'Give Thyself Wholly to Them' 目次 | BACK | NEXT
3. 「しっかりやりなさい」*1
「しっかりやりなさい」(Iテモ4:15)改めて云うまでもなく、ここで「しっかりやりなさい」と翻訳されているギリシャ語の表現は、少々珍しいものである。これをもっと字義通りに訳すと、「これらの事がらの中にありなさい」、となる。これは、ラテン語で云う、totus in illis[完全にそれらの中にある]や、omnis in hoc sum[すべてにおいて私はこの中にいる]といった語句に相当するものである。英語には、これと正確に一致した表現が何もないが、 欽定訳聖書の翻訳者たちが選んだ言葉['Give Thyself Wholly to Them']は、いかなる表現にも劣らず、聖霊が聖パウロの精神に吹き入れた観念をよく伝えているであろう。
使徒は、ここで「しっかりやりなさい」と云う際に、直前の数節で自分が語っていた種々の「務め」を念頭に置いていると思われる。その務めとは、以下の言葉から始まる部分である。「ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも信者の模範になりなさい」。
ここにあるのは、新約聖書の教役者たちの前に置かれている目標である。私たち教役者が全員めざさなくてはならない目標、私たちがみな自分の欠けを感じざるをえない目標である。それでも、古い格言に云うように、「高きをめざす者こそ、最も高きを打つ見込みのある者にほかならない。月に向かって矢を射る者は、やぶに向かって射る者よりも遠くまず射ることができよう」。
私の見るところ、使徒が示唆しているのは、教役者とは、一事の人でなくてはならない、ということである。彼自身の言葉を用いれば、教役者とは「神の人」でなくてはならない。実業の人とか、快楽の人とか、科学の徒とかいう人々についてはよく聞かれる。だが教役者が目ざすべきなのは、「神の人」となることである。あるいは、ある異教国で用いられている云い回しを使うと、「イエス・キリストの人」となることである。軍隊関係の表現は、時として、私たちの救いの偉大な指揮官の兵士たちにもあてはめることができる。ある人々は、「客間の兵隊」、また「絨毯の騎士」[実戦経験のない軍人]と呼ばれている。彼らが軍隊に入隊したのは、その制服だけのためであり、それ以外には何の理由もない。しかし、衆目の見るところ、まぎれもなく「骨の髄までの軍人」と呼ばれる人々も多い。これこそ、私たちが自分の前に置いておくべき目当てである。私たちは、「骨の髄までイエス・キリストの教役者」たることを求めるべきである。私たちは、いかなる状況、いかなる場所にあろうと、----日曜日だけでなく平日にも、講壇においてだけでなく、どこにおいても----金持ちの客間でだけでなく、自宅の炉辺でだけでなく、貧乏人のあばら屋でだけでなく、どこにおいても----、同じ人間であることをめざすべきである。聖職者の中には、その会衆の評するところ、講壇に立っているときは二度とそこから出てこないでほしいと思われ、講壇に立っていないときは、決してそこに立たないでほしいと思われるような人々がいる。願わくは神が、これを心に銘記しておく恵みを与えてくださるように! 願わくは私たちの生き方、説教、働き、自分の召された務めへの献身が、決してこのような憎まれ口に相当することがないよう努めて励めるように。私たちの職業は非常に特殊なものである。他の人々には、休養をとれる時期がある。自分の働きから完全に休める時がある。イエス・キリストの忠実な教役者には、そうしたことが決してできない。一度身につけたが最後、その職務は決して脱ぎ捨てることができない。家にいようと、外出していようと、休養していようと、海岸に出かけていようと、その人は常に自分の務めをかかえている。ある高位の法律家は、自分の法服に向かってこう云うことができた。「大法官殿、そこに横たわっているがいい」。そのようなことを、キリストの教役者は決して思うべきではない。
この聖句の高い要求は、いくつかの事がらを示唆している。いずれも私たちが従うべきこと、実践していく必要のあることである。
第一にこれが要求しているのは、私たちが叙任を受けている、大いなる働きへの完全な献身である。ある人は、救い主からついてくるように命じられたとき、こう答えた。「まず行って、私の父を葬ることを許してください」。しかしそのとき、この厳粛なことばが発せられた。「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、福音を宣べ伝えなさい」*。----別の者は、「その前に、家の者にいとまごいに帰らせてください」、と云った。だが、この者にはこの尋常ならざる一言が発せられた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません」。----七十人の弟子たちに向かってキリストが命じたのは、「だれにも、道であいさつしてはいけません」、ということであった。確かにこうした聖書の表現がいずれも教えているのは、私たちは、自分の職務で扱うすべてのことにおいて高い基準を持たなくてはならない、ということである。私たちは一事の人となるよう努めなくてはならない。----その一事とは、イエス・キリストのための働きである。
