The Family of God        目次 | BACK | NEXT

16. 神の家族


「天上と地上で家族と呼ばれるすべてのもの」----エペ3:15

 この論考の題名となっているのは、常に変わらず、私たちの精神に何らかの感情をかき立てずにはおかない言葉に違いない。どこの「家族」の一員でもないような者は、地上にひとりも生きていない。人はどれほど貧しくとも、いずこの大富豪にも劣らず、親類や縁者がいるものであって、自分にどんな「家族」があるかを人に語って聞かせることができるはずである。

 一年の特別な時期、たとえばクリスマスなどに親族が寄り集まることは、私たちがみな知っているように、広く行なわれている。一年の他の時期はともあれ、少なくともそうした時だけは、おびただしい数の炉辺が人でにぎわうものである。都会で暮らす青年たちは、何とか仕事のやりくりをつけて、両親や祖父母の待つ田舎へ駆けつける。奉公中の娘たちは短い休暇を取って、父母のもとに里帰りする。ほんのつかの間ではあっても兄弟姉妹が勢揃いする。親子が互いに顔を合わせる。いかに話すことがたくさんあることか! いかに多くのことを尋ねなくてはならないことか! いかに多くの興味深いことを語らなくてはならないことか! 何と幸いなことよ、クリスマスの時期に「家族と呼ばれるすべてのもの」がぐるりと取り巻くのが見られるその炉辺は。

 家族が寄り集まるのは自然なこと、正しいこと、良いことである。私は心からそれに賛成する。こうした習慣が続けられていることに私は心温まるものを感ずる。それは人間が堕落してもなくならなかった、数少ない愛すべきことの1つである。私の見るところ、この罪深い世において、神の恵みを別にすれば、家族感情ほど人々を堅く結び合わせる原理はない。血のつながりは、何よりも力強い絆である。ある米海軍将校は、中国の大沽口炮台を攻撃していた英国海軍を支援するように部下たちが云い張ったとき、こういう名言を残している。----「やむをえん。血は水よりも濃し、だ」、と。私がしばしば見るところ、人々は自分の親戚に、自分の親戚だからというだけの理由で味方し、----たとえ、彼らの趣味や生き方に自分では全然共感できない場合であっても----彼らを悪く云う人々には決して耳を貸そうとしないものである。こうした家族感情を長続きさせるのに役立つものは、何であれほめられてよいであろう。クリスマスの時期に、できる限りの都合をつけて、「家族と呼ばれるすべてのもの」が集合するのは賢明なことである。

 それにもかかわらず、家族の寄り集まりは、えてして悲しみを覚えさせられる機会となる。このような世界にある以上、そうならない方が不思議であろう。いかなる家族であれ、年を追うごとに、その空席や隙間が増えていくのが常である。時の流れとともに、変化や死が悲しい乱れを引き起こしていく。年老いるにつれて、私たちの内側には、もはや自分たちとともにいない顔や声の追憶が積み重なって行き、それはどれほど陽気なクリスマス行事によっても完全には押さえつけておくことができない。子どもたちが世に巣立って行った後も、一家の長たちは古い巣にとどまったまま長い年月を送るかもしれない。だが、ある程度の年月が経つと、「家族と呼ばれるすべてのもの」が一堂に会するのを目にする機会はめっきり少なくなっていく。

 実は私は、この論考を読んでいるすべての方々に、1つの大家族に属してほしいと願っている。その家族を軽蔑する人々は多く、その家族について全く知りもしない人々すらいる。しかしそれは、地上のいかなる家族よりもはるかに重要な家族である。この家族に所属することによって人は、国王の息子になるよりも、はるかに偉大な特権を手にする資格が与えられる。それは、聖パウロがエペソ人たちに対して、「天上と地上で家族と呼ばれるすべてのもの」について告げたときに語っている家族のことである。それは神の家族である。

 これから私はこの家族について説明し、読者の注意を引きたいと思う。この論考を読んでいるすべての方々は、よくよく注意を払っていてほしい。私は、この家族に所属することによって得られる、驚くばかりの恩恵について語りたいと思う。この家族がとうとう集結することになったとき、あなたにはその一員となっていてほしいと思う。----その集結には、何の分離も、悲しみも、涙もない。どうか私がキリストの教役者として、またあなたの魂の友人として、少しばかりの間、「天上と地上で家族と呼ばれるすべてのもの」について語りかけるのを聞いていてほしい。

 I. まず第一に、この家族とは何か?
 II. 第二に、その現在の立場はいかなるものか?
 III. 第三に、その未来の見通しはいかなるものか?

 私はこの3つの点についてあなたに説明したいと思う。ぜひこれらを真剣に考察していただきたい。地上における家族の集合は、いつの日か終わりを迎えなくてはならない。私たちにも、いつかは地上における最後のクリスマスを迎える日がやって来るに違いない。何と幸いなことよ、神に出会う備えができてから迎えるクリスマスは!

