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14. 最良の友


「これが私の友」----雅5:16 <英欽定訳>

 友人は地上における最大の祝福の1つである。金銭が何であろう。愛情は黄金にまさり、思いやりは地所にまさっている。本当に貧しい人間とは、ひとりも友がいない人間のことである。

 罪に満ちたこの世は、悲しみに満ちている。これは暗い場所である。孤独な場所である。失望させられる場所である。この世にあって、その最も輝かしい陽光こそ友にほかならない。友情は私たちの困難を半減させ、私たちの喜びを倍加する。

 真の友は見ることまれなものである。私たちは、人生が好天で、富み栄えている間は、飲み食いをともにしたり、笑い合う人々に事欠かない。だが暗闇の日々がやって来たとき、私たちとともに立ってくれる者はほとんどいない。----私たちが病んで、無力になり、貧しくなったとき、私たちを愛してくれる者はほとんどいない。----何にもまして、私たちの魂について気遣ってくれる者はほとんどいない。

 この論考を読んでいる方々のうち、真の友がほしいと思っている人はいるだろうか? この日私は、ひとりの友にあなたの注意を向けたいと思う。私が知っているこの友は、「兄弟よりも親密な」お方である(箴18:24)。私が知っているこの友は、あなたが受け入れさえするなら、現世においても永遠においても、喜んであなたの友となろうとしているお方である。

 私があなたに知ってほしい友とはイエス・キリストにほかならない。幸いなことよ、キリストが第一の地位を占めているその家庭は! 幸いなことよ、キリストを最大の友としているその人は!

 I. 私たちは窮する時の友がほしいと思うだろうか? まさに主イエス・キリストこそ、そのような友である。

 人間は、罪人であるがゆえに、神の地上において最も貧窮した被造物である。罪人ほど、大きな窮乏のもとにある者はない。貧困も、飢えも、渇きも、寒さも、病もみな、これとはくらべものにならない。罪人には赦しが必要だが、決して自分で自分に赦しを与えることはできない。罪人は罪意識に悩む良心や、死の恐れからの解放が必要だが、決して自分でそうした解放を手に入れることはできない。この窮地から救い出すためにこそ、主イエス・キリストはこの世に来たのである。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」(Iテモ1:15)。

 私たちはみな生まれながらに、貧しく、死に向かいつつある被造物である。玉座の上の国王から救貧院の乞食に至るまで、私たちはみな死に至る病に魂を侵されている。私たちは、自分で知っていようといまいと、感じていようといまいと、みな日に日に死に向かいつつある。罪という疫病が私たちの血管の中を流れている。私たちは自分で自分を癒すことができない。私たちの容態は刻一刻と悪化している。これらすべての治癒を主イエスは引き受けてくださった。主が世に来られたのは、「傷をいやして直す」ためであった。彼が来られたのは、「死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示す」ためであった(エレ33:6; 黙2:11; IIテモ1:10)。

 私たちはみな生まれながらに、牢獄に監禁された債務者である。私たちは私たちの神に一万タラントの負債があり、一銭も支払える持ち合わせはなかった。私たちはみじめな破産者であり、自分で自分の負債を払える見込みは皆無であった。私たちは決して自分の債務から自分を解放することはできず、雪だるま式に借財を増やしつつあった。これらすべてを見て主イエスは、その賠償を引き受けてくださった。主は「解き放ち、贖う」わざに携わってくださった。「捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ」るために来てくださった。「私たちを律法ののろいから贖い出す」ために来てくださった(ホセ13:14; イザ61:1; ガラ3:13)。

 私たちはみな生まれながらに、座礁し、難破した船であった。私たちは決して永遠の命という港に行き着くことができなかった。波浪の中で、なすすべもなく、希望もなく、手助けもなく、手をこまねきながら沈みつつあった。自分のもろもろの罪にくくりつけられ、巻きつかれ、自分自身の罪咎の下で沈没しつつあり、悪魔のえじきになる寸前であった。これらすべてを見て主イエスは、救出のわざを引き受けてくださった。主は天から下って、私たちを助ける「勇士」となってくださった。主は、「失われた人を捜して救うために」来てくださった。「私たちを救って、よみの穴に下って行かないようにする」ために来てくださった(詩89:19; ルカ19:10; ヨブ33:24)。

