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5. さまざまの異なった教え


「さまざまの異なった教えによって迷わされてはなりません。食物によってではなく、恵みによって心を強めるのは良いことです。食物に気を取られた者は益を得ませんでした」(ヘブ13:9)

 この論考の冒頭に冠した聖句は、偽りの教えに対する使徒の注意である。これは、聖パウロがヘブル人キリスト者たちに語りかけた警告の一部をなしている。この注意は、千八百年前と全く同じく今も必要とされているものである。思うに、キリスト教の教役者にとって、現代ほど声を大にして、「迷わされてはなりません」、と絶えず叫ぶことが重要だったことは一度もない。

 かの人類の古き敵、悪魔が、魂を滅ぼすのに用いる策略の中でも、偽りの教えを広めることほど油断のならないものはない。「初めから人殺しであり……偽り者で」ある悪魔は、「食い尽くすべきものを捜し求めながら」、地を行き巡ることを決してやめない。----教会の外部で彼は、常に人々を説きつけては、野蛮な習慣や破壊的な迷信を保たせようとしている。偶像神に対する人身供犠、----忌まわしい偽りの神々への毒々しく、胸を悪くし、残酷で、吐き気を催させるような礼拝、----迫害、奴隷制、食人風習、子殺し、破滅的な宗教戦争、----これらはみな、サタンのしわざの一部であり、彼のそそのかしの結実である。海賊と同じく、彼の目当ては、「沈めろ、焼け、破壊しろ」である。----教会の内部で彼は、常に手を休めることなく、異端の種を蒔き、種々の過誤を蔓延させ、信仰からの逸脱を助長させている。《いのちの泉》から水が流れてくるのを妨げられないとしても、八方手を尽くしてそれに毒を入れようとしている。福音の薬を駆逐することはできないとしても、努めてその純度を落とさせ、腐敗させようとしている。彼が、「アポリュオン(破壊者)」と呼ばれるのも不思議ではない。

 教会の《天来の慰め手》たる聖霊は、常に1つの偉大な手段を用いてサタンの種々の策略に対抗している。その手段とは、神のことばである。解き明かされて意味を明らかにされたみことば、説明されて開かれたみことば、頭に明晰に伝えられて心に適用されたみことば、----そのみことばこそ、悪魔に立ち向かうための、また、悪魔を一敗地にまみれさせずにはおかない、選びの武器にほかならない。みことばこそ、誘惑を受けた際に主イエスがふるった剣である。《試みる者》から攻撃されるたびに主は、「と書いてある」、とお答えになった。現代も悪魔に首尾よく抵抗したければ、みことばこそ、主の教役者たちが用いなくてはならない剣である。忠実に、また忌憚なく解き明かされた聖書は、キリストの教会の防護壁にほかならない。

 私はこの教訓を覚えて、この論考の冒頭に関した聖句に注意を引きたいと思う。私たちの生きている時代は、人々が教義や信条を嫌っていると公言し、論争的な神学に対する病的な嫌悪に満ちている時代である。あえてある教えについて、「それは正しい」、と云い、別の教えについて、「それは間違っている」、と云うような人は、狭量であるとか、愛がないと呼ばれ、人々の賞賛を失う覚悟をしなくてなはらない。それにもかかわらず、聖書はあだやおろそかに書かれたのではない。このヘブル人に対する聖パウロの言葉に含まれている、いくつかの重大な教訓を吟味してみよう。それは、当時のヘブル人に対するのと同じくらい私たちにとっても必要な教訓である。

 I. 第一に、ここには概括的な警告が記されている。「さまざまの異なった教えによって迷わされてはなりません」。
 II. 第二に、貴重な規定が記されている。「食物によってではなく、恵みによって心を強めるのは良いことです」。
 III. 最後に、教えに満ちた事実が記されている。「食物に気を取られた者は益を得ませんでした」。

 こうした点の1つ1つについて、私には語りたいことがある。もし私たちが忍耐強くこの真理の畑を耕すならば、その中に価値高い宝が隠されているのを見いだすであろう。

 I. 第一にあげられているのは、概括的な警告である。「さまざまの異なった教えによって迷わされてはなりません」。

 この言葉の意味は、私たちに理解もできないほど難しいものではない。使徒はこう云っているかのようである。「羅針盤も舵もない船のように、偽りの教えという突風に吹き回されてはならない。偽りの教理は、この世が続く限り生ずるであろう。その数は多く、細部においては様々に異なっているが、1つの点だけは常に同じであろう。----すなわち、それらは奇抜で、新奇で、異質で、キリストの福音から逸脱したものであろう。それらはいま存在している。これからも常に、目に見える教会の内側で見いだされるであろう。このことを覚えておき、迷わされないようにするがいい」。これが聖パウロの警告である。

