'Not Corrupting the Word' 目次 | BACK | NEXT
2. 「みことばに混ぜ物をして売らず」*1
「私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず、真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語るのです」(IIコリ2:17)不滅の魂を有する人々の集会で、神の事がらについて語るのは、決して軽々しくできることではない。しかし、そうした責任の中でも最も深刻なことは、私がいま前にしているような、教役者たちの集会で語る場合であろう。私は慄然とすることがある。もしここで一言でも間違ったことを云ったなら、それがだれかの心に沈潜し、未来のいつの日か、どこかの講壇で実を結び、今の私たちには測り知れない害悪をもたらすかもしれない、と思わさせられるのである。
しかし、場合によっては、真の謙遜さは、声高に自分自身の弱さを云い立てることよりも、自分自身のことを全く忘却することにおいて見られるべきである。私が今この時に願うのは、自分のことは忘れ、自分の注意をこの聖書箇所に集中させることである。もし私が、自分自身の不完全さを感じているとほとんど云わないとしても、どうか信じてほしい。だからといって、私がそれを痛感していないわけではないのだ、と。
「混ぜ物をして売る」と翻訳されたギリシャ語のは、ある1つの語から引き出されている。その語源については、辞書編集者たちも完全な一致を見ていない。その意味として考えられるのは、不正直な商売をしている商人のことか、売り物として並べた葡萄酒を水で薄める葡萄酒売りのことである。ウィクリフはこれを、すでに廃語となっている語句で訳している。----「我らは、神の言葉を腐汁せしめる輩にあらず」。ティンダルはこれをこう訳している。----「我らは、神の言葉を断骨変造せしめる者らにあらず」。レーンス聖書はこう記している。----「われわれは、多くの者らのごとく、神の言葉の純度を落とすことをせず」。 英欽定訳聖書の欄外にはこうある。----「私たちは、多くの人のように、神のことばを偽り扱うようなことはせず」。
この一文を組み立てるにあたり、聖霊は聖パウロに霊感を与えて、この真理を肯定的にも、否定的にも言明するような云い方を用いさせた。このような構造をとることによって、この文章の1つ1つの言葉の意味は明晰な、誤解の余地のないものとなり、そこに含まれている主張が強く、力あるものとなっているのである。これに類似した構文の例が、他にも3つの注目すべき聖書箇所に出現する。2つはバプテスマについての主題、1つは新生についての主題である(ヨハ1:13; Iペテ1:23; Iペテ3:21)。それゆえ、この聖句の中には、キリストの教役者に対する否定的な教訓と、肯定的な教訓との双方が含まれていることがわかるであろう。いくつかのことを私たちは避けるべきである。また別のいくつかのことに私たちは従うべきである。
第一の否定的教訓は、神のみことばに混ぜ物をして売る、あるいは偽り扱うことに対する、あからさまな警告である。使徒は、「多くの人」がそうしていると云う。ここからわかるように、彼の時代においてすら、神の真理を忠実に、また正直に扱わない人々がいたのである。ここには、初代教会が全く不純な部分のない、きよい教会であったと主張する一部の人々に対する完璧な答えがある。不法の秘密はすでに働き始めていた。ここで教えられているのは、私たちが宣べ伝えるように任命されている神のことばを不正直に云い表わす、いかなる言明にも用心せよ、という教訓である。私たちはみことばに何もつけ加えるべきではない。みことばから何も取り除くべきではない。
さて、現代の私たちはいつ、神のことばに混ぜ物をして売っていると云われうるのだろうか? もし私たちが、こうした、神の真理を偽り扱う「多くの人」になりたくなければ、いかなる岩礁や浅瀬を避けるべきだろうか? この項目について、多少の示唆をすることは無益ではないであろう。