 主イエス・キリストが天から下って来てくださらなかったとしたら、私たちは救われることができただろうか? 私たちの目の届く限り、それは不可能だったであろう。エジプト、ギリシャ、ローマの賢人という賢人をもってしても、決して神と平和を得る道を見いだすことはできなかった。キリストの友情がなければ、私たちはみな永遠に地獄で滅びていたに違いない。

 主イエス・キリストには私たちを救わなくてはならない義理があったのだろうか? おゝ、否、否! 主を地に下らせたのは、主の無償の愛と、慈悲と、あわれみであった。恵みに富んでおられた主は、頼まれも乞われもしないのに来てくださった。

 こうした事がらについて考えてみようではないか。世界の始まって以来の全歴史を探ってみるがいい。----あなたが知り愛しているすべての人々の間を見渡してみるがいい。あなたは決してこのような友情を、人の子らの間で聞くことはないに違いない。イエス・キリストのように真実な、窮する時の友がいたためしは決してなかった。

 II. あなたは実のある友がほしいと思うだろうか? まさに主イエス・キリストこそ、そのような友である。

 人の友情を真にはかる物差しは、その人の行動である。その人が何と云い、何と感じ、何を願ったかはどうでもいい。その人の言葉や口先はどうでもいい。問題は、その人が何をしたかである。「友情とは百万言よりも1つの行為」である。

 主イエス・キリストが人のために行なってくださったことは、主が人に対していかなる友愛の気持ちをいだいておられるかの大きな証拠である。主が私たちのためになしてくださったほどの慈悲と自己犠牲の行ないは、空前にして絶後のものであった。主は私たちを口先だけでなく、実際の行動によって愛してくださった。

 私たちのために主は、私たちの性質を身にまとい、女から生まれてくださった。神ご自身であられ、御父と等しいお方であった主が、一時の間そのご栄光をわきに置き、私たちと同じ血肉のからだをまとわれた。全能なる万物の創造者が、私たちのだれとも異ならないような小さな赤子となり、罪を除くすべての点で、私たちと同じ肉体的な弱さともろさを経験なさったのである。「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです」(IIコリ8:9)。

 私たちのために主は、この悪の世に33年間お住みになり、さげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人となり、病を知られた。王の王であった主が、枕する所もなかった。主の主であった主が、しばしば疲れと飢えと渇きと貧しさのうちにあった。主は、「仕える者の姿をとり、自分を卑しく」なさった*(ピリ2:7、8)。

 私たちのために主は、ありとあらゆる死に方の中で最も痛ましい死、すなわち、十字架上での死を遂げてくださった。何の罪も過ちもなかった主が、自ら罪に定められ、有罪とされることをよしとしてくださった。いのちの君であられた主が、ほふり場に引かれる小羊のようになり、ご自分のいのちを死に明け渡してくださった。主は、「私たちのために死んでくださった」(Iテサ5:10)。

 主にはこのようなことをしなくてはならない義理があったのだろうか? おゝ、否! 主は、ご自分の助けとして十二軍団以上もの御使いを召集し、その敵どもを一息で吹き散らすこともできたはずであった。主は自発的に、その自由な意志によって苦しみを受け、私たちの罪の贖いをしてくださった。主は、ご自分の肉体と血によるいけにえ以外の何をもってしても、罪ある人間と聖なる神との間に平和を作り出すことができないことをご存じであった。主は私たちの贖いの代価として、ご自分のいのちを捨ててくださった。私たちが生きるために死んでくださった。私たちが支配するために苦しんでくださった。私たちが栄光を受けるために恥辱を身に負ってくださった。「主は罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、私たちを神のみもとに導くためでした」*。「罪を知らなかったこの方は、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」*(Iペテ3:18; IIコリ5:21)。

 このような友情は、人間の理解を超えたものである。自分を愛してくれる友のために死ぬ人のことなら、時として聞いたことがあるかもしれない。しかし、自分を憎む者たちのためにいのちを捨てるような人がどこにいるだろうか? だが、これこそ、イエスが私たちのためにしてくださったことにほかならない。「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」(ロマ5:8)。

 世界の果てから果てまで行き巡り、人類のあらゆる民族に聞いて回っても、このような行為のことを聞くことは決してないであろう。これほど高い所から、これほど身を低められた方は、いまだかつて神の御子イエス以外にない。これほど大きな代償によって友情の証しを立てた者は決してなく、これほど多くを払い、これほど多くを耐え忍んで他者に善を施した者は決してない。イエス・キリストのように実のある友がいたためしはない!

