6. ついの故郷!
「しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行なう者は、決して都にはいれない。小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、はいることができる」。 黙示録21:27兄弟たち。この聖句で描写されている場所については、いかなる疑問もありえない。それは天国そのものである。やがて現わされるはずの、かの聖なる都、新しいエルサレムである。
私は、あなたがたの前に立つこの最後の日曜日を、天国について語ることで始められるのを嬉しく思う。私は、あなたがたのもとを去り、この世の荒野にあなたがたを置いて行く前に、神がご自分を愛する者たちに約束なさった、かのカナンについて、いささかなりとも詳しく語っておこう。私が最後に念願とするところは、そこに、あなたがた全員が行くことである。私が信じて慰めとしているのは、何があろうと、そこで、私はあなたがたのうちの幾人かと再び会えるはずだということである。
兄弟たち。あなたがたはみな、自分も天国に行きたいと希望しているであろう。あなたがたのうちひとりとして、死後の幸福を望まない者はいないであろう。しかし、あなたの希望はいかなる根拠の上に立っているのだろうか? 天国は、あつらえられた場所である。そこに住むことになる人々はみな、同じ1つの性格をしており、そこに入るにはたった1つの扉を通るしかない。兄弟たち。それを忘れてはならない。さらにまた、聖書では、二種類の希望が記されている。良い希望と悪い希望、真の希望とまがいものの希望、生きた希望と死んだ希望、義人の希望と悪人の希望、信仰者の希望と偽善者の希望である。聖書は、恵みによる希望、失望に終わることのない希望を有する人々について記している。だが、この世にあって望みもなく、神もない人々についても記している。兄弟たち。それを忘れてはならない。確かに、この主題について聖書が何と告げているかを見きわめること、またあなたの確信が本当に確固たる根拠に基づいたものかどうかをわきまえることは、賢く、思慮のある、安全なことに違いない。そのため私は、上の聖句が教えている教理に注意するようあなたに求めたい。そこにあなたは3つの事がらを見いだすであろう。
I. そこでは、その場所そのものについて言及されている。
II. そこに絶対にいるはずがない人々の性格について告げられている。
III. 唯一そこに入れる人々とはだれか。願わくは主があなたに、自分が天国にふさわしい者であるかどうかを、よく考えさせてくださるように。私たちの思いと性格の中には、そのほむべき場所にかなった特定の何かがなくてはならない。生前にどのような生活をしていようと、だれもがそこに行けるはずだ、などと考えるのは、非常識で、何の根拠もない、ばかげたことである。願わくは聖霊なる神が、あなたの心に働きかけ、あなた自身を正確に吟味させてくださるように。まだあなたに時間があるうちに、また、未回心者に何の望みもなくなり、聖徒たちに何の恐れもなくなる、かの大いなる日が来る前に、そうさせてくださるように。
I. 第一に、その場所そのものについてである。天国という場所は確実にある。神の民のためには、安息の休みが、まだ残っている。聖書全体の中でも、これほど確かな真理は他にない。この地上は私たちの安息ではない。そのようなことはありえない。そのようなことが真実であると見いだしたような者は、いまだかつてひとりもいない。そうしたければ、行って、地上にあなたの幸福を建て上げてみるがいい。人生を楽しくすると考えられるあらゆるものを選びとるがいい。----金銭を、家屋を、土地を手に入れ、学識を、健康を、美貌をわが物にし、栄誉を、地位を、山なす使用人を、雲霞のような友人たちを得るがいい。あなたの精神が思い描ける限りの、あるいはあなたの目が欲するありとあらゆるものをつかみとるがいい。----すべてをつかみとるがいい。だがしかし、あえて云うが、あなたはそれでもなお安息を見いだすことはないであろう。私にはよくわかっている。ほんの数年のうちに、あなたの心は告白するはずである。それはみな虚ろで、空っぽで、充足感を与えないものだ、と。それらはみな物憂い幻滅でしかない。それらは、すべてがむなしく、風を追うようなものである。私にはよくわかっている。あなたは内側に満たされない飢えを感じ、空虚で不毛なものを感じるであろう。そしてあなたは、この偉大な真理を心から認めたいと思うであろう。「この地上は私たちの安息ではない」、と。
