Ready and Waiting          目次 | BACK | NEXT

3. 用意して待つ


「そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ。』と叫ぶ声がした。娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言った。しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです」。 マタイ25:1-13

 これは、主イエスが語られたたとえ話の中でも最も厳粛なものの1つである。その理由の一半は、これが語られた時期にあり、もう一半は、これが含んでいる内容にある。

 その時期について云えば、これは私たちの主の死が、ほんの数日後に迫っていた時であった。これは、間近にゲツセマネとカルバリ、十字架と墓を控えて語られたものなのである。

 その内容について云えば、これは、あらゆる時代の教会に対する警告としてそびえ立っている。これは、無頓着さと怠惰さ、無関心と冷淡さに対する証言であり、決して不明瞭な証言ではない。これは罪人たちに向かって、「目覚めよ」、と叫び、聖徒たちに向かって、「用心せよ」、と叫んでいる。

 さて、このたとえ話を扱うにあたり、必然的に私は、語ろうと思えば語れる多くの点を割愛しなくてはならない。このたとえ話からは多くの思想を掘り起こし、展開できるが、それらを逐一たどっている時間はない。私がここに立っているのは、本を著述するためではなく、一回限りの説教を語るためなのである。こうした事情に鑑みて私は、あなたと私がぜひとも知らなくてはならない、いくつかの点に限って話を進めたい。

 このたとえ話が語られた土地の婚礼習慣については、一言説明しておく必要がある。そこでは、通常、結婚式は夜に行なわれた。花婿とその友人たちは、日没後に列をなして花嫁の家へ向かう。花嫁の友人である若い娘たちは、花嫁の家に集まって彼らを待っている。花婿の一行のともしびとたいまつが遠方に見えるやいなや、この若い娘たちは自分たちのともしびに火をともし、彼を迎えに出て行く。それから、合流して1つの集団になった彼らは、連れだって花嫁の家に引き返す。彼らが家に入ると、すぐに扉が閉ざされ、婚礼の式が行なわれる。その後ではだれも中に入ることは許されない。こうしたことはみな、主イエスのことばを聞いていた人々にとってはなじみ深いことであった。あなたも、こうした事情を頭におさめ、理解しておくべきである。

 このたとえ話の中で用いられている種々の象徴についても、一言説明しておかなくてはならない。私はあなたに、私自身がどう解釈しているかを示したいと思う。それは間違っているかもしれない。だがあなたは、私がどう考えているかを知る権利があるし、私も手短に、それをはっきり告げるであろう。----それ以上のことをしている時間はない。

 私の信ずるところ、このたとえ話で語られている《時》とは、キリストがこの世に、みからだをもって来臨なさる時を指している。「そこで」という言葉を、24章の末尾とくらべてみれば、この問題には決着がつくと思われる。

 私の信ずるところ、ともしびを持っていた娘たちとは、信仰を告白するキリスト者たち、目に見えるキリスト教会を表わしている。

 私の信ずるところ、花婿とは主イエス・キリストご自身を表わしている。

 私の見るところ、賢い娘たちとは真の信仰者たち、目に見える教会の回心している部分のことである。愚かな娘たちとは、単なる名ばかりのキリスト者たち----未回心者たちのことである。

 私の見るところ、ある者は持っていたが、ある者は持っていなかった油とは、御霊の恵み、聖なる方からの注ぎの油のことである。

 私の考えるところ、夜中に叫ぶ声とは、キリストがこの世へ二度目に来臨なさる時のこと、すなわち再臨を指している。

 私の考えるところ、賢い者たちが婚礼に出るとは、信仰者たちの報いを指している。また、愚かな者たちが閉め出されたとは、不信者たちが最終的に天国から排除されることを指している。

 さてこれ以降は、もはや何の序論も述べることなく、このたとえ話が教えていると思われる実際的な教訓のいくつかを大づかみに指摘していくことにしたい。

 I. 第一に学ぶべきなのは、目に見えるキリスト教会は、キリストが再び来られるまで、常に混合体のままであろう、ということである。
 II. 第二に学ぶべきなのは、この目に見える教会には常に、キリストの再臨という教理をないがしろにする危険がある、ということである。
 III. 第三に学ぶべきなのは、実際にキリストがいつ再臨なさろうと、それは非常に突発的な出来事であろう、ということである。
 IV. 第四に学ぶべきなのは、キリストの再臨はキリストの教会の全成員に、善にせよ悪にせよ、1つの途方もない変化をもたらすであろう、ということである。

 私はこうした真理を1つずつ、あなたの前に提示していこうと思う。

 I. 第一に学ぶべきなのは、目に見えるキリスト教会は、キリストが再び来られるまで、常に混合体のままであろう、ということである。

 このたとえ話の冒頭からは、それ以外にどのような意味も汲み取れない。そこに見られるのは、賢い娘と愚かな娘が1つの集団となって入り混じっている姿である。----油を持った娘たちと油を持たない娘たちがみな肩を接してともにいる姿である。そしてそこに見られるのは、こうした事態が、花婿が姿を現わす瞬間まで続いていく姿である。こうしたことすべてを見るとき、避けようもない結論となること、それは、イエス・キリストが再び来られる時まで、目に見える教会は常に混合体であり続ける、ということである。その成員たちは、決して全員が不信者となることはないであろう。キリストには常にご自分の証人たちがあるであろう。だがその成員たちは、決して全員が信仰者となることもないであろう。そこには常に不完全さ、偽善、まがいものの信仰告白があるであろう。

 教会は次第に完成に向かい、最後の最後までますます向上し、ますます聖くなっていく、などという考え方が、昨今は至る所に広まっている。率直に云うが、私はこうした考え方にいかなる根拠も見いだすことができない。聖書のどこを見ても、罪が次第に地上から減って行き、春先の雪だまりのように少しずつ小さくなり、溶け去り、消え失せるだろうなどと信ずべき保証はない。あるいは、聖さが次第に、ベンガル菩提樹のように増え広がり、開花し、咲き誇り、世界の表を実で満たすだろうなどと信ずべき保証はどこにもない。

