Riches and Poverty         目次 | BACK | NEXT

13. 富と貧困


「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
「ところが、その門前にラザロという全身おできの貧乏人が寝ていて、
「金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。
「さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。
「その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた」----ルカ16:19-23

 聖書を読んでいる人のうち、この金持ちとラザロのたとえ話になじみがないという人は、おそらくほとんどいないであろう。これは、ぬぐい去りがたい印象を心に残す聖書箇所の1つである。放蕩息子のたとえと同じく、これは一度読んだら決して忘れられない話である。

 その理由は明白である。このたとえ話の全体が、この上もない迫真の筆致で描かれているからである。この物語は、読み進めるにつれ、抵抗しがたい力で私たちの五感をたぐりよせていく。語られている出来事のすべてが、私たちの眼前にまざまざと浮かび上がる。私たちは目で見、耳で聞き、手でさわれるのではないかとすら感ずる。この金持ちの饗宴----紫布----細布----門前----そこに寝ている貧乏人----できもの----犬----残飯----2つの死----金持ちの葬式----御使いたちのお供----アブラハムのふところ----金持ちの恐るべき覚醒----炎----淵----絶望しかない自責----すべてが、すべてが私たちの眼前に、太々と浮き彫りになって現出し、私たちの精神にその刻印を打ちつけるのである。これは言語の極致である。これは、アラビアにおいて話術の最高の境地とされる有名な水準に達している。----「話の名人は、聞き手の耳を目にすることができる」。

 しかし、結局のところ、このたとえ話の見事な筋立てを賞賛するのと、ここにふくまれている霊的教訓を受け入れるのとは、全く別物である。えてして人は、知性の目では種々の美しさを受け入れていながら、その心は眠りこんだままで、何も見えていないものである。何万もの人々が、『天路歴程』を夢中になって読みふけるが、彼らにとって天の都への苦闘は愚かしさでしかない。何千万何百万もの人々が、私たちが前にしているこのたとえ話の一言一句に慣れ親しんでいながら、決してそれが自分自身にあてはまるかどうかは考えもしない。彼らの良心は、彼らの耳に響くべき叫び----「あなたがその男です」----に対して全く閉ざされている。彼らの心は決して神に向き合って、この厳粛な問いかけを投げかけようとはしない。----「主よ。これは私を描いたものなのですか?----主よ。まさか私のことではないでしょう?」、と。

 この日私は読者の方々に、このたとえ話が私たちに教えようとしている主要な真理のいくつかを考察してほしいと思う。あえて私は、この論考の冒頭に冠した部分以外には注意を向けないことにする。願わくはご聖霊が私たちに教えられやすい霊を与えてくださり、私たちの魂にいつまでも残る印象を生じさせてくださるように!

 I. まず第一に注目したいのは、神は人々をいかに異なる境遇に割り当てなさるか、ということである。

 主イエスはこのたとえ話の冒頭で、ひとりの金持ちとひとりの貧乏人について語り出しておられる。だが、貧困についても富についても、それを賞賛するようなことばは一言も語っておられない。主は、ひとりの富裕な人間のようすと、ひとりの貧乏な人間のようすを物語っておられる。しかし主は、一方の現世的な立場を非難することも、他方のそれを持ち上げることもしてはおられない。

 このふたりの人物の対比は痛ましいばかりに驚くべきものである。ここに描かれている姿をとくと眺めてみるがいい。

 ここにいるひとりの人物は、この世で尊重される物をありあまるほど所有している。彼は、「いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」。

 ここにいるもうひとりの人物は、文字通り無一物だった。友もなく、病み衰えた、餓死寸前の乞食だった。「その門前に彼は全身おできのまま寝ていて」、残飯を乞うていた。

 どちらもアダムの子である。どちらも同じちりから生じ、同じ家系に連なっていた。どちらも同じ国に住み、同じ政府の臣民である。だがしかし、彼らの状態の何と異なっていたことか!

 しかし私たちは、このたとえ話が決して教えていないような教訓を引き出さないよう用心しなくてはならない。金持ちだからといって必ずしも悪人であったり、例外なく地獄に行くわけではない。貧乏人だからといって必ずしも善人であったり、例外なく天国に行くわけではない。金持ちであることは罪である、などという極端に走ってはならない。決して私たちは、ここに描き出されたような立場の違いは悪であるとか、すべての人間が平等になることこそ神のみこころである、などと早とちりしてはならない。私たちの主イエス・キリストのことばには、そのような結論を裏書きするいかなるものもふくまれていない。主が述べておられるのは単に、この世でしばしば見られ、今後もあり続けるに違いない物事のありようにすぎない。

 確かに普遍的な平等とは、非常に高尚に響く言葉であり、夢想家たちが好んでいだく考え方である。あらゆる時代に、多くの人々が、貧民たちを扇動しては富裕者たちに立ち向かわせ、万人は平等でなくてはならないという大衆受けする意見を説いて回っては、社会騒動を巻き起こしてきた。しかし世界が現在のような秩序のもとにある限り、普遍的な平等が達成されることはありえない。疑いもなく、人々の境遇の広大な不平等さを糾弾する人々は、決して耳を貸す者らに事欠かないであろう。だが、人間の性質が現在のようなような有り様を続ける限り、こうした不平等さが起こらないようにすることはできない。

 ある者が賢く、ある者が愚かである限り、----ある者が強く、ある者が弱い限り、----ある者が健康で、ある者が病弱である限り、----ある者が怠けがちで、ある者が勤勉である限り、----ある者に先見の明があり、ある者は後先考えない質である限り、----子どもたちが親の不始末の実を刈り取るものである限り、----太陽と、雨と、暑さと、寒さと、風と、波と、干ばつと、葉枯れ病と、暴風と、嵐とが人間の意のままにならない限り、----その限りにおいて、ある者は常に金持ちであり、ある者は常に貧乏人であろう。この世のいかなる政治的な仕組みによっても、決して貧困者がことごとく「国のうちから絶えることはないであろう」(申15:11)。

 かりに今日、英国中の私有財産を強制的に没収し、それを全住民に平等に分配してみるがいい。二十歳以上の人間に均等な分量を分け与えてみるがい。ひとりの例外もなく、万人に等しい割り前が行き渡るようにし、社会全体を新規巻き直しさせてみるがいい。そして五十年後にどうなってみるか見てみるがいい。あなたは、五十年前と全く変わらない世界に立ち至るであろう。物事が以前と全く同じように不平等なままであるのを見いだすであろう。ある者はせっせと働いてきたが、ある者は怠けてきたであろう。ある者はのんべんだらりと暮らしてきたが、ある者は着実に地歩を固めてきたであろう。ある者は物を売る側に回り、ある者は物を買う側に回ってきたであろう。ある者は浪費ばかりしてきたが、ある者は節約に励んできたであろう。つまるところ、ある者は金持ちとなり、別の者は貧乏になっているであろう。