 III. 私たちは強く力ある友がほしいと思うだろうか? まさに主イエス・キリストこそ、そのような友である。

 人助けできる力のある人はこの世にほとんどいない。多くの人々は、他者に善を施したいという意志はあるが力がない。彼らは他者の悲しみに同情し、できるものなら喜んでその悲しみを取り除いてやりたいと思う。また、苦しみに遭っている友とともに泣くことはできる。だが、彼らの嘆きを取り去ることはできない。しかし、人は弱くともキリストは強い。----地上の友は、どれほど善良であっても力弱いものだが、キリストは全能であられる。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています」(マタ28:18)。イエス・キリストほど、ご自分が助けようとする人々のために多くを行なえるお方はいない。他の人々も、多少は相手の肉体を助けることができる。だがキリストは、肉体と魂をどちらとも助けることがおできになる。他の人々も、多少は相手を今の世において助けることができる。だがキリストは、時の間においても永遠においても友となることがおできになる。

 (a) 主は罪人のかしらその人をすら赦すことができ、救うことがおできになる。どれほど罪意識にひしがれた良心をも、その重荷から解放し、神との完全な平和を与えることがおできになる。どれほど毒々しく邪悪な汚点をも洗い流し、神の御前で雪よりも白くすることがおできになる。貧しく弱いアダムの子らに永遠の義をまとわせ、決してくつがえされることのない天国に入る資格を与えることがおできになる。つまり主は、私たちが主を信頼しさえするなら、私たちのいかなる者にも平和と希望と赦しと神との和解を与えることがおできになるのである。「イエス・キリストの血はすべての罪からきよめます」(Iヨハ1:7 <英欽定訳>)。

 (b) 主は、どれほどかたくなな心も回心させることができ、人のうちに新しい霊を作り出すことがおできになる。主は、どれほど無思慮で不敬虔な人々にも、彼らのうちに聖霊をお入れになって、別の精神を与えることがおできになる。主は古いものを過ぎ去らせ、すべてを新しくすることがおできになる。彼らがかつて憎んでいたものを彼らに愛させ、かつて愛していたものを憎ませることがおできになる。主は彼らに、「神の子どもとされる特権をお与えに」なることができる。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です」(ヨハ1:12; IIコリ5:17)。

 (c) 主はご自分を信じて、ご自分の弟子となった者たちすべてを最後まで守ることがおできになる。主は彼らに、世と肉と悪魔に打ち勝って、最後まで勇敢に戦うことができる恵みを与えることがおできになる。いかなる誘惑があろうと彼らを安全に導き、幾千もの危険をもくぐり抜けて故郷に至らせることがおできになる。たとえ彼らが孤立し、他に助けてくれる者がなくとも、彼らを忠実な者として保つことがおできになる。主は「ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります」(ヘブ7:25)。

 (d) 主はご自分を愛する人々に、最上の賜物を与えることがおできになる。生にあっては、金銭で買えない内なる慰め----悲しみの中にあって喜びを、苦しみの中にあって忍耐を与えることがおできになる。死にあっては、彼らに輝かしい希望を与え、その暗い谷間をも恐れなく歩ませることがおできになる。死後彼らには、しぼむことのない栄光の冠と、英国女王から授けられるいかなるものもくらべものにならない報いを与えることがおできになる。

 これこそまさに力である。これこそ真の偉大さである。これこそ真の強さである。あわれなヒンドゥー教の偶像礼拝者のところに行って、自分の肉体を痛めつけることで平和をむなしく求めるその姿を、また50年自らを責め苛んだ後でもそれを見いだせずにいる姿を見てみるがいい。カトリックかぶれの暗愚な英国国教徒のところに行って、自分の司祭に金を与えて魂のため祈ってもらっている姿、しかし慰めもなく死んでいく姿を見てみるがいい。富裕な人々のところに行って、幸福を求めて巨万の富を費やしながら、それでも常に不満足で不幸なままでいる姿を見てみるがいい。その後で、イエスに目を向け、彼にいかなることができるか、また彼がご自分に信頼するすべての者たちのため日々いかなることをなしておられるか考えてみるがいい。彼がいかにご自分に信頼するすべての心砕けた者たちを癒し、すべての病んだ者を慰め、すべての貧しい者を朗らかにし、彼らの日ごとの必要を満たしているか考えてみるがいい。人への恐れは強く、この悪の世の反抗は強大で、肉の様々な情欲は荒れ狂い、死への恐れはすさまじく、悪魔はほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っている。しかしイエスは、これら全部を合わせたよりもずっと強いお方である。イエスは私たちを、これらの敵すべてに打ち勝つ勝利者とすることがおできになる。それでは、イエス・キリストほど強い友がいたためしはない、ということが、どうして真実でないと云えようか。

