Heading for Heaven         目次 | BACK | NEXT

5. 天国をめざして


「私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです」。 IIテモテ4:6-8

 この言葉で私たちが目にするのは、使徒パウロが3つの方向を眺めている姿である。----その方向とは、下方・後方・前方、すなわち、下方にある自分の墓、後方にある自分の伝道生活、そして前方にある、かの大いなる日、すなわち、最後の審判の日である。しばしの間、使徒のかたわらに立ち、彼の用いている言葉に注目してみよう。幸いなことよ、この場にあって、パウロが眺めていたのと同じ方向を見つめ、パウロと同じように語ることのできる人は。彼は下方にある墓を眺めているが、恐れなしにそうしている。彼が何と云っているか聞くがいい。

 「私は今や注ぎの供え物となります」。私は今や、さながら犠牲の場に引き出され、祭壇の四隅の角(つの)に紐で縛りつけられた動物のようである。葡萄酒と油は、すでに私の頭に注ぎ出された。必要な儀式はすべて完了した。あらゆる準備が整った。残るはただ、死の一撃だけであり、それですべてが終わるのだ。

 「私が世を去る時はすでに来ました」。私は、さながら今にも抜錨し、出帆しようとしている船のようである。船内のすべては準備万端整っている。私が待つのはただ、これまで私を岸に繋ぎとめていた係留索が解かれることだけであり、それから先は航海を始めるだけだ。

 兄弟たち。これは、私たちのようなアダムの子の唇から発せられたものとは思えないほど光輝に満ちた言葉である。死は厳粛なものであり、特にそれが間近に迫りくるときほど厳粛になることはない。墓場は冷涼たる、心を消沈させる場所であり、恐ろしくないふりをしても無駄である。それなのに、ここにいるひとりの定命の人間は、あの狭苦しい、「すべての生き物の集まる家」[ヨブ30:23]を穏やかに見つめることができ、深淵のふちに立ちながらも、「私はすべて見通しているが、恐ろしくはない」、と云えているのである。

 さらに彼に聞いてみよう。彼は後方にある自分の伝道生活を眺めているが、恥じることなしにそうしている。彼が何と云っているか聞くがいい。

 「私は勇敢に戦い……ました」。ここで彼は兵士として語っている。私は、大勢の人間をひるませ、尻込みさせてきた、この世と肉と悪魔に対する戦いを勇敢に戦ってきた。

 「私は……走るべき道のりを走り終え……ました」。ここで彼は、賞を目指して走る走者として語っている。私は、私のために計画された競走を走り抜いた。私のために定められた走路を、それがいかなる悪路、急坂であっても、走り通した。困難さゆえにわきへそれるもことなく、とうとう決勝点に達したのだ。

 「私は……信仰を守り通しました」。ここで彼はしもべとして語っている。私は、私に任せられた栄光の福音を堅く保ってきた。私はそれに人間の伝統の混ぜ物をしたり、勝手な独創をつけ加えてその単純さを損なったりすることをしなかったし、その純度を落とそうとする者らに対しては、絶えず面と向かって抗議し続けてきた。彼はこう云っているかのようである。兵士として、走者として、しもべとして、私には恥ずるところがない、と。

 兄弟たち。幸いなキリスト者とは、この世を去るとき、このような証言を後に残していける人のことである。むろん曇りない良心があるからといってだれも救われないし、いかなる罪も洗い落とされはしない。また、私たちが髪の毛一筋でも天国へ近づくわけでもない。それでも、曇りない良心は、私たちが死の床につくときには、愛すべき訪問客となるであろう。あなたは『天路歴程』の中で、あの正直翁が死の川を越えていく場面を覚えているだろうか? バンヤンは云う。「さて、その川は折しも所によっては両岸に溢れていたが、正直氏は生前良心者にそこへ迎えに来てくれと話しておいたので、彼がやって来て手を貸して渡るのを手伝った」*。まぎれもなくこの箇所には、尽きせぬ真理の鉱脈がある。

 さらにもう一度、使徒に聞いてみよう。彼は前方にある大いなる清算の日を眺めているが、疑いを持たずにそうしている。彼の言葉に注意するがいい。「今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです」。あたかも彼はこう云っているかのようである。私には、輝かしい報いが用意されている。義人だけに与えられる栄冠が私のために保管されている。最後の審判の大いなる日に、主はこの栄冠を私に、そして私とともにいるすべての人々に授けてくださるのだ。その人々とは、目に見えない救い主として主を愛してきた人々、顔と顔を合わせて主にお会いすることを待ち望んできた人々である。私の務めは終わった。今の私に残された願いは、ただこの1つだけであり、他には何もない、と。

 兄弟たち。見ての通り、彼は何のためらいも疑念もなしにこう語っている。彼はその栄冠を確実なこと、すでに自分の所有と決まったこととみなしている。彼は、正しい審判者がそれを授けてくださるとの信念を宣言している。パウロは、自分が言及したその大いなる日が、いかなる状況のもとで、いかなることとともに到来するかをことごとく知っていた。大いなる白い御座、召集された全世界、開かれた数々の書物、暴かれたあらゆる秘密、耳を傾ける御使いたち、戦慄すべき宣告、永遠の分離、こうしたことすべてを彼は熟知していた。しかし、こうしたことの何をもってしても、彼を動揺させはしなかった。彼の強い信仰は、これらすべてを跳び越えて、ただイエスだけを見ていた。すべてに打ち勝たれる、彼の「弁護してくださる方、注ぎかけの血、罪の洗い」だけを見ていた。彼は云う。「義の栄冠が私のために用意されている」。「主が、それを私に授けてくださるのです」。彼はまるでこの目でそれを見たかのように語っている。

 こうしたことが、これらの節にふくまれている主な事柄である。そのうちの大部分については、今は語ることができない。それゆえ私は、この箇所のただ一点だけをあなたがたの前に提示しようと思う。それは、この使徒が、最後の審判の日に自分を待ち受けていることを思い描くにあたって示している、「確固たる希望」にほかならない。私は、喜んでこのことを行ないたいと思う。なぜなら、この確信という主題には非常な重要性が付随しており、へりくだりをもって云わせてもらうが、今日このことは、しばしば非常におろそかにされていると思わされるからである。しかし同時に私は、それを恐れおののきつつ行ないたい。私はこれから、自分が非常に困難な場所に足を踏み入れようとしている気がする。この件について性急なこと、また非聖書的なことを語るのはたやすいことであると感じている。真理と過誤の間を通り抜ける道は、ここでは特に狭い細道になっている。もし私が、ある人々に善を施し、なおかつ別の人々に害を与えずにすませられたならば、非常に感謝なことであろう。