 私がいささかの揺るぎもなく信ずること、それは、真の福音的なキリスト教信仰にはその進展に浮き沈みがあり、大潮小潮があるということである。また、月の満ち欠けのようにキリストの花嫁は、充実し、輝きに包まれて闊歩することもあれば、全く光を失い、まるで姿が見えなくなるようなこともある、ということである。再臨の時まで、世界には大量の悪が常に存在し続けるであろう。それを私は完全に確信している。悪人や詐欺師たちは、だましたりだまされたりしながら、ますます悪に落ちて行くはずである。毒麦と麦は収穫まで両方とも育つままにされるはずである。私も、いつの日か地が、主の栄光を知ることで満たされるようになることを完全に期待している。だが私は、その日が今とは全く異なる経綸となること----主が戻られるまでは訪れないこと----を信ずるものである。花婿がやって来るまで、教会の中には常に賢い者と愚かな者が存在し続けるであろう。

 賢い者とは、聖霊だけが与えることのできる知恵を有している者たちのことである。彼らは自分のもろもろの罪を知っており、キリストを知っており、いかにして歩み、神を喜ばせるかを知っており、その知識に基づいて行動している。彼らは、人生を永遠への準備期間とみなし、目的地ではなく道程であるとみなし、港ではなく航海であるとみなし、故郷ではなく旅であると、成年ではなく学校であるとみなす。幸いなことよ、こうしたことを知っている者は!

 愚かな者とは、霊的知識を持たない者たちのことである。彼らは神をも、キリストをも、自分自身の心をも、罪をも、世をも、天国をも、地獄をも、知らなくてはならないほどには全く知っていない。何が愚かといって、魂に関する愚かさほど愚かなことはない。何の働きもなしに賃金を期待すること、何の労苦もなしに繁栄を期待すること、何の勤勉な読書もなしに知識を得ようと期待すること、----こうしたことはみな愚かなことである。しかし、キリストを信ずる信仰なしに天国を期待すること、あるいは新しく生まれることなしに神の国を期待すること、あるいは十字架なしに冠を期待すること、----こうしたことはみな、それ以上の愚かさでありながら、しかし、それ以上にしばしば見受けられることである。

 花婿が来る時まで、目に見える教会の中には常に、恵みを持つ者と持たざる者がいるであろう。ある者は名ばかりのキリスト者であり、別の者には実質が伴っているであろう。ある者は信仰の告白を有しているが、別の者は信仰の実体も有しているであろう。ある者は教会に属していることで安心しきっているが、別の者は自分がキリストにも属していない限り決して安心しないであろう。ある者は水のバプテスマを受けているというだけで満足するが、別の者は御霊のバプテスマを内側に感じていない限り決して満足しないであろう。ある者は形だけのキリスト教で自足するが、別の者はその実質を持たない限り決して心安んじないであろう。

 兄弟たち。キリストの目に見える教会は、こうした2つの種別の人々によって構成されている。そこには常にそうした人々がいる。そこには、最後に至るまで、常にそうした人々がいるであろう。どっちつかずの、優柔不断な人々は、それと見分けがつかなくとも必ずいるに違いない。しかしキリストの全教会を構成しているのは、恵みを持つ者と持たざる者、賢い者と愚かな者なのである。このたとえ話の中には、あなたがた全員の赤裸々な姿が書き記されている。あなたがたはみな、賢い娘か、愚かな娘かのいずれかである。あなたがたはみな、恵みの油を有しているか、全く有していないかのいずれかである。あなたがたはみな、キリストの各器官であるかないかのいずれかである。あなたがたはみな、天国へ向かって旅をしているか、地獄へ向かって旅しているかのいずれかである。

 ここで見てとりたいのは、私たち教職者が説教する際には、自分の会衆を分類することがいかに重要であるか、ということである。いかに私たちは、自分の語りかける相手を、回心者と未回心者の集まりであるとみなさなくてはならないことか。会衆は常に、一部は新生した者、一部は新生していない者、一部は恵みを持つ者、一部は全く持っていない者である。ある人々がこうしたことを好まないことは百も承知している。ある人々によると、私たちは、あなたがた全員を善良なキリスト者であるものとして語りかけるべきだという。それは重々わかっている。だが私としては、決してそうしたことはできない。また、聖書を手にしている人間が、いかにしてそのようなことができるのか見当もつかない。

 ちまたに広まっている考え方によると、バプテスマを受けた者ならみな恵みを有しており、バプテスマを受けた人々からなる会衆はみな新生した人々として語りかけられるべきだという。私はこうした考えを、聖書の危険な否認として反対する。真の恵みの性質について、人々の精神を惑わすものとして反対する。私は、だれも見ることのできない恵みなどという考えに反対する。人が心の中に有していながら、だれにもその存在が気づかれない恵みなどという考えに反対する。そのような恵みは聖書のどこにも見いだすことができない。恵みがあるかないか、油を持っているかいないか、生きているか死んでいるか、御霊を有しているかいないか、----こうしたことだけが私に見いだせる区別である。これらは昔からの通り道であり、この道を歩くよう私はあなたに忠告する。にせ預言者たちに用心するがいい! 信仰告白というともしびを持っていることと、恵みという油を持っていることとの間に、きっぱりと一線を引かないような教職者たちから、願わくはあわれみ深き主が、あなたを常に救い出してくださるように!

 II. 第二に学ぶべきなのは、キリストの教会は常に、キリストがそのみからだをもって再び来臨なさるという教理をないがしろにする危険がある、ということである。

 この真理のもととなっているのは、「花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた」、という厳粛な言葉である。人々がこの節を、様々に異なるしかたで説明していることは、私もよく承知している。だが、私がここに立っているのは、だれかを先生と呼ぶためではない。私が立てられているのは、自分の良心において正しいと信ずるところを宣言するためであり、他の人々の意見によって縛られることはできない。

 私の信ずるところ、「みな、うとうとして眠り始めた」、という言葉が意味しているのは、全員の死ではない。多くの人はそう考えているが、そうではない。私の考えるところ、そのような解釈には、全くの不真実が含まれている。キリストの来られるときには、信仰を告白する教会のすべての者が死んでいるわけではない。聖パウロは、「主が再び来られるときまで生き残っている私たち(「みなが眠ってしまう」のではなく)」、と云っている[Iテサ4:15; Iコリ15:51]。

 また私の信ずるところ、この言葉が意味しているのは、信仰を告白する教会の全体が、魂のまどろみと眠りの状態に陥るということではない。多くの人がそう考えているが、そうではない。そうした見解は、信仰者と不信者の区別をあまりにも拭い去ってしまうように思われる。眠りは、御霊が未回心の状態を表わすために選んでおられる象徴の1つである。「眠っている人よ。目をさませ」、云々。

