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1. 1つの道


「エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった」。 創世記5:24

 あなたがたはみな天国に行きたいと願っている。そのことは、私もわかっている。完全に確信している。確かにそうと知っている。あなたがたの中のただひとりとして、----たとえいかに自分の信じなくてはならないこと、行なわなくてはならないことについて誤った見解をいだいていようと、いかに非聖書的な根拠の上に自分の希望を打ち建てていようと、いかに平日の間は世的な精神にまみれ、いかに教会の外に出てしまえば無頓着にふるまう者であろうと、----私は云う。あなたがたの中のひとりとして、天国に行きたいと思わないような者はいないであろう、と。しかし残念ながら、あなたがたの多くは、1つの大きな変化をこうむらない限り、決してそこへ行けないのではないかと思う。あなたは冠は好むが、十字架は好まない。栄光は好むが、恵みは好まない。幸福は好むが、聖潔は好まない。平安は好むが、真理は好まない。勝利は好むが、戦いは好まない。報酬は好むが、労働は好まない。収穫は好むが、耕作は好まない。刈り入れは好むが、種蒔きは好まない。それで私は、残念ながら、あなたがたの多くは天国へ決して行けないだろう、と云うのである。

 ここであなたは云うかもしれない。「これは厳しい言葉だ。ひどすぎる仕打ちだ。ならば救われるのはいかなる種類の人々なのか教えてもらおうではないか」、と。私は手短に、またごく大まかな答えを返すことにする。それは、聖書に名を記されているような聖い人々と同じ信仰を有する人々、----神のあらゆる聖徒たちが踏んできたのと同じ狭い道を歩む人々である、と。----このような人々が、このような人々だけが、永遠のいのちを持つことになり、決して滅びに落ちることがないのである。

 愛する方々。実際のところ、天国に行ける道は1つしかない。そして、今パラダイスにいる贖われた魂はみな、この道を踏み越えていったのである。この道こそ、あなた自身も喜んでたどって行かなくてはならない道である。そしてもしあなたが本当に賢明であれば、もしあなたが、口で告白している通りに本当にいのちを愛しているのであれば、あなたは、あらゆる機会をとらえて、あなたに先立っていった人々の性格を吟味するであろう。彼らが拠り所としていた行動原理に目をとめ、彼らが目指していた目標に注目し、彼らの経験から教訓を学び、彼らがキリストにつき従った限りにおいて、彼らにならおうとするであろう。

 さて、けさ私があなたがたに語っていこうと思うのは、エノクの生涯についてである。エノクは、信仰と忍耐によって約束のものを相続した最初の人々のひとりであった。この主題について私は、4つの部分に分けて語りたい。

 I. 彼の生きていた時代は、いかなる性格をしていたか。
 II. 彼自身は、いかなる性格をしていたか。
 III. 彼に影響を与えていた最も大きな動機、原理はいかなるものであったか。
 IV. 彼はいかなる最期を迎えたか。

 願わくは神が、エノクがいかに神とともに歩んでいたかを聴くことによって、あなたがた全員の思いを奮い立たせ、自分自身の状態について真剣に自問させ、こう祈るよう導いてくださるように。「主よ。私はあなたとともに歩みたいと思います(私は罪を犯してきました。しかし私はちりと灰の中で悔い改めます)。主イエスよ。どうか私をあなたのものとしてください。私にきよい心を造り、私をさとして導き、後には栄光のうちに受け入れてください」、と。

