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12. この世


「彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる」----IIコリ6:17

 このページの冒頭に冠された聖句は、キリスト教信仰について考える上で極めて重要な一主題に関わっている。それは、キリスト者にはこの世から分離するという大きな義務がある、ということである。これこそ、聖パウロがコリント人に向けて、「出て行き、----分離せよ」、と書いたとき念頭に置いていた点である。

 これは、キリスト者であると告白し自称しているすべての人々が、最大限の注意を払わなくてはならない主題の1つである。いかなる時代の教会においても、この世からの分離は常に、心の中で恵みが働いていることを示す大きな証拠の1つであった。真に御霊から生まれた者、キリスト・イエスにあって新しく創造された者は常に、「この世から出て行き」、分離した生き方をするように励んできた。キリスト者であるとは名ばかりで、その実質を持たない者たちは常に、この世から「出て行き、分離する」ことを拒んできた。

 ことによると、今日ほどこの主題が重要な時代はなかったかもしれない。現代は、キリスト教信仰の様々な部分を居心地の良いものにしたい、----十字架のごつごつした角やへりを切り落とし、できるだけ自己否定しないで済ませるようにしたい、----という願いが、至るところに広まっている時代である。いずこに耳を傾けても、聞こえてくるのは、「私たちは『狭量で排他的』であってはならない」、という、信仰を告白するキリスト者たちの大合唱である。過去の時代の比類なき聖徒たちが魂にとって悪であるとしていた多くの事がらを、「そんなことに害はない」、と云い立てる声である。われわれは、どこへ行こうと、何をしようと、何に時間を費やそうと、何を読もうと、いかなる人々とつき合おうと、何に没頭しようと、そうしたすべてを行なっていてもなおかつ、非の打ち所ないキリスト者であることはできる、という----これが、これこそが、おびただしい数の人々の合言葉なのである。このような時代に、警告の声を挙げ、神のみことばの教えに注意を呼びかけるのは当を得たことであると私は思う。みことばには、「出て行き、分離せよ」、と書かれているのである。

 この重大な主題を吟味するにあたり、私は読者の方々に4つの点を示したいと思う。

 I. 第一に示したいのは、この世は魂にとって大きな危険の源である、ということである。
 II. 第二に示したいのは、この世から分離するということは何を意味していないか、ということである。
 III. 第三に示したいのは、この世から真に分離するとはどういうことか、ということである。
 IV. 第四に示したいのは、この世に打ち勝つ秘訣は何か、ということである。

 さてここで先に進む前に、この論考を読むあらゆる方々に1つ警告させていただきたい。それは、もしあなたが、真のキリスト者とはいかなる者かということを前もって理解していなければ、この主題は決して理解できない、ということである。もしもあなたが、どんな生き方をしていようが、何を信じていようが、礼拝に通っていさえすれば、その人はキリスト者だ、と考えているような不幸な人種のひとりだとしたら、残念ながらあなたは、この世からの分離などということに、ほとんど気を遣わないのではないかと思う。しかしもしあなたが、聖書を読み、自分の魂について真剣に考えている人だとしたら、世には二種類のキリスト者がいることに気づくであろう。----それは、回心したキリスト者と未回心のキリスト者である。あなたは、新約時代における真のキリスト者が、旧約時代の国々の間におけるユダヤ人たちと同じ立場にあることに気づくであろう。そうしたユダヤ人たちと同じく真のキリスト者は、福音のもとにあって「特別の民」となるべきであり、信仰者と未信者の間には違いがなくてはならない、と私が云うとき、あなたは私の意味していることを理解できるであろう。それゆえ私は、きょうのこの日、あなたに格別な訴えをしたいと思う。この世からの分離という主題をはぐらかそうとしたり、蛇蝎のごとく忌み嫌ったり、それに困惑したりする人々が数多く見られる今の時代に、あなただけは、私がこれから「ありのままの真実」を示していく間、よく注意を傾けていてほしい、と。

 I. まず第一に、この世は魂にとって大きな危険の源であることを示させていただきたい。

 忘れないでほしいが、「この世」ということで私が意味しているのは決して、私たちが足下に踏みしめ、その上を歩き回っている、この物理的世界のことではない。神が上の天において、あるいは下の地において創造なさった何らかのものが、それ自体で人の魂に有害であると云おうとするような者は、まるで筋の通らない、ばかげたことを口にしているのである。むしろそれとは逆に、太陽も月も星々も、----山々も谷々も平野も、----海も湖も河川も、----被造世界の動物も植物も、----あらゆるものが、それ自体としては、「非常によい」ものである(創1:31)。すべては、神の知恵と力について、ふんだんに私たちに教え、日ごとに告げ知らせている。「われらを作りし御手は神のものなり」、と。「物質」がそれ自体で罪深く腐敗しているなどという考え方は、愚かしい異端である。

 私がこの論考の中で「この世」について語るとき、そこで意味しているのは、この世の物事をもっぱら、あるいは、主として考え、来たるべき世のことは無視している人々、----常に天国よりも地上のことを、永遠よりも現世のことを、魂よりもからだのことを、神を喜ばせることよりも人を喜ばせることを考えている人々のことである。こうした人々と彼らの生き方、習慣、意見、行動、趣味、目的、精神、風潮こそ、私が「この世」について語るときに語っていることである。これこそ聖パウロが私たちに、「出て行き、分離せよ」、と告げている世にほかならない。

 さて、こうした意味における「この世」が魂の敵であることは、有名な教理問答がその冒頭から告げているところである。その教えによれば、バプテスマを受けたキリスト者には、縁を切って捨てなくてはならないことが3つあり、戦って抵抗しなくてはならない敵が3つあるという。その3つとは、肉と悪魔と「この世」である。これら3つはすべて恐るべき敵であり、これら3つすべてに打ち勝たない限り、私たちに救いはない。

 しかし、人が教理問答についていかなる意見を持ちたがるにせよ、聖書の証言に目を向ける方がずっとよいであろう。もし、これから私が引用する聖句によっても、この世が魂にとって危険の源であるということを証明できないとしたら、言葉に意味などないことになろう。

 (a) まず私たちは、 聖パウロが何と云っているか聞いてみよう。

 「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ……心の一新によって自分を変えなさい」(ロマ12:2)。
 「私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました」(Iコリ2:12)。
 「キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして……ご自身をお捨てになりました」(ガラ1:4)。
 「あなたがたは……そのころは……この世の流れに……従って、歩んでいました」(エペ2:2)。
 「デマスは今の世を愛し、私を捨てて……しまい」(IIテモ4:10)。

 (b) 次に、聖ヤコブが何と云っているか聞いてみよう。

 「父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです」(ヤコ1:27)。
 「世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです」(ヤコ4:4)。

 (c) 聖ヨハネが何と云っているか聞いてみよう。

 「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。
 「すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。
 「世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます」(Iヨハ2:15-17)。
 「世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです」(Iヨハ3:1)。
 「彼らはこの世の者です。ですから、この世のことばを語り、この世もまた彼らの言うことに耳を傾けます」(Iヨハ4:5)。
 「神によって生まれた者はみな、世に勝つからです」(Iヨハ5:4)。
 「私たちは神からの者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています」(Iヨハ5:19)。

 (d) 最後に私たちは、主イエス・キリストが何と云っておられるか聞いてみよう。

 「この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない」(マタ13:22)。
 「あなたがたはこの世の者であり、わたしはこの世の者ではありません」(ヨハ8:23)。
 「その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです」(ヨハ14:17)。
 「もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい」(ヨハ15:18)。
 「もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです」(ヨハ15:19)。
 「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」(ヨハ16:33)。
 「わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません」(ヨハ17:16)。