 万人は平等となるべきなのだ、などと云い立てる、むなしく愚かな人々に、だれも耳を貸してはならない。そうした人々は、万人が同じ身長、同じ体重、同じ体力、同じ知力を有するべきだと云っているも同然なのである。----あるいは、樫の木という樫の木は同じ形と大きさをしているべきだと、----あるいは、いかなる草の芽も同じ長さをしているべきだと云っているも同然なのである。

 心に銘記するがいい。あなたが周囲に見ているあらゆる苦しみの主たる原因は罪である、と。罪を最大の原因として、金持ちたちは法外な奢侈をほしいままにし、貧者たちは悲痛な零落状態に至り、----上流階級は無情な利己主義にふけり、下層階級はどうしようなもない貧困に陥っているのである。まず罪をこの世から放逐しなくてはならない。万人の心が新たにされ、聖なるものとされなくてはならない。悪魔が縛られなくてはならない。平和の君が世に下り、その大権と支配を握らなくてはならない。これらすべてがまず生じて初めて、普遍的な幸福が可能となるのであり、現在富者と貧者の間に口を開けている淵を埋めることが可能となるのである。

 いかなる政治的手段によっても、いかなる教育方式によっても、いかなる政党によっても、千年王国が実現できるなどと期待しないように用心するがいい。むろん全力を傾けて万人に善を施すよう努めるがいい。あなたよりも貧しい兄弟たちをあわれみ、彼らをその低い境遇から引き上げようとする、あらゆる妥当な努力に力を貸すがいい。怠ることなく、貧しい人々の知識を増し、道徳を押し進め、物質的な状態を向上させようと努力するがいい。しかし決して、決して忘れてはならない。あなたが住んでいるのは堕落した世界であり、罪はあなたの回り中にあり、悪魔がそこら中をうろついているのだ、ということを。そして堅く確信するがいい。この金持ちとラザロは、主が再臨されるそのときまで、世界に常に存続し続けるであろう2つの階級の象徴である、ということを。

 II. 次のこととして注目したいのは、ある人の現世的な状態は、その人の魂の状態をはかる何の基準にもならない、ということである。

 このたとえ話の金持ちは、まさに絵に描いたようなこの世の長者の姿をしている。もし現世がすべてであったとしたら、この人は心が望みうるすべてのものを手にしていたように見える。この箇所からわかる限り、この人は「いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」という。それ以外にも、この人が金銭で得られるものなら何でも得ていたことを疑うべき理由は何もない。地上最大の知者であった人物は理由もなく次のように述べたのではない。「金銭はすべての必要に応じる」。「富む者を愛する人は多い」(伝10:19; 箴14:20)。

 しかし、この物語を読み通す人のうちだれが、最高にして最良の意味において、この金持ちが情けないほど貧しい男であったことを見てとれないであろうか? 現世的な財産を取り去ってみれば、この人には何も残らない。----死後、何も残らない。----墓の向こう側には何も残らない。----来たるべき世には何も残っていない。うなるほど富を貯め込んでいても、この人には「天にたくわえられてある宝」が何もなかった。その紫の衣や細布すべてにもかかわらず、この人には全く義の衣がなかった。そのあらゆる愉快な仲間たちにもかかわらず、この人には神の右の座に着いておられる友なるお方、弁護者なるお方がひとりもいなかった。その贅を尽くしたあらゆるごちそうにもかかわらず、この人は決していのちのパンを味わったことがなかった。その豪奢な大邸宅にもかかわらず、この人には永遠の世界に何の家もなかった。神なく、キリストなく、信仰なく、恵みなく、赦しなく、聖さもなしに、この人はほんの数年を自分のために生き、その後で何の希望もなく底知れぬ穴に下っていくのである。いかにこの人の富裕さがうつろで、実体のないものであったことか! 私の云っていることを判断するがいい。----この金持ちは非常に貧しい男であった

 ラザロは、文字通りこの世で何1つ所有していないように見える。これ以上に大きな悲惨さと赤貧洗うがごとき状態は思いつくことができない。彼には家もなく、金銭もなく、食物もなく、健康もなく、十中八九は衣服もなかった。ここに描かれた彼の姿は、決して忘れることができないものの1つである。彼は、この金持ちの「門前に」、「全身おできの」まま「寝ていて」、「金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた」。それどころか、犬どもがやって来ては「彼のおできをなめていた」。いみじくも、かの賢人は云う。「貧しい者はその隣人にさえ憎まれる」。「貧民の滅びは彼らの貧困」(箴14:20; 10:15)。

 しかしこのたとえ話を最後まで読む者のうちだれが、最高の意味においてラザロは貧しくなく、富んでいたことを見てとれないであろうか? 彼は神の子どもであった。栄光の世継ぎであった。彼は永続的な富と義を所有していた。彼の名前はいのちの書に記されていた。天国には彼の場所が用意されていた。彼には最高の衣服があった----救い主の義があった。彼には最良の友がいた----神ご自身が彼の分け前であった。彼には最高の食物があった----彼にはこの世の知らない食物があった。そして、何よりも良いことに、彼はこうしたものを永遠に所有していた。それらは彼を生きている間支えていた。それらは死の時が来ても彼を捨て去らなかった。それらは墓の向こう側まで彼とともに行った。それらは永遠に彼のものであった。確かにこうした見方からすると、私たちはこう云ってよいであろう。「貧しいラザロ」ではなく、「豊かなラザロ」、と。

 私たちはあるゆる人を神の基準ではかるべきである。----人をその収入の多寡ではかるのではなく、その魂の状態によってはかるべきである。主なる神は、天から人の子らを見おろすとき、この世で高く評価されている多くのものを一顧だになさらない。人々の金銭や地所や称号などをごらんにはならない。神がごらんになるのはただ1つ、彼らの魂の状態であり、それに応じて彼らを判断なさる。おゝ、願わくはあなたが同じようにするように! おゝ、あなたが称号や、知性や、黄金にまさって、恵みを高く評価するように! しばしば、あまりにもしばしば、ある人について知ろうとする人は、「彼にはどのくらい資産があるのかね?」、としか尋ねない。だが、いかなる人も信仰に富む者となり、神の前で富んだ者となるまでは、あわれなほど貧しい者であることを、私たちがみな忘れずにいられたら、どんなによいことであろう(ヤコ2:5)。

 この世のあらゆる金銭は、人によっては素晴らしく見えるかもしれないが、神のはかりで恵みとくらべられれば無価値である。厳しく聞こえるかもしれないが、私の信ずるところ、神の御目にとっては回心した乞食の方が、未回心の国王よりも、はるかに重要で、はるかに栄誉があるのである。一方の者は、しばらくの間、日差しのもとで飛び回る蝶のように人目を引き、無知な世間の賞賛を集める。しかし、その末路は永遠の暗闇と悲惨である。もう一方の者はつぶれた虫けらのように地べたを這いずり回り、目を留めるすべての者から蔑まれているかもしれない。しかし、その人は最後には栄光ある復活と、キリストとともなる祝福された永遠に達するのである。この人について主は云われる。「わたしは、あなたの貧しさを知っている。----しかしあなたは実際は富んでいる」*(黙2:9)。

 アハブ王はイスラエルの十部族を治めていた。オバデヤは一介の王宮のしもべにすぎなかった。だが、そのしもべと王とのどちらが神の御目にとって尊いものであったか、だれに疑いえようか?

