Running the Race          目次 | BACK | NEXT

2. 競走を走る


「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」。 ヘブル12:1、2

 愛する方々。ここのところ私はあなたがたに、主イエス・キリストを信ずる真の信仰者たち、永遠のいのちのために蒔いている人々が、いかなる性格と経験を有していたかについて、相当詳しく語ってきた。

 しかしながら、この学びを続ける前に私はあなたがたに、確かな基盤のことを忘れないように警告したい。最も強く用心してほしいのは、信仰生活全体の肝心要たる部分----主イエス・キリストに対する単純な信仰----を見失うという危険についてである。ここで初っ端からつまづいてしまい、いま私が求めているのは、あなた自身の義を打ち立てることだ、などと考えてはならない。ある人々は、聖潔を求める努力によって、救いにあずかる資格が得られると考えている。また、別の人々は、キリストのもとに来たとき赦されるのは過去の罪だけで、それ以後頼りにできるのは自分だけだ、と考えている。悲しいかな! こうした点における思い違いは後を絶たない。人は、まるで自分自身の努力によってキリストをつかむ権利が得られるかのように、神との和解を求めては刻苦勉励し、激しく労苦する。そのあげく、自分の姿が聖書の基準をはるかに下回ることに気づいては、嘆きと悲嘆に暮れ、どんな慰めも受けつけない。なぜこうしたもろもろのことが起こるかというと、彼らが、赦しという件においても、神の前で義と認められる件においても、必要なのは、行なうことではなく、信ずることであることを見てとろうとしないためである。それは、働くことではなく、信頼すること、完璧な従順ではなく、へりくだった信仰である。だから、これを限りに、きっぱり理解しておこうではないか。あわれみを求めて主イエス・キリストのもとに真に逃れてきたすべての者は、パウロがコロサイ人たちに保証しているように、主にあって満ち満ちているのである! 彼らだけを見れば、哀れな、欠点だらけの罪人かもしれないが、彼らがキリストをとらえていることを見て神は、彼らを満ち満ちた者とみなしておられる。----彼らには寸分も罪の宣告を受けるべき理由はない。

 彼らは、わざの契約としての律法----守るか死ぬかの条件としての律法----とは、もはや何の関係もない。主は、「完全になるがいい。そうすれば、あなたがたは生きるであろう」、とは云っておられない。むしろ、「キリストはあなたにいのちを与えたのだ。キリストのゆえに完全になる努力をするがいい」、と云っておられる。しかし、あなたは私に訊ねるであろう。「なぜ彼らは、あれほどまでに聖潔を求めて飢え渇くのか。彼らの負い目はみな支払われているというのに?」、と。答えよう。彼らが働くのは愛のゆえである。----感謝のゆえである。彼らが聖潔を求めて働き、努力するのは、赦されるためではなく、すでに赦され、選ばれ、証印を押され、救われ、贖われ、代価を払って買い取られたからである。彼らは、彼らを愛し、彼らのためにご自身をお捨てになったお方のご栄光を、自分のからだと霊によって現わそうと願わずにはいられないのである。彼らが聖潔を渇き求めるのは、彼らの《父》が聖潔を愛しておられるからである。彼らがきよさを渇き求めるのは、彼らの《主人》がきよさを愛しておられるからである。彼らがイエスに似た者になろうと努力するのは、いつの日かイエスと永遠にともにいるようになることを彼らが望んでいるからである。

 しかし、彼らが自分の望む事がらを行なうにあたって幾多の困難を覚えること、世と肉と悪魔との絶えざる戦いがあること、また彼らが、時としてあまりにもたやすく弱気に襲われ、自分が本当にキリストの家族なのかどうかあやふやになることを目の当たりにしているがゆえに、----ここ数回にわたって私は、彼らの経験をざっと示そうとしてきたのである。さてきょうの午後は、使徒が上の聖句によって彼らに与えている助言を提示したいと思う。

