The Great Separation         目次 | BACK | NEXT

20. 大いなる分離


「手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます」。----マタ3:12

 いま私たちが前にしている聖句には、バプテスマのヨハネによって語られた言葉がふくまれている。それは、私たちの主イエス・キリストに関する預言であり、いまだ成就していない預言である。その預言が成就するのを、私たちはみな、いつの日か目にすることになるが、神のほか、それがどれだけ間近に迫っているかを知る者はない。

 私はこの論考を読むすべての人に、この聖句にふくまれている、いくつかの大きな真理を真剣に考察してほしいと思う。これからそれを説き明かし、順々に提示していくので、ぜひとも注意を傾けていただきたい。これがあなたの魂にとって時宜にかなった言葉にならないと、だれに知れよう? この聖句が、この日をあなたの人生最良の日にしないと、だれに知れよう?

 I. 第一のこととして私が示したいのは、人類は大きく2つの種別に分けられる、ということである。

 神の目にとって、この世にはたった2つの種別の人々しかおらず、2つともこの論考の冒頭にある聖句で言及されている。そこにはと呼ばれている人々と、と呼ばれている人々がいる。

 人の目からすると、地上は種々雑多な住人で満ちている。だが神の目からすると、そこには二種類の住人しかいない。人の目はうわべを見る。----人の考えが及ぶのはそれがすべてである。だが神の目は心を見る。----これこそ神が少しでも気にとめなさる唯一の部分である。そして人間は、その心の状態によって吟味された場合、たった2つの種別にしか分けることができない。----彼らは麦であるか殻であるかの、2つに1つである。

 世における麦とはいかなる人々であろうか? この点については、特に十分な考慮を払わなくてはならない。

 この麦とは、主イエス・キリストを信ずる信仰者であるすべての男女のことである。----聖霊によって導かれるすべての人々、----自分が罪人であると感じとり、隠れ家を求めて、福音の差し出す救いへと逃れてきたすべての人々、----主イエスを愛し、主イエスのために生き、主イエスに仕えるすべての人々、----キリストを自分の唯一の頼みとし、聖書を自分の唯一の手引きとし、罪を自分の不倶戴天の敵とみなし、天国を自分の唯一の故郷として待望しているすべての人々のことである。このような人々の全員が、その教会や、名前や、国や、民族や、国語の違いを越えて、----またその身分や、立場や、境遇や、地位の違いを越えて、----その全員が、神の「麦」なのである。

 この種の人々はいずこにあろうと、それと示されさえするなら、その素性は明らかである。私は、彼らとあらゆる点において意見の一致を見られるかどうかはわからないが、彼らのうちに王の王の手のわざを見てとり、それ以上は何も求めないであろう。私は、彼らがどこから来たか、どこでそのキリスト教信仰を見いだしたかはわからないが、彼らがどこに向かっているかはわかっており、それさえわかれば文句はない。彼らは天におられる私の御父の子どもたちである。彼らは御父の「麦」の一部なのである。

 こうした人々はみな、自分自身の目には罪深く、よこしまで、無価値な者と映っているに違いないが、人類の尊い部分に属している。彼らは父なる神の息子たち、娘たちである。子なる神の喜びである。御霊なる神の御住まいである。御父は、彼らのうちに何の不正も見いださない。----彼らは、愛する御子の神秘的なからだの各器官なのである。主イエスは、彼らのうちに、ご自分の激しい苦しみと十字架上のみわざの成果を見て、大いに満足なさる。聖霊は、彼らをご自分がお建てになった霊的な神殿とみなし、彼らのことをお喜びになる。一言で云えば、彼らは地における「麦」なのである。

 世における殻とはいかなる人々であろうか? この点についても、やはり特に注意を払わなくてはならない。

 この殻とは、キリストを信じて救いに至る信仰を全く持たず、御霊の聖めを全く受けていない、すべての人々である。具体的にどういう立場にある人かは関係ない。ことによるとその一部は不信者であり、その一部は形だけの信仰しか持たないキリスト者であろう。その一部は、冷笑的なサドカイ人であり、その一部は自分を義とするパリサイ人であろう。その一部は、一種の日曜キリスト教信仰を堅く守る者らであろうが、別の一部は、自分の快楽と世にかかわること以外、何にも頓着しない者らであろう。しかし、すでに述べた2つの大きな目印----何の信仰もなく、何の聖めもない----を身につけている者は、みな等しく、その全員が「殻」である。ペインやヴォルテールに始まり、外的儀式以外何も考えられない、死んだも同然の英国国教徒に至るまで、----ユリアヌス帝や、ポルフュリオス[『キリスト教徒駁論』を著した哲学者]に始まり、耳にする説教はほめそやしながら全然回心しようとしない現代の多くの人々に至るまで、----すべてが、すべての人々が、神の前では同じ身分の者として立っている。こうした人々はみな、ひとりの例外もなく、「殻」にほかならない。

 彼らは父なる神に何の栄光も帰していない。「子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬いません」(ヨハ5:23)。彼らは、おびただしい無数の御使いたちが賞賛している大いなる救いをかえりみようとしない。彼らは、自分たちに悟りを与えるため恵みによって書かれたみことばに従おうとしない。彼らは、身をへりくだらせて天から降り、彼らのもろもろの罪のために死なれたお方の御声を聞こうとしない。彼らは、自分たちに「いのちと息と万物と」をお与えになったお方に、奉仕と愛による敬意を表わそうとしない。それゆえ神は、彼らに何の喜びも覚えない。彼らをあわれみはするが、「殻」以上のものとはおみなしにならない。

 しかり! あなたには類まれな知的才幹と衆に抜きんでた精神的業績があるかもしれない。あなたは、自分の与える助言で数々の王国を動かし、筆先1つで何千万もの人々を感動させ、舌先三寸で大群衆の注意を釘付けにできるかもしれない。だがもしあなたが全くキリストのくびきに身を服させておらず、その福音を尊び、心から受け入れることを全くしていないとしたら、あなたはキリストの目には無である。恵みなしの、生まれながらの才幹は、何桁もの数字が何の単位もつけずに羅列されているだけのようなものである。ご大層に見えるが、そこには何の値うちもない。地べたを這いずるどれほど卑しい昆虫も、あなたよりはずっと高貴な存在である。それは、被造世界における自分の立場を果たしており、持てる限りの力によってその創造者の栄光を現わしているのに、あなたはそうしていない。あなたは、自分の心と思いと知性と肉体によって神を敬っていないが、それらはみな神のものなのである。あなたは神の秩序と取り決めをひっくり返し、まるで時間が永遠よりも大切であるかのように、また肉体が魂よりも大切であるかのようにして生きている。あなたは、あろうことか神の与えた最大の賜物----受肉なさった神ご自身の御子----をかえりみようとしていない。あなたは、諸天をハレルヤの声で満ちさせている主題について冷淡を決め込んでいる。そしてあなたは、このような者であり続ける限りは、人類の無価値な部分に属している。あなたは地における「殻」なのである。

 この論考を読むあらゆる人は、このことを深く心に刻み込んでおくがいい。世にはたった二種類の人々しかいないことを忘れてはならない。麦と殻、この2つだけである。

 ヨーロッパには多くの国々がある。どの国も他の国とは異なっている。それぞれが、独自の言語と、独自の法と、独特の習慣を有している。しかし神の目において、ヨーロッパは大きく2つに分かれている。----麦と殻にである。

 英国には多くの階級がある。貴族もあれば庶民もあり、----農夫もあれば小売商もあり、----主人もあれば従僕もあり、----金持ちもあれば貧乏人もある。しかし神の目が気にとめる種別は2つしかない。----麦と殻である。

 キリスト教会の礼拝に集ってくるあらゆる会衆は、千差万別の思いをいだいている。ある者らはただの形式として出席し、ある者らはキリストにお会いすることを心から願っている。----ある者らは他人を喜ばせるためにやって来るが、ある者らは神を喜ばせるためにやって来る。----ある者らは自分の心を携えて来て、なまなかなことでは疲れないが、ある者らは心を置き忘れてやって来て、礼拝全体を退屈きわまりない代物とみなす。しかし主イエスの目はその会衆にたった2つの区別しかつけない。----麦と殻である。

 1851年の大博覧会にはおびただしい数の来訪客が訪れた。ヨーロッパからアジアから、アフリカからアメリカから、----北から南から、東から西から、----各種の工芸品や工業製品を見るために大群衆が集まった。私たちの最初の父祖アダムの家系に連なる子孫たちが、1つ屋根の下で一堂に会して顔と顔を合わせた。しかし主の目にとってそれは、巨大な水晶の宮にごったがえしていた2つの集団でしかなかった。----麦と殻である。

