Sure Hope           目次 | BACK | NEXT

4. 確かな望み


「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです」。 黙示録7:14-17

 これは、非常に荘厳な描写である。だがしかし、それも不思議はない。これは天における事がらの幻だからである。これは、現世と来世を隔てる垂れ幕の内側が、しばし垣間見せられているとも云えよう。この聖句に先立つ節では、使徒ヨハネが霊において、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆を見たと記されている。彼らは白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。ヨハネは、この人々がだれか、またいかなる人々であるか、自分ではわからなかったが、長老のひとり、あるいは御使いたちのかしらのひとりから、それを知らされ、あなたがたがいま耳にした言葉によって、この人々の素性を告げられたのである。すなわち彼らは、すべての忠実な信仰者たちであり、あらゆる国民、部族、国語のうちから贖い出された人々、神の真の子どもたち、永遠の救いの相続人たちであった。

 けさ私が詳しく考察してみようと思うのは、この長老が行なった説明についてである。愛する方々。私はあなたがたに勧める。ぜひ、自分自身、こうしたことについて何を知っているのか、心を探ってみていただきたい。やがて来たるべき日には、太陽が毛の荒布のように黒くなり、月の全面が血のようになり、天の星が地上に落ち、この聖句で述べられているような性格と無縁の人々は、自分が決して生まれなかった方がよかったと思い知らされるのである。幸いなことよ、この世にまさって永続的な都、すなわち、天の都を求めていると告白して恥じない人は。また、キリストを得、キリストの中にある者と認められるためなら、いっさいのことを損と思っている人は。

 さて、この聖句の中には、吟味すべき3つの点がある。

 I. 第一に、聖ヨハネが見たこれらの聖徒たちは、どこからやって来たのか。
 II. 第二に、彼が彼らが見た場所に、彼らはいかにしてたどり着くことができたのか。
 III. 第三に、また最後に、彼らの報いはいかなるものであったか。

 I. まず第一に私たちが学ぶのは、神の聖徒たちは、大きな患難から抜け出て来るということである。----すなわち、彼らは、罪と危険に満ちた世、また魂にとって有害な、数多の物事と直面せざるをえない場所、大きな患難の場所と呼んでしかるべき世から抜け出て来るのである。これは何と奇妙に思えることか! これほど、はためには非常に麗しく愛すべきものと見えるこの地上、これほど、人生を楽しませるあらゆるものに満ち、おびただしい数の人々が全心全霊を傾け、それ以上のことなど一切考えることのないこの地上は、いかなる真の信仰者にとっても、幾多の試練と困難がまとわりつく荒野なのである。これをあなたの記憶に刻み込んでおくがいい。もしあなたがキリストについて行き、自分の魂を救おうと決意するなら、あなたは遅かれ早かれ大きな患難をくぐり抜けなくてはならないであろう。

 兄弟たち。なぜそのようなことが起こるのだろうか? あなたが生きている世が堕落した世だからである。それが、悪魔をその君主に戴き、大多数の人々が目を閉ざしたまま悪魔への奉仕に没頭している世だからである。ひとたびキリストに従う者になるや、あなたは不義があたり一面に蔓延していることを見てとり、あなたのほむべき救い主の律法が足でふみにじられてることを見てとり、自分のまわりにいるほぼ大多数の人々が、霊的に暗闇の中にあり、眠っており、死んでいること----ある人々は完全に無思慮なまま、ある人々は見えるところは敬虔であっても何の実も持たないまま安住していること----に気づくであろう。そして、もしあなたが主イエスを真摯に愛しているなら、あなたの贖い主がこのように蔑まれているのを見ることによって、この世は患難の場所となるであろう。

 しかし、これがすべてではない。地上的な考え方をする、無思慮な人々は、決してあなたが平穏に歩んでいくことを許さないであろう。おゝ、否! あなたは彼らの行ないや生き方を断罪しているのである。彼らの死んだような状態と、キリスト教信仰における怠慢とに反する証言をしているのである。それで、もしあなたがあなたの顔をシオンに向けているなら、彼らはあなたを引き戻そうとするであろう。それは笑いかもしれないし、辛辣な言葉かもしれない。彼らはあなたを高慢だと云って非難するかと思うと、あなたがうぬぼれていると云って非難するであろう。時として彼らは、あなたに議論をふっかけてあなたを悩まし、時として彼らは、あなたのそばに寄りつかないであろう。だが、何らかのしかたによってあなたは、世的な考え方をする人々が決してあなたを平然と天国へ行かせはしないことに気づくであろう。あなたは彼らを喜ばせることができない。あなたは、パウロのように、あらゆる人の前に責められることのない良心を保つようにと、最善を尽くしているかもしれないが、どうにもならない。あなたは、主にも仕え、また富にも仕えるということはできない。もしあなたが神とともに歩むなら、あなたは自分の生き方がほとんどすべての人から悪し様に云われることに気づくであろう。

