The Great Gathering           目次 | BACK | NEXT

19. 大いなる集まり


「さて兄弟たちよ。私たちの主イエス・キリストが再び来られることと、私たちが主のみもとに集められることに関して、あなたがたにお願いすることがあります」。----IIテサ2:1

 このページに冠されている聖句には、並々ならぬ注意に値する表現が含まれている。その表現とは、----「私たちが……集められること」、である。

 「私たちが……集められること」! この三文節の言葉は、世界のあらゆる場所に住む人々の心の琴線に触れるに違いない。人間は生来社会的な存在であり、ひとりきりになるのを好まない。地上のどこに赴こうと、人々は普通、ともに集まり、互いの顔を見ることを好むものである。「ともに集まる」ことを好まないアダムの子らがいるとしたら、それは例外であって一般的規則ではない。

 たとえばクリスマスは、英国の人々が特に「ともに集まる」時期である。この季節には、家族の寄り集まりがほとんど国民行事のように行なわれる。都会でも農村でも、富者の間でも貧者の間でも、王宮から救貧院に至るまで、クリスマスにはどこでも御馳走や、宴会が付き物である。12箇月のうち、この時しか友人たちの顔を見る機会がないという人も多い。息子たちはロンドンの職場からほんの僅かな休日をむしりとっては、両親の顔を見に駆けつけてくる。兄弟たちは、休暇を取っては仕事机から離れ、自分の姉妹たちと一週間ともに過ごしにやって来る。友たちは数年越しの招待をようやく受け入れ、何とかやりくりをつけては互いの家庭を訪問する。少年たちは学校から一目散に帰省しては、実家の暖かさと安らぎに満足げにひたりこむ。商売は、ほんの一時ぴたりとやむ。物憂げに絶え間なく回り続ける労働という車輪は、ほんの数時間、ほとんど止まったかのようになる。つまり、南はワイト島から北はベリッカポンツイードまで、また、西はランズエンド岬から東はノース岬まで、そこには「ともに集まる」という精神が行き渡るのである。

 幸いなことよ、物事がこのような状態になる国は! 願わくは、こうしたことが英国でいつまでも続き、決してなくなることがないように! クリスマスの集まりをあざ笑うような人生観の、何と貧しく薄っぺらなことか。そうした集まりに眉をしかめ、それを悪し様に非難するようなキリスト教信仰の何と冷たく、むごいものであることか。家族愛は、秩序立った社会の根底に存在するものである。それは、堕落の後も存続したごく僅かな良きものの1つであり、人々を単なる悪鬼にならないようにしてくれているものの1つである。それは私たちの社会体制の主軸機構を円滑に動かしている秘密の潤滑油であり、それなしには、いかなる蒸気や火も何に役にも立たない。家族愛と兄弟愛とを保たせ続けるようなものは何であれ、一国にとって積極的な善である。願わくは、いかなる家族の集まりも、いかなる寄り集まりも行なわれないようなクリスマスの日が、決して英国に訪れることがないように!

 しかし地上における集まりには、やはり悲しく嘆かわしいものが伴っている。いかに楽しい祝宴にも、時として、反りの合わない人が混じっている。どれほど陽気な集まりも、ごく僅かな間しか続かない。さらに、年を重ねるごとに、死の手が家族の輪に痛ましい間隙を残していく。クリスマスの浮かれ気分のただ中にあっても、私たちはすでに世を去った人々のことを思い出さずにはいられない。長生きすればするほど私たちは、自分が孤立していることを感ずるようになる。祝祭の歓楽と笑いのただ中にあってさえ、懐かしい人々の顔が脳裏に現われ、懐かしい声が聞こえてくる。人々はあまりそうしたことを口に出して語ったりはしない。だが、そうしたことを感じない人はめったにいない。むろん、自分が心中深く秘めた思いを他人に押しつける必要はないし、身の回りのすべての人が明るく楽しそうにしているときはなおさらそうである。しかし私は、中年に達した人の中で、正直なところクリスマスの祝宴に何かしら悲しいものが分かちがたく混じり合っているのを認めない人は、そう多くないのではないかと思う。つまり地上の「集まり」には、混じりけなしの楽しさはないのである。

