Heirs of God           目次 | BACK | NEXT

18. 神の相続人


「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。
「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父。』と呼びます。
「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。
「もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります」。----ロマ8:14-17

 私たちが前にしている節で聖パウロが語りかけている人々は、地上で最も豊かな人々である。そうでないはずがない。彼らは「神の相続人であり、キリストとの共同相続人」と呼ばれているのである。

 この人々の相続財産こそ、本当に所有するに値する唯一の相続財産である。その他の相続財産はみな不満足なもの、失望を招くものでしかない。それらには多くの心労が伴う。それらは心の痛みを癒すことも、重い良心を軽くすることもできない。それらは種々の家庭問題を遠ざけておくことができない。病をも、死別をも、離別をも、死をも防ぐことはできない。しかし、「神の相続人」には何の失望もない。

 私が語っている相続財産こそ、永遠に保っておける唯一の相続財産である。その他の相続財産はみな、死ぬ時には後に残して行かなくてはならない。それも、それまでの間に取り去られていなければの話である。人は、何千万何百万ポンド持っていようと、墓の彼方には何も持って行けない。しかし、「神の相続人」たちはそれとは違う。彼らの相続財産は永遠のものである。

 私が語っている相続財産こそ、だれしも手に入れることのできる唯一の相続財産である。ほとんどの人は、一生の間額に汗して働いても、決して富貴を獲得することができない。しかし栄光と栄誉と永遠のいのちは、神の条件に従ってそれを喜んで受け入れようとする者なら、だれにでも無償で差し出されている。「望む者ならだれでも」、「神の相続人であり、キリストとの共同相続人」となることができる。

 この論考を読んでいる方々の中に、この相続財産の分与にあずかりたいという方がおられるならば、ぜひ知っておいてほしい。その人は、地上において、この相続財産を所有している一家の一員にならなくてはならず、その一家とは、真のキリスト者たち全員の家族だ、ということである。もしあなたが、天で栄光を有したいと願うのなら、地上で神の子どもたちのひとりになっていなくてはならない。私がこの論考を書いているのは、もしあなたがまだ神の子どもになっていないとしたら、今日のこの日、神の子どもになるようあなたを説得するためである。私がこれを書いているのは、もし今のあなたに漠然とした希望のほか何もないとしたら、自分が神の子らのひとりであることを示す確かなわざを行なうようあなたを説得するためである。真のキリスト者たち以外に神の子らはいない! ぜひしばらくの間、注意を傾けていただきたい。私はこうした事がらについて説明し、このページの冒頭に冠した節に含まれている、いくつかの教訓を示そうと思う。

 I. まず示したいのは、すべての真のキリスト者たちと神との関係である。彼らは「神の子ども」である
 II. 次に示したいのは、この関係を示す特別な証拠である。真のキリスト者たちは「御霊に導かれている」。彼らには、「子としてくださる御霊」がある。彼らには「御霊の証し」がある。彼らは「キリストと苦難をともにしている」
 III. そして示したいのは、この関係に伴う種々の特権である。真のキリスト者たちは、神の相続人であり、キリストとの共同相続人である。

 I. 第一に示したいのは、すべての真のキリスト者たちと神との関係である。彼らは「神の子ども」である。

 私は、他に選ぶべき言葉として、これほど高く、これほど慰めに満ちた言葉を知らない。神のしもべであること、----神の臣民であり、兵士であり、弟子であり、友であること、----これらはみな卓越した称号である。だが、神の「子ども」であることは、それらとは格が違う。聖書は何と云っているだろうか? 「奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます」(ヨハ8:35)。

 この世の富貴に満ちた家の子どもであること、----地の君主や国王の子どもであること、----これは世間的には途方もない利点であり特権であると一般にはみなされている。しかし王の王、主の主の子どもであること、----いと高く聖にして、永遠の住まいに住むお方の子どもであること、----これはそれよりはるかに尊いことである。だがしかし、これこそあらゆる真のキリスト者の受ける分なのである。

 地上の親の子どもは、自分の父親から愛情と、温もりと、衣食と、教育を受けて当然であると感ずる。いかなることがあろうと、1つの家庭だけは自分を受け入れてくれる。いかに悪い行動をしようと、大概の場合、ひとりの人の愛だけは完全には消え去ることがない。これらはみな、この世における父子関係について云えることである。では、考えてみるがいい。人間でしかない哀れな罪人が、神について「この方は私の父です」、と云える特権がいかに大きなものであるかを。

 しかし《いかにして》私たちのように罪深い人間たちが、神の子どもになれるのだろうか? いつ私たちはこの栄光ある関係に入るのだろうか? 私たちは生まれつき神の子どもであるわけではない。私たちは、この世に生まれたとき、神の子どもとして生まれつくわけではない。いかなる人も、神を自分の父として仰ぐ生得権を有してはいない。そのようなものがあると云うのは、悪質な異端である。生まれながらの詩人であるとか、画家であるとか云われる人はいる。----だが、生まれながらに神の子どもである者はひとりもいない。エペソ人への手紙はこう告げている。「あなたがたはほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした」*(エペ2:3)。聖ヨハネの手紙はこう云う。「そのことによって、神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします。義を行なわない者はだれも、神から出た者ではありません」(Iヨハ3:10)。英国国教会の教理問答は、賢明にも聖書の教理に従い、私たちにこう云うよう教えている。「私たちは生来罪の中に生まれ、御怒りを受けるべき子らである」。しかり、私たちはみな、神の子どもというより悪魔の子どもである! 実際、罪は遺伝的なものであり、アダムの代々の家系に受け継がれている。恵みは決して遺伝的なものではなく、必ずしも聖い人が聖い子どもを持つわけではない。それではいかにして、またいかなるときに、この大いなる変化、変容が人々の上に臨むのだろうか? いつ、またいかなるしかたによって罪人たちは、「全能の主の息子、娘」になるのだろうか?(IIコリ6:18)

 人々が神の子どもになるのは、御霊が彼らにイエス・キリストを信じさせ、救いへと導いてくださる日であって、それ以前ではない*1。ガラテヤ人への手紙は何と云っているだろうか? 「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです」(ガラ3:26)。コリント人への第一の手紙は何と云っているだろうか? 「あなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです」(Iコリ1:30)。ヨハネの福音書は何と云っているだろうか? 「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」(ヨハ1:12)。信仰は罪人を神の御子に結び合わせ、その人を、御父が何の傷もない者としてお喜びになる人々のひとりとする。信仰はその人を神の愛する御子と結婚させ、神の子らのひとりとみなされる資格を与える。信仰はその人に「御父および御子イエス・キリストとの交わり」を与える(Iヨハ1:3)。信仰はその人を御父の家族に接ぎ木し、御父の家にある部屋の1つを開いてその人のものとする。信仰はその人に死のかわりにいのちを与え、その人をしもべとするかわりに子どもとする。人は、この信仰を持っていさえすれば、その教会や教派にかかわりなく、神の子どもであると断言できる。