 さて、私はあなたの前に4つのことを提示したいと思う。ひとまずここで、それを一括して述べておけば、今後の道筋がはっきりするであろう。

 I. まず第一に私が示そうと思うのは、パウロがここで表明しているような確固たる希望を持つのは真実な、聖書的なことだということである。
 II. 第二に私は、1つ大幅な譲歩をしたいと思う。すなわち、人は一度もこの確固たる希望に到達しなくとも、救われていることがありうるということである。
 III. 第三に私が提示しようと思うのは、なぜ確固たる希望をことのほか願い求めるべきかという、いくつかの理由である。
 IV. 最後に私が指摘しようと思うのは、なぜ確固たる希望に到達する人がほとんどいないかという、いくつかの原因である。

 I. まず第一に、いま述べたように、確固たる希望を持つのは真実な、聖書的なことである。

 ここでパウロが表明しているような確固たる希望は、ただの妄想や漠然とした考えではない。神経の高ぶりから生じたものでも、活発な気質のなせるわざでもない。それは、人の持って生まれた体質や気質とは関係なしに授けられる、聖霊の明確な賜物であり、キリストにあるあらゆる信仰者が目当てとし、追求すべき賜物である。

 私の見るところ、神のみことばの教えによれば、信仰者は自分の救いについて、確固たる確信に到達することができると思われる。

 私はあえて断言する。真のキリスト者、すなわち、回心した人間は、非常に甘美な信仰の段階に達することができる。そこでは通常、自分の魂の安全と赦しについて全く力強く確信することができ、疑いに悩まされることはめったにない。恐れで乱されることも、不安な自問自答で惑乱させられることも、自分の状態についておびやかされることもめったにない。罪との多大な内的争闘にいらだつことはあっても、パウロのように、おののくことなく死を待ち望むことができ、うろたえることなく死後の審きを待望できる。

 そうしたものが、私の説く確信である。このことによく注意しておくがいい。私が云うのは、このこと以上のものでも、以下のものでもない。

 さてこのような言明はしばしば異論を唱えられ、否定されるものである。多くの人々はこれを全く理解することができない。

 ローマ教会は、この確信を口を極めて非難している。トリエント公会議の断定的な宣言によれば、「信仰者が自分の罪の赦しを確信できるなどということは、根拠のない不敬虔な空頼みである」、とされ、彼らの著名な擁護者であるベルラルミーノ枢機卿[1542-1621]は、それを「異端者たちの主要な誤り」と呼んでいる。

 また私たちの間にいる世俗的な者たちも、その非常な大多数は、確信の教理に反対している。これによって彼らは気分を害し、いらだたしく思う。他の人々が甘美な確信に満ちているのが気に入らない。自分たちは一度もそのように感じたことがないからである。確かに彼らがこれを受け入れないのも不思議ではない。

 しかし真の信仰者の中にも、確信の教理を拒否する人々がいる。彼らはそれを、危険をはらんだ教理として遠ざけたる。それを僭越な増上慢と紙一重だと考えるのである。どうやら彼らは、本当にへりくだった人なら、常にある程度の疑いをもって生き続けるものだと思っているらしい。これは遺憾なことであり、非常な害悪をもたらしつつあることである。

 私も、世の中には図々しく思い上がった馬鹿者どもがいることは率直に認める。彼らは確信を感ずると公言するが、それには何の聖書的な保証もない。神から悪いと思われているのに自分のことを良いと思う人々、逆に神から良いと思われているのに自分のことを悪いと思っている人々は、いつの時代にもいるものである。そうした人々は常にいる。聖書の教理のうち、濫用されたり、だましごとに用いられたり、偽造されたりしなかったものは1つもない。肥えた土には、麦ばかりでなく雑草も生えるものである。この世が続く限り、熱狂者や狂信者はいるであろう。しかし、これらすべてにもかかわらず、確固たる希望は現実にありえる真実のことである。私は、真実の、十分な根拠に基づいた確信が存在することを否定するすべての人々に対して、単純にこう答える。「聖書を見てみるがいい」。もしそこに確信がなければ、私は何の二の句も継ぐまい。

 しかしヨブは云ってはいないだろうか。「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。私の皮が、このようにはぎとられて後、私は、私の肉から神を見る」、と(ヨブ19:25、26)。

 ダビデは云っていないだろうか。「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです」(詩23:4)。

 イザヤは云っていないだろうか。「志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです」、と(イザ26:3)。また、「義は平和をつくり出し、義はとこしえの平穏と信頼[確信]をもたらす」、と(イザヤ32:17)。

 パウロはローマ人らに云っていないだろうか。「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます」、と(ロマ8:16)。また、コリント人らに云っていないだろうか。「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です」、と(IIコリ5:1)。また、テモテに云っていないだろうか。「私は、自分の信じて来た方をよく知っており、また、その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができると確信しているからです」、と(IIテモ1:12)。また彼はコロサイ人らに、「理解をもっての豊かな全き確信」*について語り(コロ2:2)、ヘブル人らに向かって「信仰の十分な確信」や「希望についての十分な確信」*について語っていないだろうか(ヘブ10:22 <英欽定訳>; 6:11)。

 ペテロははっきりと云っていないだろうか。「ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい」、と(IIペテ1:10)。

 ヨハネは云っていないだろうか。「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています」、と(Iヨハ3:14)。また、「私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです」、と(Iヨハ5:13)。さらにまた、「私たちは神からの者であることを知っています」*、と(Iヨハ5:19)。

 兄弟たち。私は、論争の種となっている点について語る際は、衷心からへりくだりつつ語りたいと思う。私も、自分自身が、愚かしく、誤りやすい、アダムの子であると感じている。しかし、私が云わなくてはならないのは、今引用した箇所において見られるのは、今日の多数の人々がそこにとどまって満足しているように見える、ただの「期待」や「あてにすること」をはるかに越えた何かである、ということである。私の目に映っているのは、信念と確信と既知の言葉、否、必然性すら込められた言葉である。----そして、もしこれらの聖句をその明らかな額面通りの意味に受けとってよいとしたら、確信の教理は真実である、と少なくとも私には感じられるのである。

 しかしさらに、確信の教理を増上慢と紙一重だとして嫌うすべての人々に対する私の答えは、これである。ペテロやパウロ、ヨブやヨハネの足跡をたどるのは、到底増上慢であるとは云えないであろう。彼らはみな、この世のいかなる人よりも傑出してへりくだった、謙遜な人々であった。それにもかかわらず、彼らはみな自分の状態について、確固たる希望をもって語っている。確かにここから教えられるのは、深いへりくだりと、強い確信とは完璧に両立しうる、ということである。そして、他に何もなくとも、この単純な理由からして、増上慢の非難は全く当たらないことになる。

