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15. 病


「あなたが愛しておられる者が病気です」----ヨハ11:3

 この聖句をふくむ章は、聖書を読んでいる人々にはみなよく知られている。その真に迫る描写といい、胸を打つ感興といい、高尚な簡明さといい、この章に並ぶような文章は存在しない。このような物語は、私個人の思うところでは、聖書の霊感を示す偉大な証拠の1つである。このベタニヤの話を読むとき私は、「ここには不信心者が決して説明しきれないものがある」、と感ずる。----「これは、神の指以外の何物でもない」。

 私が特にこの章で詳しく取り上げようとしている言葉は、著しく愛情と教えに満ちたものである。ここには、兄弟ラザロが病気にかかったときマルタとマリヤがイエスに云い送った伝言が記されている。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です」。その伝言は短く、単純だった。しかし、そのほとんど一語一語に深い含蓄がある。

 この聖なる女たちの、子どものような信仰に注目するがいい。彼女たちは自分たちが困窮したとき、さながらおびえた幼児が母のもとに走り寄るように、あるいは磁石の針が北極点に向くように、主イエスに助けを求めた。主を自分たちの羊飼いとして、全能の友として、苦しみを分け合うために生まれた兄弟として、助けを求めた。このふたりの姉妹は、生来の気質は違っていたが、この点では完全に一致していた。キリストの助けこそ、困難な日が訪れたとき、彼女たちに最初に浮かんだ考えであった。キリストこそ、彼女たちが困窮したとき逃れて行った隠れ家であった。幸いなことよ、すべて同じようにする者は!

 ラザロのことを告げる彼女たちの言葉遣いのへりくだった単純さに注目するがいい。彼女たちはラザロのことを「あなたが愛しておられる者」と呼んでいる。「あなたを愛している者、あなたを信じている者、あなたに仕えている者」とは云わず、「あなたが愛しておられる者」と云っている。マルタとマリヤは神から深く教えられていた。彼女たちは、私たちのキリストに対する愛ではなく、キリストの私たちに対する愛こそ、私たちの望みの真の根拠であり、私たちの希望の真の土台であることを学んでいた。もう一度云う。幸いなことよ、すべて同じように教えられている者は! 自分の内側を見つめて、自分がキリストに対していだく愛を探し回っても、痛ましいほど不満足な結果にしかならない。外側に目を向け、キリストが私たちに対していだいておられる愛を求めることにこそ、平安はあるのである。

 最後に、マルタとマリヤの伝言が明らかにしている、胸を打たれるような状況に注目するがいい。「あなたが愛しておられる者が病気です」。ラザロは善人であった。回心し、信仰を持ち、更新され、聖なる者とされた、キリストの友であり、栄光の世継ぎであった。しかし、ラザロは病気であった! ということは、病は決して神のご立腹のしるしではない。病は私たちを祝福するためのものであって、呪うためのものではない。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる」。「いのちであれ、死であれ、また現在のものであれ、未来のものであれ、すべてあなたがたのものです。なぜなら、あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のものだからです」*(ロマ8:28; Iコリ3:22)。もう一度云う。幸いなことよ、こうしたことを学んでいる者たちは! 幸いなるかな、病に伏したときも、「これは私の御父のなさったことだ。これは良いことに違いない」、と云える者たちは。

 ここで私は読者の方々に、この病という主題に注意を向けていただきたいと思う。この主題は、私たちがしばしば正面から向き合うべき主題の1つである。私たちにはそれを避けることができない。別に預言者でなくとも、いつかは私たちひとりひとりに病がふりかかってくることは簡単にわかる。「生のただ中にありても、われらは死のうちにあり」。しばしの間、私たちは目を横に転じ、キリスト者として病について考察してみようではないか。そうするからといって病が来るのが早まるわけではないし、そうした考察は、神の祝福によって、私たちに知恵を教えることとなろう。

 病というこの主題を考察するには、注目しなくてはならない3つの点があると思われる。それぞれの点について、これから少しの間語っていこうと思う。

 I. 病および病気がいかに世に蔓延しているか
 II. 病によって人類が、いかなる一般的な恩恵を授かっているか。
 III. 病はいかなる特別の義務を果たすことを私たちに要求しているか。

 I. 病はいかに世に蔓延しているか

 この点について長々と述べる必要はあるまい。これを入念に証明しようとしたら、わかりきったことを延々と繰り返し、だれしも認める決まり文句を並べ立てることにしかならないであろう。

 病は、あらゆる所に見られる。ヨーロッパにもアジアにも、アフリカにもアメリカにも、熱帯の国にも寒冷の国にも、文明化された国家にも蛮人の部族にも、----老若男女を問わず、人はみな病を得、死んでいく。

 病は、あらゆる階級に見られる。恵みによって、信仰者が病の手の届かないとこに引き上げられるなどということはない。富によって、病が控除される資格を買い取ることはできない。身分の高さによって、その襲撃を防ぐことはできない。国王もその臣民も、主人もしもべも、富豪も貧乏人も、学問のある者もない者も、教師も生徒も、医者も患者も、教職者も聴衆も、みな同じように、この大敵の手に落ちていく。「富む者の財産はその堅固な城」(箴18:11)。英国人の家はその城と呼ばれるが、病と死を閉め出しておけるような扉やかんぬきは存在しない。

 病には、ありとあらゆる種類がある。頭の天辺から足の裏に至るまで、私たちが病にかからずにすむ所はない。私たちが苦しみを受けうる際限のなさには、慄然とさせられるものがある。私たちの肉体組織に襲いかかることのできる疾病の数を、だれが数えきれるだろうか? 疾患性解剖死体の博物館を訪れて、ぞっとしないでいられる者があるだろうか? 「奇しきかな、千弦(ちすじ)の琴の、かくも永くに、調子(ふし)乱さずは」。私にとって驚くべきなのは、人々がこれほど早く死んでいくことではなく、人々がこれほど長生きできているということの方である。

 病は、人間に訪れる試練の中でも、最も屈辱的で、最も大きな苦悩を与えるものの1つである。それは、どれほど強壮な者をも幼子のようにしてしまい、「いなごすら重荷と」感じさせるようになる(伝12:5 <英欽定訳>)。いかに大胆な者をもいらつかせ、針が落ちた音にもぴりぴりさせるようにする。私たちは、「奇しく、驚くべき者として造られた」(詩139:14 <英欽定訳>)。身体と精神は精妙に結び合わされている。ある種の病は、途方もなく大きな影響を気質や霊に及ぼすことがある。脳や肝臓や神経系の疾病の中には、ソロモン並みの精神の持ち主をも、赤子同然の状態にしてしまいかねないものがある。あわれな人がいかに深い屈辱に陥りうるか知りたいという人は、しばらくの間でも病床で看護人になってみさえすればいい。