 これは私たちが決して忘れてはならない点の1つである。あなたや私には、人が信ずるまでは決してその人が神の子どもとなるかどうかはわからない。疑いもなく、神の子どもたちは、永遠の昔から子とされるように予知されており、選ばれており、予定されている。しかし忘れてはならない。彼らが時至って召されて信じて初めて、----それが起こって初めて、あなたや私にとっては彼らが子どもであることが確かになるのである。彼らが悔い改めて信じて初めて、神の御使いたちは彼らのことを喜ぶのである。御使いたちは神の選びの書を読むことができない。彼らはだれが、「神のかくまわれる者たち」*(詩83:3)であるかを知らない。彼らは、人が信ずるまではだれについても喜ばない。しかし彼らがどこかの哀れな罪人が悔い改めて信ずるのを見るとき、そのときこそ、彼らの間に喜びが起こる。----燃える火からもう一本の燃えさしが取り出されたことを喜び、天の御父にもうひとり子どもが、相続人が生まれたことを喜ぶ喜びが起こる(ルカ15:10)。しかし、もう一度私は云うが、あなたや私には、人がキリストを信ずるまでは、決してその人が神の子どもであるかどうか確かなことはわからない。

 私はあなたに警告しておく。キリストを信じようが信じまいが、いかなる人も同じように神の子どもなのだ、などという迷妄に用心するがいい。それは、近年多くの人々がしがみつきつつある見当違いな理論だが、神のみことばからは決して証明できないことである。これは多くの人々が自分の心をなだめようとして思い描いている危険な夢である。だが彼らは最後の審判の日に、その夢から醒まされて恐ろしい末路に至るであろう。

 ある意味において神が全人類の普遍的な父であることは、私も否定しようとは思わない。神は万物の偉大なる第一原因である。神は全人類の創造主であり、神の中においてのみ、すべての人は、キリスト者であれ異教徒であれ、「生き、動き、また存在している」。これらはみな否定しようもない真理である。こうした意味においてパウロは、アテネ人たちに、あなたがた自身の詩人もまさに、「私たちもまたその子孫である」、と云った通りだと告げたのである(使17:28)。しかし、こうした父子関係は、いかなる人にも天国に入れる資格を与えはしない。私たちが創造によって有しているような父子関係は、私たちだけでなく、石も、木々も、獣も、悪霊たちでさえ有している。

 神が全人類をあわれみと同情の愛によって愛していることは、私も否定しない。「そのあわれみは、造られたすべてのものの上にあります」。----「神は……ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」。----「神は、だれが死ぬのも喜ばない」*。これらすべてを私は完全に認めるものである。こうした意味において私たちの主イエスはこう告げておられるのである。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(詩145:9; IIペテ3:9; エゼ18:32; ヨハ3:16)。

 しかし神が、ご自分の御子イエス・キリストに連なる者たち以外の者にとっても、和解された、赦しを給う神になるとか、イエス・キリストを信じて救われようとしない者でも、彼に連なる者になれるとかいうこと、----これは私が全く否定する教理である。神の聖さと正義が両方ともこの教理に逆らい立っている。それらは、罪深い人が、仲保者を通すことなしに神に近づくことを不可能にしている。それらは私たちに、キリストを抜きにした神が「焼き尽くす火」であることを告げている(ヘブ12:29)。新約聖書の全体系が、そのような教理に逆らい立っている。その体系の教えるところ、いかなる人も自分がキリストの恩恵にあずかっていると主張できるためには、キリストを自分の仲保者として受け入れ、自分の救い主として信じなくてはならない。キリストを信ずる信仰のないところで人が、自分の父としての神に慰めをいだくことができるなどと云うのは危険である。神が和解させられた父となるのは、キリストに連なる者たちに対してだけである。

 筋の通った考え方をするなら、いかなる人も、私が今述べている見解のことを狭い考え方だとか、無慈悲だとか云いはしないであろう。福音はあらゆる人の前に扉を開いている。その数々の約束は広大で充実している。その数々の招きは熱烈で、優しい。その数々の求めは単純明快である。「主イエス・キリストを信じさえすれば、あなたがいかなる人であれ、救われます」。しかし、キリストの負いやすいくびきにも首を曲げようとしない高慢な人々や、自分のわがままを通して自分のもろもろの罪を温存しようとする世俗的な人々、----そのような人々にキリストの恩恵を要求する権利があるなどと云うこと、神の子どもであると自称する権利があるなどと云うこと、それは聖書からは決して証明できないことを口にしているのである。神は彼らの父になろうと申し出ておられる。だが神はそれを、特定の明確な条件に立ってなさっておられる。----彼らはキリストを通して神に近づかなくてはならない。キリストは彼らの救い主になろうと申し出ておられる。だがそうするとき彼は、1つの単純な要求をしておられる。----彼らは自分の魂を彼にゆだね、自分の心を彼に与えなくてはならない。だが彼らは、あろうことか、その条件を拒否しておきながら、神を自分たちの父と呼ぼうとするのである! その要求を侮蔑しておきながら、キリストに自分たちを救ってほしいと望んでいるのである! 神はわれわれの父になってもよい、----ただしわれわれ自身の条件によってだ! キリストはわれわれの救い主となってもよい、----ただしわれわれ自身の定めによってだ!、と。 これほど筋の通らないことがあるだろうか? これほどの思い上がりがあるだろうか? このような教理ほど聖からざるものがあるだろうか? こうした教えに用心しようではないか。これはこの終わりの日にあって、よく耳にする教理だからである。これに用心しようではないか。これはしばしばまことしやかに云い表わされ、詩人や、小説家や、感傷家や、情にもろい婦人たちによって口にされるとき美しく、また愛に満ちて聞こえるからである。これに用心しようではないか。さもないと私たちは自分の聖書を全く放り投げ、自分自身を神よりも賢い者として立てようとすることになるからである。古からの聖書的な地盤に固く立ち続けようではないか。キリストなくして神の子とされることなし! 信仰なくしてキリストの恩恵にあずかることなし!、と。

 できれば私も、こういった種類の警告を与えなくてはならない原因が多くなければいいのにと思う。だが私には、こうした警告を明確に、また取り違えようのない形で与えるべき必要があると考える理由がある。近年になって勃興した1つの神学的思潮は、私の見るところ何にもまして不信心を押し進め、悪魔を助け、魂を滅ぼしがちなものである。それはアマサに近づいたヨアブのように、これ以上ないほどの博愛と、寛大さと、愛を身にまとって私たちのもとにやって来る。この神学によると、神は徹頭徹尾あわれみであり、愛でしかない。----神の聖さと正義は完全に視野の外に押しやられている! この神学において地獄については決して語られることがない。----それが語るのはことごとく天国についてだけである! 断罪は決して言及されない。----それは、ありえないこととして扱われている。----すべての男女が救われることになっている! 信仰も、御霊の働きも、優雅な言葉遣いで洗練されたあげく無に等しくされている! 「いかなる人も何かを信じているなら信仰があるのです! いかなる人も何かを考えているなら御霊を持っているのです! いかなる人も正しいのです! いかなる人も間違ってはいないのです! いかなる人も自分で行なったいかなる行動についても非難されてはなりません! それはその人の立場から当然出ざるをえなかったことなのです。それは環境のせいなのです! その人は、自分の意見について、自分の肌の色についてと同様、何の責任もありません! そうならざるをえなかったのです! 聖書は非常に不完全な書物です! 時代遅れです! 旧世紀の遺物です! 私たちは、自分に好ましく思える限りは聖書を信じてもよいかもしれませんが、それ以上信ずることはありません!」----私は厳粛に警告しておく。こうした神学すべてについて用心するがいい。これがいかに「寛大さ」や、「博愛」や、「懐の広い見解」や、「新しい光」や、「頑迷固陋からの解放」などなどについて大口を叩き、滔々とまくしたてようとも、私が心から信ずるところ、これは人を地獄に至らせる神学である。