 さらに私の答えは、現代においてさえ多くの人々が、上の主題聖句が表現しているような確固たる希望に到達してきた、ということである。多くの信仰者が、御父と御子とのほぼ間断なき交わりの中を歩み続けているように思われる。彼らは、自分が神の和解なった御顔の光に浴し続けているという実感をほぼやむことなく覚え続けたと思われ、その体験を記録に残してきた。時間さえ許せば私は、著名な名前をいくつも挙げることができるであろう。そうした経験はこれまでも、また今現在も存在している。それだけで十分である。

 最後に私の答えは、神が無条件に断定しておられる問題について力強い確信を感じることが誤っているはずがない、ということである。神が断固として約束しておられることを断固として信ずること、決して変わることのないみことばと神の誓いに基づいている赦しと平安について確固たる信念を持つことが、過ちのはずがない。信仰者が確信を感ずるとしたら、それは自分の内側に見られる何かにより頼んでいるのだ、などと考えるのはとんでもない間違いである。彼が頼みにしているのは、真理の聖書と新しい契約の仲保者だけである。彼は、主イエスのおことばがあだやおろそかなものではないと信じ、そのおことばを額面通りに受け取っている。結局のところ確信とは、「成熟した信仰」以外の何物でもない。それは、キリストの約束を雄々しくつかみとる信仰であり、あの善良な百人隊長のように論ずる信仰にほかならない。「ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私は直ります」*(マタ8:8)。

 間違いなく、この世でパウロほど、自分の何かを頼んで確固たる希望を持とうなどということから遠かった者はないであろう。自分のことを罪人のかしらと書いたこの人物は、自らの咎と腐敗を深く実感していたが、そのとき彼がさらに深く実感していたのは、キリストの義の長さと広さであった。彼は、自らの心の内側の悪の源泉について明確に認識していたが、そのとき、いやまさって明確に認識していたのは、もう1つの源泉、すなわち、あらゆる汚れを取り除くことのできる泉であった。彼は、自らの弱さをまざまざと感じていたが、そのとき、いやまさってまざまざと感じていたのは、「わたしの羊は決して滅びることがありません」(ヨハ10:28)というキリストの約束が破られることはありえない、ということであった。自分が嵐の海原に浮かぶ、ちっぽけで、はかない小舟であることを、だれか知っている者がいるとしたら、彼こそその人であった。逆巻く波とどよめく暴風雨が自分を取り巻いていることを、だれか知っているとしたら、それは彼であった。しかしそのとき、彼は自己から目を離し、イエスに目を注いで、そのようにして希望をいだいていた。彼は、安全で確かな錨が幕の内側にあるのを覚えていた。自分を愛し、自分のためにご自身をお捨てになったお方のことばと、みわざと、とりなしを覚えていた。そして、このことこそ、彼をしてこれほど大胆に、「栄冠が私のために用意されているのです。主が、それを私に授けてくださるのです。主は私を守られる。私は、決して失望させられることがない」、と結論させることができたものだったのである。

 II. 先に語っておいた第二のことに話を進めたい。先に私は、人は一度もこの確固たる希望に到達しなくとも、救われていることがありうる、と云った。

 このことは何の留保もなく認めたい。一瞬たりとも私は異議を唱えはしない。私は、神が悲しませてもおられない、悔いた魂を1つでも悲しませたくはないし、今にも気を失いそうな神の子らの一人をも落胆させたくはない。また、人は確信を感じるまではキリストの恵みや救いに全くあずかっていないのだ、などという印象を与えたいとも思わない。救いに至るキリストへの信仰を持つことと、使徒パウロが享受していたような確固たる希望を享受することとは全くの別物である。このことは決して忘れてはならないと思う。

 何人かの偉大で善良な人々が、これとは異なる見解を持っていることは承知している。私の信ずるところ、かの傑出した人、『セロンとアスパシア』の著者、ウェストン・ファヴェルのヘンリーは、私が今述べたような区別を認めていなかった。しかし私は、いかなる人をも師とは呼びたくない。私としては、私が今主張したのとは異なる考え方は、宣べ伝えるのに最も不快な福音であり、魂をいのちの門から長いこと追い払うようなものであると考える。

 私は怖じることなくこう云うことができる。すなわち、恵みによって人は、キリストのもとへ逃れて来るに足るだけの信仰を持つことができる。真実にキリストをつかみとり、真実に彼に信頼し、真実に神の子どもとなり、真実に救われることができるだけの信仰を十分持つことができる。だがしかし、その人が一生の間、多くの不安と、疑いと、恐れから、決して自由になれない、ということもありうる、と。

 古のワトソンは云う。「手紙には、封印を押されずに書かれた手紙もある。同様に、恵みは心の中に書かれても、御霊がそれに確信の証印を押さないこともありうる」。

 莫大な財産の跡継ぎとして生まれた子どもがいたとしても、その子が決して自分の富について悟ることがないこともありえる。----子どもじみたまま生き、子どもじみたまま死に、決して自分の所有物の豊かさを知らないこともありえる。それと同様に、キリストの家族に生まれた人が、たとえ救われていたとしても、ずっと赤子のままで、赤子として考え、赤子として語り、決して生き生きとした信仰を享受することも、自分の相続財産の真の特権を知ることもないということもありえる。

 それゆえ、兄弟たち。私の意図を取り違えないでほしい。へんな誤解をして、まるで私が、パウロのように「栄冠が私のために用意されているのを、私は知っているし、確信している」、と云えない者以外はだれも救われていないのだ、と教えているのだなどと考えないようにしてほしい。

 私はそうは云っていない。そんなことは何も語っていない。人はキリストを信ずる信仰を持たなくてはならない。これが唯一の扉である。信仰なくして、いかなる人も救われることはできない。----これは確実である。人は自分の罪と失われた状態を感じなくてはならない。赦しと救いを求めてイエスのもとに来なくてはならない。彼にだけ自分の望みをかけなくてはならない。しかし、もしその人に、こうしたことを行なうだけの信仰がありさえするなら、それがどれほど弱い信仰だったとしても、その人が天国へ入れないことはありえないと私は請け合う。しかり! たとえある人の信仰がからし種一粒ほどの大きさしかないとしても、それが彼をキリストのもとに至らせ、彼をキリストの衣のふさにさわらせることができるなら、彼は救われる。----パラダイスにいた最古の罪人に劣らないほど確実に、またペテロやヨハネやパウロに劣らないほど完全に、永遠に、救われるのである。確かに私たちの聖潔には程度の差がある。しかし私たちの義認には、何もそのようなものはない。

 しかし、こうしたすべての間にも、注意していただきたい。その哀れな魂は、自分が神に受け入れられていることについて、全く確信を持たないことがありえる。彼は恐れにつぐ恐れ、疑いにつぐ疑いを有することがありえる。多くの疑念を抱き、多くの不安、多くの葛藤、多くの心もとなさ、暗雲、暗闇、嵐、暴風を、生涯最後まで持ち続けることがありえる。

