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21. 永遠!


「見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」。----IIコリ4:18

 この聖句から鮮明に浮かび上がる主題は、聖書の中で最も厳粛で、最も心探られる主題の1つである。その主題とは、永遠にほかならない*1

 この主題は、いかに深い叡知の持ち主もほとんど理解できない事がらの1つである。私たちには、これを見通せるだけの眼力も、この深さを測るだけの測深索も、これを会得するだけの精神もない。だが私たちは、これを考察することを放棄してはならない。私たちの頭上に広がる諸天には、いかに強力な望遠鏡も見きわめることのできない星々の深淵がある。だが、たとえすべてを知り尽くすことはできなくとも、そこに眼を凝らし、少しでも学ぼうとするのは良いことである。永遠という主題については、定命の人間には決して悟りえない高みと深みがある。だが、神が永遠について語っておられる以上、私たちにそれを無視する権利は全くない。

 この主題は、決して聖書を携えずに近づいてはならない主題である。永遠や、人間の未来の状態を考察する際に、「書かれた神のみことば」から離れるや否や、私たちはたやすく過ちに陥るであろう。このような点を吟味する場合には、いかなる既成概念も意味を持たない。私たちが、神のご性格や、私たちが考えるところの神がどうあらねばならないか、あるいは、神が死後の人間に何を行なわなくてはならないか、といったことについて、もともとどのように考えていたにせよ、そこには何の価値もない*2。私たちがしなくてはならないことはただ1つ、何が書かれているかを探り出すことである。聖書は何と云っているだろうか? 主は何と云っておられるだろうか? ある人々によれば、私たちは、聖書にとらわれない、聖書を越えた、「神に関する高貴な思想」を持つべきである、と云われるが、それは気違い沙汰である。自然宗教は、ここではたちまち行き詰まってしまう。神に関して私たちがいだきうる最も高貴な思想とは、神がご自分の「書かれたみことば」において私たちに啓示することをよしとされた思想にほかならない。

 私はこの論考を手に取ることになるあらゆる人の注意をひきたいと思う。これから私は、永遠について、示唆に富む思想をいくつか提示したい。定命の人間として私は、こうした主題を扱う自分の足りなさを痛感するものである。しかし私は祈り求めている。願わくは聖霊なる神が、弱さのうちに全うされると云われるその御力により、私の語る言葉を祝福し、それが永遠のいのちの種となって、多くの人々の思いの中に蒔かれるように、と。

 I. 私が読者の方々の注意を最初にひきたいと思う思想は、このことである。----私たちの生きているこの世では、あらゆるものが一時的なものであり、過ぎ去りつつある

 このことを悟ることができないという人は、実に盲目な人に違いない。私たちの周囲のあらゆるものは、常に衰えつつあり、死につつあり、終わりつつある。むろん、ある意味において「物質」は疑いもなく永遠である。いったん創造されたなら、それは決して完全に消滅することはない。しかし、普通に考えられる、現実的な意味においては、私たちの身の回りにあるものの中で、不滅のものは、私たちの魂のほか1つもない。詩人がこう云うのも当然である。

  「変化と腐敗をあまたにわれ見る
   おゝ、汝、変わりなき方、われとともにあれかし!」

私たちはみな、身分の上下、家柄の善し悪し、貧富の差、年齢の長幼にかかわらず、みな死につつあり、死につつあり、死につつある。私たちはみな、死にゆく者であり、すぐに死んでいなくなるであろう。

 美はほんのつかの間のものでしかない。サラはかつては女の中で最も美しい者であり、エジプト宮廷の賛嘆の的であった。しかし、やがて夫アブラハムでさえ、「死んだ者を私のところから移して、葬らせてください」*、という日がやって来た(創23:4)。肉体の強さはほんのつかの間のものでしかない。ダビデはかつては勇士であり、獅子や熊をも打ち殺し、イスラエルの代表戦士としてゴリヤテと戦った。しかし、やがてそのダビデでさえ、老齢に達し、幼児のように世話をされ、かしずかれなくてはならない日がやって来た。----知恵と頭脳の力はつかの間のものでしかない。ソロモンはかつては驚異的な知識を有しており、彼の知恵を聞くために、地上のすべての王たちがやって来た。しかしそのソロモンでさえ、晩年には愚劣きわまりないことを行ない、妻たちによってみすみす「心を転じ」させられるにまかせた(I列11:2)。

 こうした真理は屈辱的で、痛ましいものではあるが、私たちはみな、これらを十分に理解し、心に銘記するに越したことはない。私たちの住んでいる家、私たちの愛する家庭、私たちの立てている計画、私たちが結んでいる人間関係、----これらはつかの間のものでしかない。「見えるものは一時的であり」。「この世の有様は過ぎ去るからです」(Iコリ7:31)。

 こうしたことを考えるとき、この世のためだけにしか生きていないすべての人々は目を覚ますべきである。もしもそうした人の良心が完全に無感覚になっていないとしたら、これは彼の心を騒がせ、非常に深く心を探るはずである。おゝ、自分のしていることに用心するがいい! 手遅れにならないうちに目を覚まし、物事の真の姿を見抜くがいい。今あなたが生きがいとしているものはみな一時的であり、過ぎ去りつつある。今あなたの心を夢中にし、あなたの思いを占領している様々な快楽や、娯楽や、楽しみや、陽気な浮かれ騒ぎや、利益や、職業は、まもなく終わりを迎える。それらは、長持ちしない、あわれな、はかないものである。おゝ、それらをあまりに愛しすぎてはらない! それらをあまりに堅く握りしめてはならない。それらをあなたの偶像にしてはならない! あなたはそれらを保ち続けることはできず、それらから離れて行かなくてはならないのである。神の国をまず第一に求めるがいい。そうすれば、それに加えて、あらゆるものはすべて与えられる。「あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい」。おゝ、世を愛する人々よ、まだ間に合ううちに知恵を得るがいい! 決して、決して、こう書かれていることを忘れてはならない。「世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます」(コロ3:2; Iヨハ2:17)。

 また、同じことを考えるとき、あらゆる真のキリスト者たちは勇気づけられ、慰められるべきである。あなたがたの試練や、十字架や、争闘は、みな一時的である。それらはまもなく終わりを迎える。そして今でさえ、それらは、あなたがた「のうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたら」しつつある(IIコリ4:17)。それらを忍耐強く受け入れるがいい。黙ってそれらに耐えるがいい。それらを越えて、あなたがたの上を、前を、先を見るがいい。あなたの日々の戦いはつかの間のものでしかなく、あなたがたの安息の時は間近に迫っている。それを堅く確信して、戦い抜くがいい。あなたの日々の十字架は一時的な、「見えるもの」の1つでしかない。それを常に思い出しつつ、負い通すがいい。その十字架はまもなく栄冠に取って変わられ、あなたは天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓につくことになるのである。

 II. 第二に私が読者の方々の注意をひきたいと思う思想は、このことである。----私たちはみな、あらゆるものが永遠である世界へと向かいつつある

 墓の彼方の、目に見えない、かの大いなる存在の状態は、永遠のものである。それが幸福なものであれ悲惨なものであれ、喜ばしい状態であれ悲しむべき状態であれ、1つの点において、それはこの世とは全く似ても似つかない。----それは永遠である。いずれにせよ、そこには、何の変化も腐敗もなく、何の終わりも、何の暇乞いも、何の朝も、何の夜も、何の変転も、何の消滅もない。最後のラッパが吹き鳴らされ、死人がよみがえるとき、墓場の向こう側に何があろうと、それは終わりのない、無限に続く、永遠のものであろう。「見えないものはいつまでも続くからです」。

 私たちには、完全に十分にはこの状態のことを理解できない。今とその時、現世と来世との間にある差異は、あまりに途方もなく大きいため、頼りにならない私たちの精神では、それを把握できないのである。それに伴う種々の結果はあまりにも圧倒的なものであるため、それらはほとんど私たちの息をもとめるほどであり、私たちはそれらを見つめることからひるまざるをえないのである。しかし聖書が平易に語っているとき、私たちにはその主題に背を向ける権利はなく、私たちの手に聖書がある限り、私たちは「いつまでも続くもの」に目をとめるに越したことはないはずである。

 さて、まず1つのこととして私たちが心に銘記したいのは、救われた人々の未来の幸福が永遠である、ということである。私たちがいかにわずかしかそれを理解できなくとも、それは何の終わりもない何かである。それは決してやむことも、古びることも、腐ることも、絶えることもないであろう。神の「右には、楽しみがとこしえにあります」(詩16:11)。いったんパラダイスに到着したなら、神の聖徒たちはどこへも出て行くことがない。その相続財産は、「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない」。彼らは、「しぼむことのない栄光の冠を受ける」(Iペテ1:4; 5:4)。彼らの戦闘は成し遂げられた。彼らの戦いは終わった。彼らの務めは完了した。彼らはもはや飢えることも、渇くこともない。彼らは「重い永遠の栄光」に向けて旅を続けている。決して離散することのない家庭、決して解散することのない集会、何の別れもない家族の集い、夜のない昼へ向けて旅を続けている。信仰は目に見えるものに呑み込まれ、希望は確実なものに呑み込まれてしまう。彼らは、自分が見られているのと同じように見ることになり、自分が完全に知られているのと同じように完全に知ることになり、「いつまでも主とともにいることに」なる。使徒パウロがこう云い足しているのも不思議ではない。「このことばをもって互いに慰め合いなさい」(Iテサ4:17、18)。

 別のこととして心に銘記したいのは、最終的に滅びに至る人々の未来の悲惨さも永遠である、ということである。これが恐ろしい真理であることは承知している。血肉は生来、この真理について考えを巡らすことにひるむものである。しかし私は、これが聖書の中で平易に啓示されていると信ずる者のひとりであり、それを講壇の上で包み隠しておくことは到底できない。私の見るところ、永遠の未来の幸福と、永遠の未来の悲惨とは隣り合わせに立っている。一方の期間と、もう一方の期間とを、どうすれば違ったものとして考えられるものか、私には見当もつかない。もし信仰者の喜びが永遠のものであるなら、不信者の悲しみもまた永遠のものである。もし天国が永遠なら、同じように地獄も永遠である。これは私の無知かもしれない。だが私には、いかにしてこの結論が避けられるものかわからないのである。

 私は、刑罰が永遠のものではないという考えを、聖書の云い回しと調和させることができない。そうした考えを支持する人々は、声高に愛と博愛について云い立て、それは神のあわれみ深く情け深いご性格にそぐわない、と云う。しかし聖書は何と云っているだろうか? 私たちの主イエス・キリストほど愛とあわれみに満ちたことばを口にしたお方があるだろうか? だが主の口唇は、三回以上も、悔い改めることなき罪人の末路を、「尽きることがないうじ、消えることがない火」、と描写しているのである。主こそ、悪人が「永遠の刑罰」に入ること、義人が「永遠のいのち」に入ることを一息に語っているお方なのである(マコ9:43-48; マタ25:46)*3。----愛に関するパウロの言葉を覚えていない者がいるだろうか? だが彼こそは、悪人が「永遠の滅びの刑罰を受ける」、と云っている当の使徒なのである(IIテサ1:9)。----聖ヨハネの福音書と書簡全体を流れている愛の精神を知らない者がいるだろうか? だが、この愛された使徒こそ、新約聖書の中でも最も強烈な調子で----黙示録において----未来の災厄が現実にある永遠のものであると詳述している当人なのである。こうした事がらに対して私たちは何と云うであろうか? 私たちは、書かれていることを越えて賢くなるべきだろうか? 聖書の言葉には一見したところの意味とは別の意味があるのだ、などという危険な原則を私たちは認めるべきだろうか? むしろ、自分の口に手を当てて、「神がお書きになったことは何であれ真実です」、と云う方がはるかにまさっているのではなかろうか? 「しかり。主よ。万物の支配者である神よ。あなたのさばきは真実な、正しいさばきです」(黙16:7)。

 私は、刑罰が永遠のものではないという考えを、私たちの祈祷書の云い回しと調和させることができない。私たちの比類なき連祷の、最冒頭の請願には、このような一文が含まれている。「永遠の断罪から、良き主よ、われらを救い出したまえ」。----教理問答を学ぶ子どもならだれでも教わることだが、私たちは、主の祈りを唱えるときにはいつでも、私たちの天の御父にこういう願いを繰り返しているのである。「願わくはわれらを、われらの霊なる敵から、また永遠の死から守りたまえ」。----私たちの告別礼拝においてすら、私たちは墓の傍らでこう祈っている。「願わくはわれらを、永遠の死の苦い痛みから救い出したまえ」。----もう一度、私は問う。「こうした事がらに対して私たちは何と云うであろうか?」 私たちは自分の会衆に向かって、もし人が罪のうちに生き、死んだとしても、遠い未来においては幸福になる希望がある、などと教えることができようか? 私たちの常識豊かな礼拝者たちの多くは、きっと答えるに違いない。そんなことがもし正しいとしたら、祈祷書の言葉には意味など全くなくなるではありませんか、と。

