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11. 形だけの信仰


「見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです」----IIテモ3:5
「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。
「かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです」----ロマ2:28、29

 このページの冒頭に冠した聖句は、いついかなる時も真剣な注意に値するものである。しかしこれらは、現代の教会と世界においては、格別な注目に値している。主イエス・キリストが地上を去って以来、現代ほど形だけの信仰とにせのキリスト教信仰がはびこっている時代はなかった。今こそ私たちは自分を吟味し、自分のキリスト教信仰を探って、自分のキリスト教がいかなる種類のものであるか知らなくてはならない。私たちは、自分たちのキリスト教が形だけのものか、心からのものかを見きわめようではないか。

 思うに、この主題を説き明かすには、神のみことばにある、1つの平易な箇所を見るに越したことはない。この件について聖パウロが何と云っているか聞いてみよう。彼はそのローマ人への手紙において、次のような偉大な原則を規定している。「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです」(ロマ2:28、29)。この箇所を眺めると、この上もなく示唆に富む3つの教訓がはっきり浮かび上がってくるように思われる。それが何か見てみよう。

 I. 第一に私たちが学ぶのは、神の御前においては、形だけのキリスト教信仰はキリスト教信仰ではなく、形だけのキリスト者はキリスト者ではない、ということである。
 II. 第二に学ぶのは、心は真のキリスト教信仰の座であり、真のキリスト者とは心からのキリスト者である、ということである。
 III. 第三に学ぶのは、真のキリスト教信仰は決して一般受けすることを期待できない、ということである。それに対する賞賛は、「人からではなく、神から来る」。

 これらの偉大な原則を徹底的に考察してみようではないか。今から二百年以上も前に、ひとりの偉大なピューリタン神学者はこう云った。「形だけの、形だけの、形だけの信仰こそ、今日の英国を屈服させ、うめかせている大罪である。----以前よりも光は増したが、いのちは少なくなっている。虚像は増えたが、実体は減っている。口先だけの告白は増したが、聖化は見られなくなっている」(トマス・ホール、『IIテモ3:5講解』、1658)。この善良な人物が現代生きていたとしたら何と云ったであろうか?

I. 第一に私たちが学ぶのは、神の御前においては、形だけのキリスト教信仰はキリスト教信仰ではなく、形だけのキリスト者はキリスト者ではない、ということである。

 形だけのキリスト教信仰ということで私は何を意味しているのだろうか? この点は明確にしておかなくてはならない。おびただしい数の人々は、この件について何もわかっていないと思う。この点について明確に理解できていなければ、この論考全体が無益となるであろう。私のなすべき最初のことは、それをはっきりと描写し、叙述し、定義することであろう。

 人が名ばかりのキリスト者であって、実質のあるキリスト者でない場合、 ----外的な事がらだけのキリスト者で、心の内側の感覚ではキリスト者でない場合、----口先だけのキリスト者で、実行動ではキリスト者でない場合、----つまり、そのキリスト教が単に形だけのもの、あるいは流行や慣習だけによるものであって、その心や生活に何の影響も及ぼしていない場合、----このような場合その人は、私が「形だけの信仰」と呼ぶものを有しているのである。確かにその人には、があり、殻があり、外皮はあるが、その実質や、そのはないのである。

 たとえば、おびただしい数の人々にとって、そのキリスト教信仰は、キリスト教的な式典や儀式を守ることだけに存しているように見受けられる。彼らは、公の礼拝には規則正しく出席する。聖餐式には規則正しく集う。しかし彼らは、決してそれ以上先には進まない。彼らは聖書に親しんでもおらず、聖書を読むことに何の喜びも感じない。経験的なキリスト教については全く何も知らない。その友人関係においても、婚姻の縁組みにおいても、敬虔さと不敬虔さとの区別を何もつけない。福音の明確な教えについてはほとんど、あるいは全く気にかけない。どんなことを説教されても、まるで無関心のように見える。そうした人々と何週間一緒にいようと、またそうした人々から平日に何を聞かされ、何を見せられようと、そういう人々が不信者であるとも、理神論者であるとも考えられる。こうした人々について何が云えるだろうか? 彼らは、その信仰告白による限りは、疑いもなくキリスト者である。だがしかし、彼らのキリスト教には心もいのちも伴っていない。彼らについて云えることは1つしかない。----彼らは形だけのキリスト者なのである。彼らのキリスト教信仰は、ただの形式なのである。

 目を別の方向に転じて、自分の有しているキリスト教信仰の全体が、言葉や高尚な告白だけに存しているように見受けられる、多数の人々を見てみよう。彼らは福音の理論についてそらんじており、福音主義的な教理に喜びを感ずると告白している。彼らは、自分自身の見解の「健全さ」について、また自分たちと考えを異にするすべての人々の「闇」について、いくらでも語ることができる。しかし彼らは、決してそれ以上先には進まない! 彼らの内的な生活を吟味すると、彼らが実際的な敬虔さについては全く何も知らないことがわかる。彼らは誠実でも、寛容でもなく、へりくだっても、正直でも、親切な気立てでも、穏和でも、利他的でも、名誉を重んじてもいない。こうした人々について何と云うべきだろうか? 彼らは、名目上は疑いもなくキリスト者である。だがしかし、彼らのキリスト教には実質もなければ成果もない。云えることはただ1つである。----彼らは形だけのキリスト者である。彼らのキリスト教信仰は、中身のない形式なのである。

 こうした形だけの信仰についてこそ、私はこの日、警告の声を挙げたいと願うものである。ここにこそ、ありとあらゆる方面で、おびただしい数の人々が、その魂をみじめに破船させてきた岩礁がある。マキアヴェリがかつて述べたことの中でも最も邪悪なことの1つは、このような言葉である。「キリスト教信仰そのものにではなく、その外見だけに気を遣っていればよい。それで信用を得ることは助けになるが、その実質や実践は厄介物である」。このような考え方は地上のもの、地につくものである。否、むしろそれは、地の下から来たものである。これは、底知れぬ穴の臭気が芬々としている。こうした考え方に用心し、警戒するがいい。もし聖書が何か1つ明確に語っていることがあるとしたら、それは形だけの信仰の罪と無益さである。

 聖パウロがローマ人に何と告げているか聞くがいい。「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません」(ロマ2:28)。これは実に強烈な言葉である! 人は肉によればアブラハムの子孫かもしれない。----十二部族の血を引くひとりかもしれない。----八日目の割礼を受けた者かもしれない。----あらゆる祭礼に忠実に出席しているかもしれない。----神殿で規則正しく礼拝しているかもしれない。----だがしかし、神の御前においてはユダヤ人ではないのである!----それと同じく、人はうわべの告白ではキリスト者かもしれない。----キリスト教会の一員かもしれない。----キリスト教のバプテスマを授けられたかもしれない。----キリスト教の儀式に出席しているかもしれない。----だがしかし、神の御前においては、全くキリスト者ではないのである!

