The True Church  '      目次 | NEXT

1. 真の教会*1


「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません」(マタ16:18)

 私たちが住んでいる世界は、すべてが過ぎ去り行きつつある世界である。王国も、帝国も、大都市も、由緒ある制度も、個々の家庭も、みな変化と腐敗をこうむらざるをえない。1つの普遍的な法則が、いずこにおいても支配しているように見える。いかなる被造物の中にも、腐敗へ向かう傾向があるのである。

 ここには、悲しく、憂鬱なものがある。人にとって自分の手の勤労の実の何が益になるだろうか? 立ち続けるものは何もないのだろうか? 永続するものは何もないのだろうか? 持ちこたえるものは何もないのだろうか? 私たちには、「これは永遠に残り続ける」、と云えるようなものが何もないのだろうか? こうした問いかけに対する答えを差し出しているのが、この聖句である。私たちの主イエス・キリストが語っておられるのは、残り続けるもの、過ぎ去ることのないものにほかならない。造られたものの中で、ただ1つ、先に私が言及した普遍的法則に対する例外となるものがあるのである。決して滅びることも、過ぎ去ることのないものが何か1つあるのである。その何かとは、岩の上に建てられた建造物、----私たちの主イエス・キリストの教会である。主は、今晩あなたがたが聞いたことばの中で、こう宣言しておられる。「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません」、と。

 このことばには、注意しなくてはならないことが5つある。

 I. ----ここには1つの建物がある:「わたしの教会」
 II. ----ひとりの建築者:キリストは云われる。「わたしは……わたしの教会を建てます」
 III. ----1つの土台:「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます」
 IV. ----危険が暗示されている:「ハデスの門」
 V. ----安全が断言されている:「ハデスの門もそれには打ち勝てません」

 願わくは神が、これから語られる言葉を祝してくださるように。願わくは私たちがみな、今晩、自分自身の心を探って、自分がこの唯一の教会に属しているかいないかを知ることができるように。そして私たちがみな、家に帰って思い巡らし、祈ることができるように!

 I. ----この聖句では、まず第一に1つの建物について言及されている。主イエス・キリストは、「わたしの教会」について語っておられる。

 さて、この教会とは何であろうか? これほど重大な意味を持った問いはまず考えられない。この主題にしかるべき注意が払われなかったために教会や世に忍び込んだ誤りは、決して少くも、小さなものでもなかった。

 この聖句の教会とは、物理的な教会のことではない。木や煉瓦や石や大理石によって手で建てられた宮のことではない。人々の集まりのことである。またこれは、地上の、目に見える何か特定の教会のことではない。東方教会でも西方教会でもない。英国国教会でもスコットランド国教会でもない。----何にもまして、ローマカトリック教会のことではない。この聖句の教会は、目に見えるどのような教会よりも、はるかに人々の目につかないが、神の御目にははるかに重大な教会である。

 この聖句の教会は、主イエス・キリストを信ずるすべての真の信仰者からなる教会である。この教会には、罪を悔い改め、信仰によってキリストのもとへ逃れ来て、キリストにあって新しく創造されたすべての者がふくまれている。この教会は、神の選民すべてから成っている。神の恵みを受けたすべての者、キリストの血によって洗われたすべての者、キリストの義を着せられたすべての者、キリストの御霊によって新しく生まれ、聖められたすべての者から成っている。こうしたすべての者たち----国も民族も言語も異なる者たち----がこの聖句で云われている教会を構成しているのである。これがキリストのからだである。これがキリストの群れである。これが花嫁である。これが子羊の妻である。これが使徒信条で云うところの、「聖なる公同の教会」である。これが私たちの祈祷書の聖餐式で語られるところの、「信仰深きすべての民のほむべき集い」である。これが岩の上に建てられた教会なのである。

 この教会の構成員は、全員が同じ形式で神を礼拝するわけでも、同じ政体を用いているわけでもない。私たちの第三十四箇条は宣言している。「儀式が、あらゆる場所において同一で……ある必要はない」。しかし彼らはみな1つの心で礼拝する。みな1つの御霊によって導かれている。みな真に、また現実に聖とされている。彼らはみな「ハレルヤ」と云うことができ、みな「アーメン」と答えることができる。

 この教会こそ、目に見える地上の全教会がしもべとして、はしためとして仕えている教会である。監督派教会であれ独立派教会であれ長老派教会であれ、それらはみなこの1つの真の教会のために奉仕している。それらは単なる建築用の足場にすぎず、その背後でこそ、この建物の大工事が進められているのである。それらは穀物のさやにすぎず、その中でこそ生きた穀物が育ちつつあるのである。それらも、それぞれ程度こそ異なれ、有益に用いられていないわけではない。中でもその最上の、また最良のものは、キリストの真の教会に属する者たちの大部分を訓練している。しかし目に見えるいかなる教会も、「われわれこそ唯一の真の教会である。他にはいない。われわれが死ぬと、知恵も共に死ぬ」、と云う権利はない。目に見えるいかなる教会も、「われわれは永遠に立つ。ハデスの門もわれわれには打ち勝てない」、などと口にするべきではない。