 もう一度云うが、キリストに対するむき出しの単純な信仰さえあれば、たとえ決して確信に到達することがなくとも、人は救われる。そう私は請け合う。しかし、その人が強く満ちあふれる慰めとともに天国に至るだろうとは請け合えない。そうした信仰が人を無事に停泊地に入港させることは請け合ってもいいが、その人が、波にもまれ、暴風雨に翻弄され、わが身の安全などほとんど感じられないまま岸辺にたどりつくことがないとまでは請け合えない。

 兄弟たち。私の信ずるところ、この信仰と確信との区別を心に留めておくことは非常に重要である。それは、求道者にとって時々理解困難と思われることを説明している。忘れないようにしよう。信仰は根であり、確信は花なのである。疑いもなく、根のないところに花はありえない。しかし、それと同じくらい確かなことは、根があっても花がないことはありえる、ということである。信仰は、あの押し合いへしあいする群衆の中で、おののきつつ背後からイエスに近づき、彼の衣のふさにさわった哀れな女である。確信は、今にも自分を殺そうとする者らの真ん中に平然と立ち、「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます」、と云っているステパノである。信仰は、「イエスさま。私を思い出してください」と叫ぶ、悔い改めた強盗である。確信は、ちりの中に座り、できものだらけの体で、「私は知っている。私を贖う方は生きておられる」、と云うヨブである。信仰は、沈みかけ、おぼれそうになったペテロの挙げた叫びである。「主よ。助けてください」。確信は、同じペテロが後になって議会の前で宣言している姿である。「世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません」。信仰はかすかな細い声である。「信じます。不信仰な私をお助けください」。確信は力強い信念に満ちた挑戦である。「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。罪に定めようとするのはだれですか」。信仰は、ダマスコのユダの家で、悲しみつつ盲目のまま孤独で祈っているサウロである。確信は、平静に墓を見越してこう云っている老囚徒パウロである。「私は、自分の信じて来た方をよく知っています。栄冠が私のために用意されているのです」。

 信仰はいのちである。何と大きな祝福であろう! いのちと死との間にある広大な隔たりを誰が語りえようか? しかし、いのちは一生の間、弱く、病気がちで、不健康で、痛みに満ち、難儀で、疲れ切った、骨の折れる、喜びなく、笑顔ないものでもありえる。確信は、いのち以上のものである。それは健康であり強壮さであり、強さ、力、活力、活気、精気、雄々しさ、美しさである。

 兄弟たち。私たちの前にあるのは、救われたか救われていないか、の問題ではなく、特権を受けているか受けていないか、の問題である。それは、平安があるかないかの問題ではなく、大きな平安があるか小さな平安しかないか、の問題である。この世をふらついているか、キリストの学び舎に入っているかの問題ではない。これは、その学び舎に限っての問題であって、幼年生か最上級生かの問題である。信仰を持つのは良いことである。もしもあなたがた全員が信仰を持っているとしたら、私は嬉しく思う。幸いなことよ。大いに幸いなことよ。信ずる人々は。彼らは安全である。洗われている。義と認められている。地獄の力の届かないところにいる。しかし、確信を持つ者ははるかに良い。より多くのことを見、より多くのことを感じ、より多くのことを知り、より多くのことを楽しみ、より多くの日々を持つ、すなわち、申命記で語られている人々のように、地上における天上の日々をより多く持つのである。

 III. 先に語った三番目のことに話を進めたい。ここでは、なぜ確固たる希望をことのほか願い求めるべきか、いくつか理由をあげようと思う。

 この点には特に注意を払ってほしい。私は、確信を追い求める人が今よりずっと多く起こされることを心から願う。信じた人々のうち、あまりにも多くが疑い出し、疑い続け、疑いつつ生き、疑いつつ死に、いわば五里霧中のまま天国へ行くからである。「期待」や「あてにすること」を軽侮するような口調で語るのは、適切ではないであろうが、私が恐れているのは、私たちのあまりにも多くが、そうしたもので満足したまま座り込み、一歩も先に進まないことである。私は主の家族の中に、「私も救われるのでは」、と云うような人々が今よりもっと少なくなり、「私は知っており、確信している」、と云える人々がもっと増えてほしいと思う。おゝ! あなたがたがみな最高の賜物を貪欲に欲し、それ以下のものでは満足できないようになるとしたら、どれほど良いことか。あなたは、福音が与えてくれる祝福のうち、その最高のものを取り逃している。あなたは自分の魂を低次元な、飢えた状態のままにしている。その間もあなたの主はこう云い続けているというのに。「食べよ。飲め。愛する人たちよ。あなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるために」。

 1. まず一番目のこととして知ってほしいのは、確信は、現在における慰めと平安を生み出すがゆえに願い求めるべきだ、ということである。疑いと恐れは、真の信仰者の慰めを台無しにしてしまう。不確かさと不安感は、どんな場合にも----問題が私たちの健康であれ、財産であれ、家庭であれ、愛情であれ、職業であれ----それだけでいやなものだが、私たちの魂に関することにおける不確かさと不安感は最悪である。そして明らかに信仰者は、「私はただ期待するだけです」、「あてにしているだけです」、という状態を克服できない限り、大なり小なり自分の霊的状態に関して不確かな気分を感じるであろう。言葉そのものが雄弁に語っている。彼が「期待しています」と云うのは、「私は知っています」、と云う勇気がないからなのである。

 私の兄弟たち。確信は、神の子どもをこうした痛ましい隷属状態から自由にするため大いにあずかって力があるものであり、彼の慰めに力強く寄与する。それは彼に、信じることにある喜びと平安をもたらす。それは彼を、試練の中にあっても忍耐強くし、患難の中にあっても平静さを保たせ、悲しみにあるときも揺らぐことなく、悪い知らせをも恐れさせない。それは彼の苦き杯を甘くし、彼の十字架を軽くし、彼の旅する難路をなだらかにし、死の陰の谷を明るくする。それは彼に、自分の足の下には何か堅固なものがある、自分の手の下には何か確かなものがある、自分の旅の途中には確かな友が、旅の終わりには確かな家があるのだ、と常に感じさせる。彼は、人生の大いなる務めには決着がついた、と感ずる。----それ以外のいかなる負債も災厄もわざも、その他の務めも、ことごとく比較的小さなものである。確信は、人が貧困や損失を耐え忍ぶのを助け、彼にこう云うことを教えてくれるであろう。「天国には、さらに良い、さらに長続きする財産が私を待っている。それを私は知っている。金銀は私にはないが、恵みと栄光は私のものであって、決して取り去られることはありえない」。確信は、病の中にある人を支え、その病床をことごとく整え、死にゆく枕をなめらかにする。それは彼にこう云わせることができる。「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。……私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。この身とこの心とは尽き果てましょう。しかし神はとこしえに私の心の岩、私の分の土地です」。

