Zeal         目次 | BACK | NEXT

8. 熱心


「良いことで熱心に慕われるのは、いつであっても良いものです」----ガラ4:18

 熱心という主題は、キリスト教信仰の他の多くの主題と同じく、実に悲しむべき誤解を受けている。多くの人は、「熱心な」キリスト者だとみなされるのを恥と感じるであろう。多くの人は、熱心な人々を見るとすぐに、フェストがパウロについて述べたのと同じように云うであろう。「あいつらは気が狂っているぞ。----あいつらは気を狂わせているのだ」*、と(使26:24)。

 しかし熱心という主題は、聖書を読むいかなる人も見過ごしにしてはならないものである。もし聖書を自分の信仰と行為の基準としているのであれば、私たちはこの主題を等閑に付すことはできない。これと正面から向き合わなくてはならない。使徒パウロはテトスに何と云っているだろうか? 「キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした」(テト2:14)。主イエスはラオデキアの教会に向かって何と云っているだろうか? 「熱心になって、悔い改めなさい」(黙3:19)。

 この論考における私の目的は、キリスト教信仰における熱心を擁護することである。私たちはこれを恐れるべきではなく、むしろ愛し、賞賛すべきだと思う。これは世界に対する大きな祝福であり、数え切れないほどの恩恵を人類にもたらすもととなると思う。私は、この終わりの時代にはびこる怠惰で、軽薄で、眠りこけたキリスト教に痛撃を加えたい。熱心など全く美しくないと考え、熱心な人々を「狂信者」としか云えないようなキリスト教には痛棒をくらわしたい。私はキリスト者たちに、私たちの主イエス・キリストの使徒のひとりに与えられていた名前が「熱心党員」であったことを思い出させ、彼らもまた、熱心な人となるよう説得したいと思うのである。

 私はこの論考を読むあらゆる人々に願いたい。この熱心ということについて、いま私が告げることに注意を傾けていただきたい、と。自分自身のため----世のため----キリストの教会のため、ぜひ私に耳を傾けてほしい、と。耳を貸してくれる人に私は、神の助けにより、「熱心」になることがいかに賢明なことであるか示したいと思う。

 I. 第一に示したいのは、キリスト教信仰における熱心とはいかなることか、ということである。
 II. 第二に示したいのは、いかなる場合に人はキリスト教信仰において真に熱心であるといえるのか、ということである。
 III. 第三に示したいのは、なぜキリスト教信仰において熱心になることが良いことなのか、ということである。

 I. まず第一に考察したい問題は、「キリスト教信仰における熱心とはいかなることか」、ということである。

 キリスト教信仰における熱心とは、神を喜ばせ、神のみこころを行ない、あらゆるしかたによって、この世で神の栄光を押し進めようとする、燃えるような願望である。それは、生来いかなる人も感ずることのない願望----回心の際に御霊があらゆる信仰者の心に入れてくださる願望----であるが、ある信仰者らは、この願望を他の信仰者らにまさってひときわ強く感じていて、こうした人々だけが「熱心な」人々と呼ばれるに値するのである。

 この願望は非常に強いものであり、それが真に人の内側で支配するときには、神を喜ばせキリストに栄誉を与えるためとあらば、その人にいかなる犠牲をも払わせ、----いかなる困難にも耐えさせ、----いかに大きな自己否定をも忍ばせ、----苦しみも、骨折りも、労苦も、辛苦も耐えさせ、----喜んで財をも、自分自身をも費やさせ、----死をも受け入れさせる。

 キリスト教信仰に熱心な人は、何にもまして一事の人である。その人は、ただ単に真面目で、裏表がなく、妥協せず、徹底的で、誠実で、霊に燃えているというだけでは足りない。その人は1つのことしか見えず、1つのことにしか気を遣わず、1つのことだけのために生き、1つのことに呑み込まれている。そしてその1つのこととは、神を喜ばせることなのである。熱心な人は、たとえ自分が生きようと、死のうと、----健康であろうと、病を得ていようと、----富んでいようと、貧乏であろうと、----人を喜ばせようと、腹を立てさせようと、----賢いと思われようと、愚かと思われようと、----非難されようと、賞賛されようと、----栄誉を得ようと、辱めを受けようと、----こうしたことをみな全く意に介さない。その人は1つのことに燃えている。そしてその1つのこととは、神を喜ばせ、神の栄光を前進させることなのである。この燃える熱意によって自分が燃え尽きようと、全くかまわない。それで満足する。彼は、燭台のように、自分は燃えるために作られているのだと感じる。そして、燃えることによって燃え尽きるとしたら、その人は神によって任命された務めをなし終えたにすぎない。このような人は、自分の熱心を発揮すべき領分を常に見いだすであろう。もしその人が説教も、奉仕も、献金もできないなら、その人は泣き、ため息をつき、祈るであろう。しかり、たとえその人が貧窮者や、寝たきりの病人でしかなかったとしても、その人は身の回りの罪の車輪をきしませ妨げるために、絶えず罪をくいとめる祈りをささげるであろう。その人は、たとえヨシュアとともに谷間で戦うことはできなくとも、丘の上でモーセやアロンやフルの働きを行なうであろう(出17:9-13)。たとえ自分は働きから断ち切られても、その人は休みなく神に訴え立て、別の方面からの助けが起こされ、その働きがなしとげられるように祈るであろう。これこそ私がキリスト教信仰における「熱心」ということで意味していることである。