 I. さて、エノクの生きていた頃の時代については、ほんの僅かしか知られていない。しかし、そのほんの僅かは、非常に悪いものである。エノクはアダムの七代目の子孫で、洪水前の時代に生きていた。当時、世界は神の前に腐敗しきっており、暴虐に満ちていたという。ありとあらゆる種類の邪悪な行ないが盛んになされていた。人々は自分の汚れた情欲の欲するままに歩み、自分の気に入ったことを恐れも恥ずかしげもなく行なっていた。カインの子孫(すなわち、彼がアベルを殺してから生んだ子孫)は、私たちの知る限りでは、神を思いにとどめておくためには全く何もしようとしていなかった。----さながら、あの放蕩息子のように彼らは、父なる神から遠く離れ、可能な限り神を念頭から遠ざけ、閉め出しておこうとでもいうかのように、この世の事業に没頭していた。彼らはいくつかの都市の建設者という名前を得た。それは、地上を自分たちの故郷とみなし、地上のものだけを思い、上にある新しいエルサレムのこと、主なる神と小羊イエスの都のことなど全く望んでいない者の姿そのものであった。彼らは、この世のあらゆる技芸に秀でた者となり、名声を博した。ある者は牧羊者の先祖と呼ばれ、別の者は音楽家の先祖と呼ばれた。しかし、どこを読んでも、その中のひとりとして、キリストの群れの忠信な羊たちの先祖と呼ばれた者、神のおきてを自分の旅の家での歌とした人々の先祖と呼ばれた者はいない。また、ある者は青銅と鉄を扱う鍛治屋の大師匠と呼ばれた。しかし、誰ひとりとして、主の救いの知識を教えたという者のことは聞かれない。つまり、彼らはいかにして豊かになるか、いかにして陽気になるか、いかにして強大になるか、ということに関しては、きわめて優秀な者らであったが、救いに関しては愚かであり、神を思うこと、神を恐れること、神に仕えることなどには全く関心がなかったのである。

 このような者らがカインの子孫であった。彼らは、非常に気のいい仲間であり、魂や天国や地獄などといった話題で他人をうるさがらせようなどとは全くしなかったので、ほとんどあらゆる者が彼らの真似をするようになり、世はあげて彼らの生き方に毒され、かぶれてしまった。そのため、いまだ真の神にすがることをやめずにいたごく少数の者たちは、自分たち以外の者らから、はっきりと一線を画して分離せざるをえなかった。彼らは、主の御名によって呼ばれ始めた[創4:26]

 しかし、そのような分離でさえ長続きはしなかった。続いて語られるのは、神の子らであると告白している者たちが、信仰など全然気にもかけない者たちと結婚しても特に何の害もないだろうなどと考え始めたという記事なのである[創6:1、2]。彼らは信仰者ではない娘たちを妻として選んだ。----確かに美しく、気の良い者らではあっただろうが、神の敵であることに変わりはない。----その結果、(これまでも、キリスト者がキリスト者でない者らと結びつくようなことをした場合、ほとんど例外なく証明されてきたように)たちまち悪が善を腐敗させてしまうか、さもなければ、善が悪を回心させることなく、こうした結合から生じた家族は、この世的で、官能的で、悪魔的なものとなり果て、全世界がまたたくまに罪の満ち満ちたものとなってしまったのである。

 愛する方々。考えていただきたい。ここには、悪に向かう人間の心の性向が何とすさまじく証明されていることか! 彼らは、そむきの罪に対する神の怒りを生々しく記憶していたはずである。彼らの目の前には楽園があり、いのちの木への道を守護する神の御使いと炎の剣を彼らは目の当たりにしていたはずである。だがしかし、こうしたすべてにもかかわらず、彼らは平然と罪を犯した。彼らは、今の世が好んで行なうのと変わらないような生き方を続けていった。彼らは食べたり、飲んだり、植えたり、建てたり、買ったり、売ったりし、数々の警告を軽んじていた。「われわれと主に何の関係があるのか?」、と彼らは思った。「できるだけ楽しもうではとないか」、と。しかし、神は侮られるようなお方ではなく、いかに長いこと彼らを耐え忍び、いかにご自分のしもべらによって彼らを訓戒し続けてはいても、最後には彼らをそのしわざに応じて取り扱われた。そして、いつの日かこの地上に火を降らせるのと全く同じように、深い淵から大水を送られた。洪水がやって来て、浮かれ騒ぎにうつつを抜かしていた彼らを断ち滅ぼし、八人の者を除く全世界を水没させてしまった。