 その上、あなた自身の心がある。----欺きに満ち、裏切りがちで、冷たい心、----霊に逆らうことを願う肉、肉と戦い続けなくてはならない霊がある。弁解がましいあなたの怠惰さ、恵みの手段を用いる際のあなたの冷淡さ、祈りにおけるあなたの散漫さ、悲しみに際してのあなたの信仰の欠け、喜びに際してのあなたの思い上がった自信。おゝ、キリスト者よ。あなたは内側に、絶えず油断してはならない敵をかかえているのである。あなたには、自分自身の胸底に試練をふきあがらせる泉がある。あなたは日ごとに、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけなくてはならない場合があるであろう。そして、これに加えて、あなたがアダムのすべての子らと共通して持っている種々の煩いがある。----病、疾病、痛み、財産の損失、友人たちの不親切、生きる糧を得るための日々の労苦、欠乏への恐れ、ほぼ毎週のようにもたらされる、名状しがたい多くの心労の種がある。では、神のすべての民が大きな患難を抜け出て来るということが正しくないかどうか、云ってみるがいい。彼らは、天国に入りたいと願うなら、自分を否定しなくてはならず、十字架を負わなくてはならず、多くの試練に遭う覚悟をしなくてはならない。

 愛する方々。この真理をよく覚えておくがいい。----栄光への道は、常にいばらに満ちたものであった。それが、その足跡に従うようにと、私たちに模範を残していった、あの聖なる人々すべての体験であった。アブラハムといい、ヤコブといい、モーセといい、ダビデといい、ヨブといい、ダニエルといい、そのうちのひとりとして、苦しみを経ずに全うされた者はいない。

 私たちはみな、やがては平穏無事な時が訪れ、こうした悩みや失望によって苦しめられずにすむようになると、あまりにも考えがちな者である。ほとんどすべての人が、自分は隣人たちのだれよりも大きな試みを受けていると思っている。だが欺かれないようにしよう。----この地上は私たちの安息ではない。これは働きの場であって、眠りの場ではない。ここにこそ、なぜあれほど多くの者がしばらくの間はよく走っており、心にキリストへの愛をいだいているように見えながら、みことばのために困難や迫害が起こると、つまずいてしまうかという理由がある。彼らは費用を計算していなかったのである。労働なしに報酬だけを当て込んでいたのである。神の聖徒たちの性格において、最も重要なこの点----「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちです」----を忘れていたのである。

 これは、ひどいことばに思える。だが私はあなたに、こうした試練が私たちに課せられているのは、この上もなく賢明で、あわれみ深い目的のためであることを知ってほしいと思う。私たちは、あまりにも麗しく快適な世界に生きており、あまりにも晴れやかで快活なものに囲まれているため、もしもしばしば病や試練、あるいは失望を味わされることがないと、自分の天国の家を忘れ、このソドムに面して自分の天幕を張ることになるであろう。それゆえ神の民は、大きな患難を通り抜けるのである。それゆえ彼らは、しばしば困難と心労の針に苦しみ、自分と同じほどに愛していた者らを墓に送って涙しなくてはならないのである。彼らを懲らしめているのは、彼らの父の御手である。このようにして御父は、彼らの心に下界の事物への嫌気をささせ、ご自分へとひきつけなさる。このようにして御父は、彼らを永遠のために訓練し、彼らのためらいがちな心を地上に縛りつけている糸を一本一本切ってくださるのである。疑いもなくこうした懲らしめは、一時的にはつらいものだが、それでも、それは多くの隠れた恵みを明るみに引き出し、多くの隠れた悪の種を切り倒すものである。そして私たちはやがて、最も苦しみを受けた者たちが、天国における集団の中でも最も輝かしい星々の間に輝いているのを見ることになるはずである。最も純粋な金とは、精錬工の炉の中に最も長くとどまっていた金である。最も輝かしい金剛石とは、しばしば最も研磨を要した金剛石である。しかし、私たちの軽い患難は今の一時しか続かず、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらす。聖徒たちとは、大きな患難から「抜け出て来る」人々であり、彼らは決してその中で滅びるままに放置されはしない。涙にくれる最後の夜はすみやかに過ぎ去り、苦悩の最後の波は私たちの上を越えて行くであろう。そのとき私たちは、人のすべての考えにまさる平安を持つことになり、永遠に主とともにいこうことになる。