 私の信ずるところ、この言葉を正しく説明するには、このたとえ話全体が主として関わっている、かの大いなる出来事----キリストの再臨----に格別の注意を払うべきである。そして私の信ずるところ、私たちの主がこのたとえ話のこの節で意味しておられるのは、単純にこういうことであった。すなわち、主の最初の来臨に始まり二度目の来臨に終わるこの時期に、信仰者と不信者の双方からなる教会全体は、主がみからだをもって帰還なさるという、ほむべき教理について、鈍く、ぼやけた魂の状態に陥るだろう、ということである。

 そして、あえて私はこのことも云っておきたい。私の個人的な判断では、私たちの主のおことばのうち、これほど現実の事態によってその真実さが現わされたものは1つもなかった。私は云う。福音のあらゆる教理のうち、その真価の認識において私たちが最も初代のキリスト者たちと隔たっているのは、キリストの再臨という教理にほかならない。人間の腐敗や、信仰による義認や、きよめをなさる御霊の必要に関する見解や問題については、私の信ずるところ、英国のキリスト者たちは、古の時代のコリントやエペソやピリピやローマの信仰者たちと、大いに意見が一致していることに気づくであろう。だが、再臨に関する私たちの見解については、私の信ずるところ、そこに大きな差異があることに気づくであろう。それは私たちの経験を比較してみるだけでわかる。私たちは、その重要性を評価し、その性質を悟ることにおいて、自分が痛ましいほど彼らに劣っていることに気づくはずである。一言で云えば、私たちは、その件に関して自分がまどろみ、眠っていることに気づくはずである。

 この主題に差しかかった以上、私は自分の意見を語らなくてはならない。それは、一部の人々を怒らせ、その偏見を逆なでにしかねないであろう。しかし、私は語らなくてはならない。

 そこでまず云いたいのは、旧約聖書ではキリストがそのみからだをもって来臨することが2つ語られているということ、しかしキリストの教会は、それをあまりにも長い間、見落としてきたということである。----そこには、謙卑による来臨だけでなく栄光における来臨があり、苦しみを受けるための来臨もあれば、統べ治めるための来臨もあるのである。私たちは、あらゆる約束を霊的に解し、あらゆる呪いと宣告を字義通りに解するという悪弊に陥っている。私たちは、ユダヤ人やバビロンやエドムやエジプトに対する呪いのことは字義通りに解して満足していながら、シオンやエルサレムやヤコブやイスラエルなどに対する祝福のことは霊的に解し、平気でキリストの教会にあてはめている。このことは巷間に出回っている説教集や注解書を読めば一目瞭然である。だが私の信ずるところ、これは聖書の解釈としては間違った方式である。私の信ずるところ、預言的な宣告や、預言的な約束は、その主要な意味においては、常に字義通りに解されるべきである。その主要な意味を私たちは嘆かわしいほどに見失っており、そのことによって私たちは、キリストの再臨についてまどろみ、眠ったような状態に陥ってしまっていると思う。

 しかし私はさらに云う。キリストの教会は、あまりにも長い間、新約聖書の中で、人の子の来臨について語っている箇所に奇妙な意味を持たせ続けてきた。ある人々は、この表現は常に死を意味していると云う。人の子が来るという言葉が差し挟まれている、何千何万もの墓石の墓碑銘を読めば、こうした見解がいかに行き渡っているものかがわかる。ある人々は、これは世界の回心を意味していると云う。これもまた、多くの人々がこの表現についていだいている、非常によくある解釈である。彼らは新約聖書中の預言の至る所にエルサレムを見いだし、アロンの杖のようにそれで他のすべてを呑み込んでしまうのである。さて、私は、死や、世界の回心や、エルサレムの破壊の重要性をいささかも過小評価したいとは思わない。だが私は、自分自身の堅く信ずるところを披瀝せずにはいられない。すなわち、人の子の来臨とは、いま私が言及した3つのいずれとも全く異なる主題なのである。そして、こうした異見が広く受け入れられていることは、キリストの再臨について教会がまどろみ眠ってきたという、もう1つの証明であると私は主張するものである。

 私の信ずるところ、聖書の平明な真理は、次の通りである。選民の数が満たされたとき、キリストは力と大いなる栄光を伴って、この世に再び戻って来られる。最初の時、みからだをもって来臨なさったように、主は二度目の時も、みからだをもって来臨なさる。目に見える形で去っていかれたのと同じく、目に見える形で戻ってこられる。そのとき主は使徒の働き1章のこの言葉を成就なさる。「あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります」。また、ゼカリヤ書14章の言葉を成就なさる。「私の神、主が来られる。すべての聖徒たちも主とともに来る」。また、ユダ書にあるエノクの言葉を成就なさる。「見よ。主は千万の聖徒を引き連れて来られる」。そして現今の教会がこれまで、また今も伴っている大きな欠点は、私たち教職者がこの再臨について十分説教せず、個々の信仰者たちがそれについて十分考えていない、ということである。少しはそうしている人々もあるが、それが何ほどのことであろう? 多くの者はそうしていない。私たちのうちひとりとして、神がお望みになっておられるほどに、このことにより頼んで生き、このことによって養われ、これに立って行動し、これから働かされ、これによって励まされている者はいない。つまり、花婿が来るのが遅れたので、私たちはみな、うとうとして眠っているのである。

 ある教理が時として手ひどく濫用されてきたからといって、それが真の教理でないことには全くならない。真の教理のうち、そうした濫用を受けなかったものがあるなら教えてほしい。恵みによる救いは、放縦の口実にされてきた。選びは、ありとあらゆる種類の汚れた生き方の云い訳にされてきた。そして、信仰による義認は、無律法主義の裏づけにされてきた。しかし、たとえ人々が間違った結論を引き出すことがあるにせよ、私たちが正しい原理原則を放棄しなくてはならないことにはならない。ソールトマーシュや、ウィリアム・ハンティントンや、跳舞派や、シェーカー教徒らが無茶苦茶な言動をとったからといって、私たちは福音を捨てはしない。そして私たちは、共和制時代の第五王国派や、現代のアーヴィング派のゆえに、再臨の教理を捨てる必要はない。