 預言者イザヤの言葉を聞くがいい。「『あなたがたの多くのいけにえは、わたしに何になろう。』と、主は仰せられる。『わたしは、雄羊の全焼のいけにえや、肥えた家畜の脂肪に飽きた。雄牛、子羊、雄やぎの血も喜ばない。あなたがたは、わたしに会いに出て来るが、だれが、わたしの庭を踏みつけよ、とあなたがたに求めたのか。もう、むなしいささげ物を携えて来るな。香の煙----それもわたしの忌みきらうもの。新月の祭りと安息日----会合の召集、不義と、きよめの集会、これにわたしは耐えられない。あなたがたの新月の祭りや例祭を、わたしの心は憎む。それはわたしの重荷となり、わたしは負うのに疲れ果てた。あなたがたが手を差し伸べて祈っても、わたしはあなたがたから目をそらす。どんなに祈りを増し加えても、聞くことはない。あなたがたの手は血まみれだ」(イザ1:10-15)。こうした言葉は、よくよく考察してみると、異様きわまりないものである。ここで、何にもならないと宣告されているいけにえは、神ご自身が定めたものなのである! 神が「憎む」と云われる例祭や儀式は、神ご自身によって規定されたものなのである! 神ご自身が、ご自分の制定なさった祭式を、心のこもらない形式的な礼拝者たちによって用いられるなら無益であると断じているのである! 実際それは無益以下であって、胸をむかつかせる有害なものなのである。これほど明確で、取り違えようもない言葉は想像できない。それが示しているのは、形だけの信仰は神の御前において無価値だということである。それは全く信仰の名に値しないものなのである。

 最後に、私たちの主イエス・キリストのことばを聞くがいい。主は当時のユダヤ人についてこう云っておられる。「この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである」(マタ15:8)。主は何度となく、律法学者やパリサイ人らの形式主義と偽善を糾弾しており、それに用心せよと弟子たちに警告しておられる。1つの章の中で八度も(マタ23:13)、主は彼らに向かって云っておられる。「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち」、と。最悪の種類の罪人たちに対してさえ、主は常に親切なことばをかけてやり、開かれた扉を差し出された。しかし主は、私たちにこう知らせようとしておられるのである。形式主義は絶望的な病であって、何よりも厳酷な言葉で暴露されなくてはならない、と。無知な者の目にとって、形式主義者は、たとえ最良のの信仰を有してはいなくとも、見苦しくない程度のの信仰は十分有している人のように思われるであろう。しかしながら、キリストの目にとって事情は全く異なっている。主の目にとって、形だけの信仰は何の信仰でもないのである。

 こうした数々の聖書の証言に対して私たちは何が云えるだろうか? これらに付言することはたやすいであろう。これらは孤立した証言ではない。言葉に何の意味もないのでない限り、これらは、信仰を告白しキリスト者であると自称する者たち全員にとって明確な警告である。これらが私たちにはっきり教えているのは、私たちは罪を恐れ、罪を避けるのと同じように、形だけの信仰を恐れ、形だけの信仰を避けなくてはならない、ということである。形式主義は微笑みを浮かべて私たちの手を取り、兄弟のように見えるが、罪は抜き身の剣を手にして私たちのもとにやって来て、公然たる敵のように私たちに打ちかかる。しかし両者ともに目指す目的は1つである。両者ともに私たちの魂を滅ぼすことが望みなのである。そしてその2つのうちで、形式主義はそうできる見込みがはるかに高い。もしいのちを愛しているというなら、形だけの信仰に用心しようではないか。

 これほどよく見られるものはない。これは全人類がかかっている家伝の業病の1つである。それは私たちとともに生まれ、私たちとともにあり、私たちが死ぬまで決して完全には私たちのうちから追い出されることがない。私たちは、教会の中でも、会堂の中でも、それと出会う。金持ちの間でも、貧乏人の間でも出会う。学識ある人々の間でも、無学な者らの間でも出会う。ローマカトリック教徒の間でも、プロテスタントの間でも出会う。高教会派の間でも、低教会派の間でも出会う。福音主義者の間でも、儀式派の間でも出会う。私たちがどこに行こうと、いかなる教会に加入しようと、私たちは決して、これに感染する危険から逃れることはできない。私たちは、クエーカー教徒やプリマス・ブレズレン派の間でも、ローマにあるのと同様に、これを見いだすであろう。もしだれかが、少なくともわが陣営にはいかなる形式的な信仰もない、などと考えているとしたら、それは非常に盲目で無知な人間である。もしいのちを愛しているというのなら、形だけの信仰に用心するがいい。

 これほど人の魂にとって危険きわまりないものはない。キリスト教の形式に親しみながら、その実質を無視する態度を続けていくと、それは良心を鈍磨する恐るべき効果をもたらす。それは、次第次第に、内なる人全体を覆う分厚い殻を形成していく。絶え間なく聖なる言葉を繰り返し、聖なる事がらを扱いながら、その心が罪と世に夢中になっている人ほど絶望的にかたくなになる人はいないと思われる。借地人に範を垂れるために形式的にしか教会に行かない領主、----家中で立派な対面を保つために家庭礼拝を形式的に執り行なう一家の主人、----毎週、実は何の興味も感じていない祈祷と聖書の教訓を読み上げている未回心の聖職者、----絶えず交唱を読み、「アーメン」を唱えながら、自分の云っていることに何の感慨も覚えていない未回心の牧師、----単に良い声をしているというだけで、毎週この上もなく霊的な賛美歌を歌いながら、その感情は下界の事がらに完全にとらわれている聖歌隊員、----こうした人々はみな、全員がすさまじい危険の中にある。彼らはしだいにその心をかたくなにしていき、その良心の面の皮を厚くしていく。もし自分の魂を愛しているというなら、形だけの信仰に用心するがいい。