 しかし、それよりも良い「集まり」はもうやって来ないのだろうか? クリスマスの祝宴や新年会の集まりがはるかに霞むような集まり、----悲しみを伴わない喜びと、涙を伴わない歓喜をもたらすような輝かしい集まりは、私たちの見通す先には何も待ち受けていないのだろうか? 神に感謝すべきことに、私はこうした問いに平易な答えを返すことができる。私は読者の方々に、ほんのしばらく注意を傾けてほしい。すぐに私はそれがどういうことか示すであろう。

 I. やがて真のキリスト者たちには、1つの「ともに集まる」ときが訪れる。それはいかなるもので、いつ行なわれるのだろうか?

 私が語っている集まりは、この世の終わりにあたって、キリストが再び地上に戻って来るときに行なわれる。キリストは、最初に来たのと同じくらい確実に再びやって来る。天の雲に包まれて彼は去っていったが、天の雲に包まれて彼は戻ってくる。目に見える形で、からだを伴って去っていったように、目に見える形で、からだを伴って戻ってくる。そして、キリストが真っ先になさることは、ご自分の民を「集める」ことである。「人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます」(マタ24:31)。

 この「集まり」の方法については、聖書で平易に啓示されている。死んでいた聖徒たちはみなよみがえり、生きている聖徒たちはみな変えられるのである。こう書かれている。「海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した」。----「キリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです」。----「私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです」(黙20:13: Iテサ4:16、17; Iコリ15:51、52)。そしてその、キリストに属するあらゆる者がひとりも取り残されずに見いだされ、魂と肉体という古なじみの相棒同士が再び結び合わされるとき、そのときこそが、この壮大な「集まり」なのである。

 この「集まり」の目的も、その方法と同じくらい明確に聖書で啓示されている。それは部分的にはキリストの民に最終的な報いを与えるためである。彼らが、あらゆる咎から完全に義と認められていることを全被造世界に向かって宣言し、彼らに「しぼむことのない栄光の冠」と「世の初めから備えられた御国」を受け取らせ、そのようにして彼らを、その主の喜びに公に入れさせるのである。----またこれは、部分的にはキリストの民を守るためである。神の審きの嵐が悪者の上に臨む前に、箱舟の中におけるノアや、ツォアルにおけるロトのように、彼らが隠され、おおわれるためである。主の敵たちの上に最後の災害がふりかかるときにも主の民が、エリコ陥落の際のラハブの一家のように、指一本触れられることなく、炉に投げ込まれたあの三人の少年のように、全く無傷でいられるようにするためである。そこにいかに恐ろしげなしるしが伴おうと、聖徒がこの集まりの日を恐れる理由は何1つない。万物の最終的な破壊が始まる前に、彼らはいと高き方の隠れ場にかくまわれるであろう。この壮大な集まりは、彼らの安全と報いのためである。「恐れてはいけません」、と刈り取る御使いたちは云うであろう。「あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています」。----「さあ、わが民よ」、と彼らの主人は云うであろう。「あなたの部屋にはいり、うしろの戸を閉じよ。憤りの過ぎるまで、ほんのしばらく、身を隠せ」(マタ28:5; イザ26:20)。

 (a) この集まりは大いなるものとなるであろう。この世に生を受けた神の子らはみな、最初の聖徒であるアベルに始まり私たちの主が来られる当日に生まれた最後の聖徒に至るまで、----あらゆる時代、国民、教会、民族、国語に属するすべての者、----、そのすべてが一堂に集められるのである。ただのひとりも見落とされたり、忘れられたりすることはない。いかに弱くたよりない者も置き去りにはされない。今の「散らされている」状態にある真のキリスト者たちは小さな群れに見えるが、「集められた」そのときの彼らは、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆であることがわかるであろう。