私たちが神の言葉に最も危険な混ぜ物をするのは、私たちが聖書のいかなる部分についても、その十全霊感について少しでも疑念を投げかけるときである。これは単に杯を腐敗させるにとどまらず、泉全体を腐敗させることである。私たちが自分の会衆に差し出していると告白する生ける水の手桶を腐敗させるにとどまらず、水源全体に毒を投げ込むことである。いったんこの点で誤りに陥ると、私たちのキリスト教信仰の実質全体が危険にさらされてしまう。これは土台に入った亀裂である。私たちの神学の根幹に食いついた虫である。ひとたびこの虫に根をかじることを許したが最後、少しずつ枝が、葉が、実が腐っていくとしても決して驚いてはならない。霊感という主題全体を困難が取り巻いていることは、私もよく承知している。ただ私が云いたいのは、私のつつましい判断による限り、現在解決することのできない多少の困難にもかかわらず、唯一安全かつ筋道を通して主張できる立場は、これしかないということである。----すなわち、聖書のあらゆる章、あらゆる節、あらゆる言葉は「神の霊感によるもの」なのである。私たちは、科学の場合と同じく、神学においても決して、現時点では取り除くことができない、見かけ上の困難があるからといって、何らかの大原則を放棄するべきではない。
この重要な格言の正しさを例示する話を1つさせていただきたい。天文学に造詣の深い方々なら知っているように、海王星が発見される前には、厳密な考え方をするほとんどの天文学者たちを大いに苦しめていた困難があった。それは、天王星に特定の光行差が生ずるという問題であった。この光行差に多くの天文学者は頭を悩まし、一部の学者はこれをニュートン力学の全体系が間違っていることを証明するものかもしれないと示唆していた。しかし、その時、レヴェリエという名の高名なフランス人天文学者が、科学学会の前で、この偉大な公理を規定した論文を読み上げたのである。----すなわち、科学的な人間にとって、説明できない何らかの困難があるからといって、ある原理を放棄するのはふさわしくない、と。つまるところ彼はこう云ったのである。「私たちは、今は天王星の光行差を説明できない。しかし、私たちはニュートン力学体系の正しさが、遅かれ早かれ証明されると確信してよいであろう。いつの日か、こうした光行差が発生する理由を説明する何かが発見されるかもしれない。だがしかし、ニュートン体系は真実であり続け、微動だにしない」。それからほんの数年もしないうちに、天文学者たちの血眼の探求によって、最後の大惑星、海王星が発見された。この惑星こそ、天王星のあらゆる光行差の真の原因であることが示された。そして、かのフランス人天文学者が、科学の原理として規定したことは、賢明で、真実なことであると証明されたのである。この逸話の適用は明白である。私たちは神学の第一原則を1つも放棄しないように用心しよう。困難があるからといって十全霊感という大原則を捨てないようにしよう。いつの日か、そうした困難はみな解決されるであろう。それまでの間は、他のいかなる霊感説にも、私たちの採っている霊感説に伴っている困難よりも十倍も大きな困難がつきまとっていることを思って心を安んじていよう。
第二に、私たちが神のことばに混ぜ物をして売るのは、私たちがある教理について不完全な言明を行なうときである。それは私たちが、教会の意見や、教父たちの意見を、あたかも聖書と同等の権威を持つものであるかのように聖書に付加するときがそうである。それは私たちが、人々を喜ばせるために、聖書から何かを取り除くときがそうである。あるいは、偽りの寛容さを気取っては、狭量で、峻烈で、過酷と思われる何らかの言明を云わずにすませておくときがそうである。それは私たちが、永遠の刑罰や地獄の実在について教えられていることを耳障りよく云い変えるときがそうである。それは私たちが、種々の教理を間違った釣り合いで提示するときがそうである。私たちにはみな、自分のお気に入りの教理があり、私たちの精神の構造上、ある真理を非常に明確に理解する際に、それと同じくらい重要なそれ以外の真理を忘れないでおくことは困難である。私たちは、「信仰の釣り合いに応じて」教えを与えよ、とのパウロの勧告を忘れてはならない[ロマ12:6 <英欽定訳>]。さらにそれは私たちが、行ないによらない信仰による義認といった教理を、無律法主義であるとの非難を恐れるあまり、云い訳がましく弁解を繰り返し、やたらと限定を設けようとするときがそうである。あるいは、律法主義的であると思われるのを恐れるあまり、聖潔に関する強い言明から尻込みするようなときがそうである。さらに、これも重要なこととして、それは私たちが、教理の説明をする際に、聖書の言葉遣いを用いることを避けようとするときがそうである。私たちは、「新しく生まれる」とか、「選び」とか、「子とされる」とか、「回心」とか、「確信」とかいった表現を云わずにおき、まるで聖書の平易な言葉を恥じてでもいるかのように、遠回しな語句を用いたがるものである。時間の関係上、こうした言明をこれ以上挙げていくことはできない。ここまで言及したことでよしとし、それをあなたがた自身で個人的に思い巡らしていただきたいと思う。
