Pharisees and Sadducees    目次 | BACK | NEXT

4. パリサイ人とサドカイ人


「イエスは彼らに言われた。『パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい』」(マタ16:6)

 主イエスがお語りになったことばは、いずれもキリスト者にとって深い教えに満ちている。それは大牧者の声である。教会の偉大なかしらが、そのすべての肢体にお語りになっているのである。----王の王がその臣下に語っているのである。----家の主人がそのしもべたちに語っているのである。----私たちの救いの指揮官がその兵士たちに語っているのである。何にもまして、それは、こう云われたお方の声なのである。「わたしは、自分から話したのではありません。わたしを遣わした父ご自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました」(ヨハ12:49)。主イエスを信ずるあらゆる信仰者の心は、自分の《主人》の言葉を聞くときに、内側で燃えるべきである。「これは愛する方の声です」*(雅2:8)。

 また、主イエスがお語りになったことばは、いかなる種類のものも最高に価値あるものである。主の教えと戒めのことばは、すべてが金のように尊い。主のたとえ話と預言は、すべてが尊い。主の慰めと慰安のことばは、すべてが尊い。そして、忘れてならないことだが、主の注意と警告のことばもまた、すべてが尊いのである。私たちは、主が、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい」、と云われるときにだけ主に聞き従うのではなく、主が、「注意して気をつけなさい」、と云われるときにも聞き従うべきである。

 私がこれから考察しようとしているのは、主イエスがかつて発された警告の中でも、最も厳粛かつ語気の強いものの1つである。「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい」。この聖句をもとに私は、救われたいと願うすべての人々のために、1つの危険標識を打ち立て、できるものなら、いくつかの魂を難船しないように守ってやりたいと願っている。時代は、そうした標識を声高に要求している。過去25年間の霊的な難船数は、嘆かわしいほどに多い。教会の見張り人は、今こそ平易に語るべきであって、さもなれば永遠に沈黙を守る方がましである。

 I. まず第一に私が読者に注目してほしいのは、この聖句の警告を語りかけられているのはいかなる人々であったか、ということである。

 私たちの主イエス・キリストが語りかけている人々は、決して世俗的で、不敬虔で、聖なるものとされていない人々ではなく、主ご自身の弟子であり、同行者であり、友たる者たちであった。主が語りかけたのは、主を裏切ったイスカリオテ・ユダを除き、神の御目にとって正しい心をした者たちであった。主が語っておられた相手は、十二使徒だったのである。キリストの教会の最初の土台を築き、救いのみことばの最初の教役者となる人々だったのである。だがしかし、彼らに対してすら主は、この聖句の厳粛な注意をお与えになった。「注意して気をつけなさい」、と。

 この事実には、非常に尋常ならざるものがある。私たちであれば、この使徒たちには、この種の警告がほとんど必要ないと考えたかもしれない。彼らはキリストのためにすべてを捨ててきたではないだろうか? 彼らはそうしてきた。----彼らはキリストのために患難辛苦を忍んできたのではないだろうか? 彼らはそうしてきた。----彼らは、ほぼ全世界が不信仰であったときにもイエスを信じ、イエスに従い、イエスを愛してきたのではないだろうか? みなその通りであった。だがしかし、その彼らに対して、この注意が与えられているのである。「注意して気をつけなさい」、と。私たちであれば、ともかくこの弟子たちなら、「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種」を恐れることなどほとんどないだろうと想像したかもしれない。彼らは貧しく無学な者たちであり、そのほとんどは漁師や取税人であった。パリサイ人やサドカイ人に加担したくなるような学問は、何も身につけていなかった。むしろ彼らは、パリサイ人やサドカイ人に引きつけられるよりも、反感を持つ見込みの方が多かった。これはみな完璧にその通りである。しかし、その彼らに対してすら、この厳粛な警告が発せられているのである。「注意して気をつけなさい」、と。

 ここには、主イエス・キリストを真摯に愛すると告白するすべての人にとって有益な勧告がある。これが声を大にして私たちに告げているのは、いかに傑出したキリストのしもべといえども、警告を受ける必要がないなどということはなく、常に警戒を要する、ということである。ここにはっきり示されているように、いかに聖い信仰者といえども、誘惑や過ちに陥りたくなければ、へりくだって自分の神とともに歩み、目を覚まして祈っていなくてはならない。いかに聖い人も倒れることがないとはいえない。----むろん決定的な形で、絶望的な倒れ方をすることはないが、自らに苦痛を招き、教会に恥辱をもたらし、世を勝ち誇らせるほどに倒れることはありえる。いかに強い人も、一時的に圧倒されることがないとはいえない。父なる神によって信仰者として選ばれ、イエス・キリストの血潮と義によって義と認められ、聖霊によって聖なるものとされてはいても、----信仰者は、まだ人間でしかない。彼らはまだ肉体のうちにあり、まだ世の中にある。彼らは常に誘惑の間近にいる。教理においても実践においても、常に誤りに陥りやすい。彼らの心は、確かに新しくされてはいても、非常にたよりない。彼らの理解は、確かに光を受けてはいても、まだ非常にぼんやりとしている。彼らは、敵国に住んでいる者のように生きるべきであり、日ごとに神の武具を身に着けるべきである。悪魔がじっとしていることはない。彼は決してまどろむことも、眠ることもない。私たちは決して、ノアや、アブラハムや、ロトや、モーセや、ダビデや、ペテロの転落のことを忘れないようにしよう。彼らのことを覚えつつ、へりくだって、自分も転落しないように用心していよう。

 こう云っても許されると思うが、キリストの福音の教役者たちほど警告を必要とする者はない。教役者としての職務や叙階を帯びているからといって、それだけで過誤や間違いを免れることはできない。悲しいかな、あまりにも真実なことだが、キリストの教会に忍び込んだ最大級の異端はみな、叙任を受けた人々を通してもたらされてきた。監督派の叙任であれ、長老派の叙任であれ、その他いかなる教派の叙任であれ、過誤や偽りの教理に対する免疫を授けることはない。福音に身近に接していること自体によって、私たちの内側はしばしば、心がかたくなになってしまう。私たちは、聖書を読んでも、みことばを説教しても、公の礼拝の司式をしても、神への奉仕を遂行しても、それを乾いた、かたくなな、形式的な、無感覚な精神で行ないがちである。聖なる事がらに身近に接していること自体によって私たちは、よくよく心を見張っていない限り、脇道にそらされてしまうことが多い。ある古の著者は云う。「魂にとって何が危険といって、聖職者の職務ほど危険なものはない」。キリストの教会の歴史を陰鬱にいろどる多くの証拠が示しているように、いかに傑出した教役者も一時的に逸脱することはある。だれしも聞いたことがあるであろうが、クランマー大主教は、一度、それまで自分が勇敢に擁護してきた意見を撤回し、取り下げたことがあった。確かに、神のあわれみにより、最後には再び引き起こされて、栄光ある告白を証言するようにはなったが、そうしたことがあったのである。また、だれしも聞いたことがあるであろうが、ジューエル主教は、自分が最も徹底して不賛成をしていた文書に署名をし、後になってその署名を痛烈に後悔した。だれしも知るように、彼ら以外にも、生涯のいずれかの時点で過ちに陥り、過誤を犯し、正道をはずれたことのある人々を、数多く挙げることができる。そして、だれしも知る悲痛な事実だが、彼らの多くは決して真理に立ち戻ることがなく、心をかたくなにしたまま死に、自分の過誤を最後までいだき続けた。