 I. 聖書が「天上と地上で家族と呼ばれるすべてのもの」と呼ぶ、この家族とはいかなるものであろうか? これは、いかなる人々によって構成されているのだろうか?

 私たちの前にある家族を構成しているのはは、真のキリスト者たち全員である。----御霊を有するすべての人々、----キリストを信ずるすべての真の信仰者たち、----あらゆる時代、あらゆる教会、あらゆる国々、あらゆる国語の聖徒たちである。そこには、神に忠実なすべての人々という、ほむべき集団がふくまれている。それは神に選ばれた者たちというのと同じことである。----信仰の家族、----キリストの神秘的なからだ、----花嫁、----生きた宮、----滅びることのない羊、----長子たちの教会、----聖なる公同の教会というのと同じことである。こうした表現はみな、「神の家族」を別の名で云い表わしたものにすぎない。

 私たちが前にしているこの家族の一員となる資格は、決して地上的な縁故にかかっているわけではない。それは肉体的な出生によってではなく、新生によってもたらされる。教役者はそれを自分の聴衆に分け与えることはできない。親はわが子にそれを与えることはできない。あなたは国中で一番敬虔な家庭に生を受け、教会によって授けられる最も豊かな恵みの手段を享受していても、決して神の家族に所属していないことがありえる。そこに所属するには、新しく生まれなくてはならない。聖霊のほか何者も、神の家族の生きた成員を生み出すことはできない。真の教会の中に救われるべき者を加えることは、聖霊の特別の職務であり大権である。彼らは新しく生まれた者、「血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれた」者たちなのである(ヨハ1:13)。

 聖書が真のキリスト者たち全員の集まりになぜこのような名前を与えているのか、とあなたは云うだろうか? あなたはなぜ彼らが「家族」と呼ばれているか知りたいだろうか? 今からその理由を告げるので、よく聞いていてほしい。

 (a) 真のキリスト者たちが「家族」と呼ばれているのは、彼らにはみなひとりの父がおられるからである。彼らはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって神の子どもである。彼らはみな1つの御霊によって生まれている。彼らはみな全能の主の息子、娘である。彼らは子としてくださる御霊を受け、それによって、「アバ、父」、と叫ぶ者たちである(ガラ3:26; ヨハ3:8; IIコリ6:18; ロマ8:15)。彼らは決して奴隷的な恐れとともに、神を、いつ罰を下すかわからない厳格な実体、などとみなしてはいない。彼らは神を、和解のなった、いつくしみ深い親として、愛情のこもった信頼をもって見上げている。----イエスを信ずるすべての者の不義と背きと罪を赦すお方として、----また、いかに弱く、たよりない者に対してさえもあわれみに満ちておられるお方として見上げている。「天にましますわれらの父」という言葉は、真のキリスト者が口にするときには、決してただの形式ではないのである。彼らが神の「家族」と呼ばれているのも不思議ではない。

 (b) 真のキリスト者たちが「家族」と呼ばれているのは、彼らがみな1つの名前を喜んでいるからである。その名前とは、彼らの偉大なかしらにして、長兄であるお方、すなわち主イエス・キリストの御名である。共通した苗字がスコットランド高地における氏族の者たちを結びつけている絆であるように、イエスの御名こそすべての信仰者たちを1つの巨大な家族に結び合わせているのである。目に見える外面的な教会の一員としての彼らには、種々の名前があり、はっきり異なった名称で呼ばれている。だがキリストの生きた肢体としての彼らはみな、心と思いを1つにして、ひとりの救い主を喜んでいる。彼らの間には、唯一の希望の対象としてのイエスに深い愛着を感じていないような心は1つもない。彼らの間に、「キリストがすべて」[コロ3:11]と語らないような舌は1つもない。自分たちのためにキリストが十字架上で死んでくださったことを思うのは、彼ら全員にとって甘やかなことである。神の右の座についてキリストが自分たちのためにとりなしていてくださると思うのは、甘やかなことである。彼らを永遠にご自身とともにある、1つの栄光ある集団とするために来られるキリストの再臨を思うのは、甘やかなことである。実際、信仰者たちからキリストの御名を取り去るのは、天空から太陽を取り去ることに等しいであろう。この世にとって、その御名はほとんど何の意味も持たないかもしれない。だが信仰者にとって、それは慰めと希望と喜びと安息と平安に満ち満ちた御名である。彼らが「家族」と呼ばれるのも不思議ではない。