 (a) 事実は、この神学の教師たちに真っ向から対立している。そうした人々は、メソポタミヤを訪れて、かつてニネベやバビロンが建っていた場所をいかなる荒廃が支配しているか見てみるがいい。死海の沿岸に赴き、その神秘的に苦い湖水をのぞき込んでみるがいい。パレスチナを旅して、あの肥沃な国を何が荒野に変えてしまったのか問うてみるがいい。地表のあらゆる場所へと散らされ漂泊を続けているユダヤ人たちを見て、国土もない彼らが決して他の国民の中に吸収されずにいる姿を見てみるがいい。そして、もしできるものなら、果たして神がことごとくあわれみと愛でしかなく、決して罪を罰したことがなく、これからも罪を罰することがないかどうか、私たちに向かって告げてみるがいい。

 (b) 人の良心は、こうした教師たちに真っ向から対立している。そうした人々は、だれかこの世の子が死につつある枕頭を訪れ、相手を自分たちの教理で慰めようとしてみるがいい。自分たちのご自慢の理論によって、行く末を思ってとめどなく苦悩するその人の苦悩を静めたり、安らかに世を去らせたりできるかどうか見てみるがいい。できるものなら、聖書の約束もなく、----回心もなく、----キリストの血に対する信仰もなく、すなわち、昔ながらの神学が命じているものを何もなしに死を迎えた人々が、喜びと幸福をいだくことができたという、まぎれもない確かな実例を多少あげてみせるがいい。悲しいかな! この終わりの日の新神学は、人々が臨終間際になると、その良心によって面目丸つぶれとなってしまう。死を間近に控えた人の良心は、地獄などというものはないと云われても容易に満足するものではない。

 (c) 未来の状態について私たちに思い描きうるあらゆる筋の通った観念は、こうした教師たちに真っ向から対立している。そうした人々は、全人類をうちに含んでいる天国などというものを考えてみるがいい! 聖とされた者も聖とされていない者も、きよい者も汚れた者も、善人も悪人もいっしょくたに、雑然と集められているような天国を考えてもみるがいい! そのような集団に、いかなる一致点があるだろうか? そこに調和と友愛をもたらす共通の絆が何かあるだろうか? 同じ務めに対するいかなる共通の喜びがあるだろうか? いかなる和合、いかなる調和、いかなる平和、いかなる霊の一致が存在しうるだろうか? いかなる人も、義人と悪人が全く区別されていないような天国といった考えには反発を覚えるに違いない。----パロとモーセに何の区別もなく、アブラハムとソドム人らに何の区別もなく、パウロとネロに、ペテロとイスカリオテのユダに、殺人や泥酔の最中の死んだ人々とバクスターやジョージ・ハーバートやウィルバフォースやマクチェーンらに何の区別もないような天国! そのような惨めなごた混ぜの群衆の中で永遠を過ごすくらいなら、魂が消滅してしまった方が確かにましであろう! そのような天国は地獄に何らまさるところがないに違いない!

 (d) あらゆる聖さと道徳の恩恵は、こうした教師たちに真っ向から対立している。もしすべての男女が、生前いかなる違いを有していたにせよ神の子どもとなるとしたら、----また、いかにこの世界で違った生き方をしてきたにせよ全員が天国に行くことになるとしたら、----労苦して聖さを求めることに一体何の値うちがあるだろうか? 慎み深く、正しく、敬虔に生活しようとするための何の動機が残っているだろうか? もし万人が天国に行き、だれも地獄に行かないとしたら、人はいかに行動しようとかまわないのではなかろうか? 確かに異教徒の詩人や、ギリシャ、ローマの哲学者たちの告げてくれたことの方が、これよりははるかにまともで賢かった! 確かに聖さや道徳を断ち滅ぼし、いかなる奮励努力の動機も取り去ってしまうような教理は、その出所が顔に黒々と書いてあるに違いない。それは地から出たものであって、天から出たものではない。それは悪魔から出たものであって、神から出てはいない。

 (e) 聖書は、最初から最後まで、こうした教師たちに真っ向から対立している。彼らの理論に正面から対立する、何百もの聖句を引用できるであろう。聖書を彼らの見解と調和させようとするなら、こうした聖句は即座に拒否されなくてはならない。それらを拒否すべき理由は他に何もないかもしれない。----だが、ここまで語られてきたような神学に合わせるためには、打ち捨てなくてはならない! だがそのようなことをしていれば、全聖書の権威はたちまち形無しとなってしまう。そして人々は、そのかわりに何を私たちに与えようというのか? 無である----皆無である! 彼らは私たちからいのちのパンを盗み、そのかわりとして石も与えようとしない。

 この本を手にとっているすべての方々に、私はもう一度警告しておく。こうした神学に用心するがいい。私はあなたに命ずる。この論考で私が掲げようとしている教理を固く握りしめるがいい。私の云ったことを忘れることなく、決して手放してはならない。神の子とならずして、いかなる栄光の相続財産もない! キリストの恩恵にあずからずして、神の子とされることは決してない! 個人的な信仰なくして、キリストの恩恵にあずかることは決してない! これが神の真理である。決してこれを捨ててはならない。

 今この論考を読んでいる方々の中に、自分が神の子どもかどうか知りたいと願っている人がいるだろうか? 自分に向かって、こう問うてみることである。今日のこの日----あたかも神を目の前にしているかのように----、自問してみることである。自分は果たして悔い改めて信じただろうか、と。自問してみるがいい。自分は果たして体験的にキリストを知り、心でキリストに結び合わされているだろうか、と。もしそうでないとしたら、あなたが神の子どもでないことは確実と思ってよい。あなたはまだ新しく生まれてはいない。あなたはまだ自分の罪の中にいる。神は創造におけるあなたの父とは云えるが、あなたの和解させられた、赦しを給う御父ではない。しかり! たとえ教会と世とがそれとは反対のことを一致してあなたに告げようと、----たとえ聖職者と平信徒たちが声をそろえてあなたにへつらおうと、----神の御前では、あなたの有しているような神との関係にはほとんど、あるいは全く価値がない。キリストに対する信仰なくして、あなたは決して神の子どもではない。あなたは新しく生まれてはいない。