 この教会こそ、主が恵み深くも、その保護と存続、守りと最終的栄光を約束してくださった教会である。フッカーは云う。「聖書には、神が諸教会に対して永遠の愛と救いに至るあわれみとをお示しになると書かれている。しかし、そうしたいかなる約束も、キリストの神秘的なからだと云われるこの教会だけにしか与えられていない」、と。その真の教会は、この世ではちっぽけで、蔑まれているかもしれないが、神の御目にとっては尊く光栄に満ちたものである。岩の上に建てられたこの教会とくらべれば、絢爛豪華なソロモンの神殿ですら卑しく、みすぼらしいものでしかない。

 兄弟たち。「教会」という主題について健全な教理をいだくようにするがいい。ここで一歩間違うと、魂を滅ぼす数々の危険な誤りに陥りかねない。真の信仰者らからなる教会こそ、私たち教役者が説教を語るべく特に任ぜられた教会である。悔い改めて福音を信ずるすべての人々からなる教会こそ、あなたに属していてほしいと私たちの願う教会である。あなたが新しく創造され、1つの真の教会の一員となるまで私たちの働きは全うしたとは云えず、私たちの心も満足しない。この教会の外には、いかなる救いもありえない。

 II. ----続いて第二の点に注意を向けていただきたい。この聖句では1つの建物のことだけでなく、ひとりの建設者のことも語られている。主イエス・キリストは宣言しておられる。「わたしは……わたしの教会を建てます」、と。

 むろんキリストの真の教会は、ほむべき三位一体の三位格すべてによって手厚く世話されている。救済のご計画によれば、キリストの神秘的なからだに属するあらゆる者は、父なる神によって選ばれ、聖霊なる神によって聖められる。父なる神、子なる神、聖霊なる神という3つの位格にしてひとりの神が、救われたあらゆる魂の救いのために共同して働いておられる。これは決して忘れてならない真理である。それにもかかわらず、教会を助ける務めは特に主イエス・キリストに課せられていると考えるべき理由がある。主は独特の、また抜きん出た贖い主にして救い主である。それゆえ主は、この聖句からもわかるように、こう云っておられるのである。「わたしは……建てます。その建設の仕事はわたしの特別の仕事なのです」、と。

 キリストこそ、教会に属するひとりひとりを、しかるべき時に召し出すお方である。彼らは「イエス・キリストによって召された人々」である(ロマ1:6)。キリストこそ、彼らにいのちを与えるお方である。「子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます」(ヨハ5:21)。キリストこそ、彼らの罪を洗い流すお方である。主は、「私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放」ってくださった(黙1:5)。キリストこそ、彼らに平安を与えるお方である。「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます」(ヨハ14:27)。キリストこそ、彼らに永遠のいのちを与えるお方である。「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることが……ありません」(ヨハ10:28)。キリストこそ、彼らに悔い改めを与えるお方である。「神は……悔い改め……を与えるために、このイエスを君とし、救い主として……上げられました」(使5:31)。キリストこそ、彼らが神の子となれるようにするお方である。「この方を受け入れた人々……には、神の子どもとされる特権をお与えになった」(ヨハ1:12)。キリストこそ、彼らのうちに始まった働きを進めさせるお方である。「わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです」(ヨハ14:19)。つまり、「神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ」てくださったのである(コロ1:19)。この方こそ信仰の創始者であり、完成者である。この方こそいのちである。この方によってこそ、キリストの神秘的なからだのあらゆる結び目と器官は備えられる。この方を通してこそ、彼らは義務のために強められる。彼によってこそ彼らは堕落から守られる。彼は彼らを最後まで守り支え、御父の御座の前に彼らを傷なき者として、この上もない喜びをもって立たせてくださる。彼は、すべての信者にとってすべてなのである。

 主イエス・キリストが、ご自分の教会を構成する者たちのうちでこの働きを実行するためにお用いになる力強い代行者は、疑いもなく、ご聖霊である。ご聖霊こそ、キリストを、またキリストの恩恵を魂に適用してくださるお方である。ご聖霊こそ、絶えず更新し、覚醒させ、確信させ、十字架に導き、変化させ、次々と世から石を取り出し、かの神秘的な建物へとはめ込んでおられるお方である。

 しかし、救済のわざの実行を身に引き受け、それを完成に至らせている大いなる建設責任者は神の御子、「人となられたことば」ご自身である。イエス・キリストこそ、「建てる」お方である。

 真の教会を建てるにあたり、主イエスはあえて多くの従属的な手段を用いるほど身をへりくだらせてくださる。福音を宣べ伝える教役者、聖書の流布、優しい叱責、時にかなって語られた言葉、魂を神へ引き寄せる患難の力----これらはみなすべて、主のみわざを成し遂げるための手段であり道具である。しかし、キリストこそ建設総監督として、その工程のすべてを命令し、指図し、指揮しておられる。全太陽系にとって太陽が意味することこそ、真の教会を構成するすべての者たちにとってキリストが意味することにほかならない。「パウロは植えて、アポロは水を注ぐかもしれないが、成長させてくださるのは神である」*(Iコリ3:6)。教役者は説教し、著述家は執筆するかもしれないが、主イエス・キリストだけが建てることがおできになる。そして彼がお建てにならなければ、その働きは頓挫してしまう。