 さらにまた、ある教理に多くの困難が伴っているからといって、それが誤りであることには全くならない。私の考えるところ、再臨の教理に伴う困難は、キリストの初臨に関連していた困難の半分にもならないが、そうした困難はみな克服されたのである。これ以外の解釈の方式には、それがいかなるものであれ、これよりはるかに多くの困難が伴っていると私は確信している。そして、とどのつまり、種々の預言が「いかにして」また「いかなるしかたで」成就されることになるか、など私たちにとって何の関係があるだろうか? 私たちの問うべき唯一のことは、「神はそれを語られたか?」、である。もし神が語られたのであれば、疑いもなくそれは実現するであろう。

 私自身としては、個人的な証言を行なうことしかできない。だが、私がこの教理について体験的に知っている僅かなことからしても、私はこれを最も実際的で尊いものとみなしており、これがより一般的に受け入れられるようになることを切望するものである。

 私の知る限り、これは聖い生き方への力強い発条である。忍耐と、節制と、霊的な考え方に至らせる動機である。時間の使い方の試金石である。----「私は、これを行なっているところを私の主に見つけられることを望むだろうか?」

 私の知る限り、これは伝道の働きにとって最も強力な議論である。時は縮まっている。主は近い。すべての国々から証し人たちが集められる時期はまもなく終わる。そのとき《王》はやって来られるであろう。

 私の知る限り、これは不信者に対する最良の答えである。私は彼らにこう告げる。全世界が千八百年たっても聖くなっていないからといって、それは何の証明にもならない、現在のような物事のあり方の中でそうしたことが起こるなどとは決して云われていない、いつの日か《王》がやって来られて万物を御前にひれ伏させるのだ、と。

 私の知る限り、これはユダヤ人に対する最良の議論である。もしイザヤのすべての預言を字義通りに解するのでなければ、私はその53章がすでに成就したことをどうやってユダヤ人に説得できるものか、見当もつかない。しかし、すべてを字義通りに解するなら私は、ユダヤ人が揺るがすことのできない基盤を、自分のてこのために有することになるのである。

 キリストの、みからだをもっての二度目の来臨という教理を、まだ受け入れられない方がここにいるだろうか? ぜひこの主題を冷静に考えてみていただきたい。伝統的な解釈のことは、いったんきれいに忘れてほしい。この教理を主張してきた多くの人々の過誤や愚行は、この教理そのものから切り離してほしい。木、草、わらのゆえに土台を退けてはならない。無思慮な友人がいるからといって、これを断罪してはならない。ただ、この教理について述べている幾多の聖句を、あなたがローマカトリック教やソッツィーニ派との論争において種々の聖句をはかりにかけるのと同じ平静なしかたで吟味してほしい。そうするとき、あなたの思いにいかなる結果がもたらされるかには、大きな期待が持てよう。

 この教理を受け入れている方がこの場にいるだろうか? では、これをより良く理解するよう努めるがいい。悲しいかな! 私たちは最善の状態にあってさえ、いかにこの教理によって感動することの少ないことか! 意見を異にする人々との議論に際しては穏やかにふるまうがいい。この主題について思い違いをしている人も、歴とした神の子どもでありえることを忘れてはならない。この主題についてまどろむことが魂を滅ぼすのではなく、恵みを欠くことがそうするのである。何にもまして、独断と絶対的な断言を避けるがいい。特に、象徴的な預言についてはそうである。悲しくも決して忘れてならない真実は、再臨の教理をだれにもまして傷つけてきたのは、それを支持する過度に熱心な人々だった、ということである。

 III. 第三に学ぶべきなのは、実際にキリストがいつ再臨なさろうと、それは非常に突発的な出来事であろう、ということである。このように云うもととなっているのは、このたとえ話の中の、「夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ。』と叫ぶ声がした」、という言葉である。

 私はいつキリストが来られるか知らない。私は預言という主題を愛しているが、預言者ではない。私は日を定めることを嫌うものであり、それが非常に大きな害悪をもたらしてきたと考えている。唯一断言できるのは、キリストはいつの日か、ご自分の御国を打ち立てなさるために、みからだをもって再び来られ、その日が近かろうと、はるか先のことであろうと、それは教会と世とを途方もなく驚かせるであろう、ということである。

 それは、人々の上に突然臨むであろう。世の前に突如として現われるであろう。そのとき、それについて語り合っていたり、そのための備えをしていたり、それを待ち望んでいたりする者たちはほとんどいないであろう。それは深夜の「火事だ!」という叫びのように、人の思いを呼び覚ますであろう。それは熟睡している人の耳元で吹き鳴らしたトランペットのように、人の心を飛び上がらせるであろう。パロとその軍勢のように、人々は水が自分の上に迫ってくるまで何も悟らないであろう。彼らは息を呑み、自分がどこにいるか悟るまもなく、主が来られたことに気づくであろう。

 人々の思いの中には、現在のような物事のあり方がそれほど全く突然に終わりを迎えはしないだろうという、漠然とした考えが浮かんでいるのではないかと思う。人々は、世界には一種の土曜の夜のようなものがあるだろうという観念にしがみついているのでなかろうか。----すべての人に、主の日が近づいたことをわからせるような時、すべての人が自分の良心をきよめることができるような時、自分の最上の衣服を探し、自分の地上的な務めを振るい落とし、主と会う備えができるような時があるだろうと彼らは考えているのではないか。もしこの場のだれかがそのような考え方をいだいているとしたら、私はその人に、それを永遠に捨て去るように命ずる。成就されていない預言において何か1つ確かなことがあるとしたら、それは、主の来臨が突然に起こり、人々を驚かせるという事実である。そして、いかなる預言に関する見解であれ、それが突然の出来事である可能性を破壊するようなものには、致命的な欠陥があると思われる。

 この点に関して聖書に書かれているあらゆることは、キリストの再臨が突然起こるという真理を確かにしている。ある箇所では、「その日はわなのように、突然、地に住むすべての人に臨む」*、と云われている。別の箇所では、「夜中の盗人のように来る」、と云われ、第三の箇所では、「いなずまが、ひらめくように」*、と云われ、第四の箇所では、「思わぬ時間に」、と云われ、第五の箇所では、「人々が『平和だ。安全だ。』と言っているそのようなときに」、と云われている。

