の与える剣で武装し、自分の手をその剣になじませておくがいい。聖書知識に至る王道がないことは、私もよく承知している。勤勉さと労苦なしには、決してだれひとり「聖書に通じ」るようになることはできない。チャールズ・シメオンは、彼一流の奇抜さによってこう云っている。「義認は信仰によって得られるが、聖書の知識は行ないによって来る」。しかし私は1つのことだけは確信している。規則正しく毎日神のことばを学ぶ労苦にまさって豊かな報いを受ける労苦はない、と。

 (2) 第二のこととして、もしこの悪しき時代に国教徒としてまっすぐな道を離れずにいたければ、英国国教会の三十九信仰箇条に徹底的に精通するようになろう。私は大胆に云う。この信仰箇条は、英国国教会公認の信仰告白であり、いかなる教職者の教えをもはかるべき真の基準である。「祈祷書の教え」なる言葉は多くの者の口の端に上っており、しばしば、国教徒らしさをはかる基準としては、この信仰箇条よりも上であるとされている。しかし私はあえて主張するが、祈祷書ではなく信仰箇条こそ、教会の教えをはかる教会の基準である。そう云うからといって、だれも私が祈祷書を軽んじているなどと考えないでほしい。この式文に対する愛と、その内容に対する深い尊崇の念において、私は人後に落ちるものではない。全体として見たとき、これは、キリスト教会の会衆が用いるべき礼拝の書としては比類のないものである。しかし、教会の祈祷書は決して、信仰箇条がそうであるように、聖書の教えについての教会の不動の基準となるように作られたものではない。それは、祈祷書の務めとして意図されたものではない。それは、祈祷書が編まれた目的ではなかった。これは礼拝の手引きであって、信仰の告白ではない。私たちは祈祷書を高く評価しよう。だが、信仰箇条だけが満たすことのできる地位にそれを上らせたりしないようにしよう。それこそ、常識も、法令も、卓越した神学者たちの明確な意見も、信仰箇条に割り当てられた地位であると一致して認めているのである。

 私はこの論考を読むあらゆる人々に切に願う。この信仰箇条を調べてほしい。また、少なくとも一年に一度は読み返して、その内容によく通じているように心がけてほしい。あなたの思いに銘記しておくがいい。いかなる人も、教会の信仰告白とは逆のことを説教したり、教えたり、主張している限り、健全な国教徒であると自称する権利はないのだ、と。私の信ずるところ、現代この信仰箇条ははなはだ不当に無視されている。英国国教会に付属する中流階級の学校すべてにおいて、キリスト教信仰を教える正規の科目の中にこの信仰箇条が組み込まれるならばどんなに良いことかと思う。スコットランドにおける有名なウェストミンスター信仰告白のように、三十九信仰箇条は、ローマへ回帰しようという傾向に抗する大きな障壁となるであろう。

 (3) 第三の、そして最後のこととして、私があえて語ろうと思うのはこのことである。私たちは英国の宗教改革史に徹底的に精通するようになろう。この助言を与える理由は、この、英国史上のきわめて重要な一部分が、近年不当にもないがしろにされていると堅く確信しているからである。最近のおびただしい数の国教徒は、わが国で殉教を遂げた改革者たちに、いかに大きな負い目があるか、非常に不適切な観念しかいだいていない。彼らは、私たちの父祖たちが生きていた暗黒と迷信の状態について、また宗教改革がもたらした光と自由について、はっきりした観念を全く有していない。そしてその結果、彼らは現在のローマ化運動に何の大きな害も見てとらず、ローマカトリック教の性質と働きについて、非常に不明確な考えしかいだいていない。いいかげんに、物事の状態が好転してもいい頃である。私は1つのことだけは徹底的に確信している。現代のローマ化運動に関してはびこっている無関心の大部分は、ローマカトリック教の真の性質と、プロテスタント宗教改革との双方についての、著しい無知に端を発しているはずである。

 結局のところ、無知は偽りの教えにとって最良の友のひとりである。より多くの光こそ、この十九世紀においてすら、時代が大いに必要としていることの1つにほかならない。おびただしい数の人々がローマカトリック教によって、あるいは不信心によって正道をそらされるのは、読書と知識の完全な欠乏から出ている。もう一度私は繰り返す。もし人々が聖書と、信仰箇条と、宗教改革歴史との学びに精を出しさえするならば、私は彼らの「思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うこと」を心配することなどほとんどないであろう。ことによると彼らは、神に「立ち返って」はいないかもしれない。だが、いずれにせよ、英国国教会から「誤った道へとそらされる」ことはないであろう。

「さまざまの異なった教え」[了]


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