 主イエス・キリストがご自分の教会をお建てになる知恵の何と偉大なことか。すべてが正しい時に、正しい方法でなされる。あらゆる石が順々に、適正な場所にはめ込まれていく。大きな石が選ばれることもあれば、小さな石が選ばれることもある。その働きは素早く進むこともあれば、ゆっくり進むこともある。人はしばしば短気を起こし、何も起こっていないと思う。しかし人の時は神の時ではない。神の目にとって千年は一日のようである。この大建設者に手違いはない。彼は自分のしていることをわきまえている。初めから最後を見通している。彼は完全で、不変の、確かな計画によって働いている。ミケランジェロやレン[英国の建築家 1632-1723]のような建築家による最も雄大な構想ですら、キリストがご自分の教会に関して断てておられる賢いご計画にくらべれば、子どもだましのようにちゃちなものにすぎない。

 キリストがご自分の教会をお建てになる際お示しになるへりくだりとあわれみの何と偉大なことか。彼はしばしば、どう見ても役に立ちそうもない、ごつごつした石を選ばれ、それを最も卓越した細工の中にぴたりとあてはめなさる。彼は、以前の罪や過去のそむきのゆえには、いかなる者をもさげすまず、いかなる者をも退けない。彼はあわれみを示すことを喜ばれる。彼はしばしば最も無思慮で不敬虔な者らを手に取り、彼らをご自分の霊的神殿の光輝く隅石へと変えてくださる。

 キリストがご自分の教会をお建てになる力の何と偉大なことか。主はそのみわざを、世と肉と悪魔の反抗にもかかわらず押し進めておられる。いかなる嵐、いかなる暴風、いかなる時代の擾乱が続こうと、この建築工事は、ソロモンの宮のように粛々と、静謐の中で、物音1つ立てることなく、あわてず、騒がずに進んでいく。彼は宣言なさる。「わたしが事を行なえば、だれがそれをとどめることができよう」、と。

 兄弟たち。この世の子らは、この教会の建設にはほとんど、あるいは全く関心を払わない。彼らは魂の回心などに無関心である。彼らにとって砕かれたたましいや、悔いた心が何であろうか? 彼らの目にはみな「愚かなこと」である。しかしこの世の子らが全く関心を払わなくとも、神の御使いたちの御前には喜びがある。真の教会を加護するためには、自然法則もしばしば停止される。その教会のためとあらば、この世における神のあらゆる摂理的なみわざが定められ、とりはからわれる。選民のためなら、戦争は終結させられ、一国に平和が与えられる。政治家や支配者、皇帝や国王、大統領や国家元首たちにはそれなりの計画があり、企図があり、それらを非常に重大なこととみなす。しかし、それより無限に重大な事がらについて、別の働きが今まさに進んでいるのである。その働きにとっては、権力者らも神の御手ににぎられた斧やのこぎりでしかない。その働きとは、唯一真の教会にはめこむ生ける石を集めることである。神のことばの中で、未回心の人々についてはいかに僅かしか語られていないことか! それは、信仰者について語られていることとはくらべものにならない。力ある猟師ニムロデの生涯は、ほんの数語で片づけられてしまう。信仰者の父アブラハムの生涯は何章にもわたって物語られる。聖書の中で、真の教会に関わることほど重要なことはない。世界は、神のことばではほとんど重視されていない。だが教会とその歴史は大いに重視されている。

 愛する兄弟たち。私たちは永遠に神に感謝しよう。真の唯一の教会の建設を双肩に負っておられるのは力あるお方である。それが人間に負わされていないことで、神をほめたたえよう。それが宣教師や、教役者や、委員会に依存していないことで、神をほめたたえよう。キリストは全能の建設者である。たとえ国々や目に見える諸教会がその務めを知らなくとも、主はご自分の働きをお進めになる。キリストは決して失敗なさらない。お引き受けになったことを確実に成し遂げられる。

 III. ----続いて先に述べておいた第三の点について考察しよう。----この教会が建てられる土台である。主イエスは告げておられる。「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます」。

 この土台ということで、主イエス・キリストは何を意味されたのだろうか? 主は、ご自分が語りかけていた使徒ペテロのことを意味されたのだろうか? 絶対にそうではないと思う。もし主がペテロのことを意味されたのだとしたら、なぜはっきりと、わたしは「あなたの上に」わたしの教会を建てます、と云わなかったか皆目見当がつかない。もしペテロのことを意味していたとしたら主は、「わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます」、と云われたのと同じくらい明白に、「わたしはわたしの教会をあなたの上に建てます」、と云われたに違いない。否、これは使徒ペテロという一個人ではなく、この使徒が口にしたばかりの素晴らしい告白のことであった。誤りがちで、ふらつきがちなペテロという男ではなく、御父がペテロに明らかに示してくださった大いなる真理であった。イエス・キリストご自身に関する真理こそ岩であった。それはキリストの仲保者職、キリストのメシヤ職であった。イエスが約束された救い主であり、真の保証人であり、神と人との間の真実のとりなし手であるというほむべき真理であった。これこそ岩であり、これこそ土台であり、この上にこそキリストの教会は建てられるべきであった。