 これが洪水前の人々の性格であった。そして、この邪悪な時代の真っ直中にエノクは生きており、エノクは神とともに歩んでいたのである。当時は、何の聖書も、何の祈祷書も、何の信仰書も、何の教会も、何の教職者も、何の聖礼典もなかった。キリストを見た者はひとりもいなかった。救いの明確な道筋は全く知らされていなかった。福音は、ただ遠くからぼんやりとしか見えていなかった。信仰について考えることは世間受けすることではなかった。神を礼拝することなど全く世間受けしていなかった。信仰を告白する人々を励ますようなことは何1つなかった。それでも、この邪悪な姦淫の世代のただ中に、このいと高き方の聖徒は生きていた。エノクは神とともに歩んだ。弱く、罪深い人間に対して、恵みがいかに強大に働きうるものかを、この言葉ほど素晴らしく証明するものは、ほとんど思いもよらない。洪水前の世にあって、「エノクは神とともに歩んだ」。

 II. 先に述べた通り、私が第二に告げたいのは、エノクがいかなる性格をしていたか、ということである。あなたは彼が神とともに歩んでいたことを聞いた。ことによると、それが偉大な賞賛の表現であると承知しているかもしれない。だが、ここで私は、その意味の明確な意味を示しもせずに先に進むわけにはいかない。しばしば人は、正確にどんな意味か知りもしない言葉を使うという習慣に陥るものだが、これは非常に悪い習慣である。私は云いたい。このように神とともに歩くということには、多くの意味がある、と。これは、豊かな内容に満ちた表現なのである。

 神とともに歩く人は、神の友のひとりである。人間がその創造主に対していだく、あの不幸な敵意と嫌悪は全くなくなっている。その人は完全に和解させられた気持ちをいだき、平安を覚えている。実際、いかにして、ふたりの者は、仲がよくないのに、いっしょに歩くだろうか? その人は園の木の陰に隠れたアダムのように神から身を隠そうとはせず、神との絶えざる交わりを求めている。その人は、神とふたりきりになると考えただけでも居心地の悪くなる多くの人々とは違い、神とともにいない限り決して完全には幸福になれない。その人は、どれほど神のそば近くで過ごしても決して十分ではないと感じる。なぜならその人は、思いをともにすること、神のように考え、神のように行動し、神のかたちと同じになることを望んでいるからである。そのような者がエノクであった。

 また、神とともに歩く人は、神の愛する子らのひとりである。その人は、神を自分の父とみなし、そのようなお方として神を愛し、神をあがめ、神を喜び、あらゆることにおいて神に信頼する。その人は、絶えず神を喜ばせようと心がけ、神を怒らせたときにはいつでも、真の子どもらしい悲しみで、自分が父を怒らせたことを悲しむ。その人は、神の方が自分よりも自分にとって何が良いことかをご存知であると考え、いかなることが起ころうと---病むときも健やかなときも、悲しむときも喜ぶときも、富めるときも乏しいときも----、自分に向かって、「これで良いのだ。御父がこれを送られたのだ」、と云う。そのような者がエノクであった。

 また、神とともに歩く人は、神の証人のひとりである。その人は、進んで主の側に立つことを決してためらわない。単に自分の心を神に明け渡すだけで満足することなく、自ら進んで公に、義と真理の進展のために自分の証言を発する。その人は、自分がどなたのしもべであるか人に知られることを恥じたりしない。その人は、人の感情を逆撫ですることを恐れて罪に反対の声をあげることを尻込みしたりしない。そのような者がエノクであった。彼は邪悪な時代に巡り合わせた。だが彼は大勢に与しただろうか? 罪人たちの道に歩んだろうか? 口をつぐんで、「私にはどうしようもないことだ」、などと云っていただろうか? とんでもない! 彼は、自分の隣人たちが何を好むかなど意に介さず、自分の主が何を求めておられるかを考えた。彼は、世を喜ばせることを求めず、神を喜ばせることを求めた。それゆえ、罪と腐敗のただ中に生きていながら、彼はそこから分離していた。彼はそれに反抗する証人であった。彼は地の塩であった。暗闇の中に輝く光であった。