 使徒のこうした警告は、他に例のないものではない。あの山上の説教の真中においてすら、私たちの救い主の愛に満ちた唇から厳粛な注意が発せられている。「にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です」(マタ7:15)。エペソの長老たちに対するパウロの最後の講話においてすら、彼は、礼典に関することなど語る暇もなかったのに、偽りの教えに対しては、時間をさいて友たちに警告していた。「あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう」(使20:30)。コリント人への第二の手紙は何と云っているだろうか? 「しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています」(IIコリ11:3)。ガラテヤ人への手紙は何と云っているだろうか? 「私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています」。----「だれがあなたがたを真理から迷わせたのですか」。----「御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか」。----「どうしてあの無力、無価値の幼稚な教えに逆戻り……するのですか」。----「あなたがたは、各種の日と月と季節と年とを守っています。……私はあなたがたのことを案じています」。----「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい」(ガラ1:6; 3:1 <英欽定訳>、3; 4:9、10、11; 5:1)。エペソ人への手紙は何と云っているだろうか? 「もはや、子どもではなくて、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがないように」*(エペ4:14)。コロサイ人への手紙は何と云っているだろうか? 「あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。そのようなものは、人の言い伝えによるものであり……」(コロ2:8)。テモテへの第一の手紙は何と云っているだろうか? 「御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは……信仰から離れるようになります」(Iテモ4:1)。ペテロの第二の手紙は何と云っているだろうか? 「あなたがたの中にも、にせ教師が現われるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み……ます」(IIペテ2:1)。ヨハネの第一の手紙は何と云っているだろうか? 「霊だからといって、みな信じてはいけません。……にせ預言者がたくさん世に出て来たからです」(Iヨハ4:1)。ユダの手紙は何と云っているだろうか? 「聖徒にひとたび伝えられた信仰のために戦いなさい。というのは、ある人々が、ひそかに忍び込んで来たからです」*(ユダ3、4)。これらの聖句によく注意しよう。こうした事がらは、私たちを教えるために書かれたのである。

 私たちはこうした聖句に何と云うべきだろうか? これらが他の人々にいかなる印象を与えるか私にはわからないが、私にいかなる印象をもたらすかだけはわかっている。こうした聖句を前にするとき、一部の人々がしているように、初代教会は完全さときよさの模範であったなどと云うのはばかげている。使徒たちの生前においてすら、教理と行為の双方において、おびただしい数の過誤が生じていたことはわかる。----また、他の人々がしているように、教職者は決して論争的な主題を扱うべきではなく、決して自分の教会員に向かって、誤った見解を警戒せよと呼びかけるべきではない、などと云うのは、非常識な、筋の通らないことである。そうした具合では、私たちは新約聖書の多大な部分を無視することになるであろう。吠え立てない犬や眠り込んだ羊飼いは、狼や、盗人や、強盗にとって最上の味方に違いない。聖パウロは、あだやおろそかにこう云っているのではない。「これらのことを兄弟たちに覚えさせておくなら、あなたはキリスト・イエスのりっぱな奉仕者になります」(Iテモ4:6 <英欽定訳>)。

 偽りの教えに対するあからさまな警告は、今日の英国にとって特に必要なものである。パリサイ人たちの一派や、サドカイ人たちの一派という、古くからよこしまを生み出してきたこの母たちが、現在ほど活発だったことは一度もない。一方の人々が真理に何かをつけ足し、もう一方の人々が真理から何かを差し引いている間で、----つけ足しにつけ足して真理を埋没させる人々と、差し引きに差し引いて真理を分断する人々との間で、----迷信と不信仰との間で、----ローマカトリック教と新解釈主義との間で、----儀式尊重主義と合理主義との間で、----この上臼と下臼との間で、福音はほとんど圧死させられんばかりである!

 昨今は、聖職者たちの提起する、きわめて重要な主題に関する奇妙な見解が人の耳目をにぎわさないときはない。贖罪や、キリストの神性や、聖書の霊感や、奇蹟の真実性や、未来の刑罰の永遠性について、----教会や、聖職者の務めや、礼典や、告解や、聖処女へのしかるべき栄誉や、死者のための祈りについて、----こうしたすべての事がらについて、この終わりの時代に、英国の一部の教役者たちが教えていることほど奇怪なものはない。筆によると舌によるとを問わず、印刷物によると講壇によるとを問わず、この国には、ひっきりなしに種々の誤った意見の洪水が殺到している。この事実を無視するのは、見て見ぬふりをすることでしかない。たとえ私たちが知らぬ存ぜぬを決め込むとしても、他の人々はそれを見てとっている。この危険は現実のもの、大きなもの、取り違えようもないものである。いまだかつて、「迷わされてはなりません」、と云うことがこれほど必要なときはなかった。

 多くの事がらがあいまって、現在における偽りの教えの襲撃はことのほか危険なものとなっている。過ちを教えている教師たちの一部には、否定しがたい情熱があり、(あまりかんばしくない決まり文句を使えば)彼らの「熱心」によって多くの人は、相手が正しいに違いないと考えてしまう。そこには相当な学識と神学的知識があるように見えるため、多くの人々は、これほど賢く知的な人々は確かに安全な導き手に違いないと思い込む。この終わりの時代には、総じて自由な思想や、自由な探求が好まれる傾向があり、多くの人々は、新奇な物を信ずることによって、自分たちの判断力が自立していることを証明したがっている。今の時代は、自分が愛と寛大な精神の持ち主であると見せかけたいという願いが広く行き渡っているため、多くの人々は、だれかが間違っているかもしれないと云うことを、なかば恥ずかしく思っているように見える。現代の偽りの教師たちは、一面的な真理を大々的に教えており、聖書的な用語や語句を、非聖書的な意味で用いてやまない。一般大衆の思いの中には、より感覚的で、儀式的で、扇情的で、見た目が派手な礼拝に対する病的な渇望があり、内的で、目に見えない、心における行ないにはがまんがならない。至る所に見受けられるのは、才気と愛敬と熱気をもって語る人のことを、それがだれであっても、たちまち信じてしまう愚かさと、サタンがしばしば「光の御使いに変装する」ことを忘れがちな傾向である(IIコリ11:14)。信仰を告白するキリスト者たちの間には、「だまされやすさ」が蔓延している。いかなる異端者も、口を開いてまことしやかな話ができさえすれば、確実に信じてもらうことができ、彼を疑うような者はみな、迫害者だの、心の狭い人だのと呼ばれるに違いない。こうした事がらはみな、今の時代に特有の徴候である。自分は目が見える人間だというなら、それを否定してみるがいい。こうした事がらこそ、現代、偽りの教えの襲撃をことさらに危険なものとしているのである。こうしたことにより、いかなる時代にもまして、声を大にして、「迷わされてはなりません」、と叫ぶことが必要なのである。