 兄弟たち。この真の教会の土台を据えるためには大きな代価が払われた。必要とされた代価は、神の御子が私たちの性質をおとりになり、その性質において生き、苦しみを受け、死ぬこと----彼ご自身の罪のためにではなく、私たちの罪のために死ぬことであった。その性質においてキリストが墓に葬られ、よみがえることであった。その性質においてキリストが天に昇り、ご自分のすべての民のため永遠の救済をかちとり、神の右に座すことであった。これ以外のどのような土台も、この聖句が語っている教会の重みを支えきることはできなかった。他のいかなる土台も、罪人たちの世の必要を満たすことはできなかったのである。

 ひとたびかちとられたその土台は非常に強力である。その土台は全世界の罪の重みを支えることができる。これはその上に建てられた、すべての信仰者のすべての罪の重みを支えてきた。思いの罪、想念の罪、心の罪、頭の罪、だれの目にも明らかな罪、だれも知らない罪、神に対する罪、人に対する罪、ありとあらゆる種類の罪----こうしたすべての罪を、この強大な岩は支えて持ちこたえることができる。キリストの仲保者としての職務は、全世界のすべての罪にとって十分な救済策なのである。

 この1つの土台にこそ、キリストの真の教会を構成するあらゆる人は結び合わされている。多くの事がらにおいて信仰者たちは分裂し、意見を異とする。だがその魂の土台という問題においては完全に一つ心である。彼らはみなこの岩の上に建てられているのである。彼らに聞いてみるがいい。彼らはその平安、希望、来たるべき良きものに対する喜ばしい期待をどこから得ているのか、と。そのときあなたは知らされるであろう。すべては1つの力強い源泉、すなわち、神と人との仲保者なるキリスト、そしてキリストが大祭司として、また罪人の保証人として持っておられる職務から流れ出ているのだということを。

 ここには私たちが個人的な注意を払わなくてはならない点がある。私たちはこの岩の上に立っているだろうか? 私たちはこの唯一の土台に本当に結び合わされているだろうか? 古の善良な神学者であるレイトン大主教は何と云っているだろうか? 「神がこの尊い石を積まれた目的は、倦み疲れた罪人たちがその上で安きを得るという、まさにこのことにあった。自分が信仰者であると思い込んでいるおびただしい数の人々が、この石のまわりで横になっているが、それは彼らにとって何の足しにもならない。土台石の近くに、うず高く積み上げられている、ばらばらの石ころが、土台石に結び合わされてはいないのと同様である。キリストとの結合なくして、私たちはキリストから何の益も受けることはない」。

 愛する兄弟たち。もしあなたが自分はこの唯一真の教会の一員かどうか知りたければ、あなたの土台に目を向けるがいい。それは、あなた自身にはわかる点である。あなたが公の礼拝に出席している姿は私たちにも見える。だがあなたが個人的にこの岩の上に建てられているかどうかは私たちにはわからない。あなたが聖餐式に集う姿は私たちにも見える。だがあなたがキリストに結びつき、キリストと1つになっていて、キリストがあなたのうちにおられるかどうかはわからない。しかし、すべてはいつの日か明るみに出されることになる。あらゆる心の秘密がさらけだされることになる。ことによると、あなたは規則正しく教会に出席しており、自分の祈祷書を愛し、あなたの教会によって与えられるあらゆる恵みの手段を常に受けとっているかもしれない。これらはみな、それなりに正しく、良いことである。しかし、そうしている間も、自分の個人的な救いについて決して思い違いをしないようにしなさい。自分の魂が岩の上に建てられているようにしなさい。このことなくして、他のすべては何の役にも立たない。このことがなければ、あなたは決して最後の審判の日に立ちおおせることはできない。その日には、「岩の上に」建った掘っ立て小屋の中にいる方が、砂の上に立った宮殿の中にいるよりも、千倍もましである!

 IV. ----第四のこととして語りたいのは、この教会に対して、この聖句の中で暗示されている試練についてである。ここには、「ハデスの門」について言及されている。その表現の意味するところは、悪魔の力ということである!

 キリストの真の教会の歴史は、常に争闘と戦いの歴史であった。教会は絶えず、この不倶戴天の敵たる、この世の支配者サタンから襲撃を受けてきた。悪魔はキリストの真の教会をあくなき憎悪で憎んでいる。彼は常に、教会を構成するすべての者に対する敵対活動を引き起こしている。この世の子らを常に促しては、自分の意志を行なわせ、神の民を傷つけ苦しめようとしている。彼は、かしらを傷つけることができない以上、かかとを傷つけるのである。信仰者から天国を奪い取ることができない以上、その途上で彼らを悩ますのである。

 六千年もの間、この敵意は続いてきた。おびただしい数の不敬虔な人々が、知らぬこととはいえ悪魔の手先となり、悪魔のわざを行なってきた。多くのパロたちや、ヘロデたちや、ネロたちや、ユリアヌスたちや、ディオクレティアヌスたちや、流血女王メアリーたち、----イエス・キリストの弟子たちを迫害していたときの彼らはみな、サタンの道具でなくて何であったろうか?