 確固たる希望を持つ人は、ピリピにおけるパウロやシラスのように、牢獄の中でも神を賛美することができる。確信は、暗い夜にも歌を与える。そうした人は、ヘロデの地下牢におけるペテロのように、翌日は確実な死が訪れると知っていても安らかに眠ることができる。確信はこう云う。「平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます」。確信は、使徒たちのように、キリストのために辱めを受けることをも喜ばせることができる。それは、「喜びなさい、喜びおどりなさい。----天には、測り知れない重い栄光があるのだ」、と云う。そうした人は、キリストの教会の初期におけるステパノや、わが国におけるクランマーや、リドリ、ラティマ、テイラーのように、暴力による痛ましい死にも立ち向うことができる。確信は云う。----「からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。主イエスよ。私の霊をお受けください」。

 あゝ、兄弟たち。死の時にのぞんで、確信が与えることのできる慰めは、重要な点である。請け合ってもいいが、いざ死を迎える時ほど、あなたにとってこれが偉大なことに思えることは決してない。たとえ死の間際になるまでどのように考えていたとしても、その恐るべき時に、確信の価値と特権を見いださないような信仰者は、ほとんどいない。漠然とした期待やあてにすることは、生きている間は、申し分なく頼りになる支えである。しかし死に臨むときあなたには、「私は知っており感じている」と云えるようになるものが必要となる。嘘ではない。ヨルダンは冷たい流れであり、人はそれをひとりきりで渡らなくてはならない。最後の敵、すなわち、死は、強大な仇である。私たちの魂が世を去りつつあるとき、確信という強い葡萄酒ほど助けになる強壮剤は他にない。

 祈祷書の中の、病者訪問次第には、美しい表現がある。「願わくは、全能なる神、望みをかける者すべてにとっていと強きやぐらなる神が、今よりとこしえまで、汝が守りであらんことを。汝に健康と救いを与えうべきは、世にわれらが主イエス・キリストの御名以外になし、と汝に知らせ感じさせ給わんことを」。この礼拝式を作成した人々は、そこに並外れた知恵を示している。彼らは、人の目がかすみ、脈が弱まり、霊が世を去る間際に来たときには、キリストが私たちのためになしてくださったことを知り感じるのでなくては、完全な平安がありえないことを知り抜いていた。

 2. もう1つのことを挙げさせてほしい。確信は、キリスト者が活発で、有益なキリスト者となるのを助けるがゆえに願い求めるべきである。一般的に云って、地上でキリストのために最も多くをなす人とは、自分が何の障害もなく天国に入れるという最高に力強い確信を享受している人である。これが信じがたいように聞こえても無理はないかもしれない。だが真実なのである。

 確固たる希望を欠いた信仰者は、自分の状態について内心を探りきわめることに多くの時間を費やす。彼は自分の疑いや疑問、自分の葛藤や腐敗で手一杯になる。つまり、そうした人は自分の内的戦いにかかずらうあまり、しばしば、他の事柄のために使える暇がほとんどなく、神への奉仕にとれる時間がほとんどないであろう。

 さて、パウロのような確固たる希望を持つ信仰者は、こうした苛立たしく気を散らすことから自由にされている。そうした人は、自分が赦されているかどうか、受け入れられているかどうかというような疑念で心を悩ましたりはしない。血で証印を押された永遠の契約を見つめ、完了したみわざを見つめ、主なる救い主の決して破られないおことばを見つめ、それゆえ自分の救いを決着のついたこととみなす。そしてそのようにして彼は、主のみわざに一心に注意を向けることができ、そうすることで長期的には余人にまさって多くを行なうのである。

 このことの例証として、二人の英国人移民のことを考えてみよう。この二人は、ニュージーランドかオーストラリアの隣同士の土地に入植したとしよう。彼らが、それぞれ一区画ずつ土地を与えられ、そこを開墾し耕すことになったとしよう。また彼らの土地は、必要とされるあらゆる法的文書で確保されたものとする。それは彼らの自由保有不動産として譲渡され、永久に彼らのものにされたとする。その譲渡証書を公的に登記し、人知の編み出せる限りの証書と保証書とで、その地所が確実に彼らのものであるようにされたとする。さて、彼らのうちの一人は、早速自分の土地を開墾し耕作できるようにする作業にとりかかったとする。毎日毎日、手を抜かず、休みなく働き続けるとする。その間、もう一人の方は、絶えず自分の作業を放り出し、何度となく公立登記所に赴いては、あの土地が本当に自分のものなのかどうか、----何か間違いはないかどうか、----結局のところあの土地を自分に譲渡した法的文書には何か欠陥があったのではないか、と問いただしていたとする。一方は自分の権利を全然疑わずに、ひたすら働き続ける。もう一方は自分の権利が確かなこととはほとんど思えず、自分の時間の大半を、シドニーやメルボルンやオークランドに通って、必要もない照会をすることに費やす。さて、一年たったとき、この二人のどちらが仕事をはかどらせているだろうか? どちらが、より多くの土地をならし、より広い土壌を耕作し、より良い作物を実らせているだろうか。だれにでも、わかりきったことである。----あえて答えを口にするまでもない。答えは1つしかない。

 兄弟たち。「空の上の住まい」に対する私たちの権利という問題も、これと同じである。自分の権利を明確に悟っている信仰者、不信仰な疑いや、疑念や、ためらいで気を散らされない信仰者ほど、自分を買い取ってくださった主のために多くのわざを行なう者はない。主を喜ぶことは人の力である。ダビデは云う。「あなたの救いの喜びを、私に返してください。そうすれば、私は、そむく者たちに、あなたの道を教えましょう」(詩51:12 <英欽定訳>)。使徒たちほど働いたキリスト者たちはひとりもいない。彼らは、まるで労苦するために生きていたかのようであった。キリストのために働くことは、まことに彼らの食物であり飲み物であった。彼らは自分のいのちを少しも惜しいとは思わなかった。自分の財を費やし、また自分自身をさえ使い尽くした。安逸と健康と世的な安楽さを十字架の下になげうった。しかし私の信ずるところ、こうしたことを可能にした原因は、彼らの確固たる希望であった。彼らは、こう云えた人々だったのである。「私たちは神からの者であ……ることを知っています」。