 こう尋ねる者がいるだろうか? 偽りの教えに対する最善の防御策は何か、と。----私は一言で答えよう。「聖書である。聖書を規則正しく読み、聖書に基づいて規則正しく祈り、聖書を規則正しく学ぶことである」、と。私たちの《主人》の古の規定に立ち戻らなくてはならない。「聖書を調べなさい」(ヨハ5:39 <新改訳欄外訳>)。もし私たちがサタンの策略に対してふるうべき武器を欲しているなら、「御霊の与える剣である、神のことば」にまさるものはない。しかし、それを首尾良くふるうためには、私たちはそれを習慣的に、勤勉に、内容をよくわきまえつつ、祈り深く読まなくてはならない。この点こそ、多くの人々が失敗している点ではないかと私は恐れるものである。このせわしなく、あわただしい時代に、自分の聖書をしかるべく大いに読んでいる人はほとんどいない。ことによると現代は、いかなる時代にもまして多くの本が読まれているかもしれないが、人に知恵を与えて救いを受けさせることができる唯一の《本》は以前よりも読まれていない。過去五十年の間に、ローマと新解釈主義がこれほどの惨禍を教会にもたらした最大の原因は、この国の全土にわたって、限りなく薄っぺらな聖書知識しかなかったからである。聖書を読んでいる平信徒は、教会の力である。

 「聖書を調べなさい」。注意してみるがいい。いかに主イエス・キリストとその使徒たちが旧約聖書を、新約と同等に権威ある文書として絶えず言及していることか。注意してみるがいい。いかに彼らが旧約聖書の聖句を神の声として、その一言一句が霊感によって与えられたかのように引用していることか。注意してみるがいい。いかに旧約聖書中、最大の奇蹟たることがみな新約において、何の疑念も差し挟まれず、疑いようのない事実として言及されていることか。注意してみるがいい。いかにモーセ五書の主要な出来事のすべてが歴史的な事件として、議論の余地なく実際にあったこととして、絶え間なく挙げられていることか。注意してみるがいい。いかに贖罪と代償と犠牲とが、聖書全体を通じ、冒頭から末尾に至るまで、啓示の本質的な教理として貫かれていることか。注意してみるがいい。いかにキリストの復活が、----このあらゆる奇蹟の中でも最大の奇蹟が----圧倒的多数の証拠によって証明されており、これを信じないと云う者は、いかなる証拠も絶対に信じないと云うに等しいほどであることか。こうした事がらをみな注意してみるがいい。そのときあなたは、合理主義者であることが非常に困難であることに気づくであろう! 不信仰に伴う種々の困難の何と大きなことか。不信者になるには、キリスト者になるよりも、もっと信じ込みやすい人間でなくては務まらない。しかし、合理主義に伴う種々の困難はそれよりもさらに大きい。聖書の自由な取扱い、----現代の本文批評の成果、----懐が広く寛容な神学、----これらはみな耳障りの良い、尊大で、大仰な云い回しで、一部の人々の精神を喜ばせ、遠くから見ると非常に大したもののように思える。しかし、物事の表面を越えて見ることのできる人は、たちまち超合理主義と無神論との間には、いかなる確実な立脚点もないことに気づくであろう。

 「聖書を調べなさい」。注意してみるがいい。いわゆる礼典制や、儀式主義的神学の全体系について、いかに大きな欠如が新約聖書の中に見られることか。注意してみるがいい。バプテスマの効用について、いかにほとんど何も語られていないことか。注意してみるがいい。主の晩餐について、いかにごくまれにしか書簡の中で言及されていないことか。もしできるものなら、新約聖書の教役者たちのことを、犠牲を捧げる祭司たちであるなどと呼んでいる聖句を1つでも見つけてみるがいい。----あるいは、主の晩餐が何かの犠牲であるとか、----教役者への密室の懺悔が勧められたり、実行されたりしている聖句を見つけてみるがいい。----もしできるものなら、犠牲奉献用の祭服が望ましいものとして挙げられているような節を1つでも挙げてみるがいい。----あるいは、聖卓の上の火を灯した蝋燭や、花々の鉢が、----あるいは、行進や、薫香や、旗や、東側への方向転換や、パンと葡萄酒への拝礼が、----あるいは、処女マリヤおよび御使いたちへの祈りが、----これらが是認されているような聖句を見つけてみるがいい。こうした事がらをよく注意してみるがいい。儀式尊重主義者になることは非常に困難であることがわかるであろう! あなたは、儀式主義を支持する権威として挙げられるものが、誤り伝えられた教父たちの言葉の引用か、----修道院的で、神秘主義的で、ローマカトリック的な著述家たちからの長々とした抜粋でしかないことに気づくであろう。だがあなたは、決してそれが聖書の中にはないことに気づくに違いない。平易な聖書を誠実に、また公正に解釈する立場と、極端な儀式尊重主義との間には、渡ることのできない深淵がある。