おゝ、兄弟たち。この言葉は何と真実なことであろう。「もし、私たちがこの世にあって単なる希望を置いているだけなら、まことに私たちは一番哀れな者です」*。この人生は、苦難と、悲しみと、煩いと、心配と、労苦と辛苦に満ちている。これは、損失と、離別と、別離と、別れと、悲嘆と苦悩と、病と痛みの人生である。この人生は、エリヤでさえ倦み疲れたあまりに、死ぬことを求めたほどのものである。実際、この人生しかない感じたなら、みじめさのあまり私は、この地の上で粉々になってしまうに違いない。あの暗く、冷たく、沈黙した、寂しい墓場の彼方に何も待ち受けていないなど考えるとしたら、実際私は、「生まれてなど来なかった方がよかった」、と云うべきであろう。だが神に感謝すべきことに、この人生だけがすべてではない。私が知り、確信しているように、墓を越えたところには、栄光の安息がある。この地上は、単に永遠のための訓練学校に過ぎず、これらの墓場は天国へ至るまでの踏み石か、宿場でしかない。私が確かに信ずるところ、私のこのあわれな肉体は再びよみがえるのである。この朽ちるものは、やがて朽ちないものを着ることになり、永遠にキリストとともにいることになる。しかり。天国は本当に存在しており、嘘ではない。私はそれを疑わない。それを自分が存在しているのと同じくらい確かに信じている。そこには、神の民の安息の休みがまだ残っているのである。
では、兄弟たち。天国とはいかなる種類の場所だろうか? 話を先に進めて、その住人について考察する前に、ほんのしばし歩を止めて、そのことについて考えてみよう。天国とはいかなる種類の場所だろうか? 天国は完璧な安息と平安のある場所である。そこに住む者たちは、もはや全く、世や肉や悪魔と争闘することがない。彼らの戦いは成し遂げられ、彼らの戦闘は終結した。ついに彼らは神の武具をおろすことができ、とうとう彼らは御霊の剣に向かって、「静かに休め」、と云うことができる。彼らはもはや警戒することがない。恐れなくてはならない霊的な敵が何もいないからである。彼らはもはや断食したり肉を殺したりすることはない。抑制しなくてはならない、卑しく、土で造られたからだが何もないからである。彼らはもはや祈ることがない。祈りによって遠ざけるべき何の悪もないからである。そこでは、悪者どもはいきりたつのをやめる。そこでは、罪と誘惑が永遠に閉め出される。その門は、エデンの門よりも堅く閉ざされていて、もはや悪魔が入り込むことはない。おゝ、キリスト者の兄弟たち。身を起こして、慰められるがいい。確かにこれはまことにほむべき安息である。そこでは、いかなる恵みの手段も必要ない。それらが目当てとしていた目的を手に入れているからである。そこでは、いかなる礼典も必要ない。それらが思い起こさせるはずだった実質を、私たちが手にしているからである。そこでは、信仰は目に見えるものに呑み込まれ、希望は確実なものに呑み込まれ、祈りは賛美に、悲しみは喜びに呑み込まれてしまうであろう。今は学校時代であり、教課と鞭の時期であるが、そのときには、永遠の休暇となるであろう。今は、私たちは苦しみを受けつつ、疲れつつ追撃を続けているが、そのときには腰を落ちつけていこうであろう。その地からはカナン人が永遠に放逐されるからである。今は、私たちは嵐の海で翻弄されているが、そのときには無事に港に入っているであろう。今は、私たちは耕したり、蒔いたりしなくてはならないが、そのときには収穫を刈り取るであろう。今は労働があるが、そのときには報酬を受けるであろう。今は戦いがあるが、そのときには勝利と報奨があるであろう。今は、私たちは十字架を負わなくてはならないが、そのときには冠を受けるであろう。今は、私たちは荒野を越えて旅しつつあるが、そのときには故郷にいるであろう。おゝ、キリスト者の兄弟たち。聖書がこう告げているのも当然である。「主にあって死ぬ死者は幸いである。彼らはその労苦から解き放されて休むことができるからである」*。