 (b) この集まりは驚くべきものとなるであろう。生きている間は全く会うことなく、会ったとしても相手の言葉が全く理解できなかっただろうような、遠い国々に住んでいた聖徒たちがみな、ともに集められ、1つのむつまじい集団になるのである。オーストラリアの住人は、英国の住人に全く劣らず、天国の近くにいること、すぐに行き着けることがわかるであろう。五千年前に死んで、遺骨すらとうに風化してしまった信仰者たちは、あのラッパが鳴り響くときに生きている者たちに全く同じくらい素早く、自分のからだがよみがえらされ、新しくされることがわかるであろう。何にもまして、恵みの奇蹟が明らかにされるであろう。私たちが天国で見いだす人々の中には、それまで救われたなどとは全く思ってもいなかった人々がいるであろう。ことばの混乱はとうとう打ち止めとになり、跡形もなくなるであろう。集められた大群衆は、1つの心、1つの言語によって叫ぶであろう。「いかなることを神はなされたことか!」、と(民23:23 <英欽定訳>)。

 (c) この集まりは心へりくだらされるものとなるであろう。これは、偏狭さや心の狭さに永遠に終止符を打つであろう。ある教派のキリスト者たちは、自分が別の教派のキリスト者たちと相並んでいることに気づくであろう。もし彼らが、地上では相手を許容しようとしていなかったとしても、天国では許容せざるをえなくなるであろう。今は全く祈りや礼拝をともにしようとしない国教徒と非国教徒は、来世では、未来永劫にわたってともに賛美しなくてはならないことを知って恥をかくであろう。自分たちの礼典に私たちを受け入れようとせず、その聖餐式から私たちを閉め出している、まさにその人々が、私たちの主人の目の前で私たちを認めて、私たちを隣に座らせざるをえなくなるであろう。これほど完全に、宗派心や党派心、兄弟らしからぬ態度、宗教的ねたみ、信仰的高慢が打ち捨てられることは空前絶後のことであろう。私たちはついに、完全に「謙遜を身に着け」ることになるであろう(Iペテ5:5)。

 この素晴らしく、驚くべき「集まり」は、人々がしばしば思いを馳せなくてはならない集まりである。それは熟考に値し、当然注意を払われてしかるべきものである。他の種類の集まりのことは、絶え間なく私たちの精神を占めている。政治集会や、学会や、楽しみのための集まりや、金儲けのための集まりは、常に私たちの思いの中にある。しかし、いつの日か、それもまもなく、私たちは、こうした種類の集まりのことをきれいさっぱり忘れ果ててしまうであろう。1つの思いだけが、人々の精神を独占することになるであろう。その思いとは、「果たして私はキリストの民とともに集められ、安全と栄誉を楽しめる場所へ行けるのか、それとも後に残されて永遠の災いに至るのか?」、ということである。《後に残されないように用心しようではないか。》

 II. なぜこの、真のキリスト者たちの「集まり」は望ましいものなのか? この問いに対する答えを見つけてみよう。

 明らかに聖パウロは、最後の日のこの集まりのことを、キリスト者が常に念頭においておかなくてはならない、心わき立たせる対象であると考えていた。彼はそれを私たちの主の再臨と同格のものとしている。その再臨のことを彼は別の箇所では、信仰者たちが慕いつつ待ち望むべきものであると云っているのである。彼は、遠い地平線の彼方に見えるこの集まりを、かの「来たるべきすばらしい事がら」の1つとして高く掲げ、この狭い道を歩むあらゆる旅人の信仰を鼓舞するものとしている。あたかも彼はこう云っているかのようである。すなわち、神のしもべたちはみな、ただ単に安息と、御国と、冠を得るようになるだけでなく、それとともに、幸いな「集まり」を得るようになるのだ、と。さて、この集まりの独特な祝福はどこにあるのだろうか? なぜこれを私たちは喜びをもって待ち望み、楽しく期待しなくてはならないのだろうか? それを考えてみよう。