 もう一度云う。これは一見ひどいことばに思えよう。だがしかし、これは真実な言葉なのである。神の子らを取り巻いている敵の数を数え上げてみるがいい。----世とその不親切、あるいはその罠と誘惑、肉とその、主への奉仕に対する絶えざる尻込みと冷淡さ、悪魔とその手練と策略を数えてみるがいい。----そして、「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちです」、という言葉に見いだされるものにまして、聖徒たちの経験を正確に描き出している言葉があるかどうか考えてみるがいい。未回心の人はこれを理解できないかもしれず、無思慮な人はこれを考えようともしないかもしれない。彼らはこの霊的争闘について知りもしないし、気にかけもしない。それは彼らにとって愚かなことなのである。だが、新しく生まれた人々、また自分の魂の価値を悟った人々は、それらがみな真実であることに全く同意するであろう。

 II. この聖句から第二に生ずる疑問は、「この輝かしい人々は、いかにしてヨハネが彼らを見た場所にたどり着いたのか」、ということである。彼らが彼ら自身の義によって救いをもたらされたのだとか、彼ら自身の力によって支えられたのだと考えてはならない。日々の十字架は確かに冠へと至らせるものだが、日々の十字架は決して冠に値するものではない。彼らの流したいかなる涙も、彼らが患難の中で示したいかなる忍耐も、決してそむきの罪の贖いをかちとったり、ただ1つの罪を洗い流したりすることもできなかった。使徒は何と云っているだろうか? 「彼らは……その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです」。彼らは自分のもろもろの不義を認めることを恥とせず、それらをみな主イエス・キリストの御前に置き、主の十字架と受難のゆえに、また主の義のゆえをもって無代価の赦しを求め、それを見いだしたのである。おのれを知恵ある者とみなし、おのれを聖い者と見せかける者たちは、これを心に銘記するがいい。疑いもなく、ヨハネの目にした大群衆の中には、古の預言者たちや義人たちがいたし、幾多の奇蹟を行なった者たち、自分のからだを焼かれるために引き渡した者たち、真理のため死に至るまで勇敢だった者たちがいた。しかし、ひとりとして、自分自身の達成した境地を誇りつつ、自分自身の衣を身にまとって出て来た者はいなかった。----彼らはみな、小羊の血で洗われて、白くされたのである。