 この聖句には5つの点が含まれていると云えよう。

 I. 私たちにはみな、走るべき競走がある。
 II. 私たちに先立って行った多くの者がある。
 III. 私たちは、いっさいの重荷を捨てなくてはならない。
 IV. 私たちは、忍耐をもって走り続けなくてはならない。
 V. 私たちは、片時もイエスから目を離してはならない。

願わくは主が、その御霊をあなたがたひとりひとりに注いでくださり、この場の全員の心を、ひとりの人の心のように垂れさせ、あなたがたが、手遅れにならないうちに主を求め、自分の顔をエルサレムに向け、無信心で不信仰な者と同じような死を味わずにすむようにしてくださるように。

 I. では、まず第一のこととして、私たちには走るべき競走がある。誤解してはならないが、これは何も私たちが、自分の右腕や、自分の力によって、永遠のいのちの門を開くことができるとか、天国に地位を獲得できるなどという意味ではない。まるで違う。それらはみな、恵みによることである。----ここで問題とされていることは違う。ここで意味されているのは、単に、十字架を負ってキリストに従って行く者はみな、多くの困難に出会う覚悟をしなくてはならない、労苦と辛苦と難儀を予期しなくてはならない、彼らには、なさなくてはならない大業があり、一瞬たりとも気を抜くことはできない、ということである。外には戦い、うちには恐れがあるであろう。避けなくてはならない種々の陥穽があり、抵抗しなくてはならない種々の誘惑があるであろう。あなた自身の裏切りがちな心は、しばしば冷たく、死んだような、乾ききった、鈍い状態にあるであろう。友人たちは非聖書的な助言をし、親類たちはあなたの魂に戦いを挑みさえするであろう。つまり、あらゆる方面につまづきの石があるため、あなたは常に勤勉に励み、油断せず、敬虔なねたみと祈りを働かせなくてはならないであろう。----あなたはすぐに、真のキリスト者になることが並大抵のことではないことに気づくであろう。

 おゝ、ここには、たとえ自分の時間を好き勝手に使っても、永遠の栄光のうちにある聖徒たちとともに数えられることはできるだろうなどと考えるお気楽な人々を、何と非難すべき理由があることか! 自分の魂よりも自分の地上的な娯楽に熱心なように見える者たち、この世の職業については大いに語れるのに天国については何も語れないような者たち、人をシオンに向かわせるための最も手近な助けを平然と無視し、一年間に数日の日曜日に信仰的な思いを巡らせれば、相当キリスト教信仰に進んでいると考えるような者たち、----このような者たちが、キリスト者の競走を走っているとか、賞を得るために全力を傾けていると云えるだろうか? その答えはあなたがたに出してもらおう。あなた自身で私の云っていることを判断するがいい。

 また、その走路に足を踏み入れていると告白しながら、道端に座り込み、誘惑をもて遊んでは、他の人々を心配性だと云って難じているような者たち、----また、立ち止まっては一息つき、自分がどこまで到達したかを自慢し、後ろを振り返る者たち、----このような者たちが、自分の前に置かれている競走を死に物狂いで走っていると云えるだろうか? おゝ、否! 彼らはキリスト者と呼ばれているかもしれないが、賞を受けられるように走ってはいない。しかし神によって教えられ、召された者たちは、眠り呆けているこの世の子らから、すぐに見分けがつくであろう。こうした者たちは、くだらない気晴らしに費やす暇などない。彼らの目は、また彼らの思いは、自分が踏み越えて行かなくてはならない狭い道と、自分が受けたいと希望する冠にひたと据えられ、引きつけられている。彼らはすでに費用を計算しており、世から出てきている。また、彼らの唯一の願いは、喜びをもって自分の走路を走り終えたい、ということだけである。