 最後に、これほど愚かしく、無分別で、筋の通らないものはない。形だけのキリスト者は、自分が有しているようなただの上っ面だけのキリスト教が、病の時や臨終の時に自分を慰めてくれると本気で思うことができるだろうか? そのようなことは不可能である。絵に描いた火で暖まることはできず、絵に描いたごちそうで餓えを満たすことはできず、形だけのキリスト教信仰で魂に平安をもたらすことはできない。----そのような人は、自分のキリスト教の、気の入っていない死んだ状態を神がごらんになっていないなどと考えることができるだろうか? たとえ隣人や知人、一緒に礼拝する者たちや教役者たちを見かけの敬虔さで騙すことはできても、神を騙せるなどと考えることができるだろうか? そうした考え方自体ばかげている。「目を造られた方が、ご覧にならないだろうか」? 神は心のいかなる秘密をも知っておられる。最後の審判の日に神は、「人々の隠れたことをさばかれ」る。7つの教会それぞれの御使いに、「わたしは、あなたの行ないを知っている」、と云われたお方は変わっていない。婚礼の礼服を着ていない者に向かって、「あなたは、どうして、ここにはいって来たのですか」、と云われたお方が、上っ面だけのキリスト教信仰というちゃちな外套で騙されるようなことはない。もし最後の審判の日に恥辱をこうむりたくなければ、もう一度云う。形だけの信仰に用心するがいい(詩94:9; ロマ2:16; 黙2:2; マタ22:11)。

 II. 先に考察しようと述べた第二のことに移りたいと思う。心は真のキリスト教信仰の座であり、真のキリスト者とは心からのキリスト者である

 心こそ、人の人格の試金石である。ある人が云ったりしたりすることによっては、必ずしもその人の内側はわからない。人は偽りの正当ならざる動機から、心は全く悪いままでも、正しいことを云ったりしたりすることがありえる。心こそ、その人の真実である。「人は、心のうちで考える通りの者でしかない」(箴23:7 <英欽定訳>)。

 心こそ、ある人の信仰の試金石である。人は、正しい教理信条を奉じ、しかるべく敬虔そうな見かけをしているだけでは十分ではない。その人の心はどうだろうか?----それこそ大問題である。これこそ神がごらんになる部分である。「人はうわべを見るが、主は心を見る」(Iサム16:7)。これこそ聖パウロが魂をはかる基準として明確に規定したことである。「人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、……心の割礼こそ割礼です」(ロマ2:29)。この偉大な一文が、ユダヤ人のためのみならずキリスト者のためにも書かれたことを、だれが疑いえようか。使徒は私たちにこう云おうとしているのである。人目に隠れたキリスト者がキリスト者であり、……心のバプテスマこそバプテスマである、と。

 心こそ、救いに至る信仰が始まらなくてはならない場所である。生まれながらの心は不信仰なものであり、聖霊によって更新されなくてはならない。「わたしはあなたがたに新しい心を与える」。----生まれながらの心はかたくななものであり、柔らかくされ、砕かれなくてはならない。「わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える」。「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」。----生まれながらの心は神を閉め出し、閉ざされたものであり、開かれなくてはならない。主はルデヤの「心を開いて」くださった(エゼ36:26; 詩51:17; 使16:14)。

 心は真に救いに至る信仰の座である。「人は心に信じて義と認められ……るのです」(ロマ10:10)。人は、悪霊たちが信じているのと同じようにイエス・キリストを信じていても、その罪の中にとどまっていることがありえる。その人は自分が罪人であること、キリストが唯一の救い主であることを信じ、時々は、もっと良い人間になりたいものだという物ぐさな願いを感ずることがあるかもしれない。しかし、いかなる人もキリストを堅くつかみ、赦しと平安を受けとる前には、まず心から信じていなくてはならない。義と認めさせるのは、心からの信仰である。

 心は真の聖潔と、堅固でたゆみない善行との源泉である。真のキリスト者が聖い者である理由は、彼らの心がそれにあずかっているからである。彼らは心から従う。心から神のみこころを行なう。彼らの行ないはみな弱く、かすかで、不完全なものであるが、彼らは神を喜ばせている。それが愛する心から行なわれているからである。富裕なユダヤ人たちのささげていたあらゆる献金よりも、あのやもめの1レプタをおほめになったお方は、量よりもはるかに質の方を重視しておられる。この方が好んでごらんになるのは、「正しい、良い心」(ルカ8:15)からなされたことである。正しい心なくして、いかなる真の聖潔もありえない。

 私の述べていることは奇妙に聞こえるかもしれない。ことによるとそれは、この論考を手にとっている一部の人々の考え方とことごとく真っ向から反するものかもしれない。ことによるとあなたは、人のキリスト教信仰の外見さえ正しければ、その人を神は喜んでくださるに違いないと考えてきたであろう。だが、あなたの考えは完全な間違いである。あなたは聖書の教えの全基調を無視している。正しい心を抜きにした外面的な正しさは、パリサイ主義以上のものでも以下のものでもない。キリスト教の外面的な部分----バプテスマ、主の晩餐、教会員籍、貧窮者への施しその他----は、心が正しくなければ、決してその人の魂を天国に連れて行きはしない。外面的なものだけでなく、内面的なものもなくてはならない。----そして神の目はおもに内面的なものの上に留められているのである。