 リドリとラティマーは、あらゆる地位を剥奪され、犯罪人のように投獄され、ついには火刑に処せられた。彼らを処刑したボナーやガードナーは、教会組織の階梯上は最高の位をきわめ、莫大な収入を享受し、自分の床の上で大往生を遂げた。だが、この二組の人々のうちどちらが主の側に立っていたか、だれに疑いえようか?

 高名な聖職者バクスターは、悪意に満ちた残酷な迫害を受け、不公正きわまりない裁判によって長年にわたり投獄の憂き目を見た。彼に宣告を下したジェフリーズ首席裁判官は、道徳にも信仰心にも欠けた、破廉恥な人物であった。バクスターは監獄に送られ、ジェフリーズは栄誉も爵位もほしいままにした。だが、この首席裁判官と、『聖徒の安息』の著者のどちらが良い人間であったか、だれに疑いえようか?

 私たちは堅く確信してよい。富とこの世的な偉大さとは、決して神の恩顧の目印ではない、と。逆にそれらは、人の魂にとってしばしば罠となり、妨げとなる。それらによって人はこの世を愛し、神を忘れるようになる。ソロモンは何と云っているだろうか? 「富を得ようと苦労してはならない」(箴23:4)。聖パウロは何と云っているだろうか? 「金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります」(Iテモ6:9)。

 それと同じくらい確かに、貧困と試練とは、決して神の怒りの確実な証しではない。それらはしばしば、身をやつした祝福なのである。それらは常に愛と知恵によって送られてくる。それらによって人はしばしばこの世に嫌気がさすようになる。それらに教えられて人は、天にあるものを思うようになる。それらによってしばしば罪人は、自分自身の心を見せつけられる。それらによってしばしば聖徒たちは、善行に富むものとさせられる。ヨブ記は何と云っているだろうか? 「ああ、幸いなことよ。神に責められるその人は。だから全能者の懲らしめをないがしろにしてはならない」(ヨブ5:17)。聖パウロは何と云っているだろうか? 「主はその愛する者を懲らしめ……る」(ヘブ12:6)。

 この世で幸福になる1つの大きな秘訣は、忍耐強く、満ち足りた心を得ることである。この世は報いを受ける場所ではないという真理を、日々悟るように努めるがいい。応報と報酬の時はまだ来ていない。それまでは、何についても、先走ったさばきをしてはならない。かの賢人の言葉を思い出すがいい。「ある州で、貧しい者がしいたげられ、権利と正義がかすめられるのを見ても、そのことに驚いてはならない。その上役には、それを見張るもうひとりの上役がおり、彼らよりももっと高い者たちもいる」(伝5:8)。しかり! 審きの日はまだ来ていない。その日にこそ、すべての者がそのしかるべき立場につけられることになる。少なくとも、「神に仕える者と仕えない者との」大きな違いが明らかにされる(マラ3:18)。ラザロの子孫たちと、金持ちの子孫たちとは、ついにその真の姿を明らかにされ、その行ないに応じて報いを受けることになるのである。

 III. 次のこととして注目したいのは、いかなる階級の者も死を迎えなくてはならないことに変わりはない、ということである。

 たとえ話の金持ちは死に、ラザロも死んだ。彼らには、生前は大きな違いと隔たりがあったが、最後にはふたりとも同じ杯を飲まなくてはならなかった。ふたりとも、すべての生き物の集まる家に向かった。ふたりとも、富む者と貧しい者とが互いに出会う場所へ向かった。彼らはちりであったので、ちりに帰っていった(創3:19)。

 これこそ、あらゆる人の定めである。これこそ、主が栄光に包まれて戻ってこられない限り、私たち自身の定めであろう。私たちのあらゆる理論や、考案や、計画や、研究にもかかわらず、----私たちのあらゆる発明や、発見や、科学的業績にもかかわらず、----1つの敵だけは征服することも、武装解除することもできずに残っている。それは死である。メトシェラその他の洪水前に生きていた人々の長寿ぶりが記されている創世記の章は、各人の単純な物語を、この意味深長な言葉でしめくくっている。「彼は死んだ」。そして4800年後の今、私たち自身の中の偉人たちについても、それ以上何が云えるだろうか? マールバラや、ワシントンや、ナポレオンや、ウェリントンの生涯は、それと全く同じ、心へりくだらせる結論に達している。各人の迎えた最期は、そのあらゆる偉大さにもかかわらず、これ以外になかった。----「彼は死んだ」。

 死は、無敵の土地ならしである。彼はだれをも容赦せず、だれの弁解も聞かず、いかなる体面も重んじない。彼はあなたの準備が整うまで待っていたりしない。堀を巡らしても、扉を閉めても、鍵を掛けても、かんぬきで閉ざしても、遠ざけておくことはできない。英国人は、わが家はわが城と自慢するが、いかに自慢しようと死を閉め出すことはできない。あるオーストリア貴族は、自分の面前では死と天然痘の話題に触れることを禁じたという。しかし口に出そうが出すまいが、死は平気の平左で、神が定められた時にやって来るであろう。

 ある人は、金に糸目をつけずに手に入れた、乗り心地抜群な最高級の馬車に乗って行く。別の人はさんざん苦労しながら、とぼとぼ徒歩で歩いていく。だが、ふたりとも最後には、確実に同じ家で顔を合わせるのである。

 ある人は、アブシャロムのように、自分に仕え、自分の云うなりに従う五十人のしもべを持っている。別の人は、自分に仕えて指一本を動かすしもべすら持っていない。しかし、ふたりとも、ひとりきりで横たわらなくてはならない場所へと旅を続けているのである。

 ある人は、巨万の富の持ち主である。別の人は、自分の所有物と呼べる1シリングも持ち合わせがない。だが、そのふたりのどちらも、見えない世には一銭たりとも抱えていくことはできない。

 ある人は、国の半分すら所有している。別の人は、猫の額ほどの土地も持っていない。だがしかし、最後には、彼らのどちらにとっても、じめついた二歩幅ほどの地面があれば優に十分である。