第二にこれが要求しているのは、世の事がらからの徹底的な分離である。私が最大かつ最重要のこととして主張するのは、教役者の職務は、可能な限り、あらゆる世俗的なものから区別し、分離しておかなくてはならない、ということである。私の堅く信ずるところ、市政を兼務しているような福音の教役者について聞くことは、今後、年ごとに少なくならなくてはならない。農芸品評会に参加する教役者、太った豚や巨大な去勢牛や蕪の豊作で賞を得たりする教役者は、年ごとに少なくならなくてはならない。このような副業には何の使徒継承もない。だがしかし、これがすべてではない。私たちは世の務めからだけでなく、世の楽しみからも分離しているべきである。世には多くの無害で、可もなく不可もない娯楽があるが、キリストの教役者はそうしたことに時間を費やしているべきではない。その人はこう云うべきである。「私には、そうしたことをしている暇がない。私は大工事をしているから、下って行けない」、と。
第三にこれが要求しているのは、自分自身の社交上のふるまいに、ねたみ深い警戒の目を注ぐことである。私たちは、他の人々がしているように、年がら年中、午前中の表敬訪問をしたり、晩餐会に出たりしているべきではない。私たちの主は婚礼の祝宴に出席したし、パリサイ人の家で食事をとった、それゆえ私たちも同じようにしていいはずだ、などと云っても何にもならない。私はこう答えるだけである。ならば主と同じ霊において出かけて行き、主と同じ真実さと大胆さをもって時宜にかなった言葉を口にし、人々との会話を有益なものに転じさせるがいい、それならあなたは、その外出から何の害も受けることはあるまい、と。そうでない限り私たちは、自分がどこに行くか、だれとともに座るか、どこで自分の夜を過ごすかに細心の注意を払うべきである。ジョン・ウェスレーが配下の教役者たちに与えた奇抜なことばをセシルが引用しているが、そこには多くの真理の芽がある。「紳士だと思われたがってはならない。紳士になるなどということは、舞踏教師になることと同様、あなたがたとは何の関係もないのだ」。私たちの目当ては、晩餐会の席上で好もしい人だとみなされることではなく、どこにあろうとイエス・キリストの忠実で、裏表のない教役者だと知られることであるべきである。
第四にこれが要求しているのは、機会を勤勉に活用することである。私たちは生きる限り、毎日、読書に精励すべきである。自分のあらゆる読書が、自分の働きに関わりを持つようにすべきである。私たちは絶えず目を見開いていて、常に----道を旅するときも、炉辺に座っているときも、鉄道駅の乗降場に立っているときも----自分の説教に使える材料を拾い集めているべきである。私たちは心の目を、絶えず《主人》のための務めに注いでいるべきである。----私たちの仕事に何か新鮮な光を投げかけ、より心を打つしかたで真理を表現できるようにしてくれるものを観察し、発見し、収集しているべきである。何か学ぶことはないかと目を光らせている者は、常に何かを学んでいくことができるであろう。
こうした事がらを示唆した上で、私は次のように尋ねようと思う。私たちがこうした務めをしっかりやった結果、どうなるだろうか? 忘れてはならない。私たちは人々の賞賛を得ることはない。むしろ私たちは、極端で、禁欲主義的で、几帳面すぎると思われるであろう。神にも富にも同時に仕えたいと願う者たちは、私たちの基準が高すぎると考え、私たちのふるまいが厳しすぎると考えるであろう。彼らは云うであろう。あなたがたは、現実の世界に生きる私たちからすると極端すぎて、堅すぎる、と。願わくは私たちが、神のことばの光の中を歩んでいる限りは、人から何と云われるかなど決して意に介すことがないように! 願わくは私たちが、神を喜ばせている限りは、人の意見などに全く影響されず、気にかけないよう、努めて祈りに励めるように! 願わくは私たちが、私たちの《主人》によって宣告されたこの災いを忘れないように。「みなの人にほめられるときは、あなたがたは哀れな者です」。また聖パウロのこの言葉を忘れないように。「もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません」。