 この論考を読んでいる方々の中に、神の子どもになりたいと願っている人がいるだろうか? その人は自分の罪を見てとり、感じとった上で、キリストのみもとに逃れ行き、救われるがいい。そうすれば、今日のこの日、その人は子どもたちの中に入ることになる。----ただあなたの不義を認めて、イエス・キリストがきょう差し出しておられる御手を握りしめるがいい。そうすれば、子とされることが、そのあらゆる特権とともにあなたのものとなる。ただあなたの罪を告白し、それをキリストのもとに持ち出すがいい。そうすれば神は「真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」(Iヨハ1:9)。まさにこの日、古いものは過ぎ去り、すべてが新しくなる。まさにこの日、あなたは赦され、赦免を受け、「愛する方において受け入れられた」者とされる(エペ1:6)。まさにこの日、あなたは天国において新しい名が与えられる。あなたは、この本を手に取ったときには、御怒りを受けるべき子であった。だがあなたは今夜、神の子どもとして床につくことになる。よく注意するがいい。もしあなたの告白した、子とされたいという願いが真摯なものであるなら、----もしあなたが本当に自分の罪に倦んでおり、ただぼんやりと自由になりたいと望む以上の思いを真にいだいているなら、----あなたには真の慰めがある。これはみな真実である。これはみな、私が書き記した通りに聖書に書かれている。私はあなたと神との間に障壁を設けようなどとは決してしない。今日のこの日、私は云う。主イエス・キリストを信ずるがいい、そうすればあなたは「子ども」となり、救われる、と。

 この論考を読んでいる方々の中に、実際に神の子どもとなっている人がいるだろうか? 喜ぶがいい。私は云う。あなたの特権ゆえに喜びおどるがいい。喜ぶがいい。あなたには感謝すべき大きな理由があるのだから。かの愛された使徒の言葉を思い出すことである。「私たちが神の子どもと呼ばれるために、……御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう」(Iヨハ3:1)。何と驚くべきことか、天が地上を見下ろしたとは!----聖なる神がその愛情を罪深い人間の上に注ぎ、彼をご自分の家族に迎えることをお認めになるとは! この世があなたを理解しないからといって、それが何か! この世の人々があなたをあざ笑い、あなたの名前を吐き捨てるように口にしているからといって、それが何か! 笑いたければ笑わせておくがいい。女王は貴族を作ることができる。主教は聖職者を叙任することができる。しかし女王も、上院議員も、下院議員も、----主教も、司祭も、執事も、----いくら寄り集まっても、自分の力では、ひとりたりとも神の子どもを作り出すことはできず、神の子どもほど尊貴な者を作り出すことはできない。神を自分の父と呼び、キリストを自分の兄と呼べる人、----その人は貧しく卑しい身分の者かもしれないが、決して恥じることはない。

 II. 第二のこととして示したいのは、真のキリスト者と神との関係を示す特別な証拠である。

 人はいかにすれば自分が子とされているかどうか確かめられるだろうか? いかにすれば自分が信仰によってキリストのもとに来た者、新しく生まれた者であるかどうかがわかるだろうか? 「神の子ども」を見分けるための目印やしるし、特徴は何だろうか? これこそ、永遠のいのちを愛するすべての者が発さなくてはならない問いである。この問いにこそ、今から私があなたに考察してもらおうと思っている聖書の聖句が、他の多くの聖句とともに、答えているのである。

 (1) 1つのこととして、神の子どもたちはみな、神の御霊に導かれている。この論考の冒頭に冠した聖句は何と云っているだろうか? 「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです」(ロマ8:14)。

 彼らはみな、目には見えない全能の力----すなわち、聖霊の力----の導きと教えのもとにある。彼らはもはや、てんでばらばらに勝手なことをしたり、てんでばらばらに自分に良いと思われる道を歩んだり、てんでばらばらに自分の生来の願望に従ったりしない。御霊が彼らを導いているのである。御霊が彼らに指示しているのである。彼らの心と、生活と、感情の中には、彼らにも説明しがたい何らかの動きが感じられる。そしてその動きは常に、多かれ少なかれ同じ方向を目指しているのである。

 彼らは罪から遠ざけられる。----自己を義とすることから遠ざけられる。----世から遠ざけられる。これこそ、御霊が神の子どもたちを導いていく道である。神は、ご自分の子どもとした者たちを教えて、訓練なさる。神は彼らに彼ら自身の心をお示しになる。自分の生きてきた道に倦むようになさる。内なる平安を願い求めさせてくださる。

 彼らはキリストのもとへと導かれる。聖書へと導かれる。祈りへと導かれる。聖さへと導かれる。これこそ、御霊が彼らを旅させる、踏み固められた小道である。神は、ご自分の子どもとした者たちを常に聖められる。神は罪を、彼らにとって非常に苦いものとなさる。聖さを非常に甘いものとなさる。

 御霊こそ彼らをシナイに導き、律法を初めて彼らに示して、彼らの心が砕かれるようになさるお方である。御霊こそ彼らをカルバリに導き、十字架を彼らに示し、彼らの心が包帯を巻かれ、癒されるようになさるお方である。御霊こそ彼らをビスガに導き、約束の地の遠望を彼らに見させ、彼らの心を奮い立たせてくださるお方である。彼らが荒野に連れて行かれ、自分自身のむなしさを見るよう教えられるとき、それは御霊の導きである。彼らがタボルやヘルモンに登らされ、来たるべき栄光の一瞥によって高揚させられるとき、それは御霊の導きである。神の子どもたちはみなそれぞれ、こうした導きを受けている。みなそれぞれ、「御霊の力の日に、喜んで仕え」*、自分を明け渡す。そして、みなそれぞれが、まっすぐな道に導かれ、住むべき町へ行かされる(詩110:3; 107:7)。

 これをあなたの心に銘記し、手放さないようにするがいい。神の子どもたちは、「神の御霊によって導かれる」人々であり、常に多かれ少なかれ同じ方向に導かれている。彼らの経験は、天国で互いにその覚え書きを比べ合うときには、驚くほど符合しているであろう。これが、子とされていることの1つの目印である。

 (2) さらに、神の子どもたちはみな、天におられる自分たちの御父に対して、子とされた子どもたちの感情をいだいている。この論考の冒頭に冠した聖句は何と云っているだろうか? 「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父。』と呼びます」(ロマ8:15)。

 神の子どもたちは、生まれながらの人々の心に罪が生み出す、あの奴隷的な恐れから解放されている。彼らは、アダムをして「園の木の間に身を隠」させ、カインをして「主の前から去」らせた、あの罪悪感から贖い出されている(創3:8; 4:16)。彼らはもはや神の聖さも、義も、威光も恐れてはいない。もはや自分と神との間に深淵や障壁があるようには感じておらず、神が彼らに対して怒っているかのように感じたり、自分たちの罪ゆえに怒っているに違いないと感じたりすることはない。このような魂の鉄鎖や足枷から、神の子どもたちは解放されているのである。

 神に対する彼らの感情は、今や平安と信頼のそれである。彼らは神をキリスト・イエスにおいて和解してくださった父として見ている。彼らの目には神が、自分たちの偉大な仲保者にして調停者なる主イエスによって、そのすべての属性を満足させられた神として映る。----「ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになる」神として映る(ロマ3:26)。御父としての神に彼らは大胆に近づく。御父としての神に自由に語りかけることができる。彼らは奴隷の霊を自由の霊と引き換え、恐れの霊を愛の霊と引き換えたのである。彼らは神が聖であることを知ってはいるが恐れてはいない。自分たちが罪人であると知ってはいるが恐れてはいない。聖ではあっても、神は完全に和解させられていると信じている。罪人ではあっても、自分たちはイエス・キリストによって全く覆われていると信じている。これこそ神の子どもたちの感情である。