 (c) 何にもまして真のキリスト者たちが「家族」と呼ばれるのは、彼らの間には強い血族としての類似性があるからである。彼らはみな1つの御霊によって導かれ、いのちと心と趣味と性格における同じ一般的特徴をはっきり目立たせている。ある家族に生まれた兄弟姉妹の間に、一般的な肉体的類似性があるのと全く同じように、全能の主の息子、娘たちの全員の間には、同じ霊的な類似性が見られるのである。彼らはみな罪を憎み神を愛している。彼らはみな自分の救いの希望をキリストにかけておおり、自分たち自身には何の信頼も置いていない。彼らはみな、この世の生き方から「出て行き、分離する」ように努め、天にあるものを思うように努めている。彼らはみな、おのずと同じ聖書を、自分の魂の糧として、また天国への巡礼の途上で用いる唯一確かな道案内として、たよりにしている。彼らにはそれが「自分の足のともしび、自分の道の光」*であることがわかる(詩119:105)。彼らはみな、祈りによって同じ恵みの御座のもとに出て、神に語りかけることは呼吸と同じように欠かせないと思う。彼らはみな、神のみことばという同じ規則によって生き、その戒めに日常生活を従わせようと努力している。彼らはみな同じ内的な経験をしている。悔い改め、信仰、希望、愛、へりくだり、内的争闘は、彼らがみな多少なりとも親しんでいる事がらである。彼らが「家族」と呼ばれているのも不思議ではない。

 この、真の信仰者の間に見られる、血族としての類似性は、特別な注意に値する問題である。私個人が思うに、これは、キリスト教が真実であることを間接的に示す、最も強力な証拠の1つである。聖霊のみわざに実質が伴うことを示す最も大きな証明の1つである。真のキリスト者の中には文明国に住んでいる者もいれば、異教国のただ中に住んでいる者もいる。高等教育を受けた者もいれば、無知文盲な者もいる。金持ちもいれば、貧乏人もいる。国教徒もいれば、非国教徒もいる。老人もいれば、若者もいる。だがしかし、これらすべてにもかかわらず、彼らの間には、驚異的な心と性格との同一性があるのである。彼らの喜びと彼らの悲しみ、彼らの愛と彼らの憎しみ、彼らの好むところと彼らの嫌うところ、彼らの嗜好と彼らの嫌悪、彼らの希望と彼らの恐れ、これらはみな、奇妙きわまりないほど似通っている。他の人々には好きなことを云わせておくがいい。私はこれらすべての中に神の指を見る。神の手のわざは常に同一である。真のキリスト者たちが「家族」にたとえられているのも不思議ではない。

 回心した英国人と、回心したヒンドゥー人とを連れて来て、初対面の彼らを鉢合わせさせてみるがいい。請け合ってもいいが彼らは、相手の話す言葉を理解できさえするなら、たちまち互いの間に共通の土台を見いだし、気安さを感ずるであろう。一方の人はイートン校やオックスフォード大で教育を受け、英国文化のあらゆる特権を享受してきたかもしれない。もう一方の人は、どす黒い異教社会の真ん中で育てられ、光と闇が異なるくらい英国人とは異なった習慣や生き方や作法に慣れ親しんできたかもしれない。だがしかし、今や半時間もしないうちに彼らは、自分たちが友であることを感じるのである! 英国人は、自分のヒンドゥー人の兄弟のうちに、大学や高校時代の同級生の多くよりも、はるかに多く自分と共通した点を見いだす! だれにこのようなことの原因がわかるだろうか? どうすればこのようなことの説明がつくだろうか? その原因として考えられるのは、御霊の教えの一致ということ以外に何1つない。恵みの(自然の、ではなく)「共通した感情」こそ、「全世界を親族とする」ものなのである。神の民は、最も高い意味において「家族」である。

 これこそ、私がこの論考を読む方々の注意を向けたいと願っている家族にほかならない。これこそ、私があなたに所属してほしいと思う家族である。きょうのこの日、私はあなたに願う。もし今まで一度もこのことを考えたことがないというなら、今よく考えてほしい。私はあなたに、この家族の父----私たちの主イエス・キリストの父なる神を示してきた。私はあなたに、この家族のかしらにして長兄----主イエスご自身を示してきた。私はあなたに、この家族の特徴と性格を示してきた。その家族ひとりひとりにはみな、よく似た大きなしるしがある。もう一度云う。このことをよく考えてほしい。

 忘れないでほしいが、この家族の外には何の救いもない。この家族に属している者だけが、聖書によれば、天国に至る道の途上にあるのである。私たちの魂の救いは、ある教会に結びついていたり、ある教会から分離していることにかかってはいない。そのように考えている人々はひどい思い違いをしているのであって、目を覚まさない限り、いつの日かそのことを悟ってほぞを噛むであろう。否! 私たちの魂のいのちは、それよりはるかに重要なことにかかっている。永遠のいのちとは、「天上と地上で家族と呼ばれるすべてのもの」の一員となることにあるのである。