 II. この聖句から学べる第二のことは、「私たちに先立って行った多くの者がおり、私たちは雲のように多くの証人たちによって取り巻かれている」、ということである。ここで語られている証人たちとは、11章で言及されている族長や預言者たちのことであり、使徒は私たちに、彼らと彼らの困難を思い起こして励まされるよう求めているのである。私たちはもろい土の器だろうか? 彼らもそうであった。私たちは弱く、欠陥に取り巻かれているだろうか? 彼らもそうであった。私たちは誘惑にさらされ、この腐敗した肉体という重荷を負っているだろうか? 彼らもそうであった。私たちは苦しめられているだろうか? 彼らもそうであった。私たちは自分の世代の中で孤立し、隣人たち全員の軽蔑の的だろうか? 彼らもそうであった。私たちは、残酷なあざけりという試練を受けているだろうか? 彼らもそうであった。一体、私たちが召されている苦難の中で、彼らが耐え忍ばなかったようなことが何かあるだろうか? あなたは自分の心労や職業や家族のことを口にするかもしれないが、彼らの受けていた割り当ても全くあなたと同じようなものだったのである。彼らは私たちと同じような人であった。彼らは自分の職業を怠ることはなかった。だがしかし、自分の心を神に捧げていた。彼らは、この競走が、意志さえあればだれにでも走れるということを示している。しかり、彼らはみな私たちと同じような血肉のからだを有していたが、恵みによって、新しく造られた者となった。そしてそのような者として彼らは、信仰によって「称賛され」た。信仰によって彼らは、地上では旅人であり寄留者であることを告白していた。信仰によって彼らは、「国々を征服し、正しいことを行ない、約束のものを得、ししの口をふさぎ、火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。女たちは、死んだ者をよみがえらせていただきました。またほかの人たちは、さらにすぐれたよみがえりを得るために、釈放されることを願わないで拷問を受けました。また、ほかの人たちは、あざけられ、むちで打たれ、さらに鎖につながれ、牢に入れられるめに会い、また、石で打たれ、試みを受け、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊ややぎの皮を着て歩き回り、乏しくなり、悩まされ、苦しめられ……ました」。しかし、恵みは格別に満ちあふれ、すべての者が勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通し、ひとり残らず、シオンにおいて、神の神であられる方の前に現われた。今にも倒れんとしているキリスト者よ。励まされるがいい。あなたは雲のように多くの証人たちに取り巻かれている。あなたが走っている競走は、これまでにも、おびただしい数の人々が走ってきた。あなたは、自分のような試練を受けた者などいないと思っているが、あなたが旅しつつあるあらゆる道程は、他の人々が無事踏み越えてきたものなのである。その死の影の谷は、あなた自身と同じくらい震えつつ、疑いつつ歩を進めた群衆が安全に行き過ぎた場所なのである。彼らは、彼らなりに、あなたと同じような恐れや不安をいだいていたが、彼らが捨てられることはなかった。世と、肉と、悪魔は、神に顔を向けているか弱い女ひとりすら、決して打ち負かすことはできなかった。このおびただしい数の人々は、あなた自身のそれと同じような辛い境遇や涙の中を旅して行ったが、そのひとりとして滅びた者はいない。----彼らはみな故郷にたどり着いたのである。

 III. ここで考察すべき第三の点は、「いっさいの重荷を捨てよ」、という使徒の助言である。このことによって使徒が意味しているのは、私たちが自分の魂にとって真に有害なあらゆるものを捨て去らなくてはならない、ということである。私たちは、あたかも競走において速さを競おうとする者が、走り出す前に、ひらひらした長服を足手まといとして脱ぎ捨てるように行動しなくてはならない。私たちは、天国へ向かう道の途上にある邪魔物をことごとく除き去らなくてはならない。----肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などを取り除かなくてはならない。もし私たちが賞を受けたいと真剣に思うのであれば、金銭や、快楽や、栄誉を愛する思い、また、神の事がらに関してなまぬるく、無頓着で、冷淡な精神を、みな根こそぎにし、捨てなくてはならない。私たちは、からだの行ないを殺し、世を愛する思いを十字架につけなくてはならない。自分の種々の習慣や、心の傾向や、手のわざに目を配り、何か私たちと救いの間のつまづきとなりかねないものがあったなら、それを自分の首根にかかった石臼のようにいつでも放棄するつもりでなくてはならない。たとえそれが手を切り落とし、右の目をえぐり出すほど苦痛をしいるものであったとしても、そうしなくてはならない。私たちを後ろへ引きずるものは何であれ除き去るがいい。私たちの足は最上の状態にあってさえのろのろとしか進まず、私たちには走破すべき長い道のりがある。もし本当に永遠のいのちを得る競走に出ているのだとしたら、重りをぶらさげて走れるような余裕はない。