 私はこの21箇所の聖句について何の注釈もすまい。これらは自ら雄弁に語っている。もしだれかがこれらを注意深く読んだ後でも、「この世」がキリスト者の魂にとって敵であることがわからないとしたら、また、世を友とすることと、キリストを友とすることとの間に決定的な対立があることがわからないとしたら、その人はどんな話も通じない人であって、論じ合うだけ時間の無駄である。私には、これらは真昼の太陽も同然に明白な教訓を含んでいるように見える。

 ここで聖書から目を転じて、事実と経験から考えてみよう。私は、教会の内外で起こっていることに俊敏な目を配っている、老練なキリスト者の方々ひとりひとりに訴えたい。私は尋ねたいと思う。キリスト教信仰の進展に何よりも損害を与えているのは「この世」である、と云っても過言ではないのではなかろうか、と。公然たる罪にもまして、あからさまな不信仰にもまして、キリストのもとから信仰を告白するしもべたちを去らせてしまうもの、それはこの世への愛であり、この世への恐れであり、この世の心づかいであり、この世の仕事であり、この世の金銭であり、この世の快楽であり、この世と調子を合わせたいという願望である。これこそ、おびただしい数の青年たちが不断に破船し続けている大暗礁である。彼らはキリスト教信仰のいかなる信仰箇条にも反対しない。故意に悪を選んだり、公然と神に背いたりはしない。彼らは何とか最後には天国に行き着けるだろうと漠然と考えており、何らかの信仰を持つことは良いことだと思っている。しかし彼らは、自分たちの偶像を捨てることができない。彼らはこの世を所有しないではいられない。このようにして彼らは、少年少女の頃はよく走っていたのに、また天国へ達する見込みは十分あったのに、青年男女になると、脇道にそれ、滅びに至る広い道へと下っていく。彼らは、アブラハムやモーセとともに出発するが、デマスやロトの妻とともに旅を終えるのである。

 最後の審判の日になって初めて私たちは、いかに多くの魂を「この世」が殺してきたかがわかるであろう。敬虔な家庭でしつけられ、物心ついたころから福音を知っていた無数の人々が、それにもかかわらず天国を逸したことがわかるであろう。彼らは輝かしい見込みとともに母港を出帆し、父の祝福と母の祈りとともに人生の大洋に乗り出したが、そこでこの世の誘いに乗って正しい航路を逸れ、その航海を座礁と悲惨のうちに終えるのである。これは悲しむべき物語である。しかし、悲しいかな、あまりにもよくある話にほかならない! 聖パウロが、「出て行き、分離せよ」、と云っていることには何の不思議もない。

 II. さて次に、この世からの分離には何が含まれていないか、について示させてほしい。

 この点ははっきりさせておく必要がある。この点に関しては、数多くの誤りが見られるからである。時として見受けられるのは、真摯で善意のキリスト者たちが、この世との分離という問題において、神が決して意図しておられないようなことを行ないながら、自分は義務の道を果たしているのだと心の底から信じ込んでいる姿である。彼らの誤りはしばしば多大な害をもたらす。彼らはよこしまな人々にキリスト教信仰全体を嘲らせる機会を提供し、何の信仰も持たなくてすます口実を与える。彼らは、真実の道を中傷させるきっかけとなり、十字架のつまづきを増し加えている。この主題について、いくつかの論及をしておくことは、明白な義務であると思う。私たちが決して忘れてならないのは、時として私たちは、この上もなく熱心な思いに燃えて、「神への奉仕をしている」と思い込みながら、その実、何らかの大間違いをしていることがありうる、ということである。「知識に基づいていない熱心」というものがある(ヨハ16:2; ロマ10:2)。私たちが何にもまして正しい判断と聖められた常識を祈り求めなくてはならない点は、この世からの分離という問題である。

 (a) 聖パウロが、「出て行き、分離せよ」、と述べたとき意図していたのは、キリスト者があらゆる世俗の職業や商売や仕事や職務を放棄しなくてはならない、ということではない。彼は決して人々に、兵士や船員や法律家や医者や商人や銀行家や店屋や職人になることを禁じているのではない。新約聖書のどこを見ても、そのような生き方を正当化するような言葉は一言も書かれていない。百人隊長コルネリオ、医者ルカ、律法学者ゼナスらは、全く逆の例である。無為はそれ自体、1つの罪にほかならない。正当な職業は、誘惑に対する1つの防壁となる。「働きたくない者は食べるな」(IIテサ3:10)。何ら罪深いものではないような生業を、そこから害を受けるのではないかと恐れて、よこしまな者らや悪魔の手に引き渡すのは、怠惰で、臆病なふるまいである。私たちがとるべき道は、自分のキリスト教信仰を自分の仕事の中に持ち込むことであって、仕事が信仰の妨げになるなどという、まことしやかな云い訳のもとに仕事を捨てたりしないことである。

 (b) 聖パウロが、「出て行き、分離せよ」、と述べたとき意図していたのは、キリスト者が未信者とのいかなる交際も退け、彼らとのいかなる接触も拒否しなければならない、ということではない。新約聖書には、そのような態度の裏付けとなるようなことは一言も書かれていない。私たちの主とその弟子たちは、婚礼の席に出かけることや、パリサイ人の食卓につくことを拒まなかった。聖パウロは、「もし、あなたがたが信仰のない者に招待されて」も、行ってはならない、などとは云わず、ただ行った場合にどのようにふるまうべきかだけを告げている(Iコリ10:27)。さらに危険なことは、人々をあまりにも厳密にふるいにかけたり、だれが回心していてだれが未回心か、どの交わりが敬虔でどの交わりが不敬虔なものか、と逐一決めつけ始めることである。そんなことをすれば、間違いを犯さずにはいられないに違いない。何よりも、そうした生き方によって私たちは、善を施す多くの機会を自ら断ち切ることになる。もし私たちがどこへ行こうと私たちの主をともなっていくとしたら、私たちが何の害も受けずに、「幾人かでも救う」ことができないと、だれに云えよう?(Iコリ9:22)

 (c) 聖パウロが、「出て行き、分離せよ」、と云うとき意図していたのは、キリスト者が宗教的なこと以外の、いかなる俗事にも興味をいだいてはならない、ということではない。科学や芸術や文学や政治を無視すること、----はなから霊的な読み物以外は何も読まないこと、----世間の動きを全く知らずにすませ、決して新聞を読まないこと、----自国の政府について何も気を遣わず、その政策決定者や立法府について完全に無関心を決め込むこと、----これらはみな、一部の人々にとっては、全く正しくふさわしいことに見えるらしい。しかし私に云わせてもらえば、これは怠惰と利己心による義務の怠慢である。聖パウロは、健全な政府がいかに価値あるものか知っており、それを「私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすため」の主たる助けの1つとみなしていた(Iテモ2:2)。聖パウロは、異教徒による著作を読むことを恥とは思わず、彼らの言葉を自分の説教や手紙の中で自由に引用している。聖パウロは、この世の法律や慣習や職業に通じていることを示すのは品位にかかわる、などとは思わず、そうしたものから例証を引き出している。俗事について無知であることを鼻にかけているようなキリスト者たちこそ、まさに、キリスト教信仰に蔑視を招いているキリスト者にほかならない。私の知っているある鍛冶屋は、自分の牧師が福音を説くのを決して聞きに来ようとしなかったが、その牧師が鉄の性質をよく知っているのがわかったとき初めて教会に来ようという気持ちを起こした。そして、実際にやって来たのである。