 私たちは、もし「さまざまの異なった教え」によって迷わされたくなければ、私たちの主イエス・キリストのことばを覚えておかなくてはならない。「聖書を調べなさい」。聖書に関する無知こそ、あらゆる過誤の根である。聖書の知識こそ、現代の種々の異端に対する最良の解毒剤である。

 II. さて話を先に進めて、聖パウロの貴重な規定を吟味したい。「食物によってではなく、恵みによって心を強めるのは良いことです」。

 この規定の中にある2つの言葉は、多少説明を要する。それらを正しく理解しておくことは、使徒の助言をしかるべく活用するために絶対に欠かせない。その言葉の1つは「食物」であり、もう1つは「恵み」である。

 「食物」という言葉の完全な意味を見てとるには、私たちは、多くのユダヤ人キリスト者が、食物に関する儀式律法の種々の分別に、いかに多大な重要性を付与していたかを思い起こさなくてはならない。レビ記によると、ある種の動物や鳥類の肉は食べることが許され、その他の肉は食べることが許されていなかった。その結果、ある種の食物は「きよい」と呼ばれ、その他の食物は「きよくない」と呼ばれた。ある特定の種類の肉を食べることによってユダヤ人は神の前で儀式的には聖ならざる者となり、厳格なユダヤ人ならだれしも、決してそうした食物に触れたり、食べたりしようとはしなかった。----さて、こうした種々の分別は、キリストが天に昇った後でもまだ守られるべきだったろうか、それともそれらは福音によって廃棄されたのだろうか? 異邦人回心者は、食物に関するレビ記律法の儀式に気を配るべき義務を何か負っていただろうか? ユダヤ人キリスト者は、キリストが死んで神殿の幕が真二つに裂ける前に彼らがしていたように、自分たちの食べる食物について厳格でなくてはならなかっただろうか? 食物に関する儀式律法は完全に廃棄されたのだろうか、されなかったのだろうか? 主イエスを信ずる信仰者の良心は、自分の食べ物が自分を汚すのではないかという恐れで悩まされてよいだろうか?

 こういった数々の疑問は、使徒たちの時代に大議論となった主題の1つであった。よくあることだが、そうした疑問は、何が真に重要な問題かという点において、しかるべき釣り合いを全く越えた地位を占めていた。使徒パウロは、諸教会に宛てたその書簡のうち3つの中で、この主題を扱うことが必要だと感じていた。----彼は云う。「私たちを神に近づけるのは食物ではありません」。----「神の国は飲み食いのことではなく」。----「食べ物と飲み物について、……だれにもあなたがたを批評させてはなりません」(Iコリ8:8; ロマ14:17; コロ2:16)。何が人間の堕落した性質を明確に示すといって、些細な物事をたやすく一大事に仕立て上げる、病的で細心な良心にまさるものはない。しまいには、この論争がその広がりと重要さを増していくにつれ、「食物」と云えば、福音の中心にかかわる重要なものとしてつけ加えられた儀式的なもの一切合切----すなわち、その正当な地位から突出させられて、キリスト教信仰の本質であると誇張されたような儀式上の些末事のすべて----を指す表現となったと思われる。私の信ずるところ、冒頭の聖句が含む「食物」という言葉は、こうした意味に受け取られなくてはならない。それによって聖パウロが意味しているのは、種々の儀式的な典礼----完全に人間によって考案された典礼、および福音によって廃棄され、取って代わられたような、種々のモーセの戒めの上に築かれている典礼----であった。これは、使徒たちの時代にはよく理解されていた表現である。

 一方、「恵み」という言葉は、イエス・キリストの福音全体を総まとめに云い表わすものとして用いられているように思える。その栄光の福音の中でも、恵みは主たる特徴である。----原初の計画における恵み、----その執行における恵み、----人間の魂への適用における恵み。恵みは、私たちの救いが流れ出る、いのちの泉である。恵みは、私たちの霊的いのちを保つ手段である。私たちは義と認められているだろうか? それは恵みによってである。----私たちは召されているだろうか? それは恵みによってである。----私たちは赦されているだろうか? それは恵みの豊かさを通してである。----私たちには堅固な希望があるだろうか? それは恵みを通してである。----私たちは信じているだろうか? それは恵みを通してである。----私たちは選ばれているだろうか? それは恵みの選びによってである。----私たちは救われているだろうか? それは恵みによってである。----これ以上何を云うことがあろうか? 救済のみわざ全体の中で恵みがいかなることを行なっているかを余すところなく示そうとするなら、時間がなくなるであろう。聖パウロがローマ人にこう云っているのも不思議ではない。「私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にある」。また、テトスにこう語っているのも不思議ではない。「すべての人を救う神の恵みが現われ」(ロマ3:24; ガラ1:15; エペ1:7; IIテサ2:16; 使18:27; ロマ1:15; エペ2:5; ロマ6:15; テト2:11)。

 そうした2つの大きな原理を聖パウロは、私たちが今考察している規定の中で強烈に対比させているのである。彼は「食物」と「恵み」を互いに対置させている。----儀式尊重主義とキリスト・イエスにある神の無代価の愛とを対置させている。そしてそこで彼が規定している大いなる原理とは、「食物によってではなく」、「恵み」によって、心は強められなくてはならない、ということである。