 聖パウロがこの件についてさらに教えている、3つの非常に驚くべき聖句に聞いてみるがいい。「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです」。----「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です」。----「割礼は取るに足らぬこと、無割礼も取るに足らぬことです。重要なのは神の命令を守ることです」(Iコリ7:19; ガラ5:6; 6:15)。使徒がこれらの聖句で意味していたのは単に、割礼は福音のもとではもはや必要ではない、ということだったろうか? それだけだったろうか? 全く否である! 私の信ずるところ、彼は、それよりはるかに多くのことを意味していたのである。彼が意図していたのは、真のキリスト教信仰が見かけのことに存してはいないこと、その本質は割礼を受ける受けないなどということをはるかに越えたものである、ということであった。彼が意図していたのは、キリスト・イエスのもとにあって、すべては新しく生まれること----真の救いに至る信仰をいだくこと----生活と行ないにおいて聖くなること----にかかっている、ということであった。彼が意図していたのは、これらこそ私たちがおもに注目しなくてはならないことであって、外面的な見かけではないということであった。「私は新しく創造された者だろうか? 私は本当にキリストを信じているだろうか? 私は聖い人間だろうか?」 これらこそ、私たちが答えを出そうとこころがけなくてはならない大問題である。

 心が悪ければ、神の御前ではすべてが悪い。多くの正しいことはなされているかもしれない。神ご自身がお定めになった形と儀式は尊重されているように見えるかもしれない。しかし心が間違っている限り、神はお喜びにならない。神は、人の心がご自分のものになっていない限り、何もお受けとりにはならない。

 契約の箱はユダヤ教の幕屋の中で、最も聖なるものであった。その上には贖いのふたがあった。その中には、神ご自身の指で十戒を記した二枚の律法の板があった。それが安置された幕の内側の場所には、大祭司だけしか入ることができず、それも年に一回だけであった。戦陣の中に契約の箱があることは特別な祝福をもたらすものと考えられていた。だがしかし、この契約の箱そのものは、イスラエル人がそれを偶像のように信頼し、その心を邪悪な思いで満たしたままでいた場合には、ただの木の箱同然に、何のありがたみもないものでしかなかった。彼らは、ある特別な機会に、「主の契約の箱をわれわれのところに持って来よう。そうすれば、それが……われわれを敵の手から救おう」、と云ってそれを陣営に持ってきた(Iサム4:3)。それが陣営に着いたとき、彼らはそれに最大限の敬意と栄誉をささげた。「彼らは大歓声をあげた。それで地はどよめいた」*。しかし、それはことごとく無駄であった。彼らはペリシテ人の前で打ち負かされ、契約の箱そのものが奪われてしまった。なぜそのようなことになったのだろうか? それは彼らの信仰がただの形式にすぎなかったからである。彼らは契約の箱を敬いはしたが、その契約の箱の神に自分たちの心を与えていなかったのである。

 ユダとイスラエルの王たちの中には、神の御前で多くの正しいことを行ないはしたが、決して敬虔な義人たちの一覧に名を記されなかった者たちがある。レハブアムはその治世の初期には正しいことを行ない、「三年の間、……ダビデとソロモンの道に歩んだ」(II歴11:17)。しかし後になって、「彼は悪事を行なった。すなわち、そのを定めて常に主を求めることをしなかった」(II歴12:14)。----歴代誌によれば、アビヤは多くの正しいことを口にし、ヤロブアムと戦って勝利を得た。にもかかわらず、最終的な宣告は彼に反するものであった。列王記の記述によると、「彼のは……彼の神、主と全く一つにはなっていなかった」(I列15:3)。----アマツヤは、私たちがはっきり語られているところによると、「主の目にかなうことを行なったが、全きをもってではなかった」(II歴25:2)。----イスラエルの王エフーは主の命令によって立てられて、偶像礼拝を弾圧した。彼は主のわざを行なうことに格別な熱心を持っていた人物であった。しかし、不幸にして彼についてはこう書かれている。「彼は、を尽くしてイスラエルの神、主の律法に歩もうと心がけず、イスラエルに罪を犯させたヤロブアムの罪から離れなかった」*(II列10:31)。つまり、これらの王たち全員には1つの一般的な評言があてはまるのである。彼らはみな内側で誤っていた。彼らは心が腐っていた。

 今日の英国には、キリスト教信仰の外面的な事がらがすべて完璧に執り行われている場所がいくつもある。礼拝式は美しく、歌声は美しく、祈祷の形式は美しい。五感を満足させるあらゆるものがある。目も耳も、生来の感傷的な思いも、すべてが喜ばされている。しかし、こうしたすべての間、神はお喜びになっていない。1つのことが欠けていて、その1つの欠けがすべてを台無しにしている。その1つのこととは何であろうか? 心である! 神はこうした美々しい外面的な見かけすべての下で、形だけのキリスト教信仰が実質のかわりにされていることを見抜き、それを目にするとき不快に思われるのである。神は、建物や礼拝や教職者や会衆を見ても、そこに回心し、更新され、砕かれ、悔い改めた心をごらんにならない限り、何のひいき目で見ることもなされない。垂れた頭や、曲げた膝、声高なアーメン、交差した手、東に向けられた顔などのすべて、すべてが正しい心を抜きにしては神の御前で無に等しい。

 心が正しければ神は、欠陥だらけの多くのことを見逃すことがおできになる。そこには判断の間違いや、行ないの欠点があるかもしれない。信仰上の外面的な事がらにおいて、最良の道からはずれた多くのことがあるかもしれない。しかし、もし心がおおむね健全であるならば、神は誤ったことをいちいち厳しくとがめだてなさらない。ヨシャパテは臆病で優柔不断な人物で、「いやです」、と云うすべを知らず、イスラエルを支配した王たちの中でも最悪の王であるアハブと連合した。アサは移り気な人物で、あるときには神よりもアラムの王を信頼し、またあるときには彼をいさめた神の預言者に向かって激怒した(II歴16:10)。それでもどちらの王も、彼らの人格の中に、それらを補って余りある長所があった。彼らのあらゆる欠点にもかかわらず、彼らは正しいを持っていたのである。