 IV. 私たちは愛に満ちた思いやり深い友がほしいと思うだろうか? まさに主イエス・キリストこそ、そのような友である。

 親切心は真の友情の本質そのものである。金銭も忠告も手助けも、それが愛情をこめて与えられなければ、ありがたみが半減してしまう。主イエスの人に対する愛は、いかなる種類の愛であろうか? それは、「人知をはるかに越えた愛」*、と呼ばれている(エペ3:19)。

 主が罪人を迎え入れるしかたに、愛は輝き出ている。主は救いを求めてご自分のもとに来る者であれば、いかにふさわしくない者であろうと、だれひとり拒みなさらない。それまでの人生がいかに汚れきった邪悪な者であっても、天の星々よりも多くの罪を犯してきた者であっても、主イエスは喜んで迎え入れ、赦しと平安を与えてくださる。主の同情に限界はない。主のあわれみに限度はない。主は、この世がどうしようもない者として放り出すような者たちを助けることを恥とはなさらない。主の家に入ることが許されないほど悪い者、汚れた者、罪に病み衰えた者はひとりもいない。主は、いかなる罪人の友にも喜んでなってくださる。主には、あらゆる者に対する親切心とあわれみと癒しの薬がある。主は遠い昔から、これをご自分の定めとして宣告しておられる。「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」(ヨハ6:37)。

 主を信じ、主の友となった後の罪人たちに対するお取扱いのうちに、愛は輝き出ている。主は、彼らのふるまいがいかにしばしば非常にいらだだしく、腹立たしいものであっても、非常に忍耐強く接してくださる。主は彼らがいかにしばしば主のもとに訪れようと、決してその不平に耳を傾けることに飽いたりなさらない。主は彼らの悲しみすべてに深く同情してくださる。主は痛みがいかなるものか知っておられる。「病を知って」おられる(イザ53:3)。彼らのすべての苦難において、主は苦しんでおられる。主は決して彼らが耐えられないような試練に遭うことをお許しにならない。主は彼らの日々の戦いに必要な日ごとの恵みを与えてくださる。彼らの貧しい奉仕は主に受け入れられる。がんぜないわが子が、初めて話をしたり、歩き出したりしようと努力するのを見守る親と同じくらい、主はそうした奉仕を喜ばれる。主はご自分の書にこうお書かせになられた。「主は、ご自分の民を愛される」*。また、「主を恐れる者を主は好まれる」*、と(詩147:11; 149:4)。

 これと並び称せるような愛は地上に1つもない! 私たちが愛するのは、愛されるに値する何かがある人々か、自分の骨肉たる人々でしかないが、主イエスは、身の裡に何1つ良い点のない罪人たちを愛してくださる。私たちが愛するのは、愛すれば何か見返りを期待できる人々であるが、主イエスは、ご自分のなしたことにくらべれば、ほとんど、あるいは何の報いも返せないような者たちを愛してくださる。私たちが愛するのは、それなりに愛する理由がある場合であるが、罪人たちのこの偉大な友は、ご自分の永遠の同情からその理由を引き出しておられる。主の愛は純粋に私心のない、純粋に利他的な、純粋に無償のものであった。決して、決してイエス・キリストほど愛にあふれた友がいたためしはない。

 V. 私たちは賢く思慮深い友がほしいと思うだろうか? まさに主イエス・キリストこそ、そのような友である。

 人間の友情は悲しいほどに盲目である。人はしばしば、愛する人々を無分別な親切で駄目にしてしまう。しばしば誤った忠告を与える。助けるつもりの悪い助言で、しばしば友人を困難に陥らせてしまう。時には友人を、いのちの道から遠く離れさせ、この世の無益な事物によって、まさにそれらから逃れようとしている者たちを雁字がらめにしてしまう。主イエスの友情はそうではない。それは常に私たちに善を施し、決して悪を働くことがない。