 彼らの中に、こうした感情を他の者たちよりもはるかに生き生きと感じている者があることは私も認める。彼らの中のある者たちは、かつていだいていた奴隷の霊の切れっ端や残り物を、死ぬまでかかえている。彼らの中の多くの者は、時を置いて、古い人につきものだった恐れの不平を発作的によみがえらせ、激発させることがある。しかし神の子どもたちのうち、ごくごくまれな者を除いてほとんどすべての者は、よくよく問いただされるならば、キリストを知って以来の自分は、それ以前に神に対していだいていた感情とは全く異なる感情をいだくようになっていると云うことであろう。彼らはあたかも、古代ローマで養子縁組がなされる際の決まり文句に似た何かが、自分と彼らの天の神との間に取り交わされかのように感じている。彼らは、あたかも神が彼らのひとりひとりに向かって、「お前はわたしの子になることを望むか?」、と云い、あたかも彼らの心が、「望みます」、と答えたかのように感じている。

 私たちはこの点もしっかりと理解し、堅くつかむようにしよう。神の子どもたちは、神に対して、この世が感ずることのないような感情をいだく人々である。彼らは神に対してもはや奴隷的な恐れを全く感じない。和解された親に対するような感情をいだく。これもまた、子とされることのもう1つの目印である。

 (3) しかし、さらにまた神の子どもたちは、自分の良心のうちに御霊の証しを有している。この論考の冒頭に冠された聖句は何と云っているだろうか? 「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます」(ロマ8:16)。

 神の子どもたちは、自分の心の内側に、自分と神との間には何らかの関係があると告げてくれるものを有している。古いものは過ぎ去り、すべてが新しくなったと告げている何かを感じる。咎が消え失せ、平安が回復したこと、天国の扉が開かれ、地獄の扉が閉ざされたことを告げている何かを感じる。つまり彼らには、この世の子らが持っていないもの----はっきりと感じとれる、否定しがたい、理にかなった希望----があるのである。彼らには、パウロの呼ぶところの、御霊の「証印」と「保証」があるのである(IIコリ1:22; エペ1:13)。

 私は一瞬たりとも、神の子どもたちがこの御霊の証しを有している程度が千差万別であることを否定しはしない。ある人々にとってそれは、大きな声で、明確に響きわたる、まぎれもない、「われはキリストのもの、キリストはわがもの」、という良心の証言である。他の人々にとってそれは、小さく、かすかで、途切れがちな囁きであって、しばしば悪魔や肉の妨げにより聞こえなくなるものである。神の子どもたちの一部は、満帆の確証を掲げて天国への航路を疾走する。そうでない者たちは、その航海の間中、右へ左へと翻弄され、自分に信仰があるなどとはほとんど信じられなくなる。しかし、どれほど小さく、未熟な神の子どもに対しても、こう問うてみるがいい。あなたは自分がすでに達した信仰による希望のひとかけらでも、手放したいと思うか、と。問うてみるがいい。あなたは、そのありったけの疑いと争闘、葛藤と恐れに満ちた自分の心を、まるっきり世俗的で無頓着な人の心と取り替えたいと思うか、と。問うてみるがいい。あなたはきびすを返して、すでにつかんでいる様々なものを投げ出て、この世に帰って行きたいと思うか、と。いかなる答えが返ってくるか、だれに疑いえるだろうか? 「そんなことはできません」、とその人は答えるであろう。「私は自分に信仰があるかどうかわかりません。自分に恵みがあるという確信も感じません。でも私の内側には、私が手放したくないと思う何かがあるのです」、と。そして、その「何か」とは何だろうか? 私は云う。----それが御霊の証しなのである。

 私たちはこのこともまた理解するようにしよう。神の子どもたちは、その良心のうちに御霊の証しを有している。これも、子とされていることのもう1つの目印である。

 (4) もう1つのことだけつけ足しておきたい。神の子どもたちはみな、キリストの苦難にあずかる。この論考の冒頭に関した聖句は何と云っているだろうか? 「もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります」(ロマ8:17)。

 神の子どもたちにはみな、担うべき十字架がある。彼らには、福音のために忍ばなくてはならない試みがあり、困難があり、患難がある。彼らには世から来る試み、----肉から来る試み、----悪魔から来る試みがある。彼らには、親族や友人から来る感情的な試み、----厳しい言葉や、厳しい扱いや、厳しい裁きがある。彼らには、人格面における試み----中傷や、誤伝や、嘲笑や、偽りの動機のあてこすりなど----があり、こういったすべてが、しばしば土砂降りのように浴びせかけられる。彼らには、世的な利益の面で試みがある。彼らはしばしば、人を喜ばせて栄光を失うか、栄光を手に入れて人を怒らせるかの二者択一を迫られる。彼らには自分自身の心から来る試みがある。彼らひとりひとりには、たいていの場合、自分なりの肉体のとげがある。----自分にとっては最悪の敵となる、獅子身中の虫がある。これが、神の子どもたちの経験である。

 彼らのある人々は非常に苦しみ、別の人々はそれほど苦しまない。ある人々は1つの面において苦しみ、別の人々は別の面において苦しむ。神は賢明な医師のように、彼らの受けるべき分を量り与えて、誤ることがない。しかし私の信ずるところ、神の子どものうちひとりたりとも、十字架なしにパラダイスに行き着く者はいない。

 苦難こそ主の家族の日々の糧である。「主はその愛する者を懲らしめ……る」。----「もしあなたがたが……懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです」。----「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない」。----「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます」(ヘブ12:6、8; 使14:22; IIテモ3:12)。ラティマー主教がその地主から、自分は一度も困難を味わったことがないと云われたとき、彼は云った。「ということは、神はここにおられないに違いありません」。

 苦難は神の子どもたちが神によって聖められていく過程の一部である。彼らが懲らしめられるのは、この世に嫌気をささせ、神の聖さにあずかる者とならせるためである。彼らの救いの指導者は、「多くの苦しみを通して全うされた」が、彼らもそれと変わらない(ヘブ2:10; 12:10)。偉大な聖徒たちのうち、大きな患難や大きな腐敗を有していなかったような者はひとりもいない。フィーリプ・メランヒトンの言葉は至言である。「何の心労もないところには、たいがい何の祈りもないものです」。

 私たちはこのことも自分の心に銘記しておくようにしよう。神の子どもたちはみな十字架を負わなくてはならない。苦難に遭う救い主は普通、苦難に遭う弟子たちをお持ちになる。かの花婿は悲しみの人であった。その花嫁が、楽しみの女で、病を知らないなどということはあってはならない。悲しむ者は幸いなるかな! 私たちは十字架をつぶやかないようにしよう。これもまた子とされることのしるしである。

 私は人々に警告しておく。子とされることの、こうした霊的な目印なしに決して自分が神の子どもであるなどと考えてはならない。証拠もなく子とされることに用心するがいい。もう一度云う。用心することである。人が私に何の御霊の導きも示すことなく、何の子とされる霊も、良心における何の御霊の証しも、経験における何の十字架も示すことがない場合、----この人は神の子どもだろうか? 他の人々がどう考えるにせよ、私はそうとは云わない! その人は「主の子らではない」(申32:5)。その人は決して栄光の相続人ではない。