 しかり、そして彼は、歯に衣着せずに語った。彼は、若さと誘惑を理由に大目に見ることなど全くしなかった。彼は、愛がないと思われたくないばかりに人々を地獄に向かわせるようなことはせず、彼らにその危険を公然と告げた。そして彼は、彼らが神も悪魔もないかのように、よこしまで無頓着な生き方をしているときに、使徒ユダが語っているように、こう云った。「主は千万の聖徒を引き連れて来られる。すべての者にさばきを行ない、不敬虔な者たちの、神を恐れずに犯した行為のいっさい……について、彼らを罪に定めるためである」、と。疑いもなく彼は、人々から厄介者だとみなされ、つきあいにくい人間だと思われたに違いない。しかし彼は証人であったため、絶えず、「主は来られる」、と宣言していた。あなたが耳を貸そうが貸すまいが、やがて精算の日がやって来る。罪はいつまでも罰されないままではすまない。----悔い改めよ。主は来られるからだ、と。これが彼の証言の要旨であった。彼は神とともに歩んだ、それで彼は忠実な証人であった。

 しかし私はさらに云いたい。神とともに歩むとは、神の道を歩むことである。私たちを導くために神が与えてくださったおきてに従うこと、神の戒めを私たちの規則とも、助言者ともみなすこと、いかなる場合にも神の命令をみな正しいとして尊重すること、神が私たちの前に敷かれた狭い道から一瞬たりともそれるのを恐れること、何もかもうまく行かないように思えても、神が私たちに希望を持たせるため与えてくださったことばを思い出しつつ、正しい道を行くことである。

 また、神とともに歩むとは、神の御顔の光の中を歩むことである。自分が弁明すべき相手たる神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されていて、この神にとっては暗闇も暗闇ではないことを覚えている者として生きること、そしてこのことを覚えつつ、心を探りきわめられるこの偉大なお方の御前で恥とするようないかなることも決して考えたり、口に出したり、行なったりしないことである。

 そして神とともに歩むとは、御霊に従って歩むということである。----聖霊を私たちの教師とみなし、力を求めて御霊により頼み、肉にはいかなる頼りも置かず、上にあるもののことを思い、地に属するものには嫌気をもよおし、御霊による思いをいだくことである。

 しかし、愛する方々。実際、私はここで一日中あなたがたに語り続けたとしても、神とともなる歩みに関することの半分も語ることはできまい。神とともに歩むとは、へりくだって歩むことである。自分は神のあらゆるあわれみのうち、いかに小さなものにも全くふさわしくない者であると告白し、自分には自分を助ける何の力もないこと、自分に絶えざる足りなさがあること、常に後退しつつあること、自分が役に立たないしもべであり、神の恵みがなければ確実に堕落していく者であることを認めつつ歩くことである。それは用心深く歩むこと、自分にからみつく罪と誘惑のことを常に忘れず、それらの襲撃を招くであろうような、あらゆる場所とつきあいと仕事を避けることである。それは、神に対すると人に対するとを問わず、すべての者への愛のうちに歩むことである。私たちの天の御父のうちにある思いと同じ思いに満たされ、あらゆる人に対して親切で、愛情深く、優しく接し、しかり、恩知らずで、よこしまな人に対しても、そのようにふるまうことである。神とともに歩むとは、習慣的に、絶え間なく神に仕えることである。日曜日だけ神に仕え、平日には神を忘れるなどということがあってはならない。公の場では神とともに歩み、私的には神とともに歩まないなどということがあってはならない。牧師や善良な人々の前でだけ神とともに歩み、家族や使用人たちの前では神とともに歩まないなどということがあってはならない。

 そして最後に、神とともに歩むとは、常に前進し、常に進歩を続け、決して停滞せず、決して自分はよくやっている、自分は多くの実を結んできたなどと自賛せず、恵みにおいて成長し、力から力へと進み、後ろのものを忘れ、もし恵みによって何かを達成できたとしても、ますます満ちあふれる者となることである。