 病は、人間が何をしようと防ぐことはできない。疑いもなく平均寿命はあれこれの手段によって延ばすことができよう。医療技術は不断に新しい治療法を発見しつつあり、驚くほど多くの病を治せるようになるかもしれない。賢明な衛生法規の施行によって、一国の死亡率は大きく引き下げられるかもしれない。しかし、結局のところ、----健康的な場所であれ、不衛生な場所であれ、----温暖な気候の所であれ、寒冷地であれ、----類似療法によってであれ、逆症療法によってであれ、----人々は病を得、死んでいくのである。「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです」(詩90:10)。この言葉はまさに真理である。これは三千三百年前に真理であった。----現在でもやはり真理である。

 さて私たちこの偉大な事実----いかに病が世に蔓延しているか----をどう考えるべきだろうか? いかにしてそれを説明すべきだろうか? いかなる解説を述べることができるだろうか? 私たちの知りたがりな子どもたちが、「父さん、どうして人間は病気にかかって死んでしまうの?」、と尋ねてきたとき、私たちは何と答えるだろうか? これらは深刻な問いである。二言三言、これについて述べておくことは場違いではあるまい。

 私たちは一瞬でも、最初に神が病と病気を創造したのだと考えることができるだろうか? 私たちの世界をこれほど完全な秩序のもとに形作られたお方が、要りもしない苦しみや痛みの形成者であったなどと想像できるだろうか? 万物を「非常によかった」ものとしてお造りになったお方が、アダムの種族を病ませ、死なせるようになさったなどと考えることができるだろうか? そのような考えは、私にとっては胸が悪くなるようなものである。そのようなことは神の完全なみわざのただ中に、重大な不完全さを持ち込むことにほかならい。それとは別の解答でなくては、私の精神は満足できない。

 私を満足させる唯一の説明は、聖書が与えている説明である。世界に何かが起こったために人間は、その元々の地位から退位させられ、その元々の特権をはぎとられたのである。精密機械の真ん中に投げ込まれたひとつかみの砂利のように、何かが神の被造世界に入り込み、そこに存在していた完全な秩序をだいなしにしてしまったのである。だが、その何かとは何だろうか? 一言で答えよう。それは罪である。「罪が世界にはいり、罪によって死がはい」った(ロマ5:12)。罪が原因となって、この世にはびこるあらゆる病、病気、痛み、苦しみが生じているのである。これらはみな、アダムとエバが禁断の木の実を食べて堕落したとき世にもたらされた呪いの一部なのである。堕落がなければ、何の病もなかったであろう。何の罪もなかったなら、いかなる病気もなかったであろう。

 ここで少し余談をしたいが、それは私の主題と完全に無関係というわけではない。私がいま読者の方々に覚えてほしいのは、無神論者や理神論者や聖書を信じようとしない者の立場ほど穴だらけなものはない、ということである。私が、不信心者たちの大胆で、まことしやかな議論に困惑している若い読者の方々に特に助言したいのは、この主題----不信心の困難さ----をよく調べてみることである。あえて云おう。不信心者となるためには、キリスト者になるよりもはるかに大きな、信じ込みやすい性質が必要である。あえて云おう。人類の状態にはっきり見られる、種々の歴然たる事実は、聖書以外の何物をもってしても説明できず、そうした事実の中で最も目立つものの1つが、痛みと病と病気が世に蔓延しているということなのである。つまり、無神論者や理神論者の前に立ちはだかる最も強大な困難の1つは、人間の肉体にほかならない。

 だれでも無神論者のことは聞いたことがあるに違いない。無神論者とは、この世には何の神も、創造者も、第一原因も存在せず、世界のすべては単なる偶然によって生じたのだと信ずると公言している人々のことである。----さて、私たちはこのような教えに耳を傾けるべきだろうか? ひとり無神論者をつかまえて、わが国最高の外科医学校に連れていってみるがいい。そして人体の素晴らしい構造について調べてみてくれと云ってみるとよい。あらゆる関節と血管と弁膜と筋肉と腱と神経と骨と四肢とを形作っている、比類ない手際を見せてやるがいい。人体組織のあらゆる部分が、その機能の目的に完全に適合しているようすを見せてやるがいい。すり切れることも、すり減ることもなく、日常生活で消費される精力を不断に補う無数の精密な仕組みを見せてやるがいい。その上で、神や第一原因の存在を否定するこの人物に尋ねてみるがいい。こうした素晴らしい構造はみな偶然の産物なのか、と。これは最初にたまたま、運良く生じただけなのか、と。あなたは自分の眺める時計や、自分の口にするパンや、自分が身につけるコートについてもそんなふうに考えているのか、と。おゝ、否! この巧みな意匠は、無神論者の前に立ちはだかる乗り越えがたい困難である。神は存在するのである

 だれでも理神論者のことは聞いたことがあるに違いない。理神論者とは、この世には神が存在し、その神が世界とその中にあるすべてを創造したことを信ずると公言している人々である。しかし、聖書は信じていない。「自分は神は信ずるが、聖書は信じない!----創造者は信ずるが、キリスト教は信じない!」 これが理神論者の信条である。----さて、私たちはこのような教えに耳を傾けるべきだろうか? 私は云おう。やはりひとり理神論者をつかまえて、どこかの病院に連れていってみるがいい。そして、病気が人体に加えたすさまじいしわざを見せてやるとよい。病床に伏している幼子のもとに連れて行くがいい。善悪の区別もさだかではない幼さで、不治の癌に罹ったその姿を見せてやるがいい。子沢山の優しい母親が伏している病室に行かせるがいい。激痛を伴う何らかの病気の末期を迎えたその姿を見せるがいい。肉体を苛む苦痛や苦悶のいくつかを見せてやり、その説明がつくかどうか尋ねてみるがいい。偉大にして賢明な神、世界の造物主なる神が存在することは信じているが、聖書は信じられないというこの人物に尋ねてみるがいい。----神の被造世界に見られるこうした無秩序と不完全さの形跡をどう説明できるか尋ねてみるがいい。キリスト教の神学を鼻で笑い、アダムの堕落などちゃんちゃら可笑しくて信じられないというこの人に訊いてみるがいい。----あなたの理論に立って、このように痛みと病気が世に蔓延している理由を説明できるのか、と。その問いは空振りになるであろう! 満足の行くような答えは何1つ返ってこないであろう。病と痛みは、理神論者の前に立ちはだかる乗り越えがたい困難である。人間は罪を犯したのであり、それゆえ苦しむのである。アダムはその最初の状態から堕落し、それゆえアダムの子孫たちは病を得て死んでいくのである。