 自分は洗礼を受けており、英国国教会の教理問答を教え込まれている、だから神の子どもに違いない、などと私に云っても無駄である。私はあなたに云おう。教区記録簿はいのちの書ではない。私はあなたに云おう。祈祷書への信仰と愛によって神の子どもであると称され、幼児新生した者と呼ばれることと、現実に神の子どもであることとは、途方もない大違いである。その教理問答をもう一度よく読んでみるがいい。「罪に対して死に、義に対して新しく生まれること」こそ、人々を恵みの子らにするものである。こうしたことを体験的に知っていない限り、あなたは決して神の子どもではない。

 自分はキリストの教会の一員である、だから子どもに違いない、などと私に云っても無駄である。私は答えよう。教会の子どもたちは必ずしも神の子どもたちではない。そうした子とされることは、ロマ書8章の子とされることは違う。だがその意味で子とされることこそ、救われるために必須のことなのである。

 さて今、疑いもなくこの論考を読んでいる一部の人々は、果たして自分が御霊の証しなしに救われうるかどうか知りたがっているに違いない。

 私は答えよう。もしあなたが御霊の証しということで意味しているのが、希望の完全な確証ということなら、----疑問の余地なく、あなたはそのままでも救われるであろう。しかしもしあなたが知りたがっていることが、人は自分が救われているという内的感覚や、知識や、希望を全く何も持たずに救われることができるのか、ということであれば、私は、普通そうした人は救われない、と答える。私はあなたにはっきりと警告しておく。神の前における自分の状態については、いかなる遅疑逡巡も打ち捨てて、自分の召しを確かにするがいい、と。あなたの立場と関係を曇りないものとするがいい。常に疑いの中にあることは何か賞賛に値することだ、などと考えてはならない。そのようなことはローマカトリック教徒にまかせておくがいい。古の国境住民たちのように、常に「係争中の土地」に生きていることが賢明で、へりくだったことだなどと考えてはならない。古のピューリタンであるドッドは云う。「確証に達することはできるし、もしそれに達していないとしたら、キリスト者になって以来の私たちの人生は何だったというのか?」

 疑いもなく、この論考を読んでいる真のキリスト者の中には、自分が子とされている証拠はあまりにも小さく取るに足らないものと思われ、自分などもう駄目だと云おうとしている人々があるに違いない。ここでそういう人々を励ましておきたい。あなたが今いだいているような感情をだれが与えたのだろうか? あなたに罪を憎ませるようにしたのはだれだろうか? あなたにキリストを愛するようにさせたのはだれだろうか? あなたに聖さを切望させ、聖くなろうとさせたのはだれだろうか? こうした感情はどこから来たのだろうか? 生まれながらの人々の心には全くこのようなものはない。----それらは悪魔から来たものだろうか? むしろ彼はそのような感情の息の根をとめようと躍起になるであろう。----元気を出し、心を奮い立たせるがいい。恐れてはならない。落胆してもならない。前に向けて進み続けることである。やはりあなたには望みがあるのである。戦うがいい。苦闘するがいい。求めるがいい。捜すがいい。戸を叩くがいい。ついて行くがいい。やがてあなたは、自分が「神の子ども」であることを知るであろう。

 III. 最後のこととして示したいのは、真のキリスト者と神との関係に伴う種々の特権である。

 神の子どもたちが将来に対して有する見込みほど栄光に富んだものは思い浮かべることもできない。この論考の冒頭に冠した聖書の言葉には、慰めに満ちた素晴らしい事がらが大量に埋蔵されている。パウロは云う。「もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります」(ロマ8:17)。

 ということは真のキリスト者は「相続人」なのである。----やがて明らかにされるべき何かが、彼ら全員のために備えられているのである。

 彼らは「神の相続人」である。----地上の富者の相続人であることはたいしたことである。それでは王の王の子どもであり、相続人であることは、いかにいやまさって大きなことか!

 彼らは「キリストとの共同相続人」である。彼らはキリストの威光をともにし、キリストの栄光にあずかることになる。彼らはキリストとともに栄化されることになる。

 そして、ここで忘れてならないことだが、これは子どもたち全員のためのものなのである。アブラハムは自分の子どもたち全員に十分なものが行き渡るように気を配ったが、神もご自分の子どもたちに十分なものが与えられるように気を配っておられる。彼らのうちひとりとして廃嫡される者はない。ひとりとして放逐される者はない。ひとりとして勘当される者はない。主が多くの子たちを栄光に導く日には、ひとりひとりが間違いなく自分の分け前にあずかり、分与を受ける。

 光の中にある、聖徒の相続分の完全な性質をだれが云い表わせようか? やがて啓示されて神の子らに与えられる栄光をだれに描写できようか? それは云い知れないものである。言葉に尽くせないものである。心で十分に思い描けず、舌先で完全には表現できないものこそ、全能の主の息子たち、娘たちの上にやがて臨むべき栄光に含まれたものなのである。おゝ、まさに使徒ヨハネの言葉は至言である。「後の状態はまだ明らかにされていません」(Iヨハ3:2)。

 聖書そのものでさえ、この主題を包み隠している覆いをほんの少ししか上に掲げてはいない。いかにしてそれ以上のことが云えるだろうか? たとえそれ以上のことが語られていたとしても、私たちは完全にはそれ以上の理解は得られなかったであろう。より多くのことを知らされていたとしても、より多くを理解するには、私たちの精神はまだあまりにも地上的な成り立ちをしている。----私たちの理性はまだあまりにも肉的である。聖書は一般にこの主題を、打ち消し的な言葉で扱っており、肯定的な主張を打ち出して扱うことは少ない。聖書は、その栄光の相続分の中に何がないかを描写することによって、そこにあるものをかすかにでも思い浮かべられるようにしてくれている。それは、特定の事がらの欠如を描き出して、私たちがそこにあるものの祝福をしみじみと実感させようとしているのである。それが私たちに告げるところ、その相続財産は「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない」。それが告げるところ、「その栄光の冠はしぼむことがない」*。それが私たちに告げるところ、悪魔は「縛られ」*、そこには「夜も、のろわれるものも何もなく」*、「死は、火の池に投げ込まれ」*、「目の涙はすっかりぬぐい取られ」*、そこに住む者は、もはやだれも「私は病気だ」とは云わない。そしてこれらは、まさに栄光に富む事がらである。全く朽ちることがない!----全く消えて行くことがない!----全くしぼむことがない!----全く悪魔がいない!----全く罪の呪いがない!----全く悲しみがない!----全く涙がない!----全く病がない!----全く死がない! 確かに神の子どもたちの杯は、まさにあふれている!(Iペテ1:4; 5:4; 黙20:2; 21:25; 22:3; 20:14; 21:4; イザ33:24)

 しかし、神の相続人たちの上にやがて臨むべき栄光については、肯定的な事がらも私たちに語られている。それを云い落とすわけにはいかない。彼らの未来の相続財産の中には多くの甘やかで、快く、云い尽くしがたい慰めがある。それはすべての真のキリスト者が考えておいてよいものである。聖書の多くの言葉や表現の中には、気を落としがちな巡礼たちのための強壮剤がある。それをあなたや私は必要なときのために蓄えておかなくてはならない。