 愛する方々。これは神とともなる歩みの非常におぼろな描写であるが、時間の関係上、これ以上筆を加えるわけにはいかない。これが、エノクの性格のあらかたの部分をなしていた。これが、神が彼について残された記録のおおよそ意味するところであった。

 おゝ、これは単純だが重い記録である! 疑いもなく、当時は多くの偉人、多くの賢人、多くの貴顕らがいた。だが私たちが彼らについて知っていることを総ざらいしてみても、それは、彼らが生きて、死んで、息子たちや娘たちを生んだということでしかない。エノクについては、彼は神とともに歩んだとだけ書かれている。おゝ、神とともに歩むこの歩み! 愛する方々。これこそ私たちを決して裏切ることのない唯一のタラントであり、永遠に私たちのものとなる唯一の宝である。墓の向こう側でも、また名前や称号や栄誉が無に埋没する日にも、また、あらゆる者が同一線上に立たされ、国中で最も貧しく最も下賤な者も、神とともに歩んで来ていさえすれば、そうしてこなかった高貴で富裕な人々にまさって高い誉れを得る日にも、また先の者が後となり、後の者が先となる日にも、私たちの役に立つ唯一の性格である。

 慰めよ。慰めよ。キリストの小さな群れに属するすべての者よ。慰めよ。自分の魂を第一に考えているすべての者よ。他の者らは王宮や宮殿で暮らし、この世の賞賛を得ているかもしれない。だがあなたがたについては、天の書物に、「彼らは神とともに歩んだ」、と書かれるであろう。王の王、主の主が彼らの《羊飼い》、彼らの《導き手》、彼らの《同伴者》、彼らの親しい《友》であり、あなたがたの喜びはだれにも取り去ることはできないであろう。

 III. さて私は今、エノクを動かしていた動機についても多少語らなくてはならない。彼は神とともに歩んだ。だがあなたは私に訊ねるであろう。「その秘訣は何だったのか? 彼に影響を与えていた隠れた原動力と原理は何だったのか? 何をもってすれば、私たちも行って同じようにできるのか?」、と。愛する方々。神はヘブル人への手紙で私たちに平明に語っておられる。----それは信仰であった。信仰こそ、これほどの良い実を結ばせた種であった。信仰こそ、彼の聖さと、主の側に立つ決意を生じさせた根幹であった。----この信仰がなければ、何の救いもありえない。この信仰がなければ、あなたがたのうちだれも天国に入ることはありえない。

 さて、この信仰は何の神秘でもない。これは、心で信仰心を徹底的に働かせること以上のものでも以下のものでもない。

 エノクは、アダムの子孫として自分自身が生まれながらに罪人であること、御怒りと断罪のほか何物にも値しないことを信じていた。自分の最初の先祖たちが永遠のいのちを受ける権利をことごとく失ってしまったこと、彼らの子孫のひとりである自分の受け継いでいる心が何よりも陰険で、それが直らないことを信じていた。彼は、あなたがたの多くの者らがしているように、自分のことを単に生来非常に無思慮なだけで、悪い仲間によって簡単に正道をそらされがちなだけだ、などとみなすだけにとどまらず、それ以上に進んで、内側を見つめ、その責を古いアダム、自分自身の心の腐敗した源泉に帰した。彼は自分自身がみじめな罪人であることを真に信じていた。

 しかしエノクは、神が恵みにより救いの道を備えてくださったことをも信じていた。神が、私たちの罪を負い、私たちのそむきをにない、蛇の頭を砕くひとりの偉大な《贖い主》を任命なさったことを信じていた。彼は、これなしには、自分が何をしようと、救われる見込みが皆無であることを明確に見てとっていた。彼はさらに先を見通し、その心の目において、はるか彼方の未来に来たるべき、世の贖い代を支払うことになるメシヤを見ていた。そして、自分のあらゆる希望の根拠をその方に置いていた。エノクは主イエス・キリストを信じていた。