 病が世に蔓延していることは、聖書の真理を間接的に証明する証拠の1つである。聖書がその説明をしている。ものを考える人ならだれでもこの件について感ずる種々の疑問に、聖書は答えを出している。他のいかなる宗教体系にもそれはできない。それらはみなここで頓挫してしまう。沈黙してしまう。困惑してしまう。聖書だけがこの主題に真正面から向き合っている。聖書は大胆に、人間が堕落した被造物である事実を宣言し、それと同じくらい大胆に、人間の必要に応える途方もない救済策を宣言している。私は、聖書が神から出たものであるとの結論を一もなく二もなく受け入れざるをえないと感ずる。キリスト教は天からの啓示である。「あなたのみことばは真理です」(ヨハ17:17)。

 私たちは、昔からの足場に堅く立ち、聖書が、聖書だけが、人間に対して神がご自分を現わした啓示であると認めようではないか。現代の懐疑主義がこの霊感された書物に対して、どれほど新手の攻撃を加えてこようと動かされてはならない。信仰の敵たちは、聖書の困難な箇所についていくつも難問を持ち出し、あなたはしばしば、やりこめられたように感じるかもしれないが、気にしてはならない。あなたの魂の錨は、この安全な原則----この書物全体が神の真理であるとの原則----に堅く繋ぎ止めておくことである。聖書の敵たちには、こう云ってやるがいい。あなたがたがどんな議論を仕掛けてこようと、聖書と比較できるような本は世界に一冊もなく、----これほど完全に人間の必要に答えてくれるものはなく、----これほど人間の状態の多くを説明してくれるものはないのだ、と。聖書の難解な事がらについては、自分はもう少し待つことに何の不満もないと告げてやるがいい。自分は、自分の良心を満足させ、自分の魂を救うに足るだけの平易な真理をこの書の中に見いだしているのだ。難解な事がらは、いつの日か解決がつくであろう。今わからないことも、やがてわかるようになるであろう、と。

 II. 私が考察しようとする第二の点は、病によって人類は、いかなる一般的な恩恵を授かっているか、ということである。

 私は「恩恵」という言葉を熟慮の上で使っている。思うに、私たちの主題のこの部分を明確に見てとることは非常に重要である。病が、神の世界支配における弱点と目されている点の1つであることは承知している。この点について懐疑的な人々は喜んで長々と論じたがる。----「神が愛の神なら、なぜ痛みを存在させているのか? 神があわれみの神なら、なぜ病気があるのか? 神は痛みや病気を防げるはずなのに、そうしてはいない。どうしてそのようなことがありえるのか?」、と。こうした線に沿った理屈が、しばしば人の心に浮かぶものである。

 私はこのように論ずるすべての人々に答えよう。あなたがたの疑いや疑問こそ、ありとあらゆるものの中で最も筋の通らないものである、と。そのように云うのは、地震や暴風雨や嵐が宇宙の秩序を乱しているからといって、造物主の存在を疑え、と云うのと同じであろう。デリーやカンプールですさまじい虐殺があったからといって、神の摂理を疑え、と云うのと同じであろう。これらはみな、神のあわれみを疑うべき理由としては、世における病の存在と同じくらい筋の通ったことである。

 病気や痛みが蔓延していることと、神の愛を調和させることに困難を覚えているすべての人に私は願いたい。あなたの目を自分の周囲の世界に向けて、そこで何が起こっているかよく目にとめてほしい。人間というものは、いかに現在損失をこうむっても、将来得をするためとあらば、----いかに現在悲しみを覚えようと、将来喜びを感ずるためとあらば、----いかに痛みを感じても将来健康を得るためとあらば、文句1つ云わずに忍ぶものであることに注目してほしい。種は地面に蒔かれば腐る。だが私たちが蒔くのは将来の収穫を期待してのことである。少年はいやだと泣きながら学校に送られる。だが私たちがわが子を学校にやるのは、将来の知恵を得させるためである。一家の父親は、何かぞっとするような外科手術を受ける。しかし彼がそれを我慢するのは、将来の健康のためである。----私が人々に求めたいのは、この大原則を神の世界支配にも適用してほしい、ということである。信じてほしい。神が痛みや病や病気の存在を許しているのは、人間を悩ませて楽しむためではなく、人の心と精神と良心と魂とに、永遠に続く恩恵を施すことを望んでおられるからなのである。

 もう一度繰り返すが、私はこの病の「恩恵」ということを、故意に、熟慮の上で語っている。病に苦しみと痛みがつきものであることは重々承知している。その結果としてしばしば悲嘆や不快感がもたらされることは認める。しかし私は、それを純然たる悪であるとみなすことはできない。私はそこに、神の賢明な許しを見るのである。人々の魂の間で猛威をふるおうとする罪と悪魔を抑制するという、有益な定めを見るのである。もし人間が何の罪も犯したことがないというのであれば、私も病に恩恵などあるのかと頭をかかえていたであろう。しかし罪が世にある以上、私には病が良いものであることがわかる。それは呪いでもあるが、それと同じくらい祝福でもあるのである。これが手荒い教師であることは認める。しかし人の魂にとっては真の友なのである。

 (a) 病は人に死を思い出させる役に立つ。大多数の人々は、自分が決して死ぬことはないかのような生き方をしている。彼らが仕事や、快楽や、政治や、科学にのめりこんでいるありさまは、まるで地上が彼らの永遠の家ででもあるかのように見える。彼らは、あのたとえ話の愚かな金持ちのように、先々のことを考えて思いを巡らしたり、計画を立てたりしている。そのようすは、予告なしにいつ追い出されるかわからない借地人ではなく、永代借地権の持ち主ででもあるかのようである。重い病に罹ることは、こうした思い違いを追い散らすのに大いに役立つことがある。それは人々をその白昼夢から覚まし、彼らに、自分がいつまでも生きているわけではなく、いつかは死ななくてはならないことを思い出させる。さて私は、これを非常に大きな善であると力を込めて云うものである。