 II. さて、ここから先に考えたいと約束した第二のことに移ろう。この、天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの現在の立場はいかなるものであろうか?

 私が読者の注意を向けようとしているこの家族は、大きく2つの部分に分かれている。両方の部分には、それぞれ別々の住まい、あるいは居住地がある。この家族の一部は天上にあり、一部は地上にある。現在のところ、この2つの部分は互いに完全に分離している。しかし神の御目においては、2つの場所に住んでいても両者は1つの集団をなしている。また彼らが1つになることは確かにいつの日か成し遂げられる。

 覚えておいてほしいが、神の家族が住んでいるのは、2つの場所であって、2つだけしかない。聖書は一言も第三の住処について告げてはいない。一部のキリスト者が好んでどう云おうと、煉獄などというものは存在していない。死んだときに真のキリスト者となっていなかった者たちのための、きよめと、訓練と、試練の家などというものはない。おゝ、否! この家族には2つの部分しかない。----目に見える部分と目に見えない部分、「天上」にある部分と「地上」にある部分である。この家族のうち、天上にいない者たちは地上にあり、地上にいない者たちは天上にいる。2つの部分であり、2つだけである! 2つの場所であり、2つだけである! これを決して忘れないようにしようではないか。

 神の家族のうちある人々は天上で安全である。彼らは主イエスがはっきり「パラダイス」と呼んでいる場所で安息を得ている(ルカ23:43)。彼らは自分の走路を走り終えた人々である。自分の戦いを戦い抜いた人々である。自分に割り当てられた仕事を果たし終えた人々である。自分の学ぶべき教訓を会得した人々である。自分の十字架を担い通した人々である。この苦悩に満ちた世の荒波を乗り越えて、港に入港した人々である。私たちは、彼らについてほとんど知らなくとも、彼らが幸せであることはわかる。彼らはもはや罪にも誘惑にも悩まされていない。貧困にも不安にも、痛みにも病にも、悲しみにも涙にも、永遠に別れを告げたのである。彼らは、自分たちを愛し、自分たちのためにご自身をお捨てになったキリストご自身とともにいるのであって、キリストとともにあって彼らが幸せでないはずがない(ピリ1:23)。彼らは過去を振り返ってみても何も恐れることがない。来たるべき事がらを待ち望んでも何も怯えることがない。彼らの幸福を完璧なものとするために欠けているものは3つしかない。その3つとは、キリストの栄光を帯びた再臨と、彼ら自身の肉体の復活と、すべての信仰者の集合である。そしてこの3つのことを彼らは確信しているのである。

 神の家族のうちある人々はまだ地上にいる。彼らは、邪悪な世のただ中で、ある場所にひとにぎり、別の場所にひとにぎりと、あちこちに四散している。すべての者たちが多かれ少なかれ、自分の恵みの量りに応じて、同じようなしかたで忙しく働いている。すべての者が競走しつつあり、働きつつあり、戦いつつあり、十字架を担いつつあり、世と格闘しつつあり、キリストを証ししつつあり、自分自身の心について悲しみつつあり、自分の魂のいのちのために説教を聞き、聖書を読み、いかにか細くはあれ祈りつつある。各人とも、しばしば自分の十字架ほど重いものはないとか、自分の務めほど困難なものはないとか、自分の心ほどかたくななものはない、というような気分にかられる。しかし、ひとりひとりはみな自分の道に踏みとどまり続ける。----それは、彼らの周囲の無知な世にとっては驚きであり、彼ら自身にとってもしばしば驚きである。

 しかし、いかに神の家族がその住まいと居住地において現在は分断されていようと、それはやはり1つの家族である。そのどちらの部分も、やはり性格は1つ、所有するものは1つ、神との関係は1つである。天上にある部分は、一見して思われるほどには、地上にある部分に大きく優越しているわけではない。二者の間にある違いは単に程度の違いにすぎない。

 (a) この家族のどちらの部分も、同じ救い主を愛し、同じ神の完全なみこころを喜んでいる。しかし地上にある部分は、多くの不完全さと弱さが伴った愛で愛しており、彼らは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいる。----天上にある部分は、弱さも疑いも気を散らすこともなく愛している。彼らは信仰によってではなく、見るところによって歩んでおり、かつては信じていたものを今目にしている。

 (b) この家族のどちらの部分も、聖徒たちである。しかし地上にある聖徒たちはしばしば、あわれな疲れ切った巡礼であり、「肉の願うことが御霊に逆らい、御霊が肉に逆らい、この二つが互いに対立していて、そのため、自分のしたいと思うことをすることができない」*のを実感している(ガラ5:17)。彼らは悪の世のただ中で生きており、しばしば自分自身に嫌気がさし、自分の周囲に見る罪にうんざりする。----天上にある聖徒たちは、それとは逆に、世と肉と悪魔から解放されており、栄光の自由を享受している。彼らは「全うされた義人たちの霊」と呼ばれている(ヘブ12:23)。