 ある人は、自分の体を山海の珍味で満ち足らせ、この上もなく高価で柔らかな衣裳をまとわせる。別の人は、満足な食べ物もなく、身をおおう物にも事欠いている。だが、ふたりとも同じように、「灰は灰へ、ちりはちりへ」と宣告される日へ急行しているのであり、五十年もすればだれも、「これが金持ちの骨、これが貧乏人の骨」、などと云うことはできなくなるのである。

 これが云い古されたことであるのは百も承知している。それを一瞬たりとも否定するつもりはない。私がいま書き記しているのは、だれもが知っているはずの古くさいことである。しかし、それをだれもが感じているわけではない。おゝ、否! もし彼らがそれを感じているとしたら、今のような話し方やふるまい方はしていないであろう。

 あなたは時として福音の教職者たちの口調や言葉遣いを不思議に思うことがある。あなたは、私たちがあなたに即座の決心を迫ることに驚きを感ずる。あなたは私たちが極端で、常軌を逸していて、過激な考え方をしていると考える。私たちがあなたに向かって、キリストに近づけ、----何事も不確かなままにしておくな、----自分が新しく生まれたこと、天国に行く用意ができていることを確かめよ、とせきたてるからである。あなたは耳には入れるが賛成はしない。あなたは外に出て行き、互いに語り合う。----「あの牧師も善意から云っているんだろうが、あれでは行き過ぎだね」、と。

 しかしあなたはわからないのだろうか? 私たちが、死という現実によって、絶えまなくそれ以外の言葉遣いを禁じられていることを。私たちは死がしだいに私たちの会衆をまばらにして行くのを目の当たりにしている。私たちは、自分たちの集会から、あの顔この顔が次々と欠けていくことに気づく。私たちには、次がだれの番かはわからない。わかっているのはただ、木が倒れるときのように、それはそのままそこに残るということであり、「死後にはさばきを受けること」になる、ということである。私たちは、自分の言葉遣いを大胆で、断固として、強硬なものとせざるをえない。私たちは、だれかを怒らせる危険を冒しても、だれかを失うよりは良いと考える。私たちは、古のバクスターによって打ち立てられた基準を目当てとしたいと思う。----

   「私は説教しよう。二度と説教できない者であるかのように、
    また、死に行く者が死に行く者らに向かってするかのように!」

 私たちは、チャールズ二世が自分の説教者のひとりについて語ったような性格を自分のものにしたいと思う。「あの男は、死が背中に迫っているかのように説教するのだ。あの男の説教を聞いた後で眠ることはできない」。

 おゝ、願わくは人々が、いつの日か死ぬ者であるように生きることを学ぶように! 何と貧しいわざであろう、死に行く世界とそのはかない慰めに思いをかけ、ほんのつかの間のために栄光ある不死を失うとは! ここで私たちはさんざん苦労し、労働に励み、つまらぬことに神経をすりへらし、蟻塚の蟻のように駆けずり回っている。だがしかし、ほんの数年もすれば、私たちはみないなくなり、別の世代が私たちの抜けた穴をふさぐ。永遠のために生きようではないか。決して取り去られることのない分け前を求めようではないか。そしてジョン・バニヤンの黄金律を決して忘れないようにしようではないか。「よき生活を送ろうと思ったら、自分の臨終の日を眼前においていつも自分の伴侶としなさい」。

 IV. 次のこととして注目したいのは、信仰者の魂は神の御目にとっていかに尊いものであるか、ということである。

 たとえ話の金持ちは死んで葬られた。もしかすると、彼のためには豪勢な葬儀が行なわれたかもしれない。----生前の彼の支出に釣り合うような葬儀が行なわれたかもしれない。しかし私たちは、魂と肉体が分かたれた瞬間のことを、それ以上何も聞かされない。私たちが次に聞かされるのは、彼が地獄にいるということである。

 たとえ話の貧乏人も死んだ。どんな葬式が行なわれたか私たちにはわからない。私たちの回りにいる乞食の葬式は憂鬱なものである。ラザロの葬式もそれよりましなものではなかったであろう。しかし、このことだけは私たちに分かっている。----ラザロは、死んだその瞬間に、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。----安息の場所、信仰を持つすべての者らが義人の復活を待ち受ける場所へと連れて行かれた。

 このたとえ話のこの云い回しには、非常に驚くべきもの、非常に心打たれるもの、非常に慰めに満ちたものがあると思われる。私はここにあなたの特別な注意を引きたい。これは、キリストを信ずるすべての罪人たちと、彼らの神なる御父との関係について、大きな光を投じている。これは、キリストの弟子のうち、いかに小さく卑しい者に対しても、王の王がいかなる心遣いをしてくださるかを垣間見せてくれる。

 信仰者以外に、このような友人たち、このような従者たちを有している者はひとりもいない。たとえ信仰者自身すら、そのことにほとんど思いを致していなくとも、そうである。御使いたちは、信仰者が御霊によって新しく生まれる日に、彼のことを喜ぶ。御使いたちは、この世の荒れ野にある彼の回りに陣を張っている。御使いたちは、死に臨んだ彼の魂に責任を持ち、それを無事にふるさとに連れて帰る。しかり! 自分自身の目にはいかに邪悪な者に見えようと、自分自身の見るところいかに卑しく思われようと、イエスを信ずるどれほど貧しくみすぼらしい信仰者も、天の御父による配慮を受けており、人知を超えた心遣いを受けているのである。主はその人の羊飼いとなっており、その人には「乏しいことがありません」(詩23:1)。真心からキリストのもとに来さえすれば、そしてキリストに結び合わされさえすれば、人は、萬具(よろず)備りて鞏固なる契約に伴うすべての恩恵を得られるのである。

 その人は多くの罪に罪を重ねてきただろうか? たとえその罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。

 その人の心はかたくなで、罪に傾きがちだろうか? その人には新しい心が与えられ、その人のうちには新しい霊が入れられる。

 その人は弱く臆病だろうか? ペテロをして敵どもの前でキリストを告白できるようにしてくださったお方が、その人を大胆にしてくださる。

 その人は無知だろうか? 飲み込みの悪いトマスを忍んでくださったお方が、その人をも忍び、すべての真理に導き入れてくださる。

 その人は自分の持ち場でひとりぼっちだろうか? みなから見捨てられたパウロを支えてくださったお方が、その人をも支えてくださる。

 その人は格別に重い試練の中にあるだろうか? 人々をネロの家中で聖徒たらしめてくださったお方が、その人をも耐え抜けるようにしてくださる。

 その人の頭の毛さえも、みな数えられている。キリストのみ許しなしに、何物もその人に害を与えることはできない。その人を傷つける者は、神のひとみを傷つけ、キリストご自身の兄弟であり肢体である者に危害を加えたのである。