 (1) 第一のこととして、このあらゆる真のキリスト者たちの「集まり」は、彼らの現在の状況とは全く似ても似つかない状態となるであろう。四方に散らされていて、まとまりがないという状態は、今の人間存在にとって不変のあり方のように思われる。毎年この世に生を受ける、何百万もの人々全員のうち、死ぬまでともにい続けるような者たちの、いかにまれなことか! 同じ屋根の下で産声をあげ、同じ炉端で遊んだ子どもたちも、長ずれば確実に離ればなれになり、互いからはるかに隔たった場所で息を引き取るのが常である。----同じ原則は神の民にもあてはまる。彼らは塩のように、ある者はこちら、ある者はあちらと散らされており、長々と寄り添っていることは決して許されない。疑いもなく、そのような状態はこの世にとって良いことである。火の灯された燭台という燭台が、ただ一室の中でひしめきあっているような町は、非常な闇の中に沈むであろう。----しかし、世のために良いことであるとはいえ、それは信仰者たちにとっては決して小さな試練ではない。彼らは長い間、わびしさと孤独を感じ続ける。自分の兄弟たちとももう少し交わりを持ちたい、もう少し主を愛する人々と仲間づきあいをしたい、とずっと願い続ける! よろしい。彼らは希望と慰めをもって待ち望んでいてよい。来たるべき時に彼らは、いかなる仲間にも欠けがなくなる。彼らは頭を高く上げ、喜ぶがいい。彼らはやがて「ともに集まる」ことになるであろう。

 (2) 別のこととして、真のキリスト者たち全員のこの集まりは、全く心を1つにした集団であろう。今はそのような集団はどこにもない。玉石混淆、偽善、まがいものの告白が至る所に忍び込んでいる。麦がある所には必ず毒麦がある。良い魚がある所には必ず悪い魚がある。賢い娘たちがいる所には必ず愚かな娘たちがいる。今は完璧な教会などどこにもない。あらゆる聖餐式の場にはイスカリオテのユダのような者があり、あらゆる使徒的な交わりの中にはデマスのような者がある。また、あらゆる「神の子ら」の集まりには、サタンも確実にその中に見受けられる(ヨブ1:6)。しかし、これらはみな、いつの日か終わりを告げることになる。私たちの主は、最後には御父に完璧な教会を差し上げることになる。それは「しみや、しわや、そのようなものの何一つない」教会である(エペ5:27)。そのような教会の何と輝かしいことであろう! 現時点では、六、七人のキリスト者が互いに寄り集まることさえ、一年を通してもまれな出来事であり、真冬の中の晴天のように人を元気づけるものである。それによって人は、あのエマオへ向かっていた弟子達が感じたのと同じように、心がうちに燃えるのを感ずる。しかし、「だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆」が集うそのときは、どれほどいやまさって喜ばしいものとなることであろう! また、私たちの相会うすべての人々が、ついに意見を1つにし、判断を同じくし、全く一致した見解を持っているとわかること、----私たちのあらゆる惨めな論争が永遠に葬り去られ、もはやカルヴァン主義者はアルミニウス主義者を憎むことなく、アルミニウス主義者はカルヴァン主義者を憎むことなく、もはや国教徒は非国教徒と争うことなく、非国教徒は国教徒と争うことがないのを見いだすこと、----軋轢や、口論や、不和の全くないキリスト者たちの仲間に加わること、----あらゆる人の恵みが完全に開花し、あるゆる人がそのからみつく罪を、春の日の山毛欅の葉のように払い落としていること、----こうしたことがみな、現実に到来するのである! 聖パウロがこれを私たちに待ち望むように命じているのも不思議ではない。