 地獄の諸力との戦いは、キリストのからだ全体が経験してきたことである。教会は常に、燃えても焼け尽きない柴であり、----荒野に逃れても大水に呑み込まれない女であった。目に見える教会には、繁栄し平穏無事な時代もあったが、真の教会には決して安息のときはなかった。その争闘は不断のものである。その戦闘は決して終わることがない。

 地獄の諸力との戦いは、真の教会を構成する個々人の経験することである。それぞれが戦わなくてはならない。いかなる聖徒の生涯も、戦闘につぐ戦闘の記録でなくて何であろう? パウロやヤコブやヨハネ、ポリュカルポスやイグナティウスやアウグスティヌス、ルターやカルヴァンやラティマーやバクスターといった人物は、常時戦いに従事していた兵士らでなくて何であったか? 襲撃されるのは聖徒たちの人格であることもあれば、彼らの財産であることもあった。中傷や誹謗で悩まされることもあれば、公然たる迫害に苦しむこともあった。しかし悪魔があの手この手を使って絶えず教会に戦いを挑んでいることに変わりはない。「ハデスの門」は絶えずキリストの民を襲い続けてきたのである。

 兄弟たち。私たち福音の説教者は、キリストのみもとに来るすべての人に対して、尊い、すばらしい約束を差し出すことができる。私たちの主人の御名により、人のすべての思いにまさる神の平安を、何はばかることなくあなたに提供できる。あわれみと、無代価の恵みと、完全な救いとが、キリストのみもとに来て、彼を信ずるすべての者に提供されている。しかし私たちは決して、この世との平和、悪魔との平和を約束しはしない。逆にあなたに警告するものである。あなたが肉体のうちにとどまっている限り、戦いがあり続けるだろう、と。私たちは、キリストに仕えたいというあなたの思いに水を差したり、思いとどまらせたいわけではない。しかし私たちは、あなたに「費用を計算」してほしいのである。キリストに仕える道に何が伴わざるをえないか完全に理解してほしいのである。ハデスはあなたの背後にある。天国はあなたの前にある。故郷は波立ち騒ぐ海の向こう側にある。何万何百万もの人々が、この荒れ狂う海を越え、いかなる反抗にもかかわらず、心の望みとしてきた天国に達してきた。ハデスは彼らに襲いかかったが、勝ちをおさめることはなかった。愛する兄弟たち。前進し、敵を恐れないようにするがいい。ただキリストのうちにとどまるがいい。そうすれば勝利は確実である。

 ハデスの門の敵意に驚いてはならない。「もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう」。世が世である限り、また悪魔が悪魔である限り、戦いはなくならないし、キリストを信ずる者たちは兵士でなくてはならない。世はキリストを憎んだ。そしてこの地上の存続する限り、世は真のキリスト者らを憎み続ける。あの偉大な改革者ルターが云ったように、「教会が地上にある限り、カインはアベルを殺し続けるであろう」。

 ハデスの門の敵意を覚悟しているがいい。神のすべての武具を身につけるがいい。ダビデのやぐらには千もの盾が掛けられていて、いつでも神の民が使えるようになっていた。私たちの戦いの武器は、私たちと同じ貧しい罪人らによって何百万回も試されたが、一度としてなまくらだったことはない。

 ハデスの門の敵意に遭っても忍耐強くあるがいい。これらはみな相働いてあなたがたの益となる。それは、あなたを聖める効果がある。あなたを目覚めさせておく。あなたをへりくだらせる。あなたを主イエス・キリストへより近づくように仕向ける。あなたがこの世に嫌気をさすようにさせる。あなたを、より祈らせるようにさせる。何よりも、それはあなたに天国を切望するようにさせ、あなたに、唇だけでなく心から、「主イエスよ、来てください。御国が来ますように」、と云えるようにさせる。

 ハデスの敵意に打ちひしがれてはならない。神の真の子らの戦いは、そのうちなる平安にまさるとも劣らず、恵みのしるしである。十字架なくして栄冠はない! 何の争闘もないところに、救いに至るキリスト教は何もない! 私たちの主イエス・キリストは云われた。「わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです」。

 V. ----ここで考察すべきことは残すところ1つとなった。それはキリストの真の教会の安全さである。ここには、この大いなる建設者の与えた素晴らしい約束が記されている。「ハデスの門もそれには打ち勝てません」。嘘をつくことのできないお方が、その気高い言質を与えておられる。たとえ地獄がその全力を傾けても決してご自分の教会を転覆させることはできない、と。主の教会はいかなる襲撃を受けても持ちこたえる。決して打ち倒されはしない。造られた他のすべてのものは滅び行き、過ぎ去るが、キリストの教会はそうではない。外的な暴力の手、あるいは内的な腐敗の虫食いは、その他のあらゆる場所で勝ちをおさめているが、キリストがお建てになる宮に打ち勝つことはない。

 世の帝国は目まぐるしく興亡を繰り返す。エジプト、アッシリヤ、バビロン、ペルシャ、ツロ、カルタゴ、ローマ、ギリシャ、ベニス、----これらはみな今どこにあるのか? これらはみな人の手で作られたものであり、滅びすたれた。しかしキリストの真の教会は生き抜いているのである。