 (a) 知識は今の私たちにとって心楽しいことだろうか? 私たちが神とキリストについて知っているなけなしのこと、また聖書は、私たちの魂にとって尊いものだろうか? そして私たちはより多くを切望しているだろうか? 栄光において私たちはそれを完璧に得ることになる。聖書は何と云っているだろうか? 「その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります」(Iコリ13:12)。神はほむべきかな、もはや信仰者の間には何の不一致もなくなるであろう! 監督派と長老派、----カルヴァン主義者とアルミニウス主義者、----千年王国主義者と反千年王国主義者、----国立教会支持者と任意寄付主義者、----幼児洗礼を主張する者と成人洗礼を主張する者、----すべての者たちがとうとう見解を全く一致させるようになるであろう。先の無知は過ぎ去ってしまうであろう。私たちは自分たちが何と子どもっぽく、無知であったことかを知って、驚くことになるのである。

 (b) 聖さは今の私たちにとって心楽しいことだろうか? 罪は私たちの生活の中で重荷となり苦痛となっているだろうか? 私たちは神のかたちに完全に一致することを切望しているだろうか? 栄光において私たちはそれを完璧に得ることになる。聖書は何と云っているだろうか? 「キリストが……教会のためにご自身をささげられた」のは、地上において教会をきよめるためばかりでなく、「しみや、しわや、そのようなものの何一つない……栄光の教会を、ご自分の前に立たせるため」であった(エペ5:27)。おゝ、罪に永久に暇を告げるほむべき瞬間よ! おゝ、現在においては、私たちのうちの最良の者といえども何と小さな者であることか! おゝ、何と言葉にも出せない腐敗が、鳥もちのように私たちのすべての動機、私たちのすべての考え、私たちのすべての言葉、私たちのすべての行動にへばりついていることか! おゝ、私たちのうちのいかに多くの者が、ナフタリのように美しいことばを出しつつも、ルベンのように奔放な行ないをすることか! 神に感謝すべきかな、これらはみな変えられることになるのである(創49:4 <新改訳欄外訳>、21)。

 (c) 安息は今の私たちにとって心楽しいことだろうか? 私たちはしばしば「疲れつつ追撃している」*ように感ずるだろうか(士8:4)? 私たちは、常に油断せず戦い続けることのなくなる世界を切望しているだろうか? 栄光において私たちはそれを完璧に得ることになる。聖書は何と云っているだろうか? 「安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです」(ヘブ4:9)。世と、肉と、悪魔との日ごとの、時々刻々たる争闘は、とうとう終結を迎える。敵は縛り上げられることになる。戦いは終わる。悪人はついに厄介をもたらさなくなる。疲れ切った者はようやく安息を得る。大いなる静穏が訪れるのである。

 (d) 奉仕は今の私たちにとって心楽しいことだろうか? 私たちはキリストのために働くことを甘やかだと思いつつも、か弱い肉体によって課せられている重荷にうめいているだろうか? 私たちはしばしば、霊においては意欲があるのに、哀れな弱い肉によって妨げられ、足を引っ張られているだろうか? 私たちの心は、キリストのゆえに水一杯を差し出すことを許されたときにも、内側で燃やされることがあっただろうか? また、何と自分が役に立たないしもべかを考えて溜め息をつくことがあっただろうか? 元気を出そうではないか。栄光において私たちは完璧に、何の疲れもなしに奉仕することができるようになる。聖書は何と云っているだろうか? 「彼らは……聖所で昼も夜も、神に仕えているのです」(黙7:15)。

 (e) 満足は今の私たちにとって心楽しいことだろうか? 私たちは世のむなしさがわかっているだろうか? 自分の心のあらゆる空洞と隙間が埋められることを切望しているだろうか? 栄光において私たちはそれを完璧に得ることになる。私たちはもはや自分の土の器のひび割れや、私たちのあらゆる薔薇のとげ、また私たちのあらゆる甘い杯の苦い澱を悲しまなくてもよくなる。私たちはもはや、ヨナとともに枯れたとうごまのことを嘆かなくともよくなる。私たちはもはや、ソロモンとともに、「すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ」、と云わなくてもよくなる。私たちはもはや、老いたダビデとともに、「私は、すべての全きものにも、終わりのあることを見ました」、と云わなくてもよくなる。聖書は何と云っているだろうか? 「私は……目ざめるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう」(伝1:14; 詩119:96; 17:15)。

 (f) 聖徒たちとの交わりは今の私たちにとって心楽しいことだろうか? 私たちは、「地にある威厳のある者たち」*とともにあるときほど幸福なことはないと感じているだろうか? 彼らほど気の置けない人々はないだろうか?(詩16:3) 栄光において私たちはそれを完璧に得ることになる。聖書は何と云っているだろうか? 「人の子はその御使いたちを遣わします。彼らは、つまずきを与える者や不法を行なう者たちをみな、御国から取り集め……ます」。「人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、……四方からその選びの民を集めます」(マタ13:41; 24:31)。神は賛美されるべきかな! 私たちは聖書の中で読んできたすべての聖徒たち、自分がその足どりをたどろうとしてきたすべての聖徒たちと会うことになる。私たちは、この世がふさわしい所ではなかった使徒たち、預言者たち、族長たち、殉教者たち、改革者たち、宣教師たち、教職者たちと会うことになる。私たちは地上でキリストにあって知り愛していた人々、その死にのぞんで苦い涙を流した人々の顔を見ることになる。私たちは彼らが以前は決してなかったような輝きと栄光に包まれているのを見ることになる。そして、何にもまして良いことに、私たちは彼らと会うとき、何にもせき立てられず、何の懸念もなく、別れの時が間近に迫っているなどとは全く感じることがない。来たるべき栄光には、何の死も、何の別れも、何の暇乞いもない。

 (g) キリストとの交わりは今の私たちにとって心楽しいことだろうか? 私たちは主の御名が自分にとって尊いものであることを知っているだろうか? 主の死に給う愛を思うとき私たちは、自分の心が内側で燃えるのを感じるだろうか? 栄光において私たちは主との完璧な交わりを得ることになる。「私たちは、いつまでも主とともにいることになります」(Iテサ4:17)。私たちは主とともにパラダイスにいることになる(ルカ23:43)。私たちは御国で主の御顔を見ることになる。私たちの目は、釘で貫かれた御手と御足、またいばらの冠をかぶせられたみかしらを見るであろう。主のいるところにはどこにでも、神の子どもたちがいるであろう。主の行くところにはどこにでも、彼らはついて行くであろう。主がその栄光の座にお着きになるとき、彼らは主のそばに座ることになる。何とほむべき展望であろう! 私は死につつある世界にいる死につつある人間である。私の前にあるすべては暗い。来たるべき世は未知の港である。しかしキリストがそこにおられる。それで十分である。確かに、もしも地上で信仰によって主に従うことに安息と平安があるなら、顔と顔を合わせて主を見るときには、はるかにいやまさる安息と平安があるであろう。もしも荒野で雲の柱、火の柱に従っていくのが良いとわかっているなら、約束の地にある自分の永遠の相続地に、私たちのヨシュアとともに腰を落ち着けることは一千倍も良いことであることがわかるであろう。

 もしこの論考を読んでいる方々の中にまだ神の子どもでも相続人でもない方がおられるなら、私は衷心からあわれに思う! あなたはいかに多くのものを取り逃がしつつあることか! あなたはいかに僅かしか真の慰めを享受していないことか! 今のあなたは、苦闘を続け、火の中であがき、ただの地上的な目的に身も心もすり減らし、----休み場を捜すが、見つからず、----影を追っても決して捕まえられず、----なぜ自分は幸福でないのかと訝しがりながら、しかしその原因は決して直視しようとせず、----飢え、渇き、うつろでいながら、しかし手の届くところにある潤沢な蓄えには全く目をとめない。おゝ、もっと賢くなるがいい! おゝ、イエスの声を聞き、彼に学ぶがいい!