 私は自分が格別豊かな聖書知識の持ち主であると主張するつもりはさらさらない。私は日々、自分はローマの司教と同程度にしか無謬ではないと感じている。しかし私は、神が自分に与えてくださった光に応じて語らなくてはならない。そして私は、もし自分がこの主題について警告の声をあげず、キリスト者たちに警戒を呼びかけようとしないとしたら、自分の義務を果たしているなどと考えることはできない。六千年の昔、罪が世に入ったのは悪魔の大胆不敵な嘘っぱちのせいであった。----「あなたがたは決して死にません」(創3:4)。六千年たっても、この人類の大敵は、その古なじみの武器をまだ用いており、たとえ人が罪の中に生きて死んでも、最終的には、遠い未来のいつの日にか救われるのだ、と人々を説き伏せようとしている。彼の策略に無知を決め込まないようにしようではないか。昔からの通り道を堅実に歩むようにしよう。昔からの真理を堅く握り、救われた者の幸福が永遠であるように、滅びに至る者の悲惨も永遠であると信じていよう*4

 (a) 私たちはこのことを、啓示宗教の全体系のために堅く握っていよう。神の御子の受肉も、ゲツセマネでの苦悶も、贖いをなしとげるための十字架上での死も、もし人々が彼を信じなくとも最終的には救われうるのだとしたら、何の意味があっただろうか? キリストの血潮を信ずる、救いに至る信仰が、死後に生じうるなどという証拠が、これっぽっちでもあるだろうか? もし罪人たちが、最終的には、回心や心の更新もなしに天国に入れるのだとしたら、聖霊の必要などあるだろうか? だれかが新生しない状態のまま死ぬとしても、新しく生まれ変わり、新しい心を持てるなどという証拠が、ごくわずかでも、どこに見いだせるだろうか? もしある人が、キリストを信ずる信仰がなくとも、御霊の聖めがなくとも、結局は永遠の刑罰を逃れることができるというなら、罪はもは無限の悪ではなく、キリストが贖いをする必要などなかったことになる。

 (b) 私たちはこのことを、聖さと徳のために堅く握っていよう。私の想像するところ、罪の中に生きていながら、それでも永遠の破滅を逃れることができるなどという、まことしやかな理論ほど、血肉にとって快いものはない。また、自分たちが現世にあるときは「いろいろな欲情と快楽の奴隷」となっていながら、来世ではどうにかこうにか全員が天国に行けるということほど快いことはない! 「放蕩して湯水のように財産を使って」いる若者たちに、罪の中に生き、死んでいく者ですら、最後には天国に入れるのだと告げてみるがいい、彼らは決して悪から立ち返りはすまい。面倒なことをしなくても最後には天国に行けるというなら、なぜ悔い改めたり、十字架を負ったりすべきであろうか?

 (c) 最後に私たちはこのことを、神の聖徒たち全員に共通する希望のために堅く握っていよう。はっきりと理解しておこうではないか。刑罰の永遠性に加えられるあらゆる打撃は、報いの永遠性に対して加えられる大打撃に等しいということを。この両者を引き離すことは不可能である。いかに巧妙な神学的区別によっても、それらを分離することはできない。それらは立つも倒れるも一蓮托生である。聖書では、どちらの状態が語られるときも、同じ云い回しが用いられ、同じ比喩が使われている。地獄の継続期間に対するあらゆる攻撃は、天国の継続期間に対する攻撃でもある*5。これは深遠で、真実な言葉である。「罪人たちの恐れとともに、私たちの希望も失せ去る」。

 ここで、私の主題のこの部分を閉じたいと思うが、いま私は非常な痛ましさを感ずるものである。私は、ロバート・マクチェーンとともに、「これは愛をもって扱うのが困難な主題である」、と強く感ずる。しかし、これを閉じるにあたり私は、同じくらい深い確信も感じている。すなわち、私たちは、聖書を信ずる以上、聖書に含まれる、いかなるものも手放してはならない、ということである。いつくしみ深き主よ、願わくは、無情で、峻厳で、あわれみのかけらもない神学から、私たちを救いだしたまえ! もし人々が救われないとしたら、それは彼らが「キリストのもとに来ようとはしない」*からである(ヨハ5:40)。しかし、私たちは、書かれていることを越えて賢くなってはならない。寛大さと呼ばれるものを病的に愛することによって、決して私たちは、神が永遠について啓示されたいかなることをも退けるようになってはならない。人々は時として、神のあわれみと愛と慈悲心のことだけを語って、まるで神にはその他の属性が何もないかのように見えることがある。そして、神の聖や神のきよさ、神の正義や神の不変性、罪に対する神の憎しみなどが目に入らないかのように見えることがある。このような迷妄に陥らないように用心しようではないか。これは、この終わりの時代において増大しつつある悪である。罪の云いようもない邪悪さと汚れについて、また、永遠の神の云いようもないきよさについて、程度の低い不適切な見解をいだくことこそ、人間の未来の状態に関する思い誤りをとめどなく生み出す最適の土壌にほかならない。私たちが考えておかなくはならないのは、私たちが弁明しなくてはならない相手は、偉大なる無比の実在者だということである。この方自ら、ご自分のご性格をモーセに向かってこう宣言しておられる。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者」、と。しかし、私たちが決して忘れてならないのは、このことばをしめくくる厳粛な一言である。「罰すべき者は必ず罰して報いる者」(出34:6、7)。悔い改められることのない罪は永遠の悪であり、決して罪でなくなることはありえない。そして、私たちが弁明しなくてはならないお方は、永遠の神なのである。

 詩篇145篇の言葉は驚くばかりに美しい。「主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵みに富んでおられます。主はすべてのものにいつくしみ深く、そのあわれみは、造られたすべてのものの上にあります。……主は倒れる者をみなささえ、かがんでいる者をみな起こされます。……主はご自分のすべての道において正しく、またすべてのみわざにおいて恵み深い。主を呼び求める者すべて、まことをもって主を呼び求める者すべてに主は近くあられる。……すべて主を愛する者は主が守られる」。こうした云い回しにこめられた慈愛を上回るものは何1つない! しかし、この箇所の行き着く先に、次のような厳粛な結論がつけ加えられていることは、何と驚くべき事実であろう。「悪者はすべて滅ぼされる」(詩145:8-20)。

 III. 第三に私が読者の注意をひきたい思想は、このことである。----見えない永遠の世界における私たちの状態は、完全に、現世において私たちがいかなる者であるかにかかっている

 地上で私たちが送っている人生は、どれほどうまく運んでも、短く、たちまち過ぎ去るものである。「私たちは自分の齢をひと息のように終わらせます」。----「私たちのいのちは、いったいどのようなものですか。私たちは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません」*(詩90:9; ヤコ4:14)。それに対し、この世を去った私たちの前にある人生は、終わりのない永遠であり、底なしの海であり、対岸のない大洋である。「あなたの御前では」、永遠の神よ、「一日は千年のようであり、千年は一日のようです」*(IIペテ3:8)。その世界には、もはや時がない。----しかし、いかにこの世における私たちの人生が短く、いかに来世における人生が無限のものではあっても、考えるだに途方もないことに、今の時に基づいて永遠が決まるのである。死後の私たちの運命は、人間的に云えば、生きている間の私たちのあり方にかかっているのである。聖書の記すところ神は、「ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります。忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです」(ロマ2:6、7)。