 主イエスは、ご自分の友たちを好き放題にさせずに、決して甘やかさない。主は彼らにとって本当にためになるものは何でもお与えになる。本当に良いものなら何1つ彼らから引き留めておくことはない。しかし主は彼らに、日々自分の十字架を負ってご自分についてくることをお求めになる。りっぱな兵士として苦しみを担うことをお命じになる。世と、肉と、悪魔に対して勇敢に戦うことを要求なさる。主の民はしばしば、その時にはこれを嫌い、辛く感ずる。しかし天国に達したとき彼らは、それらがみな益となったことを知るであろう。

 主イエスは、ご自分の友たちの事情を扱うのに決して間違いを犯さない。主は、彼らのあらゆる関心事を完璧な知恵によって整えてくださる。すべてのことが正しい時に、正しいしかたで起こる。主は、彼らの魂にとって必要と思われるだけの健康と病、富と貧困、喜びと悲しみをお与えになる。彼らをまっすぐな道に導き、住むべき町へ行かせなさる。名医のように彼らのこの上もなく苦い杯を調合し、それを一滴たりとも多くも少なくもないようにしてくださる。主の民はしばしば、主のお取扱いを誤解する。愚かにも彼らは、自分たちの人生行路はもう少し改善できるのではないかと空想する。しかし復活の日に彼らは、自分たちの思い通りにさせず、キリストのみこころがなされたことで神に感謝するであろう。

 世の中を見渡し、人々が自分の友人たちからどれほど絶え間なく害を加えられつつあるか見てみるがいい。いかに人々が、愛と善行を励まし合うのにはるかにまさる熱意をもって、俗気と軽薄さを高め合うものか注目してみるがいい。彼らが寄り集まるとき、それがいかにしばしば良い目的のためではなく、悪い目的のためであることか----互いの魂を天国への道行きに奮い立たせるためではなく、この今の世への愛を互いに固め合うためであることか、考えてみるがいい。悲しいかな、おびただしい数の人々は、その友人の家で、自分の思いもよらぬしかたで傷つけられけているのである!

 ではその後で、罪人たちのこの偉大な友に目を向け、このお方の友情が人間の友情といかに異なっているか見てみるがいい。この方がご自分の弟子たちとともに歩きながら語ったことばに耳を傾けてみるがいい。この方がいかに完璧な知恵をもって慰め、叱責し、勧めをしておられるか注意してみるがいい。この方が、たとえばベタニヤのマリヤとマルタたちへの訪問の場合のように、いかに愛する者たちへの訪問の時期を選んでおられるかに着目してみるがいい。ガリラヤ湖の岸辺で食事をしながら、いかなる会話を交わしておられるか聞いてみるがいい。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか?」(ヨハ21:16)。この方とともにいることは常に満足を与える。この方の贈り物は常に魂のためになる。この方の親切は常に賢明である。この方の交わりは常に徳を建て上げる。人の子とともにいる一日は、地上の友人たちと寄り集まる千日にまさっている。この方と密室で交わりを持つ一時間は、王宮で過ごす一年にまさっている。決して、決してイエス・キリストほど賢明な友がいたためしはない。

 VI. 私たちは試されて証明された友がほしいと思うだろうか? まさに主イエス・キリストこそ、そのような友である。

 主イエスが人類の味方となるみわざを始めてからすでに六千年が経った。この長い期間の間、主はこの世に多くの友を持たれた。何億、何十億という人々が、不幸なことに主の申し出をはねつけ、みじめに永遠の滅びに至ってきた。しかし何百万、何千万もの人々が主の友情という並外れた特権を享受し、救われてきた。主には豊富な経験があるのである。

 (a) 主は、人生のありとあらゆる身分や立場の友人たちを持ってこられた。その中にはダビデやソロモン、ヒゼキヤやヨブのように王たちや富豪たちがいた。ベツレヘムの羊飼いたちや、ヤコブ、ヨハネ、アンデレのように極貧の者たちもいた。しかし彼らはみな同じようにキリストの友であった。

 (b) 主は、人間の通過するあらゆる年齢の友人たちを持ってこられた。その中には、マナセやザアカイ、そしておそらくはあのエチオピアの宦官のように、年老いるまで主を知らなかった者たちがいた。ヨセフやサムエル、ヨシヤやテモテのように、非常な若年のころから主の友であった者たちもいた。しかし彼らはみな同じようにキリストの友であった。