 信仰を告白するキリスト者をこのように分けるしかたをこの世が嫌っていることは、私もよく承知している。この世は、世間には種類ではなく種類の人々がいるのだと信じ込もうとしている。非の打ち所なく、あらゆる点で厳格な生き方をすることは、世の受けが悪い。----世の人々は聖徒になることができず、なろうともしない。だが、全然キリスト教信仰を受け入れないことも世には受けが悪い。----それは体裁が悪すぎる。----彼らは云うであろう。「ありがたいことに、われわれはそれほどひどくはない」、と。しかし、救われるに十分なだけはキリスト教信仰を受け入れつつ極端に走らないこと、----そこそこ善良ではありながら几帳面すぎはしないこと、----穏やかで、気楽な、ほどほどのキリスト教を信仰しつつ、大した苦労もなしに天国に行き着くこと、----これこそ世が最も好む考えである。第三の種別があるのだ、----安全な、中間の種別があるのだ、----と世は夢想し、大多数の人々は、自分はこの中間の種別のひとりにあたるのだろうとひとり決めしているのである。

 私はこうした中間の種別という概念を、途方もない、魂を滅ぼす迷妄として糾弾するものである。私はあなたに強く警告したい。こうした考えに心を奪われてはならない。これはローマ教皇の云う煉獄に負けず劣らず空虚なでっちあげである。これは嘘っぱちの隠れ家、----空中の楼閣、----ロシアの氷上宮殿、----雲を突くようなまぼろし、----からっぽの夢である。こうした中間種別というようなキリスト者の種別については、聖書のどこを見ても語られていない。

 ノアの洪水の時代には2つの種別があった。箱舟の中にいた者たちと、外にいた者たちである。----福音の地引き網のたとえには2つの種別があった。良い魚と呼ばれる者たちと、悪い魚と呼ばれる者たちである。----十人の娘のたとえ話には2つの種別があった。賢い娘と述べられた者たちと、愚かな娘と述べられた者たちである。----最後の審判の日の描写には2つの種別があった。羊とやぎである。----その御座には2つの側面があった。右手と左手である。----そこで最後の宣告が下されるときには2つの住みかがあった。天国と地獄である。

 そして、まさにそのように、地上における目に見える教会にも2つしか種別はない。----生まれながらの状態にある者たちと、恵みの状態にある者たち、----狭い道の上にいる者たちと、広い道の上にいる者たち、----信仰を持っている者たちと、持っていない者たち、----回心した者たちと、回心していない者たち、----キリストに味方する者たちと、キリストに逆らう者たち、----「麦」である者たちと、「殻」である者たちである。この2つの種別に信仰を告白するキリストの教会は分かれるのである。この2つの種別以外に、いかなる種別もない。

 さて見よ、ここには、何と自己を省察させられるものがあることか。あなたは麦のひとりだろうか、殻のひとりだろうか? 中間はありえない。あなたは一方の種別にいるか、もう一方の種別にいるか、どちらかである。その2つのうちどちらだろうか?

 ことによるとあなたは、教会に出席しているかもしれない。聖餐式に集っているかもしれない。善良な人々を好んでいるかもしれない。良い説教と悪い説教の区別がつくかもしれない。ローマカトリック教を偽りであると考え、熱心にそれに反対しているかもしれない。プロテスタントのキリスト教を正しいと考え、心からそれを支持しているかもしれない。キリスト教団体への寄付をしているかもしれない。キリスト教の集会に出席しているかもしれない。時には信仰書を読んでいるかもしれない。それは良いことである。非常に良いことである。多くの人々よりもはるかに良い状態にあると云えることである。しかしそれでも、これは私の問いに対するまっすぐな答えにはならない。----あなたは麦だろうか、殻だろうか?

 あなたは新しく生まれた者だろうか? 新しく造られた者だろうか? あなたは古い人を脱ぎ捨て、新しい人を身に着ただろうか? 自分のもろもろの罪を実感し、それらを悔い改めたことがあるだろうか? 赦しと永遠のいのちを得るために、単純にキリストに頼っているだろうか? キリストを愛しているだろうか? キリストに仕えているだろうか? 心に巣くうもろもろの罪をいとい、それらと戦っているだろうか? 完璧な聖さをこがれ求め、激しくそれを追求しているだろうか? あなたはこの世から出て行っただろうか? 聖書を喜びとしているだろうか? 祈りの格闘をしているだろうか? キリストの民を愛しているだろうか? 世に善を施そうとしているだろうか? 自分の目に自分がよこしまな者に見え、末席につくことを望んでいるだろうか? あなたは職場においても、平日にも、自宅の炉辺の傍らでもキリスト者だろうか? おゝ、こうしたことを考えて、考えて、考えるがいい。そうするとき、あなたは、ことによると自分の魂の状態をより良く見きわめられるようになるかもしれない。

 私はあなたに切に願う。いかに不快に感じても、どうか私の問いに背を向けないでほしい。いかに良心が刺され、心が傷つけられても、それに答えてほしい。たとえそれが、あなたの間違いを示し、あなたの陥っているすさまじい危険を暴くことになっても、答えを出してほしい。あなたと神との関係がどうなっているかがわかるまでは、決して決して安心してはならない。自分が悪い状況にあることに気づいて、手遅れにならないうちに悔い改める方が、それを不確かにしたまま生き続け、永遠の滅びに至るよりも一千倍も良いはずである。

 II. 第二のこととして示したいのは、この2つの大いなる種別の人々が分離されるのはいつか、ということである。

 この論考の冒頭に冠された聖句は、1つの分離がなされることを予告している。それによると、キリストがいつの日か信仰を告白するご自分の教会に対してなさることは、農夫が自分の穀物に対して行なうことと同じである。彼はそれをあおぎ分け、ふるいにかける。彼は、「ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます」。それから、麦と殻が分けられるのである。

 今は何の分離もなされていない。現在、善人と悪人はみな目に見えるキリスト教会の中で入り混じっている。信仰者と不信者、----回心者と未回心者、----聖い者と汚れた者、----これらはみな今は、キリスト者と自称する者たちの間に見いだすことができる。彼らは私たちの集会に隣り合って座っている。彼らは私たちの会衆席で隣り合って膝まづいている。彼らは私たちの説教を隣り合って聴いている。時として彼らは、肩を接して聖餐式に集い、同じパンと葡萄酒を私たちの手から受けとっている。

 しかし、それがいつまでも続くわけではない。キリストは、その手に箕を持って再臨なさる。彼は、かつて宮をきよめられたように、ご自分の教会をきよめなさる。そしてそのとき、麦と殻が分離され、それぞれがしかるべき場所に向かうのである。

 (a) キリストが来られるまでは、分離は不可能である。それは人の力で成し遂げられるものではない。いまだかつて地上にあった教職者のうち、自分の会衆の心をひとり残らず読みとれた者はだれひとりいない。何人かについては断言できるかもしれない。----だが全員については無理である。だれがその燭台に油を入れているか、だれが入れていないか、----だれが信仰の告白だけでなく恵みも併せ持っているか、----まただれが信仰を告白するだけで恵みの持ち合わせがないか、----だれが神の子どもたちで、だれが悪魔の子どもたちか、----こうしたことはみな、多くの場合、私たちが正確には判断できない問題である。そのあおぎ分けの箕は私たちの手には渡されていない。

 恵みは時として、あまりにも弱くかすかなため、天性のように見えることがある。天性は時として、あまりにも見事で立派な装いをしているため、恵みのように見えることがある。私の信ずるところ私たちの多くは、きっとユダのことを他のどの使徒にも劣らず善良な者だと云ったであろう。だがしかし彼は裏切り者となった。私の信ずるところ私たちは、ペテロが自分の主を否んだとき、これは神に遺棄された者であると云ったであろう。だがしかし彼はたちまち悔い改めて再起した。私たちは誤りがちな人間でしかない。「私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです」(Iコリ13:9)。私たちはめったに自分自身の心を理解できない。他人の心を読みとれなくとも何の不思議があろうか。

 しかし、それがいつまでも続くわけではない。来たるべきお方は、その判断において決して過つことなく、完璧な知識を持っておられる。イエスはご自分の脱穀場をきよめなさる。麦から殻をふるい分けなさる。私はそれを待つものである。そのときまで私は、自分の判断においては愛ある側に傾いていたい。私は教会においては、一粒でも麦を捨てるくらいなら、多くの殻をがまんしようと思う。まもなく来られるお方は「手に箕を持っておられ」、すべての人について確実なことが明らかになるであろう。