 どれほど強大な力を誇った都市も今は瓦礫の山である。バビロンの分厚い城壁は地に崩れ落ちた。ニネベの宮殿はちりの山の下に埋もれている。テーベの百の城門も昔日の夢である。ツロは今や漁師たちの網干し場であり、カルタゴは廃墟でしかない。それにもかかわらず、その間、真の教会は立ち続けている。ハデスの門はこれに打ち勝てないのである。

 目に見える教会のうち最古のものは、多くの場合、腐敗して滅びうせた。エペソの教会やアンテオケの教会はどこにあるのか? アレクサンドリヤの教会やコンスタンチノポリスの教会はどこにあるのか? コリントやピリピやテサロニケの教会はどこにあるのか? 一体全体どこに行ったのか? それらは神のことばから離れたのである。それらは自分たちの司教や教会会議を誇り、自分たちの儀式や学識や古さを誇った。キリストの真の十字架を誇りとしなかった。福音を堅く握っていなかった。主イエスにその正当な職務を帰さず、信仰にその正当な位置を与えなかった。そして今やそれらは、かつてあったが今はない物の仲間にはいっている。それらの燭台は取り去られた。しかしその間ずっと真の教会は生き抜いてきたのである。

 真の教会はある国で抑圧されただろうか? それは他の国へ逃れた。それはある土地で蹂躙され、虐げられただろうか? それはどこか別の地方で根を張り、栄えた。火も剣も罰金も刑罰も、決して息の根をとめることはできなかった。その迫害者たちは死に、自分の場所へ行ってしまったが、神のみことばは生き続け、成長し、増え広がっていった。真の教会は、人の目には弱く映るかもしれないが、これまで数多くの鎚を砕いてきた----またことによると世の終わりまで、さらに多くを砕く----鉄床なのである。それに触れる者は、神のひとみに触れるのである。

 この聖句の約束は真の教会の全体にあてはまる。世にキリストの証人がひとりもいなくなることは決してない。最悪の時代にもキリストの民はいる。キリストにはアハブの時代でさえ七千人の民がいた。私の信ずるところ、今もなお、ローマカトリック教会やギリシャ正教会という暗黒の場所にさえ、多くの弱さにもかかわらず、キリストに仕える若干の人々がいるはずである。悪魔は憤怒を燃やして荒れ狂うかもしれない。国によっては教会が非常に衰微するかもしれない。しかしハデスの門が完全に「打ち勝つ」ことは決してない。

 この聖句の約束は、教会を構成する個々人にあてはまる。神の民の中にはあまりにも打ちひしがれるあまり、自分の安全に絶望する者もいた。中にはダビデやペテロのように悲しいほど転落した者もいた。クランマーやジューエルのように、一時的に信仰から離れた者もあった。多くの者は、過酷な疑いや恐れで悩まされた。しかし、彼らはみな最後には、どれほど年少の者も最古老の者と同じく、いかに弱い者も最も強い者と同じく、無事に天の故国へ行き着いた。そしてこれは世の終わりまでそうあり続けるであろう。明日の太陽が昇らないようにできるだろうか? ブリストル海峡に打ち寄せる大潮の満ち引きをやめさせることができるだろうか? 天体がそれぞれの軌道を描いて回るのを止めることができるだろうか? そのような事態が起こればまだしも、そうでない限り、いかに虚弱な信仰者をも救われないようにすることは決してできない。----この岩の上に建てられた教会を形作る生きた石が、たとえどれほど小さく、どれほど見ばの悪い石であろうと、最終的な安全へ至らないようにさせることは決してできない。

 この真の教会はキリストのからだである。その神秘的なからだの骨一本といえども砕かれることはない。----真の教会はキリストの花嫁である。神が永遠の契約によって結び合わされた者は決して引き離されることはない。----真の教会はキリストの群れである。獅子が来てダビデの群れから子羊を取って行くと、ダビデは立って獅子の口からその子羊を救い出した。キリストも同じようになさるであろう。キリストはダビデよりも偉大なダビデの子である。キリストの群れの羊は、病んだ羊一頭でさえ滅びることはない。キリストは終わりに日に御父に云うであろう。「あなたがわたしに下さった者のうち、ただのひとりをも失いませんでした」、と。----真の教会は地の麦である。それはふるいにかけられるかもしれない。風でふり分けられ、もまれ、激しく揺さぶられるかもしれない。しかし、その一粒さえ失われることはない。毒麦や殻は焼きつくされるが、麦は納屋に納められる。----真の教会はキリストの軍隊である。私たちの救いの指揮官はその兵士を一人も失わない。彼の戦略は決して敗北に終わることがない。彼の補給は決して尽きることがない。彼の最終的な兵員名簿は最初のものと全く変わらない。数年前クリミヤ戦争のため英国を勇壮に進発していった者のうち、何と多くが戻ってこなかったことか! 軍楽隊の演奏とともに、軍旗をひるがえし、笑顔で行進していった連隊は、その多くが異国の土に骨を埋め、母国に再び帰ることがなかった。しかし、キリストの軍隊はそうではない。彼の兵士の一人たりとも失われることは最後に至るまでない。彼ご自身が宣言しておられる。「彼らは決して滅びることが……ありません」、と。