 こうした事がらによって私たちはへりくだらされ、用心深くならされなくてはならない。そこから教えられるのは、私たちは自分の心を決して信用せず、転落することから守られるように祈るべきだということである。私たちは、プロテスタント宗教改革の諸教理を堅く保持することが格別に求められている今の時代にあって、プロテスタント主義に対する自分たちの熱心が、自分を高ぶらせ、高慢にすることがないように用心しよう。私たちは決してうぬぼれてこう云うようなことがないようにしよう。「私は決してローマカトリック教や新解釈主義に陥ることはない。こうした見解は決して私の好むところではない」、と。忘れないようにしよう。多くの人々が、しばらくの間はよい出だしを切り、よく走っていたのに、後になると正道をそれてしまったことを。また、用心していよう。自分がプロテスタントであるだけでなく、霊的な人でもあるように、また反キリストの敵であるだけでなく、キリストの真の友でもあるように。祈っていよう。自分が過誤から守られるように。そして決して忘れないようにしよう。十二使徒そのひとですら、教会の大いなるかしらから、この、「注意して気をつけなさい」という言葉を語りかけられた人々であったということを。

 II. 私が第二のこととして説明したいのは、私たちの主が使徒たちに警告したこの危険とはいかなるものであったか、ということである。主は云われる。「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい」、と。

 主が彼らに警告した危険は、偽りの教理であった。主は一言も、迫害の剣や、十戒への公然たる違背や、金銭への愛や、快楽への愛などについては口にしておられない。これらもみな、疑いもなく使徒たちの魂がさらされていた危難であり罠であった。だが、こうした事がらに対して私たちの主は、ここでは何の警告の声もあげておられない。主の警告は、ただ1つの点に限定されていた。「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種」である。----「パン種」という言葉で私たちの主が何を意味しておられたのか、私たちは当て推量するしかないようなことはない。聖霊が、いま私の取り上げている聖句の数節先ではっきりと告げておられるように、パン種とは、パリサイ人やサドカイ人たちの「教え」を意味していた。

 「パリサイ人やサドカイ人たちの教え」について語る際に、私たちが何を意味しているか理解しておくようにしよう。

 (a) パリサイ人の教えとは三語に要約できるであろう。----彼らは、形式主義者で、伝統崇拝者で、自分を義とする者であった。彼らは人間による伝統を重んずるあまり、実質上それを、旧約聖書という霊感された書物よりも重要であるとみなすに至っていた。彼らは、自分たちがモーセの律法の儀式的な要求のすべてを、細心の注意を払って綿密に守っていることを自慢していた。彼らは、アブラハムの子孫であることを重要視し、心の中で、「私たちの先祖はアブラハムだ」、と云っていた。自分たちにはアブラハムという先祖がいるのだから、他の人々とは違って、地獄に堕ちる危険にさらされてはいないと夢想し、アブラハムの子孫であることを天国に入れる一種の資格のようにみなしていた。からだの洗いや儀式的なきよめに非常に大きな価値を付与して、死体や蝿やぶよに触れること自体、自分を汚すことだと信じていた。信仰の外的な部分や、人目にふれる事がらについて大騒ぎしていた。自分の経札の幅を広くしたり、衣のふさを長くしたりしていた。自分たちが死んだ聖徒を大いに敬い、義人の記念碑を飾っていることを誇っていた。改宗者を作るのに非常に熱心だった。権力や階級を手に入れ、人の上に立つことを重んじ、人から先生と呼ばれたるのを好んでいた。こうした事がらや、これと似た他の多くの事がらを、パリサイ人たちはしていたのである。よく教えを受けたキリスト者ならだれでも、こうした事がらを聖マタイの福音書や聖マルコの福音書に見いだすことができるであろう(マタ15および23、マコ7を参照されたい)。

 覚えておかなくてはならないのは、こうしたすべての間、彼らは旧約聖書のいかなる部分をも正式には否定していなかったということである。しかし彼らは旧約聖書の上に、また旧約聖書を越えて、多大な人間による発明を持ち込み、実質上、聖書をわきへ押しやり、それを自分たち自身の伝統で覆い隠してしまっていた。こうした種類の宗教こそ、私たちの主が使徒たちに向かって、「注意して気をつけなさい」、と云っておられるものなのである。

 (b) 一方、サドカイ人の教えも三語に要約できるであろう。----自由思想、懐疑主義、合理主義、である。彼らの信条は、パリサイ人たちのそれにくらべると、ほとんど民間には広まってはいなかった。それゆえ、彼らのことは新約聖書には、あまり記されていない。新約聖書から判断できる限り、彼らは霊感には段階があるという教えを奉じていたらしい。ともかく彼らはモーセの五書に過大な価値を付与して、旧約聖書の他の部分を、完全に無視はしなかったまでも、軽くみなしていた。彼らは、何の復活も、何の御使いも、何の霊も信じておらず、こうした点で自分たちと違ったことを信ずる人々に向かって難題を設けて、困難な質問を投げかけては、相手を笑い者にしていた。彼らがいかなるしかたの議論をしていたかを示しているのが、私たちの主に対して彼らが持ち出した、七人の夫を持っていた女の場合である。彼らは、「復活の際には、その女は七人のうちだれの妻なのでしょうか」、と尋ねた。そしてこのようにして、おそらく彼らは、宗教をばかげたものに引き下げ、その主要な教理の数々を笑うべきものとし、聖書から人々が受け取っていた信仰を全く放棄さようと望んでいた。

 覚えておかなくてはならないのは、こうしたすべての間、サドカイ人たちを正真正銘の不信者であったと云うことはできない、ということである。彼らはそうではなかった。彼らが啓示を完全に否定したと云うことはできない。彼らはそうはしていなかった。彼らはモーセの律法を守っていた。彼らのうちの多くは、使徒の働きに記された時代の祭司たちの中にいた。私たちの主を断罪したカヤパはサドカイ人であった。しかし、彼らの教えの実際的な効果は、いかなる啓示を信ずる信仰をも揺さぶり、人々の思いに疑念の暗雲を投げかけ、不信仰と紙一重のものとしてしまうことにあった。そして、こうした種類のあらゆる教え----自由思想、懐疑主義、合理主義----について、私たちの主は、「注意して気をつけなさい」、と云っておられるのである。

 さて、ここで疑問が起こる。なぜ私たちの主イエス・キリストはこのような警告を発されたのか。疑いもなく主は、四十年もするうちに、パリサイ人やサドカイ人たちの学派が跡形もなく根絶することを知っておられた。初めからすべてのことを知っておられたお方は、四十年もすると、エルサレムが、その壮麗な神殿もろともに破壊されるであろうこと、ユダヤ人たちが地の全面に散らされることを完璧に知っておられた。それでは、なぜ主は、「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種」に関するこの警告を与えておられるのだろうか?