 (b) キリストが来られるまでは、教会が完璧になるのを期待するのは無駄である。そのようなものはありえない。物事の現在の状態において、麦と殻は常に相伴って見いだされるであろう。私があわれに思うのは、ちょっとした欠点や何人か不健全な会員がいることを理由に、1つの教会を離れて、別の教会に加入する人々である。なぜあわれに思うかというと、彼らが心にいだいている思いは決して実現することがないからである。彼らが求めているものは決して見いだされえないものだからである。私には至る所に「殻」が見える。地上のいかなるキリスト教の団体にも、何らかの種類の不完全さや弱さが見られる。私の信ずるところ、すべての陪餐者が回心者であるような聖卓は、もしあったとしても、ごくまれにしかないに違いない。声高な信仰告白者が聖徒としてもてはやされるのは、よく見られることである。聖く、悔悟した信仰者が、全く何の恵みも持っていない人としてなじられるのも、よく見られることである。私の確信するところ、人々がもしあまりにも厳密に構えるならば、彼らはノアの放った鳩のように、一生の間、はばたき回りながら決して安きを得ることができないであろう。

 この論考を読む方々の中に完璧な教会を願い求めている人がいるだろうか? あなたはキリストの現われの日まで待たなくてはならない。そのときに、そのときにこそ、あなたは「しみや、しわや、そのようなものの何一つない……栄光の教会」を目にするであろう(エペ5:27)。そのときに、そのときにこそ、脱穀場はきよめられるであろう。

 (c) キリストが来られるまでは、全世界の回心を待ち望むのは無駄である。キリストが再臨なさる日にも、麦と殻が隣り合って見いだされることになる以上、そのようなことがどうしてありえようか? 一部のキリスト者たちの期待によると、種々の海外宣教によって地にはキリストの知識が満ち、次第次第に罪は消え去り、徐々に完璧な聖さの状態が現われてくるという。私にはそのような見方はできない。私が思うに、彼らは神の目的を取り違えており、苦い失望の種を自ら蒔いているのである。私はそういったことを全く期待していない。聖書のどこを見ても、周囲の世のどこを見渡しても、そう期待させるようなものは全く見いだせない。英国においてであれ、スコットランドにおいてであれ、一教会の全会衆が神に対して回心しているとか、そういった類のことを、私は一度も耳にしたことがない。----そして、他の国々においても、福音の説教からそれ以外の結果が生ずることをなぜ期待すべきだろうか? 私が唯一期待しているのは、どの国でも少数の人々が、キリストの証人として、ある者はある場所で、別の者は別の場所で起こされることである。それから私が期待するのは、主イエスが栄光のうちに、手に箕を持ってやって来られることである。そして主がご自分の脱穀場をきよめられたとき、そのとき初めて、主の御国は始まるであろう。

 キリストが来られるまでは、何の分離も、何の完成もない! これが私の信条である。不信者が私に向かって、もしキリスト教が真理だというなら、なぜ全世界が回心しないのか、と云ってきても、私は動揺したりしない。私は答える。物事が現在のようなありかたをしているうちに、そのような事が起こるとは、どこにも約束されていない、と。聖書が私に告げるところ、信仰者は常に少数であり続ける。----腐敗と分裂と異端は常にはびこり続け、私の主が地上にお戻りになるときには、主は多くの殻を見いだすであろう。

 キリストが来られるまでは、何の完成もない! 私は人々が、「国内にいるすべての人をまともなキリスト者にしてから、海外の異教国に宣教師を遣わすがいい」、と云っても心乱しはしない。私は答える。それまで待たなくてはならないとしたら、私は永遠に待つことになるであろう、と。私たちが国内ですべての手を打ち尽くしても、教会はまだ混合体であり続けるであろう。----それは一部は麦で、一部は殻のままであろう。

 しかし、キリストはもう一度やって来られる。遅かれ早かれ、目に見える教会は2つの集団に分離される。そこには麦だけの集団ができる。殻だけの集団ができる。1つの集団は全員が敬虔な人々であろう。もう1つの集団は全員が不敬虔な人々であろう。どちらの集団もそれぞれまとまって立ち、両者の間には、だれも渡ることのできない大きな淵があるであろう。何と幸いなことよ、その日に義人である者は! 彼らはきら星のように輝き、もはや雲によって霞まされることはないであろう。百合の花のように美しく、もはやいばらでふさがれることはないであろう(雅2:2)。何とみじめなことよ、そこで不敬虔な者は! 火花1つほども光を持たないその暗黒の何という暗さであろう! あゝ、主の民を敬い、賞賛するだけで十分ではない! あなた自身、彼らの一員とならなくてはならない。さもないと、いつの日か永遠に彼らから引き離されるであろう。多くの、実に多くの家庭において、ひとりは取られ、他のひとりは残されることになるであろう(ルカ17:34)。

 今この論考を読んでいる方々の中に、主イエス・キリストを真摯に愛している人がいるだろうか? もし私が少しでもキリスト者の心について知っているとしたら、あなたにとって最大の試練はこの世的な人々と入り混じることであろう。----あなたにとって最大の喜びは、聖徒たちと交わることであろう。しかり! あなたの霊が、身の回りの地上的な調子によって心くじかれ、打ちひしがれるように感ずる憂鬱な日々は何日も何日もあるであろう。----あなたがダビデのように、「ああ、哀れな私よ。メシェクに寄留し、ケダルの天幕で暮らすとは」、と云う日は幾度となくあるであろう(詩120:5)。だがしかし、あなたの魂が、神の愛しい子どもたちと会うことによって、さながら地上の天国ででもあるかのように清新にされ、活気づけられる時もあるであろう。私の言葉はあなたの実感ではないだろうか? 事実その通りではないだろうか? では、あなたがいかにキリストの再臨の時を待ちこがれるべきであるか見てとるがいい。いかに主が御国の到来を早めてくださるように日々祈り、日々彼に向かって、「主イエスよ、すぐに来てください」*(黙22:20)、と申し上げるべきか見てとるがいい。そのときに、そのときになって初めて、純粋で、混じりけのない教派が実現するであろう。そのときに、そのときになって初めて、聖徒たちは全員が1つ所に集まり、互いに離ればなれになることが二度となくなるであろう。もう少し待つがいい。もう少し待つがいい。あざけりも、侮りもすぐに失せ去るであろう。冷やかしも嘲笑もすぐに終わりを告げる。中傷や誤伝はすぐにやむ。あなたの救い主がやって来て、あなたの守ってきた節義を弁護してくださる。そしてそのとき、モーセがコラに云ったように、「主は、だれがご自分のものか……をお示しになる」*1(民16:5)。

 今この論考を読んでいる方々の中に、自分の心が神の前で正しくないことを知っている人がいるだろうか? キリストの現われを思うとき、いかにあなたが恐れ、身を震わせるべき理由があるか見てとるがいい。何と悲しむべきことよ、キリスト教徒の皮をかぶっただけのまま生き続け、死んでいくその人は! キリストがご自分の脱穀場をきよめなさるその日、あなたは正体が暴露されるであろう。あなたは教役者や友人や隣人を欺くことはできるかもしれない。----だがキリストを欺くことはできない。心を伴わないキリスト教の粉飾や上塗りは、決してその日の業火に持ちこたえられないであろう。主は全知の神であり、その主によって人の行為ははかられるのである。あなたは身をもって知るであろう。アカンやゲハジを見抜かれたお方が、あなたのもろもろの秘密を読みとり、あなたの秘め事を探りきわめておられたことを。あなたは、かの恐るべきことば、「あなたは、どうして礼服を着ないで、ここにはいって来たのですか」(マタ22:12)、を聞くであろう。おゝ、ふるい分けと分離のこの日を思って身震いするがいい! 確かに偽善ほど初めから負けの決まっている勝負はない。確かにこれは、ほんの一部分だけ行なえば済むことではない。確かにこれは、アナニヤとサッピラのように、神に何かを捧げたふりをしながら、自分の心を手元に置いておけば済むことではない。そうしたことはみな最後には破綻する。あなたの喜びはほんのつかのまのものである。あなたの希望は一場の夢にすぎない。おゝ、身震いするがいい、身震いするがいい。身震いして、悔い改めるがいい!