 また、もしここに、自分のもろもろの罪の重荷に押しつぶされそうな者、自分の目を天に向けようともしない者がいるとしたら、みな、このことを心に深く銘記しておくがいい。疑いもなく、この集団の中には、神の御前において途方もない罪人であった者たちがいた。取税人や遊女たち、まさに地のちり、あらゆるもののかすであった者たちがいた。だがしかし、彼らは赦される場所を見いだし、見よ、彼らは洗われて、吹き寄せられた雪のように白くされているのである。彼らは、患難の世にあってはあなたがたと同じような者らであったが、神の教役者たちの伝える知らせを聞く時間を見つけ、それを聞いて信じたのである。彼らは、自分たちの前に広がる敬虔な土地を軽蔑しなかった。彼らの《主人》の招きを軽んじなかった。むしろ自分たちの過去のそむきの罪と怠慢のゆえに自分を忌まわしく思い、熱心な願いと祈りによって、世の罪を取り除く神の小羊のもとに行き、彼らがその扉を叩くや否や、それは開かれたのである。彼らは、あなたがたの多くのように、この罪と汚れをきよめる泉について聞くだけでは満足せず、またそれを嘆賞すべきもの、他の人々にとって非常に役立つものだと語るだけでは満足しなかった。彼らはベテスダの池のかたわらに座り込んで、中に入っていこうとする何の努力もしないのではなく、「主よ、あわれみをかけてください。私を私も洗ってください」、と叫び、それで彼らは、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのである。彼らは無代価の赦しを手に入れ、自分のもろもろの不義をきれいさっぱり取り除かれたのである。生まれながらの彼らは、あなたがたの中のいかなる者にも劣らず弱く、臆病で、罪深く、欠点だらけの者だった。----あなたがたの中のいかなる者の考える危険や、障害や、疑いや、失望といえども、彼らがなじみでなかったものはない。----だがしかし、彼らはみな神の無代価の恵みによって救われた。小羊の血によって洗われて、白くされた。彼らは彼らを愛してくださった方によって圧倒的な勝利者となった。その御座のまわりにあなたは、かつては悪人中の悪人だった多くの者を見いだすであろう。行って、彼らのひとりひとりに聞いて回るがいい。「あなたはいかにしてここにやって来たのですか? あなたはどこからその白い衣を手に入れたのですか?」、と。彼らはあなたに答えるであろう。「私たちはかつては、世にあって神もなく、光もなく、望みもない一族でした。私たちは、肉と心の望むままを行なうことのほか何も気にしていませんでした。私たちは、酒に酔う者、そしる者、不品行な者として知られていました。私たちは何度となく忠告に逆らっては心をかたくなにしました。多くの無頓着な隣人を墓に送っては、神を試み、不悔悟のゆえに断ち切られる危険を冒していました。しかしついに、私たちの良心があまりにも大声で語るものですから、私たちはもはや魂を放っておくことができなくなりました。私たちは神の律法を守ろうとしましたが、千分の一もそれを果たすことはできませんでした。律法は私たちを全く絶望させるだけでした。私たちは立派な信仰の告白をし、人々は私たちが回心したと云いました。しかし、それは役に立ちませんでした。----罪が山のように私たちにのしかかり、それらの贖いが全くなされていないのです。私たちはみじめでした。しかし、私たちはある声がこう云うのを聞いたのです。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい』。----『わたしを信じる者は、死んでも生きるのです』。『わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます』。それで私たちは、それを聞くなり、大急ぎで主イエス・キリストのみもとに行きました。そして、自分のすべての悲しみ、自分のすべての邪悪さを、主の御前に置きました。すると、ごらんなさい。その日その時に私たちはいやされて、しみや、しわや、そのようなものの何一つない者となったのです」。このような答えをあなたは、使徒たちの見たその集団の多くの者から得るであろう。

 彼らとともに栄光の中に立ちたければ、これこそ、あなたが歩まなくてはならない道である。あなたは、あらゆる高慢と自己依存を打ち捨てなくてはならない。あの取税人と同じ祈りを云わなくてはならない。自分がみじめな、何の価値もない罪人であると信じなくてはならない。キリストの十字架を、子どものような単純な信仰でつかみとらなくてはならない。そして、主の血によって洗われ、主の御名のゆえに赦されるように祈らなくてはならない。これ以外に、最後にあなたに平安をもたらす救いの道があるというなら見せてほしい。私は聖書にそのようなものは1つも見いだせない。ある人々の話すところ、彼らはキリストの血によるこの尊い洗いと、キリストの義というこの尊い衣について全く考えもしないまま長年暮らしているという。しかし彼らは、最後には何もかも自分にとってうまくいくと信じている、と云ってのけるのである。だが、私は決してそれが正しいなどという話を聞いたことはなく、聖書が真実であるとしたら、それは不可能である。私の見るところ、多くの人々は罪と汚れをきよめるこの泉を自分が必要としていることを信じていると告白はしているが、私は彼らがそう語る以上のことを何もしていないのではないかと恐れるものである。彼らが、自分が赦されるために一切のものを損とみなしているとは思えないのである。しかし、人がこの教理を受け入れようが受け入れまいが、神の不動の礎は堅く置かれている。そして、たとえ神の聖徒たちがだれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆をなしているとしても、そこに記されている中のひとりとして、自分の衣を小羊の血で洗って白くしなかった者はいない。

 III. この聖句の第三の、そして最後の部分は、贖われた者の報いについて描写している。「彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです」。ここには数々の特権が列記されている。あなたは患難について聞いてきたが、それは、ここに見るような慰めへと至るのである。あなたは十字架について聞いてきたが、その結末は実際に冠なのである。

 さて私たちはあなたに、神の子らの受ける苦難についてなら多少とも語ることができる。自分の知っていることは語れるからである。だが、やがて現わされる栄光について扱わなくてはならない場合、私たちは人間の目がまだ見たことのない地に立っているのであり、私たちは書かれていることを越えないように注意を払わなくてはならない。