 私の信ずるところ、私たちの主がこの厳粛な警告を発されたのは、主が世に降って設立なさった教会に、永続的な益をもたらすためであった。主は預言的な知識によって語られた。主は、人間の性質が常に陥りやすい種々の病をよく知っておられた。主は、地上にあるご自分の教会にとりつく二大疾患が常にパリサイ人の教えとサドカイ人の教えであるだろうことを予知しておられた。この2つこそ、ご自分が再びお戻りになるときまで、ご自分の真理を永久に砕き潰そうとする上臼と下臼となることをご存じだった。その精神においてパリサイ人である者、その精神においてサドカイ人である者が、信仰を告白するキリスト者たちの間に後を絶たないであろうことをご存じだった。彼らの子孫が決して途絶えることなく、彼らの一族が決して断絶しないこと----たとえパリサイ人やサドカイ人という名前はなくなっても、彼らの原理原則は常に存続すること----をご存じだった。教会が存続する全期間は、ご自分がお戻りになるまでの間、みことばにつけ足したがる者、みことばから差し引きたがる者が常にいるだろうことをご存じだった。----みことばに余計なものを加えることによって、それを窒息させようとする者、その主たる真理を差し引いて、それを出血多量死させようとする者が常にいるだろうことをご存じだった。そしてこれこそ、主がこの厳粛な警告を発しておられる理由なのである。「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい」。

 さて、いま問題としたいのは、私たちの主イエス・キリストにはこの警告をお与えになる十分な根拠があったのではなかろうか、ということである。教会史に少しでも通じているすべての方に私は訴えたい。そうするだけの理由が実際にあったのではなかろうか? 使徒たちの死後たちまち何が起こったか覚えているすべての人に私は訴えたい。私たちは、初代のキリストの教会において、2つの党派が生じたことを読んでいるではないだろうか? 1つは、アリウス派のように、真理よりも欠けたものを主張することで常に過誤に陥りがちな党派、----もう1つは、聖遺物崇拝者や聖徒崇拝者たちのように、まさしくイエスにある真理よりも余計なことを主張することで常に過誤に陥りがちな党派であった。----私たちは、同じことが後の時代にも、一方にローマカトリック教、もう一方にソッツィーニ主義という形で生じているのを見てはいないだろうか?----私たちは、私たちの英国国教会の歴史の中に生じた2つの大勢力---- 一方の臣従宣誓拒否者、もう一方の広教派----について読んではいないだろうか?----こうしたことは昔からあることである。----むろん、このような短い論考では、これ以上こうしたことの詳細に踏み入ることはできないが、これらは、過去の時代の記録に親しんでいるすべての人々にとって、よく知られた事がらである。この2つの大勢力は常に存在していた。----パリサイ人たちの原則を代弁する勢力と、サドカイ人たちの原則を代弁する勢力である。----それゆえ、私たちの主には、こうした2つの大原則について、「注意して気をつけなさい」、と云わなくてはならない十分な根拠があったのである。

 しかし、私はこの主題を、現時点でさらに身近なものとして提示したいと思う。読者の方々には、現代このような警告が特に必要とされていないかどうかを考えてほしい。疑いもなく英国には、感謝すべき多くのことがある。私たちは過去三世紀の間に、学芸や科学において多大な進歩を遂げ、道徳やキリスト教信仰の形や見かけだけはどこでも見られるようになった。しかし、自分の家の玄関の外を、あるいは自宅の炉辺を越えてものを見ることのできるあらゆる人に私は問いたい。私たちは、偽りの教えから来る種々の危険の真っ直中に生きてはいないだろうか、と。

 一方において私たちの間には、知ってか知らずか、ローマカトリック教会への道を開きつつある人々の一派がある。----それは、初代教会の伝統と、教父たちの著作と、教会の声とから自分たちの原則を引き出していると告白する一派、----教会と、聖職者の務めと、礼典とについて大量の発言と著述を行なうあまり、それらがアロンの杖のようにキリスト教における他の一切合切を呑み込んでいるような一派、----キリスト教信仰の外的な形式と儀式に途方もない重要性を付与している一派である。身ぶりや、挙措や、拝礼や、十字架や、聖水廃棄盤や、司祭席や、祭器卓や、内陣障壁や、白長の祭服や、儀式用法衣や、大外衣や、上祭服や、祭壇の掛け布や、香や、聖像や、旗や、連祷を唱えながらの行列や、花の装飾や、その他のこういった多くの事がら、キリスト教の礼拝の中に何らかの位置を占めるものとしては、聖書の中に一言も見いだせないような物事について狂奔している一派である。云うまでもなく私が言及しているのは、儀式派と呼ばれる国教徒の一派にほかならない。この一派の行なっていることを仔細に吟味するとき、彼らについて下せる結論は1つしかない。その教師たちの意図や目的がいかなるものであれ、また彼らの多くがいかに敬虔で、熱心で、自己否定的な人物たちであれ、私の信ずるところ、彼らはパリサイ人たちの衣鉢を継いでいる。

 その一方において私たちの間には、知ってか知らずか、ソッツィーニ主義への道を開きつつある人々の一派がある。----それは、聖書の十全霊感について奇妙な見解を奉ずる一派、----犠牲と、私たちの主なる救い主イエス・キリストの贖罪とについて、さらに奇妙な見解をいだく一派、----刑罰の永遠性と、人に対する神の愛について奇妙な見解をいだく一派、----否定的な主張においては強硬で、肯定的な主張においては非常に軟弱な一派、----疑念をかき立てるに巧みで、疑念を静めることはできない一派、----人の信仰を動揺させ、ゆるがすことは鮮やかにできるが、私たちが足の裏をおろすことのできる何らかの確かな土台を提示することには無力な一派である。そして、この一派の指導者たちが意図しているかいないかにかかわらず、私の信ずるところ、彼らはサドカイ人たちの衣鉢を継いでいる。

 こうした事がらは、厳しすぎるように聞こえる。自分の目を閉ざし、「私には何の危険も見えない」、と云っていれば、厄介なことは何もないし、見えない以上、何か危険があるなどと信ずることもないであろう。自分の耳をふさいで、「私には何も聞こえない」、と云うのはたやすく、何も聞こえない以上、何かについて懸念することもないであろう。しかし私たちは、英国国教会の一部に存在する嘆くべき事態をだれが喜んでいるのかを、よく知っている。私たちはローマカトリックが何と考えているかよく知っている。ソッツィーニ主義者が何と考えているかよく知っている。ローマカトリックは、オックスフォード運動派の勃興を喜んでいる。ソッツィーニ主義者は、贖罪や霊感に関するそうした見解を教える人々が現代に勃興したことを喜んでいる。彼らが、自分たちの働きが行なわれ、自分たちの主義が前進させられているのを見なかったとしたら、今のように喜んではいないであろう。私の信ずるところ、危険は私たちが思うよりもはるかに大きい。多くの所で読まれつつある本は、有害きわまりないものであり、多くの階級、特に中上流の身分の人々の間において主流となっているキリスト教信仰の主題に関する思想は、深刻に不満足なものである。疫病が蔓延している。いのちを愛しているというなら私たちは、自分自身の心を探り、自分自身の信仰を試し、自分が正しい基盤の上に立っていることを確かめなくてはならない。何にもまして私たちは、私たち自身が偽りの教えの毒を吸い込んでは、自分の初めの愛から離れて行かないように用心しなくてはならない。