 (d) 聖パウロが、「出て行き、分離せよ」、と云ったとき意図していたのは、キリスト者が風変わりで奇矯で奇抜な服装や態度やしぐさや声色を身につけることではない。こういった事がらで人目を引くのは、鼻持ちならないふるまいであって、いかなる注意を払っても避けなくてはならない。人中に出たとき、あらゆる人の目を釘付けにし、まじまじと見つめられることになるような色や様式の衣装を着るのは、とんでもない間違いである。それは、よこしまな人々に対してキリスト教信仰を嘲る機会を与え、自分を義とする気取ったようすに見える。私たちの主やその使徒たち、またプリスキラやペルシス、またその仲間たちが、自分と同じ身分にある他の人々と、少しでも違ったような衣装を着たり、少しでも違ったようなふるまいをしていたという証拠など、これっぽっちもない。逆に、私たちの主がパリサイ人らに対して投げかけた多くの非難のうちの1つは、彼らが「人に見せるため」に、「経札の幅を広くしたり、衣のふさを長くしたりする」ことであった(マタ23:5)。真の高潔さと神聖さは、そうしたこととは全く別のものである。自分が俗的でないことを示そうとして、度を超して見苦しい衣装を着たり、哀れっぽい信心家ぶった声で話したり、不自然なまでに卑屈な、へりくだった、しかつめらしい態度をとったりするのは、全くの見当違いであって、主の敵たちにいい冒涜の機会を提供するだけである。

 (e) 聖パウロが、「出て行き、分離せよ」、と云ったとき意図していたのは、キリスト者が人間社会から身を退き、孤独な場所に閉じこもらなくてはならない、ということではない。ローマカトリック教会の犯したとんでもない誤りの1つは、そうしたことを実行することによってこそ、卓越した聖潔に到達できると考えたことである。これこそ、無数の修道士や修道女や隠者たちの不幸な迷妄である。この種の分離はキリストのみこころに沿ったものではない。主はその最後の祈りの中で明確に云っておられる。「彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします」(ヨハ17:15)。使徒の働きにも新約書簡にも、こうした分離を勧めるような言葉は一言も書かれていない。真の信仰者は常に、この世に入り交じり、その中で自分の義務を果たす者、また個々の立場にあって、臆病風に吹かれて逃げ出すことによってではなく、忍耐と柔和ときよさと勇気を発揮することによって神の栄光を現わす者として描かれている。さらに、独房や辺地にこもれば、自分の心からこの世と悪魔を追い出せるなどと考えること自体ばかげている。真のキリスト教信仰と世俗に染まっていない心とを最もよく示すには、神が私たちに割り当ててくださった持ち場をこそこそと捨て去るのではなく、男らしく自分の立場を固守し、悪に打ち勝つ恵みの力を見せつけることである。

 (f) 最後に、だがこれも重要なこととして、聖パウロが、「出て行き、分離せよ」、と云ったとき意図していたのは、キリスト者が未回心の会員を含むあらゆる教会から出ていかなくてはならないとか、信仰者以外の者が同席しているような場で礼拝することは拒まなくてはならないとか、ひとりでも不敬虔な者がパンを受け取りに出て来るような聖餐式からは身を遠ざけなくてはならない、ということではない。これは非常によく見られる、しかし非常に嘆かわしい間違いである。こうしたふるまいは、新約聖書のいかなる聖句によっても正当化されておらず、純然たる人間のこしらえ事であると非難されなくてはならない。私たちの主イエス・キリストご自身、三年の間、故意にイスカリオテのユダを使徒としてとどめておき、主の晩餐にすらあずからせたのである。主が私たちに麦と毒麦のたとえで教えてくださったように、回心者と未回心者は、「収穫まで、両方とも育つままに」なるものであり、分けることができない(マタ13:30)。主が7つの教会に書き送らせた手紙においても、聖パウロのいかなる書簡においても、私たちはしばしば、過誤や腐敗が言及され、叱責されていることに気づく。しかし決してそれらは、そうした集会からの離脱や、陪餐の拒否を正当化するものとはされていない。つまり、小羊の婚宴の時が来るまで、完璧な教会や、完璧な会衆や、完璧な陪餐者たちによる集会などは望むべくもないのである。もし他の人々がふさわしくない教会員であったり、ふさわしくない陪餐者であるとしたら、その罪は彼らのものであって、私たちのものではない。私たちは彼らの裁判官ではない。しかし、他の人々がふさわしくないまま用いているからといって、教会の集会から身を退き、陪餐を自ら放棄するのは、愚かしく、筋の通らない、非聖書的な立場に身を置くことである。それはキリストのみこころではなく、確かに世からの分離についての聖パウロの考えでもない。

 私は、この世からの分離という主題を理解したいと願うあらゆる人に、こうした6つの点を冷静に考察してみるように勧めたい。こうした個々の点については、あるいは、それら全体については、その気になれば、この論考の中で私に許されている紙数をはるかに越えて多くのことが云えるであろう。こうした個々の点について、あるいは、それら全体について、私はあまりにも多くの過ちを目にしてきたし、あまりにも多くの悲惨さと不幸がそうした過ちによって生み出されるのを見てきた。それで私は、キリスト者に警告したいのである。私が彼らに願うのは、後になって放棄せざるをえなくなるだろうような立場を、彼らの初めの愛の熱心さから、早とちりして取らないことである。

 私の主題のこの部分を閉じるにあたり、特に若い世代のキリスト者に向けて私は、2つの忠告をしておきたい。

 1つのこととして私が忠告したいのは、もしあなたが本当にこの世から出て行きたいと願うのなら、一番の近道が必ずしも義務の道ではないことを覚えておくがいい、ということである。未回心の親類とけんか別れすること、古なじみの友人たちを「切り捨てる」こと、未信者が入り混じった集会から完全に身を退くこと、排他的な生き方をすること、キリストへの直接的な奉仕に身を捧げるために、礼儀や礼節にかなうあらゆる行為をやめること、----これらはみな一見、非常に正しく見え、私たちの良心を満足させ、私たちを厄介事に巻き込まれないようにしてくれるかもしれない。しかし私はあえて疑いを差し挟みたい。往々にしてこれは、利己的で、怠惰で、自分を喜ばせるふるまい方ではないだろうか。真の十字架、真の義務のとるべき道は、自分を否定し、それとは非常に異なった行動をとることではないだろうか、と。

 別のこととして私が忠告したいのは、もしあなたがこの世から出て行きたいと思うなら、気むずかしく、仏頂面をした、無愛想で、陰気で、癇に触る、がさつな態度をとらないように用心し、絶えず、「無言のふるまいによって、神のものとされる」人があることを思い起こしていなくてはならない、ということである(Iペテ3:1)。未回心の人々に努めて示してやるがいい。自分たちの原則は、人が何と考えようと、自分たちを朗らかで、人好きのする、気立てのいい、利他的な、思いやりのある者とし、無害で評判の良いことなら何にでも関心を持てる者にしてくれるのだ、と。一言で云えば、私たちとこの世との間に、不必要な分離がないようにせよ、ということである。まもなく示すように、私たちは多くの事がらにおいて分離しなくてはならない。しかし、それが正しい種類の分離であるように注意しようではないか。そうした分離に世が怒りを発するとしたら、しかたのないことである。しかし、私たちは決してこの世に、私たちの分離が愚かしく、無分別で、ばかげた、筋の通らない、けちくさい、非聖書的なものだなどと云わせるような機会を与えないようにしようではないか。