 聖徒たちは、「昼も夜も、神に仕えている」ことになる。天国には何の倦怠もない。私たちの気を散らす、何の地上的な労働もない。この現世では、悲しいかな! 世の煩いが絶えず割り込んでくる。そして、私たちのこのあわれで脆弱なからだは、霊が欲しているときでさえ、その弱さによって私たちをしばしば地上に、下界に、縛りつけてしまう。ほんの一時、山頂に立てることもあるが、私たちの力はすぐに尽きてしまう。だが、そこでは、私たちには、いかなるふらつく思いも、いかなる散漫さも、いかなる肉体的欲求もなく、決して疲れることがない。実際私たちは、霊とまことによって神を礼拝することの何と僅かなことであろう。最良の瞬間にあってさえ私たちは、自分のほむべき贖い主に対していかに冷たく、いかに鈍く感ずることか。何とか自分の祈りを短くでき、何とか天におられる私たちの御父との交わりを減らせるような云い訳がありさえすれば、私たちはいかに喜んでそれに飛びつくことか。だが、神の御座の前に立つ者たちは何の疲労も感じることなく、何の休息も求めることなく、モーセの歌と小羊の歌とを絶えることなく歌い、「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように」、と云うのを、自分たちの最高の特権とみなすであろう。

 しかし、先を読み進めよう。「御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです」。彼らはもはや信仰によって歩むのではなく、鏡にぼんやり映るものを見ているのでもなく、自分が信じてきた神と顔と顔を合わせて会うことになり、なじみの親友の顔を見るように御顔を拝することになる。彼らにはもはや暗い時期はなく、決して自分の愛する主が遠くにおられるようには感じない。自分の欠けだらけの奉仕が、主を遠ざけるのではないかと震えることなど決してなくなる。むしろ彼らは、ありのままの主を目の当たりにし、永遠に主のそばにいることになる。そしてもしキリスト者が、罪のからだのうちにあってうめいていながら、これほどの平安と慰めを、祈りによって神に近づく際に見出すというなら、----もし肉にあってすらキリスト者が、自分の心をあわれみの御座の前に注ぎ出す喜びを味わい知っているというなら、----おゝ! キリスト者が永遠にその贖い主の御前にいて、「完了した。あなたはもはや出て行くことはない」、と告げられる際に見出す幸いを、だれが云い表わせようか? 自分の愛する人々とともにいるのは喜ばしいことである。私たちの地上における幸せすら、自分の愛情のかぎをにぎる人々----自分の夫、妻、兄弟、姉妹、無二の親友----がはるか遠くにいるのでは不完全なものである。だが、天国にそのような不完全さは何もない。そこでは私たちは、私たちを愛し私たちのためにご自身をお捨てになり、私たちの救いの代価、すなわち、ご自分の血を支払ってくださった、私たちの栄光の主の臨在を眼前にするのである。そしてこのように書かれている聖書が成就するのである。「あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります」。

 しかし、ここに長々ととどまっているわけにはいかない。こう記されている。「彼らはもはや、飢えることもなく、渇くことも……ありません」。彼らには、もはや何の欠けも必要もない。彼らはもはや、いのちのパンを日ごとに乞い求める必要はなく、自分の魂がこの世の荒野で飢えているのに気づくこともない。彼らは、自分の霊的食物が足りないのでないかという恐れに震えたり、もっと十分に水を飲むことを渇き求めたりする巡礼のように歩くことはない。むしろ彼らは、この預言が実現したことに気づく。「私は……目ざめるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう」。しかし、さらにまた、「太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません」。もはや何の試練も迫害もない。彼らをそしる者はひとりもなく、彼らを罠にかけようとする誘惑は何1つない。物笑いにする者、へつらう者、あざける者は永遠に口をつぐんでしまう。悪い者の火矢はみな消されるであろう。キリスト者の平安を傷つけたり乱したりする物は何もないであろう。ついに彼が安息を得る時がやって来るであろう。彼は、かつて自分が繰り広げた数々の争闘の場面のはるか上にいて、その争いが再び起こることはない。