 (c) 主は、ありとあらゆる気質や性向の友人たちを持ってこられた。その中には、イサクのように単純素朴な者たちがいた。モーセのように言葉にもわざにも力ある者たちがいたペテロのように熱烈で暖かい心の者たちがいた。ヨハネのように穏やかで内気な者たちがいた。マルタのように活発に動き回る者たちがいた。マルヤのように御足のもとに静かに座るのを好む者たちがいた。シュネムの女のように自分の民の中では無名の者たちがいた。パウロのように至る所に出ていって世界をひっくり返した者たちがいた。しかし彼らはみな同じようにキリストの友であった。

 (d) 主は人生のあらゆる状態にある友人たちを持ってこられた。その中には、エノクのように結婚して息子、娘たちを生んだ者たちがいた。ダニエルやバプテスマのヨハネのように、独身のまま暮らし、死んでいった者たちがいた。ラザロやエパフロデトのようにしばしば病む者たちがいた。ペルシスやツルパナやツルポサのように非常に労苦した者たちがいた。アブラハムやコルネリオのように主人たちがいた。ネロの家に属する人々のようにしもべたちがいた。エリシャのように悪いしもべを持つ者たちがいた。オバデヤのように悪い主人を持つ者たちがいた。ダビデのように悪い妻子を持つ者たちがいた。しかし彼らはみな同じように主の友であった。

 (e) 主は、ほとんどあらゆる国民、民族、国語の友人たちを持ってこられた。主には、暑い国々にも寒い国々にも友人たちがいた。どれほど文明化された国々にも、どれほど素朴で未開な国々にも友人たちがいた。主のいのちの書に記されている名前は、ギリシャ人のものもあればローマ人のものもあり、ユダヤ人のものもあればエジプト人のものもあり、奴隷のものもあれば自由人のものもあった。その一覧の中には、打ち解けない英国人もいれば用心深いスコットランド人もおり、衝動的なアイルランド人もいれば気の荒いウェールズ人もおり、移り気なフランス人もいれば勿体ぶったスペイン人もおり、あか抜けたイタリヤ人もいれば堅実なドイツ人もおり、粗野なアフリカ人もいれば洗練されたヒンドゥー人もおり、教養ある中国人もいれば半分蛮族のニュージーランド人もいる。しかし彼らはみな同じように主の友であった。

 こうした人々はみなキリストの友情を試してみて、それが良いものであると証明してきた。彼らはみな、その友情の始めから何も欠けたものがないことを発見した。彼らはみな、その友情が引き続いていく間、何も欠けたものがないことを発見した。いかなる不足も、いかなる欠陥も、いかなる欠乏も、イエス・キリストには、だれひとり見いだしたことがなかった。ひとりひとりが、自分の魂の求めを完全に満たされた。ひとりひとりが、キリストには満たして余りあるものがあることを毎日見いだした。決して、決してイエス・キリストほど完全に試され証明された友がいたためしはない。

 VII. 最後に、しかしこれも重要なこととして、私たちは絶対に裏切らない友がほしいと思うだろうか? まさに主イエス・キリストこそ、そのような友である。

 地上のあらゆる良きものについて何よりも悲しい点は、その移ろいやすさである。富には羽根が生えて飛んでいってしまう。若さと美しさは、ほんの数年しか保たない。肉体の強さはすぐに衰える。精神と知性はすぐに枯渇する。すべては滅びいく。すべてはしぼんでいく。すべては過ぎ去りいく。しかし、この一般原則が通用しない素晴らしい例外が1つある。イエス・キリストの友情である。

 主イエスは、決して変わることのない友である。主には何の移り気もない。主は愛する者たちを最後まで愛してくださる。妻を捨てる夫たちはざらにいる。子どもたちを放り出す親たちはざらにいる。人間がいかに忠誠を誓おうと、約束しようと、それはしばしば忘れられる。おびただしい数の人々が、富んで若かった頃にはちやほやされながら、貧しくなり老いたときには、だれからも鼻もひっかけられなくなる。しかしキリストは、決してご自分の友のひとりに対する感情を変えることをなさらない。主は「きのうもきょうも、いつまでも、同じです」(ヘブ13:8)。