 (3) もう1つのこととして、真のキリスト者の集まりはひとりも欠けることのない集まりとなる。いかにか弱い、小羊も荒野に取り残されることはない。産声をあげたことのある赤子のうち、いかに幼い者らも、見落とされたり忘れられたりすることはない。私たちは、かつてキリストにあって眠りにつた、私たちを悲しみと涙の中に残していった愛する友や親族ともう一度会うことになる。----しかも彼らは、私たちがかつて地上で知っていたときよりもはるかに好ましく、輝かしく、美しく、愛すべき人々となっている。私たちは、私たちに先んじて信仰の戦いを勇敢に戦ってきた、世の初めから終わりにわたる、すべての神の聖徒たちと交わりを持つことになる。族長たちや預言者たち、使徒たちや教父たち、殉教者たちや宣教師たち、改革者たちやピューリタンたち、神の選民の全集団がそこに会することになる。もし彼らの言葉や業績を読むことを心楽しんできたしたら、彼らを目の当たりにすることは、いかにはるかに心楽しいことであろう! もし彼らについて聞くこと、彼らの模範によって奮い立たされることが有益であったとしたら、彼らと言葉を交わし、彼らに向かって問いを発することは、いかにはるかに喜ばしいことであろう! アブラハム、イサク、ヤコブとともに座し、彼らがいかにして聖書もなしに信仰を守り通したかを聞き、----モーセやサムエル、ダビデ、イザヤ、ダニエルと会話して、彼らがいかにしてまだ来ぬキリストを信ずることができたかを聞き、----ペテロやパウロ、またラザロやマリヤ、マルタと会話して、彼らの主人が彼らのためになしてくださったみわざの驚くべき物語に耳を傾ける、----これらはみな、まさしく甘やかなことであろう! 聖パウロがこれを私たちに待ち望むよう命じているのも不思議ではない。

 (4) 最後のこととして、すべての真のキリスト者たちの集まりは別れのない集会となる。今はそのような集会は1つもない。私たちの生活は、見るからに常に目まぐるしく急かされつつあり、少し腰を下ろして一息ついたかと思うと、もう立ち上がって出かけなくてはならない。「こんにちは」、を云ったそばから、「さようなら」、を云わなくてはならない。この世の心遣いや、人生に欠くべからざる種々の責務、私たちそれぞれが負っている様々な持ち場や職業の務め、----見たところ、こうした事がらすべてによって、私たちの日常は食いつぶされ、神の民とゆったり静かに交わりを持つことなど不可能になっている。しかし、神はほむべきかな、それは永遠に続くわけではない。やがて時が来れば、それもほどなくして、「さようなら」や「さらば」が永遠に脇へやられ、葬り去られることになる。この古いものの過ぎ去った世で私たちが相会うとき、すなわち、もはや何の罪も何の悲しみもなく、----何の肉体の働きも頭脳の働きもなく、----何も家族のために心労する必要もなく、----何の病も、何の痛みも、何の老年も、何の死も、何の変化もないという、----そうした穏やかで、安息に満ちた、ゆったりとした状態が無限に続く所で私たちが相会うとき、それがいかにほむべき変化となるか、だれに知りえようか? まことに、聖パウロがこれを私たちに待ち望み期待するよう命じているのも不思議ではない。

 私はこうした事がらをこの論考を読むすべての方々の前に提示し、これらに真剣な注意を払ってほしいと願うものである。私がキリスト者の体験について少しでも知っているとしたら、これらの中には熟考すべき種が確かにふくまれているに違いない。少なくとも、このことだけは確信をもって云える。キリストの再臨と、キリストの民の公の「集まり」を、たいしたことではないとみなすような人、----そこに何の幸福も、何の喜びも、何の楽しみも、何の願いもいだかないような人、そうした人は、果たして自分が本当にキリスト者なのかどうか、また少しでも恵みの持ち合わせがあるのかどうか、疑った方がよいであろう。

 (1) 私はあなたに1つの平易な問いを発したい。目をそらさずに、真っ正面からこの問いに向かい合ってほしい。あなたは、主がお戻りになるとき、御使いたちによって神の家に集められることになるだろうか? それとも後に取り残されるだろうか?