 III. 第三のこととして示したいのは、キリストがその脱穀場をきよめられるときキリストの民が受け取ることになる分け前である。

 この論考の冒頭に冠された聖句はそのことを良いことば、慰めのことばで告げている。そのことばによると、キリストは「麦を倉に納め」なさる。

 主イエスは、再臨するとき、信仰を有するご自分の民を安全な場所に集めてくださる。主はその御使いたちを遣わして、彼らを四方から集めなさる。海はその中にいる死者を出し、墓場もその中にいる死者を出し、生きている者らは変えられる。信仰によってキリストをとらえた者なら、いかにあわれな罪人であれ、その場に欠けることはない。邪悪な世界に審きがふりかかるとき、麦は一粒たりとも見失われたり外に残されたりしていることはない。地における麦のためには倉があり、その倉にすべての麦は入れられることになる。

 「主は、ご自分の民を愛し」、「義人のことを心配してくださる」*(詩149:4; Iペテ5:7)。そう考えることは、甘やかで慰めに満ちたことである。しかし、主がいかに彼らのことを心配しておられるかは、残念ながらほとんど知られておらず、おぼろげにしか悟られていないのではなかろうか。疑いもなく信仰者たちには試練があり、その数は多く、難儀なものである。肉体は弱い。この世は罠で満ちている。十字架は重い。道は狭い。ともに行く者たちは少ない。しかしそれでも彼らには、その目を開いて見定めさえするなら、強固な慰めがある。ハガルのように彼らには、往々にして見落とされはしても、荒野にあってさえ身近に泉がある。マリヤのように彼らには、えてして涙にかすんだ目にはとまらなくとも、イエスがかたわらに立っておられる(創21:19; ヨハ20:14)。

 しばし注意を向けていただきたい。これから私は、キリストがいかにご自分を信ずるあわれな罪人たちを気遣っておられるか、少しばかり告げてみたいと思う。何と嘆かわしいことか、そんなことをする必要があるとは! しかし私たちの生きている時代は、軟弱で及び腰の言明しかほとんど聞かされない時代である。生まれながらの状態がいかに危険なものであるかは、及び腰でしか暴露されていない。恵みの状態にいかに多くの特権が伴っているかは、及び腰でしか述べられていない。ためらい惑う魂への励ましは与えられることがない。弟子たちを堅く立たせ、確立させることはなされない。キリストから出た者が正しい警告を受けることはない。キリストにある者が正しく建て上げられることはない。ある人はまどろみ続け、良心を刺されることはめったにない。またある人は一生の間、地を這い、のろのろと歩を運び、決して完全には自分の相続分の豊かさを理解することがない。まことにこれは痛ましい病である。これを癒す助けになることであれば私は喜んで差し出したいと思う。まことに神の民が一度もピスガの山に登ることなく、一度も自分たちの所有すべき地の広大さを知ることがないというのは陰鬱なことである。キリストの兄弟となること、養子として神の子どもたちとなること、----十分にして完全な赦しと、聖霊による更新を得ること、----いのちの書に名を記され、天の偉大な大祭司の胸当てに名を刻まれること、----これらはみな、まことに栄えあることである。しかしそれでも、これらが信仰者の分け前のすべてというわけではない。それらは確かに上の泉ではあるが、そのそばにはまだ下の泉があるのである。

 (a) 主は、信仰を有するご自分の民を喜びとしてくださる。彼らは、自分自身の目には黒く映っても、主の目には美しく、輝かしい。彼らはみな麗しい。主は彼らに「何の汚れも」見ない(雅4:7)。彼らの弱点も短所も、主と彼らの絆を断ち切りはしない。主は、彼らの心の中をすべてご承知の上で彼らを選ばれたのである。彼らのあらゆる負債や、債務や、病弱さを完全に知っての上で、ご自分のものとなさったのである。ならば主は、決してご自分の契約を破って彼らを捨て去るようなことはなさらないであろう。彼らが倒れるとき、主は彼らを再び立ち上がらせてくださる。彼らがさまよい出るとき、主は彼らを立ち戻らせてくださる。彼らの祈りは、主にとって快い。父親は、わが子が初めて口にしようとするどもりながらの言葉を愛しむ。それと同じように主は、ご自分の民の貧しくかぼそい懇願を愛しなさる。主は彼らの願いをご自分の力強いとりなしによって裏書きし、それがいと高き所で効力を有するようにしてくださる。彼らの奉仕は、主にとって快い。父親は、わが子が初めて摘み取って来た雛菊を愛おしむ。それと全く同じように主は、ご自分の民が彼に仕えようとするか弱い試みを喜びとなさる。一杯の水すら報いにもれることはない。愛によって語られたほんの一言すらも忘れられることはない。聖霊はパウロに霊感を与えて、ノアの信仰についてヘブル人らに告げさせたが、ノアの泥酔については告げさせなかった。----ラハブの信仰については告げさせたが、彼女の嘘については告げさせなかった。神の麦であるとは幸いなことである!

 (b) 主は、信仰を有するご自分の民を、その人生において気遣ってくださる。ユダが居を構え、パウロが部屋を借りていた「まっすぐ」という名の通り、----ペテロが祈っていた海沿いの家、これらはみな彼らの主にはなじみの場所であった。信仰者たちほどの供回りを引き連れている者はない。----御使いたちが彼らの新生を喜ぶ。御使いたちが彼らに仕える。そして御使いが彼らの回りに陣を張っている。信仰者たちほどの食物を持つ者はない。----彼らにはパンが与えられ、水が確保され、世の全く知らない食物がある。信仰者たちほどの同伴者を持つ者はない。御霊が彼らとともに住んでおられる。御父と御子が彼らのもとに来て、彼らとともに住んでくださる(ヨハ14:23)。彼らの足どりはみな恵みから栄光へ至るように整えられている。彼らを迫害する者らはキリストご自身を迫害する者であり、彼らを傷つける者らは主のひとみを傷つける者である。彼らのいかなる試練も誘惑も、みな賢い天の意志によって量り与えられている。----彼らの杯には、彼らの魂の健康を害するような苦みは一滴も混ぜられていない。彼らの誘惑は、ヨブの遭ったそれのように、みな神の支配下にある。----サタンは主の許しなしには、彼らの髪の毛一本にさえ触れることができず、彼らが耐えきれる限度を越えては決して彼らを誘惑することができない。「父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる」。主は決して彼らをただ苦しめようとは思っておられない(詩103:13; 哀3:33)。主は彼らを正しい道に導かれる。彼らの真の益となるものは何1つ差し止めなさらない。何が起ころうと、そこには常に「必要物」がある。彼らが炉の中に入れられるとしたら、それは彼らがきよめられるためである。彼らが懲らしめられるとしたら、それは彼らがより聖くなるためである。彼らが刈り込まれるとしたら、それは彼らがより多くの実を結ぶようになるためである。彼らがある場所から別の場所へと植えかえられるとしたら、それは彼らがよりあざやかに花開かせるためである。すべてのことが常に相働いて彼らの益となっている。蜜蜂のように彼らは、どれほど苦い花々からも甘い蜜を吸い出すのである。

 (c) 主は、信仰を有するご自分の民を、その死において気遣ってくださる。彼らの時はみな主の御手の中にある。彼らの頭の毛さえも、みな数えられており、その一本でも、彼らの父のお許しなしに地に落ちることはない。彼らが地上にとどめられているのは彼らが熟して栄光にふさわしくなるまでのことであって、それより一瞬たりとも長くは引き延ばされない。彼らが大洋と雨を十分に受け、風と嵐を十分に受け、寒さと暑さを十分に受け、----穂が育ちきったとき、----そのとき、そのときになって初めて、鎌が入れられる。彼らはみな、その務めを果たし終えるまでは不死身である。主がそうお命じになるまでは、いかなる病も彼らの幕屋の止め釘をゆるめることはない。千人が彼らの右手に倒れても、主がよしとされるまで彼らに触れることのできる疫病はない。主がそうお命じになったとき、彼らを生かしておける医者はいない。彼らがその臨終の床につくときには、永遠の腕が彼らを抱きかかえ、病の床を全く整えてくださる[詩41:3 <英欽定訳>]。彼らが死ぬときには、モーセのように、「主の命令によって」、正しいときに、正しいしかたで死ぬ(申34:5)。そして息を引き取るとき、彼らはキリストにあって眠り、ラザロのように、たちまちアブラハムのふところに連れて行かれる。しかり! キリストの麦であるとは幸いなことである! 他の人々の日が沈んでいくときに、信仰者の日は昇っていく。他の人々がその誉れを打ち捨てていくときに、彼は自分の誉れを身につけていく。死は不信者の扉にかんぬきをかけ、彼を希望から閉め出す。しかし死は信仰者の前の扉を開き、彼をパラダイスに至らせるのである。

 (d) そして主は、信仰を有するご自分の民を、主の現われの恐ろしい日にも気遣ってくださるであろう。彼らの近くには燃える炎は降り注がない。御使いのかしらの声と、神のラッパの響きは、彼らの耳には何1つ恐怖すべきことを告げない。眠っていようと目覚めていようと、生きていようと死んでいようと、棺の中で朽ち果てていようと自分の持ち場で日々の務めに励んでいようと、----信仰者たちは安全で、動かされることがない。彼らは贖いが近づいたのを見るとき、喜びとともに頭を上げる。彼らは、一瞬のうちに変えられ、その美しい衣を着せられる。彼らは「一挙に引き上げられ、空中で主と会う」(Iテサ4:17)。イエスは、ご自分の民が全員安全になるまでは、罪に満ちた世界に何もなさらない。洪水が始まったとき、ノアには箱舟があった。火がソドムに降ったとき、ロトにはツォアルがあった。エルサレムが包囲されたとき、初代教会のキリスト者たちにはペラがあった。ローマカトリック教徒のメアリーが王位についたとき、英国の改革者たちにはチューリッヒがあった。そして最後の審判の日、地におけるすべての麦のためには1つの倉があるであろう。しかり! キリストの麦であるとは幸いなことである!