 ヒゼキヤが守った過越の祭は、多くの点で規則に反するものであった。多くの者たちは正式の作法を守らなかった。彼らは過越のいけにえを規定の「戒めと異なったやり方で」食べてしまった。しかし彼らはそれを真実で正直なで行なった。それで私たちが読むように、ヒゼキヤは彼らのために祈って云った。「『いつくしみ深い主よ。このことの贖いをしてください。彼らは、心を定めて神、彼らの父祖の神、主を求めたのですが、聖なるもののきよめのとおりにはいたしませんでした。』主はヒゼキヤの願いを聞かれ、民をいやされた」(II歴30:20)。

 ヨシヤが守った過越の祭に集ってきた人数は、ダビデやソロモンの時代における幾多の過越の祭、あるいはヨシャパテやヒゼキヤ治下のそれと比べてさえ、ごく少ないものでしかなかった。それでは私たちは、このことについて聖書で用いられている強烈な言葉をどう説明できるだろうか? 「預言者サムエルの時代からこのかた、イスラエルでこのような過越のいけにえがささげられたことはなかった。イスラエルのどの王も、ここでヨシヤが行ない、祭司たちとレビ人、および、そこにいた全ユダとイスラエル、さらに、エルサレムの住民たちがささげたような過越のいけにえをささげたことはなかった」(II歴35:18)。その説明は1つしかない。その祭礼において、礼拝者たちのがこれほど真実であった過越の祭は一度もなかったのである。主は礼拝者の量よりは質をごらんになる。ヨシヤの過越の祭の栄光は人々の心の状態にあった。

 今日の地上における多くのキリスト者たちの集会には、生まれながらの人々を引きつけるものが文字通り何1つない。彼らはみすぼらしく薄汚い会堂(と呼ばれる建物)か、あばら屋の二階や、地下の穴蔵に集まる。彼らの歌は調子はずれである。彼らの聞く祈りは弱々しく、説教はそれに輪をかけて貧弱である。だがしかし聖霊はしばしば彼らの真ん中におられる! 罪人たちはしばしば彼らの中で回心し、神の国はそこで、いかなるローマカトリック教の大聖堂の中や、多くの壮麗なプロテスタント教会の中にもまして、発展している。どうしてそのようなことがあるのだろうか? これをいかにして説明できようか? その原因は単純である。こうした貧しい集会の中では、心のキリスト教信仰が教えられ、奉ぜられているのである。心の働きが目指されているのである。心の働きが重んぜられているのである。そしてその結果として神はお喜びになり、その祝福を与えておられるのである。

 私はここで私の主題のこの部分から離れたいと思う。ぜひここまで述べてきた事がらをよく思い巡らしてほしい。私の信ずるところ、これらはいかなる吟味を受けても、すべてが全く真実であるであろう。この日あなたは、いかなる教会に属していようと、からのキリスト者であろうと決意するがいい。監督派であれ長老派でれ、バプテスト派であれ独立派であれ、力の伴わない、敬虔そうな見かけだけで満足していてはならない。あなたの心に堅く銘記しておくがいい。形だけの信仰は救いに至る信仰ではなく、心からの信仰こそ、天国に人を導く唯一の信仰である、と。

 ただし、一言だけ警告しておきたい。形だけの信仰では救われないからといって、信仰の形式が全く何の役にも立たないなどと考えてはならない。そうしたいかなる極端な無分別さにも用心するがいい。あることを誤用している人がいるからといって、それを正しく用いることまで非難されるいわれはない。一部で形式への盲目的偶像視がはびこっているからといって、あらゆる形式をことごとく打ち捨てるべき理由にはならない。契約の箱は、イスラエルによって偶像とされ神のかわりにされたときには、彼らをペリシテ人から救い出すことはできなかった。だがしかし、同じ契約の箱が、敬虔な恐れなく冒涜的に扱われたときには、ウザに死をもたらし、畏敬をもって尊重されたときには、オベデ・エドムの家に祝福をもたらしたのである。ホール主教の言葉は強烈ではあるが、真実である。「形だけしかない者は偽善者だが、形のない者は無神論者である」(『ホール説教集』、第28篇)。形式は私たちを救うことはできないが、だからといって形式を蔑むべきではない。提灯は私たちの家ではないが、暗い夜に家路を辿るときには人の助けとなる。キリスト教の種々の形式を勤勉に用いれば、それが祝福となることに気づくであろう。ただ、いかなる形式を用いるにせよ忘れてならない重要な原則は、キリスト教信仰における第一のことは心の状態にある、ということである。

 III. さて、先に考察しようと述べた最後のことに移りたいと思う。先に述べたように、真のキリスト教信仰は決して一般受けすることを期待できない。それに対する賞賛は人からではなく、神から来る

 私は、これがいかに痛ましいものとなろうと、あえて私の主題のこの部分から目をそむけることはすまい。この論考を読むあらゆる人々に私は、心からのキリスト教信仰を熱心に推奨するものだが、その心からの信仰に何が必然的に伴うかを隠そうとは思わない。私は、私の主の軍隊に、偽りの口実で新兵補充しょうとは思わない。私は、聖書が保証してもいないことを何1つ約束しようとは思わない。聖パウロの言葉は明確で取り違えようのないものである。心からの信仰の「誉れは、人からではなく、神から来る」のである(ロマ2:29)。

 神の真理および聖書的キリスト教は、決して本当の意味で一般受けすることはない。いまだかつてそうであったことはない。今後も、この世が続く限り決してそうなることはないであろう。いかなる者も決して、聖書で描かれているような人間の性質を冷静に考察してなおかつ、こうした結果以外のことをまともに期待することはできない。人間が人間であり続ける限り、人類の大多数は常に心からの信仰よりも形だけの信仰をはるかに好むであろう。

 形だけの信仰はまさに、光を受けていない良心にうってつけのものである。人は何らかの宗教を奉じたがるものである。無神論やあからさまな不信心は、一般論としては、決して大衆受けするものではない。しかし、人が奉じることを好む宗教は、あまりに過大な要求をするものであってはならず、----あまりに心を悩ますものであってはならず、----あまりに自分の罪に干渉するものであってはならない。形だけのキリスト教は、そうした人を満足させる。まさにそれこそ、その人が求めているものである。