しかし、さらに云う。天国は完璧な、また破られることのない幸福となる。上の聖句を含んでいる章において、聖書が何と告げているか注意してみるがいい。「神はその民の目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである」*。預言者イザヤがその25章で云っていることを聞くがいい。「神である主はすべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる。その日、人は言う。『見よ。この方こそ、私たちが救いを待ち望んだ私たちの神。この方こそ、私たちが待ち望んだ主。その御救いを楽しみ喜ぼう』」。兄弟たち。いかなる悲しみもない永遠の住まいのことを考えてみるがいい。この下界に住む者のうち、悲しみになじんでいない者がどこにいるだろうか? それは、アダムが堕落した際のいばらとあざみとともに現われたものであって、すべての者が飲まなくてはならない苦い杯である。それは、私たちの前にも後ろにもあり、右手にも左手にもあり、私たちが呼吸する空気そのもののなかに混じり合っている。私たちのからだは痛みで苦しめられており、私たちに悲しみをもらたす。私たちの世における持ち物は私たちから取り去られ、私たちに悲しみをもたらす。私たちは困難や苦難に取り巻かれており、悲しみを味わう。私たちの友人たちは私たちを見捨て、私たちを白い目で眺めて、私たちに悲しみをもたらす。私たちは自分の愛する者たちから引き離されて、悲しみを味わう。私たちがありったけの愛情を注いでいた者たちは墓に入り、私たちを後に残して、私たちに悲しみをもたらす。それに加えて、私たち自身、自分の心がもろく、腐敗に満ちたものであることに気づいて、悲しみを味わう。私たちは福音のために迫害を受け、反対を受け、悲しみを味わう。私たちは自分に近しい者、自分の愛しい者たちが神とともに歩くことを拒むのを目にして、悲しみを味わう。おゝ、私たちの住む世界の、何と悲しみと嘆きに満ちていることか!
神はほむべきかな! 天国には何の悲しみもない。天つ宮廷では、一粒たりとも涙が流されることはない。もはや病や弱さや腐敗はなく、棺や葬儀や墓場や暗黒の朝は未知のものとなる。私たちは二度と、悲嘆にくれた蒼白な顔をすることはない。二度と自分の愛する人々の集いから離れて行くことも、引き裂かれることもない。----「さようなら」という言葉は、二度と聞かれなくなる。明日に関する不安な思いによって、私たちの楽しみが損なわれたり、台無しにされることはなくなり、私たちの魂を傷つける辛辣な言葉はなくなる。私たちが何かに欠けることは永久になくなり、私たちのまわりのすべてが調和と愛に満ちたものとなる。おゝ、キリスト者の兄弟たち。これほどの永遠とくらべたとき、私たちの軽い患難が何であろうか? このような天国を目の前にしていながら、つぶやき、不平を云い、尻込みするとは、何と恥知らずなことであろう! このむなしい、過ぎ行く世が、これにまさる何を私たちに与えられようか? これは、私たちの神がまさに私たちの間にお住みになる、神ご自身の都なのである。神の栄光がその都を照らし、小羊が都のあかりとなるのである。まことに私たちは、メフィボシェテがダビデに告げたように云うことができよう。「主が無事に来られるのなら、世が何もかも取ってよいのです」、と。このような場所こそ聖書で云う天国であって、これ以外の何物でもない。これらのことばは、信ずべきものであり、真実であって、その一言すら、くつがえることはない。確かに、兄弟たち。多少の痛みや、多少の労苦や、多少の辛苦があったとしても、もし神の国で最下位の地位でも受けられるとしたら、その価値はあるというものである。