 私たちが決して忘れてはならないのは、生きている間の私たちは、見習い期間にある、ということである。私たちは、自分の人生のいかなる日にも、いかなる時間にも、後に芽を出し、実を結ぶことになる種を絶えず蒔いている。私たちの考えること、口にすること、行動することすべてには、そこから生ずる永遠の結果があるのである。それについて、私たちはあまりにわずかしか注意を払っていない。「人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません」(マタ12:36)。私たちの考えはみな数えられており、私たちの行為はみな量られている。聖パウロがこう云うのも不思議ではない。「自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです」(ガラ6:8)。一言で云えば、私たちは現世で蒔くものを来世で刈り取り、その刈り取りは永遠に至るものとなるのである。

 邪悪な生活を送った者も、栄光を帯びてよみがえることができる、というような、よくある考え方ほど大きな迷妄はない。この世ではキリスト教信仰を持っていなくとも、来世では聖徒になれる、などという考え方ほど大きな迷妄はない。かの有名なホイットフィールドが前世紀に回心の教理を復活させたとき、伝えられるところ、ひとりの聴衆が説教の後で彼のもとにやって来て、ここう云ったという。----「先生の仰ることはすべて本当です。私もいつかは回心し、新しく生まれたいと思います。でも私は、死ぬ前にはそうしたくありません」。残念ながら、こうした人に似た者はたくさんいるのではないかと思う。残念ながら、ローマカトリック教の煉獄という偽りの教理に、ひそかによしみを通じている者たちは、英国国教会の中にすら数多いのではなかろうか! 生きている間はいかに無頓着に過ごしている人々も、心の奥底では、死ぬときには自分も聖徒の中に数えられたい、という希望にしがみついているものである。どうやら彼らは、死ぬこと自体に、何か浄めか、みそぎをもたらすような効果があると堅く信じ込んでいるらしい。そして、この世でどのような生き方をしてこようと、来たるべき人生においては、「聖徒の相続分を受けるにふさわしい」者となれると期待しているようである。しかし、これはみな迷妄である*6

  「人生は主に仕えるべき時にして、
   大いなる報いを確かならしむる時なり」

 聖書の平易な教えによると、私たちは、死んだときに回心しているかいないか、信仰者であるか不信者であるか、敬虔な者か不敬虔な者か、に従って、まさにそのままの状態で、最後のラッパがなったときによみがえることになる。墓の中には何の悔い改めもない。最後の息を引き取った後では、何の回心もない。今こそ、キリストを信ずべき時であり、永遠のいのちをつかみとるべき時である。今こそ、暗闇から光に立ち返るべき時であり、私たちの召されたことと選ばれたこととを確かものとすべき時である。だれも働くことのできない夜が来る。木は倒れたときの状態のまま、横たわるのである。もし私たちが悔い改めることなく、信仰を持たない状態のままこの世を去るならば、それと同じ状態で復活の朝によみがえり、自分が「生まれなかった方がよかった」ことを思い知るであろう*7

 私はこの論考を読むあらゆる人に命ずる。このことを忘れず、時を活用するがいい。時間は人生を成り立たせている素材であるとみなし、決してそれを浪費したり、無駄に費やしたりしてはならない。あなたが過ごす一時一時は、一日一日は、一週一週は、一月一月は、一年一年は、みな、墓の彼方にある永遠の状態に何かしら関わっているのである。人生であなたが蒔くものを、あなたは確実に来世で刈り取るであろう。聖なるバクスターが云うように、「やるなら今」である。キリスト教信仰において私たちがすることは何であれ、今なされなくてはならない。

 いかなる恵みの手段を----最も小さなものから最も大きなものに至るまで----用いる際にも、このことを思い出すがいい。決してそれらをないがしろにしてはならない。それらは永遠の世界にあなたを向かわせる助けとなるため与えられており、その1つとして無思慮に扱われたり、軽々しく、ぞんざいに取り扱われたりして良いものはない。あなたの毎日の祈りや、聖書を読むこと、あなたの毎週の主の日におけるふるまいや、公の礼拝に出る態度、----こうした事がらはみな、ことごとく重要である。それらをすべて、永遠を覚えている者のように用いるがいい。

 これも重要なこととして、あなたが悪を行なうよう誘惑されるときには、このことを思い出すがいい。罪人たちがあなたを誘い、「ちょっとしたことではないか」、と云うとき、----サタンがあなたの心に囁きかけ、「気にすることはない。別にたいしたことではない。だれでもしていることではないか」、と云うとき、----そうしたときには、時間を超えた、目に見えない世界を見越して、そうした誘惑の面前に、永遠に対する思いを突きつけるがいい。殉教の死を遂げた、かの改革者フーパー主教について、1つの偉大な言葉が記録されている。ある者が、火刑に処せられる前のフーパー主教に、その立場を撤回させようとして、「生は甘く、死は苦いのだぞ」、と云い立てたとき、この善良なる主教は云ったという。「しかり、まことにしかり! さはあれど、永遠の生はいやまして甘く、永遠の死はいやまして苦い」、と。

 IV. 最後に私が読者の注意をひきたい思想はこのことである。----主イエス・キリストは、私たちがみな、時の間も、永遠においても、助けを求めなくてはならない良き友である

 神の御子が世にやって来られた目的は、いかに詳細に宣言されても、いかに声高に告知されても決して十分ではない。御子がやって来られたのは、私たちが「一時的な、見えるもの」の中で生きている間に、私たちに希望と平安を与えるためであり、また、私たちが「見えない、永遠のもの」の中に入ったときに、私たちに栄光と祝福を与えるためである。御子がやって来られたのは、「いのちと不滅を明らかに示」し、「一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるため」であった(IIテモ1:10; ヘブ2:15)。御子は、私たちの失われた、零落の状態をごらんになり、私たちをあわれんでくださった。そして今、主の御名はほむべきかな、この定命の人間たちが、「一時的なもの」の中を慰めをもって過ぎ行き、「永遠のもの」を恐れなく待ち望めるようにされているのである。