 私たちの主イエス・キリストご自身、この点について語っているとき、2つの最も驚くべきたとえを用いておられる。その1つで主が云われていることによると、人の子が現われる日に起こることは、ロトの時代にあったことと同様である。あなたは、それがいかなる次第であったか覚えているだろうか? ロトがソドムから出て行った頃、ソドムの人々は食べたり、飲んだり、植えたり、建てたり、めとったり、とついだりしていた。太陽はいつものように昇った。彼らは世的なこと以外何も考えていなかった。危険が迫っているしるしなど何も見えなかった。しかし、突如として神からの火が彼らの上に降り、彼らを滅ぼしてしまった。

 別の箇所で主は云っておられる。「人の子の日に起こることは、ちょうど、ノアの日に起こったことと同様です」。あなたは、ノアの日がいかなる次第であったか覚えているだろうか? 少し時間をとって、それを思い出させていただきたい。

 洪水が地に臨んだとき、そこには、これほどすさまじい災厄が間近に迫っていることを前もって示すようなものは何も見当たらなかった。常と変わらず夜の後には昼が繰り返し続いていた。世の仕事は行なわれ続けていた。そして、ノアが絶えず来たるべき危険について宣べ伝え、警告していたにもかかわらず、だれひとり彼を信じなかった。

 しかし、とうとうある日、雨が降り出し、やむことなく続いた。大水があふれだし、とどまることをしなかった。洪水が起こり、洪水がみなぎりあふれた。洪水は全くひく気配を見せず、1つまた1つと物を沈め始め、箱舟の中にいなかったすべてのものが溺れ死んだ。いのちの息を有するあらゆるものが滅び去った。

 さて、洪水が世を突然驚かせたのと全く同じように人の子はやって来るのである。それは、青天の霹靂のように人々を襲うであろう。この世の務めの真っ直中で、何事も全く普段通りになされているとき、そのような時に、主イエス・キリストは戻って来られるであろう。

 ここで見てとるがいい。主イエス・キリストの再臨が、いかに厳粛な思いを、あらゆる人の思いのうちに引き起こすべきであるかを。しばし考えてみるがいい。このような出来事に対して、世がいかにほとんど何の備えもしていないかを。地上の町々や幾多の都市を眺めて、それらのことを考えてみるがいい。いかに人々が、自分の職業や日々の務めに没頭していることか。銀行、商店、弁護士事務所、医学、交易、鉄道、晩餐会、舞踏会、劇場、----こうした一切合切が、人の心と魂を呑みつくし、神の事がらから遠く押しやっている。こうしたことがみな、突如停止させられたなら----キリストの現われの日にもたらされるであろう突然の停止は----、いかに恐るべき衝撃となることであろう。それでも、いつの日か、それが訪れるのである。

 わが国の農村部に広がる幾多の教区を眺めて、それらのことを考えてみるがいい。いかに大多数の者の思いが、農場や農園、家畜や穀類、地代や労賃、掘ることや蒔くこと、買うことや売ることに埋没していることか。そして、考えてもみるがいい。これらのことがみな、突如中止させられたなら----キリストがすべてを終わらせるために再臨なさる日に起こらざるをえない突然の中止は----、いかにすさまじい効果をもたらすことであろう。それでも、忘れてはならない。いつの日か、それは訪れるのである。こうしたことを、あなたの心の目で描き出してみるがいい。あなた自身の家庭、あなた自身の家族、あなた自身の炉辺、----何にもまして、あなた自身の感情、あなた自身の精神の状態を思い描いてみるがいい。そしてそのとき、これこそ世界が急速に向かいつつある終焉であることを思い出すがいい。これこそ、世のもろもろの営為が迎えるであろう結末なのである。これこそ、ことによると私たちの生きる現代に起こってもおかしくない出来事なのである。そして確かにあなたは、このキリストの再臨ということが、ただの珍奇な思弁ではなく、あなたの魂にとって途方もなく重大なことであるという結論を避けては通れないに違いない。

 あゝ! 一部の人はこう云うであろう。それを私は疑わない。「これはみな、もったいぶったたわごと。これはみな突飛な熱狂主義だ。こんなことが全部実現するという見込みなど、可能性など、どこにあるというのか?」、と。

 そう云ってはならない。人々は同じことをノアやロトの日にも云った。だが、彼らはノアやロトが正しかったことを知ってほぞをかんだのである。そう云ってはならない。使徒ペテロの予言するところ、終わりの日には、人々がそのように語るのである。あなたの不信仰によってその預言を成就してはならない。

 私が云ってきたことのどこに、もったいぶったたわごとがあるだろうか? 私は平静に云う。現在のような物事のあり方はいつの日か終わりを迎えるであろう、と。私たちは今しているようなやり方のまま永遠に続けていけるとだれが云えるだろうか? 私は平静に云う。キリストの来臨は、現在のような物事のあり方を終結させるであろう、と。私がそう云うのは、聖書がそう云っているからである。私は平静に云う。キリストの来臨がいつになろうと、それは突然起こり、ことによると私たちの生きる現代に起こるかもしれない、と。私がそう云うのは、そうしたことがみな書かれているからである。もしあなたがそれを好まないのであれば、残念に思う。だが1つのことだけは覚えておかなくてはならない。あなたは私にではなく、聖書に難癖をつけているのである。

 IV. 最後に学ぶべきなのは、キリストの来臨はキリストの教会の全成員に、善にせよ悪にせよ、1つの途方もない変化をもたらすであろう、ということである。

 このように云うもととなっているのは、このたとえ話の中のしめくくりの部分である。愚かな娘たちが、自分のともしびが消えそうなことに気づいたこと、彼女たちが心配にかられて、「油を少し私たちに分けてください」、と賢い娘たちに向かって叫んだこと、閉ざされた扉をむなしく叩いて、「ご主人さま、ご主人さま。あけてください」、と叫んだこと、用意のできていた賢い娘たちが幸いにも花婿の一行とともに婚礼の祝宴に出ることを許されたこと、からである。こうした点はみな、深く考えるべきことである。しかし、いま個々の点を詳しく扱っている時間はない。私にできるのはただ、全体として1つの大ざっぱな見方を示すことだけである。キリストの名によってバプテスマを受けた者すべてにとって----回心している者としていない者、信仰者と不信者、聖い者と聖くない者、敬虔な者と不敬虔な者、賢い者と愚かな者、恵みを有する者と恵みを持たない者にとって----そうしたすべての者にとって、キリストの再臨は途方もない変化をもたらすことになる。