 その人の試練はみな賢明に整えられたものである。サタンは、ヨブに対してそうしたように、神がお許しになったときしか、その人を悩ませることができない。いかなる誘惑も、その人が耐えられる限度を超えて起こることはありえない。すべてのことが働いて、益となる。

 その人の歩みは、ことごとく恵みから栄光へと整えられている。その人は、天国のために成熟するそのときまで、地上で守られており、それより一瞬も長く地上にとどまることはない。主の収穫物には、定められた割合に応じた日光と風、寒さと暑さ、雨と嵐を受けなくてはならない。そしてそのとき、信仰者の働きがなし終えられたとき、神の御使いたちはラザロのために来たようにその人のもとに来て、その人を無事にふるさとに連れ帰るのである。

 悲しいかな! 世の人々はキリストの民をあざけるとき、自分がだれを軽蔑しているかほとんど考えもしない。彼らは、御使いたちがお供となることを恥ともしないような者たちをあざけっているのである。キリストご自身の兄弟であり姉妹である人々をあざけっているのである。彼らは、この人々が、そのためにわざわざ患難の期間が短くされるような人々であることをほとんど考えもしない。この人々は、そのとりなしによってこそ王たちが平和に統治することができるような人々である。世の人は、ラザロのような人々の祈りの方が、武装兵の大軍にもまさって諸国間の問題に重きをなしていることをほとんど意に介そうとしない。

 このページを読んでいるかもしれない、キリストを信ずる信仰者に云う。あなたは、あなたの特権と所有物がどれほどのものかほとんどわかっていない。就学児童と同じく、あなたはあなたの父があなたの幸福のため何をなさっておられるか半分もわかっていない。今までしてきたよりも、信仰によって生きるようにするがいい。キリストにあってたくわえられている宝の豊かさを今から熟知するようにするがいい。この世は、疑いもなく、私たちが肉体にある限りは、常に試練の場所であるに違いない。しかしそれでもここには、ラザロの兄弟たちのために与えられる種々の慰めがある。そして、それは多くの人々が決して享受できないようなものなのである。

 V. 最後のこととして注目したいのは、自己中心という罪が、いかに危険で、いかに魂を滅ぼす罪であるか、ということである。

 このたとえ話の中の金持ちは、絶望的な状態にある。聖書全体の中に、滅びに落ちた魂の図が他に何1つなくとも、ここにはそれがある。あなたが最初に彼と出会ったとき、彼は紫の衣や細布を着ている。あなたが最後に彼と別れを告げるとき、彼は永遠の火の中で苦しんでいる。

 だがしかし、どこを見てもこの男が殺人者であったとか、盗人、姦通者、嘘つきであったというようなことはうかがい知れない。この男が無神論者であったとか、不信心者であったとか、冒涜者であったと考えなくてはならない理由は何1つない。確かなことはわからないが、この男はユダヤ教信仰のあらゆるしきたりに反さないよう留意していたであろう。しかし、この男が永遠の滅びに至ったことだけは確かである!

 こうしたことを考えるとき、私は非常に厳粛なものを感ずる。ここにいるのは、まず間違いなく外面的には正しい生活をしていた人物である。いずれにせよ、この人物には非とされるべきいかなることも知られていない。彼は贅沢に着飾っていた。だが彼には自分の衣裳にかけるだけの金を持っていたのである。彼は素晴らしい饗宴と娯楽に興じていた。だが彼は裕福であり、そうするだけの懐具合をしていたのである。彼について非とされるようなことは、何1つ書かれていない。少なくとも、この現代、おびただしい数の人々についてあてはまるようなことしか書かれていない。そして、そうした人々は尊敬されるべき、善良な人々とみなされているのである。だがしかし、この男の末路は地獄行きであった。確かにこれは真剣な注意に値することである。

 (a) 私の信ずるところ、この話が私たちに教えようとしているのは、自分だけのために生きる生き方に用心せよ、ということである。私たちは、「私は真っ当な生き方をしている。だれにでも正当な支払いはしている。世間で求められているあらゆる義務を、正しく果たしている。キリスト教で求められている、あらゆる外的な義務に真面目に励んでいる」、と云えるだけでは十分ではない。その陰には、まだ別の質問がひそんでおり、聖書はその答えを要求しているのである。「あなたは、だれのために生きているのか? あなた自身のためか、キリストのためか? あなたの人生の最大の目的、目当て、目標、支配的な動機は何なのか?」、と。これを極端な問いだと呼びたければ呼ぶがいい。私としては、この聖パウロの言葉には、この問いと寸分違わぬものが見いだせるのである。「キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです」(IIコリ5:15)。そして私が引き出している結論、それは、もしこの金持ちのように私たちが自分自身のためにしか生きていないとしたら、私たちは自分の魂を滅ぼすことになる、ということである。

 (b) さらに私の信ずるところ、この箇所が私たちに教えようとしているのは、不作為の罪によっても人は地獄に落ちる、ということである。思うに、この金持ちに天国を失わせたものは、彼がしたことよりも、彼がしないでおいたことであるように見える。ラザロは彼の門前にいたが、彼はラザロを放っておいた。しかしこれは、聖マタイの福音書25章にある、最後の審判の物語と、まさに軌を一にしているのではなかろうか? そこでは、滅びる者たちが進んで犯した罪については何も語られていない。では何が非難されているのだろうか? 「おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった」(マタ25:42、43)。彼らに対する非難は、単に彼らがある種のことを行なわなかった、ということにすぎない。このことで彼らの宣告は決した。そして私がやはり引き出す結論、それは、気をつけていないと、なすべきことをなさずにおく罪は、私たちの魂を滅ぼしかねない、ということである。いみじくもアッシャー大主教は、その死の床にあって、こう厳粛に語ったという。「主よ。わが罪をすべて赦したまえ。殊に、わが不作為の罪を赦したまえ」。

 (c) さらに私の信ずるところ、この箇所が私たちに教えようとしているのは、富には特別な危険が伴う、ということである。しかり! 世間の大多数の人々が求めてやまない富には、----彼らがそのために生涯を費やし、偶像視している富には、----その持ち主を途方もない霊的危険に陥らせるものがあるのである。富を所有することには、魂を非常にかたくなにする効果がある。富は魂を冷え冷えとさせる。凍てつかせる。内なる人を石のように硬くする。信仰に関する事がらに目を閉ざさせる。知らぬまに神を忘れさせる傾向を生み出す。