 こうした偉大な特権の数々を、私たちの主イエス・キリストは、ご自分の尊い血潮という代価を払って、私たちのためにかちとってくださった。主は私たちの身代わりとなり、私たちのもろもろの罪を十字架の上でご自身の肉体に負い、それから、私たちが義と認められるためによみがえられた。「彼は罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは……私たちを神のみもとに導くためでした」*。罪を知らない彼は、私たちの代わりに罪とされた。それは、あわれな罪深い被造物である私たちが、生きている間は赦され、義と認められ、死ぬときには栄光と祝福を受けるためであった(Iペテ2:24; 3:18; IIコリ5:21)。

 そして私たちの主イエス・キリストは、私たちのためにかちとられたすべてのものを、自分たちの罪から離れ、主のもとに来て信ずるすべての人々に、無代価で差し出しておられる。主は云っておられる。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがありません」*。----「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」。----「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」。----「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」。----そして、その条件は、この申し出が無代価であるのと同じくらい単純なものである。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも救われます」*。----「御子を信じる者は、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つ」*(ヨハ8:12; マタ11:28; ヨハ7:37; 6:37; 使16:31; ヨハ3:16)。

 キリストを持つ者は、いのちを持っている。その人は自分の周囲の「一時的なもの」を見渡し、あらゆる場面で変化や衰えを目の当たりにしてもうろたえることがない。その人は天国に宝を有しており、それは虫とさびで、きず物になることも、盗人が穴をあけて盗むこともない。その人は「永遠のもの」を見越しても、穏やかに平静にしていられる。その人の救い主はすでによみがえり、その人のために場所を備えに行かれた。この世を去るとき、その人は栄光の冠を与えられ、いつまでも自分の主とともにいることになる。その人は墓の中すらのぞき込むことができ----これはギリシャやローマのいかなる哲人も決してできなかったことである----、こう云うことができる。「死よ。おまえのとげはどこにあるのか? 墓よ。おまえの勝利はどこにあるのか? おゝ、永遠よ。おまえの恐怖はどこにあるのか?」*(Iコリ15:55)。

 私たちはみな、堅く心に銘記しておこうではないか。「見えるもの」の中を慰めをもって過ぎ行き、「見えないもの」を恐れなく待ち望める唯一の道は、キリストを私たちの救い主、また友として受け入れ、信仰によってキリストをつかみ、キリストと1つになり、キリストに私たちの中に入っていただき、私たちが肉体にあって生きている間は、神の御子を信ずる信仰によって生きることである(ガラ2:20)。キリストを信ずる信仰のある人と、そのようなものの全くない人との状態は、何と途方もなく異なっていることか! まことに幸いなことよ、心底から、「私はイエスに頼っています。信じています」、と云える人々は。ボウフォート枢機卿がその臨終の床に横たわったとき、私たちの偉大な詩人は、そのヘンリー王の描写で、「彼は死ぬが、何のしるしも見せない」、と云わせている。スコットランドの改革者ジョン・ノックスがその臨終に臨んで口がきけなくなっていたとき、ひとりの信仰心の篤い従僕がその主人に向かって、生きている間にご主人様が説き伝えてきた福音は、死のうとするときも慰めを与えていますでしょうか、その証拠に手を上げていただけませんか、と願った。ノックスはそれを聞き、自分の手を天へ三度差しのべ、それから世を去った。もう一度云う。幸いなことよ、信ずる者は! そうした者だけが真の富者であり、何物からも独立し、害悪の手の届かないところにいるのである。もしあなたや私が一時的なものの中で何の慰めも見いだせず、永遠のものに対して何の希望も持っていないとしたら、その責任はすべて私たちにある。それは私たちが、「いのちを得るために、キリストのもとに来ようとはしない」*からである(ヨハ5:40)。

 永遠という主題はここで閉じることにしよう。願わくは神が、これを多くの魂にとって祝福としてくださるように。しめくくりとして私は、この本を読んでおられるあらゆる方々に、考えるべき事がら、自己吟味すべき問題をいくつか指し示したいと思う。

 (1) まず第一に、いかにあなたは自分の時間を用いているだろうか? 人生は短く、非常に不確かなものである。一日のうちに何が起こるか、だれにも予測はつかない。仕事も娯楽も、蓄財も散財も、食べることも飲むことも、めとることも嫁ぐことも、----すべては、ことごとく、やがて終わりを迎え、永遠にやむであろう。だがあなたは、あなたの不滅の魂のために何をしているだろうか? あなたは時間を浪費しているだろうか、活用しているだろうか? 神に会う備えをしているだろうか?

 (2) 第二に、永遠においてあなたはどこにいることになるだろうか? 永遠は、まっしぐらに私たちのもとにやって来つつある。あなたは一目散に永遠へと突進しつつある。しかし、あなたはどこにいることになるであろう? 最後の審判の日、右手に立つだろうか、左手に立つだろうか? 滅びた者の中にいるだろうか、救われた者の中にいるだろうか? おゝ、安んじてはならない。あなたの魂の安全が保障されるまで、安んじてはならない。備えのないまま死に、生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことである。

 (3) 第三に、あなたは時間においても、永遠においても安全になりたいだろうか? ならばキリストを求め、キリストを信ずるがいい。ありのままの姿でキリストのもとに来るがいい。キリストを求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。恵みの御座はまだ立てられている。まだ手遅れではない。キリストは恵みを与えようと待っておられる。ご自分のもとに来るよう、あなたを招いておられる。扉が閉ざされ、審きが始まる前に、悔い改めて、信じて、救われるがいい。

 (4) 最後に、あなたは幸福になりたいだろうか? では、キリストに堅くすがり、キリストを信ずる信仰の生涯を送るがいい。キリストにとどまり、キリストのそば近くで生きるがいい。心と魂と知性と力をもってキリストに従い、キリストをより良く知ることを日々求めるがいい。そのようにするときあなたは、「見えるもの」の中を過ぎ行くときも大きな平安を持つことができ、死につつある世界の真っ直中にあっても、「決して死ぬことがない」*であろう(ヨハ11:26)。そのようにするときあなたは、「永遠のもの」を、不動の確信をもって待ち望むことができ、こう感ずることができるようになるであろう。「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です」(IIコリ5:1)。


後記

 上記の説教を行なった後で私は、ファーラー主教座聖堂参事会員の著書『永遠の希望』を読む機会があった。この本の大部分の内容に、私は全く同意することができない。もちろん、これほど高名な著者の筆から出たものは、何であれ敬意ある考察に値するものである。しかし、正直に告白せざるをえないが、『永遠の希望』を読み終えた後でも私は、自分が「永遠」に関する説教で述べたいかなることをも訂正する必要を全く覚えなかったし、遺憾の念と不満足とともにその巻を措いた。私は、著者の意見に納得することも、自分の意見について動揺することもなかった。