 私はしばしば、私たちの間に見られる、一部の信仰者たちのみじめな不信仰さをいぶかしく思う。これは、未回心の心のかたくなさに次ぐ世界最大の不思議の1つであると云いたい。不思議でならないのは、これほど力強い理由の数々によって確信が持てるはずの私たちが、まだこれほど疑いに満ちているということである。何にもまして驚くべきことは、キリストの民の最終的堅忍の教理を、どうして否定するようなことができるのか、ということである。彼らのために十字架の上で死ぬほど彼らを愛されたお方が、彼らを捨て去るようなことをすると、どうして考えられるのだろうか? 私にはそのようなことは思いもよらないことである。私は、主イエスがその群れの羊を一匹でも失うことがあるとは信じない。主は、ご自分のもとにいる病んだ小羊一匹さえも、サタンに奪い去らせはしない。ご自分の神秘的なからだの骨の一本すらも折らせはしない。ご自分の王冠から宝石一個すらも落とさせはしない。主と主の花嫁は、永遠の契約によってすでに結び合わされているのである。彼らは決して、決して引き離されはしない。地上の征服者たちのかちとった戦利品は、しばしば彼らからもぎとられ、持ち去られる。しかし私たちのために十字架の上で勝利なさったお方の戦利品については、決してそのようなことは云われない。彼は云う。「私の羊は決して滅びることがありません」*(ヨハ10:28)。私はこの聖句に立つ。どう見てもこれは、動かしがたい真理である。言葉になど何の意味もないと云うのでもない限り、ここでキリストの民の堅忍は教えられているのである。

 私はダビデが獅子の前足から小羊を救い出した後で、弱り傷ついたその小羊を荒野に放置して死なせたなどとは信じない。主イエスが悪魔の罠から魂を救い出したのは、弱りきったその魂に運試しをさせ、自力で罪と悪魔と世との格闘をさせるためだったなどとは信じられない。

 私は確信する。もしあなたが海難現場に居合わせたとして、ひとりの子どもが波にもまれ、なすすべもなく海底に沈んでいこうとしているのを目にして、いのちがけでその子を救い出したとしたら、----あなたは決してその子を無事に岸まで連れてくるだけでは満足しないに違いない。決してあなたは、陸地に着いたとたんにその子を下におろし、「もう私は何もすまい。この子は弱っている。----手足の感覚がない。----冷え切っている。だが、もはやどうでもいい。できるだけのことはしたのだ。----私はこの子を海から救い出した。この子は溺れはしなかった」、などと云いはしないであろう。そのようなことをするはずがない。そのようなことを云うはずがない。そんな仕打ちをその子にするはずがない。あなたはその子を両腕に抱きかかえ、手近な家に運び込むであろう。その子に暖かさと生気が戻ってくるまで努力するであろう。あらゆる手を尽くして健康と力を取り戻させようとするであろう。その子が確実に回復するとわかるまで、決してその子を放置しはしないであろう。

 ではあなたは、主イエス・キリストがそれよりも薄情で、それよりも冷淡であるなどと思えるだろうか? 彼がわざわざ十字架の上で苦しんで死んだのは、彼を信ずる信仰者たちが救われるかどうかを不確かなままにしておくためだなどということが考えられるだろうか? 彼は私たちのために死と地獄と格闘し、墓に下って行かれたというのに、私たちの永遠のいのちを、私たちの貧しくみじめな努力などという糸くず一本にぶらさげるなどということが考えられるだろうか?

 おゝ、否。彼はそんなことはしない! 彼は完全にして欠けのない救い主である。彼はご自分の愛する者たちを最後まで愛される。ご自分の血潮で洗った者たちを決して離れず、また、捨てない。彼はご自分への恐れを彼らの心に吹き込み、彼らが彼から離れて行かないようになさる。一度始めたみわざは、それを完成してくださる。彼は、ご自分の「閉じられた庭」に植えたものをみな、遅かれ早かれパラダイスに植え替えてくださる。彼は、ご自分の御霊によって生かした者たちをみな、ご自分がその御国にお入りになるとき、ご自分とともに連れて行くであろう。1つの倉が、この麦の一粒一粒のために備えられている。すべての麦がシオンで神の御前に現われることは間違いない。

 まがいものの恵みから人は落ちることがありえるし、それは最終的で、下劣な堕落となりえる。私も決してそのことを疑いはしない。その証拠は絶え間なく目にしている。だが真の恵みからは人は決して完全には落ちることがない。そのような者はひとりもいなかったし、今後もいないであろう。もし彼らがペテロのように罪を犯すなら、彼らは悔い改めて再起するはずである。もし彼らがダビデのように正しい道からそれるならば、彼らは引き戻されるはずである。彼らを背教から守るのは、彼ら自身の強さでも力でもない。彼らが保たれているのは、三位一体の力と愛と約束とがみな彼らに味方しているからである。父なる神の選びは実を結ばずにはおかない。子なる神のとりなしは効力を持たないはずがない。御霊なる神の愛はむだに働くはずがない。主は「聖徒たちの足を守られます」(Iサム2:9)。彼らはみな、彼らを愛してくださったお方によって、圧倒的な勝利者となるのである。彼らはみな勝利して、だれひとり永遠に死ぬことはない*2

 もしあなたがまだ十字架を負ってキリストの弟子となっていないとしたら、あなたは自分がどれほどの特権を取り逃がしているほとんどわかっていない。現世における神との平和と、来世における栄光、----途上であなたを保つ永遠の腕と、最後に待っている安全な倉、----これらがみな、無償で、何の代金も代価もなしに差し出されているのである。あなたは、キリスト者には患難があると云うかもしれない。----だがあなたは、彼らには慰めもあることを忘れている。あなたは、キリスト者には特有の悲しみがあると云うかもしれない。----だがあなたは、彼らには特有の喜びもあることを忘れている。あなたが見ているのは、キリスト者生活の半分でしかない。そのすべてを見てはいない。あなたには戦いが見える。----だが、食物と報いは見えていない。あなたにはキリスト教の表面的な動揺と争闘が見える。だが、その奥深くにある隠れた財宝は見えていない。エリシャのしもべのように、あなたには神の子どもたちを囲む敵軍は見えるが、エリシャのようには彼らを守る火の戦車と軍馬は見えていない。おゝ、うわべで判断してはならない! いのちの水のほんの一滴ですら、この世の川という川を寄せ集めたものよりも確実にまさっている。倉と王冠のことを覚えておくがいい。まだ間に合ううちに知恵を得るがいい。

 もしあなたが自分は弱い弟子であると感じているとしたら、弱いからといって、私が語ってきたような種々の特権のいずれからも締め出されると考えてはならない。弱い信仰は真実の信仰であり、弱い恵みは真実の恵みである。そしてその両方とも、決してご自分が与えたものを無駄になさらないお方からの賜物なのである。恐れてはならず、落胆してはならない。疑ってはならず、絶望してはならない。イエスは決して、「いたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない」(イザ42:3)。家にいる赤子は、年長の兄たちや姉たちと同じくらい愛され、思いやられるものである。庭にあるか弱い苗木は、よく育った木々と同じくらいまめに世話されるものである。群れのなかの小羊たちは、成長した羊たちと同じくらい注意深く、良い羊飼いによって番されるものである。おゝ、これはキリストの家においても、キリストの庭においても、キリストの群れにおいても、全く同じであると確信するがいい! すべての者が愛されている。すべての者が優しく思いやられている。すべての者が気遣われている。そしてすべての者が最後には彼の倉の中に見いだされることになる。

 IV. 最後に示したいのは、キリストの民でない者たち全員のために残されている分け前である。

 この論考の冒頭に冠された聖句は、このことについて私たちの耳を鳴らすような言葉で述べている。キリストは、「殻を消えない火で焼き尽くされます」。

 主イエス・キリストがご自分の脱穀場をきよめるために来られるとき、彼はご自分の弟子でない者たち全員を恐ろしい刑罰で罰される。悔い改めず、不信仰を続けるすべての者、----不義をもって真理をはばんでいるすべての者たち、----罪にしがみつき、世にすがりつき、地にあるものを思っているすべての者たち、----キリストから離れているすべての者たち、----こうしたすべての者たちは、すさまじい末路を迎えることになる。キリストは「殻を焼き尽くされます」。