 私はこうした主題について語る痛ましさを深く感じている。偽りの教えについて歯に衣着せず語ることが非常に不人気なこと、そのように語る者が非常に愛のない者だ、非常に厄介者だ、非常に狭量な者だと思われる覚悟をしなくてはならないことは百も承知である。おびただしい数の人々は、キリスト教信仰における種々の違いを見分けることが決してできない。大多数の人々にとって牧師は牧師であり、説教は説教であり、ある教役者と別の教役者との間に何か違いがあり、ある教理と別の教理の間に何か違いがあるなどということを、彼らは全く理解できない。そうした人々は、どれほど偽りの教えについて警告されても、全然納得しないはずである。私は彼らの不賛成に直面する決意を固め、できる限り雄々しく耐え忍ばなくてはならない。

 しかし私は、正直な思いをした、偏見を持たずに聖書を読んでいる人に願いたい。どうか新約聖書を開いて、そこに何と書いてあるか見てほしい、と。その人は、偽りの教えに対する多くのあからさまな警告を見いだすであろう。「にせ預言者たちに気をつけなさい」。----「あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい」。----「さまざまの異なった教えによって迷わされてはなりません」。----「霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい」(マタ7:15; コロ2:8; ヘブ13:9; Iヨハ4:1)。その人は、霊感された書簡のいくつかでは、その大きな部分が、真の教理の入念な説明と、偽りの教えに対する警告とで占められているのを見いだすであろう。私は問う。果たして聖書を自分の信仰の基準としている教役者が、教理的な過誤に対する警告を与えないで済ますことが可能かどうかを。

 最後に私は、きょうのこの日、英国で起こりつつあることをあらゆる人が目に留めてほしいと思う。私は問う。過去三十年の間に、数千人単位の人々が英国国教会を離れて、ローマカトリック教会に加わったのは真実ではないだろうか? 私は問う。私たちの教派内にとどまっている数千人単位の人々は、その信条においてほとんどローマカトリック教徒と異なることがなく、もし首尾一貫した行動をとるとしたら、ニューマンやマニングと行をともにし、自分のいるべき場所に赴くべきであるというのは真実ではないだろうか?----再度私は問う。オックスフォードにおいてもケンブリッジにおいても、多数の青年たちが、生気を失わせるような懐疑主義の影響によって害を受け、荒廃させられ、キリスト教信仰における明確な原則をことごとく失ってしまったのは真実ではないだろうか? 宗教紙上の冷笑や、「党派」を嫌う声高な宣言の数々や、「深い思考と、広大な見解と、新しい光と、聖書の自由な扱いと、一部の神学学派の枯渇したような弱さ」についての仰々しくも中身のない云い回し、これらが、いま勃興しつつある世代の多くのキリスト教の全体をなしているものである。----だがしかし、こうした悪名高い事実を面前にしていながら人々は叫び立てているのである。「偽りの教えについて沈黙を守れ。偽りの教えなど放っておけ!」、と。私は沈黙を守ることができない。神のことばに対する信仰、人々の魂への愛、自分が叙任を受けた際の誓約、それらが等しく私を強制して、この時代の種々の過誤に反する証言をさせるのである。そして私の信ずるところ、私たちのこの主のことばは、時代のためのいとすぐれた真理である。「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい」。

 III. 私が注意を引きたいと願う第三のことは、私たちの主イエス・キリストがパリサイ人やサドカイ人たちの教えを指すために用いた特別な名前である。

 私たちの主がお用いになった言葉は、考えうる限り常に最も賢明で、最上のものである。主はこう云うこともおできになった。「パリサイ人やサドカイ人たちの教理には、あるいは教えには、あるいは意見には、注意して気をつけなさい」、と。しかし主はそうは仰らなかった。主がお用いになった言葉には特定の性質があった。主は云っておられる。「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい」、と。

 さて私たちはみな、「パン種」という言葉が実際に何を指すかを知っている。それは私たちが普通、酵母と呼ぶものである。---- 一塊りの練り粉からパンを作る際に加える酵母である。この酵母、あるいはパン種は、それが投げ入れられる塊りにくらべれば、ごく小さなものでしかない。私たちの主が知らせようとしておられるのは、まさにそれと同じく、偽りの教えの最初の始まりはキリスト教の全体系にくらべれば小さなものでしかない、ということである。----パン種は静かに、何の騒音も立てずに働く。私たちの主が知らせようとしておられるのは、まさにそれと同じく、偽りの教えは、それがひとたび植えつけられた心の中でひそかに働く、ということである。----パン種は、それが混入された塊り全体の性質を知らぬまに変えていく。私たちの主が知らせようとしておられるのは、まさにそれと同じく、パリサイ人やサドカイ人たちの教えは、ひとたび教会の中に、あるいは人の心の中に入ることを許されると、あらゆるものをひっくり返してしまう、ということである。----こうした点に気をつけていよう。これらは私たちが現代目にしている多くの事がらに光を投じている。この「パン種」という言葉の中に含まれている知恵から教訓を受けることは途方もなく重要なことである。

 偽りの教えは、人々と真っ正面から向き合い、自分は偽りの教えだなどと宣言しはしない。それは自分の行く手にラッパを吹き鳴らし、まさしくイエスにある真理から公然と私たちをそらそうと努力したりはしない。人々の前に大手を振って姿を現わし、俺様に従えと命じたりはしない。それはひそかに、静かに、知らず知らずのうちに、まことしやかに、そして人の警戒心を解き、その警戒をゆるめさせるようなしかたで私たちに近づく。羊の皮をかぶった狼や、光の御使いに変装したサタンこそ、常に変わらず、キリストの教会にとって最も危険な敵であった。

 私の信ずるところ、パリサイ人たちの最も強力な擁護者は、あなたに公然と、また包み隠さず、今の教会を去ってローマカトリック教会へ加われと命ずる人ではない。それは、あなたと教理においてはあらゆる点で同意していると云うような人である。その人は、あなたがいだいているような福音主義的な見解から何物も取り除こうとはしない。----あなたにいかなる変化もさせようとはしない。----その人があなたに求めるのは、あなたのキリスト教を完全なものとするために、あなたの信仰にほんの少しつけ足しをすることだけである。その人は云う。「信じてください。私たちはあなたに何も捨てさせようとはしていません。ただあなたに、教会や礼典について、もう少し明確な見解をとってほしいだけなのです。私たちはあなたに、あなたの現在の意見に、聖職者の職務についてほんの少し、監督の権威についてほんの少し、祈祷書についてほんの少し、秩序と規律の必要についてほんの少し、つけ足してほしいのです。----私たちはただ、あなたのキリスト教信仰体系に、こうした事がらをもうほんの少しつけ足してほしいだけなのです。そうすればあなたは完全に正しくなります」、と。しかし、人々があなたに向かってこのようなしかたで語るときこそ、私たちの主が云われたことを思い出し、「注意して気をつけ」るべきときである。これこそ、私たちが警戒しているべきパリサイ人のパン種である。