 しかし、何にもまして私たちは、自分に最もからみつきやすい罪、私たちの年齢か、習慣か、嗜好か、性向か、感情によって、私たちを最も大きく支配する力を有する罪に用心し、それを放棄しなくてはならない。私の知る限り、私たちの近くには常に2つの罪が張りついており、その2つはどれほど老練なキリスト者をも最後まで試みるものである。すなわち、高慢と不信仰である。----自分が他人とは違うことを誇る高慢、自分のキリスト者としての評判を誇る高慢、自分の霊的達成を誇る高慢、また、自分の罪深さを信じない不信仰、神の知恵を信じない不信仰、神のあわれみを信じない不信仰である。おゝ、これらは重い重荷であり、非常に激しく私たちを後ろに引き戻す。自分がこれらをかかえていることを本当に自覚している者は少なく、自分の心のひだの奥底にこれらがひそんでいること、おりあらば姿を現わそうと機会を窺っていることを見いださないような者はまことに少ない。

 しかし、キリスト者ひとりひとりには、自分にしか分からないような種類の、個別のまつわりつく罪があるものである。私たちのうち、ひとりとして何らかの弱点を持っていない者はない。いかなる者であれ、その悪魔に対する防御壁には、どこか薄く、ぐらつきがちな部分がある。いかなる者であれ、自陣の中には、サタンに対して門を開こうとしている裏切り者がいる。それゆえ賢明な者であれば、決してこの弱点がどこにあるか発見するまでは安心しないであろう。これこそ、ここであなたが油断しないように勧告されている特別な罪である。それを克服し、放逐するがいい。それを制御し、屈服させておくためのあらゆる手段を怠らず用いるがいい。そして、シオンに向かって走るあなたの競走において、あなたの足をそれがもつれさせないようにするがいい。ある人は情欲にからみつかれており、別の人は酒に対する愛にからみつかれており、ある人は短気に、別の人は悪意に、ある人は貪欲に、別の人はこの世的な精神に、またある人は怠惰さにからみつかれている。しかし、私たちひとりひとりは、何かしら、からみつく弱さを持っている。それは、他のだれにまして自分を妨げうるものであり、それに対してひとりひとりは、絶え間ない戦いを続けなくてはならない。さもなければ、決して賞を受けられるように走ることはできないであろう。おゝ、こうしたからみつく罪の何と苦々しいことか! いかに多くの者が、これらを軽く考えることによって、また、これらを絶えず警戒せずにいたことによって、また、これらが完全に断ち切られたという徒な考えによって、その走路の真っただ中で倒れ伏し、いかに神の敵どもに冒涜の機会を与えてきたことか!----彼らは自信過剰になり、思い上がっていた。「われわれは神の宮だ。それほど大きくつまづくはずなどない」、と云っていた。そして、古いアダムの枝である、かの隠れた根のことをすっかり忘れていた。それでそれは、日一日と、少しずつ根を張り、育ち、力を増し、彼らの心に満ち、彼らの僅かばかりの恵みをしおれさせていった。そして彼らは、突如として、一瞬の考えるすきもなく、その競走のただ中で足を滑らせ、頭から転倒してしまい、今や彼らは、あの惨めな一団、信仰後退者たちの一団のただ中にあって急速に下流へと去りつつあるのである。彼らの末路がいかなるものとなるか、だれに知れよう? しかし、つまるところ、その原因は何だったのだろうか? 彼らは、自分にからみつくいくつかの罪を軽視していたのである。神の子らよ。行って、あなたの想像力のひだの奥を探ってみるがいい。そこに何らかの悪の種が見つからないか調べてみるがいい。これまであなたが、これはほんの小さなものだからと云って、掌中の玉のように惜しんできた、何らかの愛しいものがないか見てみるがいい。----何の容赦も、何の妥協もしてはならない。何の留保もつけてはならない。それは放棄されなくてはならない。えぐり出し、根こぎにしなくてならない。さもないと、それがいつの日かあなたをつまづかせ、シオンへ向けての競走を走れないようにしてしまうであろう。天国の門は、最悪の罪人をも受け入れるほどには広いが、赦されざる罪はひとかけらも入れさせないほど狭いのである。