 主イエスは、決してご自分の友たちから離れ去ることがない。主とその民の間には決して別れや暇乞いはない。罪人の心にお住まいになるその時から、主はいつまでもそこに住んでくださる。この世は告別や離別で満ちている。死や、時の流れは、いかに固く結ばれた家族をも分断していく。息子たちは自分の人生を求めて出ていく。娘たちは結婚して父の家を出ると再び戻ることはない。ばらばらになり、ばらばらになり、ばらばらになることこそ、いかに幸福な家庭においても、年々繰り返される物語である。いかに多くの者たちを私たちは、涙にかすむ目で見送り、馬車を駆って去っていくその愛しい顔を二度と見なかったことか! いかに多くの者たちを私たちは、悲しみにくれながら墓まで伴い歩き、冷たく、しんとした、孤独で、うつろな炉端へと戻っていったことか! しかし、神に感謝すべきかな、ご自分の友たちから決して離れていかないお方がおられるのである! 主イエスこそ、「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」、と云われたお方なのである(ヘブ13:5)。

 主イエスは、ご自分の友たちの行く所どこにでも伴ってくださる。主と、主の愛する者たちとの間にはいかなる別離もありえない。地上の、あるいは地下のいかなる場所や立場も、彼らをその魂の偉大な友なるお方から引き離すことはできない。義務の命ずるところに従い、彼らが故国から遠く離れなくてはならないときも、主は彼らの同伴者である。彼らが苛烈な患難の中で火水をくぐるときも、主は彼らとともにおられる。彼らが病の床に伏しているときも、主はその枕頭に立ち、彼らのあらゆる難儀を働かせて益としてくださる。彼らが死の影の谷に下っていき、友人や親戚たちが立ち尽くし、それ以上伴って行けないときにも、主は彼らとともに下っていってくださる。彼らが未知のパラダイスの世界で目を覚ますときも、彼らはまだ主とともにいる。彼らが最後の審判の日に新しいからだとともによみがえるときも、彼らはひとりきりではないであろう。主は彼らをご自分の友と認めてくださり、こう云われるであろう。「これらはわたしの友です。解放し、自由にしてやりなさい」。主はご自分のことばを守られるであろう。「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」(マタ28:20)。

 この世を見渡し、すべての人のはかりごとの上にいかに失敗の二字が記されているか見てみるがいい。あなたの知っている限りの離別や、分離や、失望や、死別を数え上げてみるがいい。そして、少なくともひとりは、決して人を失望させず、だれひとり失望を味わせられたことのないお方がおられることが、いかなる特権であるか考えてみるがいい。決して、決してイエス・キリストほど人を裏切らない友がいたためしはない。

 さて今、この論考のしめくくりに、平易な言葉でいくつかの適用をさせていただきたい。私はあなたがいかなる人か、またあなたの魂がいかなる状態にあるか知らない。しかし私の確信するところ、これから私が云おうとしている言葉はあなたが真剣に注意を払うに値するものである。おゝ、願わくはこの論考を読むあなたが、霊的な事がらに無頓着な人ではないように! おゝ、願わくはあなたが、キリストのことを少しは考えてみることができるように!

 (1) では1つのこととして、私がしかとあなたに求めたいのは、果たしてキリストがあなたの友であるか、あなたがキリストのものであるかを厳粛に考えてみることである。

 嘆かわしいことに、何万何千万もの人々はキリストの友ではない。主の御名によってバプテスマを受け、外的にはキリストの教会の一員であり、キリストの定めた恵みの手段にあずかっている、----確かに彼らはこうした者には違いない。しかし彼らはキリストのではない。彼らは、イエスが取り除こうとして死なれたもろもろの罪を憎んでいるだろうか? 否。----彼らは自分たちを救うために世に来られた救い主を愛しているだろうか? 否。----彼らはキリストの御目に尊く見える魂を気遣っているだろうか? 否。----彼らは和解の言葉を喜んでいるだろうか? 否。----彼らは祈りによって罪人たちの友と語りあおうとしているだろうか? 否。----彼らはキリストとの親密な交わりを求めているだろうか? 否。----おゝ、読者よ、これはあなたと同じだろうか? あなたはこういう状態にあるだろうか? 果たしてあなたはキリストの友だろうか? 友ではないだろうか?