 もしあなたが、神の子ども、相続人のひとりであるなら、あなたは大いに喜び、幸福になってよい。あなたは『天路歴程』の忍耐児のように、待っていてよい。あなたの最良のものはまだ来ていないのである。あなたは、つぶやくことなく様々な十字架を負ってよい。あなたの軽い患難は、一時のものでしかない。「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます」。----「私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます」(ロマ8:18; コロ3:4)。あなたは、そむく者とその繁栄を見てねたむことはない。あなたこそ真に富んでいるのである。いみじくも、私の教区内に住むひとりの信者はその臨終のとき、こう云った。「私は今、一生のうちで一番富んでいるのです」。あなたは、メフィボシェテがダビデに云ったように云ってよい。「私の王が無事にお戻りになるなら、この世がすべてを取りあげてもよいのです」*、と(IIサム19:30)。あなたは、アレグザンダーが自分の富をすべて分け与え、自分には何が残っているのかと問われたとき答えたように云ってよい。「私には希望があります」、と。あなたは病によって打ちひしがれなくともよい。肉体に何が起ころうとも、あなたの永遠の部分は安全であり、十分なものが備えられている。あなたは平静に死を見つめることができる。死こそ、あなたとあなたの相続財産の間の扉を開いてくれるのである。あなたは、この世の事がらについて悲しみすぎなくてよい。----別離や死別について、損失や十字架について過度に悲しまなくともよい。あなたの前には集まりの日が待っている。あなたの宝はいかなる害も及ぼされないところにある。天国は、年ごとにあなたの愛する人々で満たされて行きつつあり、地上は年ごとに空虚になりつつある。あなたの相続財産を大いに喜ぶがいい。もしあなたが神の子どもであるなら、それはみなあなたのものなのである。「もし子どもであるなら、相続人でもあります」。

 (1) さて今、この論考のしめくくりにあたり、ここまで読んできたすべての方に私は問いたい。あなたはだれの子どもだろうか、と。あなたは天性の子どもだろうか、恵みの子どもだろうか? 悪魔の子どもだろうか、神の子どもだろうか? あなたは、その2つに1つである。どちらだろうか?

 この問いに早く決着をつけるがいい。あなたは最後には、そのどちらかの者として死ぬしかないからである。決着をつけるがいい。これは決着をつけられる問いであり、それを疑わしいままにしておくのは愚の骨頂だからである。決着をつけるがいい。時は縮まっており、世界は古びつつあり、あなたはキリストの審きの座にぐんぐん近づきつつあるからである。決着をつけるがいい。死は間近に迫り、主は近く、一日のうちに何が起こるか、だれも知らないからである。おゝ、決してあなたがこの問いに決着をつけるまで安心しないように! おゝ、決してあなたがこう云えるようになるまで満足しないように! 「私は新しく生まれた者、私は神の子どもです」、と。

 (2) もしあなたが神の子ども、神の相続人でないとしたら、私は切に願う。一刻も早く神の子ども、相続人になっていただきたい。あなたは富を欲しているだろうか? キリストのうちには測りがたい富があるのである。高い身分になりたいだろうか? あなたは王となるのである。幸福になりたいだろうか? あなたは人のすべての考えにまさる平安、世が与えることも取り去ることもできない平安を持つことになるのである。おゝ、出て来て、十字架を負い、キリストに従うがいい! 何も考えていない世俗的な人々の間から出て行き、主のことばを聞くがいい。「わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる」(IIコリ6:18)。

 (3) もしあなたが神の子どもであるなら、私はあなたに切に訴えたい。あなたの御父の家にふさわしい歩みをするがいい、と。私はあなたに厳かに命ずる。あなたの人生において神に栄誉を帰すがいい。そして何よりも、神のすべての命令に黙って服従することと、神の子どもたち全員に心からの愛を注ぐことによって、神に栄誉を帰すがいい。この世の旅路を神の子どもらしく、また栄光の相続人らしく歩むよう努力するがいい。人々が、あなたとあなたを生んでくださったお方との間に、いかにも親族と思える類似点を見るようにさせるがいい。天的な人生を送るがいい。上にあるものを求めるがいい。下で自分の巣作りをしているような生き方をしてはならない。目に見えない都を求めている者、その国籍が天にあるような者、家に帰り着くまではどれほどの辛苦に遭っても満足しようとする者のようにふるまうがいい。

 いかなる状況に置かれていても、神の子どもらしい感じ方をするように努めるがいい。この地上にいる限り、自分が父の土地の上にいることを決して忘れてはならない。父の御手によってあらゆるあわれみ、あらゆる十字架が送られてくることを決して忘れてはならない。あらゆる思い煩いを御父に投げかけるがいい。父にあって心楽しく、朗らかにしているがいい。もしあなたが王の子どもだとしたら、なぜ現実のあなたは悲しんでなどいるのか? 人々があなたを見るときに、神の子どものひとりとなることが果たして心楽しいことなのかどうか、疑わせるようなことがあってよいだろうか?

 他の人々に対して神の子どもらしいふるまいをするよう努めるがいい。あなたの時代と世代にあって、非難されるところなく、人に害を及ぼさない者となるがいい。あなたは、「あらゆる知人の中にあって平和をつくる者」*となるがいい(マタ5:9)。何にもまして、あなたの子どもたちが神の子とされることを求めるがいい。他に何をしてやるにせよ、天にある相続財産を彼らが得られるようにしてやるがいい。いかなる人も、わが子を神の子ども、神の相続人として残していく人ほど、十分な富を残していく人はない。

 もしあなたが神の子どもであるなら、あなたのキリスト者としての召しを貫き通し、いやまさって前進して行くがいい。いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てるよう心がけるがいい。イエスから堅く目を離さないようにするがいい。イエスにとどまるがいい。彼がいなくてはあなたには何もできないが、彼がともにいればどんなことでもできることを忘れてはならない(ヨハ15:5; ピリ4:13)。日々油断せず、祈りに励むがいい。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励むがいい。主の弟子だというので水一杯でも飲ませる者は、決して報いに漏れないということ、また年ごとに自分が故郷に近づいていることを心に銘記するがいい。

 「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない」(ヘブ10:37)。そのときには、神の子どもたちの栄光の自由、また完全な現れが生ずることになる(ロマ8:19、21)。そのときにはこの世も、彼らこそ真に賢い者らであったと認めることになる。そのときには、ついに神の子どもたちは成人し、もはや相続予定人ではなく、完全に所有する相続人となる。そのときには彼らは、この上もない喜びをもってこのことばを聞くことになる。「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい」(マタ25:34)。確かにその日こそ、すべてのことを償ってあまりあるであろう!

神の相続人[了]

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*1 もちろん読者は、私が決してここでは、幼児期に死んだ子どもたちや、重度の精神薄弱者のまま生きて死んでいく人々のことについて語っているのではないと理解されるであろう。[本文に戻る]

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