 なぜ私はこのようなことを云うのだろうか? 私がこうしたことを云うのは、パリサイ人の教えに対しては、その原理の最初の段階で抵抗しない限り、

いかなる安全もありえないからである。「教会についてほんの少し」から始まって、あなたはいつの日か教会をキリストの代わりにすることになるかもしれない。----「聖職者の職務についてほんの少し」から始まって、あなたはいつの日か教役者を「神と人との間の仲介者」だとみなすことになるかもしれない。----「礼典についてほんの少し」から始まって、あなたはいつの日か、律法の行ないによらない信仰による義認という教理を完全に打ち捨てることになるかもしれない。----「祈祷書への畏敬についてほんの少し」から始まって、あなたはいつの日か、神ご自身の聖いみことばの上にそれを置くことになるかもしれない。----「主教への栄誉についてほんの少し」から始まって、あなたは最後には、監督派教会に属していないいかなる者の救いも拒否するようになるかもしれない。----私は単によくある話をしているにすぎない。私は単に、ここ数年の間に英国国教会の数千人もの会員たちが辿っていった道に注目しているにすぎない。彼らは宗教改革者たちのあら探しをすることから始めて、トリエント公会議の教令をことごとく呑み込むことで終わった。彼らはロード大主教と臣従宣誓拒否者たちをほめたたえることから始めて、彼らをはるかに越えて、正式にローマカトリック教会に加入することで終わった。私の信ずるところ、人々が私たちの由緒ある平易な福音主義的見解に「ほんの少しつけ足しを」求めるとき、私たちは警戒すべきである。私たちの主の注意を思い起こすべきである。「パリサイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい」。

 私が考えるに、サドカイ人たちの最も危険な擁護者は、あなたに向かって真理の何らかの部分を捨てて、自由思想家になれとか、懐疑論者になれとか公然と告げる人ではない。それは、私たちがキリスト教信仰についてとるべき立場について、穏やかに疑念をほのめかす人----果たして私たちはそれほどきっぱりと「これは真理だ、あれは偽りだ」などと云ってよいものか、といった疑念、----果たして私たちは宗教上の意見において自分と異なる人々を誤っていると考えてよいものか、彼らの方が結局私たちと同じくらい正しいかもしれないのに、といった疑念をほのめかす人である。----それは、私たちに、いかなる人の見解も非難すべきではない、さもないと私たちは愛に欠けるという面で間違いを犯すことになるからだ、などと告げる人である。----それは、常に、神が愛の神であることについて漠然としたしかたで語り始め、私たちはいかなる人も、その有している教理にかかわらず救われれるのだと信ずべきではなかろうか、と暗示する人である。----それは、常に私たちに向かって、強力な精神と透徹した知性を持つ人々のことを(たとえ彼らが理神論者で懐疑論者であっても)、私たちと同じように考えないからといって軽くみなさないように注意すべきだ、結局のところ、「強力な精神とはみな、多かれ少なかれ、神によって教えられているのだ」(!)、と絶えず私たちに思い出させるような人である。----それは、霊感の困難について始終くどくどと述べ立て、もしかするとすべての人が最後には救われることになるのではないか、また、もしかするとすべての人が神の御目にとって正しくなるのではないかというと疑問を持ち出してばかりいる人である。----そしてそれは、こうした類の話の最後に、彼が好んで「古めかしい見解」とか「狭量な神学」とか「頑迷固陋」とか、現代における「寛容さと愛の欠如」と呼ぶものを、片頬で穏やかに冷笑する人である。しかし、人々が私たちに向かってこのようなしかたで語り始めるとき、そのときこそ私たちは警戒すべきである。そのときこそ、私たちの主のことばを思い起こし、「パン種には注意して気をつけ」るべきときである。

 もう一度云う。なぜ私はこうしたことを云うのだろうか? 私がこうしたことを云うのは、パリサイ主義に対するのと同様、サドカイ主義に対しても、その原理が芽のうちに抵抗するのでない限り、何の安全もありえないからである。「愛」についての少々の漠然とした話から始まって、あなたは万人救済説に至り、善人のみならず悪人も入り混じった大群衆で天国を満たし、地獄の実在を否定することに終わるかもしれない。----人間のうちにある知性と内なる光に関する少々の仰々しい云い回しに始まって、あなたは聖霊の働きを否定し、ホメーロスやシェイクスピアも聖パウロと同じくらい真実に霊感されていたのだなどと主張することに終わるかもしれない。----「あらゆる宗教には多かれ少なかれ真理が含まれているのだ」といった、おぼろで茫漠とした観念から始まって、あなたは海外伝道の必要を完全に否定し、最善の策はだれをも放っておくことだと主張することに終わるかもしれない。----「福音主義的なキリスト教信仰」を流行遅れの、狭量で、排他的なものだとして嫌うことに始まって、あなたはキリスト教のあらゆる主要教理----贖罪、恵みの必要、キリストの神性といった教理----を拒否することに終わるかもしれない。もう一度云うが、私はよくあることを語っているにすぎない。過去数年の間に、多数の人々が辿っていった道を大雑把に書き記しているにすぎない。彼らもかつては、ニュートンや、スコットや、セシルや、ロウメインらの神学書で満足していた。だが今や彼らは、自分たちが《広い考え方》をする神学者たちによって表明されている種々の原理により、よりすぐれた道(!)を見いだしたのだと夢想している。私の信ずるところ、人の魂にとって唯一の安全は、この厳粛なことばに含まれている教訓を覚えておくことにしかない。「サドカイ人たちのパン種には注意しなさい」。

 私たちは、偽りの教えの潜伏性に用心しよう。エバとアダムが食べた木の実のように、それは最初は、目に慕わしく、食べるのに良く、いかにも好ましく見える。その上に「毒」とは書かれていない。それで人々は何も恐れない。贋金と同じく、それには「ニセモノ」などとは刻印されていない。それは見かけが真理に似ているというだけで、世間に認められているのである。

 私たちは、偽りの教えの非常に小さな発端に用心しよう。いかなる異端も、最初は真理からの小さな逸脱によって始まったのである。ほんの小さな過誤の種が一粒あれば、大木を生じさせることができる。小さな石も集まれば巨大な建築物となる。小さな肋材の集まりでからできていたノアの箱舟が、ノアと彼の家族を洪水に没した世界の上で生き長らえさせたのである。パン種は小さいが、それが練り粉の塊りをふくらませるのである。錨鎖の輪に亀裂が1つ入っただけで、巨大な船舶が難破し、全乗組員を溺死させるのである。医者が処方箋に何か1つ書き落とすか、つけ足すかするだけで、薬の全体がだいなしになり、毒になってしまうのである。私たちは、ちょっとした不正や、ちょっとした詐欺や、ちょっとした嘘も黙って見過ごしにはしない。それと同じように、私たちは決して、「あんなに小さい」のだ、何の害もないだろう、などと考えることによって、小さな偽りの教えをもぐり込ませ、みすみす私たちを破滅させないようにしよう。ガラテヤ人たちは、「各種の日と月と季節と年とを守って」いたとき、ことさらに危険なことは何もしていないように見えた。だが聖パウロは云うのである。「私はあなたがたのことを案じています」、と(ガラ4:10、11)。