 それは、不敬虔な人々にとって、単なる名ばかりのキリスト者にとって、途方もない変化となる。

 彼らは、真に心に関わる信仰の価値を、それ以前には見てとっていなかったとしても、そのときには見てとるであろう。----「油を少し私たちに分けてください」、と彼らは敬虔な人々に叫ぶであろう。「私たちのともしびは消えそうです」、と。

 周知のように、霊的なキリスト教信仰は決して人に世の賞賛をもたらしはしない。そのようなことがあったためしはないし、決してそのようなことは起こらない。霊的なキリスト教信仰が招くのは世の非難であり、世の迫害であり、世の嘲笑であり、世の冷笑である。この世は、人を平然と地獄に向かうにまかせ、決してそれを止めようとはしないであろう。だが、世は決して人を平然と天国へ向かわせはしない。----彼らは持てる力のありったけを傾けて翻意させようとするであろう。忠実にキリストに従おうとした者すべてにつけられた幾多の徒名を聞いたことのない者があるだろうか?----敬虔主義者、メソジスト、聖人君子、狂信者、熱狂主義者、几帳面屋、その他の多くを聞いたことのない者があるだろうか? 私たちの生きる現代においても、個人の家庭内でしばしば加えられる、家族からの細々とした迫害について知らない者があろうか? どこかの若者が、あらゆる舞踏会や劇場や競馬場に通いづめで、全く自分の魂をないがしろにしていても、だれひとりとして邪魔だてはしない。だれひとり、「やりすぎは毒だよ」、とは云わない。だれひとり、「ほどほどにしなさい。----のめりこんではいけない」、とは云わない。しかし、その人が自分で聖書を読み出し、祈りに励むようになり、世的な娯楽への誘いを断り、時間の使い方に神経を使い、福音的な教会を求め、自分に不滅の魂があるかのような生き方を始めるとする。----そのようにするとき、ほぼ間違いなく、その人の親類友人のすべてが憤激するであろう。「お前はやりすぎだ」、「そんなに真面目くさった生き方をして何になる」、「極端に走り過ぎているぞ」、----こうしたことを、その人は聞かずにすませることはできず、それ以上に厳しい言葉すら投げつけられるかもしれない。こうしたことがあるのは悲しいことだが、それが事実である。これは昔からあることである。カインとアベルの時代にそうだったように、イサクとイシュマエルの時代にそうだったように、今もそれは全く変わらない。肉によって生まれた者は御霊によって生まれた者を迫害するものである。キリストの十字架は常に非難を招くであろう。もしある人が決然とした福音的なキリスト者になるならば、その人はこの世の愛顧を失う覚悟を決めなくてはならない。その人は多くの人から完璧な馬鹿と思われてもよしとしなくてはならない。

 しかし、兄弟たち。こうしたことはみな、キリストがお戻りになるときに終わるであろう。真昼の光が、あらゆるものの正体を明らかにするであろう。あわれな俗人の目からはうろこが落ちるであろう。魂の価値は、その人の驚愕に満ちた思いにひらめき現われるであろう。単なる名ばかりのキリスト教の全くの無価値さが雷嵐のようにその人に突然ひらめくであろう。新生と、キリストを信ずる信仰と、聖い歩みとがいかなる祝福であるかは、壁に書かれた「メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン」のように、その人の前に輝き現われるであろう。彼の顔からはおおいが落ちるであろう。その人は敬虔な人々こそ賢い者であったこと、自分が途方もない愚行にふけってきたことを悟るであろう。そして、サウルが手遅れになってからサムエルに会いたがり、ベルシャツァルが自分から王国から離れ去りつつあるときにダニエルを呼びにやったのと全く同じように、不敬虔な者は、自分たちがかつては嘲り軽蔑した当の相手に向かって叫ぶであろう。「油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです」、と。

 しかし、もう1つ。不敬虔な者は、キリストがお戻りになるとき、救いを熱心に求めても、それを見いださないであろう。彼らは、いったん取り逃がした機会が二度と取り返せないことを見いだすであろう。彼らは恵みの油を求めるであろう。自分を入れてもらおうと扉を叩き、「ご主人さま、ご主人さま。あけてください」、と叫ぶが、無駄であろう。

 だれもが知るように、おびただしい数の人々は、いま祈るように促されているが、決してそうしようとはしない。ことによると、本気でいつの日かそうするつもりではいるかもしれない。彼らは、主を求めすぎるのに遅すぎることは決してないと夢想している。

 しかし、いつかは祈りがもはや聞かれなくなる時がやって来る。タルソのサウロやマグダラのマリヤが入っていった扉が永遠に閉ざされるときが来る。人々が罪の愚かさを思い知っても、ユダのように、悔い改めるには遅すぎるときが来る。約束の地に入りたいと願っても、カデシュでのイスラエルのように、そうすることができないときが来る。神のいつくしみと契約の祝福がいかに尊いものかを見てとっても、エサウのように、もはやそれを獲得できないときが来る。神の啓示されたことばの一点一画までも信じても、みじめな悪霊たちのように、震えているしかないときが来る。しかり! 愛する兄弟たち。ここまでなら多くの者が達するし、キリストの再び現われる日にも、ここまでなら多くの者が達するであろう。彼らは求めるが受けることがなく、捜すが見つけることがなく、たたくが開かれることがないであろう。悲しいかな、まことにそれが事実となる! 災いなるかな、主がお戻りになる日まで、自分のマナを捜すのを後延ばしにする人は! 古のイスラエルのように、その人は何も見つけられないであろう。災いなるかな、ともしびに灯をともしているべきときに、油を買いに行く人は! 愚かな娘たちのように、その人は自分が小羊の婚宴から締め出されていることに気づくであろう。

 しかし、キリストの来臨が不敬虔な人々にとって途方もない変化であるのと同じく、それは敬虔な人々にとっても途方もない変化になる。

 彼らは完璧に安泰な立場に置かれることになる。「戸がしめられる」。彼らはもはや種々の誘惑に悩むことも、世から迫害されることも、悪魔によって戦いをいどまれることもない。彼らの争闘はすべて終わりを告げる。彼らの肉との葛藤は永遠にやむ。彼らは、何のサタンも、何の世も、何の罪もない場所にいることになる。あゝ! 兄弟たち。第二のエデンは最初のエデンよりもはるかにまさっている。最初のエデンでは、戸は閉められていなかった。だが、第二のエデンでは、主が私たちを中に入れて戸を閉ざしてくださる。