 ファーラー主教座聖堂参事会員の所説に目新しい点は何もなかった。彼が云っていることの中で、以前に云われたことのないもの、以前に論駁されていないものはほとんど何もない。未来の刑罰の現実性および永遠性という主題について徹底的に究明したいというすべての人々には、以下のような著作をあえて推薦したいと思う。これらは、その真価に比してあまりにも知られていないが、私の見るところ、『永遠の希望』よりもはるかに健全で、はるかに聖書的な内容のものである。その著作とは、ホーベリィの『未来の刑罰の持続期間という聖書的教理に関する考察』、ガードルストーンの『怒りの日 <ディエス・イレ>』、C・F・チャイルド師の『信頼できない錨』、フラヴェル・クック師の『義なる審き』である。ピアスン主教による『信条の講解』の中の「復活」の項目や、ホッジの『組織神学』、第3巻、p.838も、丹念な精読に値するものである。

 あからさまな真実を云うと、悪人の未来の状態という主題には、種々の途方もない困難が伴うものである。私の見るところ、ファーラー主教座聖堂参事会員はそうした困難について全く触れていない。神の驚くばかりのあわれみ深さや、私たちの周囲にいる多くの人々が永遠に滅びに至るという考えの恐ろしさについては、彼は徹底的に、また独特の修辞法を駆使して考察している。疑いもなく、神の慈悲は云いつくしがたいものである。神は「ひとりでも滅びることを望まず」。「すべての人が救われ……るのを望んでおられ」る。罪人のかわりに死なせるため、キリストをこの世に送られた神の愛は、測り知ることのできない主題である。----しかし、これは、聖書で啓示されている神のご性格の一側面でしかない。神のご性格とご属性は、ひとまとまりのものとして見られる必要がある。永遠の神の無限の聖さと正しさ、----悪に対する神の憎しみ、その現われとしてのノアの洪水やソドム、カナンの七民族の絶滅、----神の御目における、罪の、言葉に尽くせぬほどの厭わしさと罪責、----生まれながらの人と、その完璧な造物主との間に広がる深淵、----アダムのあらゆる子孫が神の御前で永遠に住む前にこうむらなくてはならない深甚なる霊的変化、----そして、この変化が死後に起こるといういかなる暗示も全く聖書に見られないという事実、----すべてが、こうした点のすべてが、ファーラー主教座聖堂参事会員の著書の中では、比較的片隅に追いやられているか、全く手つかずのままになっているように思われる。私の精神は、こうした点に満足の行く説明がなされるまでは、『永遠の希望』で主唱されているような見解を受け入れることはできない。そして、そうした満足の行く説明を、私はその本の中に見いだすことができないのである。

 ファーラー主教座聖堂参事会員が取ったような立場を最初に正式に主唱したのは、紀元三世紀に生きていた教父オーリゲネースであった。彼は大胆にも、未来の刑罰は一時的なものでしかないという意見を提起した。だが彼の意見は、その同時代人たちのほとんどすべてから否認された。ワーズワース主教は云う。----「オーリゲネースの時代、およびそれ以後の世紀の教会の教父たち----その多くは、新約聖書の原語を母国語としており、翻訳によって誤解することがありえなかった人々であった----は、オーリゲネースの意見と所説を精密に吟味した上で、ほとんどの場合、それらを否認し、非難することで意見が一致していた。エイレーナイオス、エルサレムのキュリロス、クリュソストモス、バシレイオス、アレクキサンドリアのキュリロスその他の東方教会の人々、テルトゥリアーヌス、キュプリアーヌス、ラクタンティウス、アウグスティヌス、大グレゴリウス、ベーダその他多くの西方教会の人々は、義人の喜びと悪人の刑罰とが一時的なものではなく永遠のものとなると教える点で全く一致していた。」

 「それがすべてではない。紀元553年に、ユスティニアーヌス帝のもと、コンスタンティノポリスで開かれた、第5回総会議は、オーリゲネースの教義を吟味し、それらを断罪する教令を決議したのである。そして、それ以後の一千年間、この点に関してキリスト教国においては何の異議もない同意があった」(ワーズワース主教の『説教集』、p.34)。

 この言明に1つの事実をつけ加えさせてもらえば、未来の刑罰が永遠であることは、宗教改革の時代から現代に至るまでの、ほとんどすべての大神学者たちによって主張されてきた。これは、ルーテル派が、カルヴァン主義者が、アルミニウス主義者が、監督派が、長老派が、独立派が、少数の例外はあったものの、常に合意してきた点である。抜きんでて学殖豊かな宗教改革者たちの著作を調べてみるがいい。ピューリタンたちの著作を調べ、十八世紀に英国のキリスト教を復興させた人々の数少ない遺稿を調べて見るがいい。そうするときあなたは、たいがい彼らが、異口同音に同じことを語っていることに気づくであろう。疑いもなく、ここ数年の間に、「未来の刑罰は永遠ではない」との意見を熱心に主唱する何人かの人々が立ち現われてきたことは事実である。しかし、私はためらうことなく主張したいが、比較的最近になるまで、ファーラー主教座聖堂参事会員のような見解を支持する人々は常に、正統的なキリスト者の間では、ごくわずかしかいない少数派だったのである。いずれにせよ、この事実は覚えておく価値がある。

 この未来の刑罰に関する伝統的な、あるいは共通した見解に伴う種々の困難については、私もそれらが存在することを認めるのにやぶさかではない。また、それらを説明できるというつもりもない。しかし私は常に、啓示された宗教には、多くの神秘的な事がらがあって当然だと考えており、そうしたことにつまづきはしない。私は、この世界の中にも解決不能な数々の困難があるのを目にしているが、今すぐそれらの解決がつかなくとも満足している。ある偉大な神学者が云うところの、「神の奥義、神が悪徳と混乱をはびこることを許しておられるという偉大な奥義」、----悪の起源、----残虐さと抑圧と貧困と疾病の許容、----善悪をわきまえる前の幼児の病と死がなぜ許されているのか、---- 一度も福音を聞いたことのない異教徒たちがやがてどうなるのか、----神が見過ごしてこられた無知の時代、----過去千八百年間の中国やヒンドスタンや中央アフリカの状態、----こうした事がらはみな、私の精神にとっては、解くことのできない大きな結び目であり、いかなる測深索によっても測り知れない深淵である。しかし、私は光がやって来るのを待っている。すべてが明らかになるときが来るのを、私は微塵も疑ってはいない。私は自分があわれで無知な定命の者であること、神が無限の知恵をお持ちの、すべてを良きにはからわれるお方であることを考えて心を安んじている。「全世界をさばくお方は、公義を行なうべきではありませんか」(創18:25)。これは、バトラー主教の賢明な言明である。「神のご経綸に見受けられる、あらゆる不正の影、否、あらゆる残酷に見える事がらは、このことを覚えておきさえするなら、雲散霧消するであろう。すなわち、そこでは、あらゆる情状が慈悲深く酌量され、いかなる人も決して、その立場から公正に期待されうる以上のものまで要求されることはなく、違う立場に置かれていた人に期待されるようなものは何1つ要求されない」(『類比』、第二部、第6章、p.425。ウィルスン版)。これはヨブ記のエリフの壮大な言葉である。「私たちが見つけることのできない全能者は、力とさばきにすぐれた方。義に富み、苦しめることをしない」(ヨブ37:23)。