 悪魔は真の教会を構成する者らのうち何人かを投獄するかもしれない。殺したり焼いたり、拷問したり絞首刑にしたりするかもしれない。しかし彼は、からだを殺したあとでは何1つ行なうことができない。たましいを害することができない。数年前フランス軍がローマを占領したとき、異端審問時代の牢獄の壁に、一人の囚人が書いていた言葉が発見された。だれの手によるものだったかはわからない。しかしその言葉は記憶に値するものである。彼は死んだが、今もなお語っている。この人物が、おそらくは不正な審理の後で、そしてさらに不正な破門の後で、壁に記した言葉は、次のような驚愕すべきものであった。----「ほむべきイエスよ。私をあなたの真の教会から放逐することは彼らにもできません」。その記録は真実である! サタンが全力を傾けても、キリストの真の教会からはひとりも信仰者を放逐できないのである。

 この世の子らは、教会に対してすさまじい戦いを挑むかもしれないが、回心の働きを止めることはできない。初期の教会時代に、あの冷笑的なユリアヌス帝は何と云っただろうか。----「その大工の息子がいま何をしているというのだ?」。ひとりの老キリスト者が答えた。「この方はユリアヌス自身の棺を作っておられるのだ」。しかし、ほんの数箇月しか経たないうちにユリアヌスは、その華麗な権力のただ中にあって、戦死したのである。スミスフィールドで火がともされ、ラティマーやリドリが火刑柱で焼かれていたとき、キリストはどこにいたのか? そのときキリストは何をしていたのか? キリストはなおもその建設のみわざを続けておられたのである。そのみわざは困難な時代においてすら常に前進し続けるであろう。

 愛する兄弟たち。キリストに仕え始めることを恐れてはならない。あなたが自分の魂をゆだねるお方は、天と地の一切の権威を握っておられ、その方があなたを守られるのである。この方は決してあなたが難破しないようにしてくださる。親族は反対するかもしれない。隣人はあざけるかもしれない。世はそしり、鼻で笑うかもしれない。恐れてはならない! 恐れてはならない! ハデスの力は決してあなたの魂を打ち負かせない。あなたに反抗して立つあらゆるものより偉大なお方があなたに味方してくださる。

 たとえ教役者が死に、聖徒らが取り去られても、キリストの教会の行く末について恐れてはならない。キリストはご自分の御国の進展を守り支えることがおできになる。さらに有能で、さらに輝かしい星々を起こされる。星々はみな彼の右手のうちにある。将来に対して不安を募らせるのはやめるがいい。政治家の政策や、羊の衣をかぶった狼たちの悪巧みで打ちひしがれるのはやめるがいい。キリストはこれからも常にご自分の教会を養ってくださる。キリストは、ハデスの門もそれに打ち勝つことがないようにしてくださる。私たちがこの目で見ることはないかもしれないが、すべては良き結末を迎える。この世の国はやがて私たちの神およびそのキリストのものとなるのである。

 さてここで、この説教の実際的な適用の言葉を少し述べさせてほしい。いま私が語りかけている人々の多くは、私が初めて語りかける人々である。ことによると、私が語りかけている人々の多くに私が語りかけるのは、これが最後になるかもしれない。ではこの礼拝が、この説教をひとりひとりの心に深く銘記させずに終わるようなことがないようにしよう。

 1. 最初の適用として云いたいことは、1つの問いである。どんな問いだろうか? いかなる問いをもって、あなたに近づこうというのだろうか? 何を私は問おうというのだろうか? 私は問おう。あなたは唯一真の教会の一員であるか、と。あなたは神の目の前において、最も高貴で、最も気高い意味において、「教会員」だろうか? もうあなたは、私がどういう意味でこう云っているかわかっているはずである。私は英国国教会などをはるかに越えたところに目を注いでいる。私は、岩の上に建てられている教会のことを語っているのである。私は深く厳粛な思いを込めて問いたい。----あなたはその唯一のキリスト教会の一員だろうか? あなたはその偉大な土台に結び合わされているだろうか? あなたはご聖霊を受けているだろうか? 御霊はあなたの霊とともにあかししているだろうか? あなたはキリストと1つであり、キリストはあなたと1つである、と。私は神の御名によって切に願う。どうかこれらの問いを心にとどめ、真剣に考えていただきたい。

 親愛な兄弟たち。もしあなたが私の質問に満足の行く答えが出せないというなら、深く用心するがいい。用心するがいい。用心するがいい。あなたが信仰の破船をしないように。用心するがいい。最後の最後でハデスの門があなたに打ち勝ち、悪魔があなたを自分のものと申し立て、あなたが永遠に難破してしまわないように。用心するがいい。あなたが聖書の読める国、キリストの福音の光降り注ぐ中から穴の中へ下っていかないように。用心するがいい。最後の審判の時キリストの左手にいることにならないように。