 最後に、私たちは、いずれにせよ自分には危険はない、などと考えないように用心しよう。「われわれの見解は健全だ。われわれの足は堅く立っている。他の人々は変節するかもしれないが、われわれは大丈夫だ!」 おびただしい数の人々がこれと同じように考え、不幸な末路を迎えてきたのである。その自身過剰によって彼らは、些細な誘惑をもて遊び、偽りの教えの小さな形をもて遊んだ。そして、今の彼らは永遠に失われているとしか思えない。彼らは、偽りを信ずるように、惑わす力に引き渡されているように見える。彼らの一部は、祈祷書をローマカトリックの聖務日課書に引き換え、処女マリヤに向かって祈りを捧げ、聖像に拝礼している。彼らの他の者らは、次から次へと教理を放り出し、ありとあらゆる種類のキリスト教信仰を自らはぎとり、十中八九は理神論の切れ端しか残らないであろう。異様に胸をつかれる幻が、『天路歴程』の中にある。そこでは、誤りが丘という丘を「一番端の所が非常に嶮阻になっている」と叙述し、「基督者と有望者とが見下ろすと、谷底には、頂上から落ちて粉みじんになった数名の者が見えた」、と書かれている*1。――私たちは決して、決して、「パン種」を警戒せよとの注意を忘れないようにしよう。そしてもし自分が立っていると思うなら、「倒れないように気をつけ」よう。

 IV. 私が示唆したいと願う第四の、そして最後のことは、この現代における危険----パリサイ人のパン種とサドカイ人のパン種----に対する、いくつかの防護手段と解毒薬である。

 私の感ずるところ、私たちはみな、自分の心のうちに聖霊の臨在をいやまさって必要としている。私たちを導き、教え、信仰の健全さを保たせてくれる聖霊を必要としている。私たちはみな、ぐらつくことなく、背教から守られるように、より目を覚まし、より祈っている必要がある。しかしそれでも、今日のような時代にあっては、私たちが特に心に留めておかざるをえない、特定の大いなる真理がいくつかある。何らかの伝染病が国中に蔓延するときには、常日頃から価値のある薬剤が、ことさらに価値あるものとなることがある。ある特定のマラリアが猖獗している地域では、いかなる場所でも重宝される治療薬が、結果として、常にもまして貴重なものとなることがある。そのように、私の信ずるところ、キリストの教会には時として、いくつかの主要な大真理をいやまして堅く握らなくてはならない時期がある。それらを常にまして堅固に把握し、それらを私たちの心に向かって強調し、それらを手放してはならない時期がある。そうした種々の教理を私は、パリサイ人やサドカイ人たちのパン種に対する解毒剤として、順を追って提示してみたい。サウルとヨナタンが射手たちによって殺されたとき、ダビデはイスラエル人たちに弓の使い方を習うよう命じたのである。

 (a) 第一のこととして、もし私たちが信仰の健全さを保ちたければ、私たちは人間性の全的堕落に関する私たちの教理に留意しなくてはならない。人間性の腐敗は決して軽んじてよいものではない。それは決して、部分的な、上っ面だけの病ではなく、人間の意志と、知性と、感情と、良心との全面に広がる根深い腐敗である。神の御目における私たちは、ただのあわれで不憫な罪人ではない。咎ある罪人なのである。非難に値する罪人なのである。神の御怒りと、神による断罪に正当に値する者らなのである。私の信ずるところ、ほぼいかなる過誤や偽りの教えも、その大本を辿れば、人間性の腐敗に関する不健全な見解に行き着くものである。ある病についての見方を誤れば、必ずその治療法についても見方を誤ってしまうであろう。人間性の腐敗についてり見解が誤っていれば、その腐敗の大いなる解毒剤と治し方についての見解も誤っているに違いない。

 (b) もう1つのこととして、私たちは、聖霊の霊感と権威に関する私たちの教理に留意しなくてはならない。私たちは、いかなる反対者たちの面前でも大胆に主張しよう。聖書はその全体が聖霊の霊感によつて与えられたものであり、-----いかなる箇所もそれ以外の箇所に劣らず、すべてが完全に霊感されており、-------神のことばと、この世にある他の書物との間には、途方もない深淵が広がっているのだ、と。----私たちは、十全霊感という教理の前に立ちはだかる種々の困難を恐れる必要はない。そこには、私たちの理解をはるかに越えたものが多々ある。それは奇蹟であって、いかなる奇蹟も必然的に神秘的なものである。しかし、もし私たちが、何事も完全に説明がつかない限り信じない、というような態度をとるとしたら、私たちはごく僅かなことしか信じられまい。----私たちは、本文批評が聖書に加えているいかなる攻撃をも恐れる必要はない。使徒たちの時代から、主のことばは絶え間なく「ためされ」てきたが、そのたびに、無傷のまま、一点の汚れもない純金のように出てくるのが常だった。----私たちは、科学による種々の発見を恐れる必要はない。天文学者たちは望遠鏡で天をくまなく見渡し、地質学者は地殻まで掘り進むかもしれないが、聖書の権威は小揺るぎもしない。「神の御声と、神の御手のわざは、決して互いに矛盾することはないであろう」。----私たちは、旅行家たちの種々の調査を恐れる必要はない。彼らは決して神の聖書と矛盾するようなものを見つけることはないであろう。私の信ずるところ、もしもレアード[英国の考古学者]が全世界に出て行って、埋もれていたニネベを百も発掘したとしても、そこに見いだされるただ1つの碑文といえども、神のことばにあるただ1つの事実とも矛盾しないであろう。

 さらに私たちは、神のことばは信仰と行為の唯一の基準であると大胆に主張しなくてはならない。----聖書に記されていないことはいかなることであれ、いかなる人にとっても、救われるために必要なものとして要求してはならない、と、----また、いかにまことしやかに新しい教えが擁護されようとも、もしそれが神のことばの中にないものであるなら、それらに私たちの注意を向ける価値はありえない、と。あることをだれが云っているかなどということには、----それが主教であれ、大執事であれ、聖堂参事会長であれ、長老であれ、----何の重みもない。あることがいかに語られているかなどということは、----それがいかに理路整然と、雄弁に、魅惑的に、力強く、あなたを笑い飛ばすように語られたとしても、----何の足しにもならない。私たちは、聖書によって証明されない限り、何をも信ずるべきではない。

 最後に、しかしこれも重要なこととして、私たちは聖書を、それが霊感によって与えられたと信ずるかのように用いなくてはならない。私たちはそれを畏敬をもって用い、さながら家を留守にしている父親からの手紙を読むときのように心からの愛情をもって読まなくてはならない。私たちは、神の御霊によって霊感された書物に、何の神秘的な部分もないと思ってはならない。むしろ私たちは、自然界にある多くの事がらが私たちには理解できないものであること、そして、自然の書と全く同じことが、常に啓示の書にも云えるということを覚えていなくてはならない。私たちは、ベーコン卿がはるか昔に勧めているような敬虔な念をもって神のことばに近づくべきである。自然の書について語る中で、彼はこう云う。「忘れてならないのは、人間はこの書の教師ではなく、この書の解釈者だということである」。そして私たちは、自然の書を扱うのと全く同じように、神の書をも扱わなくてはならない。私たちは、教えてやろうという思いによってではなく、学ばせていただこうという思いによってそれに近づかなくてはならない。----その教師のようにしてではなく、それを理解することを希求する、謙遜な生徒のように近づかなくてはならない。