 (c) この家族のどちらの部分も、同じように神の子どもたちである。しかし天上にある子どもたちは、自分たちの教訓をすべて学び終え、自分に割り当てられた務めをなし終えて、永遠の休暇に入っている。----地上にある子どもたちはまだ就学中である。彼らは日ごとに知恵を学んでいるが、その進度は遅、く多くの困難を伴い、しばしば自分たちの過去の教訓を懲らしめと鞭によって思い出させられる必要がある。彼らの休暇はまだ来ていない。

 (d) この家族のどちらの部分も、同じように神の兵士たちである。しかし地上にある兵士たちはまだ交戦状態にある。彼らの戦いはまだ完了してはいない。彼らの戦闘は終わってはいない。彼らは日ごとに神のすべての武具を身につける必要がある。----天上にある兵士たちはみな勝利を得ている。今やいかなる敵も彼らに危害を加えることはできない。いかなる火矢も彼らに届かない。かぶとも盾もともにわきに置かれてよい。彼らはついに御霊の剣に向かって、「静かに休め」、と云うことができる。彼らはとうとう腰を下ろし、警戒を解き、見張りに立たなくともよくなっている。

 (e) 最後に、しかしこれも重要なこととして、この家族のどちらの部分も、同じように安全で確かなものとされている。これは驚嘆すべきことに聞こえるかもしれないが真実である。キリストは、その天上にある肢体と同じくらい、地上にある肢体のことを気遣っておられる。いかにたよりない聖徒であっても、その聖徒をキリストの御手から奪い取ろうなどとするのは、天空から星々をもぎとろうとすることに等しい。この家族のどちらの部分も、同じように「萬具(よろず)備りて鞏固なる永久の契約」によって確かなものとされている(IIサム23:5 <文語訳>)。地上にいる者たちは、肉の重荷と自分たちの信仰の薄さによって、自分自身の安全さを見てとることも、知ることも、感ずることもないかもしれない。しかし彼らは、自分では見てとれなくとも、安全である。この家族全員が、「信仰により、神の御力によって守られており、……救いをいただく」のである(Iペテ1:5)。まだ途上にある者たちも、故郷に達した者たちと同じくらい確かにされている。最後の日にはひとりたりとも欠けてはいないであろう。かのキリスト者詩人の言葉は、徹頭徹尾、正しいことがわかるであろう。----

    「幸い増せども 安泰(たしか)さ変わらじ。、
     栄えを受けし 天つ霊らは」

 私の主題のこの部分をしめくくる前に、私がこの論考を読むあらゆる人々に願いたいのは、神の家族の現在の立場を完全に理解し、それに正しい評価を下してほしい、ということである。その数や、その特権を、あなたのその目で見ることによっては推し量らないということを学ぶがいい。あなたは、この現在の状態においては、信仰者たちのごくわずかな部分しか見ていない。しかしあなたは決して、すでにおびただしい数の集団が天国に無事たどりついていること、最後の日になって全員が集まるとき、それは、「だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆」となることを忘れてはならない(黙7:9)。あなたは地上で格闘しつつある部分の家族しか見ていない。あなたは決して、この家族の大部分が故郷に帰り着いていること、天国で安息を得ていることを忘れてはならない。----あなたは交戦状態にある部分を見ているが、勝利を得ている部分は見ていない。十字架を負っている部分は見ているが、パラダイスで安全にしている部分は見ていない。神の家族はあなたが思っているよりもはるかに富んだ、栄光あるものである。嘘ではない。「天上と地上で家族と呼ばれるすべてのもの」に属することは、決して小さなことではないのである。

 III. さて私は先に考察することを約束した最後のことに移ることにしよう。----天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものには、いかなる未来の見通しがあるのか?

 家族の未来の見通し! 今の世にあるいかなる家族について考えても、こうした言葉に、いかに途方もない不確かさが伴っていることか! 私たちひとりひとりに起こり来る物事について、私たちは、いかにわずかしか予測できないことか! 私たちの愛する子どもたちが通り抜けなくてはならない悲しみや試練や別離を、私たちが世を去るとき知らずにいられるのは何というあわれみであろう! 私たちが「一日のうちに何が起こるか」知らないのはあわれみであり、私たちが二十年のうちに何が起こるか知らないのは、はるかに大きなあわれみである(箴27:1)。悲しいかな、もしも自分の親類がたどる将来の見通しを予知できるとしたら、それは多くの家族の集まりをだいなしにし、その場の全員を陰惨な雰囲気で満たすであろう。