 さらに敬虔な人々は、完璧な祝福を受ける立場に置かれることになる。彼らは花婿とともに婚礼の場に入っていく。彼らはキリストとともにいることになる。信仰は目に見えるものに呑み込まれ、希望は確実なものとなり、知識はついに完全になり、祈りは賛美に変えられ、願望はその十分な成就を受けとり、恐れと疑いが立ち起こって彼らの慰めを害することはなくなり、別れなくてはならないという思いが彼らの出会いの喜びに水を注すことはなくなる。聖徒たちの集まりは、全くせかされることも、気を散らされることもない楽しみとなり、退屈などということは全く感じられない。このようにして彼らは、この聖句の意味を知ることになる。「あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります」。そのとき彼らは、次のような美しい賛美歌が真実であることを体験することになる。

「おらせたまえ 汝がそばに
  わが救い主、とわの安きよ。
 かくて初めて わが憧れは
  全くとこしえの 祝福を得ん。

「おらせたまえ 汝がそばに
  汝が栄光を つぶさに見んため。
 かくて初めて わが魂は
  真実なるを得 冷たさ去らん。

「おらせたまえ 汝がそばに
  いかな死もなく 別離もなき地に。
 かくてそのとき 死も生も
  御前と御愛より 吾を離さざらん。」

 この場に、真の生きたキリスト教信仰を笑うことのできる人がひとりでもいるだろうか? 真の敬虔さを迫害し、嘲っている者、人のことを四角四面すぎるとか、几帳面すぎるとか云っている者が、だれかいるだろうか? 自分が何をしているか用心するがいい! もう一度云う。用心するがいい。あなたはやがてそれとは違ったふうに思うようになるかもしれない。やがて自分の意見を変える日が来るかもしれない----だが、ことによると、そのときには手遅れなのである。あゝ! やがて来る日には、いかなる不信者もいなくなる。----ただのひとりも、いなくなる! 「イエスの御名によって、すべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエスは主である』、と告白する」*。その日のことを忘れず、用心するがいい。

 この場に、福音のために嘲られ、蔑まれ、自分が孤立しているかのように感じている神の愛し子がだれかいるだろうか? 慰められるがいい。忍耐するがいい。もう少し待つがいい。----あなたが上手に立つ時が必ずやって来る。カナンの探索から斥候たちが戻ってきたとき、人々はカレブとヨシュアを石打ちにしようと云った。ほんの数日もしないうちに、全会衆は彼らだけが正しかったと告白した。努めてこのふたりのようになるがいい。主に従い通すがいい。遅かれ早かれ、すべての人々があなたは正しいことをしていたと告白するはずである。人々は行き過ぎることを恐れ、聖くなりすぎることを心配しているように見える。だが、おびただしい数の人々が、キリストがお戻りになる日には、自分のキリスト教信仰は足りなすぎたと嘆くであろう。ひとりとして、自分は十分にしていたと云う者はいないであろう。

 さて、兄弟たち。今の私に残されている務めは、この説教のしめくくりに、3つの適用の言葉を語ることだけである。それは、ここまで語ってきたたとえ話から自然に生じていることと思われる。私は心から神に祈りたい。願わくは神が、これから語られる言葉であなたの魂を祝福し、新しい年の初めにあたって、それらを時宜にかなった言葉としてくださるように、と。

 1. 私が最初の適用として語りたい言葉は、1つの問いかけである。私はここにある十人の娘のたとえ話から、この場にいる全員に向かってその問いを投げかけてみたい。私は問う。「あなたは用意ができているか?」、と。主イエスのことばを思い出すがいい。「用意のできていた娘たちは、花婿といっしょに婚礼の祝宴に行った」*。----それは、用意のできていた者たち以外の何者でもなかった。さてここで、神の御前において私はあなたがたひとりひとりに問う。「あなたはそういう者だろうか?」 「あなたは用意ができているだろうか?」

 私は、あなたが教会員かどうか、信仰を告白しているかどうかを問うているのではない。あなたが福音的な集会に集っているか、福音的な人々を好んでいるか、また福音的な事がらについて語れるかどうかを問うているのではない。こうしたことはみな、キリスト教のうわっつらであり、簡単に身につけられるものである。私が望んでいるのは、あなたの心を、それよりもはるかに深く探ることである。私が知りたいのは、恵みがあなたの心の中にあるかどうか、聖霊がそこにおられるかどうかである。私が知りたいのは、あなたが果たして花婿に会う用意ができているかどうか、キリストがお戻りになるときのため用意をしているかどうかである。私が知りたいのは、もし主が今週お戻りになるとしたら、あなたはあなたの頭を喜んで上げて、「この方こそ、私たちが待ち望んだ主。その御救いを楽しみ喜ぼう」、と云えるかどうかである。

 あゝ! ある人々は云うであろう。「それは、あまりにも高すぎる基準だ。それは要求のしすぎだ。それは無茶というものだ。それはひどい言葉だ。だれがそれを聞いておれよう?」、と。私は云いたくて云っているのではない。私の信ずるところ、それが聖書の基準なのである。私の信ずるところ、それこそ聖ペテロが、「神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません」、と私たちに告げる際、私たちの前に置いている基準である。私の信ずるところ、キリストに会う用意をしておくことこそ、あらゆる信仰者が絶えず目当てとすべき目印なのである。

 私はだれにも世捨て人になったり、この世での義務を放棄してほしくはない。私はいかなる人にも、正当な自分の職務から離れ、地上での物事をないがしろにせよと求めてはいない。しかし私があらゆる人に求めているのは、キリスト教がお戻りになることを期待する者のように生きること、旅人であり寄留者であるように生きること、常にイエスを待ち望み、イエスにより頼みつつ生きること、腰に帯を締め、あかりをともしている良いしもべのように生きること、自分の宝が天にあり、良きものがまだやって来ない者のように、自分の心の荷造りをしておき、いつでも旅立てる者のように生きることである。さて、これは求め過ぎだろうか? そうではないと私は断言する。

 さて、あなたはこのようなしかたで用意ができているだろうか? そうでないというなら、あなたのキリスト教信仰に何の得があるのか教えてほしい。人を何に対しても用意させないようなキリスト教信仰は、猜疑の目で見られて当然であろう。もしあなたのキリスト教信仰があなたに用意をさせないのなら、それは聖書から引き出されたものではない。