II. 続けて、上の聖句の第二の部分で啓示されている、大きなことに目を向けてみよう。あなたは天国のことを聞いてきた。だが、だれでもそこに入れるわけではない。では、そこに入れない人々とはいかなる者たちなのだろうか?
兄弟たち。これは悲しく、また痛ましい問いかけだが、発さなくてはならない問いかけである。私は、聖書の真理をあなたに宣言するしかない。もしそれが人を傷つけ、怒らせるものだとしても、私のせいではない。私は、私の《主人》の使信を伝えなくてはならず、それをいささかも間引きすることはできない。私が一線を画す際の線は、私のものではなく、神のものなのである。それをあなたが非とするとしても、その非は聖書にあるのであって、私にはない。「すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行なう者は、決して都にはいれない」。まことに、これらは厳粛な言葉である。これらは、あなたを考え込ませてしかるべき言葉である。
「すべて汚れた者」。これは、心のもろもろの罪によって汚れていながら、それを感ずることなく、きよめられようとしない、すべての人々を指している。こうした人々は、外的には上品な人々かもしれないが、内側は卑しく、汚れている。こうした人々は、世的な考え方をしている。彼らはこの世のためだけに生きており、それを越えては何も考えていない。この世の煩いや、金銭や、この世の政治や、この世の務めや、この世の快楽、こうした事がらが彼らの全注意を呑みつくしており、「この世から自分をきよく守れ」、という聖ヤコブの忠告について、彼らはそれが何のことか全くわからない。
こうした人々は、地上的な物事のことを思っている者らである。彼らはみな、自分の想像力のひだの奥にそれぞれの偶像をかかえており、神よりも、それを礼拝し、それに仕えている。こうした人々は高慢で、自分を義とし、尊大で、うぬぼれた者らである。彼らは人々からの賞賛を愛し、この世の評判をとることを好むが、自分たちをお造りになった栄光の主については、その栄誉も、その栄光も、その家も、そのことばも、その奉仕も、----これらはみな、彼らの判断するところ、大した価値はなく、二の次にすべきものなのである。こうした人々は、罪に対する悲しみということがいかなることかわかっていない。彼らは霊的な心配とは無縁である。彼らはひとりよがりな、自分の状態に満足しきった者らである。そしてもしだれかから、熱心になって悔い改めるようせっつかれたりしようものなら、まず間違いなく怒りを発する。兄弟たち。こうした人々がいることを、あなたはよく知っている。彼らはまれな人種ではない。彼らは人々の目にとっては尊敬すべき人々かもしれず、この世代にあっては賢く、よく物を知っている人物かもしれず、立派な実業人かもしれず、見苦しくない職業において第一級に優秀な人物かもしれないが、それでも彼については1つのことしか云えない。彼らは自分の《主人》に何の栄光ももたらしておらず、自分よりも神を愛する者であり、それゆえ神の御目においては汚れた者とみなされており、いかなる汚れた者も天国には入れないのである。
しかし、まだある。「すべて憎むべきことを行なう者」。これは、憎むべきものであると神が宣言しておられる生活上の罪を行ない、それに喜びを感じ、それを行なう者たちに好意を示す、すべての人々を指している。こうした人々は、それぞれ自分の心の欲するままに肉の行ないを働く者らである。こうした人々は、姦淫をする者、不品行な者、汚れた生き方をする者である。こうした人々は、酒に酔う者、そしる者、むさぼり食う者である。こうした人々は、神をけがす者、御名を冒涜する者、偽りを云う者である。こうした人々は、敵意、争い、憤り、党派心、その他あらゆる争いに類したものの中で生きることを何の恥とも思っていない者らである。こうした人々は、自分の情欲に手綱をかけず、自分の情動のおもむくままに引かれていく。彼らの唯一の目的は自分を喜ばせることだけである。
兄弟たち。こうした人々がいることを、あなたはよく知っている。世は、彼らの行ないに、耳障りの良い名前を与えるかもしれず、世は彼らのことを明るくて陽気であるとか、奔放で野性的であるとか語るかもしれないが、それは何にもならない。彼らはみな、神の御目においては憎むべき者らであって、回心して新しく生まれない限り、彼らは決して天国に入れない。