 III. 第三のこととして、私が示そうと思うのは、この世からの真の分離とは本当はいかなることか、ということである。

 私の主題のこの部分を取り上げるにあたり、そこに伴う困難さを私は痛感している。真のキリスト者ならだれしも、「世と、世にあるもの」に関して、その行動上、越えてはならない一線があることは十分承知しているであろう。すでに引用した数々の聖句により、それははっきりしている。この問題を解く鍵は、「分離」という言葉にある。しかし、それがいかなる分離であるか示すことは容易ではない。いくつかの点で、具体的な規則を定めることは困難ではないが、それ以外の点では、一般的な原則をいくつか述べて、後は、個々人が置かれている立場に沿ってそれを適用するようゆだねることしかできない。これこそ今から私が行なおうとしていることである。

 (a) 第一に、最も重要なこととして、「この世から出て行き、分離する」ことを願う人は、この世の基準によって善悪を判断することを、きっぱりと不断に拒否しなくてはならない

 人間社会の大半の人は、流れに身をまかせ、他人がするように行ない、流行に従い、世間一般の意見にならい、自分の懐中時計を町の大時計で合わせるのを常としている。だが、真のキリスト者は決してそのような習慣で満足しないであろう。彼は単純にこう尋ねるであろう。聖書は何と云っているだろうか。神のみことばには何と書かれているだろうか、と。彼はかたくなに主張するであろう。いかなるものも、神が悪と云っておられる限り善ではありえない。隣人たちがいかなる習慣や意見を持っていようと、神が重大であるとみなしておられるものをつまらぬこととすることはできず、神が罪と考えておられるものを罪でなくすることはできない、と。彼は決して、飲酒や、悪態や、賭博や、嘘や、ごまかしや、いんちきや、第七戒への違背といった罪を、世間でよくあることだからといって、あるいは多くの人々が「大したことないじゃないか」と云っているからといって、軽くみなしたりはしない。このみじめな論理----「みんなそう考えているではないか、みんなそう云っているではないか、みんなそうしているではないか、みんなそこに行っているではいないか」----は、彼には通用しない。それは聖書で非難されていることか? 是認されていることか? これこそ彼の唯一の問いである。たとえ自分の村や町や教会の中で孤立するとしても、彼は聖書に逆らおうとはしないであろう。聖書に背くくらいなら、大多数の人々とは違った道に進み、たったひとりの立場を取ることになるとしても、決してひるみはしないであろう。これこそ、正真正銘の聖書的分離である。

 (b) 「この世から出て行き、分離する」ことを願う人は、自分の余暇をいかに費やすかに細心の注意を払わなくてはならない

 これは、一見、大して重要でない点に思える。しかし私は、年齢を重ねれば重ねるほど、このことがこの上もなく真剣な考慮に値するという確信を深めている。立派な職業や正当な仕事は、魂にとって大きな防壁であって、それらのために費やされている時間は、私たちにとって比較的最も危険の少ない時間である。多忙な人間をそそのかすのは悪魔にとっても困難である。しかし一日の務めが終わったとき、そして余暇の時間が訪れたとき、そのときこそ誘惑の時がやって来るのである。

 私はためらうことなく、あらゆる人に警告したい。キリスト者生活を送りたいと思うのなら、夕方から夜にかけての時間をいかに費やすかに細心の注意を払うがいい、と。夕刻は私たちが一日の労働の後で自然と羽を伸ばしたくなる時間である。また夕刻はキリスト者があまりにもしばしば、自分の武具を解くように誘惑され、結果的に自分の魂に困難を招くことになる時間である。「あとから悪魔が来て」[ルカ8:12]、悪魔とともにこの世もやって来る。夕刻は、あわれな男たちが酒場に行くよう誘惑を受け、罪に陥る時間である。夕刻は、職人たちがあまりにもしばしば飲み屋の座敷に上がり込み、何時間も座り込んでは、自分にとって何のためにもならないことを見聞きする時間である。夕刻は、上流階級の人々が舞踏や、骨牌遊びその他を始め、結果的に夜更けまで決して就寝できないことになる時間である。自分の魂を愛しているというなら、また世俗的になりたくないというなら、私たちは自分が夕刻をどう費やすかに留意しようではないか。ある人が夕刻をどう過ごすかさえわかれば、その人の人格はおおよそ明らかになるものである。

 真のキリスト者は、夕方から夜にかけての時間を決して浪費しないことを鉄則とするのがよいであろう。他の人々が何をしていようと、真のキリスト者は常に、静かで、平静な考えを巡らす時間----聖書と祈りのための時間----を設ける決心をするがいい。この規則を守ることは容易でないであろう。そのことによって彼は、つきあいが悪いとか、几帳面すぎるといった非難を浴びることになるかもしれない。だが、そうしたことを気にしてはならない。そうした類のことの方が、常習的な夜更けまでの寄り集まりや、気ぜわしい祈りや、ぞんざいな聖書の読み方や、重苦しい良心などよりもましである。たとえ村や町で孤立するとしても、この規則を破らないようにするがいい。その人は自分が少数派であり、風変わりな奴だとみなされることに気づくであろう。しかしこれこそ、正真正銘の聖書的分離である。

 (c) 「この世から出て行き、分離する」ことを願う人は、この世の務めに呑み込まれたり、埋没したりしないように、きっぱりと不断に決意しなくてはならない

 真のキリスト者は、いかなる持ち場や立場にあろうと、自分の義務を果たすこと、しかも最善に果たすことをこころがけるであろう。政治家であれ、証人であれ、銀行家であれ、法律家であれ、医者であれ、職人であれ、農夫であれ、真のキリスト者は自分の仕事を、だれからも後ろ指をさされないように立派にこなそうとするであろう。しかし彼は、自分の仕事が、自分とキリストとの間に割り込むことを許さないであろう。もし仕事が自分の日曜や聖書を読むことや、密室の祈りに食い込み始め、自分と天国の間をぼやけさせ始めたことに気づくなら、彼は云うであろう。「引っ込んでいろ! 限度というものがあるのだ。ここまでは来てもよい。しかし、これ以上はいけない。私は魂を売ってまで、地位や名誉や金がほしくはない」、と。ダニエルのように彼は、いかなる代価を払うことになっても、神と交わる時間を確保するであろう。ハヴロック将軍のように彼は、聖書を読んだり祈ったりできないくらいなら、いかなる欲求も後回しにするであろう。これらすべてにおいて彼は、自分がほとんど孤立していることに気づくであろう。多くの人々は彼を笑い、自分たちはそれほど几帳面で四角四面にならなくとも十分やっていけるぞと告げるであろう。しかし彼は気にかけないであろう。いかなる損失をこうむろうと、またいかなる犠牲を払うことになりかねなくとも、断固として、この世と一定の距離を保ち続けるであろう。彼は、それほどこの世で金持ちにならず裕福にならなくとも、自分の魂を貧しくするよりはましだとみなすであろう。このように孤立し、他の人々の生き方に真っ向から逆らうには、途方もなく大きな自己否定が必要とされる。しかしこれこそ、正真正銘の聖書的分離である。

 (d) 「この世から出て行き、分離する」ことを願う人は、絶えず罪と分かちがたく結びついた、いかなる娯楽や気晴しをも慎まなくてはならない

 これは扱うのが困難な主題であり、私は痛みとともに語るものである。しかし私は、キリストに忠実であろうとする限り、また教役者としての職務に忠実であろうとする限り、この世からの分離という問題を考察する上で、この件について率直に語ることを避けて通るわけにはいかないと思う。

 それでは正直に云わせていただきたい。私は、真に生きたキリスト教信仰を有していると云いながら、平然と競馬場や劇場に通うことのできる人をどうしても理解できない。疑いもなく良心とは他人にはうかがい知れないものであって、各人が自分で判断し、自分の自由を用いなくてはならない。ある人が悪として忌み嫌う物事に、別の人は何の害も認めないこともある。私にできることはただ、ふさわしいと思われることについて自分の意見を述べ、読者の方々に私の言葉を真剣に考慮してほしいと懇願するしかない。