 2. 私が適用として語りたい第二の言葉は、1つの招きである。私がそれを発したいと思う相手は、心に何の恵みも持っていないことをその良心で自覚しているあらゆる人々、----あの愚かな娘たちの性格こそ、まさに自分そのものだと感じているあらゆる人である。そうした人々すべてに対して私は、きょうのこの日、1つの招きをしたい。私はあなたに、「目覚めよ」、と求めたいのである。

 あなたも、あなたがたの多くの者も知るように、あなたの心は神の御目において正しくはない。最も広く、最も完全な意味において、あなたは眠り込んでいる。----単にキリストの再臨という教理についてばかりでなく、あなたの魂に関わるあらゆることにおいて、あなたは眠り込んでいる。地上の物質的なことに関しては、ことによるとあなたは目をぱっちり見開いているかもしれない。もしかするとあなたは新聞を読み、地上的な知恵と有益な知識を頭に詰め込んでいるであろう。しかしあなたは、全く何の罪感覚も心に感じておらず、神とのいかなる平和も交情も感じておらず、キリストを体験的に知ることは何もなく、聖書や祈りに何の喜びも感じていない。そして、これらはみな、眠っていることでなくて何であろう?

 こうしたことが、どれだけ長く続くだろうか? いつあなたは目覚めて、自分に魂があるかのような生き方を始めるつもりなのだろうか? いつあなたは耳の聞こえない者のように聞くことをやめるのだろうか? いつあなたは影を追いかけて走るのをやめ、実質あるものを求めるのだろうか? いつあなたは、満足も慰めも聖さも救いも与えられず、冷静な吟味に耐えられないような、キリスト教信仰のまがいものを投げ捨てるのだろうか? いつあなたは、自分の行動に影響しないような信仰----神のことばだと云う本を持っていながら、それを読みもせず、----キリスト者と名乗りながら、キリストについては何も知らないといった信仰----を持つことをやめるのだろうか? おゝ! それはいつなのだろうか?

 それは、新年が明け初めた、今この時であってなぜいけないのだろうか? 今晩この時であってなぜいけないのだろうか? なぜ今目覚めて、あなたの神を呼び求め、もはや眠ったりしない決意をしてはいけないのだろうか? 私はあなたの前に開かれた扉を示している。十字架上で罪人のために死なれた救い主イエスを、完全に救うことがおできになるイエスを、喜んで受け入れてくださろうとしておられるイエスを示している。いかなる手段を取るべきか知りたければ、いの一番にイエスのもとに行くがいい。祈りにおいてイエスのもとに行き、叫ぶがいい。「主よ。私をお救いください。このままでは滅んでしまいます。私は眠っていることに飽き果てました。----もう眠ってなどいたくありません」、と。おゝ! 「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる」。

 日が、月が、星々が、みな、あなたに不利な証言をしている。それらは被造世界における自分の立場を果たしているのに、あなたはそうしていないからである。安息日と種々の儀式が、あなたに不利な証言をしている。それらはみな、世には神がおられること、審きがあることを宣言しているのに、あなたはそれらがないかのような生き方をしているからである。敬虔な親戚たちの涙や祈りは、あなたに不利な証言をしている。他の人々は悲しみながら、あなたには魂があると考えているのに、あなたはそのことを忘れているように見受けられるからである。今晩あなたがその脇を通り過ぎてきた幾多の墓石そのものが、あなたに不利な証言をしている。それらは沈黙のうちに囁き交わしている。「いのちは短く、死は間近だ」、と。すべてが、すべてのものが、「目覚めよ! 目覚めよ! 目覚めよ!」、と云っている。おゝ、兄弟たち。確かに眠りこけているのは、過ぎ去った時で、もう十分である。目覚めて知恵を得るがいい。目覚めて安全になるがいい。目覚めて幸福になるがいい。目覚めよ、そしてもはや眠ってはならない。

 3. 私が適用として最後に語りたい言葉は、自分の心に恵みの油を有するすべての人々に対する1つの勧告である。このように云うもととなっているのは、このたとえ話の末尾にある、私たちの主のことばである。私があなたに勧告したいのは、「目をさましていなさい」、油断してはならない、ということである。

 私はあなたに勧告する。キリストの現われに対して用意をする邪魔となりかねない、あらゆる物事に対して油断してはならない。首尾一貫しない歩み方に対して、種々のからみつく罪に対して、まがいもののキリストという害悪に対して、聖書と密室の祈りについてものぐさを決め込むことに対して油断してはならない。信仰の後退は、内側から始まる。他人に対する恨みや無慈悲さに対して油断してはならない。ほんの少しでも愛がある方が、多くの賜物を持つよりも大切である。高慢とうぬぼれに対して油断してはならない。ペテロは、「たとい全部の者があなたを知らないと言っても、私はそう言いません」、と云った直後に挫折した。ガラテヤや、エペソや、ラオデキヤの罪に対して油断してはならない。信仰者は、しばらくの間はよく走っていても、自分の初めの愛を失い、なまぬるくなってしまうことがありえる。エフーの罪に対して油断してはならない。人は、まがいものの動機から大きな熱心を有することがありうる。反キリストに立ち向かうことの方が、キリストに従うことよりもずっと簡単なものである。

 兄弟である信仰者たる方々。私たちはみな油断せず、私たちの生きる限り、年ごとに一層用心しよう。

 私たちは、世のために油断しないようにしよう。私たちは彼らが主として読む本なのである。彼らは私たちの生き方を見つめている。おゝ! 私たちは努めてキリストの平易な手紙となるようにしよう。

 私たちは、自分自身のために油断しないようにしよう。私たちがいかなる生き方をしているかによって、私たちの平安も決まるであろう。私たちがキリストの思いにどれだけ従っているかによって、キリストの贖いの血潮をどれだけ感じとれるかが決まるであろう。もしある人が、太陽の陽光の中を歩こうとしないのであれば、どうしてその人は暖かさを期待できようか?

 そして、これも重要なこととして私たちは、私たちの主のために油断しないようにしよう。私たちは、主の栄誉が私たちのふるまいにかかっているかのように生きよう。自分のあらゆる過ちや堕落が、私たちのかしらにとって傷となるかのように生きよう。おゝ! 私たちは思いと、言葉と、行動とにおいて、----動機と、しぐさと、歩みとにおいて----敬虔なねたみを働かせよう。決して、決して私たちは、厳密すぎることを恐れないようにしよう。「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです」。

用意して待つ[了]

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