 (c) 別のこととして私たちは、私たちの主なる救い主イエス・キリストの贖罪と祭司職に関する私たちの教理に留意していなくてはならない。私たちは、私たちの主の十字架上の死はただの死ではなかったと大胆に主張しなくてはならない。それは単に、クランマーや、リドリや、ラティマーのように、ただの殉教者として死んだ人物の死ではなかった。単なる、偉大な自己犠牲と自己否定との模範を私たちに残して死んだ人物の死ではなかった。キリストの死は、キリストご自身のからだと血とを、人間の罪とそむきの償いとして神に捧げるものであった。それは、いけにえであり、なだめであった。モーセ律法のあらゆる犠牲によって象徴されていたいけにえ、全人類の上に何にもまさる影響を及ぼすいけにえであった。その血を流すことなしには、いかなる罪の赦しもありえなかった。----決してありえなかった。

 さらに、私たちは、この十字架にかかった救い主が、常に神の右の座についておられ、ご自分によって神に近づくすべての者のためにとりなしをしておられると大胆に主張しなくてはならない。この方が、自分に望みをかける者たちの代理として、そこで訴えをしておられること、また、ご自分の祭司としての職務、仲保者としての職務を、地上にいるいかなる人間にも、いかなる人間集団にも委任してはいないことを大胆に主張しなくてはならない。私たちにはこの方以外に何者も必要としていない。私たちには、ただひとりの仲保者、キリスト・イエス以外に、何の処女マリヤも、何の御使いも、何の聖人も、何の司祭も、何の叙任された者もされていない者も、私たちと神との間に立つ者として必要としていない。

 さらに私たちは、良心の平安は司祭に懺悔したり、人間による赦罪を受けることで買い取れはしないと大胆に主張しなくてはならない。それを得るには、ただ偉大なる大祭司キリスト・イエスのもとに行くしかない。人間の前にではなく、この方の前で罪を告白し、この方によってのみ赦罪を得るのでなくてはならない。この方だけが、「あなたの罪は赦された。安心して行きなさい」、と云うことができるのである。

 最後に、だがこれも重要なこととして、私たちは大胆に主張しなくてはならない。神との平和は、ひとたびキリストを信ずる信仰によって獲得されたならば、単なる外的な儀式的礼拝行為によってではなく、----毎日主の晩餐の礼拝を受けることによってではなく、----日ごとに主イエス・キリストを信仰によって見上げる習慣によってこそ維持されるべきである、と。----私たちの主が告げておられるような飲み食い、そうする人が、「わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物」であると悟るであろうような飲み食いによって維持されるべきである、と。かの聖なるジョン・オーウェンが遠い昔に宣言するところ、サタンが他の何にもまして転覆したい点が1つあるとしたら、それは私たちの主なる救い主イエス・キリストの祭司職という点である。彼によれば、サタンはそれが「教会の信仰と慰めの主要な土台」であることを重々承知しているのである。過誤に陥りたくなければ、キリストの職務について正しい見解をいだくことは、今の時代に絶対に欠くことのできない重要なことである。

 (d) もう1つの治療法に私は言及しなくてはならない。私たちは、聖霊なる神のみわざに関する私たちの教理に留意しなくてはならない。私たちは心に銘記しておこう。御霊のみわざは、決して心に及ぼされる茫漠とした、目に見えない働きではない、と。また、御霊がおられるところでは、御霊は隠されておらず、感じられないこと、目につかないことはない、と。私たちの信ずるところ、霧がかかるときにそれが感じられないとか、人にいのちがあるとき、それがその人の呼吸によって見られも、目につきもしないなどということはない。聖霊の影響もそれと全く同じである。御霊を有していると自称するいかなる人も、その実が----その体験的な種々の効果が----その人の生活に見られない限りは、そうする権利はない。御霊がおられるところ、そこには必ず新しい創造があり、新しい人があるであろう。御霊がおられるところ、そこには必ず新しい知識があり、新しい信仰、新しい聖さ、生活と家庭と世と教会における新しい実があるであろう。そしてこうした新しい事がらが見られないところでは、私たちは確信をもって云えるであろう。そこには何の聖霊の働きもないのだ、と。近年は、私たちがみな、御霊の働きという教理に関して警戒を固める必要のある時代である。はるか以前にギュイヨン夫人は、やがて来たるべき時代に、人は聖霊のみわざのために殉教者とならなくてはならないかもしれない、と云った。その時代は遠い先のことではないように思える。いずれにせよ、もしもキリスト教信仰の中で他の何にもまして軽蔑を浴びせかけられている真理が何か1つあるとしたら、それは御霊の働きという真理である。

 私はこうした4つの点の途方もない重要性を、この論考を読むすべての人に印象づけたいと思う。(a) 人間性の罪深さに関する明確な見解、(b) 聖書の霊感に関する明確な見解、(c) 私たちの主なる救い主イエス・キリストの贖罪および祭司職に関する明確な見解、(d) 聖霊のみわざに関する明確な見解。私の信ずるところ、教会や、聖職や、礼典に関する奇妙な教え----神の愛や、キリストの死や、刑罰の永遠性に関する奇妙な教え----は、この4つの点において健全な心の中には、いかなる足がかりも見いだすことはないであろう。私の信ずるところ、これらはパリサイ人やサドカイ人たちのパン種に対する、4つの偉大な防護壁である。

 さて私はこの論考のしめくくりにあたり、実際的な適用という形でいくつかのことを述べてみたい。私が望むのは、この主題全体が、この書を手にとるこになる人々にとって有益なものとなることである。----私たちは何をすべきだろうか? いかなる忠言をあなたはこの時代に対して差し出さなくてはならないだろうか?

 (1) 第一のこととして、私がこの論考を読むあらゆる人に願いたいのは、果たして自分が魂の救いに至るような個人的なキリスト教信仰を有しているかどうか心を探ってほしい、ということである。結局のところ、これこそ肝心な点である。たとえ目に見える健全な教会に属しているとしても、もしその人自身がキリストに属していないとしたら、何の足しにもならないであろう。信仰において知的に健全であり、健全な教理に賛同しているとしても、その人自身が心において健全でないとしたら、何にもならない。あなたはそのような人だろうか? あなたは、自分の心が神の御目において正しいと云えるだろうか? それは聖霊によって新しくされているだろうか? キリストはそこに信仰によって住んでおられるだろうか? おゝ、こうした問いかけに満足な答えを返せるようになるまで、安心してはならない、安心してはならない! 未回心のまま死ぬ人は、いかに健全な見解をいだいていても、いまだかつて生を受けた最悪のパリサイ人やサドカイ人たちと同じくらい真実に、永遠の滅びに至るのである。

 (2) 第二のこととして、この論考を読んでいる方々のうち、信仰において健全になりたいと願っているあらゆる人に、聖書を勤勉に学ぶように勧めさせていただきたい。このほむべき書物が与えられたのは、私たちの足の光となり、私たちの道のともしびとなるためである。いかなる人も、それを畏敬をもって、祈り深く、へりくだりつつ、規則正しく読むならば、天国への道を見失うことは決してないであろう。これによってこそ、あらゆる説教とあらゆる信仰書、そしてあらゆる聖職者ははかりにかけられ、ためされるべきである。あなたは何が真理か知りたいだろうか? あなたはキリスト教信仰に関わるあらゆる方面で聞かされる言葉の争いに混乱し、とまどいを感じているだろうか? あなたは、救われるために自分が何を信ずるべきか、また自分がいかなる者となり、いかなることを行なわなくてはならないかを知りたいと思うだろうか? では自分の聖書を手に取って、人に聞くのをやめるがいい。自分の聖書を、聖霊の教えを求める熱心な祈りとともに読むがいい。その教えに従おうという正直な決意とともに読むがいい。それを倦まずたゆまずやり抜くなら、あなたは光を目にするはずである。あなたはパリサイ人やサドカイ人たちのパン種から遠ざけられ、永遠のいのちへと導かれるはずである。何かを行なう秘訣は、さっさとそれを行なうことである。この忠言に沿って一刻も早く実行するがいい。