第三のこととして、私たちが聖書のことばに混ぜ物をして売るのは、みことばを適用する際に、不完全な実際的適用をするときである。それは私たちが、自分の会衆をそれぞれの種別に区別しないときがそうである。----その場にいる全員を、単にバプテスマを受けているからとか、教会員籍があるからといって、みな恵みの持ち主であるとして語りかけ、御霊を持っている者と持たざる者との間に一線を画さないようなときがそうである。私たちは、未回心者に対する平易な、飾り気のない訴えかけを云わずにすませがちではないだろうか? 私たちが講壇で千八百人とか二千人の聴衆を前にしているとき、また、その圧倒的大多数は未回心の人々であるとわかりきっているとき、私たちはこう云いがちではないだろうか?----「さて、もしあなたがたの中に、自分の永遠の平安にとって益する事がらを知らない人がいるとしたら」、と。----むしろそのとき私たちはこう云うべきではなかろうか? 「もしあなたがたの中に神の恵みを内側に持っていない人がいるとしたら」、と。----また私たちは、私たちの実際的な勧告において、みことばを不完全に扱い、会衆の中にいる様々な種別の人々それぞれに、聖書の言明をまっすぐにつきつけることをしないでしまう危険がないだろうか? 私たちは貧乏人には平易な語り方をするが、金持ちにも平易な語り方をしているだろうか? 上流階級の人々を平易に取り扱っているだろうか? この点で私たちは自分の良心を探られる必要があるのではないかと、私は恐れるものである。
ここで私は、この聖句に含まれている肯定的な教訓に目を向けたいと思う。「真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語るのです」。それぞれの項目について、二言三言語れば十分に違いない。
私たちは、「真心から」語ることを目指すべきである。----真摯な目当てと、心と、動機をもって語るべきである。自分が口にすることは真理であると心の底から確信している者として語るべきである。自分が語りかけている人々に対する、深い同情心と、心からの愛情を持つ者として語るべきである。
私たちは、「神によって」語ることをめざすべきである。私たちは、神に代わって、神の代弁者として任命された者であると努めて感じるべきである。ローマカトリック教に陥ることを恐怖するあまり、私たちはあまりにもしばしば使徒の言葉遣いを忘れてしまう。----「私は……自分の務めを重んじています」。私たちは、新約の教役者であることがいかに大きな責任であるかを忘れている。キリストの真の使者が語りかけるときに、その使信を拒否し、自分の心をかたくなにする者たちの罪がいかにすさまじいものであるかを忘れている。
私たちは、「神の御前で」語ることをめざすべきである。私たちは自分に向かって、人は私のことを何と思うだろうか?、と問うべきではなく、むしろ、私は神の御前でいかなる者であろうか?、と問うべきである。ラティマーはかつてヘンリー八世の前で説教するように要請されたとき、このようなしかたでその説教を始めた。(私は記憶から引用するので、一字一句まで正しいと云うつもりはない)。彼はこう口を切った。「ラティマー! ラティマー! お前は覚えているのか、お前が前にしているのが高貴にして強大なる国王ヘンリー八世であることを。お前を牢獄に送ることも、お前の首を切り落とすことも、望みのままである方の前であることを。お前は、そのやんごとなき耳を怒らせるようなことを何も語らぬよう気をつけたがいいのではないか?」 一瞬の間をおいた後で彼は続けた。「ラティマー! ラティマー! お前は覚えているのか、お前が前にしているのが王の王、主の主であることを。そのお方の審きの場に、ヘンリー八世も着くことになるお方の前であることを。いつの日か、その前で自分の申し開きをしなくてはならなくなるお方の前であることを。ラティマー! ラティマー! お前の主人に忠実であるがいい。そして、神のことばを余すところなく宣言するがいい」。おゝ、願わくはこれが、講壇を降りてくるたびに私たちのいだいている精神であるように。----人々が喜ぼうが不快に感じようが意に介さず、人々が私たちのことを雄弁であると云おうが説得力がないと云おうが意に介さず、----自分の良心がこう証言するのを聞きつつ出て行くように。----私は神の御前にあるのと同じように語った、と。