 (2) 次のこととして、しかと知ってほしいのは、もしあなたがキリストの友のひとりでないとしたら、あなたは貧しく惨めな存在だ、ということである。

 私は、熟慮の上でこう書き記している。何の考えもなしにこう云っているのではない。私は云う。もしキリストがあなたの友でないとしたら、あなたは貧しく惨めな存在である、と。

 あなたは、失望と悲しみの世のただ中にあり、真の慰めの源泉を何も保たず、窮するときの隠れ家を何も持っていない。あなたは死につつある被造物であり、死ぬ用意ができていない。あなたには幾多の罪があり、それらは赦されていない。あなたはやがて審かれようとしているのに、あなたの神に会う備えができていない。自分では備えができているつもりかもしれないが、あなたは唯一の仲保者であり弁護者であるお方を用いるのを拒んでいる。あなたはキリストよりも世を愛している。あなたは罪人たちの偉大な友を拒み、あなたのために弁護してくれる友をひとりも天国に持っていない。しかり。これは悲しい真実である! あなたは貧しく惨めな存在である。あなたの収入がどれほど多くとも問題ではない。キリストの友情なくして、あなたは非常に貧しい。

 (3) 第三のこととして、しかと知ってほしいのは、もしあなたが本当に友をほしいと思うなら、キリストは喜んであなたの友となってくださる、ということである。

 キリストは長い間あなたがご自分の民に加わることを望んでおられた。そして今キリストは、私の手によってあなたを招いておられる。あなたがどれほど自分のことを全く無価値であると感じようと、キリストは喜んであなたを受け入れようとしておられる。あなたの名前をご自分の友たちの一覧に書き加えようとしておられる。キリストは喜んで過去のすべてを赦し、あなたに義の衣を着させ、ご自分の御霊を与え、あなたをご自分の愛児にしようとしておられる。キリストがあなたに求めておられるのは、ご自分のもとに来ることだけである。

 キリストは、あなたが自分のあらゆる罪を持ったまま来るように命じておられる。ただ自分の邪悪さを認めて、自分が恥じていることを告白しつつ来ることだけを命じておられる。ありのままのあなたで、----ぐずぐずせず、----自分の中に何も価値あるものを持たぬまま、----みもとに来て、ご自分の友となることをイエスは命じておられる。

 おゝ、来て知恵を得るがいい! 来て安全を得るがいい。来て幸いになるがいい。来てキリストの友となるがいい。

 (4) 最後のこととして、しかと知ってほしいのは、もしキリストがあなたの友であるなら、あなたには種々の偉大な特権があり、その特権にふさわしい歩みをしなくてはならない、ということである。

 日々、あなたの友であるお方とより親密に交わり、そのお方の恵みと力をよりよく知るよう努めるがいい。真のキリスト教は、無味乾燥な抽象的命題の一式を信ずるだけのことではない。それは、現実に生きているひとりのお方----神の御子イエス----と日ごとに親しく個人的な関係を持つことである。パウロは云う。「私にとっては、生きることはキリストです」*、と(ピリ1:21)。

 日々、あなたのすることなすことで、あなたの主であり救い主であるお方のご栄光を現わすよう努めるがいい。「友人を持つ者は、友人らしくふるまうべきである」*(箴18:24 <英欽定訳>)。だが、だれよりも大きなそうした義務のもとにあるのは、キリストを友として持つ者である。あなたの主を悲しませるようないかなるものも避けるがいい。からみつく罪と、裏表のある生き方と、人前で主を告白するのを避けたがる気後れとに対して、激しく戦うがいい。間違ったことに誘惑されるときには常に、自分の魂に向かって云うがいい。「たましいよ。これが、あなたの友への忠誠のあらわれなのか?」、と。

 何にもまして、あなたに示されたあわれみのことを考えて、あなたの友なるお方を日々喜ぶようにするがいい! あなたの肉体が病のためにくじけたからといってそれが何か? あなたの貧困と試練が非常に大きいからといってそれが何か? あなたの地上の友人たちがあなたを見捨て、あなたが世の中でひとりぼっちだとしても、それが何か? これらはみな事実かもしれない。だが、もしあなたがキリストにあるなら、あなたにはひとりの友があるのである。力強い友、愛に満ちた友、賢明な友、決して裏切らない友があるのである。おゝ、あなたの友について考えに考えるがいい!

 もうしばらくすれば、あなたの友はあなたを故郷に連れ帰りに来てくださり、あなたは永遠にその方とともに住むことになる。もうしばらくすれば、あなたは、自分が完全に見られているのと同じように、完全に見るようになり、自分が完全に知られているのと同じように、完全に知ることになる。そしてそのときあなたは、集められた全世界がこう告白するのを聞くであろう。豊かなるかな、幸いなるかな、キリストを自分の友としてきた者は、と。

最良の友[了]

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