 馬たちが全速力で疾駆するのを眺めること自体に何ら害がないことは、分別のあるいかなる人も否定しようとは思わないであろう。多くの演劇、たとえばシェイクスピアの戯曲などが、人間の知性によって生み出された最も見事な作品の中に入ることもまた、同じくらい否定しがたいことである。しかし、こうしたことはみな、問題の本筋ではない。問題は、果たして現在の英国において運営されている競馬や劇場が、あからさまに邪悪なものと分かちがたく結びついているのかいないのか、ということである。私はためらうことなく主張したい。これらは悪と結びついている、と。競馬や演劇には、神の数々の戒めに違背する行為が付き物であって、罪を助長することなしにこうした娯楽に手を染めることはできない、と。

 私は、信仰を告白するすべてのキリスト者に願いたい。ぜひ、こうしたことを忘れず、自分が何をしているか、よく考えてほしい、と。はっきり警告しておく。キリスト者には、ものをよく知った人ならだれでも知っているはずの事実に目をつぶって、それは単に馬たちの姿や競走を見て楽しんでいるにすぎないだの、それは単に芸達者な俳優や女優の声に耳を傾けて楽しんでいるにすぎないだのと云う権利などない。そうした人々に警告するが、この世からの分離について語りたければ、賭博や博打や泥酔や淫奔と常に結びついているような娯楽を是認していてはならない、と。こうしたものを「神は……さばかれるからです」。----「それらのものの行き着く所は死です」(ヘブ13:4; ロマ6:21)。

 これらは確かに厳しい言葉である! しかし、それが真実ではなかろうか? もしあなたが、もう自分は競馬場や劇場には行かない、と告げたなら、あなたの親類や友人たちはそれを、異様に堅苦しく、厳格で、狭い考えだと思うかもしれない。しかし私たちは第一の原則に立ち返らなくてはならない。この世は魂にとって危険なのか、危険でないのか。私たちはこの世から出て行くべきなのか、出て行かなくともよいのか。こうした問いには、ただ1つの答えしかありえない。

 もし自分の魂を愛するというなら、私たちは罪と結びついた娯楽と決して関わってはならない。これ以下の何物をもってしても、聖書的な意味での正真正銘のこの世からの分離とは呼べない*1

 (e) 「この世から出て行き、分離する」ことを願う人は、正当で無害な気晴しをも、控えめに用いなくてはならない

 分別のあるキリスト者ならだれしも、あらゆる気晴らしを非難しようなどとは決して考えないであろう。私たちの生きている、身も心もすり減らすような世界にあって、時たま羽根を伸ばしてくつろぐことは、だれにとっても良いことである。からだにも精神にも、張りつめっぱなしにするのではなく、息抜きをする機会が必要である。特に若いときにはそうである。運動そのものは、精神衛生と肉体的健康を保つために、積極的に必要とされる。クリケットや、競漕や、競走その他の、男性的な運動競技による気晴らしに、私は何の害があるとも思わない。将棋などの知的遊戯に興ずることにも、何ら悪い点があるとも思わない。私たちはみな、恐ろしいほど精妙に造られている。詩人がこう歌っているのも不思議ではない。

   「奇しきかな、千弦(ちすじ)の琴の
    かくも永くに、調子(ふし)乱さずは!」

神経と脳と消化と肺と筋肉とを強め、私たちをより良くキリストに奉仕できるように整えてくれるものは、それ自体罪深いものでない限り、祝福であり、感謝して用いるべきである。時として健全なしかたで私たちの考えを、通常のきしるような経路からそらしてくれるものは、良いものであって、悪ではない。

 しかし、こうした無害な事がらの行き過ぎにこそ、この世から分離したいと願う真のキリスト者は警戒しなくてはならない。キリストに仕えたいと願うなら、その人は、多くの人々がしているように、そうしたものに全心全霊で打ち込み、知力と体力と時間のすべてをつぎ込むようなことをしてはならない。適度に用いれば何の問題もない正当なものでありながら、過度に用いられると悪くなるものは山ほどある。少量であれば健康によい薬も----大量に飲み下せば猛毒となる。気晴らしという問題ほど、それを地で行くことはない。それらを用いることと、それらを濫用することとは全くの別物である。それらを用いるキリスト者は、いつやめればいいか、またいかにして、「とどまれ、そこまで!」、と云うべきかを知らなくてはならない。----それらは、自分の個人的な信仰生活を邪魔立てするだろうか? 自分の思いと注意のあまりにも多くを占めすぎているだろうか? 自分の魂を俗化させる効果があるだろうか? 自分を地上に引きずり下ろす傾向があるだろうか? だとすれば、手綱を引き締め、注意しなくてはならない。そうするには、勇気と自己否定と固い決意のありったけが必要である。そのような生き方をするとき私たちはしばしば、節度の何たるかを知らない人々、人生の些事を重要事とし、人生の重要事を些事としている人々から、あざ笑われ、軽蔑されるものである。しかしもし私たちが本気でこの世から出て行こうというのなら、こうしたことを気にかけてはならない。他の人々がどう考えようが私たちは、正当な物事においてすら「慎み深く」していなくてはならない。これこそ、正真正銘の聖書的分離である。

 (f) 最後に、しかしこれも重要なこととして、「この世から出て行き、分離する」ことを願う者は、世的な人々とどこまで深い友情や親交や親密な関係を結ぶか注意深くしていなくてはならない

 生きている限り私たちは、多くの未回心の人々と行き会わずにはいられない。彼らと交際したり、仕事をともにしたりしないでいることはできない。さもなければ、「この世界から出て行かなければならない」であろう(Iコリ5:10)。彼らに接する場合は常に、できる限り礼儀正しく、親切に、愛をもって行動することが明確な義務である。しかし知り合うことと、親密な友情とは全くの別物である。彼らがいる場所にしかるべき理由もなしに行くこと、彼らとのつきあいを選ぶこと、彼らとの親交を深めていくことは、魂にとって非常に危険である。人間というものの性質上、私たちは、他の人々と一緒にいればいるほど、自分の性格に影響を受けざるをえない。かの古いことわざは常に変わらず真実である。「ある人が、だれとともに生きようとするか教えてくれたまえ。そうすれば私は、その人がいかなる人物か当ててみせよう」。聖書ははっきりと語っている。「知恵のある者とともに歩む者は知恵を得る。愚かな者の友となる者は害を受ける」(箴13:20)。では、首尾一貫した生き方を志しているキリスト者が、魂のことも、聖書のことも、神やキリストや聖潔のことも気にかけていない、あるいは、それらを二義的にしか重要でないとみなすような人々を友として選ぶとしたら、私が思うに、その人がキリスト教信仰において豊かに成長することなど不可能であろう。たちまちその人は、彼らの生き方が自分の生き方とは違っていること、彼らの考え方が自分の好みとは違っていること、彼らの好みが自分の好みとは違っていることに気づくであろう。そして、彼らが変わらない限り、その人は、彼らとの親交を捨てなくてはならないことに気づくであろう。つまり、そこには分離がなくてはならないのである。もちろん、そうした分離は痛みを伴う。しかしもし私たちがひとりの友人の喪失と、自分の魂が受ける害悪とのどちらかを選ばなくてはならないとしたら、心にいかなる疑いもいだいてはならない。友人たちが私たちとともに狭い道を歩こうとしないとしても私たちは、彼らを喜ばせるために広い道を歩いてはならない。これだけははっきり理解しておこう。回心者と未回心者とが、どちらも相手の性格と折り合いをつけようとしないまま、親密な関係を保とうとするなどということは不可能なのである。