 (b) 病は人に神のことを真剣に考えさせる役に立つ。また、自分の魂のこと、来たるべき世のことを考えさせるものである。大多数の人々は、健康でいるうちは、そのような考えに費やせる時間がない。彼らはそうした考えを嫌っている。そうした考えを押しのける。それらは彼らにとって煩わしく、不愉快なものでしかない。さて深刻な病気には、時として、こうした考えを目覚めさせ、呼び集め、魂の目の前に突きつけるという、驚くべき力がある。ベン・ハダテのように邪悪な王でさえ、病んだときには、エリシャのことを思い出すことができた(II列8:8)。異教徒の水夫たちでさえ、死が間近に迫ったときには、恐れて、「それぞれ、自分の神に向かって叫び」立てた(ヨナ1:5)。確かに、人々を考えさせる役に立つようなものは何であれ善である。

 (C) 病は人の心を和らげ、知恵を教える役に立つ。生まれながらの心は石のように硬い。それは、この人生に関わらないものに何の善も見てとることなく、この世以外のところに何の幸福も見てとれない。長患いは時としてこうした考え方を矯正する大きな力がある。それはこの世が「良い」ものと呼ぶものの空しさ、うつろさをあばき、そうしたものにこだわるべきではないことを私たちに教えてくれる。実業人は、金銭だけが心の必要とするすべてではないことを見いだす。世の女性は、高価な衣裳を着ることや、小説を読むことや、舞踏会や歌劇の噂話をすることが、病人部屋ではみじめな慰めにしかならないことを見いだす。確かに、地上的な事がらに関する私たちの重りや物差しを変えさせるものは何であれ真の善である。

 (d) 病は私たちを押しつぶし、へりくだらせる役に立つ。私たちはみな生まれながらに高慢で思い上がった者である。これらの悪に感染していない者は、いかに極貧の人々の間でさえ、ほとんどいない。他人を見下していないような者、心ひそかに、自分は「他の連中のようではない」と信じていないような者は、ほとんど見受けられない。病床はこうした思いを大きくくじくものである。それは、私たちがみな貧しい虫けらであり、私たちが「泥の家に住む者」、「しみのようにたやすく押しつぶされ」る者であり、国王も臣民も、主人もしもべも、富豪も貧民も、みな死に行く被造物であり、いずれ神の法廷に肩を並べて立たなくてはならない、という偉大な真理を私たちに突きつける(ヨブ4:19)。棺や墓の見えるところで、高慢になるのは容易ではない。確かにこの教訓を与えてくれるものなら何であれ善である。

 (e) 最後に、病は人の信仰を試し、それがいかなる種類のものであるかを示す役に立つ。何も信じていないという人は地上にそう多くはない。しかし、ほとんどの人々の信仰は精密な吟味に耐えることができない。大多数の人々は、先祖伝来の伝統に安住し、自分のうちにある希望について何の根拠も示すことができない。さて病気は時として人にとって、自分の魂の土台が全く無価値なものであることをあばくのに最も役に立つものである。それによってしばしば人は、自分の足の下に何も堅固なものがなく、自分の手が何も確固たるものをつかんでいないことを示される。それによって人が見いだすのは、確かに自分には信仰の形はあるかもしれないが、自分が一生の間、「知られない神」を拝んできたのだ、ということである。多くの信条は、健康という凪いだ海の上では何の問題もないように見えるが、病床という荒波の上では全く腐りきった、役立たずなものであることが明らかになるのである。冬の嵐はしばしば、人の住まいの欠陥をあらわにし、病はしばしば人の魂の恵みなき状態を暴露する。確かに自分の信仰の真の性質を見いださせてくれるものは善である。

 私は、病を得た人すべてにこうした恩恵が授けられるとは云っていない。悲しいかな、決してそうは云えない! おびただしい数の人々が毎年のように病床に伏しては再び健康を回復しているが、明らかにその病床から何の教訓も学ぶことなしに、世に戻っていく。おびただしい数の人々が毎年のように病によって墓に葬られているが、滅びうせる獣と同様、そこから何の印象も受け取っていない。彼らは生きている間何も感じておらず、死ぬときも、「彼らの死には、苦痛がな」い(詩73:4)。こうしたことを口にするのは恐ろしいことである。しかし、それが真実なのである。私には、人の心と良心とが、どれほど深く死んだ状態へと達しうるかは想像もつかないとしか云えない。

 しかし病は、私が語ってきたような恩恵をほんの少数の人々にしか授けないのだろうか? 絶対にそのようなことはないと云いたい。私の信ずるところ、病によって非常に多くの人々が、今私が語ってきたようなことに多少なりとも近い印象を生じさせられている。私の信ずるところ、多くの精神において病は神の「訪れの日」であり、病床にある人々には、活用されさえするなら、神の恵みにより救いに至らされるような感情が絶えずかき立てられている。私の信ずるところ、異教国においては、病はしばしば宣教師の前に通り道を開き、あわれな偶像礼拝者を福音の良き知らせに耳を貸そうという気にさせるものである。私の信ずるところ、わが国においてすら、病は福音の教役者にとって最大の助けの1つであり、健康なときには聞き流していたような説教や忠言を、病気の時にはしばしば心に突き刺さるように感じさせるものである。私の信ずるところ、病は人々を救うために神が用いる最も重要な補助手段の1つであって、確かにそれが呼び起こす感情はしばしば一時的なものでしかないとはいえ、それはしばしば御霊が心に有効にお働きになる手段でもあるのである。一言で云えば、私はこう堅く信じているのである。人々はしばしばその肉体の病によって、神の素晴らしい摂理を通じ、魂の救いへと導かれてきた、と。

 私は私の主題のこの項目をここまでとしたい。これ以上言及する必要はないであろう。もしここまで語ってきたようなことが病にできるとしたら(そして、だれがそれに反駁するだろうか?)、もし病が邪悪な世にあって人々に神のこと、自分の魂のことを考えさせるとしたら、病は人類に恩恵を授けているのである。