 形だけの信仰は、人間の心ひそかな自分を義とする思いを満足させる。私たちはみな、多かれ少なかれパリサイ人である。私たちはみな、救われるには多くのことを行ない、多くの宗教儀式を重ねるべきであり、そうすれば最後には天国に行き着くのだという考え方が、生まれながらにしみついている。形式主義はここで私たちを待ち受けている。それは、私たちが自分で神との平和を打ち立てられる道を示しているように思われる。

 形だけの信仰は、人間の生来の怠惰さを喜ばせる。それはキリスト教の最も容易な部分----外形と形式----に、過大な重要性を付与するものである。人はこれを喜ぶ。人は宗教で難儀をすることを憎む。人が望んでいるのは、自分の良心や内的な生活におせっかいを焼かないようなものである。良心さえ放っておいてくれるなら、人はヘロデのように「多くのことを行なう」であろう。形式主義は天国へのより広い門、より容易な道を開いてくれるように思えるのである(マコ6:20 <英欽定訳>)。

 何百万言を費やすよりも事実が雄弁に物語っている。事実は動かしがたいものである。世界史のあらゆる時代を省みて、何が常に一般受けしていたか見てみるがいい。イスラエルの歴史を、その出エジプトにおける発端から『使徒の働き』の末尾に至るまで眺めてみて、常に俗受けしていたのは何であったか見てみるがいい。形式主義は、旧約の預言者たちが絶えず抗議していた罪の1つであった。形式主義は、私たちの主イエス・キリストが世に来られたとき、ユダヤ人に蔓延していた重い疫病であった。----使徒たち以後の時代のキリスト教会の歴史を眺めてみるがいい。いかにたちまちにして形式主義は、初代のキリスト者たちのいのちと活力とを食い尽くしてしまったことか!----いわゆる中世を眺めてみるがいい。形式主義はキリスト教国の全面を覆い尽くし、福音は死んだように横たわっているばかりであった。----最後に、過去三世紀におけるプロテスタント教会の歴史を眺めてみるがいい。キリスト教信仰が生き生きとしていた場所のいかにわずかなことか! いかに多くの国々で、プロテスタント主義は、形ばかりのものになり果てていることか! こうした事がらを論破することはできない。これらは雷のような大音声で語っている。これらがみな示しているのは、形だけの信仰が一般受けのするものだ、ということである。それは人からの誉れを得るのである。

 しかし、なぜ私たちは歴史上の事実を眺めるべきであろうか? なぜ私たちは自分の目の前にあり、ほんのすぐそばにある事実に目を向けてはならないのだろうか? 単なる外面的な信仰、あからさまな形式張った信仰が、現代の英国において人気を博している信仰であることを、だれが否定できようか? 聖ヨハネはゆえもなく、ある種のにせ教師たちについてこう述べているのではない。「彼らはこの世の者です。ですから、この世のことばを語り、この世もまた彼らの言うことに耳を傾けます」(Iヨハ4:5)。ただ祈りを唱えていさえすれば、----ほどほどに定期的に教会に通いさえすれば、----そして時たま礼典にあずかりさえすれば、----英国人の大多数は、そうした人を卓抜したキリスト者であるとみなすであろう。----「これ以上何が必要なのか?」、と彼らは云う。「もしこれがキリスト教でないとしたら、何がキリスト教なのか?」、と。----これ以上のことを求めるようなことは、偏狭で、狭量で、狂信的で、熱狂主義だと考えられる! このような人が天国に行けるかどうか疑いを差し挟むようなことは、愛のなさも極まったことだと呼ばれる! こうした事情がある限り、形だけの信仰が一般受けしていることを否定しようとしても無駄である。それは一般受けしているのである。常に一般受けしてきたのである。キリストが再臨するまで、常に変わらず一般受けするものであり続けるのである。これは常に「人からの誉れ」を得てきたし、今後も得ていくであろう。

 では心から信仰に目を転じてみよう。そこでは非常に異なったことが聞かされるであろう。一般論として、それは決して人類全般から推賞されたことがない。こうした信仰を告白する者たちには、必然的に、嘲笑や嘲り、冷やかし、侮り、軽蔑、敵意、憎しみ、中傷、迫害、投獄、さらには死さえもが、つきものであった。こうした信仰を愛する者たちは忠実で熱心であった。----しかし彼らは常に少数であった。それは比較してみるとき、決して「人からの誉れ」を受けたことがなかった。

 心からの信仰は、一般受けするにはあまりにも心へりくだらせるものである。それは生まれながらの人に何も誇りとさせる余地を与えない。それは彼に告げて云う。彼は有罪で、滅び行く、地獄にふさわしい罪人であり、彼は救いを求めてキリストのもとに逃れ行かなくてはならない、と。また、彼は死んでおり、再び生かされなくてはならず、御霊から生まれなくてはならない、と。人間の自尊心は、こうした知らせに反発するものである。彼は自分の病状がこれほど悪いと告げられることを憎む。

 心からの信仰は、一般受けするにはあまりにも聖いものである。それは決して生まれながらの人を放っておかない。それは彼に、彼が憎悪し忌み嫌うことを求める。----回心、信仰、悔い改め、霊的な心持ち、聖書を読むこと、祈ることを求める。それは彼に、彼が愛してやまず、絶対に手放せないと思っているものを捨て去るように命ずる。もし人がこれを愛するようなことがあったなら、奇怪至極であろう。それは興ざましとして、また余計な邪魔者として、彼の行く手をさえぎるものであって、それを彼が喜ぶなどと期待するのはばかげている。

 心からの信仰は旧約時代に一般受けしていただろうか? ダビデはこう不平を云っている。「門にすわる者たちは私のうわさ話をしています。私は酔いどれの歌になりました」(詩69:12)。預言者たちは、罪に反対する説教をし、人々に心を神に向けるよう求めたがゆえに、迫害され、虐待されている。エリヤやミカ、エレミヤ、アモスが良い例である。形式主義と儀式主義に対してユダヤ人たちは、見たところ決して反対しなかった。彼らが嫌ったのは、心をこめて神に仕えることであった。