 3. また別のことを挙げさせてほしい。確信は、キリスト者を断固たるキリスト者とするのを助けるがゆえに願い求められるべきである。神の前で自分がいかなる状態にあるかを決めかねたり、疑いを抱いたりすることは、嘆かわしい悪であり、多くの悪徳の母である。それはしばしば、主に従う歩みをふらついた、落ちつきのないものにする。逆に確信は、多くの難局を切り抜ける助けとなり、キリスト者の義務の道を明確で平明なものとする助けとなる。多くの人々は、見たところ神の子どもであると思われ、たとい弱くとも真の恵みを有するように見受けられるにもかかわらず、実践面で絶えず種々の疑いに惑わされている。「これこれのことを行なうべきでしょうか? この家族の伝統を断ち切らなくてはならないでしょうか? あの場所に行くべきでしょうか? 許される訪問と許されない訪問との境界線はどこにあるのでしょうか? 衣服や娯楽については、どのような基準を持つべきでしょうか? 私たちは決して舞踏をしたり、決して骨牌に触れたり、決して歓楽的な宴会に出席してはならないのでしょうか?」 こうした疑問が、彼らを絶えず悩ませているように思える。しかし、しばしば、非常にしばしば、彼らの困惑の単純な根源は、彼らが自分を神の子どもであると確信できていないところにある。自分が門のどちら側に立っているかがあいまいなままなのである。自分が箱舟の内側にいるか外側にいるかがわからないのである。

 神の子どもが一定の断固たるしかたで行動しなくてはならないということは、彼らも確かに感じている。しかし大きな問題は、「自分は本当に神の子どもなのか?」、ということである。そう感じられさえするなら、彼らは、断固たる明確な態度をとれるであろう。しかしそのことがあやふやなため、彼らの良心はいつまでもためらいがちで、行き詰まりに達するのである。悪魔が囁くのである。「もしかすると、結局おまえは偽善者にすぎないかもしれないではないか。なぜ、断固たる生き方などする権利があるというのだ? まずは自分が本当にキリスト者になるまで待つがいい」、と。そしてこの囁きこそ、あまりにもしばしば、天秤皿を一方に傾けてしまい、何らかの悲惨な妥協に至らせるか、浅ましいこの世への屈従に至らせるのである。

 兄弟たち。私が心から信ずるところ、ここにこそ、なぜこれほど多くの人々が、この世におけるふるまいという点で首尾一貫しない、不満足で、いいかげんな態度をしているのかという、1つの理由があると思われる。彼らは自分がキリストのものであるという確信を全く感じず、それでこの世とすっぱり縁を切ることにためらいを感ずるのである。彼らは古い人の生き方をことごとく捨て去ることから尻込みする。自分が新しい人を着たかどうかがはっきりしないからである。請け合ってもいいが、彼らがどっちつかずによろめいている隠れた原因の1つは、ほぼ疑いなく、確信の欠如にほかならない。

 4. 最後にもう1つ挙げさせてほしい。確信は、それが最も聖いキリスト者を生み出すのを助けるがゆえに願い求められるべきである。

 このこともまた、信じがたいような、奇妙に聞こえることだが、それでも真実である。これは福音の逆説の1つである。一見、理性と常識に反するように見えるが、それでも事実なのである。ベルラルミーノの言説の中でも、「確信は無頓着さと怠惰さに通ずる」、という言葉ほど真実から隔たったものはほとんどない。キリストによって無代価で赦された者こそ、常にキリストの栄光のために多くを行なうものであり、この赦しの確信を最も豊かに享受している者こそ、通常は、神と最も近い歩みを保ち続けるものである。これは、ヨハネ第一の手紙の中にある真実な言葉である。「キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします」。

 だれよりも自分の心と生き方を用心深く見張り続けるであろう者、それは、だれよりも神との近しい交わりに生きる慰めを知っている者たちにほかならない。彼らは自分たちの特権を感じており、それを失うことを恐れるものである。彼らは、首尾一貫しない生き方によって、その高い境地から転落し、自分の慰めを損なうことに怖じ気を震うものである。たいした所持金を持っていない旅人は危険のことなどほとんど考えず、危険な土地でいくら夜更けに旅を続けようと大して意に介さないであろう。それとは逆に、黄金や宝石を持ち歩く人は用心深く旅をするものである。彼は道筋によく目を配り、宿や旅の道連れに気を遣い、どんな危険も犯さない。堅く動かぬ星こそ震えること最も多し、と云う。神の和解なった御顔の光を最も十分に享受している人こそ、そのほむべき慰めを失うと考えただけでも恐れおののき、聖霊を悲しませるようなことは絶対に行なわないよう極端に用心深く汲々と歩む人であろう。

 愛する兄弟たち。あなたは大きな平安を持ちたいだろうか? 永遠の御腕があなたをいだくのを感じ、「わたしはあなたの救いだ」、と告げるイエスの御声が日ごとにあなたの魂に近づいてくるのを聞きたいだろうか? あなたの生きるこの時代において、あなたは役に立つ者となりたいだろうか? あなたは大胆で、堅固で、断固たる、一途なキリストの弟子であると、あらゆる人から認められたいだろうか? 傑出して霊的な心を持つ清い人になりたいだろうか? あなたがたの中にはこう云う人がいるであろう。「あゝ! それこそまさに私たちの望みです。それを私たちは欲しています。私たちはそれを慕いあえいでいます。なのに、それは私たちから遠く離れているのです」、と。

 今日のこの日、私の忠告を受けるがいい。使徒パウロのような確固たる希望を求めるがいい。神の約束に対する単純で、子どものような信頼を得ることを求めるがいい。使徒とともに、「私は、自分の信じて来た方をよく知っています。私は、彼が私のものであり、私が彼のものであると確信しています」、と云えるようになることを求めるがいい。

 おそらくあなたは、他の方法や手法を色々とためしてきたが、完全に失敗してきたことであろう。そうした計画を変えることである。他のやり方に移るがいい。確信から始めるがいい。あなたの疑いを打ち捨てるがいい。不信仰にかられて尻込みすることをやめて、主のみことばを額面通りに受け取るがいい。来て、自分自身も、魂も、罪も、あなたの恵み深い救い主に、まとめておゆだねするがいい。単純に信ずることから始めるがいい。そうすれば他のすべてはじきにあなたに加えられる。

 IV. 先に語っておいた最後のことに話を進めたい。上で私が指摘すると約束しておいたのは、なぜ確固たる希望に到達する人がほとんどいないのか、いくつかの考えられる原因である。これはごく短く語ることにする。

 兄弟たち。これは非常に真剣な問題であり、私たちがみな大いに心を探らされるべきことである。確かにキリストの民のほとんどは、このほむべき確信の精神に達していないように見える。比較的多くの人々は信じはするが、ほとんどの人は確信していない。比較的多くの人々は救いに至る信仰を持っているが、ほとんどの人はこの聖句で述べられているような、輝かしく力強い確信を持っていない。

 では、なぜそうなのか? なぜペテロが積極的な義務として命じていることは、ほとんどの信仰者が実体験として知っていないのか? なぜ確固たる希望はこれほど見ることまれなのか?