 しかし、最高の特権となるのは何だろうか? 「御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです」。主イエス・キリストご自身が、彼らの慰めを満たしてくださる。彼らを罪の死から義のいのちへと引き上げたのと同じ優しい御手が、----また、彼らの霊的な病をいやし、彼らに健康と平安をもたらし、彼らを地上で新しく造られた者としたのと同じ優しい御手が、----その御手が、彼らを天に迎え入れ、目が見たことも、人の心に思い浮んだこともない幸いな祝宴へと、彼らを賓客として導いてくれるのである。かつてこのお方は、この世の荒野をさまよう羊のような彼らを捜し求め、ご自分の小さな群れの一員としてくださったことがあった。そのために主は、彼らを聖霊によって更新し、彼らの倦み疲れて、重荷を負った魂を、いのちの水で元気づけてくださった。そして、彼らの地上における患難の時代に、良い働きを始められたのと同じイエスが、その同じ《良い羊飼い》が、その働きを天で完成させてくださるのである。この現世における彼らは、北から南から、東から西から震えながらやって来た巡礼として、その流れのほんの一口を味わうに過ぎなかったが、来世で彼らは、その源泉そのもののまわりに集まり、そこで1つの群れ、ひとりの羊飼い、1つの心、1つの思いとなり、いかなる者によっても恐れさせられることはないであろう。そしてそのとき、そこでは何の涙を流すこともないであろう。というのも、「神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる」からである。何の涙も流すことのない住まい! 私の知る限り、天国の中でも、これほど想像の困難な場所はない。私たちの住んでいる世界は、悲しみの世であり、涙の谷そのものである。自分自身のための涙、他の人々のための涙、自分自身の欠点のために流す涙、愛する人々の不信仰のために流す涙、幻滅による涙、ありったけの愛情を注いでいた人々の墓の前で流す涙、そして罪のゆえに流されるすべての涙。もしアダムが一度も堕落しなかったなら、世にはいかなる悲しみもなかったであろう。だが私たちが泣くことそのものが、罪の証明である。

 それでも、それが永遠に続くわけではない。やがて来たるべきいつの日か、悲しみは消え失せ、神ご自身がこう仰せになる。「あなたの泣く声をとどめよ。以前のものが、もはや過ぎ去ったからである」、と。天国には何の悲しみもない。そこには何の罪もないからである。私たちの患難の日々は忘れ去られる。私たちはついに、何の冷淡さもなしに私たちの神を愛することができるようになり、何の苦悩もなしに神の聖さをあがめ、何の絶望もなしに神を信頼し、何の倦怠も、何の中断も、何の散漫さもなしに神に仕えることができるようになる。弱さと腐敗の日々は過ぎ去り、私たちは幸福においても聖さにおいても、また不滅においてもきよさにおいても、私たちの主に似た者となるであろう。

 さて愛する方々。ここで私はあなたに尋ねたい。神の教会が地上に立てられており、教役者たちがあなたがたの魂を見張るため任命されているのは何のためだろうか? 聖書があり礼典があり、祈りがあり説教がある目的は何だろうか? その目的はただ1つ、あなたがたが永遠の栄光のうちに聖徒たちとともに数えられ、これまで語られてきたような祝福をあなたがたが享受するためではなかろうか?

 ならば心を探り、この聖句がいかに厳粛な問いかけを発しているか見てとるがいい。あなたは十字架を負っているだろうか? 自分を否定しているだろうか? この霊的な患難について少しでも知っているだろうか? たかをくくっていてはならない。自分は断固として主の側に立つと宣言する者、この世のあり方や、肉の欲や、悪魔の策略を向こうに回して主の戦いを戦おうとする者以外は、決して白い衣を着て御座の前に立つことも、勝利のしゅろの枝を手に持つこともないであろう。

 今のあなたの罪に対する無頓着さ、誘惑をもて遊ぶ軽率さ、一時的な物事に没頭する熱心さ、永遠に対する忘れっぽさ、キリスト教信仰においてたやすく大勢に流される安易さ、自分の隣人たちよりも真剣になることをいとう不承不承さ、几帳面すぎると思われたくないという恐れ、世から良い評判を立てられるのを好む欲求、----これが、あなたの呼ぶところの、大きな患難から抜け出て来ることだろうか? これが御霊のために蒔くということだろうか? これが永遠のいのちを求めて努力し、苦闘することだろうか? おゝ、あなたの土台を見直し、あなたの家を整理するがいい。神のあわれみを空頼みしても、決してあなたは救われないであろう。あなたは怠惰さや冷淡さにつくバプテスマを受けたのではない。罪を真に憎み、罪を真に捨てるのでない限り、キリストはあなたにとって何の足しにもならない。あなたが小羊の血によって白くされる道はただ1つ、心の底からこの地上の汚辱を洗い流されたいという願望を持つことである。