 私たちは、病のことでつぶやいたり、この世に病が存在することに不平をこぼしたりする権利は全くない。むしろ病があることを神に感謝すべきである。それは神の証人なのである。魂の助言者なのである。良心にとって覚醒者なのである。心にとってきよめ手なのである。確かに私にはこう云う権利があるに違いない。病は呪いではなく祝福である、と。----危害ではなく助けであり、----損失ではなく利得であり、----人類の敵ではなく友である、と。罪を有する世界がある限り、それが病を有する世界であることはあわれみである。

 III. 第三に、また最後に私が考察したいと思うのは、病が世に蔓延していることによって、私たちひとりひとりには、いかなる特別の義務が課せられているか、ということである。

 この点について何も云わずに、この病という主題を終えるのはしのびないものがある。魂に対する神の使信を取り次ぐにあたって、私が最も重要なことと考えているのは、単なる一般論を述べるだけで満足しない、ということである。私は、この論考を手に取るであろうあらゆる人の心に、その人自身が有する、この主題にからんだ個人的な責任について深く印象づけたいと切に願っている。私は、この論考を読み終わった人がひとりとして、次のような質問に答えられないようなことがないようにしたいのである。----「私はいかなる実際的な教訓を学んだだろうか? 病気と死の世界において、私は何をしなくてはならないのだろうか?」

 (a) 病が世に蔓延していることから人が必然的に課せられる最大の義務は、神と出会う備えを不断にしつつ生きることである。病は死を思い出させるよすがである。死は、私たちがみなそこを通って審きへと至る扉である。審きは私たちがついに神と顔と顔を合わせて向き合わなくてはならないときである。確かに、病んで死につつある世界の住人が学ぶべき第一の教訓は、自分の神に出会う備えをすることであるに違いない。

 あなたはいつ神に出会う備えができるのだろうか? あなたの不義が赦され、あなたの罪が覆われるそのときにほかならない! あなたの心が新しくされ、あなたの意志が神のみこころを喜ぶことを教えられるそのときにほかならない! あなたには多くの罪がある。もしあなたが教会に通っているなら、あなた自身の口が、そのことを日曜ごとに告白するよう教えられているはずである。イエス・キリストの血だけが、そうした罪をきよめ去ることができる。キリストの義だけが、あなたを神の御目に受け入れられる者とすることができる。信仰が、単純な子どものような信仰だけが、あなたをキリストとその恩恵にあずからせることができる。あなたは自分が神に出会う備えができているかどうか知りたいだろうか? では、あなたの信仰はどこにあるのか?----あなたの心は、生まれながらに神とともにいるのにふさわしくないものである。あなたは、神のみこころを行なうことに何も真の喜びを感じられない。聖霊があなたをキリストのかたちに作り替えなくてはならない。古いものは過ぎ去らなくてはならない。すべてが新しくならなくてはならない。あなたは自分が神に出会う備えができているかどうか知りたいだろうか? では、あなたの恵みはどこにあるのか? あなたの回心と聖化の証拠はどこにあるのか?

 私の信ずるところ、ここで、ここまで至って初めて、神に出会う備えができるのである。罪の赦しと神に出会う備え、----信仰による義認と心の聖化、----私たちの上に注がれたキリストの血と、私たちのうちに住むキリストの御霊、----これらがキリスト教信仰の中心となる本質的要素である。これらは決して、論争しあう神学者たちが争いの種にするしかない、単なる言葉や名称ではない。これらはありのままの、実質ある、実在の実体である。病と死に満ちた世界の中で、こうした事がらを実際に有して生きることこそ、私があなたの魂に心底から悟らせたいと思う第一の義務である。

 (b) 病が世に蔓延していることからあなたが必然的に課せられるもう1つの大きな義務は、忍耐強く病を忍ぶ覚悟を不断にしつつ生きることである。病は疑いもなく血肉にとってはつらいことである。自分の気力の衰えや、体力の減退を感ずること、----寝床に縛りつけられ、有益な慰みごとを何1つ行なえないこと、----自分の計画が挫折し、意図していたことの実現が妨げられるのを目にすること、----疲労と苦痛をじっと耐えながら幾時間も、幾日も、幾晩も過ごすこと、----これらはみな、私たちの罪深い人間性にとって過酷な試練である。病人が気難しく、怒りっぽくなるとしても、何の不思議があるであろう! 確かにこのような死につつある世にあって私たちは忍耐を学ぶべきである。

 いざ自分が病に罹る番になったとき、どうすれば、それを忍耐強く忍べるだろうか? 私たちは健康なうちから恵みの蓄積をたくわえておかなくてはならない。自分では手に負えない気質や性向を聖なるものとしてくださる聖霊の影響力を乞い求めなくてはならない。祈りの生活を真剣にこころがけ、神のみこころを行なう力と同じく、そのみこころに耐える力をも、常日頃から祈り求めていなくてはならない。そのような力は、願いさえすれば与えられることができる。「あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう」(ヨハ14:14)。

 この点について詳しく述べることは必要であると思う。私の信ずるところ、キリスト教の受け身的な恵みは、受けてしかるべき注意をはるかに下回る注意しか受けていない。柔和、親切、寛容、誠実、忍耐は、みな神のみことばの中で御霊の実として言及されている。こうした受け身的な恵みは、特に神の栄光を現わすものである。これらによってしばしば、キリスト者の性格の積極的な面を軽蔑する人々も考えさせられる。そしてこれらの恵みが最も輝かしく示されるのは病室内なのである。これらによって多くの病人は、周囲にいる人々が決して忘れられないような無言の説教を行なえるのである。あなたは自分が信仰を告白している教えを飾りたいだろうか? あなたのキリスト教を他の人々の目に美しいものとしたいだろうか? ならば、この日あなたに私が与える心得を受け入れるがいい。患いのときのために、いま忍耐の蓄積をたくわえておくがいい。そのとき、あなたの病は死で終わるだけのものではなく、「神の栄光」のためのものとなるのである(ヨハ11:4)。

 (c) 病が世に蔓延していることからあなたが必然的に課せられるもう1つの大きな義務は、あなたの同胞に同情し、手助けをする用意を不断にしておくことである。病は決して私たちから遠く離れたものとなることはない。親類の中に病人がいないような家庭はめったにない。病人をだれひとり見つけられないような教区はめったにない。しかし、病があるところには、義務への召しがある。ある場合にはほんのちょっとした時にかなった助けが、----親切な訪問が、----友人としての問いかけが、----ささやかな同情の言葉が、途方もない善を施すことがある。こうしたことは、厳しい境遇を和らげ、人々を近寄せ、良い感情を押し進める類の事がらである。こうしたことは、人々を最終的にはキリストのもとに導き、彼らの魂を救うかもしれない道なのである。こうしたことは、信仰を告白するあらゆるキリスト者がいつでも喜んで行なうべき良いわざである。病と病気に満ちた世にあって、私たちは「互いの重荷を負い合い」、「お互いに親切にし」なくてはならない(ガラ6:2; エペ4:32)。