 心からの信仰は新約時代に一般受けしていただろうか? 私たちの主イエス・キリストの伝道活動およびその使徒たちの生涯の全歴史が十分な答えである。律法学者やパリサイ人は、形式主義を鼓吹するようなメシヤ、儀式主義を称揚するような福音なら喜んで迎え入れたであろう。しかし彼らにがまんならなかったのは、その第一の原則を心のへりくだりと聖化とするような信仰であった。

 心からの信仰は、過去十八世紀の間、信仰を告白するキリストの教会において一度でも一般受けしていたことがあるだろうか? 否、初代教会がその初めの愛を失っていなかった最初の数世紀を除いて、そのようなことはほとんどなかった。たちまちのうちに、実にまたたくまに、形式主義と礼典重視主義に抗議するような人々は、「イスラエルを煩わすもの」として激しく弾劾されるようになっていった。宗教改革のはるか以前から、すでに心の聖さを推賞し、形式主義を弾劾するような人々は公共の敵として扱われるようになっていた。そうした人は沈黙させられるか、破門されるか、投獄されるか、ヤン・フスのように殺されるかしかなかった。----宗教改革そのものの時代においてさえ、ルターやその仲間たちの働きは絶えざる罪人呼ばわりと中傷の嵐の中で進められた。そして何がその原因だったのだろうか? それは彼らが形式主義と儀式主義と修道院制度と聖職者政治に対して抗議し、心からの信仰の必要性を説いたためであった。

 心からの信仰は、過去の時代のわが国において一度でも一般受けしたことがあっただろうか? ごくわずかな時期を除けば、一度もなかった。ラティマーやその同輩の殉教者たちが焼き殺された、メアリー女王の時代、それは一般受けしていなかった。----ピューリタンとなることが泥酔漢や悪態つきになるよりも悪いとみなされていた、スチュワート朝の時代、それは一般受けしていなかった。----ウェスレーやホイットフィールドが国教会から閉め出された、前世紀の中葉、それは一般受けしていなかった。わが国の殉教した宗教改革者たち、初期のピューリタンたち、メソジストたちの主張した主義は、本質的には全く同一のものであった。彼らがみな憎まれたのは、彼らが形式主義の無益さを説き、悔い改めと信仰と新生と霊的な心持ちと心の聖さを抜きにした救いが不可能であると説いたためであった。

 心からの信仰は、現代の英国において一般受けしているだろうか? 悲しみのうちに私は答えたい。私には、そうとは信じられない、と。平信徒の間における、その信奉者を眺めてみるがいい。彼らは常に比較的少数派である。彼らは、めいめいの会衆や教区の中で孤立している。彼らは多くの辛いことに耐えなくてはならず、多くの批判や、非難、厳しい仕打ち、嘲笑、嘲り、中傷、こまごまとした迫害にさらされなくてはならない。これは一般受けではない!----心からの信仰を講壇で説く教師たちを眺めてみるがいい。疑いもなく彼らは、聴衆の中の、彼らに同調するごく少数の人々からは愛され、慕われている。時には、彼らと同調しない多くの人々からも、その才幹と雄弁さのゆえに賞賛されることもある。彼らは、その説教を聞きに来る群衆のゆえに、「大衆説教者」と呼ばれることすらある。しかし、心からの信仰を忠実に説く教師たち自身ほど、自分たちが本当には好まれていないことをよく知っている者はない。本当の意味では彼らを助けてくれる者はほとんどいない。彼らに同情してくれる者はほとんどいない。必要な時に彼らとともに立ち上がってくれる者はほとんどいない。彼らは、その天来の主人のように、自分がほとんどひとりきりで働かなくてはならないことに気づく。私はこうした言葉を悲しみつつ書いている。だが私はそれが真実であると信じている。真の心からの信仰は今日においても、過去の時代に劣らず、「人からの誉れ」を得ていない。

 しかし結局のところ、人間が何と考え、何を賞賛するかはほとんど意味がない。私たちをさばく方は主である。人間が最後の審判の日に私たちを審くのではない。人間が、大きな白い御座に着座して、私たちの信仰を吟味し、私たちに永遠の宣告を下すのではない。神がおほめになるものだけが、キリストの法廷でほめられることにになるのである。ここにこそ、心からの信仰の価値と栄光がある。それは人からの誉れを得ていないかもしれないが、「神からの誉れ」を得ている。

 神は現在の人生における心からの信仰を是認し、光栄を与えてくださる。神は天から見下ろし、すべての人の子らの心を読みとられる。神は、その人のうちに罪に対する心からの悔い改め----キリストへの心からの信仰----生活の心からの聖さ----御子と律法とみこころとみことばへの心からの愛----こうした事がらをごらんになるとき、喜んでくださる。神は、その人がどれほど貧しく無学であっても、その人について記憶の書を記される。神は御使いに命じて、特にその人を守らせる。神はその人のうちに恵みのみわざを保ち、日々その人に平安と希望と力との満たしを与えられる。神はその人を愛する御子の肢体とも、御子がなされたように真理の証しをする者ともみなしてくださる。その人の心は、自分では弱く思われようと、神の愛する生きた供え物であり、神がさげすみなさらないと厳粛に宣言なさった心なのである。そのような誉れこそ、人の誉れにまさって価値あるものである!

 最後の審判の日に神は、一堂に集められた世界の前で、心からの信仰に対する是認を宣言なさるであろう。神は御使いたちに命じて、ご自分の聖徒たちを地球上の隅々から集めて、1つの栄光ある集団とするであろう。神は死者を生き返らせ、生者を変えて、彼らをご自分の愛する御子の御座の右に着座させるであろう。そのとき、それまで心からキリストに仕えてきた者たち全員は、キリストがこう云われるのを聞くであろう。「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。----あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。----あなたがたはわたしを人の前で認めたので、わたしもまた、あなたがたを父の御前と御使いたちの前で認めよう。----あなたがたこそ、わたしのさまざまの試練の時にも、わたしについて来てくれた人たちです。わたしの父がわたしに王権を与えてくださったように、わたしもあなたがたに王権を与えます」(マタ25:21-34; ルカ12:8; 22:25、29)。こうしたことばを与えられるのは、キリストにその心を与えてきた人々にほかならない! これらは、形式主義者や偽善者、よこしまな者、不敬虔な者たちには与えられない。実際彼らもその場に立って、心からの信仰の成果を目にするであろうが、彼らがその成果を手にすることはないであろう。この最後の審判の日が来るまで、私たちは決して心からの信仰の真価を知ることはない。そのときに、そのときになって初めて、私たちは神からの誉れを得る方が、人からの誉れを得るよりもはるかにまさっていることを完全に理解することになるのである。