 またエノクは、神が完璧な聖さの神であること、その「目はあまりきよくて、悪を見」ることができないほどであることを信じていた。彼は決して一部の人々がしているように、「あなたは過度に正しすぎる。主はそれほどしかつめらしくはないはずだ。私たちはそれほど堅苦しく考える必要などない。人は四六時中、自分に気を配ってなどいられない」、などと主張してはいなかった。というのも、彼は自分に一瞬でも汚れや不義の影が射すことを考えただけでも身震いしていたからである。そして、確かに彼は自分自身の行ないを何か値うちのあるものとして打ち立てようなどとは夢にも思わず、無代価の恵みによる救いの希望を喜んではいたが、それでも彼は、神とともに歩もうとする者、永遠のいのちを得たいという者は、神が聖であるように聖でなければならないことを信じていた。

 またエノクは、神がいつの日か世を審くためにやって来られ、あらゆる人間に、その行ないに応じた報いをお与えになるはずであると信じていた。たとえ不法がはびこり、多くの者らの愛が冷たくなり、あたかも万事は神がこの地上に何の注意も払っていないように見えていても、それでも彼は、主が、だれにも思いがけない時にやって来られ、世を審かれることを信じていた。信仰によって彼は審きが間近に迫っていることを見てとり、それを待ち受けている者として神とともに歩んだ。彼は、この世を自分の安息の地とは感じていない者であるように生きていた。彼は目に見えるものを越えて、神の民のために残されている、永遠に続く都を見ていた。信仰によって彼は、天が自分の唯一の故郷であり、主の御前にのみ十分な喜びがあることを見てとっていた。こうしたものが、古のこの聖い人物をとらえてといた支配原理であった。おゝ、願わくはあなたが、これと似た尊い信仰を熱心に乞い求めるように! それなしには、あなたは決してエノクの道を歩むことがなく、決してエノクの最期に至ることはないであろう。

 IV. そしてここから続けて最後に語りたいのは、エノクの最期のことである。この聖句には、簡明にこう告げられているだけである。「神が彼を取られたので、彼はいなくなった」。この言葉の解釈は、神がそのしもべのために特別のしかたで介入なさり、そのしもべをこの世から死の痛みなしに取り去られた、ということである。神は彼を、あらゆる聖徒が喜ばしい期待をもって待ち望んでいるほむべき場所、万物の終わりにある、もはや痛みも悲しみもない場所へと、死を経ることなしに連れて行くことをよしとされたのである。

 そしてこれは、疑いもなく、いくつかの理由があってなされたに違いない。これがなされたのは、かたくなな心をした不信仰の世に、神が人々の生活を見ておられること、神を尊ぶ者たちを尊ばれることを確信させるためであった。それがなされたのは、あらゆる生ける魂に、サタンはエバを欺いた時点で完全な勝利をかちとったわけではないことを示すためであった。人々がまだ信仰の道によって天国に行くことができること、アダムにあってすべての人が死んでいることは確かだが、まだキリストにあってすべての者が生きた者とされることができることを示すためであった。しかり、愛する方々。エノクは神とともに歩んだ、そして神は彼を取られた。ここには、素晴らしいしかたで、大きな慰めとなることが確証されている。すなわち、主の目がそのすべての子らの上に注がれていること、天国と来世があること、義人は、たとえ人々から笑われ、世間受けのする歩みをしておらず、彼らの道は悪し様に云われ、彼らの真剣さは軽蔑されていても、報いを受けるということである。おゝ、神とともに歩む者よ。あなたの確信を投げ捨ててはならない。もうしばらくすれば、来るべき方が来られて、あなたを永遠の安息へ入れてくださるであろう。

 さて、愛する方々。いま私はあなたがた全員に乞い求めたい。もしあなたが自分の魂について気遣っているというなら、----もしあなたが本当に天国に行きたいと願っているなら、----もしあなたが平安のうちに死に、栄光のうちによみがえり、義人の集いに加わりたいという願いを少しでも本気で持っているというなら、----私はあなたに、こう自問してみるよう乞い願いたい。「私は神とともに歩んでいるだろうか? 私はエノクやすべての聖徒たちが歩いてきた道を歩んでいるだろうか?」、と。あなたがたの中に、この聖い人物の足を平安の道へと導いた、あの生きた信仰をひとかけらでも持っている者が何人いるだろうか?