 彼らの刑罰は、何にもまして厳しいものとなる。焼かれるほど激しい痛みはない。もしそれを疑うというなら、ちょっとでも蝋燭の火の中に指を突っ込んで試してみるがいい。火はあらゆる元素の中で最も破壊的で、最も貪婪なものである。溶鉱炉の口をのぞき込み、その中に入ったらどうなるか考えてみるがいい。火はあらゆる元素の中で最もいのちとは対極にあるものである。生き物は、気・地・水の三元素の中では生きていられるが、火の中では何物も生きられない。だが火こそ、キリストを持たない、不信仰を続ける者たちが受け取ることになる分け前なのである。キリストは「殻を火で焼き尽くされます」。

 彼らの刑罰は永遠のものとなる。何千万何百万もの時代が過ぎ去っても、その殻が投げ込まれた火はまだ燃え続けているであろう。その火は決して火勢を弱めることも、ほの暗くなることもない。その火の燃料は決して尽きることがなく、枯渇しない。それは「消えない火」である。

 あゝ、こうしたことは語るも悲しく痛ましい事がらである! 私はこうしたことを詳しく説明することに何の喜びも感じない。むしろ私は、こう書きつらねながら、使徒パウロとともにこう云ってもよいであろう。「私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります」(ロマ9:2)。しかしこれらが書かれたのは私たちが学ぶためであり、これらについて考察するのは良いことである。これらは、「すべて有益」である聖書の一部であり、これらは聞き知らなくてはならない。地獄という主題は痛ましいものではあるが、私が沈黙を守ってはいられないもの、沈黙することができないもの、沈黙することを許されないものなのである。神が語らなかったとしたら、だれが地獄の火についてなど語りたいと思うだろうか? だが神がそれをこれほど平易に語っておられる以上、だれが口をつぐんでいて無事で済むだろうか?

 私は1つの事実に対して眼を閉ざしてはいられない。すなわち、地獄という主題について、人々の精神には根深い不信心がひそんでいる、ということである。私にはそれが、一部の人々の全くの無感動さの中ににじみ出しているのが見える。彼らは、来たるべき御怒りなど何もないかのように食べたり、飲んだり、眠ったりしている。また私はそれが、一部の人々が隣人たちの魂に対して示す冷淡さからしみ出しているのが見える。彼らは火の中から燃えさしを取り出そうとする熱意をほとんど見せない。私は自分のありったけの力をかけても、こうし不信心を糾弾したいと思う。私は、「報いとして与えられるもの」だけでなく、「主を恐れること」をも信じている。それゆえ私は、聖書を信ずると告白するすべての人々に、ぜひとも警戒してほしいと願う。

 (a) 私は、ある人々が地獄などないと信じていることは承知している。彼らの考えでは、そのような場所がありえることなど不可能なのである。彼らは、それは神のあわれみと首尾一貫しないとみなす。それは、本当に真実であるには、あまりにもすさまじすぎる考えだと云う。もちろん悪魔はこうした人々の見解を喜んでいる。彼らは悪魔の王国に多大な助けを与えているのである。彼らが高らかに宣べ伝えているのは、悪魔のお気に入りの教義、「あなたがたは決して死にません」、にほかならない(創3:4)。

 (b) さらに私は、ある人々が地獄が永遠に続くとは信じていないことも承知している。彼らが私たちに告げるところ、あわれみに富む神が人間を永遠に罰するなどということは信じられないことなのである。神は最終的には牢獄の扉を開いてくださるに違いない。これもまた、悪魔のしわざを大いに助けるものである。彼は罪人たちに囁いている。「安心するがいい。たとえお前が間違っていたとしても、気にすることはない。地獄は永遠には続かないのだ」、と。ひとりのみだらな女が、ロンドンの通りで、その悪い道連れに向かってこう云っているのが聞かれたという。「さあさあ、何びくついてんのさ。牧師たちの中には、地獄なんてものはないって云う連中もいるのよ」。

 (c) また私は、ある人々が地獄があると信じてはいても、そこに落ちる者がひとりでもあるとは決して認めないことを承知している。彼らにとっては、いかなる人も死んだとたんに善良になる。----いかなる人も真摯であった。----いかなる人も殊勝なことをしていた。----そして、彼らの期待によれば、いかなる人も天国へ行き着いたのである。悲しいかな、これは何とよく見受けられる迷妄であろう! 私は、悪い人のお墓はどこにあるの、と母親に訊いた幼女の気持ちがよくわかる。「だって、どのお墓の石を見ても、善良なる、っていう人の名前しかないんだもの」。

 (d) そして私は、ある人々が地獄があると信じてはいても、それが口にされることを決して好まないことをよくよく承知している。これは、彼らの意見によると、決して取りざたしてはならない主題なのである。彼らはそれを表に出すことが百害あって一利なしと考え、それが言及されると衝撃を受けるように思える。これもまた、悪魔への大きな手助けである。サタンは云う。「シーッ、シーッ! 地獄のことなんて何も云うなよ」、と。野鳥を捕る者らは、その罠をかけているときに何の音も立てたくないと思うものである。狼は、囲いのまわりをうろつくときには、羊飼いが寝ていてほしいと願うであろう。悪魔はキリスト者たちが地獄について沈黙しているときに喜ぶのである。

 こうした考えはみな人間の意見である。しかし、信仰の問題について人間が何と考えるにせよ、それがあなたや私にとって何になるだろうか? 最後の審判の日には、人間が私たちを審くのではない。人間の幻想や伝統をこの人生における私たちの手引きとすべきではない。解決しなくてはならない点はただ1つである。「神のみことばは何と云っているだろうか?」

 (a) あなたは聖書を信じているだろうか? ならば、答えははっきりしている。地獄は現実にある、真実のものである。それは天国と同じくらい真実であり、----信仰による義認と同じくらい真実であり、----キリストが十字架の上で死んだ事実と同じくらい真実であり、----死海と同じくらい真実である。もし地獄を疑うのなら、まともに信じていられる事実や教理など何1つなくなる。地獄を信じないというなら、あなたは聖書の中のあらゆるもののたがをはずし、ぐらつかせ、骨抜きにするのである。それは、今すぐ聖書を投げ捨てるも同然である。「地獄などない」から、「神などいない」までは、ほんの数歩で足りる。

 (b) あなたは聖書を信じているだろうか? ならば、答えははっきりしている。地獄には、その住人があるであろう。よこしまな者たちは確かに地獄に落ち込むことになる。神を忘れたすべての者たちも同じである。「この人たちは永遠の刑罰にはい……るのです」(マタ25:46)。いま恵みの御座に座っておられるのと同じほむべき救い主が、いつの日か審きの御座につくであろう。そして人々は、「小羊の怒り」というものがあることを知るであろう(黙6:16)。今は、「来なさい。わたしのもとに来なさい!」、と云っておられるのと同じ唇が、いつの日か、「のろわれた者ども。わたしから離れて行け!」、と云うであろう。悲しいかな、キリストご自身から断罪され、救い主から審かれ、《小羊》によって禍いへの宣告を受けるとは、何と恐るべきことか!

 (c) あなたは聖書を信じているだろうか? ならば、答えははっきりしている。地獄は激しく、云いようもない災厄であろう。それに関するあらゆる表現はただの比喩にすぎない、などと云っても無駄である。穴も、牢獄も、虫も、火も、渇きも、暗黒も、暗闇も、泣くことも、歯がみすることも、第二の死も、----これらはみな比喩である、と云いたければ云うがいい。しかし聖書の比喩は、疑問の余地なく、何かを意味しているものであり、ここでそれらが意味している何かとは、人間の精神が決して完全には思い描けないようなものなのである。精神と良心の禍いは、肉体のそれよりもはるかに悪い。地獄の苦しみがいかほどのものであるか----その現在の苦しみと、過去の苦々しい追憶と、未来の望みなき見込みとを合わせたものがいかほどのものであるか----は、そこに落ちた者のほか決して完全に知ることができないであろう。