 とりあえず1つのことだけは確実である。最後の大いなる日がやって来たとき、地上には二種類の人類しかいないであろう。キリストの右手に立つ人々と、左手に立つ人々、----義とみなされる人々と、悪人である人々、----箱舟の中にいて安全な人々と、外にいる人々、----麦のように神の倉におさめられる人々と、毒麦のように残されて焼かれる人々である。さて、あなたはどちら側になるだろうか?

 もしかすると、あなたにはまだわからないかもしれない。はっきり云えない。確信が持てない。最善を期待したい。最後には何もかもうまく行くと信じている。だがあなたは、あえてどちらだと云う気にはならない。よろしい! では、ぜひとも、はっきりわかるまで決して心安んじないようにしてほしい。聖書ははっきりあなたに、集められるのがいかなる人であるか告げてくれるであろう。あなた自身、正直になりさえすれば、心では自分がその数に入っている者かどうかがわかるであろう。それがわかるまで、決して、決して安心してはならない。

 一体どうして人は、この人生における別れや別離を、何の良い見込みも持っていないまま耐えられるのだろうか?---- 一体どうして人々は息子や娘たちに「さようなら」と云って、彼らをこの世の荒海へと押し出しながら、最後にはキリストによる安全な「集まり」があると期待することもないまま平気でいられるのだろうか?---- 一体どうして彼らは自分の愛する家族の面々と別れて、彼らを地球の反対側まで旅させながら、再びこの世で、あるいは来世で相会うことがあるかどうかわからないままでいられるのだろうか?---- 一体どうしてこうしたすべてのことがありえるのかは、私の理解をはるかに越えたことである。唯一可能な推測をするなら、多くの人々は何も考えず、何も考察せず、先のことを何も待ち受けていないのである。いったん考え始めたならば、人は決してキリストを見いだし、安全になるまで安らがないであろう。

 (2) もしあなたが自分は神の家に集められる見込みがあるかどうか知りたいというのであれば、私はあなたに、自分の魂の状態を確かめるための平易な手段を差し出したい。自問してみることである。あなたがこの地上で最も好んでいるのはいかなる種類の集まりだろうか? 自問してみるがいい。果たしてあなたは、神の民の集まりを本当に愛しているだろうか?

 地上で真のキリスト者たちが集まることに何の楽しみも覚えない人が、どうして天国で真のキリスト者たちが集まることを楽しめるだろうか? 舞踏会や、競馬や、宴会や、娯楽や、世俗的な集まりには夢中になれるのに、地上で行なわれている礼拝にはうんざりしているような心が、----そのような心がどうして聖徒たちの集団、聖徒たちだけしかいない集団と心を合わせることができるだろうか? そのようなことは不可能である。そのようなことはありえない。

 決して、決して忘れてはならない。地上における私たちの様々な好みこそ、私たちの心の状態を確実に示す証拠なのである。そして現世における私たちの心の状態は、私たちの来世における立場の確実なしるしなのである。天国は、備えられた人々のための備えられた場所である。天国で聖徒たちとともに集められたいと希望しながら、地上では罪人たちの集まりしか愛していないような人は自分を欺いているのである。そのような心をしたまま生き、死ぬとしたら、その人は最後には生まれてこなかった方がよかったと思うようになるであろう。

 (3) もしあなたが真のキリスト者であるなら、私はあなたにしばしば将来を待ち望むように勧めたい。あなたには、後に来る素晴らしいものがある。あなたの贖いは近づきつつある。夜はふけて、昼が近づいている。もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。その方が来られるとき、彼はご自分の死んだ聖徒たちを伴って来られ、生きている聖徒たちを変えられる。待ち望むがいい! やがて1つの「集まり」が持たれることになる。