 (3) 次のこととして、この論考を読む方々のうち、自分が信仰と心において健全であると思える理由を持っているあらゆる人に私が忠告したいのは、真理の釣り合いに留意する、ということである。そのように云うことで私が目指しているのは、キリスト教のそれぞれの真理に、神のことばにおいて与えられているのと同じ地位と立場を、自分の心の中においても与えることがいかに重要であるか印象づけることである。第一の事がらを第二に持ってきてはならないし、第二の事がらを自分のキリスト教信仰における第一のこととしてはならない。教会をキリストの上に置いてはならない。礼典は、信仰や聖霊の働きの上に置かれてはならない。教役者は、キリストから与えられた地位を越えて称揚されてはならない。恵みの手段は、手段である代わりに目的とみなされてはならない。この点に関する注意は非常に重大である。この点をないがしろにすることから生ずる過誤は、少なくも小さくもない。ここにこそ、神のことばの全体を学ぶ----何もはぶかず、ある箇所を他の箇所よりも偏って重んずることを避ける----ことの途方もない重要性が存しているのである。また、ここにこそ、私たちの思いの中に、明確なキリスト教信仰の体系をいだいておく価値が存しているのである。英国国教会のすべての会員が、三十九信仰箇条を読み、人間の信ずべき主要な真理を述べているこの信条の美しい秩序に目を留めるならば、国教会にとってどんなに良いことであろう。

 (4) 次のこととして、キリストの誠実なしもべであるすべての人に私が願いたいのは、現代の種々の偽りの教えが私たちの魂にしばしば近づく際の、もっともらしい見せかけによって欺かれないようにする、ということである。キリスト教信仰を説くある教師が、多少は不健全な見解をいだいているにせよ、それでも「大方の真理を教えている」から信頼できるはずだ、などと考えないように警戒するがいい。こうした教師こそ、まさしくあなたに害悪をもたらす人間である。毒がいかなるときにもまして危険なものとなるのは、それが少量だけ、健康そうな食物に混入されて差し出されたときである。偽りの教えを奉ずる多くの教師や支持者たちにだまされないように警戒するがいい。忘れてはならない。熱心さや真摯さや熱情があるからといって、それは、ある人がキリストのために働いているかどうか、信じてよい人かどうかを示す何の証拠にもならないことを。疑いもなくペテロは、私たちの主に向かって、自分の命を大切にしてほしい、十字架になど向かわないでほしい、と願ったときには真剣だったに違いない。それでも私たちの主は彼に、「下がれ。サタン」、と云ったのである。疑いもなくサウロは、キリスト者たちを迫害して回っていたときには真剣だったに違いない。それでも彼は、自分が何をしているか知らないでしており、その熱心は知識に基づくものではなかった。スペインの宗教裁判所を開設した人々は疑いもなく真剣だったし、神の聖徒たちを生きながら焼き殺しているときも、自分たちが神への奉仕をしているものと信じていた。それでも彼らは、実際にはキリストの肢体を迫害し、カインの足どりにならっていたのである。----恐るべき事実だが、「サタンさえ光の御使いに変装するのです」(IIコリ11:14)。この終わりの時代にはびこっているあらゆる惑わしの中でも、何にもまして大きな惑わしは、「もしある人がその信仰に熱心であるなら、その人は良い人であるに違いない」、というようなよくある考え方である! この惑わしに心奪われないように警戒するがいい。「熱心な思いの人々」によって道を踏み迷わされないように警戒するがいい。熱心さ自体は非常にすぐれたものである。だがそれは、キリストと、キリストの真理全体のための熱心でなくてはならない。さもないと、それには全く何の価値もない。人間の間であがめられるものは、しばしば神の前では憎まれ、きらわれる。

 (5) 次のこととして、キリストの真のしもべであるすべての人に私が忠告したいのは、神の前における自分の状態がいかなるものかを知るため、しばしば注意深く自分自身の心を吟味することである。これは、いついかなる時にも有益な行ないだが、現代においては、ことのほか望ましいことである。ロンドンの大疫[1664-65の黒死病大流行]が猖獗をきわめていたとき、人々は、自分のからだにいかに微妙な徴候が現われても、それまでなら決してしなかったようなしかたでそれに注意を払った。健康なときなら何とも思われなかった小さな斑点も、疫病が家々をなぎたおし、一人また一人と倒れさせているときには、綿密な注意を払われた! 私たちがいま生きているような時代にあっては、私たちも同じようにすべきである。私たちは、自分の心を倍増しの警戒心で見張らなくてはならない。瞑想と、自己吟味と、内省とに、より多くの時間を費やさなくてはならない。今は人をせきたてるような、あわただしい時代である。転落せずにいたいと思うなら、私たちは時間を作って、ひとりきりで神とともに過ごす時をしばしば持たなくてはならない。

 (6) 最後の最後に、真の信仰者たち全員に私は、聖徒にひとたび伝えられた信仰のために熱心に戦うよう促したいと思う。私たちは、自分の信仰を恥じなくてはならない理由は何もない。私の堅く確信するところ、いかなる信仰体系にもましていのちを与え、眠っている者を覚醒させ、道を求める者を真理に導き、聖徒たちを建て上げるのは、キリスト教の福音主義的な体系と呼ばれているものにほかならない。それが忠実に宣べ伝えられ、効果的に実践され、一貫してその信仰を告白する者たちの生活によって飾られているところならどこででも、それは神の力である。それは一部の人々からけなされたり、嘲られたりするかもしれない。だが、それは使徒たちの時代にもそうであった。それは、その唱道者たちの多くによってお粗末に説かれ、お粗末に擁護されているかもしれない。だが、その種々の実と成果こそ、その最も高い賞賛である。他のいかなる信仰体系も、これほどの実を示すことはできない。いずこにまして多くの魂を神に回心させてきたのは、イエス・キリストの福音が、パリサイ人やサドカイ人たちの教えを全く混ぜ合わせず、そのすべての豊かさをもって宣べ伝えられている会衆の間にほかならない。疑いもなく私たちは、決してただの論争家になることなど求められてはいない。しかし私たちは決して、まさしくイエスにある真理を証しし、福音主義的キリスト教信仰を大胆に擁護することを恥じるべきではない。私たちには真理があり、それをそうと云うのを恐れる必要はない。最後の審判の日には、だれが正しいが明らかに示されるであろう。その日に向かって、私たちは大胆に訴えることができよう。

「パリサイ人とサドカイ人」[了]

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*1 (訳注) ジョン・バニヤン、「天路歴程 正篇」 p.217(池谷敏雄訳)、新教出版社、1985[本文に戻る]

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