 こうした事がらは、ある人々には小さなこと、取るに足らないことのように思えるかもしれない。そういう人々の考えでは、何かを行なうとしたら、それは偉大で壮大なこと、人の耳目を驚かすような英雄的なことでなくてはならないのである! だが私に云わせてもらえば、こうした兄弟たちへの小さな親切を良心的にきちんと果たしていることこそ、私たちに「キリストの心」がある何よりも明確な証拠の1つである。これらは、私たちのほむべき主人ご自身がうまずたゆまず行なわれた行為である。主は常に「巡り歩いて良いわざをなし」ておられた(使10:38)。これらは主が、あの聖書中最も厳粛な箇所、最後の審判の描写において、非常な重要性を付与なさった行為である。主はそこで云っておられる。「あなたがたは……わたしが病気をしたとき、わたしを見舞っ……てくれた」(マタ25:36)。

 あなたは、自分の愛が実質の伴ったものであることを証明したいと願っているだろうか?----あの、多くの人々が口にしながら、ほとんど実行することのないほむべき恵み----愛----が実体の伴ったものであることを証明したいだろうか? もしそうなら、冷淡な自己中心的態度をとったり、病んだ兄弟たちを無視したりしないよう用心するがいい。むしろ、そうした人々を見つけ出すようにするがいい。彼らが助力を必要としているなら手助けしてやるがいい。彼らに同情を示すがいい。彼らの重荷を軽くするように努めるがいい。何よりも、力を尽くして彼らの魂に善を施すようにするがいい。それが彼らにとって全く善にならなくとも、あなたにとっては善となるであろう。それによってあなたの心は、つぶやかないようになるであろう。それはあなた自身の魂にとって祝福となるであろう。私の堅く信ずるところ、神は私たちの手の届く範囲内にあるあらゆる病人たちによって、私たちを試み、試しておられる。苦しみを許すことによって神は、キリスト者たちに思いやりがあるかどうかを試しておられる。あなたがはかりで量られたとき、目方が足りないというようなことがないように用心するがいい。もしあなたが病んで死につつある世にあって、他の人々を思いやらずに生きていけるとしたら、あなたには、学ばなくてはならないことがまだたくさんあるのである。

 私は私の主題のこの項目をここまでとしたい。ここまであげた点を私は、単なる示唆として示すものであって、それらによって神が多くの精神の中で働いたくださることを祈るものである。繰り返して云う。神と出会う備えを不断にしておくこと、----忍耐をもって苦しむ覚悟を不断にしておくこと、----心からの同情を示す用意を不断にしておくこと、これらは病が必然的にすべての者に課している、あからさまな義務である。これらは、いかなる人にも行なえる義務である。これらによって私は、何1つ法外なことや筋の通らないことは求めていない。私はいかなる人にも、修道院に引き籠もれとか、自分に与えられている持ち場の義務を無視せよ、などと命じてはいない。私が人々に求めているのはただ1つ、自分が病んだ死につつある世界に生きていることを悟り、それに応じた生き方をする、ということだけである。そして私は大胆にこう云いたい。信仰と聖潔と忍耐と愛の生活を送る人は、最も真実なキリスト者であるばかりでなく、最も賢明で道理をわきまえた人である、と。

 さてここで私はすべてのしめくくりとして、4つの実際的適用の言葉を語りたい。私はこの論考の主題によって、何らかの霊的な益がもたらされてほしいと思う。私が心から願い、神に祈り求めているのは、この論考をこの本に掲載したことで、魂に善が施されることである。

 (1) 第一に、私はこの論考を読むすべての方々に、1つの問いを投げかけたい。私は神の大使として、その問いに真剣な注意を向けてくれるよう懇願するものである。それは、私がここまで書きつづってきた主題から自然に発してくる問いである。身分も階級も境遇も問わず、すべての人に関わる問いである。私はあなたに問いたい。あなたは、病気に罹ったらどうするであろうか? やがてはあなたも、他の人々と同じように、死の影の暗い谷へ下って行かなくてはならない時がやって来る。あなたの先祖たち全員と同じように、病を得て死ななくてはならない時が必ず来る。その時は間近かもしれないし、はるか先のことかもしれない。神だけがご存知である。しかし、その時がいつになろうと、私はもう一度問いたい。あなたはどうしようというのか? あなたはどの方面に慰めを求めるつもりなのだろうか? 何を根拠として自分の魂を安んずるつもりなのか? いかなる土台の上に自分の希望を築きあげるつもりなのか? どこから自分の慰安を引き寄せようというのか?

 こうした問いかけを押しのけないように私は懇願する。これらがあなたの良心に働きかけるのを妨げないでほしい。そして、これらに満足な答えを出せるようになるまで安心しないでほしい。あなたの尊い賜物、不滅の魂をいいかげんに扱わないでほしい。この問題について考えるのを引き延ばし、もっと都合のいい時に考えようなどと考えてはならない。死の床で悔い改めればいいなどと思ってはならない。最も重大な務めを最後まで残しておいてよいはずがない。死に行くひとりの盗人が救われたのは、だれも絶望しないようにするためであったが、それがひとりしかいなかったのは、だれをもつけあがらせないためであった。もう一度問う。私の確信するところ、これは答えを出すに値する問いである。「あなたは、病気に罹ったらどうするであろうか?」

 もしあなたがこの世で永遠に生きていけるとしたら、私もこのような問いかけはすまい。しかし、そのようなことはありえない。全人類に共通の定めから逃れることはできない。だれも私たちに代わって死ぬことはできない。私たちがそれぞれ自分の終の住み家に行かなくてはならない日は必ず来る。私はあなたに、その日への備えをしていてほしいのである。今あなたの注意をこれほどまでに引きつけている肉体、----あなたが今着物をまとわせ、食物をとらせ、暖かくさせるのに気遣ってやまない肉体、----その肉体はいつか再びちりに返らなくてはならない。おゝ、考えてもみるがいい。あらゆることに対して備えておきながら、唯一必要なことについてだけは備えていないなどということが、最後にはいかに恐るべきことになるかを。----肉体の必要は満たしておきながら、魂のことは放置しておき、----ボウフォート枢機卿のように、いざ死んだときには、救われているという「何のしるしも見せずに」逝くなどということがいかなることであるかを。もう一度私は、この問いをあなたの良心に突きつけたい。「あなたは、病気に罹ったらどうするであろうか?」