 そしてこれは、同じ主題について聖書が至る所で語っている言葉遣いと完全に調和しているではないだろうか? 私たちの主は何と云っておられるだろうか? 「裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」(マタ10:23、25)。聖パウロは何と云っているだろうか? 「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました」(Iテモ6:10)。何にもまして驚愕すべき事実は、聖書がしばしば金銭を、おびただしい数の罪と邪悪さの原因として語っている、ということである。金銭のためにアカンは、イスラエル軍に敗北をもたらし、自分自身に死を招いた。金銭のためにバラムは光に背いて罪を犯し、神の民を呪おうとした。金銭のためにデリラはサムソンをペリシテ人に売った。金銭のためにゲハジはナアマンとエリシャに嘘をつき、らい病人となった。金銭のためにアナニヤとサッピラは初代教会の最初の偽善者となり、いのちを失った。金銭のためにイスカリオテのユダはキリストを売り渡し、永遠の滅びに落ちた。確かにこれらは雄弁な事実である。

 実のところ金銭は、何よりも不満足な所有物である。それがいくつかの心労を取り除いてくれることは間違いない。だが、それは、それが取り除いたのと同じくらい多くの心労を背負い込ませる。それを獲得するのに困難がある。それを持ち続けていることに心配がある。それを使うことに誘惑がある。それを乱用することに罪意識がある。それを失うことに悲しみがある。それを分配することに困惑がある。世界中のあらゆる争闘と反目と訴訟の三分の二を生じさせているのは、1つの単純な原因----金銭----である!

 何よりも確かなことに、金銭は、この上もなく人を罠にかけ、心変わりさせる所有物の1つである。それは遠くから見ると魅力的に見える。だが、それを手にすると、しばしば毒であることがわかるのである。思いもよらず突然大金を手にすることになったとき、それが自分の魂にいかなる影響を及ぼすことになるかはだれにもわからない。多くの人々は、貧しかった間はよく走っていたのに、金持ちになると神を忘れてしまう。

 私が引き出す結論、それは、このたとえ話の金持ちのように金銭を所有している人々は、自分の魂について倍増しの心配をしなくてはならない、ということである。彼らはこの上もなく不健康な環境の中で生きている。彼らには、警戒を固めるべき必要が二倍ある。

 (d) これも重要なこととして、私の信ずるところ、この箇所の目的は、この終わりの日に、自己中心的な態度に対して特に用心深くならせることにある。これは、IIテモ3:1、2で特に警告されたことである。「終わりの日には困難な時代がやって来ます。そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者になります」*(IIテモ3:1、2)。私の信ずるところ、すでに終わりの日は来ており、私たちは、自分の魂を愛しているというなら、ここで言及されている罪に対して用心しなくてはならない。

 ことによると私たちは、自分の生きている時代をよく判断できないかもしれない。私たちは、自分の目に触れ、感じているというまさにそのために、今の時代の悪を過大評価し、誇大に考えがちである。しかし、どれほどの譲歩をしても私は、果たして今日ほど自己中心に対する警告が必要とされた時代があったかどうか疑わしいと思う。私の確信するところ、英国のあらゆる階級がこれほど多くの安楽と、これほど多くの現世的な財産を手にしていたことはいまだかつてなかった。しかし私は、人々が自分のために費やす支出と、慈善行為や他者のための働きに費やす経費との間には、極端なまでの不釣り合いがあると思う。これは、あの情けない1ギニー寄付金に見られる。多くの金持ちたちは、それに記名することだけに、自分の慈善心を限定しているのである。これは、わが国の最良のキリスト教団体の多くの息も絶え絶えな状態や、その年間収入の痛ましいほどにのろい伸び具合に見られる。これは、何らかの慈善事業の寄付者名簿に記される名前の少なさに見られる。私の信ずるところ、この国のおびただしい数の金持ちたちは、文字通り一銭も他人に分けてやろうとはしていない。これはあの悪名高い事実、すなわち、いかなる人も----募金に応ずる人々でさえ----自分の資力に応じた寄付をしないという事実に見られる。私はこれらすべてを目にして、それを嘆く者である。私はそれを「終わりの日」に生ずるだろうと予告されていた自己中心さと金銭愛であるとみなす者である。

 これが痛みを伴う、微妙な主題であることは承知している。しかし、だからといってキリストの仕え人がそれを避けて通ることはできない。これはこの時代に求められている主題であり、心に深く刻み込まれるべき必要がある。私は自分自身に、また少しでもキリスト教信仰を告白しているすべての人々に語りかけたいと思う。もちろん私は、この世的で完全に不敬虔な人々がこの主題を聖書の光に照らして考えることを期待することはできない。彼らにとって聖書は、決して信仰と行為の基準などではない。彼らに向かって聖句を引用してもほとんど何の役にも立つまい。

 しかし私は、信仰を告白するあらゆるキリスト者に願いたいのである。貪欲と自己中心を聖書がいかに禁じているか、また、金銭を分け与えることにおける物惜しみなさをいかに推奨しているか、よく考察してみるがいい、と。主イエスはあだやおろそかに、あの愚かな金持ちのたとえ話を語り、彼が「神の前に富まない者」であったことを非難されたのだろうか(ルカ12:21)? 主は、あだやおろそかに種まきのたとえで、みことばの種が実を結ばなかった理由の1つとして「富の惑わし」に言及されたのだろうか(マタ13:22)? 主は、あだやおろそかに、「不正の富で、自分のために友をつくりなさい」、と云われたのだろうか(ルカ16:9)? 主は、あだやおろそかに、こう云われたのだろうか? 「昼食や夕食のふるまいをするなら、友人、兄弟、親族、近所の金持ちなどを呼んではいけません。でないと、今度は彼らがあなたを招いて、お返しすることになるからです。祝宴を催すばあいには、むしろ、貧しい人、不具の人、足なえ、盲人たちを招きなさい。その人たちはお返しができないので、あなたは幸いです。義人の復活のときお返しを受けるからです」、と(ルカ14:14)。主は、あだやおろそかに、こう云われたのだろうか? 「持ち物を売って、施しをしなさい。自分のために、古くならない財布を作り、朽ちることのない宝を天に積み上げなさい。そこには、盗人も近寄らず、しみもいためることがありません」、と(ルカ12:33)。主は、あだやおろそかに、「受けるよりも与えるほうが幸いである」、と云われたのだろうか(使20:35)? 主は、あだやおろそかに、傷ついた旅人を見過ごしにして道の反対側を通り過ぎた祭司やレビ人の例にならわぬよう警告なさったのだろうか? 主は、あだやおろそかに、身銭を切ってまでも赤の他人に親切を施した良きサマリヤ人を賞賛したのだろうか(ルカ10:34)? 聖パウロは、あだやおろそかに、むさぼりを、他の毒々しい描写の罪と同格に並べて、それを偶像礼拝であるとして非難しているのだろうか(コロ3:5)? そして、こうした言葉遣いと、金銭に関する社会の慣行や感情との間には、驚くほどの、痛ましい差異がないだろうか? 私は、世間を知っているあらゆる人に訴えたい。その人は自分で私の云っていることを判断するがいい。