 IV. この聖句で注目すべき第四の点は、私たちが走る際の心持ちである。「忍耐をもって走り続けようではありませんか」。私の解釈では、この忍耐という言葉は、真の生きた信仰から生ずる、柔和で、満ち足りた精神のことを意味している。そのもととなっているのは、すべてのことが相働いて自分の益となるはずだという確信にほかならない。おゝ、これは最も必要で有益な恵みである! この走路に入ったとき私たちが負わなくてはならない十字架はあまりにも多く、味わなくてはならない失望や試練や疲労はあまりにも多い。それゆえ、忍耐をもって自分の魂を持していない限り、私たちは決して最後までやり抜くことはできない。しかし、私たちは、一部の者らが約束の地を悪しざまにののしったからといって、エジプトに逆戻りしてはならない。私たちは旅が長く、道が荒野を通っているからといって心くじけてはならない。むしろ、だれることなく先へ進み、懲らしめを受けるときもつぶやくことなく、エリとともに、「その方は主だ。主がみこころにかなうことをなさいますように」、と云わなくてはならない。ヘブル11章に記されたモーセの姿を見るがいい。「信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです」。神がサタンにヨブを苦しめることをお許しになったときの、ヨブの姿を見るがいい。彼は云っている。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」。「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか」。神の心にかなう者ダビデの姿を見てみるがいい。いかに多くの困難の大波がその尊い頭の上を行き過ぎていったことか。彼がいかに長年の間サウルの手から逃げ回り、いかに多くの患難を自分自身の家族から受けなくてはならなかったことか。だが、わが子アブシャロムから逃亡中の彼の前に、とあるベニヤミン人がやって来て、彼を呪ったとき、彼が何と云っているか聞いてみるがいい。「見よ。私の身から出た私の子さえ、私のいのちをねらっている。今、このベニヤミン人としては、なおさらのことだ。ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。主が彼に命じられたのだから。たぶん、主は私の心をご覧になり、主は、きょうの彼ののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう」。また、彼の詩篇を読むとき、いかにしばしば、「神を待ち望む」、という云い回しに出会うか注意してみるがいい。あたかも彼はそれを、キリスト者の到達しうる最高の恵みであると考えていたかのように見える。

 最後に、あなたのほむべき主ご自身の姿を見てみるがいい。聖ペテロは云っている。「キリストは、その足跡に従うようにと、私たちに模範を残されました。キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました」*。パウロは云っている。「あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。『わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。』」。おゝ、しかり。愛する方々。私たちは忍耐をもって走り続けなくてはならない。さもなければ、決して賞を受けられない。多くの事がらを私たちは理解できないかもしれない。ことによると、多くのことが肉の願う方向とは違っているかもしれない。だが私たちは最後まで耐え忍ぼうではないか。やがてすべては明らかにされ、神のご計画こそ最善のものであったことがわかるであろう。あなたの報いを地上で受けようなどと考えてはならない。後に来る素晴らしいものがみな、まだやって来ないからといって、たじろいではならない。きょうは十字架でも、明日は冠である。きょうは労苦があっても、明日は報酬を受ける。きょうは蒔くときでも、明日は刈り入れである。きょうは戦いでも、明日は安息である。きょうは涙があっても、明日は喜びがある。そして、明日にくらべれば、きょうが何であろう? きょうは、せいぜい七、八十年しかないが、明日は永遠なのである。忍耐をもって、最後まで希望を持ち続けるがいい。