 (2) 次のこととして、私はこの論考を読むすべての方々に1つの忠告を与えたい。そうした忠告の必要を覚え、それを喜んで受けとりたい気持ちがあるすべての人々に、----自分はまだ神に合う備えができていないと感じているすべての人々に、1つの忠告を与えたい。それは短く単純なものである。遅れることなく、主イエス・キリストの近づきになるがいい。悔い改めて、回心させられ、キリストのもとに逃れ行き、救われるがいい。

 あなたには魂があるかないか、2つに1つである。だがあなたは、決して自分に魂があることを否定などしないに違いない。ならば、あなたに魂がある以上、その魂の救いを求めるがいい。世界中のあらゆる賭け事の中でも、何が向こう見ずといって、神に出会う備えのないまま、悔い改めを引き延ばしつつ生きることほど向こう見ずなことはない。----あなたには罪があるかないか、2つに1つである。もし罪があるなら(そして、だれがそれを否定などするだろうか?)、そうした罪から手を切り、もろもろの背きの罪を捨てて、遅れることなくそれらに背を向けるがいい。----あなたは救い主を必要としているかしていないか、2つに1つである。もし必要というなら、きょうのこの日、唯一の救い主のもとに逃れ行き、大きな叫びをもって、自分の魂を救ってくださいと云うがいい。すぐさまキリストに申し出るがいい。信仰によって主を求めるがいい。あなたの魂を主の守りにゆだねるがいい。大きな叫びをもって主に赦しと神との平和を乞い求めるがいい。聖霊を自分の上に注ぎ出し、自分を徹底したキリスト者にしてくださいと願うがいい。主はあなたの声を聞いてくださる。あなたがいかなる者であったとしても、主はあなたの祈りを拒みはしないであろう。主は云われた。「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」(ヨハ6:37)。

 私は切に願う。曖昧模糊とした、ぼやけたキリスト教に用心するがいい。自分は由緒ある英国国教会に属しているから万事大丈夫だとか、神はあわれみ深いお方であるから最後には何もかもうまく行くはずだとかいう、漠然とした希望に安住していてはならない。安心してはならない。個人的にキリストご自身と結び合わされていない限り、安心してはならない。安心してはならない。あなたの心の中で御霊が、あなたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められ、キリストとと1つとされ、キリストがあなたのうちにおられると証ししてくださるまで、安心してはならない。使徒とともにあなたが、「私は、自分の信じて来た方をよく知っており、また、その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができると確信しているからです」、と云えるようになるまで安心してはならない(IIテモ1:12)。

 曖昧模糊とした、ぼやけた、不明確なキリスト教信仰も、健康なときには非常に役に立つかもしれない。だが病の日には何の役にも立たないであろう。単に形式的で、うわべだけの教会員籍によっても人は、若くて何不自由ない日差しの中では、多くのことをしのげるかもしれない。だがそれは、死を目の前にしたときには完全に破綻するであろう。そうしたときに役に立つものはただ1つ、真に心からキリストと結びついていることしかない。神の右の座について私たちのためにとりなしていてくださるキリスト、----私たちの祭司、私たちの医師、私たちの友として知られ信じられているキリスト、----キリストだけが死からそのとげを奪い去り、恐れなく死に立ち向かわせることができるのである。彼だけが死の恐怖によって奴隷となっている者たちを解放できるのである。私は忠告を求めるあらゆる人に云う。キリストと近づきになるがいい。病床の上で希望と慰めをほしければ、キリストと近づきになるがいい。キリストを求めることである。キリストに申し出ることである。

 キリストと近づきになったなら、あらゆる心労と困難を彼のもとに持ち出すがいい。彼があなたを守り、すべてをしのがせてくださる。あなたの良心が重荷を負っているとしたら、あなたの心を洗いざらい彼の前に打ち明けるがいい。彼こそは真の聴罪師である。彼だけがあなたに赦免を与え、その重荷を取り去ることができる。病のときには、マルタとマリヤのように、まず彼に救いを求めるがいい。あなたが最後の息を引き取るそのときまで、彼を見上げ続けるがいい。キリストは知る価値がある。彼を知れば知るほど、あなたは彼を愛するようになるであろう。ならば、イエス・キリストと近づきになるがいい。

 (3) 第三のこととして、私はこの論考を読んでいるすべての真のキリスト者に勧めたいと思う。病んでいる人が、いかに大きな栄光を神に帰すことができるかを思い起こし、病んだときには神の御手の中で静かに伏しているがいい

 思うに、この点にふれることは非常に重要である。私は、キリスト者の肉体が弱くなるとき、信仰者の心がいかに容易にくじけてしまうものか、いかにサタンが疑いや疑問を絶え間なく示唆するものか承知している。私は、神の子どもたちが突然病気によってその任に耐えなくなり、寝たきりになったとき、時として、いかに彼らが意気消沈し、憂鬱に陥るものか見てきた。私は、一部の善良な人々が、いかにこうした時期に病的な思いで自分を苛み、いかに、「神は私を捨ててしまったのだ。私は神から見放されたのだ」、と内心で云いがちになるかに注目してきた。

 私は、病床にあるあらゆる信仰者に対して熱心に懇願したい。忍耐強く苦しむことによっても、積極的に働くことに劣らず神に栄誉を帰すことができることを覚えておいてほしい。えてしてじっと静かにしていることの方が、あちこちを行き巡って大きな手柄を立てることよりも、はるかに大きな恵みを示すものである。私はそういう人に懇願したい。キリストは、あなたが健康なときに劣らず、あなたが病んでいるときにも、あなたを気遣っておられ、あなたが痛切に感じている懲らしめそのものすら、愛によって送られたものであって、怒りによって送られたものではないと覚えていてほしい。何にもまして、私はそういう人々に懇願したい。イエスがそのすべての弱い肢体に対していだいておられる同情心を思い起こしてほしい。それらは常に彼から優しく気遣われているが、困窮しているときにまさって深く気遣かわれているときはない。キリストは病に大きな経験を積んでおられる。主は病んだ人の心を知っておられる。主は地上におられたとき、「あらゆる病気、あらゆるわずらい」を目にしておられた。彼は人として地上におられた時期、特に病人たちへの同情を注がれた。主は今も、特に彼らに同情しておられる。私がしばしば考えるのは、病と苦しみによって信仰者は、健康によってよりも、経験的に彼らの主に似た者となっていく、ということである。主は「私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った」(イザ53:3; マタ8:17)。主イエスは、「悲しみの人で病を知っていた」。苦しみのうちにあった救い主の心を学べる機会を、だれよりも有しているのは、苦しみのうちにある弟子たちにほかならない。