 2. 私が第二の適用として云いたいことは、1つの招きである。私は、現在真の信仰者となっていないあらゆる人に招きの言葉をかけたい。私はあなたに云う。今すぐこの唯一真の教会に加わるがいい。主イエス・キリストのもとへ来て、決して忘れられることのない永遠の契約によって、彼に結びつくがいい。キリストのもとへ来て、救われるがいい。いつかは決断しなくてはならない日がやってくる。では、まさに今晩であってならないわけがあろうか? 「きょう。」と言われている間なのだから、きょうであってならないわけがあろうか?----なぜ明日の朝が明ける前の今晩であってはならないのか?----私を所有し、私がお仕えしているお方のもとに行くがいい。私の主人イエス・キリストのもとへ来るがいい。私は云う。来るがいい。今やすべての備えは整っているのだから。あわれみはあなたを待ち受けている。天国はあなたを待ち受けている。御使いたちはあなたのことを喜ぶべく待ち受けている。キリストはあなたを受け入れるべく待ち受けている。キリストは喜んであなたを受け入れ、その子どもたちの中へあなたを迎え入れてくださる。来て、箱舟の中に入るがいい。----神の御怒りの大水はすぐにも地上にぶちまけられようとしている。----箱舟の中に入り安全を得るがいい。

 この救助艇に乗り込むがいい。この古い世界はまもなくばらばらになろうとしている! あなたには、その震える音が聞こえないだろうか? 世界は砂州に乗り上げた難破船にすぎない。夜は更けて、----波は高まり出し、----風が吹きすさみつつあり、----突風が今にも古びた廃船を木っ端みじんにしてしまうであろう。しかし救助艇は水面におろされており、私たち福音の役者らは、あなたに懇願しているのである。この救助艇に乗り込み救われるがいい、と。

 あなたは問うだろうか? どうして私に行かれましょう? 私の罪がこれほどたくさんあるというのに、と。あなたは問うだろうか? 自分はいかにして行けばいいのか、と。あの美しい賛美歌の言葉を聞くがいい。

      ありのままの我にて 誇れるもの何もなきまま
      ただわがため 汝が血の流されしゆえ
      また汝の われに来よと命じ給うがゆえ
      おゝ、神の子羊よ われは行かん  (賛美歌271番原詩)

 これこそキリストのもとへ来る道である。ぐずぐずせずに、大急ぎで来るべきである。飢えた罪人のまま来て、満たされるべきである。----貧しい罪人のまま来て、豊かになるべきである。----悪しき、何の値うちもない罪人のまま来て、義を着せられるべきである。そのようにして来るとき、キリストはあなたを受け入れてくださる。キリストの「ところに来る者を」、キリストは「決して捨て」ない。おゝ、来るがいい。キリストのもとへ来るがいい。真の教会の中へ信仰によって飛び込み、救われるがいい。

 3. 最後の最後に、信仰を持っておられる聴衆の方々に、一言勧めの言葉を述べさせていただきたい。

 兄弟たち。聖い生活を送るがいい。あなたの属する教会にふさわしい歩みをするがいい。天国の市民らしく生きるがいい。人々の前であなたの光を輝かせ、あなたの行動によって世が益を得るようにするがいい。彼らに、あなたがどなたのものか、どなたにお仕えしているかを知らせがいい。すべての人に知られ、また読まれるキリストの手紙となるがいい。鮮明な文字の手紙となり、だれからも「この人がキリストのものかどうかわれわれにはわからない」、などと云われないようにするがいい。

 兄弟たち。勇敢な生活を送るがいい。人々の前でキリストを告白するがいい。現在どのような地位にあろうと、その地位においてキリストを告白するがいい。なぜ彼を恥じることがあろうか? 彼は十字架の上であなたを恥とはなさらなかった。彼は今も天国の御父の前であなたのことを喜んで告白しようとしておられる。ではあなたはなぜ彼を恥じることがあろうか? 大胆になるがいい。ことさら大胆になるがいい。勇敢な兵士は自分の軍服を恥じたりしない。真の信仰者は決してキリストを恥じるべきではない。

 兄弟たち。喜ばしい生活を送るがいい。あのほむべき希望----イエス・キリストの再臨----を待ち望む者らしく生きるがいい。これこそ私たちがみな待ち望むべきことである。私たちの心を占めるべきなのは、自分が天国へ行くという思いよりも、天国が私たちのもとへ来るという思いである。神の民すべてにはやがて良い時がやってくる。----キリストの教会全員にとって良い時が、----すべての信仰者にとって良い時が、----悔い改めない不信者にとっては悪い時が、----自分自身の情欲に仕え、主に背を向けるような者にとっては悪い時が、しかし真のキリスト者にとっては良い時がやってくる。その良き時のために、私たちは待ち続け、目を覚まして、祈っていようではないか。

 現場用の足場はまもなく取り壊される。----最後の石がまもなく引き出されようとしている。----大殿堂の冠石がまもなく置かれようとしている。ほんの少しすれば、この建造物の美しさが、余すところなく明らかに見て取れるようになる。

 この偉大なる大建設者はまもなくご自身でやって来られる。一堂に集められた世界の前に1つの建物が見せられる。そこには何の欠陥もない。救い主と救われた者らはともに喜び合う。そして全宇宙が認めることになる。キリストの教会という建物はすべてが完璧に成し遂げられた、と。

真の教会[了]

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*1 この説教は、1858年8月、ウェストンスーパーメアで、ロー大執事の主宰により開催された聖職者総会で語られたものである。[本文に戻る]

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