 さて、そこで最後に考えてほしい。おゝ、この世の不幸な子どもたち。あなたは、これまで語られてきたような天国で幸福になることができるだろうか? あなたがたもみな知っているのではなかろうか? 病や死によっては、めったに人の心は変わることがなく、めったに人のうちに新しい嗜好や新しい願望が植えつけられはしないことを。----また、教会に来るだけで偉業を行なったかのように考え、礼拝を退屈な代物とみなし、それが終わればせいせいするような人々が、喜んで神の宮で昼も夜も神に仕えるようになるなどということが考えられるだろうか? 祈りによってイエスに近づくことに何の喜びも感じない人々が、永遠に主の御前にいること、また主とともに住むことを喜ぶようになるだろうか? 決して義に飢え渇いていないあなたが、生ける水の泉によって満足するだろうか? 罪や腐敗のために泣くとはいかなることか全く見当もつかないあなたが、----この世の邪悪さについて全く悲しんでいないあなたが、----神によってすべての涙がぬぐい取られる際の安らぎという特権を理解する見込みなどあるだろうか? おゝ、否。そのようなことはありえない。不可能である! 人は自分が蒔いたものの刈り取りをするものである。私たちは、現世において何を愛するにせよ、永遠においてもそれを愛することになる。いま私たちが退屈だと考えるものは、永遠においても退屈だと考えるはずである。あなたがたは新しく生まれなくてはならない。さもないと、天国そのものが、みじめな住居となるであろう。そこには、世的な思いをした者、俗的な者のための場所は1つもない。あなたがたは、心の霊において新しくされなくてはならない。さもないとあなたがたは、このぞっとするような声を聞くことになるであろう。「あなたは、どうして礼服を着ないで、ここにはいって来たのですか」。あなたがたは、新しく造られた者にならなくてはならない。それを引き延ばすことによって、いつまであなたは、あなたの贖い主を侮辱すれば気がすむのだろうか? おゝ! 「きょう。」と言われている間に、主イエス・キリストにその聖霊を下らせてくださるよう祈るがいい。あわれみの扉がまだ開いているうちに、その泉に行って、身を洗って、きよくなるがいい。

 しかし、あなたがた悲しんでいるすべての者は幸いである。というのも、あなたがたは慰められるからである。あなたがた義のために迫害されている者は幸いである。というのも、天においてあなたがたの報いは大きいからである。あなたがたは泣く者とともに泣いてきたが、まもなく喜ぶ者とともに喜ぶようになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はない。もうほんのしばらくすれば、あなたは永遠に主とともにいるようになる。かしこでは、悪者どもはいきりたつのをやめ、かしこでは、力のなえた者はいこう。この身の肉体は虫に食われてなくなるかもしれないが、あなたがたは、あなたがたの肉から神を見る。自分の目で主を見つめ、自分の耳で主がこう云うのを聞く。「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい」。かつてはあなたが、あれほどしばしば、その信仰と忍耐を尊敬してきた聖徒たちが、----また、あなたがあれほどしばしば、「おゝ、あのような人々のようになれたなら」、と云ってきた聖なる人々が、----また、あなたにいのちの道を示し、そこに堅く立って動かされないように懇願してくれた教職者たちが、----また、あなたに世を出て行くよう忠告し、神の国についてあなたと甘やかな語り合いを持った友人たちが、----また、あなた自身の家庭でイエスにある眠りにつき、あなたより先に家に帰った愛する者たちが、----こうしたすべての人々がそこにいる。こうしたすべての人々が、あなたを迎え入れようと待っている。そしてそこには、もはや何の別れもなく、もはや何の泣くこともなく、もはや何の別離もない。そしてあなたも、あなたさえも、この卑しい肉体を変えられて、贖われた者の歌を歌うであろう。「私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方であるキリストに、栄光と力とが、とこしえにあるように」、と。

 あなたがたは、世にあっては患難がある。しかし、勇敢であるがいい。あなたがたの主なる救い主は、すでに世に勝ったのである。

確かな望み[了]

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