 私が読者の方々に願いたいことはただ1つ、いま私があげた聖書箇所を心静かに考察してほしい、ということである。そうした箇所が特に何も教えていないなどと考えることはできない。東洋の習慣と、私たちの習慣とに違いがあることは、私も喜んで認めよう。私の引用した云い回しのいくつかが比喩的なものであることは、喜んで受け入れよう。しかしそれでも結局のところ、これらの云い回しすべての根底には1つの原則が横たわっているのである。この原則が無視されないように用心しようではないか。私は、現代に信仰を告白する多くのキリスト者たち、ことによると私が語っていることを嫌っているかもしれないキリスト者たちにぜひ願いたい。こうした云い回し1つ1つについて注解書を書き、それらの意味を自分で自分に説明するようにしてほしい、と。

 施しによっては罪を贖えないことを知るのは良い。私たちの善行によって私たちが義と認められないことを知るのは素晴らしい。私たちが全財産を貧しい人々を養うために分け与え、病院を建て、大聖堂を建てても、真の愛を有していないことがありうると知るのは重要である。しかし私たちは、金銭によっては救われないからといって、一銭も人に与えないというような逆の極端に走らないよう用心しようではないか。

 このページを読んでいる人々の中に、金銭を所有している者がいるだろうか? では、「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい」(ルカ12:15)。天国をめざす競走において、あなたが重りをかかえていることを忘れてはならない。すべての人は生まれながら永遠に滅びる危険があるが、あなたには、あなたの財産のため、倍増しでその危険がある。火を素早く消したければ、地の土をかぶせるにしくはないと云われる。私の確信するところ、信仰の火を消化しがちなものとして、金銭の所有にまさるものはない。死の床についていたビュキャナンは、かつての教え子であるジェームズ一世に向かって、この厳粛な言葉をことづてたという。「私が今向かおうとしている場所には、国王や偉人たちはほとんど来ることがありませぬ」。疑いもなくあなたにも、他の人々と同じように救われる可能性はある。神にとって不可能なことは1つもない。アブラハムもヨブもダビデもみな金持ちだったが救われた。しかし、おゝ、用心するがいい! 金銭は良いしもべだが悪い主人である。私たちの主のこのことばをあなたの心に刻みつけるがいい。「裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう」(マコ10:23)。いみじくも、古のある牧師がこう云っている。「金鉱の上の地面は、えてして最も不毛なものである」。いみじくも老ラティマーは、エドワード六世の前で行なった説教の1つの冒頭で、「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい」、という私たちの主のことばを三度繰り返してから、こう云ったという。「これから三、四時間の間、私がこのことば以外に何も語らなかったとしたら、どうなりましょうか?」 英国国教会の連祷の中でも、この祈願ほど賢明かつ必要な祈りはない。「われらがに囲まれるいかなるおりにも、尊き主よ。われらを救い出したまえ」。

 このページを読んでいる人々の中に、金銭をほとんど、あるいは全く所有していない者がいるだろうか? では、あなたよりも金持ちな人々をねたまないようにするがいい。彼らのために祈るがいい。彼らをあわれむがいい。彼らの過ちに対して思いやり深くあるがいい。高所にあるとき人は目が回るものであることを覚えて、彼らのふるまいをあまりに性急に非難しないようにするがいい。あなたも彼らと同じ困難をかかえていたとしたら、彼らと同程度のふるまいしかできなかったかもしれない。「金銭を愛すること」に用心するがいい。それは「あらゆる悪の根」である(Iテモ6:10)。人は、一銭も持っていなくとも、金銭を愛しすぎることがありうる。利己愛に用心するがいい。それは王宮の中だけでなく、田舎家の中にも見られる。そして、貧乏でいさえすれば救われるのだ、などと考えないよう用心するがいい。もしラザロとともに栄光に包まれて座りたければ、彼と苦しみをともにするだけでなく、恵みもともにしていなくてはならない。

 読者の方々の中には、この利己愛の治療法を知りたいという人がいるだろうか? この金持ちの魂を滅ぼし、面の皮のように私たち全員に生まれつきへばりついている、この利己愛の治療法を知りたい人がいるだろうか? はっきり云うが、その治療法は1つしかない。ぜひ、この治療法がいかなるものか心に深く銘記してほしい。それは地獄への恐れではない。天国への希望ではない。いかなる義務感でもない。おゝ、否! 自己中心という病は、そうした二義的な動機で治るほど、根の浅いものではない。それを治癒する道はただ1つ、人を救うキリストの愛を体験的に知ることである。あなたは自分自身の生まれながらの状態がいかにみじめで、いかに罪深いものか知らなくてはならない。あなたの良心に注がれて、あなたをいやしてくれる贖いの血の力を体験しなくてはならない。イエスの仲立ちを通して実現した、神との平和の甘やかさを味わい、和解させられた御父の愛が、ご聖霊によってあなたの心に注がれるのを感じなくてはならない。

 そのときこそ、そのときになって初めて、自己中心の主ぜんまいが破壊されるであろう。そのときこそあなたは、キリストに対する自分の負い目の巨大さを悟って、いかなるものをキリストにささげようとも十分ではない、惜しくはない、と感じるようになるであろう。何の値うちもなかった自分がこれほどまでに愛されたことを感じてあなたは、心からの愛を返して叫ぶであろう。「主が、ことごとく私に良くしてくださったことについて、私は主に何をお返ししようか」、と(詩116:12)。ただで自分が数えきれないほどのあわれみを受けたことを感じてあなたは、自分のすべてを負っているお方を喜ばせるため何かができるなら、それを特権と考えるであろう。自分が「代価を払って買い取られた」こと、自分がもはや自分自身のものではないことを感じてあなたは、神のものであるからだと霊とをもって神の栄光を現わすように努めるようになるであろう(Iコリ6:20)。

 しかり。この日私はもう一度云う。私の知る限り、利己愛を実際に治療するには、キリストの愛を信仰によって察知するしかない。他の治療法でも、この病を和らげることはできるかもしれないが、癒せるのはこの方法だけである。他の解毒剤でも、その奇形ぶりを隠せるかもしれないが、これだけが完治させることができるのである。

 おっとりとした、人好きのする気質をした人の場合、その自己中心さは目立って見えないかもしれない。人から賞賛されたいと思えば人は、一瞬のうちに自己中心さを押し隠すことができる。自分を義とする禁欲主義や、見せかけだけの自己否定精神によって人は、あっという間にそれを見えなくすることができる。しかし自己中心さを根こそぎにするには、キリストの愛がご聖霊によって精神に啓示され、単純な信仰によって心がそれを感じるしかない。いったん人が、「キリストは私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった」、という言葉の完全な意味を見てとるなら、その人は自分をキリストのために捨てること、持てるものすべてをキリストに仕えるために捨てることを喜びとするであろう。その人はキリストのために生きるであろう。救いを確かにするためにではなく、すでに確かにさせられているからこそ、キリストのために生きるであろう。その人はキリストのために働くであろう。いのちと平安を得るためにではなく、すでにいのちと平安を自分のものとしているからこそ、キリストのために働くであろう。