 これから自分の夫や妻を選択しようとしている、すべての独身キリスト者は、いま規定された原則を注意深く覚えておかなくてはならない。残念ながらこれは、あまりにもしばしば、きれいに忘れ去られているのではなかろうか。あまりにも多くの者たちが、人生の伴侶を選ぶにあたって、信仰のことだけは全く問題にしないか、それはどうにか後々自然に生じてくるだろうと考えているかのように思える。しかし、祈り深く、聖書を勤勉に読み、神を恐れ、キリストを愛し、日曜礼拝を忠実に守るキリスト者が、真面目な信仰生活に何の関心も持たない人物と結婚した場合、結果的に生ずるのは、そのキリスト者にとっての損害か、途方もない不幸以外の何であろう? 健康に伝染性はないが、病気には伝染性がある。そうした場合、普通は善が悪の段階まで落ちるのが常であって、悪が善の段階まで上ることはない。この主題は微妙なものであり、私もあれこれ詳細に語ろうとは思わない。しかしこのことだけは確信をもって、あらゆる独身のキリスト者男女に云っておく。----もし自分の魂を愛しているというなら、もし堕落して信仰を後退させたくないというなら、もし人生における自分自身の平安と慰めをだいなしにしたくないというなら、いかなる代価を伴うことになっても、決して芯からのキリスト者以外の人物と結婚しないように決意するがいい。未信者と結婚するくらいなら死んだ方がましである。この決意を堅く保ち、いかなる者にも決してその決意を崩させてはならない。この決意から離れるならば、あなたが「出て行き、分離する」ことなどほとんど不可能であることに気づくであろう。あなたは天国への競走を走るのに、首に石臼をくくりつけてしまったことに気づくであろう。そして、たとえ最後に救われるとしても、それは「火の中をくぐるようにして」であろう(Iコリ3:15)。

 私はこの6つの心得を、聖パウロの忠言に従って、この世から出て行き分離したいと願う、あらゆる人に差し出すものである。これらを与えるにあたり、私は自分が無謬であるなどとは決して主張しない。だが私の信ずるところ、これらは熟慮と注意に値するものである。この主題に多くの困難がまとわりついていること、キリスト者の生きる道には判断に迷う無数の場合が絶えず生じつつあることを私は忘れていない。そうした場合に、何が義務の道であり、いかにふるまうべきかを明言するのは至難のわざである。ことによると、次に述べるようないくつかの忠告が役に立つかもしれない。----判断に迷う場合には常に、まず最初に、知恵と健全な判断力を求めて祈るべきである。もし祈りに何か価値があるとしたら、私たちが正しくありたいと願いつつも、自分の道がわからないというときほど、祈りのありがたみを感ずる場合はないに違いない。----判断に迷う場合には常に、しばしば神の目を思い起こすことによって自分を吟味してみようではないか。もし本当に神が自分を見ておられると考えているのなら、私はこれこれの場所に行くべきだろうか? これこれのことをすべきだろうか?----判断に迷う場合には常に、決してキリストの再臨と最後の審判の日を忘れないようにしよう。私は、これこれの人々の中にいるのを、あるいは、これこれのことを行なっているのを見つけられてもかまわないだろうか?----最後に、判断に迷う場合には常に、傑出した最良のキリスト者たちが似たような状況にあったとき、どうふるまったか調べてみよう。もし自分で自分の道がはっきり見えないとしたら、良き模範となる人々に従っていくことを恥じる必要はない。私がこうした示唆を与えるのは、この世からの分離という問題で、議論の余地ある点について困難に陥っているすべての人々を少しでも助けたいと思うからである。これらの言葉が、多くの固い結び目を解きほぐし、多くの問題を解決するのに役立つことを心から願うものである。

 IV. さて私は、この主題全体のしめくくりにあたり、この世に真に打ち勝つ秘訣を示すことにしよう。

 もちろんこの世の道筋から出て行くことは、たやすいことではない。人間性が現在のようなものであり続ける限り、また悪魔が常に忙しく私たちの近くをうろついている限り、それがたやすくなることはありえない。それには絶えざる格闘と、努力が必要とされる。それには、たゆみない争闘と自己否定がつきものである。それによってしばしば私たちは、自分の家族や、親類や、隣人たちと、真っ向から反対の立場をとらざるをえなくなる。時として私たちは、他者の非常な怒りを招くようなことを行なわざるをえなくなり、嘲りとこまごまとした迫害を浴びせかけられることになる。まさにこれこそ、断固たるキリスト教信仰を選び取ることから多くの人々を尻込みさせ、ひるませるものにほかならない。彼らは自分が正しくないことを知っている。自分がキリストに仕えることにおいて、当然そうあるべきほどには「徹底」していないことを知っており、落ち着かず、居心地の悪さを感じている。しかし人を恐れる彼らには近寄ることができない。それで彼らは、痛みと満たされない心をいだきながら、一生ぐずぐずしているのである。----この世で幸福になるには信仰のことを知りすぎており、その信仰によって幸福になるにはあまりにもこの世の者でありすぎるのである。残念ながらこれは、すべての真実が知られるとしたら、あまりにもよくある事例なのではなかろうか。

 しかし、いかなる時代にあっても、ある人々は実際この世に打ち勝つように見受けられる。彼らは世の道行きから断固として出て行き、取り違えようもないほどはっきりと分離する。彼らはこの世の意見に左右されず、この世の反対に動かされない。彼らは、自分の軌道から少しもそれない惑星のようであり、この世の微笑みからも渋面からも、同じくらい超越しているように見える。だが彼らの勝利の秘訣は何だろうか? 私はそれをここに書き記してみよう。

 (a) この世に打ち勝つ最初の秘訣は、正しい心である。私が意味しているのは、聖霊によって更新され、変えられ、聖なるものとされた心のことである。----キリストが住んでおられる心、古いものが過ぎ去りすべてが新しくなった心のことである。そうした心の大きな目印は、その趣味と愛情との偏りである。そうした心の持ち主は、もはやこの世を好まず、この世にあるものを好まない。それゆえ、それらを捨て去ることを何の試練とも犠牲とも感じない。その人はもはや、かつて自分が愛していた人々の集団や、会話や、娯楽や、暇つぶしや、書物に、何の欲求もいだいていない。それで、これらから「出て行く」ことは、その人にとって自然なことと思われるのである。新しい原理が物事を押しのける力は実に大きい! まさに、春に芽生えた新芽によってブナの生け垣から古い葉っぱが押し出され、はらはらと地面に散っていくように、信仰者の新しい心は例外なく彼の趣味や好みに影響を与えて、かつては愛して生きがいとしていた多くのものをやめさせる。今となっては、もはやそれらを愛していないからである。「この世から出て行き、分離する」ことを願う人は、まず何よりも重要なことして、自分が新しい心を得ているかどうか確認してみることである。もし心が本当に正しくなっているなら、あらゆることがそのうちに正しくなるであろう。「もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るい」(マタ6:22)。もし心の情愛が正しくなければ、決して正しい行動は生じないであろう。