しかし私たちは、これらの務めを「しっかりやって」人々の賞賛をかちとることができないとはいえ、魂にとって有益な者となるという、はるかに重要な目的を果たせるはずである。罪人の救いにおける神の主権という教理は、私も完全に認める。最善の説教をし、神に最も近く生きている者たちが、必ずしも常にその生涯において、多くの魂を救う器になる栄誉を与えられるわけではないことは認める。しかしそれでも、だれよりも抜きんでて全くイエス・キリストの人である人---- 一事の人、日曜も平日も、家内にいようと戸外にいようと、どこにいようと自分をイエス・キリストのための働きにささげようと一心に努力する者として生きている人----、こうした人が、こうした教役者こそが、普通は、長い目で見るとき、最も善を施している人にほかならない。シメオン氏の例がここであてはまるであろう。あなたがたはみな、彼がケンブリッジでキリストのための証しを始めたとき、いかに迫害されたか知っているはずである。いかに多くの者が彼と口をきこうとしなかったか、いかに彼が始終あざけられ、後ろ指をさされていたか、知っているはずである。しかし私たちは、いかに彼がその働きを成し遂げたか、また彼が死んだとき、ケンブリッジの全学がいかに先を争って彼に栄誉を帰そうとしたか、またいかに学部長や学寮の特別研究員や、生前は彼をあざ笑っていた人々が、彼の死においては彼をほめたたえたかを知っている。彼らの証言するところ、彼の生涯は周囲に多大な影響を及ぼし、彼らは神が彼とともにおられることを見知ったのだという。私はかつてダンディーで、かの敬虔な人ロバート・マクチェーンをよく知っていた女性に会ったことがある。彼女が私に語ったところ、彼の手紙や説教を読んだだけでは、彼がいかなる人物であったか、非常におぼろげにしかわからないという。彼女は私にこう云った。「たとえあの方の著作を全部読んだとしても、あの方については全く何もわかったことにはなりません。あなたは、あの方を見なくてはなりません。聞かなくてはなりません。知らなくてはなりません。一緒にいなくてはなりません。そうして初めて、あの方がいかに神の人であったかがわかるでしょう」。
さらに、これらの務めをしっかりやることによって、幸福と平安が私たちの良心にもたらされるであろう。私は今、友人たちの間で語っている。世的な人々の間であれば私は、もっと用心深い言葉を使い、誤解されないようにし、自分の意図を説明すべきであろうが、そうではない。私が前にしている方々であれば、私が行ないによる義認を主張しているのだなどと疑うことはないはずである。私が語っているのは、使徒が言及しているような、正しい良心のことである。私たちは、「正しい良心」を持っていると確信している(ヘブ13:18)。この正しい良心を持つことは、明らかに、教役者がその生活と行動において高い目当てと、高い動機と、高い基準を有することに関わっている。私の全く確信するところ、私たちは教職者としての務めをしっかりやればやるほど、内なる幸福と、神の御顔の光を大いに感ずることがいやまさって多くなるはずである。
この主題は非常に心へりくだらされるものである。一体だれが、「私の何と貧しいことか! 何と乏しいことか! 何と役立たずな者であることか! この高い基準にくらべて自分の何と劣っていることか!」、と叫ばずにいられようか? あわれみを受けた私たちには、いかに心くじけないですむ理由があることか! 神の深い寛容によって救われた私たちは、いかに主のための働きにあふれる者となり、自分の務めをしっかりやるべき理由があることか! その大きな秘訣は、常にイエスを見上げて、イエスとの近しい交わりの生活を送ることである。先日ケンブリッジで私は、ヘンリー・マーティンの肖像画を見た。それは、シメオン氏から公立図書館へと遺贈されたものであった。ある友人が教えてくれたところ、その絵はシメオン氏の部屋に長年掛けられていたものだという。そしてシメオン氏は、教職者としての働きで手抜きをしたくなるような気分になると、この絵の前に立ち、こう云うのを常にしていたという。「それは私にこう云うように思われる。『チャールズ・シメオン、手を抜いてはならない。手を抜いてはならない。チャールズ・シメオン、お前がどなたに所有されているのか、どなたにお仕えしているか、思い出すがいい』、と。そしてそのとき、この尊い人は、彼一流のやりかたで、うやうやしく一礼をすると云うのだった。『私は手を抜きません。私は手を抜きません。私は手を抜きません』、と」。
しめくくりとして、願わくは私たちが、いかなる人よりにもまして、----マーティンや、マクチェーンや、他のいかなる人にもまして----はるかに高い模範を見上げることができるように。願わくは私たちが、偉大なる大牧者、偉大なる模範、私たちがその足跡にならうべきお方を見上げることができるように! 願わくは私たちが、この方のうちにとどまり、決して手を抜くことがないように! 願わくは私たちが、自分の道を固守し、イエスを見上げ、この世と、その楽しみと、その愚劣さから自分をきよく保ち、----世の渋面のゆえにも決して心配せず、世の微笑みゆえにも心動かされることがなく、----かの偉大な日、かの《大牧者》が、ご自分の働きを行なってきた者たち、ご自分の福音を宣べ伝えてきた者たちすべてに、しぼむことのない栄光の冠を授けてくださる日を待ち望めるように! 私たちは、キリストの心を持てば持つほど、「しっかりやる」とはどういうことか理解できるようになるはずである。
「しっかりやりなさい」[了]
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*1 1859年8月、ウェストンスーパーメアで開かれた聖職者総会で語られた講演。[本文に戻る]
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