 もしあなたが心からの信仰に携わるなら、私はあなたに人からの誉れは約束できない。赦しと平安、希望、導き、慰め、安らぎ、必要に応じた恵み、日ごとの求めに応じた力、世が与えることも奪うこともできない喜び、----これらをみな私は、キリストのもとに来て、心を込めてキリストに仕える人には大胆に約束できる。しかし、私はその人に、その信仰が人受けのするものとなることは約束できない。むしろ私がその人に警告したいのは、嘲弄や嘲り、中傷や意地悪、反対や迫害を覚悟せよ、ということである。心からの信仰には十字架が伴っており、私たちはそれを負うことに満足しなくてはならない。「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない」。----「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます」(使14:22; IIテモ3:12)。しかし、たとえ世があなたを憎むとしても、神はあなたを愛してくださる。世があなたを捨てても、キリストは決してあなたを見捨てず、見放さないと約束しておられる。心からの信仰によってあなたが何を失おうと、神の誉れは必ずやそのすべてを埋め合わせるであろう。

 さて私はこの論考を、3つの平易な適用の言葉でしめくくりたいと思う。私は、これがこの論考を手にとっておられるあらゆる人の良心を打ち、そこに刻み込まれてほしいと願う。願わくは神がこれを多くの魂にとって、今生においても永遠においても祝福としてくださるように!

 (1) 第一のこととして、あなたのキリスト教信仰は形だけの、心の伴わないものではないだろうか? この問いに正直に、また神の御前で答えてほしい。もしそうだとしたら、あなたの立場がいかに危険きわまりないものか厳粛に考えてみるがいい

 あなたは何1つ、試練の日にあなたを慰めてくれるもの、臨終の時にあなたに希望を与えてくれるもの、最後の審判の日にあなたを救ってくれるものを手にしていない。形だけの信仰は、いかなる人をも決して天国に至らせはしない。卑金属のようにそれは、火に耐えられない。現在のような状態であり続けることによってあなたは、いつ永遠の滅びに至るかわからない危険にさらされているのである。

 この日私はあなたに切に願う。どうかあなたの危険を知り、目を開いて、悔い改めていただきたい。国教徒であれ非国教徒であれ、高教会派であれ低教会派であれ、もしもあなたが生きているとは名ばかりで、見えるところは敬虔そうであっても何の力も有していないというのであれば、目を覚まして、悔い改めるがいい。何にもまして、もしあなたが福音派の形式主義者であるなら、目を覚ますがいい。古の風変わりな一ピューリタンが云っているように、「白い悪魔ほどの悪魔はいない」。福音派の形式主義ほど危険な形式主義はない。

 私はできるのは、ただあなたに警告することだけである。私は切なる愛を込めてそうしている。神だけが、この警告をあなたの魂にあてはめることができる。おゝ、あなたが心のこもっていないキリスト教の愚劣さをその危険とともに見てとるように! かつてサフォーク州のある人が、その死に臨んだとき、わが子に1つの健全な忠告を与えたという。「息子よ。どんな信仰をいだくにしても、その上っ張りを身につけるだけで満足していてはならないよ」、と。

 (2) 第二のこととして、もしあなたが心に責められるところがあり、何をすべきか知りたいというのなら、あなたが安全にとることのできる唯一の道筋を真剣に考えるがいい

 ぐすぐずせずに主イエス・キリストの前に出て、自分の魂の状態を洗いざらい打ち明けるがいい。主の御前で、自分の過去における形式主義を告白し、その赦しを乞い求めるがいい。聖霊という約束の恵みを主に求め、自分の内なる人を生かし、更新してくださるように懇願するがいい。

 主イエスは人の魂の医師となるように任命と委託を受けている。主にとって難しすぎる病症はない。主に治せないような魂の状態はない。主に追い出せないような悪霊はいない。ある形式主義者の心がいかに無感覚でかたくなになっていたとしても、彼を癒せるギルアデの乳香があり、彼を救うに力強い医師がおられる。きょうのこの日、行って主イエス・キリストに呼び求めるがいい。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます」(ルカ11:9)。

 (3) 最後のこととして、もしあなたが心に責められることなく、真に堅固な基盤に立った神への確信があるというなら、あなたの立場に伴う多くの責任について真剣に考えてみるがいい

 あなたを暗闇から光へと呼び出し、あなたを違った者としてくださったお方を日々ほめたたえるがいい。日ごとにこのお方をほめたたえ、ご自身の手になる働きを決して見捨てないよう願うがいい。

 あなたの内なる人のあらゆる部分を、用心怠りなく、また油断なく見張っているがいい。パロの寝室にまで入り込んだ蛙の災いのように、形式主義は絶えず私たちの内側に入り込もうと狙っている。用心し、警戒を固めるがいい。----あなたの聖書を読む生活をよく見張るがいい。----あなたの祈りを、----あなたの気分と舌とを、----あなたの家庭生活と教会生活とをよく見張るがいい。形式的な習慣に堕落せずにすむほど純粋で霊的なものは何1つない。とんでもない失敗を犯さずにすむほど霊的な人はひとりもいない。それゆえ、用心し、警戒を固めるがいい。

 最後に、主の到来を待ち望み、希望するがいい。あなたの最良の事がらはまだ来ていない。キリストの再臨はまもなく起ころうとしている。誘惑の時はまもなく過ぎ去ろうとしている。審きと聖徒たちへの報いとが、まもなくすべての償いをつけることになる。その日の希望に安んじるがいい。働き、見張り、待ち望むがいい。----少なくとも、その日、1つのことだけは何よりもまざまざと明らかになる。その日は示すであろう。私たちの生涯で、いかに徹底的に自分の心をキリストにささげた時間も、決して無駄ではなかった、と。

形だけの信仰[了]

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