 さて、「心を強める」ことは、信仰を告白する多くのキリスト者にとって大きな必要の1つである。特にそれが切に求められるのは、不完全な知識しか持たず、良心に半分しか光を受けていない者たちである。そうした人々は、しばしば自分の内側の多くの罪が巣くっていることを感じると同時に、神の救済策やキリストの豊かさについては非常に不明確にしか見てとっていない。彼らの信仰はたよりなく、彼らの希望はかすんでおり、彼らの慰めは小さい。彼らは、もっとはっきり感じとれる慰めを悟りたいと望んでいる。彼らは、自分にはより深みのある感情と、より透徹した知識があるべきであると思う。彼らは安閑としてはいられない。信じていても、喜びや平安に達することができない。どこに彼らは向かうべきだろうか? 何が彼らの良心を安んじてくれるだろうか? そこへ魂の敵がやって来て、心強められるための近道を何くれとなく吹き込むのである。彼は福音の単純な計画に何かつけ足しすればいいではないかとほのめかす。人間の作り出した何らかの工夫や、真理の何らかの誇張や、肉を満足させる何らかの考案や、昔からの通り道に対する何らかの改善をほのめかし、「これを用いさえすれば、あなたは心強められるのですよ」、と囁く。いかさま医師の薬のように、もっともらしい提案がいくつも同時に四方八方から押し寄せてくる。そのそれぞれについて、その支援者と主唱者がいる。このあわれな不安定な魂が、あらゆる方面で聞かされるのは、何か特定の方向に進めば、完全に心を強められるはずだという招きである。

 「私たちのもとに来なさい」、とローマカトリック教は云う。「カトリック教会に加わりなさい。これこそ岩の上に立つ教会、唯一、真の、聖なる教会です。誤ることのない教会です。その胸にいだかれて、あなたの魂をその庇護のもとに横たえなさい。私たちのもとに来れば、あなたは心強められることでしょう」。

 「私たちのもとに来なさい」、と極端な儀式尊重主義者は云う。「あなたに必要なのは、祭司制と礼典に関するより高く、より充実した見解です。あなたは主の晩餐における主の実在と、日々の勤行と、日々のミサによって与えられる魂をなだめる影響と、秘密懺悔と、司祭による赦罪について知らなくてはなりません。来て、教会に関する健全な見解を受け入れなさい。そのときあなたは心強められるでしょう」。

 「私たちのもとに来なさい」、と極度の国教廃止論者は云う。「国立教会の桎梏と足枷を振り捨てなさい。国家とのあらゆる結託の中から出てきなさい。信教の自由を享受しなさい。形式も祈祷書も投げ捨てなさい。私たちのシボレテを唱えなさい。私たちの党派に加わりなさい。私たちと命運をともにしなさい。そのときあなたはすぐに心強められるでしょう」。

 「私たちのもとに来なさい」、とプリマス・ブレズレン派は云う。「信条や教会や体系といったあらゆる束縛を振り払いなさい。私たちはすぐにあなたに、より高く、より深く、より心踊らせ、より光を与える真理の見解を見せてあげましょう。ブレズレン派に加わりなさい。そのときあなたはすぐに心強められるでしょう」。

 「私たちのもとに来なさい」、と合理主義者は云う。「疲弊しきったキリスト教体系などという擦り切れた衣服はわきへやりなさい。あなたの理性を自由に活動させ働かせなさい。聖書をもっと自由なしかたで扱うようにしなさい。もはや古代の旧弊な書物の奴隷になっていてはいけません。あなたの鎖を打ち砕きなさい。そのときあなたは心強められるでしょう」。

 年季を積んだキリスト者であればだれでもよく知っているように、こうした訴えかけは現在、絶え間なく、不安定な精神の人々に向かってなされているではないだろうか? これらが大胆に、また確信をもってなされるとき、一部の人々に痛ましい効果を及ぼすことを、だれが目にしていないであろうか? それらがしばしば不安定な魂を欺いて、彼らを何年もの間悲惨へと至らせることを、だれが目にしていないであろうか?

 「聖書は何と云っているのか?」 これこそ唯一確かな導き手である。聖パウロが何と云っているか聞くがいい。心強められることは、この党派やあの党派に加わることによって得られるものではない。それは、「食物によってではなく、恵みによって」である。他の物事も、ことによると「賢いもののように見え」るかもしれず、「肉の欲望」を一時的に満足させるかもしれない(コロ2:23)。しかしそれらには、実際に癒す力が伴っておらず、それらに信頼する不幸な人は、何のかいもなく、かえって悪くなる一方となる。

 神の恵みのご計画と、その永遠の目的と、キリストの救済のみわざにおける、その人間に対する適用について、より明確な知識を持つこと、----恵みの教理と、キリストにある神の無代価の愛と、キリストの完全にして十分な、罪のための償いと、単純な信仰による義認とについて、より堅く把握すること、----恵みの与え手であり源泉であるキリストと、その職務と、その思いやりと、その御力とについて、より近しく親しむこと、----心のうちにおける恵みの内的な働きを、より徹底して体験すること、----これが、これが、これこそが、心強められるための一大秘訣である。これが平安に至る昔からの通り道である。これが不安な良心を癒す真の万能薬である。それは最初は、単純すぎて、手軽すぎて、安っぽすぎて、当たり前すぎて、さりげなさすぎるように見えるかもしれない。しかし、人間のいかなる知恵によっても、重荷を背負う道が、心の安息に至らせるより良い道であるとは決して示されないであろう。隠れた高慢と自分を義とする思いこそが、この良い古い道があまりにもしばしば用いられない理由ではないかと私は恐れるものである。