 船が難破した次の日の朝は悲しいときである。溺れかけながらも、無事に陸地にたどりついた生存者たちの喜びは、波間に消えて戻ることのなかった船員仲間の思い出で損なわれる。だが、《小羊》の御座の回りに信仰者たちが集まるとき、そのような悲しみは全くない。乗組員のだれひとりとしてそこに欠けた者はいない。「ある者は、板切れに、別の者はその他の、船にある物につかまって行き、……最後にはみなが、無事に陸に上がった」*(使27:44)。大波や、荒れ狂う波浪によって、神の選民は、ひとりたりとも呑み込まれはしない。日が昇るとき、彼らは全員が無事であるとわかり、「ともに集められる」であろう。

 たとえ大勝利をおさめた翌日であっても、それは悲しい時である。戦勝者たちの勝利感には、しばしば交戦中に倒れて戦死した者たちを悼む苦い気持ちが入り混じっている。「戦死者、負傷者、行方不明者」の名簿は、多くの人々の心を張り裂き、多くの家庭を悲嘆で満たし、多くの白髪の頭を悲しみながら墓にくだらせていく。かの偉大なウェリントン公はしばしば、「勝利よりも悪いものはただ1つ、敗北しかない」、と云った。しかし、神はほむべきかな、天国にそのような悲しみは全くない! 私たちの救いの偉大な指揮官に従う兵士たちは、全員その最後の点呼に答えることになる。その兵員名簿には、戦闘の後でも何の欠員も生じていない。この大いなる「集まり」において、信仰者はひとりも「行方不明」になってはいない。

 たとえば、クリスマスは、そこに悲しい気分や、痛ましい連想が伴っているだろうか? 炉端に空いた空席を見るとき、われしらずあなたは涙ぐむことがあるだろうか? 子どもたちのはしゃぎ声のただ中にあっても、あなたは、今は亡き愛しい人々の老いた顔や、教会墓地に眠る懐かしい人々の声を思い出しては、陰鬱な気分がさしてくるだろうか? よろしい、目を上げて、将来を待ち望むがいい! 時は縮まっている。世界は古びつつある。主の到来は近づきつつある。やがて来たるべき集会に別れはなく、その集まりに別離はない。あなたが多くの涙とともに墓に横たえた信仰者たちは、安全に守られている。あなたは再び彼らと喜びをもって再会するであろう。目を上げるがいい! もう一度云う。信仰によって、「私たちの主イエス・キリストが再び来られることと、私たちが主のみもとに集められること」を堅くつかむがいい。それを信じ、それについて考え、それにより頼むがいい。それはみな真実なのである。

 あなたは12月が来るたびにうら寂しく、わびしく感ずるだろうか? あなたにはともに祈れるような人がほとんどおらず、ともに賛美したり、心を打ち明けたり、ともに体験を語りあったりする人がほとんどいないだろうか? あなたは、天国が年ごとにますます満ちてゆき、地上がますますがらんとしていくように、感じつつあるだろうか? よろしい、これは古くからあることである。あなたは単に、おびただしい数の人々がこれまでも飲んできた杯を飲んでいるにすぎない。目を上げて、将来を待ち望むがいい。寂しい時はすぐに過ぎ去るであろう。あなたはまもなく十分な仲間を持てるであろう。「あなたは目ざめるとき、あなたの主の御姿に満ち足りるであろう」*(詩17:15)。もうしばらくすれば、あなたは決して解散することのない会衆を目にし、決して終わることのない安息日を目にすることになる。「私たちの主イエス・キリストが再び来られることと、私たちが主のみもとに集められること」が、すべてを償ってあまりあるものとなるであろう。

大いなる集まり[了]

HOME | TOP | 目次 | BACK | NEXT