 (b) この世に打ち勝つ第二の秘訣は、見えない事がらに対する生き生きとした実際的な信仰である。聖書は何と云っているだろうか? 「私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です」(Iヨハ5:4)。見えない物事を見えるかのようにじっと眺める習慣を身につけ、それを保ち続けること、----日々、私たちの思いの前に偉大なる現実として自分の魂、神、キリスト、天国、地獄、審き、永遠を置いておくこと、----見えないものが、見えるものに負けないくらい現実的なものであり、その一万倍も重要なものなのだという永続的な確信をはぐくむこと、----これが、これこそが、この世に打ち勝つ唯一の方法である。この信仰こそ、ヘブル11章が叙述している、あの高貴な聖徒たちの大群に、聖霊からのあれほど栄光ある証言を得させたものであった。彼らはみな、肉眼では見えなくとも、自分には真の神があり、真の救い主があり、真の天の故郷があるのだという堅い確信のもとに行動した。この信仰で身をよろった人は、この世のことを、来たるべき世にくらべれば影のようにみなし、その賞賛や非難、その敵意や報償などほとんど気にかけることがない。この世から出て行き分離したいと願いながらも、見える物事を恐れてひるみ、尻込みしている者は、この信仰を祈り求め、手に入れるよう努力することである。「信じる者には、どんなことでもできるのです」(マコ9:23)。モーセのようにその人は、見えない方を見るようにして、エジプトを捨てることが可能になっていることに気づくであろう。モーセのようにその人は、自分が何を失い、だれの不興を買うかなどということを気にかけなくなるであろう。なぜならその人は、望遠鏡をのぞく人のように、はるか彼方に、報いとして与えられる実質的なものを望み見るからである(ヘブ11:26)。

 (c) この世に打ち勝つ第三の、そして最後の秘訣は、しかるべき機会があれば常にキリストを大胆に告白する習慣を身につけ、発達させることである。このように云うからといって、誤解しないでいただきたい。私はだれにも決して、自分の前でラッパを吹いたり、年がら年中自分の信仰を無理矢理に他人に聞かせてほしいと云っているのではない。しかし、この世から出ていこうとして努力しているすべての人々に私が強く勧めたいのは、自分の旗幟を鮮明にし、キリストに仕えることを恥じていない者のように行動し、語る、ということである。キリスト者として自分の原則を堅実に、穏やかに主張すること、----この世の子らに、自分は彼らとは違う規範によって導かれており、その規範から外れるつもりはないと、いつでも喜んで示そうとしていること、----だれと一緒にいようと、物事に対する自分の基準を平静に、堅固に、礼儀正しいしかたで守り抜くこと、----こうしたことすべてによって、私たちのうち側には、知らず知らずのうちに1つの習慣が形作られて行き、分離した者となることを比較的容易にしてくれるはずである。疑いもなくそれは、最初は困難であり、多くの葛藤をしいられるであろう。しかし、そのようにしていけばいくほど、それは容易になっていくであろう。キリストを告白する行為を繰り返していくことは、そうした習慣を生み出すであろう。いったん形作られた習慣は、固定した人格を生み出すであろう。いったん私たちの人格が知れわたれば、私たちは多くの困難を免れるであろう。人は、私たちの示すであろう反応を予測し、私たちが分離した独特の人種として生きるのを見ても何も不思議に思わなくなるであろう。イラクサは、こわごわとした手でそっと触るよりも、一気にむしり取る方が棘で刺されずにすむものである。良心が悪であると告げるものをするよう求められたときに、「いやです」、ときっぱり、しかし礼儀正しく云えるということは大きなことである。最初から自分の旗幟を鮮明にしておき、「自分がだれのもので、だれに仕えているか」を人々に示すのを決して恥としない者は、すぐに自分が世に打ち勝っていることに気づくであろう。そして干渉されなくなるであろう。大胆な告白は勝利へ向かう大きな一歩である。

 さて私が最後にしなくてはならないのは、この主題全体をいくつかの短い適用の言葉でしめくくることである。これまでのところ私は、魂を滅ぼしつつあるこの世の危険と、この世からの真の分離の性質と、この世に打ち勝つ秘訣とをことごとく、この論考を読む方々の前に示してきた。そこで私が最後に願うのは、今から私があなたの個人的な益のため云おうとしている率直な言葉に注意を払ってほしい、ということである。

 (1) 私の最初の言葉は1つの問いかけである。あなたはこの世に打ち勝っているだろうか? それとも、この世があなたを打ち負かしているだろうか? あなたは、この世から出て行き、分離するのがどういうことか知っているだろうか? それとも、あなたはまだこの世にからみつかれ、この世にならって歩んでいるだろうか? もし救われたいという願いが少しでもあるなら、ぜひこの問いに答えていただきたい。

 もしあなたが「分離」について何も知らないのであれば、私は心からあなたに警告したい。あなたの魂は非常に大きな危険のうちにある。この世は過ぎ去り行くものである。そしてこの世にしがみつき、この世のことしか考えていない者も、この世とともに永遠の滅びへと過ぎ去っていくであろう。手遅れにならないうちに目を覚まし、自分の危険を覚るがいい。目を覚まして、来たるべき御怒りから逃れるようにするがいい。時は縮まっている。万物の終わりが近づいている。影は長く伸びはじめている。日は沈みつつある。だれも働くことのできない夜が来つつある。大きな白い御座がまもなく据えられるであろう。審きが始まるであろう。数々の書物が開かれるであろう。目を覚まして、「きょう」と云われている間に、この世から出て行くがいい。

 もうしばらくすれば、この世の慰みやこの世の娯楽などなくなる。----金儲けや金遣いなどなくなる。----飲み食いも、宴会も、衣装合わせも、舞踏会も、劇場も、競馬場も、骨牌も、賭博もなくなる。こうしたものがみな永遠に過ぎ去ったとき、あなたはどうしようというのか? 聖潔がすべてのすべてとなり、この世的なものが一切ない永遠の天国で、どうしてあなたが幸福になることなどありえよう? おゝ、こうしたことを考えて、知恵を得よ! 目を覚まして、この世があなたに巻き付けている鎖を砕くがいい。目を覚まし、来たるべき御怒りから逃れるがいい。

 (2) 私の第二の言葉は1つの忠言である。もしあなたがこの世から出て行きたいと願いつつも、どうすればいいかわからないというのなら、この日私があなたに与える忠告を受けとってほしい。まず最初に、悔い改めた罪人として、私たちの主イエス・キリストに直接訴え出て、自分の実状を主の御手にゆだねることである。あなたの心を主の前に洗いざらい打ち明けるがいい。あなたの人生をことごとく主に告げて、何も隠し立てしないことである。自分が罪人であること、この世と肉と悪魔から救い出されたいと望んでいることを主に告げて、主に救ってくださいと懇願するがいい。

 そのほむべき救い主は、「今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、……ご自身をお捨てになりました」(ガラ1:2)。彼はこの世がいかなるものか知っておられる。ご自身、この世で33年間過ごされたからである。彼は人間にいかなる困難がつきまとうか知っておられる。私たちのために人間となり、人間たちの間に住まわれたからである。いと高き天に上げられ、神の右の御座に着いておられる彼は、ご自分によって神に近づくすべての人々を、完全に救うことがおできになる。----私たちがこの世で生きている間から、私たちをその悪から守ることがおできになる。----私たちに神の子どもとされる特権を与えることがおできになる。----私たちが堕落しないように守ることがおできになる。----私たちを圧倒的な勝利者とすることがおできになる。もう一度云う。信仰の祈りによって直接キリストのもとへ行き、自分自身を全く、何の留保なしに、その御手にゆだねるがいい。この世から出て行き分離することは、今のあなたには困難と思われるかもしれないが、イエスがともにいれば不可能なことは何1つないことに気づくはずである。あなたは----あなたでさえ----世に打ち勝つ者となるのである。

 (3) 私の第三の、そして最後の言葉は励ましとなるであろう。もしあなたが、この世から出て行くとはどういうことか身をもって知っているというなら、私にはこう云うほかはない。心に慰めを受け、最後までやり抜くがいい、と。あなたは正しい道を歩んでいる。恐れることは何もない。永遠の丘がすでに見えている。あなたが信じたころよりも、今は救いがあなたにもっと近づいている。心慰められ、そのまま続けていくがいい。