 私の信ずるところ、いまだかつて、現代ほど、この古き使徒の規定を掲げることが必要だった時代はなかった。これほど多くの心強められていない、また不安定なキリスト者たちが、知識の不足から、そこかしこをふらつき回り、吹き回されたり押し流されたりしていることはなかった。これほど忠実な教役者たちがラッパを口に当て、いずこにおいてもこう宣言することが重要だったことはなかった。「恵み、恵み、恵みによってこそ、食物によってではなく、心は強められるのだ」、と。

 使徒たちの時代からこのかた、人の作り出した治療法で良心の傷を癒せると公言する霊的ないかさま医師たちがいなかったためしはない。私たち自身の愛する英国国教会においても常に、心ではエジプトに引き返してしまっていた者たちがおり、私たちの礼拝の簡素さに飽きたらず、ローマ教会の儀式的な肉鍋を渇望してきた。無徳の大主教たる故ロードはこの方向に多少とも事を動かした。しかし、彼の所行も、現代の一部の教職者のそれにくらべれば何ほどのこともない。礼典が絶え間なく称揚され、説教がこき下ろされるのを聞くこと、----主の晩餐をより栄誉あるものにするのと口実の下に偶像と化されるのを見ること、----平易な祈祷書による礼拝が、その本質的部分を全く埋没させられるほど多くの最新流行の飾りつけや儀式にのしかかられているのに気づくこと、----これらはみな何とありふれたものであることか! こうした事がらは、かつては暗やみに歩き回る疫病であった。だが今これらは、真昼に荒らす滅びとなっている。これらは私たちの敵たちの喜びであり、教会の真の子らの悲しみであり、英国のキリスト教にとっての損害であり、私たちの時代の悪疫である。そして、これらの原因はどこまでたどれるだろうか? 聖パウロの単純な規定を無視するか、忘れるかすることである。「食物によってではなく、恵みによってこそ、心は強められるべきです」*。

 恵みは、私たち自身の個人的なキリスト教信仰においても、すべてであることに留意しよう。神の恵みの福音について、明確で体系だった見解を有するようにしよう。病の時、試練の日、臨終の床、ヨルダンの密林では、他の何物も役に立たない。信仰によって私たちの心に住んでいてくださるキリスト、私たちが足の裏を唯一おろせる土台たるキリストの無代価の恵み、----これだけしか平安を与えないであろう。ひとたび自我を、形式を、人間の発明を、私たちのキリスト教信仰に欠かせない部分として受け入れるならば、私たちは流砂の上に立つことになる。私たちは、玩具を与えられた子どもたちのように、宗教の「食物」によって、しばらくは面白がり、興奮し、おとなしくなるかもしれない。そうした宗教は「賢いもののように見え」る。しかし、私たちのキリスト教信仰が、「恵み」をすべてとするものでない限り、私たちは決して心強められたようには感じないはずである。

 III. 最後のこととして、聖パウロが記している教えに満ちた事実を吟味してみよう。彼は云う。「食物に気を取られた者は益を得ませんでした」。

 私たちには、使徒がこのように述べることで指しているのが、どこか特定の教会のことなのか、特定の個人のことなのか知るすべはない。もちろん彼が、アンテオケやガラテヤのユダヤ教化主義キリスト者たちのことを念頭に置いていたということはありえる。----あるいは、彼がその牧会書簡でテモテに対して語っているようなエペソ人たちのことか、----あるいは、彼にとってあれほどの内的葛藤の種となったコロサイ人たちのことか、----あるいは、どこの教会にも例外なくいたヘブル人キリスト者たちのことであるとも考えられる。しかしながら、それよりもはるかにありそうなことと思われるのは、彼がいかなる特定の教会をも、いかなる特定の教会の群れをも念頭に置いてはいなかった、ということである。むしろ彼は、いずこにおいてであれ、儀式的なものを持ち上げるあまり、「恵み」の教理を犠牲にするようなすべての人々について、大づかみな、概括的言明を一般論として行なっているのだと思う。そして彼は、こうした人々全員について、一般的なことを宣言しているのである。彼らは、自分たちの愛好する考え方から何の益も受けなかった。彼らは、決して以前にまして内的に幸福になることも、以前にまして外的に聖くなることも、以前にまして世間で役立つ者となることもなかった。彼らのキリスト教信仰は、彼らにとって何よりも無益なものとなった。罪人に対する神の尊い薬に引き替えて人間が作り出した代替物は、----キリストの栄光の福音に対する人間の付加物は、----いかにまことしやかに擁護され、いかにもっともらしい支持を受けたとしても、それらを採用する者たちに真の善を施すことはない。それらは、内側の慰めを全く増し加えない。教会にとっても世にとっても少しも彼らの有益さを高めない。穏やかに、静かに、物柔らかく、しかしはっきりと、断固として、ひるむことなく、この主張はなされている。「物に気を取られた者は益を得ませんでした」、と。