 (d) あなたは聖書を信じているだろうか? ならば、答えははっきりしている。地獄は永遠に続く。それが永遠に続くものでなければ、言葉には何の意味もないことになる。永遠に、----とこしえの、----消えない、----尽きることがない----、これらはみな、地獄について用いられている表現であり、決してうまく説明し去ることのできない表現である。地獄は永遠のものでなくてはならない。さもないと、天国の土台そのものが倒壊する。もし地獄に終わりがあるなら、天国にも終わりがあることになる。それらは両者ともに立つか倒れるかである。----地獄は永遠のものでなくてはならない。さもないと、福音のあらゆる教理があやふやになってしまう。もし人がキリストを信ずる信仰を持たなくとも最後には地獄から逃れられるというなら、罪はもはや無限の悪ではなく、キリストが贖罪をしなくてはならない大きな必要など何もなかったことになる。それに、地獄が心を替えさせ、それを天国にふさわしくすることができるなどと云えるような保証がどこにあるのだろうか?----地獄は永遠のものでなくてはならない。さもないと、地獄は何の地獄でもなくなってしまう。希望さえあれば、人は何事にも耐え忍べるものである。いかに遠くにあるものであれ、解放の希望さえあれば、地獄は一滴の水ためにすぎない。あゝ、これらは厳粛な事がらである! いみじくも、古のケアリルは云っている。「《永遠に》は、聖書の中でも最も厳粛な云い回しである」。悲しいかな、何の明日も訪れない日は!----人々が死を求めるが、どうしても見いだせず、死を願うが、死が彼らから逃げて行く日は! だれが焼き尽くす火に耐えられよう? だれがとこしえに燃える炉に耐えられよう?(黙9:6; イザ33:14)

 (e) あなたは聖書を信じているだろうか? ならば、答えははっきりしている。地獄は、隠しておいてよいような主題ではない。聖書の中の、地獄に関する多くの聖句に注目すると驚かされる。瞠目すべきことに、地獄についてだれよりも多く語っているのは、かの恵み深く、あわれみ深い救い主、私たちの主イエス・キリストであり、心に愛が満ちていたように思われる、かの使徒ヨハネなのである。まことに私たち教職者は、果たして地獄について語らなくてはならないほど多く語ってるかどうか、疑われてしかるべきであろう。私は、ニュートン氏の聴衆のひとりがその臨終に際して語った言葉を忘れることができない。「先生、先生はよくキリストと救いについて話してくれました。だが、どうして地獄と危険については、もっと何度も教えてくれなかったのですか?」

 他の人々は、そうしたければ地獄について口をつぐんでいるがいい。----私にはそんなことはできない。私はそれを聖書の中にはっきり見てとっており、それについて語らなくてはならない。おびただしい数の人々が、そこへと至るあの広い道を歩んでいるのではないかと私は恐れるものであり、ぜひとも彼らを覚醒させ、目の前にある危難を感じとらせたいと思う。隣人の家が今にも焼け落ちそうになっているのを見ていながら、「火事だ!」、という叫び声を全くあげないような人のことをあなたは何と云うだろうか? 自らを魂の見張り人と自称している私たち教職者が、遠くで燃えさかる地獄の火を見ていながら、一言も警告を発さないとしたら、何と云われるだろうか? 云いたければ、地獄について語るなど趣味が悪いとでも何とでも云うがいい。万事を当たり障りないこととし、耳障りの良いことだけ語り、絶え間なく平安の子守歌で人々を慰撫することを愛と呼ぶがいい。願わくは、そのような趣味や、そのような考えによる愛から、私が永遠に解放されるように! 私が考える愛とは、人々にその危険をはっきり警告することである。私が教役者としての職務において良い趣味と考えるのは、神のすべてのご計画を宣言することである。もし決して地獄について語ってこなかった教職者がいるとしたら、その人は、有益な何かを隠してきたと考えるべきである。自分を悪魔の共犯者とみなすべきである。

 私はこの論考を読むあらゆる方々に、心からの情愛をもって切に願う。私がここまで詳しく語ってきた主題についての、偽りの見解に警戒してほしい。地獄と、刑罰の永遠性とに関する新奇な種々の教理に用心するがいい。自分好みの神をでっちあげることに用心するがいい。----あわれみだけでしかなく、正義ではない神、----愛だけでしかなく、聖くはない神、----あらゆる人を天国に入れるが、だれをも地獄に入れようとはしない神、----現世においては善人と悪人が隣り合って住むことを許しており、永遠にあっても善人と悪人の間に何の区別も設けようとしない神、----そのような神は、ゼウスやモレクと同様、あなた自身から出た偶像である。----古代エジプトの神殿に安置された蛇や鰐の神々と同様、まぎれもない偶像である。----青銅や粘土によって造形されたいかなる偶像とも、全く変わることのない偶像である。あなた自身の空想と感傷の手がこの神を作り出したのである。これは聖書の神ではない。そして聖書の神以外にいかなる神も存在しない。あなたの天国は何の天国でもないであろう。ありとあらゆる種類の人格が、見境なく入り乱れているような天国は、実に惨めな混沌であろう。何と悲しいことよ、そのような天国で過ごす永遠は! それと地獄との間にはほとんど何の違いもないであろう。地獄は存在する! 殻を焼くための火は存在する! それを身をもって知ることにならないように注意するがいい。手遅れになってから、ほぞをかまないようにするがいい。

 書かれたことを越えて賢くならないように用心することである。自分だけの空想的な理論を編み出して、聖書をそれに一致させようなどとしないように用心するがいい。自分の趣味に合うような文句ばかり聖書から抜き出さないように用心するがいい。----甘やかされた子のように、口に苦く感じられるものは絶対に受けつけないこと、----甘やかされた子のように、口に甘く感じられるものは何でもひっつかむこと、これらはみな、エホヤキムの小刀を手に取ることでなくて何であろうか?(エレ36:23) これは、貧しく、短命な虫けらにすぎないあなたが、神に向かって、「私の方が、お前よりも自分にとって何が良いことか知っているのだ」、とこう告げることにならずにすむだろうか? そのようなことがあってはならない。絶対にあってはならない。あなたは聖書をそのまま受けとらなくてはならない。あなたはそれを全部読み、全部信じなくてはならない。聖書を読むときには、小さな子どものような霊で近づかなくてはならない。「私はこの節は信じよう。気に入っているから。この節は信じないことにしよう。気にくわないから。この節は受け入れよう。これなら理解できるから。この節は退けよう。これは私の見解と調和できないから」、などと云うようなことがあってはならない。否、おゝ、人よ、「神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか」(ロマ9:20)。何の権利があってあなたはそのような口をきいているのか? 確かに、いやまさる道は、みことばのいかなる章を読むときにも、「主よ。お話しください。しもべは聞いております」、と云うことである。----もし人々がそうしようとしさえするなら、彼らは決して地獄を、殻を、火を否定しようなどとはするまい。

 さて今、しめくくりとして4つのことを云わせていただきたい。それで私は終わりとする。私は人類が大きく2つの種別----麦と殻----に分かれることを示してきた。----いつの日か行なわれることになる分離について示してきた。----主の民の安全について示してきた。----キリストから離れた、不信仰を続ける者たちの受ける恐ろしい分け前について示してきた。----私はこうした事がらを、この論考を読むすべての方々の良心に、神の御前であるかのように差し出したいと思う。

 (1) まず最初に、私が語ってきた事がらは、すべて現実であり真実である、と心に銘記するがいい。

 私が心から信ずるところ、多くの人々は決してこの光に照らしてはキリスト教信仰の種々の偉大な真理を見てとってはいない。私の堅く信ずるところ、多くの人々は決して教職者から聞かされることを現実のこととして聞くことはない。彼らはそれを、ガリオのように、「ことばや名称」に関する問題としかみなさない。彼らにとってそれは、巨大な幻影、----型にはまった狂言、----途方もないでっちあげなのである。一番最近に読んだ小説や、フランスやインドやオーストラリアやトルコやニューヨークから届いた最新の便り、----これらなら彼らはみな現実のことと受けとる。彼らはこうしたことについて興味をかき立てられ、関心をそそられる。しかし聖書と天国、キリストの御国と最後の審判の日、----こうした主題は、彼らを全く感動させない。彼らはこうしたことを本当には信じていないのである。たとえニネベを発掘したレアードが旧約聖書の真理と権威を台無しにするようなものを何か掘り当てていたとしても、それは彼らの平安を片時も妨げはしないであろう。

 もし不幸にしてあなたがこのような心持ちに陥っているとしたら、私はあなたに、そうしたものを永遠に打ち捨てるように命ずる。あなたに聞くつもりがあろうがなかろうが、目を醒まして、私があなたの前に持ち出した事がらは、現実で真実なものであるとの徹底的な確信をいだくがいい。麦と、殻と、分離と、倉と、火、----これらはみな大いなる現実である。----天空の太陽と同じくらい現実である。----今あなたが目を注いでいるこの紙と同じくらい現実である。私としては、天国があると信じ、地獄があると信じている。来たるべき審きがあると信じている。ふるい分けの日があると信じている。そのように云うことを私は恥とはしない。私はそれらをみな信じており、それゆえこのように書いているのである。おゝ、友人としての助言を受けてほしい。----こうした事がらが真実であるような生き方をすることである。

 (2) 第二のこととして、私の書いてきた事がらは、あなた自身に関わることである、と心に銘記するがいい。これらはあなたの問題であり、あなたにとって何よりも重大な関心事である。