 V. 最後の点は、この聖句の中で最も重要なことである。それは、私たちが目を据えなくてはならない対象のことである。私たちは自分の競走を走る際に、「イエスから目を離さないで」いるべきである。私たちは、救いをイエスにより頼みつつ走るべきである。自分自身の貧しく、はかない努力などへの信頼を一切放棄し、自分自身の善行など不潔な着物も同然のものとみなし、イエスが十字架の上で私たちのために成就なさった完璧な義に、全く、かつ完全に、単純に、かつ全面的に、より頼みつつ走るべきである。私たちは目的もあやふやなまま走る必要はない。後に何が来るかも知らないまま戦う必要はない。私たちは、世の罪を取り除く《神の小羊》を見て、彼が私たちの病を負い、私たちの痛みをになったこと、また、すぐに私たちを汚れなく、非難されるところのない者としてその御父の前に立たせてくださることを信じていさえすればいい。そして私たちは、イエスを私たちの《模範》としつつ、また、神の御子ご自身以外のいかなる者をも見習わずに、その柔和さ、その謙遜さ、その愛、その魂に対する熱心、その自己否定、そのきよさ、その信仰、その忍耐、その祈り深さを真似するよう努力しつつ走るべきであり、彼から目を離さずにいる中で、日ごとに彼に似た者となっていくであろう。そして私たちは、私たちのほむべき主の現われを待ち望みつつ、どんなときにも、彼がその来臨と御国の到来を早めて、ご自分の選民の数を満たしてくださるようにという、すべての祈りと願いを用いつつ、走るべきである。彼はもう一度、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られ、彼らの卑しいからだを一瞬で、またたくまに、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださり、彼らは永遠に彼らの主とともにいるようになるであろう。

 おゝ、このイエスから目を離さないということのいかに幸いなことか! ここにこそ、あの雲のような証人たちを、この狭い道に堅く踏みとどまらせて動かさなかった秘訣がある! ここにこそ、人をパラダイスに行き着かせる走路に足を踏み入れようと願うすべての人々が従うべき、単純な規則がある! 地に目を向けてはならない。それは罪深く、滅び行く場所であり、その上に建てる者たちは自分の地の基が土から造られていることに気づくであろう。彼らは火に耐えることがないであろう。あなたは地の上にあるもののことを思ってはならない。さもないとあなたは、地ともろともに滅びるであろう。地は焼かれることになっており、もしあなたが死ぬまで地にしがみついているなら、あなたと地を分かつことはできない!

 あなた自身に目を向けてはならない。あなたは生まれながらに浅ましく、惨めで、あわれで、盲目で、裸である。あなたは自分の過去のそむきの罪を贖うことはできず、その長く、どす黒い一覧表の1ページすら帳消しにはできない。《王》があなたに、あなたの婚礼の礼服についてお尋ねになるとき、あなたは黙っているしかないであろう。ただ単純にイエスから目を離さないでいるがいい。そうすれば重荷はあなたの肩からするりと脱げ落ち、その走路は晴朗で平明なものとなり、あなたは、あなたの前に置かれている競走を走ることになろう。まことに人は、しばらく思い違いに陥るかもしれず、一時的に暗闇の中を歩むかもしれないが、もしもひとたびイエスから目を離さない決心をするなら、それほど大きく誤ることはないであろう。

 今、この集会の中に、まだこの大いなる命がけの戦いに入っていない男女がいるだろうか? きょうのこの日、私はあなたがた、キリストを持たずに眠っている方々に、きょうのこの日、命ずる。自分に正直になり、自分の魂に情けを施すがいい。悔い改めよ。おゝ、悪の道から立ち返れ。自分を喜ばせ、自堕落に過ごす道から立ち返るがいい。主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。夜が来て、あなたが永遠に眠ることになる前に、ひたすら主イエス・キリストに願うがいい。あなたがたの間にいる、少しでもものを考えている人々の心に去来しつつある思いを私は承知している(というのも、多くの人々は、集会にやって来ては去っていっても全く考えることをしないからである)。私はあなたがたの思いを承知している。あなたは、いっさいの重荷を捨てる決心ができない。まつわりつく罪を振り捨てる決心ができない。悲しいかな! ヘロデのようにあなたは、多くのことを行なおうという願いは持ちながら、すべてを行なおうとはしない。あなたは、あのヘロデヤを、あの愛しい掌中の罪を断ち切れない。----世を、職業を、飲酒を、快楽を----あなたは断ち切れない。それがあなたの心の第一の場所を占めていなくてはならない。私は証しする。あなたに警告する。あなたを証人として立てる。神の宣言するところ、いかなる汚れた者も決して天国に入れず、もしあなたが自分のもろもろの罪を断ち切ろうとしなければ、あなたの罪が鉛のようにあなたにからみつき、あなたを滅亡の穴に沈みこませるであろう、と。何かを待つ必要はない。何らかの意向を見せなくてはならない。神はあなたの意志に反してあなたを回心させはしない。あなたが願いを示さない限り、いかにしてあなたは、神があなたにその恵みをお与えになるなどと期待できようか?