 キリスト教史全体の流れは、この使徒の見解の正しさを余すところなく確証している。その初期の数世紀の隠者や苦行者のことを聞いたことのない者があるだろうか? 中世ローマカトリック教会の修道僧や尼僧や世捨て人のことを聞いたことのない者があるだろうか? ザビエルやイグナチウス・ロヨラのようなローマカトリック教徒たちの燃えるような熱心や、献身的な自己否定について聞いたことのない者があるだろうか? こうしたすべての種別の人々の熱心さ、熱烈さ、自己犠牲は、議論の余地ないことである。しかし、彼らの生涯の、しかり、彼らのうちの最上の人々の生涯の記録を丹念に、とらわれない目で読んでいくとき、だれしも見てとれるのは、彼らの魂には確固たる平安や内なる安息が全くなかった、ということである。彼らの熱狂的な落ちつきのなさそのものが、彼らの良心に安らぎがなかったことを示している。だれしも見てとれるように、彼らは、その激烈な熱心と自己否定にもかかわらず、決して世界に大した善を施しはしなかった。彼らは自分たちの周囲に、賛嘆に満ちた徒党を集めはした。自己否定と真摯さに対する高い評判を残しはした。生前は、自分たちのことを人々に驚嘆させ、死後は、時として自分たちのことを人々に聖人に列させた。しかし彼らは魂の回心のためには何も行なわなかった。そして、その理由は何だったろうか? 彼らは人間の作り出した儀式や典礼に度を越した重要性をつけ加え、神の恵みの福音を、してはならないほどに軽んじた。彼らの原理は、「食物」を過大評価し、「恵み」を過小評価することであった。これにより彼らは、聖パウロの言葉を立証したのである。「食物に気を取られた者は益を得ませんでした」。

 私たち自身の時代の歴史そのものが、聖パウロの主張の正しさを驚くほど証ししている。過去25年の間に、数十人もの教職者たちが英国国教会から脱退し、ローマ教会に加入した。彼らは、いわゆるカトリックの教理と、カトリックの儀式を、いやまさって欲していた。彼らは自分たちの原理原則に従って正直に行動し、ローマへと転向した。彼らの全員が頭の弱く、無教養で、二流の、劣等な人々だったわけではない。彼らのうち何人かは、堂々たる天分を備えた人物であり、その賜物をもってすれば、いかなる宗派であっても高い地位をかちとることができたはずである。それでも彼らは、自分たちのとった歩みによって何を得ただろうか? 「恵み」を捨てて「食物」を得ようとし、プロテスタント主義に引き替えてローマカトリック教を得た彼らは、いかなる益を見いだしただろうか? 彼らは、聖潔のより高い基準に到達しただろうか? いやまさって大きな度合で有益な者となることができただろうか?----彼らのひとりにその答えを出してもらおう。この党派の指導的な人物であるフォークス氏がここ数年にわたり公然と宣言するところ、彼の仲間の「背教者」たちの幾人かの説教は、彼らが英国国教会の教職者であったときほど力強いものではなく、彼のかつて見たことのある最高度に聖い生き方は、ローマの境内の中にはなく、むしろ穏やかな牧師館で慎み深い家庭生活を送る敬虔な英国国教会聖職者たちのうちに見られたという! 故意にか偶然にか、知ってか知らずか、意図してか全く意図せざることかにかかわらず、このフォークス氏の証言にまさって驚くほど使徒の主張の正しさを示すものはない。「食物は益をもたらさない」。それは、その食物について大騒ぎする人たちにとっても同様である。儀式や人間の作り出した典礼を称揚するような信仰体系は、その信奉者たちに何も真の善を施さず、神の恵みの単純で昔ながらの福音とはくらべものにならない。

 さて、ここでほんのしばらくの間、事情を逆から眺めて、「恵み」が何を行なってきたか見てみることにしよう。福音の諸教理が、それに堅くすがりつく人々にとっていかに有益なものであったか聞いてみよう。人間の作り出した儀式という「食物」を何か必要不可欠なものであるかのようにつけ足して、恵みを修正しようとしたり、改善しようとしたりしなかった人々にとって、いかに有益であったかを聞いてみよう。

 「食物によってではなく、恵みによって」こそ、マルチン・ルターは、その世界的な偉業を行なうことになった。彼のすべての成功の鍵は、彼が律法の行ないによらない信仰による義認を常に宣言していたことにあった。これこそ、彼をしてローマの鉄鎖を砕かせ、ヨーロッパに光を導き入れさせることを可能にした真理であった。

 「食物によってではなく、恵みによって」こそ、私たちの英国の殉教者たち、ラティマーや、フーパーは、生前にあれほど大きな影響力をふるい、死後にはあれほどきわだって輝くことになった。彼らはキリストの真の祭司職と、恵みだけによる救いを明確に見てとり、平易に教えた。彼らは、神の恵みに栄誉を与えた。それで神は、彼らに栄誉を着せたのである。

 「食物によってではなく、恵みによって」こそ、ロウメインや、ヴェンや、彼らの同時代人たちは、百年前の英国で、世界をひっくり返すことになった。彼ら自身は、ことさらに抜きんでた学識や知力の持ち主ではなかった。しかし彼らは、真の純粋な恵みの教理を復興させ、再び世に持ち出したのである。

 「食物によってではなく、恵みによって」こそ、シメオンや、ダニエル・ウィルスン主教や、ビカーステスは、今世紀の前半にあれほどに用いられた驚くべき器となった。神の無代価の恵みこそ、彼らが頼りとし、絶えず前面に押し出していた偉大な真理であった。そのようにしていたからこそ神は、彼らに栄誉を着せてくださった。彼らは神の恵みを重んじていた。そして神は彼らを重んじてくださったのである。