 私の確信するところ、多くの人々は決してキリスト教信仰を自分自身に関わることであるとみなそうとしない。彼らも、上品で礼儀にかなった習慣としてキリスト教の外面的な部分に従うことに異存はない。彼らは説教を聞く。信仰的な書物を読む。わが子には洗礼を施す。しかし、その間ずっと彼らは決してこう自問してみようとしない。「これらはみな、私にとってはどういう意味があるのか?」、と。彼らは、劇場にやって来た観客か、法廷にやって来た傍聴人のように、私たちの教会に座っている。彼らは私たちの書物を、興味深い公判記録か、遠い異国の出来事の報告書を読むように読んでいる。しかし彼らは決して自らにこう云うことがない。「私がこの人なのだ」、と。

 もしあなたがこの種の感情をいだいているとしたら、請け合ってもいいが、それは何の役にも立たない。もしあなたが救われたいと思うのなら、こうしたことすべては終わりを告げなくてはならない。この論考を読んでいるあなたがいかなる人であれ、あなたに向かって私は書いている。私は特に金持ちを相手に書いているのではいない。特に貧乏人を相手に書いているのでもない。私は、身分のいかんにかかわらず、読もうとする気持ちのあるすべての人に向かって書いている。私は、他ならぬあなたの魂のために懇願している。あなたのことが、この論考の冒頭に冠された聖句では語られているのである。あなたはきょうのこの日、「麦」であるか、「殻」であるか、2つに1つである。いつの日かあなたが受け取る分け前は、倉か火のどちらかである。おゝ、願わくは人々が知恵を得て、こうした事がらを心に刻みつけるように! おゝ、願わくは彼らがいいかげんに考えることも、あだな考えを玩ぶことも、ぐずつくことも、どっちつかずのキリスト者として生き続けることも、殊勝なことを云うだけで決して思い切った行動をとらないことも、そして最後に目覚めたとき手遅れになっているということのないように!

 (3) 第三のこととして、もしあなたが地における麦のひとりになることを望むなら、主イエス・キリストはあなたを喜んで受け入れてくださる、と心に銘記するがいい。

 イエスがご自分の倉の満たされるのを見たがっていないなどと思うような人がいるだろうか? あなたは彼が、多くの子たちを栄光に導くことを願っていないなどと考えているのだろうか? おゝ、だがもしそのように考えられるとしたら、あなたは彼のあわれみと思いやりの深さをほとんどわかっていない! 彼は、不信仰に沈むエルサレムを見下ろして涙を流された。今も彼は、現代の悔悟しない、無思慮な人々を見下ろして嘆き悲しんでおられる。私の口を通して、今まさに彼は、あなたを招待しておられる。聞いて生きよ、と招いておられる。わきまえのないことを捨てて、悟りのある道をまっすぐ歩め、と云っておられる。「わたしは誓って言う」、と仰っておられる。「わたしは、だれが死ぬのも喜ばない。悔い改めよ。立ち返れ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか」(エゼ18:32; 33:11)。

 おゝ、もしあなたが今まで一度もいのちを求めてキリストのもとに来たことがなかったなら、きょうのこの日、彼のもとに行くがいい! あわれみと恵みを求める悔悟者の祈りをもって、みもとに行くがいい! 遅れずみもとに行くがいい。この論考の主題がまだ頭の中で新鮮なうちに行くがいい。次の日の出を迎える前に彼のもとに行き、明日の朝には新しく造られた者となっているがいい。

 もしあなたがこの世と、この世の物事----その快楽とその報酬----その愚かさとそのもろもろの罪----をわが物にしようと心を決めているとしたら、また、是が非でも自分の思い通りにしたいと考え、キリストや自分の魂のためには何1つ犠牲にすることはできないというのであれば、----もしこれがあなたの立場だとしたら、あなたの迎える末路は1つしかない。私ははっきりあなたに警告しておく。----あからさまにあなたに告げておく。----あなたは、遅かれ早かれ消えない火に落ち込むであろう。

 しかしもしだれかが救われたいと願っているなら、主イエス・キリストはいつでもその人を救おうと待っておられる。「疲れた魂よ」、と主は云っておられる。「わたしのところに来なさい。わたしがあなたを休ませてあげよう。咎と罪に満ちた魂よ、来なさい。わたしがあなたに無代価の赦しを与えてあげよう。失われ、滅びつつある魂よ、来なさい。わたしがあなたに永遠のいのちを与えてあげよう」、と(マタ11:28)。

 この箇所を励ましの言葉とするがいい。立って、主に願うがいい。神の御使いたちを、もう1つ魂が救われたと喜ばせるがいい。失われていたもう一頭の羊が見いだされたという喜ばしい知らせを天の宮廷に聞かせてやるがいい。

 (4) 最後のこととして、もしあなたが自分の魂をキリストにゆだねたなら、キリストは決してその魂が滅びることを許さない、と心に銘記するがいい。

 永遠の腕があなたを抱きかかえている。その腕によりかかり、自分がいかに安全であるか知るがいい。十字架に釘づけられたのと同じ御手があなたを支えている。天と地を作り出したのと同じ知恵が、あなたの救いを保つために用いられている。十二部族を奴隷の家から贖い出したのと同じ力が、あなたに味方している。エジプトからカナンに至るまでイスラエルを背負い、抱いて行かれたのと同じ愛が、あなたを守ると誓っている。しかり! キリストがお守りになる者たちほど無事な者はない! 私たちの信仰は、キリストの全能という寝床に横たわって、安らぐことができる。

 疑いを感じている信仰者は慰めを得るがいい。なぜあなたは絶望しているのか? イエスの愛は、決して夏枯れの泉のようなものではない。いかなる人もそれが干上がったのを見たことはない。イエスの同情はこれまで一度も火勢を弱めたことのない火である。その火の中に、冷たい薄墨色の灰が見られたことは一度もない。慰めを得るがいい。あなたは自分の心の中に喜びの種をほとんど見いだせないかもしれない。しかし、あなたは常に主にあって喜べるのである。

 あなたは、自分の信仰はこんなにも小さいのだ、と云う。しかし、大きな信仰を持っていなければ、だれも救われない、などとどこに書いてあるだろうか? そして結局のところ、「どんな信仰にせよ、そもそもだれがそれをあなたに与えたのだろうか?」 あなたが何らかの信仰を有していること自体、良いしるしである。

 あなたは、自分の罪はこんなにも多いのだ、と云う。しかし、イエスの血潮が洗い流せないような罪が、罪の山が、どこにあるだろうか? そして結局のところ、「どんな罪にせよ、そもそもだれがあなたに罪があると教えたのだろうか?」 その感覚は決してあなた自身から出たものではない。まことに幸いなことよ、わが子が罪人であることを本当に知り、また実感している母親の子どもは。

 もう一度云う。もしあなたが本当にキリストのもとに来ているとしたら、慰めを得るがいい。慰めを得て、自分の種々の特権を知るがいい。あらゆる心労をイエスの上に投げかけるがいい。あらゆる欠けをイエスに告げるがいい。あらゆる重荷をイエスの上に載せるがいい。もろもろの罪を、----不信仰を、----疑いを、----恐れを、----不安を、----これらをみなキリストの上に積み上げるがいい。彼はあなたがそうすることをことのほか喜んでくださる。彼はあなたの大祭司としての務めを喜んで果たそうとなさる。あなたから信頼されることをことのほか喜んでくださる。ご自分の民がその重荷を自分で運ぼうとする無駄な努力をやめるのを見ることを、ことのほか喜んでくださる。

 こうした事がらを私は、この本を手にとるであろうあらゆる方の前に差し出すものである。今キリストの「麦」たる者のひとりになりさえするなら、来世で、かの分離が行なわれる大いなる日にもあなたは、聖書が確実に真理であるのと同じくらい確実に、キリストの「倉」に納められているであろう。

大いなる分離[了]

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*1 「これは確かである。----選民がみな回心に至ったとき、そのときにキリストは審きのためにやって来るであろう。端艇を漕ぐ者が、乗客が全員座席につくまでは櫂を持つ手を休め、全員の乗船を待って漕ぎ出すのと同じく、キリストも選民が全員集められるのを待っておられ、その後で、急速に審きへと乗り出しなさるのである」。----トマス・ワトソン、1660年。[本文に戻る]

*2 「永遠にわたって幸いなことよ、母の信仰によって神の子どもとされたその子は。地は揺れ動き、世の柱は足元で震え、天の様相は一変し、太陽はその光を失い、月はその美しさを失い、星々はその栄光を失うかもしれない。だが神に信頼する者については、----この世の何がその心を変えさせ、その信仰をくつがえし、神の対するその愛情を変じさせ、あるいは彼に対する神の愛情を変じさせるだろうか?」----リチャード・フッカー、1585年。[本文に戻る]

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