 確かに多くのローマカトリック教の神学者たちが、否、何人かのプロテスタント神学者たちでさえ、滅びに至った者たちが来世で受ける肉体的苦しみについて、突飛で耳障りな諸説を云い立ててきたことは完全に事実かもしれない。永遠の刑罰を信ずる人々が、時たま聖句を誤解して、あるいは誤訳して、比喩的な云い回しに対して度を越した解釈を施してきたことは事実かもしれない。しかし、キリスト教に、その主唱者たちの過誤まで責任を取らせるのは、到底公平とは云えない。古くから云われてきたことだが、「キリスト者の過ちは、無信仰者の論拠となる」。トマス・アクィナスも、ダンテも、ミルトンも、ボストンも、ジョナサン・エドワーズも、霊感された無謬の著述家だったわけではなく、私は、滅びに至った者たちの肉体的苦悶について彼らが書いたかもしれない隻言片句に至るまで責任をとることなどお断りである。しかし、あらゆる斟酌と容認と手加減をした上でも、卑見によれば、永遠の刑罰という教理を支持する証拠は聖書の中で膨大な数に上っており、それらは決して簡単に説明し去ることができず、英語聖書をいかに改訂し、改訳しても決して覆すことはできない*8。未来の状態においては、その栄光に程度があるのと同様、その悲惨さにも程度があること、滅びに至った者たちの中でも、ある者たちの状況は他の者たち以上に悲惨なものであること、これらはみな否定できない。しかし悪人の刑罰に何らかの終わりがあるとか、長大な時間が続くというだけで心が変化しうるとか、聖霊が死者に対して働きかけをなさるとか、墓の彼方には何らかの浄めや、浄化の過程があり、悪人も最終的には天国にふさわしい者にされるとかいうこと、これらは聖書の聖句によって証明することが完全に不可能な立場であると私は主張するものである。否、むしろ、聖書には、それとは完全に異なる教理を教えている聖句がある。ホーベリィは云う。「聖書が常に地獄のことを刑罰の場所と記しているにもかかわらず、それがそのような浄化の状態だったとしたら、驚くべきことである」(第2巻、p.223)。ガードルストーンは云う。「聖書の明確な言明以外の何物をもってしても、私たちが不敬虔な人々に向かって、死後の悔い改めなどという教理を主張したり、説教することは正当化できない。そして、この主題については、ただの1つも明確な聖句は見いだせないのである」(『怒りの日 <ディエス・イレ>』、p.269)。もし私たちがいったん聖句によって証明できないような教理をこしらえ出すとしたら、あるいは、自分の気にくわないような結論に導くからといって、種々の聖句による証明を拒否し出すとしたら、それは論争の判定者としての聖書を全く投げ出し、打ち捨ててしまったも同然であろう。

 一部の人々のお気に入りの議論、すなわち、いかなる宗教上の教理も、それが人類の「一般的な意見」や大衆感情によって拒否されるようなものなら正しくはない、----この一般的な大衆感情と矛盾するような聖句は、いかなるものも、誤って解釈されているに違いない、----それゆえ、永遠の刑罰は真理ではありえない、なぜならおびただしい数の人々が内側に感ずる感情はそれに対して反感を催すからだ、----といった議論もまた、私としては、この上もなく危険で不健全なものと思われる。それが危険だというのは、それは信仰の唯一の基準としての聖書の権威に真っ向から攻撃を加えているからである。もしも神のみことばの宣言よりも、定命の人間の「一般的な意見」に重きが置かれるべきだとするなら、聖書が何の役に立つだろうか?----それが不健全だというのは、それがキリスト教の根本的な大原則----人間は堕落した被造物であり、腐敗した心と理性しか有しておらず、霊的な事がらにおけるその判断が無価値であること----を無視しているからである。私たちの心にはおおいがかかっている。「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです」(Iコリ2:14)。このような聖句を面前にして、大多数の人々が嫌うような教理----たとえば永遠の刑罰----はみな、それがために真実ではないに違いない、などと云うのは愚の骨頂である! 「一般的な意見」は、正しい場合よりは間違っている場合の方が多いであろう! 疑いもなくバトラー主教はこう云っている。「もし啓示において見いだされる何らかの箇所で、その一見したところの意味が自然宗教と相反しているとしたら、私たちは何よりも確実に、そうした一見したところの意味が真実の意味ではないと結論してよい」。しかし、こうした言葉を鬼の首を取ったかのように引用する人々は、その直後に続く文章をよく見た方が良いであろう。「しかし、そのような推測ができるからといって、それは、決してある聖書解釈に天性の光によっては悟ることが出来ない教理が含まれていることを否定するものではない」(『類比』、第一部、第2章、p.358。ウィルスン版)。

 それはともあれ、未来の刑罰の持続期間に関する人類の大多数の「一般的な感情」あるいは意見がいかなるものであるかは、大きく疑いの残る問題である。もちろん私たちに確実なことを知る手立ては何もない。また、いずれにしても、それに大した意味があるわけではない。こうした問題において唯一重要な点は、聖書は何と云っているのか、ということである。しかし私には強い疑念がある。もし世界中の世論調査が可能であったとしたら、こう判明するのではなかろうか。人類の大半は永遠の刑罰を信じている、と! 少なくともギリシャ人やローマ人の意見については、何の異論もありえない。もし彼らの神話で何か1つ明確に教えられていることがあるとしたら、それは悪人の受ける苦しみが無限の性質を持つということである。バトラー主教は云う。「異邦人の著述家は、道学者であれ詩人であれ、悪人が未来に受ける刑罰について語っているが、その持続期間や程度については、双方とも、聖書と同じようなしかたで表現し、描写している」(『類比』、第一部、第2章、p.218)。タンタロスや、シーシュポスや、イクシーオーンや、プロメーテウスや、ダナイスたちといった、奇妙で不気味な伝説の数々には、みな共通した1つの特徴がある。どの場合においても、その刑罰は永遠なのである! これは注目に値する事実である。このことにどれほどの重みがあるかはわからない。しかし、とにもかくにも1つのことだけは明らかである。すなわち、永遠の刑罰に反対する人々は「人類の一般的な意見」について、あまり自信満々に語るべきではない、ということである。