 教役者たちの一連の伝記は、驚くべき話を告げている。一体いかなる人々が、世界を揺り動かし、自分の世代にくっきりと自らのしるしを刻み込み、人々の良心を覚醒させ、罪人たちを回心させ、聖徒たちの徳を建て上げてきたのだろうか? 決して禁欲主義や、儀式や、礼典や、勤行や、典礼を主要なこととした人々ではない。むしろそれは、神の無代価の恵みを最も重んじた人々であった! 争いと、論争と、疑いと、困惑との時代に、人々はこのことを忘れてしまう。だが事実は頑強なものである。それを静かに眺めて、人々が何を勝手に云い立てようと動かされないようにしよう。いくら人々が、日ごとの勤行や、頻繁な聖体拝領や、行進や、薫香や、拝礼や、十字を切ることや、告解や、赦罪や、そういったものこそキリスト教の活性化の秘訣だと云い立てていても、動かされないようにしよう。平明な事実を眺めよう。古の歴史の事実は、そして現代における事実は、そして英国のあらゆる地方における事実は、聖パウロの主張を支持している。「食物」によるキリスト教信仰に「気を取られた者は益を得ませんでした」。恵みによるキリスト教信仰こそ、内なる平安と、外なる聖さをもたらし、人々にとって用いられる者とならせるのである。

 この論考を閉じるにあたり、実際的な適用としていくつかのことを語らせてほしい。私たちの生きている時代は、キリスト教信仰がことさらに危機の中にある時代である。私の堅く確信するところ、これから私が差し出そうとしている忠告は、真剣な注意が払われるに値するものである。

 (1) 第一のこととして、私たちは偽りの教えが生じて盛んになることに驚かないようにしよう。それは、古の使徒たちと同じくらい昔からあることである。それは、彼らが死ぬ前から始まっていた。世の終わりが来る前に、山ほど偽りの教えが生ずることを、彼らは予告していた。それは私たちの恵みをためすために、そして誰が真の信仰を有しているかを証明するために、神によって賢明に定められているのである。もし地上に偽りの教えや異端というようなものがなかったとしたら、私は聖書が真理ではないのではないかと考え出すところである。

 (2) 次のこととして、私たちは偽りの教えに抵抗し、流行や悪い模範に迷わされない決意を固めよう。私たちは、自分のまわりにいる人々が、身分の上下、貧富の差にかかわらず、だれしも、洪水に遭った鵞鳥のように、半カトリック主義の奔流の前で押し流されてしまったからといって、ひるまないようにしよう。堅く立って、自分の足場から動かされないようにしよう。

 私たちは偽りの教えに抵抗し、聖徒にひとたび伝えられた信仰のために熱心に戦おう。自分の旗幟を鮮明にすること、新約聖書の真理のために孤軍奮闘することを恥じないようにしよう。「論争」「論争」とさざめく声に心くじかれないようにしよう。盗人は吠えない犬を好み、警鐘を鳴らさない見張り人を好むものである。悪魔は盗人で強盗である。もし私たちが沈黙を守って、偽りの教えに抵抗しなければ、私たちは悪魔を喜ばせ、神を不快がらせることになる。

 (3) 次のこととして、私たちは英国国教会が有する、古来のプロテスタント主義的原則を保持し続け、それを無傷のまま子々孫々に伝えるよう努力しよう。そして、英国国教会が危殆に瀕している折りも折りにこの船を見捨てて、国教会から離脱するよう求めている、あの意気地なしの聖職者たちに耳を貸さないようにしよう。

 英国国教会は戦って守るに値する教会である。この教会は過去の時代に良く奉仕してきたし、もし私たちがこれをカトリック主義や不信仰に染まらないようにしさえすれば、これからもさらに良い奉仕をすることができよう。ひとたびカトリック主義的なミサや秘密懺悔を再び許し、認可するなら、英国国教会は破滅するであろう。では私たちは、英国国教会がプロテスタント教会であり続けるように激しく戦おう。私たちの三十九信仰箇条を毎年丁寧に読み、この信仰箇条から、何が真の教会の原理であるかを学ぶことにしよう。こうした信仰箇条で自分の記憶をよろい、いつでもそれを引用できるようになろう。こうした信仰箇条を公正に解釈した刃と切っ先の前では、超儀式尊重主義者も、超合理主義者もひとたまりもないはずである。

 (4) 最後のこととして、自分の個人的な救いを確実なものとしておくように努めよう。私たちは自分自身が「救われている」ことを知り、感ずることを求めよう。

 論争の時代は、常に霊的な危険な時代である。人々は正統的信仰と回心をたやすく混同しがちであり、自分がローマカトリック教徒に答えるすべを知っていさえすれば天国に行けるに違いないと思い込みがちである。だが、知識を伴わない単なる熱心さも、プロテスタント主義の単なる頭だけの知識も、同じようにだれひとり救いはしない。このことを決して忘れないようにしよう。

 私たちは、キリストの血が自分の良心に注がれるのを感じ、自分が新しく生まれたとの御霊の証しを内側に有するまでは、心安んじないようにしよう。これが実質である。これが真のキリスト教信仰である。これは長続きするであろう。これは決して私たちを裏切らないであろう。心に恵みを所有することこそ、知的に恵みについての知識を所有することとは違い、魂に益をもたらし、魂を救うものなのである。

「さまざまの異なった教え」[了]


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