 あなたは私に何を期待しているのか? 一体、聖書が断罪している何らかの罪の中で意識的に生きているような者らを、神とともに歩んでいる者だなどと考えられるだろうか? 一体、神と神に仕えることを二義的なこととし、この世の事がらに関する心遣いを第一のこととしているような者らを、神とともに歩んでいる者と云えるだろうか? 真剣な考えを全く持とうとせず、互いに、「そんな堅苦しい考え方はするなよ----しまいには何もかもうまく行くさ」、などと云い交わしている者らが神とともに歩む者だろうか? 自分たちの手の届くところに神が置いてくださった恵みの手段をことごとく無視したり、全く愚にもつかない理由をつけては、それらを用いないような者らが神とともに歩む者だろうか? 主を知っている、イエスを信じていると告白していながら、イエスを自分たちの模範としていないような者らが神とともに歩む者だろうか? おゝ、否、否! そんなことは不可能である。そうした者はみな、神から歩み去っている者でしかない。日一日と彼らは神から遠ざかって行き、その向きを変えない限り、ついには地獄へ歩み入っていくであろう。

 そして私は、この苦悶の場所に向かいつつある人々を見るとき----というのも、神とともに歩んでいない者はみな地獄へ向かっているとしか云えないからである----、また、愛に満ちた、優しい心をした主イエスがその御手を差し伸べて、「わたしのもとに来なさい。なぜ死のうとするのか。わたしはあなたをすべての罪からきよめることができるし、そうしてあげよう!」、と云っておられるのを見るとき、----これらすべてを目にしつつ、しかしあなたが冷たく、どっちつかずのまま、自分は中道にいるのだ、それなりに安全だ、などと自分にへつらっているのを見るとき、私は、声を振り絞って大声で叫ばざるをえない。たとえ愛がないと思われる危険を冒しても、何らかの手段であなたを目覚めさせ、あなたをサタンの力から解放し、キリストへと導くことができさえすればそれでよい。おゝ、あなたの心があなたの内側でかき立てられ、あなたがエノクの道に立ち、エノクの信仰の一部でも自分のものとするまで決して安心することがないように!

 こんなことが本当であるはずがない、などと云うことで、この問いをそらせると思ってはならない。自分の聖書を手に取り、それが何と証言しているか見てみるがいい。完全な思い違いに陥っている盲目な人々は、あなたに告げるかもしれない。神の罰は永遠ではなく、地獄など迷妄であり、悪魔など嘘っぱちなのだ、と。だがやがて彼らは、それらがすべて真実であること、すさまじいばかりに真実であることを知って、ほぞを噛むであろう。そして、聖書だけに根拠を置いている英国国教会の礼拝に集っている限り、あなたは、エノクが取った道以外の道について聞くことは決して期待できないであろう。

 「神とともに歩むことなど、できっこない」、と云おうなどと考えてはならない。「教会の中では殊勝なことを云っていられるかもしれない。だが一歩外に出たが最後、世はわれわれをつかみとり、知り合いや悪い仲間がわれわれをわきへそらしてしまうから無理だ」、などと云ってはならない。おゝ、自分に正直になるがいい!これは、こう云うも同然のことなのである。「もし全世界が信仰に立つなら、われわれも信仰に立つであろうが、それまではそうするものか」、と。そうした時代が来るまでは、あなたは全く目立つようなことをせず、熱心になる決心ができず、私のことを間違っていると考え、流れに乗っていこうとし、この世の道筋に従って歩もうとするのだろうか。しかし、エノクを見るがいい。彼の心は生来あなたの心と同じようなものであった。彼を強くしたのと同じ恵みはあなたを強くすることができる。----主の御手が短いのではない。恵みによって彼は三百年も神とともに歩んだ。では確かにあなたは、神の力があなたをも、七、八十年の間保ち、信仰によって救いに至らせることを信頼できるに違いない。しかし、このことはしかと知っておくがいい。もしあなたが地上で聖徒になれないとしたら、決してあなたは天で聖徒になることはできない。