さらにある。「すべて偽りを行なう者」。これは、偽善者たちを指している。こうした人々は、まがいものの信仰告白者たち、口先だけの信仰者たちである。彼らは、神を知っていると口では云うが、行ないでは否定している。彼らは不毛ないちじくの木に似て、葉が茂るばかりで、何の実も生っていない。彼らはうるさいシンバルに似て、やかましいが、中身がなく、虚ろで、実質が伴っていない。こうした人々は、生きているとは名ばかりで死んでおり、見えるところは敬虔でありながら、何の力も欠いている。彼らは自分が行なってもいないことを告白し、自分が考えてもいないことを語り、口先は達者だがほとんど実行が伴わず、その弁舌はこの上もなく素晴らしいが、その行動はこの上もなく貧弱である。こうした人々は、自分のことを無類に立派な者と語ることができる。彼ら自身の評価を額面通りに受け取る限り、これほどすぐれたキリスト者はいない。彼らは恵みについて語ることはできるが、その生活の中に全く恵みを示していない。救いに至る信仰について語ることはできるが、信仰に伴うはずの愛を有していない。口を極めて形式的なことを悪く云うが、自分自身のキリスト教は形式以外の何物でもない。彼らはパリサイ人について声高に反対を叫ぶが、自分ほど大きなパリサイ人は他にいない。
おゝ、否。こうしたキリスト教信仰は、表向きの種類のものであって、個人的な種類のものではない。人前ではたくさんのものがあるが、家の中には何もない。外側にはたくさんのものがあるが、内側には何もない。舌先にはたくさんのものがあるが、心には何もない。彼らは全く無益であり、何の役にも立たず、何の実も結ばない。
兄弟たち。あなたはこうしたみじめな人々がいることをよく知っているに違いない。悲しいかな! この終わりの日、世はこうした者らで満ちている。彼らは教役者をだませるかもしれず、自分の隣人たちをだませるかもしれず、自分の友人たちや家族すらだませるかもしれず、自分自身をだまそうと躍起になっているかもしれない。だが、彼らは神の御目においては偽りを行なう者でしかなく、もし悔い改めなければ、彼らは決して天国に入れない。
兄弟たち。こうした事がらをよく考えるがいい。「すべて罪に汚れた者、憎むべき者、偽りとを行なう者は、決して天国にはいれない」。あなた自身の魂をよく眺めてみるがいい。あなた自身が主から審かれるような者でないかどうか眺めてみるがいい。私はきょうのこの日、太陽と月とを証人に立てる。こうした悪い生き方をしている者は、たとえ英国国教徒であろうと非国教徒であろうと、老いていようと若かろうと、富んでいようと貧しかろうと、そうした者らは決して天国に入ることができない。もし心を決めているというのなら、行って、世のあり方にしがみつくがいい。しかし私はこの時、あなたに厳粛に警告しておく。こうした事がらが伴っている人々は、決して天国には入れない。行って、何ときついことを云うのかと私を非難するがいい。----そうしたければ、私のことを厳密すぎると考えるがいい。----だが、おゝ! もしあなたが天国の門の外に立ち、「ご主人さま。あけてください」、と叫んでも、入れてもらえないようなことがあるとしたら、私があなたに告げたことを思い出すがいい。すべて世的な考え方をする者、悪い生き方をしている者は決して天国には入れない、と。兄弟たち。私は先にも語ったし、ここで最後にもう一度語っておくが、もしあなたが神の憎まれる物事にしがみつくというなら、あなたは決して天国に入ることはない。
III. 兄弟たち。次に進まなくてはならない。この聖句はあなたがたに、天国に入れるのはいかなる人々かを告げている。おゝ! いかにおびただしい数の群衆を、この言葉は閉め出していることか! しかし、これはあなたにそれ以外のことも告げているのである。だれが入ることになるのか。その説明は単純簡明である。「小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、はいることができる」。いのちの書とは何だろうか? 天には1つの書物がある。永遠の昔から用意されていた、小さな書物、父なる神が封印をしておられる書物、----神の選びの書である。その書物について人々は何も知らない。わかっているのはただ、そのような書があるというほむべき真理だけである。その書物に人間はほとんど、あるいは何も関与することがない。しかし、もう1つ別の書物があるのである。主イエス・キリストに特別に属している、小さな書物、まだ未完成ではあるが、年々歳々、名前が書き加えられていく書物、まだ閉じられていない書物、まだ信仰を持つ悔悟者の名前を喜んで受け入れようとしている書物である。そこにはまだ、あなたのための余白がある。そして、これこそ、小羊のいのちの書なのである。そして、この尊い書にはだれについて記されているだろうか? 私には彼らの名前はわからない。だが彼らの性格ならわかっている。そしてその性格がいかなるものかを、この最後の機会に、私はあなたに手短に告げるようにしよう。