 私はこの点に関して、心からのへりくだりをもって、いくつかの示唆を挙げてみたいと思う。私は、地上においても天においても私が喜んでその足元に座りたいと思うような多くの人々が決して確信に到達しなかったことを承知している。ことによると主は、その子どもたちの何人かには、その生来の気質のうちに、確信が彼らにとって良くないものとなりかねない何かがあるのを見ておられるのかもしれない。ことによると、そうした人が霊的健康のうちに保たれるためには、非常に低い状態にとどめられる必要があるのかもしれない。神だけがご存知である。それでも、あらゆる譲歩をした上でも私は、多くの信仰者が、あまりにもしばしば確固たる希望を持てずにいるのは、以下に挙げるような原因からではないかと恐れるものである。

 1. 最もよくある原因の1つは、義認の教理の不完全な理解ではないかと思う。私は、多くの信仰者の思いの中で、義認と聖化が知らぬまに混同されているのではないかという気がしてならない。彼らは福音の真理を受け入れている。もし私たちが真の信仰者であるなら、何かが私たちのためになされるだけでなく、何かが私たちの内側でもなされなくてはならないことを受け入れている。そこまでは彼らは正しい。しかしその先で、おそらく無意識のうちに彼らは、自分の内側にある何かが、ある程度は、この義認に影響を及ぼすのではないかという考えに染まっているように見える。彼らは、自分の行ないではなく、キリストのみわざこそが----全体的にも部分的にも、直接的にも間接的にも----神に受け入れられるための唯一の根拠であることを、はっきり悟っていないのである。義認とは、完全に私たちの外側でなされたことであって、私たちの側では単純な信仰以外に何も必要とされていないこと、またこの世で最も弱い信仰者であっても、この世で最も強い信仰者と全く同じくらい十分に義とされていることを明確に見てとっていないのである。彼らが時として忘れているように思われるのは、私たちが救われ、義と認められたのは罪人としてであり、罪人以外の何者でもない者としてであったこと、たといメトシェラのごとき長命に達しても決して罪人以上の者にはなりえないのだ、ということである。疑いもなく私たちは、贖われた罪人、義と認められた罪人、そして新しくされた罪人でなくてはならない。しかし私たちは、最後の最後まで常に罪人であり、罪人であり、罪人なのである。また彼らは、信仰者がその人生の何らかの時点で、腐敗からある程度自由にされ、一種の内的完全さに到達しうるものと期待しているようにも見える。そして、自分の心にこの天使的な状態が見られないため、たちどころに、自分の状態には何か間違ったところがあるに違いないと結論するのである。そしてそのようにして彼らは、悲しみながら一生を過ごし、自分はキリストの救いに全くあずかっていないのではないかという恐れに押しつぶされているのである。

 愛する兄弟たち。もしもこの場に、確信を願い求めながらもそれを得ていないという信仰者がいるならば、その人は何よりもまず第一に、自分がその信仰において健全であるかどうか自問してみるがいい。自分が真理においてしっかりと腰に帯をしめているかどうか、義認という問題を徹底して明確に理解しているかどうか、自問してみるがいい。

 2. 確信の欠如の原因として、よくあるもう1つのことは、恵みにおいて成長することに怠惰であることではないかと思う。多くの真の信仰者は、この点において危険で非聖書的な見解を抱いてるのではないかと思う。多くの人々は、いったん回心してしまえば何も熱心に行なわなくてもいいと考えているかのように見受けられる。----救われた状態とは、あたかも一種の安楽椅子であり、そこに深々と腰かけて、ぬくぬくと安んじていればいいのだと考えているかのように見える。彼らは、恵みが彼らに与えられたのは、ただそれを楽しむためなのだと夢想しているが、それがタラントと同じように使われ、用いられるために与えられたことを忘れているように見える。こうした人々は、さらにますますそうであれ、成長せよ、ますますそのように歩め、信仰に種々の恵みを加えよ、などという、あからさまな命令の多くを見落としているのである。ならばこの、ほとんど何も行なわない状態において、彼らが確信を手に入れられないとしても何の不思議もない。

 兄弟たち。あなたがたが常に覚えておかなくてはならないのは、熱心さと確信が分かちがたく結びついている、ということである。ペテロは云う。「ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい」。パウロは云う。「私たちは、あなたがたひとりひとりが、同じ熱心さを示して、最後まで、私たちの希望について十分な確信を持ち続けてくれるように切望します」。箴言は云う。「勤勉な者の心は満たされる」。ピューリタンらのこの古い格言には多大な真実がある。「同意する信仰は聞くことによってやって来るが、確信する信仰は行なうことなしにはやって来ない」。

 3. もう1つのよくある原因は、首尾一貫しない生き方である。嘆きと悲しみをもって云わなくてはならないと思うことだが、私が恐れるに、この時代、このことほど、人が確固たる希望に到達することをしばしば妨げるものはない。首尾一貫していない生活は、心の大きな平安にとって完全に破壊的なものである。この2つは両立しえない。それらは並び立つことができない。もしあなたにからみつく罪があり、それを手放す気持ちになれないのなら、また必要なときに右の手を切り捨て、右の目をえぐり出すことからあなたが後ずさりしているのなら、あなたに確信が得られないことは請け合ってもいい。優柔不断に歩み、大胆かつ断固たる態度をとることを尻込みし、この世にはいさんで右ならえし、キリストのために証しすることはためらい、曖昧模糊としたキリスト者生活に終始すること、これらはみな、あなたの魂の庭に葉枯れ病をもたらす確実な処方箋である。自分が神に赦され和解させられていることを力強く確信したかったら、すべてのことについて、神のすべての戒めを正しいとみなし、大きかろうと小さかろうと、あらゆる罪を憎むのでなくてはならない。あなたの心の陣営にひとりでもアカンをのさばらせておくなら、あなたの慰めの泉には毒が投げ込まれるであろう。

 神をほめたたえるべきことに、私たちの救いは、いかなる意味においても私たち自身の行ないによって左右されはしない。「恵みによって私たちは救われる」*。----私たちのなした義のわざによってではない。----律法の行ないによってではなく、信仰によって救われる。しかしいかなる信仰者にも、一瞬たりとも忘れてほしくないのは、私たちが救われたという感覚は、私たちがどのように生きているかによって大きく左右される、ということである。首尾一貫しない生き方は、私たちの目をかすませ、私たちと太陽の間を雲でさえぎらせる。太陽は変わらないが、あなたはその輝きを見ることもその暖かみを楽しむこともできない。善を行なう道においてこそ、確信は下ってきて、あなたと出会うのである。ダビデは云う。「主はご自身を恐れる者と親しくされ……る」。「あなたのみおしえを愛する者には豊かな平和があり、つまずきがありません」。「その道を正しくする人に、わたしは神の救いを見せよう」。パウロという人物は、いつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしていた。彼は大胆に、「私は勇敢に戦い、信仰を守り通しました」、と云うことができた。それゆえ主が彼をして、力強い確信とともにこうつけ加えることができるようになさったのも驚くにはあたらない。「今からは、栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、主が、それを私に授けてくださるのです」、と。