 すべて自己中心の力から解放されたいと願う者は、キリストの十字架のもとに行くがいい。行って、そこでいかなる代価が支払われて、あなたの魂の贖い代とされたか見るがいい。行って、いかに神の御子があなたのためにご自身をお捨てになったか見てとり、御子のために自分を捨てることなど小さいこととみなすようになるがいい。

 たとえ話の金持ちを滅ぼした病は不治の病ではない。しかし、おゝ、その真の治療法は1つしかない! もし自分だけのために生きたくないと云うなら、キリストのために生きなくてはならない。この治療法を単に頭で知るだけでなく、適用するよう心がけるがいい。----単に聞くだけでなく、用いるがいい。

 (1) さて、しめくくりとしてこのページを読む方々ひとりひとりに、自己省察という大きな義務を呼びかけさせてほしい

 このたとえ話のような聖書箇所は、多くの人々に、その心を大きく探る問いかけを発するに違いない。----「私は何者だろうか? どこへ向かっているのだろうか? 何をしているのだろうか? 死後の私は、いかなる状態に立ち至るだろうか? 私はこの世を去る備えができているだろうか? 私には、来たるべき世に待ち望む家があるだろうか? 私は古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を身に着ているだろうか? 本当にキリストと1つに結び合わされているだろうか? 赦された魂をしているだろうか?」 確かにこうした問いかけは、金持ちとラザロの話が聞かされるときには常に発されてよいはずである。おゝ、願わくはご聖霊が多くの読者の心に、こうした問いを思い起こさせてくださるように!

 (2) 次のこととして私は、自分の魂の救いを得たいと願いつつも、何の甲斐もないというすべての読者に、この招きをしたい。見いだせるうちに、救いを求めるがいい。私はあなたに切に願う。人を天国に入れることができ、救うことができる唯一のお方----すなわち、主イエス・キリスト----に訴え出るがいい。主は天国のかぎを持っておられる。主は父なる神から、みもとに来るすべての者たちの救い主となるべく証印を押され、任命されている。真剣な心からの祈りによって主のもとに行き、主にあなたの問題を打ち明けるがいい。この方に告げるがいい。自分は、あなたが「罪人たちを受け入れて」くださると聞いたので、罪人としてやってまいりました、と(ルカ15:2)。この方に告げるがいい。自分はあなたから、あなたご自身のしかたで救われたいと願っています、どうかお救いください、と。おゝ、願わくはあなたが、遅れることなくこの道に踏み出すように! あの金持ちの絶望的な末路を思い出すがいい。いったん死んでしまえば、もはや何も変えられないのである。

 (3) 最後の最後に私は、信仰を告白するキリスト者すべてに、こう懇願したい。あらゆる慈善および救貧のための働きに、惜しみなく財を投ずる習慣を身につけるよう奮い立つがいい、と。自分が神の財産の管理者であることを忘れず、機会のあるたびに、気前良く、惜しげなく、いやいやながらでなく与えるがいい。あなたは、金銭を永遠に持ち続けることはできない。いつの日か、それをどのようなしかたで費やしてきたか申し開きをしなくてはならない。おゝ、今のうちから、永遠を目的として、それを投資するがいい。

 私が金持ちの人々に求めているのは、何も身分や立場を捨てよ、ということではない。全財産を売り払って救貧院に行けと云っているのではない。そのようなことは、神の財産管理者として働くのを拒むのも同然であろう。私は決してだれにも、世俗の職業を軽視せよとか、自分の家族を養うことをなおざりにせよ、と云っているのではない。勤勉に仕事をすることは、明白にキリスト者の義務である。私たちが扶養すべき者たちに十分な備えをしてやることは、正当なキリスト者としての思慮である。しかし私がすべての人々に求めているのは、彼らが旅を続けている間中、絶えず回りに目を配り、貧しい人たちを顧みよ、----肉体において貧しい人たちをも、魂において貧しい人たちをも----、ということである。私たちは地上にほんの数年しかとどまっていない。では、地上にある間どのようにしたら自分の金銭を最も有効に使えるだろうか? どのようにそれを費やしたら私たちは、自分が取り去られるとき、この世界を少しでもより幸福で、より聖いものとしていけるだろうか? 私たちは自分のぜいたくを多少簡素にした方がいいのではないだろうか? 自分のために費やす金銭を少なくし、キリストの御国の進展と、キリストの貧民のためにより多くを与える方がいいのではないだろうか? 私たちには、善を施してやれるような者たちがひとりもいないだろうか? その悲しみを軽くしてやり、その慰めを増してやれるような病人や、貧民や、困窮した人々はだれひとりいないだろうか? こうした問いかけに対して、どこからも応答がないようなことは、決してないはずである。私の堅く確信するところ、もしも英国のキリスト者たちが自分の資力に応じてささげるようになれば、あらゆるキリスト教関係団体および慈善団体の収入は、容易に十倍にふくれあがるであろう。

 主イエスへの信仰を告白している信仰者にまさって、こうした訴えを痛切に感じなくてはならない者はないに違いない。この聖句のたとえ話は、生まれながらの私たちの立場と、私たちがキリストに負っている負債とを印象的に示す例話である。私たちはみな、ラザロのように天国の門前に横たわり、死に至る病にかかった状態で、飢えていた。神はほむべきかな! 私たちはラザロのように放ってはおかれなかった。イエスがやって来て、私たちを救助してくださった。イエスは私たちのため、私たちが希望を得て生きるため、ご自身を捨ててくださった。あわれなラザロのごときこの世のために、主は天から下り、身をへりくだらせて、人間になってくださった。あわれなラザロのごときこの世のために、主は巡り歩いて良いわざをなし、人々の肉体をも魂をも気遣い、ついには私たちのため十字架にかかって死んでくださった。

 私の信ずるところ、慈善と救貧のための働きに財をささげることによって私たちは、キリストの心にかなうことを行なっているのである。----私はこのページを読む方々に求めたい。もし今まで一度もそうしたことがないというのなら、今からでもそのように与える習慣を身につけるように、と。また、すでにそうしているというなら、それをさらに増し加えるように、と。

 私の信ずるところ、世俗性とむさぼりに対する警告の声をあげることによって私は、今の時代に特に必要な警告を公にしているにすぎない。願わくは神が、このページを考察することによって多くの魂を祝福してくださるように。

富と貧困[了]

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