彼らはみな、真に悔い改めた者たちである。彼らは神の御目における自分自身の無価値さを確信している。彼らは自分が、行ないにおいても、内実においても罪人であることを感じている。彼らは自分のもろもろの罪について嘆き、自分の罪を憎み、自分の罪を打ち捨てている。それらの記憶は悲痛なもので、その重荷は耐えがたい。彼らは自分の状態を良いものと考えたり、自分が救われるに値する者であるとみなしたりするのをやめている。彼らは心の底から告白している。「主よ。私たちはまことに罪人のかしらです。----主よ。私たちはまことに汚れています」、と。
さらに、彼らはみな、キリスト・イエスを信ずる信仰者たちである。彼らは主が彼らを救うためになさったみわざが、いかにいとすぐれたものであるかを悟って、自分の魂の重荷を主に投げかけている。彼らはキリスト教を自分のすべてのすべてと受け取っている。彼らの知恵、彼らの義、彼らの義認、彼らの赦し、彼らの贖いとしている。彼らは、他に何1つ、自分の霊的な負債を支払えるものがあるなどとは思わない。悪魔から解放される他の手だてなど、彼らは1つも見いだすことができない。しかし、彼らはキリストを信じ、救いを求めてキリストのもとに来ている。彼らは、自分にできないことを、自分にかわってキリストがおできになると確信している。そして、キリストによりかかれる以上、彼らは完璧な平安を感じていられる。
さらにまた、彼らはみな、御霊によって生まれ、聖なる者とされた人々である。彼らはみな、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、神にかたどられた新しい人を身に着ている。彼らはみな、心の霊において新しくされている。新しい心と、新しい性質を与えられている。彼らは、自分のうちに御霊がおられるという唯一の証明たる、種々の実を結んでいる。彼らは多くのことにおいて、へまをしたり、欠点があるかもしれない。自分の幾多の欠陥について、何度となく嘆いてきたかもしれない。だがそれでも、彼らの生き方の一般的な傾向や方向は、常に聖さを目指している。----いやまさる聖さ、いやまさる聖さこそ、常に彼らの心からの願いである。彼らは神を愛しており、神のために生きなくてはならない。これこそ、天国に記されている人々の性格である。それで、こうした人々が、小羊のいのちの書に名前が見いだされる人々なのである。
かつての彼らは、極悪人と同様の悪人だったかもしれない。----汚れた者、憎むべきことを行なう者、偽りを行なう者だったかもしれない。それがどうしたというのか? 彼らは悔い改めて信じたのである。そして今やいのちの書に記されているのである。彼らはこの世で蔑まれ、排斥され、その隣人たちの判断では、あわれで、卑しく、つまらない者たちだったかもしれない。それがどうしたというのか? 彼らは悔い改めと、信仰と、新しい心を持っており、今や栄光のいのちの書に記されているのである。彼らは身分も国籍も違っているかもしれない。異なる時代に生き、互いの顔を見たこともないかもしれない。それがどうしたというのか? 少なくとも1つのことだけは彼らに共通している。彼らは悔い改めて、信じて、新しく生まれ、それゆえ、全員がともに小羊のいのちの書の中に記されているのである。
しかり。兄弟たち。こうした人々こそ、天国に入れる男女なのである。何物もそれを禁ずることはできない。臨終の際の証拠だの、死に行く人々が見た幻や夢などは何にもならない。キリストにつき従う人々が有しているもの----悔い改め、信仰、聖さ----ほど確かな証拠はない。これこそ、天国の門の前に立つとき、それが決して閉ざされることのない性格である。悔い改めて、キリストを信じ、回心するがいい。そうするとき、他の人々に何が起ころうとも、少なくともあなただけは天国に入るであろう。あなたは決して外に放り出されることがないであろう。
さて、兄弟たち。しめくくりとして、いつもの私の問いをあなたに投げかけさせてほしい。あなた自身はどうだろうか? 何と、何の答えもない! あなたは世を去る用意ができているだろうか? やはり何の答えもない! あなたの名前はいのちの書に記されているだろうか? それでもまた、あなたは何も答えられないのだろうか?