 多くの人々が信奉している悪人の絶滅という所説は、私たちの主イエス・キリストや使徒パウロの言葉と徹底的に相容れないものと思われる。主は、「悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです」、と語り、「彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません」、と語っておられる。使徒パウロは、「悪人も必ず復活する」、と語っている(ヨハ5:29; マコ9:43-48; 使24:15)。こうした言葉が、霊感された聖書の何の一部でもないことが証明されるまでは、このことについていくら議論しても時間の浪費でしかないと私は思う。

 この所説の主唱者たちが好んで用いる議論は、「死、死ぬこと、滅びること、破滅」その他の、これに類する語句は、「存在の停止」しか意味していない、というものだが、これはくだらぬ貧弱な議論で、ほとんど何の注意にも値しない。聖書を読む者ならだれでも知っているように、神が禁断の木の実についてアダムに云われたのは、「それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」、ということであった(創2:17)。しかし、よく教えられている日曜学校の生徒ならだれでも知っているように、アダムは、その命令を破ったときに、「存在を停止」しはしなかった。彼は霊的に死んだが、消滅したわけではなかった!----そのように聖ペテロも洪水について云っている。「当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました」(IIペテ3:6)。だが、一時的に水没したとはいえ、確かに当時の世界は存在をやめはしなかった。そして水がひいたときにノアはその上で再び生活することができた。

 最後にもう一言だけ、有益な情報を伝えて閉じることにしよう。聖書で用いられている「永遠」および「とこしえ」という言葉に関心があり、その意味を研究したいという方々は、ガードルストーンの『旧約聖書の同義語』、第30章、p.495、および同じ著者の『怒りの日 <ディエス・イレ>』、第10章、第11章、p.128を参照されたい。そこでは、その主題が十分に、また徹底的に扱われているはずである。

永遠![了]

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*1 以下のページに採録されているのは、1877年の待降節の第四週に、ピーターバラ大聖堂に招待された際、私がその身廊で行なった説教の実質的な内容である。----それは実質的な内容であって、一字一句までその説教のままではない。有り体に云えば、その説教は出版されることを全く意図しないでなされたのである。それは、短い覚え書きから説教された大衆向けの講演であり、精読には耐えないようなものであった。聞かされたときに耳を満足させるような云い回しが、読まれたときに精神も満足させるようなことはめったにない。出版社から速記録を受け取り、ざっと目を通しただけで私は、この説教を出版可能になるほどに凝縮し、字句の修正と段落分けを行ない、句読点をつけて整えるくらいなら、自分の覚え書きと記憶を頼りに、大まかに書き起こす方がはるかにたやすいことがわかった。時間的な制約により私は、その方針をとるか、出版そのものを差し止めるほか選択の余地がなかった。その結果が、いま読者の目の前にあるものである。これは、私が行なった説教と同じ内容、構成、見出し、順序、主要な思想を含むものではあるが、一字一句まで同じ説教ではないことを繰り返して云っておきたい。[本文に戻る]

*2 「一体、このような判事をどう考えるべきだろうか? 法廷に証人たちを召還し、彼らを吟味するふりはしながら、それと同時に自分の口を開いて、『この者どもがたとえ何と云おうと、本訴訟はあまりにも常軌を逸した、不正なものであるから、いかなる証拠によっても立証するには不十分である』、などと云い放つような判事から、まともな判決が期待できるだろうか?」。----『ホーベリィ』、第2巻、p.137。[本文に戻る]

*3 「もし神が悪魔の刑罰に終わりがないことを私たちに告げようと意図されたとしたなら、この点について聖書が用いている云い回しにまさって、十分に、また確実に、その期間が無限のものであると表現することはまずできなかったであろう。それと同じく----これはほぼ絶対的な論証と云っていいであろうが----、悪人が受ける刑罰の期間のことは、それと全く同一の文章内で、義人の受ける幸福の期間のために用いられているのと全く同一の言葉で表現されているのである」。----ティロットスン大主教の「地獄の苦悶」、『ホーベリィ』、第2巻、p.42。[本文に戻る]

*4 「サタンのこの上もない願いは、私たちが悪魔などいないと信ずること、また地獄というような場所などないと信ずること、そして永遠の苦悶などないと信ずることである。彼はこうしたことをみな私たちの耳に囁き、どこかの平信徒が----それにもまして、どこかの教職者が----こうした事がらを否定するのを聞くと大喜びする。そうした場合、彼らを、そして他の人々を、自分のえじきにできると望めるからである」。----ワーズワース主教の『未来における報いと刑罰に関する説教集』、p.36。[本文に戻る]

*5 「もし悪人に対する刑罰が単に一時的なものでしかないなら、義人の幸福もそのようなものでしかなくなるであろう。それは聖書全体の教えと矛盾している。だが、もし義人の幸福が永遠であるなら(そのとき彼らは御使いに等しい者となり、彼らの肉体はキリストのからだのようになる)、悪人に対する刑罰もやはり永遠であろう」。----ワーズワース主教の『未来における報いと刑罰に関する説教集』、p.31。[本文に戻る]

*6 「聖書の記すところ、未来の悲惨の状態は、決して、人がより良い状態にふさわしい者に変えられていくような、浄化の状態でも、きよめの状態でも、精錬と似たような状態でもない。むしろそれは常に、懲罰と刑罰と義なる復讐の状態であって、こうした状態にあってこそ、神の正義は(これが全うされることを、見たところ一部の人々は決して説明しようとしない)、そのご威光とご支配とご愛との力の正しさを、それらを軽蔑した者らを罰することによって、証明するのである」。----『ホーベリィ』、第2巻、p.183。[本文に戻る]

*7 「この人生は、私たちが自分の未来の状態のために備えをする時である。私たちの魂は、私たちがこの世でそうあらしめた状態のまま永遠にとどまるであろう。人はこの人生からかかえてきたような精神の趣味と性向を、来世でも保ち続けることになる。むろん、天国において、こうした地上で始まった、聖く、徳高い種々の性向が完成されることは確かである。だが、別の世に行ったからといって、いかなる人もその根本的な状態を変じることはない。汚れている者は汚れたままであり続けるであろう。不法な者は不法なままであり続けるであろう」。----ティロットスン大主教の「ピリ3:20に関する説教」。(『ホーベリィ』、第2巻、p.133参照)[本文に戻る]

*8 ホーベリィが、ホウィストンへの返答として、自分の立場の論拠として引用し、吟味している聖句だけでさえ、103にも上る。[本文に戻る]

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