 私が希望もなしにあなたを締め出しているのだと考えてはならない。救われる者が少なく、道が狭いことが事実だとしても、それが何だというのか?----あなたがたのうちで、天に入れなくなる者がいるとしたら、その理由は、自分自身の気乗りのなさや、自分自身の不信仰な心や、自分自身の冷淡さによる以外にない。おゝ、エノクが歩んだように歩み始めるがいい! 主イエス・キリストのもとに来るがいい! 主のもとに行く者は決して飢えることがなく、主を信ずる者は決して渇くことがない。たとえあなたの過去の人生が、エサウや、マナセや、ユダや、マグダラのマリヤのそれのようなものであったとしても、すべてを悔い改めつつ主のもとに来るがいい。主は決してあなたを捨てはしないであろう。あなたがたはことばを用意して、云うがいい。「主イエスよ。私は罪を犯しました。悔い改めます。すべての信頼をあなたにかけます。主よ、私を受け入れてください。主よ、私の信仰を増してください」、と。そうするとき、神のことばの保証により、私は云う。神はあなたにその聖霊を与えてくださり、あなたは神とともに、神の御前を、神に従って歩み、神にあって安息を得るであろう。

 あなたは老人だろうか?----ならば神とともに歩むがいい。遅くなってはならない。あなたの次の一歩が地獄にならないとも限らない。あなたがまだそこに至っていないことを主に感謝するがいい。あなたには、もう僅かな時間しかない。あなたは、一本の細糸でぶらさがっているだけである。ヨルダン川があなたの前にあるが、契約の箱が伴わない限りあなたは決して安全にそれを渡ることはできない。そして契約の箱は、神とともに歩む者たちにしか伴わないのである。

 あなたは若者だろうか?----ならば神とともに歩み、遅くならないようにするがいい。それを一日たりとも引き延ばしてはならない。若い人々も高齢者と同様に死ぬものである。若い人々も、他の人々に劣らず、救われなくてはならない魂を有している。悪魔は、あなたがたのうちのかくも多くの者らが密室の祈りを無視し、個人で聖書を読むことを無視するのを喜んでおり、あなたに特に目をつけている。彼は、もし若いときのあなたを考えさせないようにできさえすれば、あなたを永遠に自分のものにできる見込みが大きいことを知っているのである。

 おゝ、神の数々の書物が、あなたについてこう記さないようにするがいい。すなわち、これこれの安息日の日に、あなたがたの集まりは益にならないで、かえって害になった。あなたは神とともに歩むように招かれたが、そうしようとはいなかった、と。この主の選民のひとりの生涯を聞いたことが無駄にならないようにするがいい。むしろ、あなたの旧来の習慣を打ち捨て、立ち上がり、いのちにあって新しい歩みをするがいい。さながら一年のこの時期に、あなたの周りの美しき国土が表を一新するように、新しく歩むがいい。そして、神に従ったエノクにならう者となるがいい。

 あなたがたすべてに私は云う。エノクの語った預言を忘れてはならない。「主は来られる。さばきを行なうためである」*。この地上は、いかに愛すべき、麗しく、輝かしいものに見えても、やがては焼き尽くされる。だが、あなたの魂は、天国か地獄かのいずれかにおいて、永遠に生きるのである。この教会堂そのものでさえ、いつかはぼろぼろに崩れ去っていく。だが、その周囲の墓地に眠っている者たちは再びよみがえり、はずれていた骨がくっつき合い、御座の前にみなが立ち、それぞれの行ないに応じて審かれるのである。願わくは神が、その日のあなたがた全員を、あわれみの見いだせる者としてくださるように。しかし、もしそれを見いだしたければ、あなたは神とともに歩まなくてはならない。そうするとき、まことにあなたは信仰によって生きることになり、イエスにあって眠ることになるであろう。そして、全うされた義人たちの霊と同じ分け前を受けることであろう。

1つの道[了]

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