 兄弟たち。私は、今述べた3つのことを、あなたがたが各自思い巡らすのにまかせたい。確かにこれらは熟考に値することがらである。この場にいて、確信の欠けているすべての信仰者には、それらを吟味するように勧めたい。そして、願わくは主が、このことにおいても、すべてのことにおいても、その人に悟りを与えてくださるように。

 さて、兄弟たち。今、この説教のしめくくりにあたり、まず最初に、あなたがたの間の、まだ信仰を持っていない方々、まだ世から出て来ていない方々、まだ良いほうを選んでおらず、まだキリストに従っていない方々に語りかけさせていただきたい。ここで私があなたがたに願いたいのは、この主題からぜひ真のキリスト者の真の特権を学びとってほしい、ということである。主イエス・キリストを彼の民によって判断しないでほしい。キリストの御国に伴う種々の慰めを、キリストの民の多くが到達している程度の慰めによって判断しないでほしい。悲しいかな! 私たちの大部分は、哀れな生き物である。私たちは自分が享受できるはずの祝福のごく小さな部分、あまりにも小さな部分しか手に入れていない。しかし、請け合っても良いが、私たちの神の都には輝かしいものがあり、確固たる希望を抱く人々は、その地上における生涯の間にすら、そのいくばくかを味わうことができる。私たちの父の家には、ありあまるほどのパンがある。確かに私たちの多くは、悲しいかな! そのごく少量しか口にしておらず、弱いままではあるが。

 だから、なぜあなたは、ここに入って、私たちと同じ特権にあずからないでいてよいだろうか? なぜあなたは、私たちとともに来て、私たちのそばに腰を下ろさずにいていいだろうか? つまるところ、世があなたに何を与えられるというのか。キリストの家族のうちの最も弱い者が有する希望とでも、くらべものになるような何を与えられるのだろうか? まことに、神の最も弱い子どもですら、その手には、この世にいまだかつて生を受けた中でも、最も富裕な人物が手にしている物よりも、より永続的な富を有しているのである。おゝ! だが私は、この時代に、あなたのことが非常に気がかりである。その宝がすべて地上にあり、その望みがすべて墓のこちら側にしかないという人々のことが非常に気がかりである。しかり! 今は古い王国や王朝がその土台まで揺さぶられている時代である。公的信用に基づく財産が春先の残り雪のように溶け去り、公債や国債が紙屑になってしまう時代である。そうしたすべてを見るとき、私が深く案ずるのは、それ以上の財産を何も有していない人々、動かされることのない王国に何の地位も占めていない人々のことである。

 キリストに仕える一牧師からの忠告を受けていただきたい。奪い去られることのない宝を求めるがいい。永遠の土台を持つ都を求めるがいい。使徒パウロがしたように行なうがいい。主イエス・キリストに身をささげ、朽ちることのない栄冠を求めるがいい。卑しい罪人として主イエスのもとに行くがいい。そうすれば彼はあなたを受け入れ、赦し、その更新の御霊をあなたに与え、あなたを平安で満たしてくださるであろう。これこそ、この世がこれまであなたに与えてくれたいかなる慰めにもまさる真の慰めを与えることである。あなたの心の中には、キリスト以外の何物も埋めることのできない空洞がある。

 最後に、この場にいるすべての信仰者に向かって、兄弟としての忠言を二言三言語らせてほしい。1つのこととして、もしあなたが確固たる希望をまだ自分のものにしていないとしたら、この日、それを追い求める決意をするがいい。嘘ではない。信じてほしい。確信には求める価値があるのである。もし地上の事がらについて迷いのないことが良いことだとするなら、天の事がらにおいて迷いがないことは何といやまさってすぐれていることであろう! あなたには資格がある。歴とした、堅固な、くつがえされることのない資格がある。それを悟れるように求めるがいい。神はそれを知っておられる。では、あなたがそれを知ることを求めるて何が悪いのだろうか? パウロは決していのちの書を見たことはなかったが、それでもこう云うのである。「私は知り、また確信している」、と。家に帰って、自分の信仰が増し加わるように祈るがいい。その祝福の根を養えば、神の祝福によって、花が咲くことであろう。

 別のこととして、もしあなたが、一気に確信に到達できないとしても、驚いてはならない。時として待たされることは良いことである。何の苦労もなしに手に入れたものを私たちは尊ばないものである。ヨセフは牢獄からの開放を長い間待っていたが、最後にはそれが訪れた。また別のこととして、あなたが確信を手に入れた後で、時折疑いに襲われることがあっても驚いてはならない。あけぼのが一日中続くことはありえない。そして悪魔もいる。強大な悪魔がいる。彼はあなたにもそのことを忘れさせまいと手を尽くすであろう。あなたは、自分が地上にいること、まだ天国にいるのではないことを忘れてはならない。いささかの疑いは常に伴うものである。決して疑わない人には、何も失うものがないのである。決して恐れない人は、真に価値あるものを何1つ所有していないのである。決してねたまない人は、深い愛を何も知らないのである。

 そして最後に、忘れてはならないのは、確信は失われることがあるということである。おゝ! 確信は、非常に繊細な植物である。日ごとに、一時間ごとに見守り、水をやり、手入れをし、はぐくむ必要がある。だから、気をつけているがいい。ダビデはそれを失った。ペテロはそれを失った。ふたりとも再びそれを見出したが、それは苦い涙を流した後であった。御霊を悲しませてはならない。御霊を消してはならない。御霊を悩ませてはならない。小さな悪癖や些細な罪をもてあそぶことで御霊を遠くへ追いやってはならない。夫婦間にちょっとしたいさかいがあっても、家庭は不幸せになるし、些細なことでも首尾一貫しない生き方は、あなたと御霊の間をぎくしゃくしたものにする。

 全体の結論としてこのことを聞いてほしい。キリストにあって神と最も親しく歩む人は普通、最も大きな平安のうちに保たれる。最も完全にキリストに従っている信仰者は、普通、最も確固たる希望を享受するのである。

天国をめざして[了]

_____________________________

*(訳注) ジョン・バニヤン、「天路歴程 続編」 p.243(池谷敏雄訳)、新教出版社、1985[本文に戻る]

HOME | TOP | 目次 | BACK | NEXT