 (4) 最後に、すべての信仰者への勧告の言葉でしめくくりたい。私は、神がそれを彼らの魂に印象づけてくださるよう心から祈るものである。私はあなたに勧める。キリストとの親しい交わりを持つ習慣を持ち続け、決してあなたのキリスト教信仰の「行き過ぎ」を恐れないようにするがいい。病んだときに「大いなる平安」を持ちたいと願うなら、このことを覚えておくがいい。

 私が遺憾に思うのは、一部のキリスト者たちの間に、実際的なキリスト教の水準を引き下げようとし、キリスト者の日常生活の歩みにおける、いわゆる「極端な見解」を非難ようとする傾向が見られることである。私が痛みをもって注目しているのは、信仰に立った人々ですら時として、世的な交際仲間から身を退く人々に白い目を向けたり、そうした人々を「排他的で、狭量で、反自由主義的で、愛のない、気難しい」人などといって非難する光景である。私はこの論考を読んでいるであろう、キリストにあるあらゆる信仰者に警告したい。こうした批判に影響されないよう用心するがいい。私は懇願したい。もし死の影の谷にあっても光がほしいというなら、「この世から自分をきよく守ること」、また主に「従い通す」こと、そして神のそば近くを歩むこととを心がけることである(ヤコ1:27; 民14:24)。

 私の信ずるところ、多くの人々のキリスト教に関する「徹底さ」の欠如こそ、彼らが健康なときも病のときも、ほとんど慰めを持てない秘密の1つである。私の信ずるところ、「ほどほどにしておく」、----「他人と歩調を合わせる」キリスト教信仰、現代多くの人々を満足させているこのような信仰こそ、神にとって不快なもの、多くの人々が手遅れになるまで決して気づかないいばらを、臨終の枕に蒔いているものなのである。私の信ずるところ、そうしたキリスト教信仰の弱さと虚弱さを、病床ほど明らかにするものは何1つない。

 もしあなたや私が困窮の時に「力強い励まし」を受けたければ、私たちはキリストとの素っ気ない結びつきで満足していてはならない(ヘブ6:18)。私たちは、心から感ずる体験的な彼との交わりについて多少は知ることを求めなくてはならない。決して、決して忘れないようにしようではないか。「結びつき」と、「交わり」は全くの別物なのだということを。残念ながら、おびただしい数の人々が、キリストとの「結びつき」が何かは知っていながら、「交わり」については全く知らないのではなかろうか。

 やがて私たちが、病気との長い戦いの後で、医薬によってはもはやどうしようないと感じ、もはや死ぬしかないと感ずる日がやって来る。友たちは、なすすべもなくかたわらに立っているであろう。聴力も視力も、祈る力さえもが、急速に私たちを見捨てていくであろう。世とその影は私たちの足下から溶け崩れていくであろう。永遠がその実体とともに私たちの精神の前にぬっと姿を現わすであろう。その試練の時に何が私たちを支えてくれるだろうか? 何が私たちに、「私はわざわいを恐れません」(詩23:4)、と感じさせてくれるだろうか? そうできるものは、キリストとの親密な交わりのほか一切ない。何1つない。信仰によって私たちの心に住んでいてくださるキリスト、----私たちの頭にその右の手を置いてくださるキリスト、----私たちのそばに座していると感じられるキリスト、----キリストだけが私たちに、この最後の戦いにおいても完全な勝利を与えることがおできになるのである。

 私たちはキリストにより堅くしがみつき、より心からキリストを愛し、より徹底してキリストのために生き、より正確にキリストの御姿にならい、より大胆にキリストを告白し、より完全にキリストに従おうではないか。このようなキリスト教信仰は、常にそれ自身の報いををもたらすであろう。この世的な人々はそれを笑い飛ばすかもしれない。弱い兄弟たちはそれを極端だと考えるかもしれない。しかしそれは、どこまでも長持ちするであろう。平穏な時、それは光をもたらすであろう。、病にあっては、私たちに平安をもたらすであろう。来たるべき世においては、私たちにしぼむことのない栄光の冠を与えるであろう。

 時は縮まっている。この世の有様は過ぎ去る。もうしばらく病を経れば、すべては終わるであろう。もうしばらく葬儀を重ねれば、私たち自身の葬儀が行なわれるであろう。もうしばらく嵐と揺さぶりをくぐり抜ければ、私たちは無事に港にたどり着くであろう。私たちの旅路の果てにある世界には、何の病もない。----別れも、痛みも、涙も、嘆きも、永遠に取り去られている。天国は年を追うごとに人々でいっぱいになりつつあり、地上は年を追うごとに空虚になりつつある。行く手にいる友たちは、後方にいる友たちよりも数がふくれあがりつつある。「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない」(ヘブ10:37)。主の御前には喜びが満ちている。キリストは御民の目からすべての涙をぬぐってくださる。最後まで滅ぼされない敵は死である。しかし、それも滅ぼされる。死そのものがいつかは死ぬのである(黙20:14)。

 それまでの間、私たちは神の御子を信ずる信仰の人生を生きようではないか。私たちはありったけの信頼を込めてキリストに寄りかかり、彼が永遠に生きておられることを考えて喜ぼうではないか。

 しかり、神はほむべきかな! 私たちは死んでも、キリストは生きておられる。友や家族が墓に連れ去られても、キリストは生きておられる。死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されたお方は生きておられる。「死よ。おまえのとげはどこにあるのか。よみよ。おまえの針はどこにあるのか」、と云われたお方は生きておられる(ホセ13:14)。いつの日か私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるお方は生きておられる。病めるときも健やかなときも、生きるにしても死ぬにしても、私たちは彼に信頼してより頼もうではないか。確かに私たちは、古のある人とともに日ごとにこう云うべきである。「イエス・キリストのゆえに、神がほめたたえられますように!」

病[了]

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