 考えてみるがいい。今は両親の喜びである立派な少年たちの多くが、いかに次第次第に放蕩息子の足跡をたどって行き、二度と家に戻らないことか! 考えてみるがいい。母の心の喜びである美しい娘たちの多くが、いかに数年もしないうちに、片意地を張って、悲惨に導く結婚をしたいと云い張ることか! 考えてみるがいい。いかにしばしば病気と痛みが、家族の輪の中の最も愛らしい者たちを病床に伏させ、そのいのちを、他者にとってそうでなくとも、自分自身にとって重荷とし、耐えがたいものとしてしまうことか! 考えてみるがいい。金銭問題からいかに絶え間ない不和や不一致が生ずることか! 悲しいかな、ほんの数ポンドをめぐって、いかに多くの生涯続く仲違いが、かつては一緒に同じ子供部屋で遊んだ者たち同士の間に生まれることか! こうした事がらを考えてみるがいい。毎年クリスマスに集まる多くの家族の「未来の見通し」は、厳粛で深刻な問題である。少なく云っても数千家族にとっては、それが最後の集まりとなる。彼らが別れるとき、彼らは二度と相会うことがないであろう。

 しかし、神に感謝すべきかな。1つの大家族の「見通し」は非常に異なっている。それは私がこの論考で語っている家族、あなたの注意を引こうとしている家族のことである。神の家族の未来の見通しは、不確かなものではない。それは良いものであり、良いものばかりである。----幸福なものであり、幸福なものばかりである。耳を傾けてくれれば、私はそれをあなたの前に順々に示していきたいと思う。

 (a) 神の家族に属する者たちはみな、いつの日か無事に故郷に至らされる。この地上では彼らは四方八方に散り散りになり、試練を受け、嵐に翻弄され、患難によって屈服させられているかもしれない。しかし、そのうちのひとりも滅びることはない(ヨハ10:28)。いかにか弱い子羊も荒野に放り出されて滅びるることはない。いかに虚弱な子どもも最後の日に登録名簿が引き出されるときに欠けてはいない。世と肉と悪魔にもかかわらず、家族全員が故郷にたどりつくのである。「もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです」(ロマ5:10)。

 (b) 神の家族に属する者たちは、いつの日かみな栄光のからだを持つことになる。主イエス・キリストが再び来られるとき、死んだ聖徒たちはみなよみがえり、生きている聖徒たちはみな変えられる。彼らはもはや卑しい死すべきからだ、弱さともろさに満ちたからだを持ってはいない。彼らの復活の主のからだと同じような、病にかかったり痛みを受けることの全くないからだを持つことになる。彼らはもはや、神に仕えたいと思うときに、ずきずき痛む体によって邪魔されたり妨げられたりすることはない。。昼も夜も、倦み疲れることなく神に奉仕でき、気を散らすことなく神に仕えられる。以前のものは、もはや過ぎ去っているであろう。そして、この言葉が成就するであろう。「わたしは、すべてを新しくする」(黙21:5)。

 (c) 神の家族に属する者たちはみな、いつの日か1つの集団に集められる。彼らがどこで生きてこようと、どこで死のうと何の問題もない。彼らは時間的にも空間的にも隔たって生きてきたかもしれない。ある者はアブラハム、イサク、ヤコブのように天幕で暮らし、別の者は現代に鉄道で旅をしてきたかもしれない。ある者はオーストラリアの砂漠に埋葬され、別の者は英国の教会墓地に葬られたかもしれない。だがそれは何の違いも生み出さない。すべての者が北から南から、東から西からともに集められ、1つの幸せな集会になり、二度と別れることはない。神の家族の地上での別れはほんの数日のことでしかない。彼らの出会いは永遠のものである。私たちがどこに住んでいるかはまず何の問題もない。今は散在しているときであって、集合するときではない。私たちがどこで死ぬかもまず問題がない。すべての墓場は同じくらいパラダイスに近い。しかし大いに問題となるのは、私たちが神の家族に属しているかどうかである。もし属しているなら、私たちは最後には再会することを確信できる。

 (d) 神の家族に属する者たちはみな、いつの日か精神と判断において一致することになる。今の彼らは、多くの些細な事がらにおいてそうではない。救いに必要な事がらについては、彼らの間には驚異的な一致があるが、キリスト教信仰の多くの思弁的な点や、礼拝形式や教会政治については、彼らはしばしば悲しいほどに意見を異とする。しかし、やがて彼らの間に何の不一致もなくなる日が来る。エフライムはもはやユダを敵とせず、ユダもエフライムを敵としない。国教徒はもはや非国教徒と争わず、非国教徒も国教徒と争わない。部分的な知識と、薄暗い視野は永遠に終わりを迎える。分裂や分離、誤解や曲解は水に流され、忘れられる。そのときには、1つの言語しかなくなるように、1つの意見しかなくなる。ついに、六千年も続いた争いや口論の後で、完全な一致と調和が見いだされることになる。御使いたちと人々の前に、ついに精神を1つにした家族が姿を現わすことになる。