おゝ、考えるがいい。考えるがいい。不幸な人たち。あなたがいかなる人であろうと、永遠について不確かであるとは何とみじめなことか、考えてみるがいい。そして、そこで考えるがいい。もし今あなたがあなたの心を神に明け渡すことができないとしたら、死後あなたが神の天国を楽しむなどということがいかにして可能であろうか? 天国はやむことのない敬虔さである。神とそのキリストの御前で、永遠に生きることである。神が天国の光であり、食物であり、大気である。それは永遠の安息日である。神に仕えることこそ天国の仕事であり、神とともに歩むことこそ天国の職業である。
おゝ、罪人たち。罪人たち。あなたがたはそこで幸福になれるだろうか? 聖徒たちしかいない集団のどこにあなたがたは加わろうというのか? だれに近づき、だれの隣に座ろうというのか? 預言者たちや使徒たちのうち、だれとあなたは語り合いたいと思っているのか? 確かにそのようなことは、あなたにとって退屈なことであろう。すぐにあなたは、そこを飛び出し、外にいるあなたの友人たちに加わりたいと願うようになるに違いない。おゝ、「きょう。」と言われている間に、悔い改めよ。立ち返れ。神は単にあなたを喜ばせるためだけに天国を造り変えたりなさらない。できるうちに、あなたの方が神の道に従う方が千倍もましである。あなたがたは、死ぬ前に天国の事がらを愛するようにならなくてはならない。さもないと、死ぬときに天国に入ることはできない。
キリスト者たち。上を見上げて、慰めを得るがいい。イエスはあなたがたのために場所を用意しておられる。そしてイエスにつき従う者たちは決して滅びることなく、だれもその御手から彼らを奪い去ることはできない。主が備えておられる、かの栄光の住まいを待ち望むがいい。信仰によって待ち望むがいい。それはあなたのものだからである。おゝ、キリスト者の兄弟たち。それがいかに栄光ある集まりになるか考えてみるがいい。そこで私たちは、これまで何度となく聖書の中で読んできた、古の聖徒たちに出会うのである。そこで私たちは、その信仰と忍耐を敬慕してきた聖い教役者たちと出会うのである。私たちの共通の救い主の御座のまわりで、私たちは互いに相会い、二度と別れることも、引き離されることもないのである。そこでは二度と労働したり辛苦したりすることはない。嘆きの日々は終わりを告げるからである。おゝ、だがもしもそこで私が、なじみ深いあなたがたの顔を見いだすとしたら、あなたがたのだれかの名前を聞くとしたら、私は躍り上がるほどの喜びを感ずるであろう! 願わくは主がそれを許してくださるように。それを実現してくださるように。願わくは主が、少なくとも私たちのうちの何人かが、その日には相集えるようにしてくださるように。私たちが1つの群れ、ひとりの牧者となるその日、私たちが心も声も1つに合わせて、この栄光の歌に加わることができるように。「ほふられた小羊はほむべきかな。賛美と誉れと栄光と力が、永遠に小羊にあるように」。
ついの故郷![了]
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