 疑いもなくあなたは、これまでも多くの戦いに直面し、足を踏み外すことも多かったに違いない。時としてあなたは気がくじけそうになり、エジプトへ帰りたいような気分になりかかったこともあった。しかしあなたの主人は、決して完全にはあなたを見捨てたことがなかったし、これからも決して、あなたが耐えきれないような試練に遭わせることはないであろう。それでは、この世からの分離を堅く守り抜き、孤立することを決して恥じないようにするがいい。心にしっかりと銘記しておくことである。最も断固としたキリスト者こそ常に、最も幸福な人間なのだということを。また、忘れないようにすることである。生涯の終わりを迎えた聖徒のうち誰ひとりとして、自分があれほど聖く、あれほど神に近い生き方をしてきたのは無駄なことだった、などと語った者はいないことを。

 最後の最後に、聖書が記している真実を聞くがいい。

 「だれでも、わたしを人の前で認める者は、人の子もまた、その人を神の御使いたちの前で認めます」(ルカ12:8)。

 「わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます」(マコ10:29、30)。

 「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。『もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない』」(ヘブ10:35-37)。

 これらの言葉が書かれ、語られたのは、私たちのためである。これらを堅く握りしめ、決して忘れないようにしよう。最後までやり抜き、決してこの世から出て行き、分離するのを恥じないようにしよう。それは確実な報酬をもたらすのである。

この世[了]

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*1 以下の「注記」を参照されたい。[本文に戻る]


注 記

思慮深く聡明な読者の方々は、世俗的な娯楽という項目のもとで、私が舞踏会に行くことや骨牌遊びについて何も云わなかったことに、おそらく気づいているであろう。これらは微妙で困難な主題であり、こうしたものと関わりのない社会身分の人々も多い。しかし私は、自分の意見をはっきりさせることにやぶさかではないし、若かりし日の自分にも何がしかの経験があればこそ、そうした点について語っておきたいと思う。

 (a) 舞踏会に行くことについて、私がキリスト者の方々に願いたいのはただ1つ、この娯楽がいかなる傾向を持ち、いかなることを伴うかによって、これを判断してほしい、ということである。踊りという肉体的行為そのものに何か道徳的に悪いものがあるなどと云うのは、ばかげたことであろう。ダビデは契約の箱の前で踊った。ソロモンは、「踊るのに時がある」、と云った(伝3:4)。子羊や子猫にとってじゃれて跳ね回るのが自然であるのと全く同じように、世界中どこの若者たちにとっても、軽快な音楽の調べに合わせて踊り回るのは自然なように思われる。もし踊りが単なる運動としてなされるとしたら、また午前中にでもなされるとしたら、また男性は男性とだけ踊り、女性は女性とだけ踊るとしたら、それに反対することなど不必要であり、ばかげていよう。しかし、だれもが知っているように、現代の舞踏会はそうしたことのためになされているのではない。この娯楽に伴うのは、深夜までの夜更かしや、けばけばしい衣裳や、途方もない量の軽薄さ、虚栄心、嫉妬、不健全な興奮、中身のない会話である。主イエス・キリストが再臨なさったとき、現代の舞踏場にいるところを見つけられたいなどと願う者がいるだろうか? かつての無分別な頃の私がよくしていたように、舞踏会にいりびたっている者のうちだれが、そこで精神にもたらされる気を散らすような効果が、阿片吸飲や酒類常飲によって肉体にもたらされる効果同然のものであることを否定できるだろうか? 忌憚のない意見を云わせてもらえば、舞踏会に行くのは、あの「魂に戦いをいどむ」娯楽の1つであって、賢明で健全な生き方をしたければ、そこに行くのをすっぱりやめるに越したことはない。また、そこに行く気もない息子や娘たちを舞踏会に引っ張り出そうとせきたてる親たちについて私に云えることは1つしかない。彼らは自分にこの上もなく危険な責任を背負い込みつつあり、わが子の魂を途方もない害悪にさらそうとしているのである。

 (b) 骨牌遊びについても、私の判断はほとんど同じである。キリスト者の方々はこれを、これにいかなる傾向があり、いかなる結果をもたらすかによって吟味してほしい。もちろん、金目当てではなく気晴らしのために、骨牌を使って無害な勝負をすることに積極的に邪悪なものがあるなどというのは、全くのたわごとでしかあるまい。私の知っているある種の老人たちの場合、嗜眠性と衰弱した体力によって働くことも読むこともできない彼らにとって、夕方の骨牌遊びは実に有益なものであって、眠気を覚まし、健康を保つのに役立っている。しかし事実に対して目を閉ざしても無駄である。もしも主人たちや女主人たちが、いったん居間で骨牌遊びを始めるならば、下男たちは台所で骨牌遊びをするであろう。そうなれば、種々の悪が連鎖的にもたらされるであろう。もしも親たちが幼少の者たちに向かって、最初の段階でそこに何の害もないのだと教えるとしたら、彼らが最後の最後まで行き着いたとしても決して驚いてはならない。

 私はこの意見を非常な気後れとともに与えるものである。私は自分が無謬だなどとは決して云わない。各人が、その心の中で確信をもっていただきたい。しかし、あらゆることを考え合わせて熟慮した上での判断を云えば、自分の魂を正しく保ち、「この世から出て行く」ことを願うキリスト者は、骨牌遊びとは関わらない方が賢明であろう。ある種の人々は、次第次第にこの習慣にとりつかれ、最後にはどうしてもやめられなくなり、それなしでは生きていけなくなるように思われる。「奥様」、とロウメインは、自分は骨牌なしではやっていけないと断言したとバスの老婦人に向かって云った。「奥様。もしそうだとすると、骨牌があなたの神なのです。何とも情けない神ですな」。確かに、こうした判断に迷うような問題においては、疑わしいことには手を出さず、差し控える方が、私たちの魂にとって良いことである。

 (c) 野外運動については、厳密な規則を規定することがたやすくないことは私も認める。私は一部の極端な人々のように、乗馬だの、鳥撃ちだの、魚釣りだのは、それ自体として積極的に罪深い行為であって、未回心の心をまぎれもなく示す目印だ、などと云うことはできない。私が知っている多くの人々にとって、激しい野外運動と徹底的な気晴らしは、その肉体的健康と精神衛生を保つために絶対に必要なものなのである。しかし、こうしたすべての事がらにおいて、第一に問題となるのはその程度である。どのような仲間と、どの程度までそれを行なうか次第で、事情は大きく異なる。特に大きな危険をはらんでいるのは、行き過ぎである。飲酒の場合と同様、狩猟や射撃においても不節制に走ることはありえる。私たちは聖書の中で、賞を受けられるように走りたければ、「あらゆることについて自制」せよ、と命ぜられている[Iコリ9:24-25]。野外運動にふけっている人々は、この規則を忘れるべきではない。

 しかしながら、この問題についてキリスト者は、自分の意見を注意深く表明し、穏健な判断にとどめておかなくてはならない。乗馬も射撃も毛針釣りもできない人間が、こうした問題について公平に語る資格があるとは到底云えまい。自分ができもしないこと、全く楽しめもしないことを行なっている人々を非難するのは、いかにも安直で手軽なことである! だが、1つだけ完璧に確かなことがある。----いかなる不節制や行き過ぎも罪だ、ということである。もしもある人が、野外運動に完全にのめりこみ、年がら年中こうしたことばかりして過ごし、あたかも神によって、「狩猟し、射撃し、釣りをする動物」として造られたかのように見えるとしたら、その人は現在のところ聖書的キリスト教についてほとんど何も知ってはいないのである。「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです」、と書かれている(マタ6:21)。[本文に戻る]

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