 (e) 神の家族に属する者たちはみな、いつの日か聖さにおいて完成される。今の彼らは、「キリストにあって満ち満ちている」とはいっても(コロ2:10)、文字通り完全な者ではない。新しく生まれ、キリストのかたちに似せられて新しくされたとはいえ、多くの点で失敗をするものである(ヤコ3:2)。彼ら自身にまさってそれを痛感している者はない。もっと心から神を愛することができず、もっと忠実に神に仕えることができないことは彼らの嘆きであり悲しみなのである。しかし彼らが完全にすべての腐敗から自由になる日がやって来る。彼らがキリストの再臨に伴ってよみがえるときには、生前の彼らにへばりついていたいかなる弱さもなくなっている。悪い気質や腐敗した性癖は何1つ彼らのうちに見いだされない。彼らはそのかしらによって、しみや、しわや、そのようなもののの何1つない者として、御父の前に立たせられる。----完全に聖く、何の傷もなく、----月のように美しく、太陽のように明るくなる(エペ5:27; 雅6:10)。恵みは、今でさえ、それが生きて、輝き、不完全さのただ中で力強く働くときには、美しいものである。しかし、恵みが純粋に、何の汚れも混じりけもなく、ただ恵みしか見えないときには、いかにいやまさって美しく見えることであろう! そして恵みは、終わりの日にキリストが来られてその聖徒たちのうちで栄化されるとき、そのように見えることになる。

 (f) 最後に、しかしこれも重要なこととして、 神の家族に属する者たちはみな、いつの日か永遠に何不自由なくなる。この罪深い世における務めが最終的に終わりに行き着き、決着がつくとき、全能の主の息子、娘たち全員のための永遠の資産が現われることになる。その中のいかに弱い者さえ、見過ごされたり、忘れられたりすることはない。あらゆる者が、その量りに応じて何かを受けとる。いかに小さな恵みの器も、最大の器と同じように、その縁までなみなみと栄光で満たされる。その栄光と報いがいかなる性質のものであるか、正確に叙述しようなどというのは愚かであろう。それは目が見たことのないもの、人の心に思い浮んだことのないものである。私たちはただ、神の家族に属するあらゆる者が、目ざめて神の御姿を見るとき「満ち足りる」ということだけ知っていれば十分である(詩17:15)。何よりも、彼らの喜びと、栄光と、報いとが永遠のものであることだけ知っていれば十分である。主の日に彼らが受けとるものを、彼は決して失うことがないであろう。彼らが成人するときまでとっておかれている資産は、「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない」ものである(Iペテ1:4)。

 こうした神の家族の見通しは偉大な現実である。それらは、人間のこしらえあげた、あいまいで、空虚なほら話ではない。それらは真の現実の事がらであって、まもなくそのようなものとして現われるものである。それらはあなたが真剣に考察する価値がある。それらをよく吟味するがいい。

 あなたの知っている地上の最も裕福で、偉大で、高貴で、幸福な家族を見渡してみるがいい。そのすべての中に、今あなたが耳にしたのと比べものになるような見通しを示せる家族が1つでもあるだろうか? 多くの場合、地上の富は今から百年もすれば失せ去っているであろう。多くの場合、高貴な血筋があるからといって、その家名を汚す何か不名誉な行為を防ぐことはないであろう。多くの場合、幸福はうつろで見かけ倒しなものであろう。実際、何か隠れた悲しみや、「一家の秘密」をかかえていないような家庭はほとんどない。現在の所有物においても、未来の見通しにおいても、「天上と地上で家族と呼ばれるすべてのもの」にまさって豊かな家族は1つもない。彼らが今持っているものを見ても、やがて持つであろうものを見ても、神の家族のような家族はない。

 私の務めはこれで終わる。私の論考は結びに近づきつつある。このほかに残っているのは、しめくくりとしてほんの少し実際的な適用を語ることである。最後にもうしばらく注意してほしい。願わくは神が今から私の云うことをあなたの魂の益としてくださるように!

 (1) 私はあなたに平易な質問をしたい。この質問を、一年のどの時期にあなたが家族と集まるときにも、携えて行ってほしい。この質問をその場にかかえて行き、いかに幸福な時を過ごしていようと、これについて考える時を設けてほしい。それは単純な質問であるが、厳粛な質問である。----あなたはもう神の家族に属しているだろうか?