最後に私たちは、「キリストにあって」語ることをめざすべきである。この語句の意味ははっきりしていない。グローティウスは云う。「私たちは主の御名において、大使として語るべきである」。しかしグローティウスには貧弱な権威しかない。----ベザは云う。「私たちはキリストについて、キリストに関することを語るべきである」。これは良い教理ではあるが、この言葉の意味するところであるとは到底云えない。----他の人々は云う。私たちは、自分がキリストに結び合わされた者として語るべきである、キリストから哀れみを受けた者、また、他の人々に語りかける唯一の資格をキリストからのみ受けている者として語るべきである、と。----また他の人々は云う。私たちは、キリストを通して、キリストの力によって語るべきである、と。おそらく、この意味が最上のものであろう。ギリシャ語原文の表現は、ピリ4:13の表現と正確に対応している。「私は、私を強くしてくださるキリストを通して、どんなことでもできるのです」<英欽定訳>。この言葉にいかなる意味を付与しようと、1つのことだけは明らかである。私たちは、自分自身があわれみを受けた者として、キリストにあって語るべきである。自分自身ではなく、この救い主を称揚したいと願う者として語るべきである。そして、人が自分のことを何と考えようと、キリストが自分の働きによって大いならしめられる限り何も意に介さない者として語るべきである。
結論として、私たちはみな問いかけるべきである。私たちは、神のことばを偽り扱ったことがなかっただろうか? 私たちは、神によって、神の御前でキリストにあって語るとはいかなることか悟っているだろうか? ここで全員の方に、1つ心さぐる問いを発させていただきたい。あなたは、神のことばの中に、自分が解き明かすことをひるむような聖句が何かあるだろうか? 私たちは、聖書の中に、それを理解していないからではなく、それが自分好みの何らかの考え方と、何が真理かという点でぶつかるからという理由で、自分の会衆に語ることを避けているような言明が何かあるだろうか? もしそうだとするなら、自分の良心に向かって、これが神の言葉を偽り扱うことと酷似してはいないかどうか尋ねてみるようにしよう。
私たちは、聖書の中に、見たところ峻烈だからとか、一部の聴衆を怒らせるからという恐れによって、云わずにすませているようなものが何かあるだろうか? 教理的なものであれ実際的なものであれ、何か私たちが切り刻み、削り落とし、切断しているような言明が何かあるだろうか? もしそうなら、私たちは神のことばを正直に扱っているだろうか?
私たちは神のことばに混ぜ物をして売ることから遠ざけられるよう祈ろう。人を恐れることによっても、人にこびることによっても、聖書のいかなる聖句をも云わずにすませたり、避けたり、変造したり、分断したり、意味を限定したりしないようにしよう。確かに私たちは、神の大使として語る際には、聖なる大胆さを持つべきである。私たちには、自分が講壇で語るいかなる言明をも、それが聖書的なものである限り、恥じる理由は何1つない。常々考えてきたことだが、私たちの教派に属してはいないひとりの人に、神が驚嘆すべき誉れをお授けになっている1つの大いなる秘訣は(これはスポルジョン氏のことを云っているのだが)、----講壇に立った彼が人々に対し、その罪について、またその魂について語る際の、異常な大胆さと確信にあると思う。彼がそれを、だれかに対する恐れからしているとか、だれかを喜ばせるためにしているとか云うことはできない。彼はあらゆる種別の聴衆に、そのしかるべき分を与えているように見える。----富者にも貧者にも、上流階級にも下層階級にも、貴族にも農民にも、学識ある人にもない人にも、それぞれの分を与えているように見える。彼はあらゆる人々を、神のことばに従って、率直に扱っている。私の信ずるところ、その大胆さそのものこそ、神が彼の伝道活動に与えることをよしとしておられる成功と大きく関わっているのである。私たちは、この点において彼から学ぶことを恥じないようにしよう。私たちも行って、同じようにしようではないか。
「みことばに混ぜ物をして売らず」[了]
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*1 この講演は、1858年8月に、ロー大執事の主宰のもと、ウェストンスーパーメアで開催された聖職者総会で語られたものである。読者の寛恕を願いたいが、こうした講演はいずれも完全原稿からなされたものではなく、ここにあるのは速記者の草稿を修正したものにすぎないことを了承されたい。[本文に戻る]
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