 しかし、ここに、この競走を走りつつあり、天のエルサレムに向けて苦闘しつつある男女がいるだろうか? あなたは、自分には他の人々よりも特別に旅を困難にしている事情が何かがあるなどと考えてはならない。神の右手に立つ聖徒たちは、苦しみを通して全うされた。あなたは忍耐をもって走らなくてはならない。おびただしい数の人々が無事にやり遂げてきたのである。あなたもそのようにできるはずである。

 いかなる地上的な重荷も足手まといにならないように用心するがいい。あなたの心を徹底的に吟味して、あらゆるからみつく罪を、敬虔で祈り深いねたみの思いをもって一掃するがいい。この、「イエスから目を離さない」というほむべき規則を覚えておくことである。ペテロがほんの一時よく走っていたときには、舟を下りて湖の上のイエスに向かって歩いていった。だが波と風を見たとき、彼はこわくなり、沈み始めた。それと同じく多くの者たちは、勇敢に出発するが、しばらくすると腐敗が内側で高まり、外側の腐敗も強大になり、目はイエスから引き離され、悪魔がそれに乗じて、魂は沈み始める。おゝ、あなたの目をキリストにひたと留めておくがいい。そうすればあなたは火水をくぐり抜けても、何ら害を受けないはずである。あなたは誘惑されているだろうか? イエスから目を離してはならない。あなたは苦しめられているだろうか? イエスから目を離してはならない。だれからも悪く云われているだろうか? イエスから目を離してはならない。自分が冷たく、鈍く、信仰を後退させているように感じているだろうか? イエスから目を離してはならない。あなたは決して、「私は自分で自分を癒して、それからイエスに目を向けよう。私は自分を良い状態に立て直し、それから私の愛するお方の慰めを受けよう」、などと云ってはならない。それは、まさにサタンの惑わしにほかならない。むしろ、あなたが弱かろうと強かろうと、谷間にあろうと山頂にあろうと、病んでいようと健やかであろうと、悲しみにあろうと喜びにあろうと、出るときであろうと入るときであろうと、若かろうと老いていようと、富んでいようと乏しくあろうと、生きていようと死のうとしていようと、これをあなたの座右の銘とし、指針とするがいい。----「イエスから目を離さないでいなさい」。

  なぜかく恐れる? 見よイエスこそ
   舵とる舟の船頭ならずや。
  帆を張りとらえよ、微風をば早や。
   それは我らに深み越えさせ
      悲しむ者を
  涙なき地へ運ばんためなり。

  死の舞う中で、いかに歩を留め、
   かくなる岸辺で、安きを得べきや?
  否、かの大いなる真理は明かせり。
   もはや我らのかく留まるを得ず
      我ら地を捨て
  愛せしものみな置き捨てるべし、と。

  もしも我らが望みの岸辺が
   言伝てのみにて知られるにせよ
  我らはすべてを惜しまず棄てん。
   言伝のみにて導かれつつ
      イエスに伴い、
  道なき深みを越えて進まん。

  彼の守りに我らは無事を得、
   湿土冷たき荒れ地を過ぎ行く。
  彼の賢き指示を頼みて
   我らはついに目当てに達さん。
      かつ嘆じては、
   過ぎにし艱苦と危難を思わん。

競走を走る[了]

HOME | TOP | 目次 | BACK | NEXT