 神の家族に、である。忘れてはならない。これが私の質問の肝である。自分はプロテスタントですとか、国教徒ですとか、非国教徒ですとか云うのでは、答えになっていない。私が聞きたいのは、その上をいく、それよりもましなことである。私はあなたに、魂を満ち足らせ、魂を救うキリスト教信仰を多少とも持っていてほしい。----あなたが生きている間は平安を、あなたが死ぬときには希望を与えるようなキリスト教信仰を持っていてほしい。そのような平安と希望を持つには、ただのプロテスタントであるとか、国教徒であるとか、非国教徒である以上のことがなくてはならない。あなたは「神の家族」に属していなくてはならない。あなたの周囲のおびただしい数の人々がそれに属していないことは、大いにありえることである。しかし、だからといってあなたがそれに属すべきでないということには決してならない。

 もしあなたがまだ神の家族に属していなければ、私は、きょうのこの日、あなたに勧めたい。急いでそれに加わるがいい、と。あなたの目を開き、あなたの魂の価値を、また罪の罪深さを、神の聖さを、あなたの現在の状態の危険さを、大いなる変化が絶対に必要であることを見てとるがいい。目を開いてこうしたことを見てとり、まさにきょうのこの日、悔い改めるがいい。----目を開いて、神の家族の偉大なるかしら、すなわちキリスト・イエスがあなたの魂を救おうと待っておられる姿を見るがいい。いかに彼があなたを愛されたか、いかにあなたのために生き、あなたのために死に、あなたのためによみがえり、あなたのために完全な贖いを獲得なさったかを見るがいい。いかに彼があなたに、あなたが彼を信じるならば、無代価の、完全な、即座の赦しを与えようとしているか見るがいい。目を開いてこうしたことを見てとるがいい。すぐさまキリストを求めるがいい。来て、彼を信じ、あなたの魂を彼の守りにまさにこの日、ゆだねるがいい。

 私はあなたの家族のことも、あなたの過去の生活のことも知らない。あなたが自分の余暇をどこに行って過ごすかも、あなたがどのような人々との交わりに加わるのかも知らない。しかし私はあえて大胆に云う。もしあなたが神の家族に加わるなら、あなたはそれがこの世で最上の、また最も幸福な家族であるとわかるであろう。

 (2) もしあなたが、この天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものに現に属しているというなら、あなたの特権を数え上げ、より感謝あふれる者となるがいい。世が与えることも奪い去ることもできないもの----あなたを病にも貧困にも左右されないようにしてくれるもの、----永遠にあなた自身のものであるもの----を有していることが、いかなるあわれみか考えてみるがいい。昔は暖かかった家族の炉辺もすぐに冷たく、無人の場所となってしまう。昔はにぎわっていた家族の集まりもすぐに過去のものとなり、永久になくなってしまう。私たちが今は見るのを喜びとしている愛する顔も、すみかやに私たちから離れ去っていく。今は私たちを迎えてくれる朗らかな声も、たちまち墓の中で沈黙してしまう。しかし、神に感謝すべきことに、もし私たちがキリストの家族に属しているなら、はるかにまさる集まりがこれからやって来るのである。私たちはこのことをしばしば考え、感謝しようではないか!

 神のすべての民という家族の集まりは、彼らの信仰が今彼らに払わせているすべての代価を償って余りあるであろう。だれひとり欠けることのない集まり、----どこにも空席や隙間のない集まり、----何の涙もそそられない集まり、----何の別れもない集まり、----このような集まりこそ、戦って格闘するに値するものである。そしてそのような集まりこそ、これから「天上と地上で家族と呼ばれるすべてのもの」に来ようとしているものなのである。

 それまでの間、私たちは、自分の属する家族にふさわしい生き方をするよう努めようではないか。私たちの御父の家にそしりを招きかねないことは何も行なわないよう努力しようではないか。私たちの気質やふるまいや生活によって、私たちの主人の御名を美しいものとするよう励もうではないか。兄弟同士愛しあい、いかなるいさかいも忌み嫌おうではないか。「家族」の名誉が私たちの行ないにかかっているかのようにふるまおうではないか。

 神の恵みにより、そのように生きることを通して私たちは、自分の召されたことと選ばれたこととを、私たち自身の目にも他の人々の目にも、確かなものとするであろう。そのように生きることによって私たちは、御国にはいる恵みを豊かに加えられ、いつ地上を天上に取り替えるにせよ、帆に風をはらませて無事に入港するであろう(IIペテ1:11)。そのように生きることによって私たちは、私たちの御父の家族を他の人々に勧めることになり、ことによると神の祝福によって、彼らにこう云わせることができるであろう。「私たちもあなたがたといっしょに行きたい」、と。

神の家族[了]

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