 私たちはみな、いかなる精神の習慣が人を世で偉大ならしむるものか知っている。----それはアレクサンドロス大王や、ユリウス・カエサルや、オリヴァー・クロムウェルや、ピョートル大帝や、シャルル七世や、マールバラや、ナポレオンたちの土性骨であった。周知のように彼らは、そのあらゆる欠点にもかかわらず、全員、一事の人であった。彼らはみな、全身全霊を傾けて1つの大事業に打ち込んだ。その余のことは一切顧みなかった。他のことはことごとく打ち捨てた。自分が生涯かけて一心に追求したものにくらべれば、それ以外のことはみな二の次とし、二義的にしか重要ではないとした。私は云いたい。それと同じ精神の習慣を主イエス・キリストへの奉仕に適用することこそ、キリスト教信仰において熱心になることなのだ、と。

 私たちは、いかなる精神の習慣が人をこの世の諸科学において偉大ならしむるものか知っている。----それはアルキメデスや、アイザック・ニュートン卿や、ガリレオや、天文学者ファーガスソンや、ジェームズ・ワットの土性骨であった。これらの人々はみな、一事の人であった。彼らは自分の精神力をただ一点に集中させた。その余のことは一切顧みなかった。そしてこれこそ彼らの成功の秘訣であった。私は云いたい。これと同じ精神の習慣を神への奉仕に捧げることこそ、キリスト教信仰において熱心になることなのだ、と。

 私たちは、いかなる精神の習慣が人を金持ちにするものか知っている。----それは人々に莫大な財産を貯め込ませ、数億万もの遺産を後に残させるものにほかならない。裸一貫から身を起こし、億万長者になりあがった伝説的な銀行家や、貿易家や、商人たちはいかなる種類の人々だったろうか? 彼らはみな、自分の事業にひたすら打ち込み、その事業のためなら他の何物をも打ち捨てて顧みなかった人々であった。彼らは自分の第一の注意、第一の思い、最上の時間、精神の最上の部分をつぎ込んで、自分の携わっている交易を前進させようとした。彼らは一事の人であった。彼らの心は分裂していなかった。彼らは身も心も精神も自分の事業に捧げた。彼らはそれだけのために生きているように見えた。私は云いたい。もしあなたがその精神の習慣を神とそのキリストへの奉仕に振り向けるなら、それがキリスト教信仰において熱心になることなのだ、と。

 (a) さて、この精神の習慣----この熱心----は、使徒たち全員の特徴であった。たとえば使徒パウロを見てみるがいい。彼がエペソの長老たちに最後に語ったとき何と云っているか聞いてみるがいい。「私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません」(使20:24)。また彼がピリピ人への手紙で何と書いているか聞いてみるがいい。「私は、……ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです」(ピリ3:13、14)。回心の日以後の、彼の姿を見てみるがいい。前途洋々たる未来をなげうち、----キリストのためにすべてを捨て、---- 一度は侮蔑していた当のイエスを宣べ伝えるために出て行った姿を。その時以来、世界中を巡り歩いた彼の姿を見てみるがいい。----迫害に遭おうと、----弾圧されようと、----反抗を受けようと、----投獄されようと、----縄目を受けようと、----患難に遭おうと、----死の一歩手前まで行こうと、血をもってその信仰に証印を押し、かくも長年の間宣教してきた福音のためローマで殉教するその日まで行き巡った姿を。これこそキリスト教信仰における真の熱心であった。

 (b) これはまた、初代教会のキリスト者たちの特徴でもあった。彼らは「至る所で非難」されていた人々であった(使28:22)。彼らは、ほら穴と地の穴とで神を礼拝せざるをえなかった。その信仰のために、しばしば全財産を失った。たいがいの場合は、十字架と迫害と恥辱と非難のほか何も得なかった。しかし彼らは、まれな場合----非常にまれな場合----をのぞき、信仰を捨てはしなかった。たとえ異議を唱えることができなくとも、少なくとも苦しみを受けることはできた。議論によって敵たちを承服させることができなくとも、ともかく自分のいのちを捨てて、自分たちが真剣であると証明することはできた。イグナティオスがいかに朗らかに、自分を貪り食らおうとする獅子たちの待つ所へ向かっていったか、また、その際いかに彼が、「これでようやくわしも、わが主キリストの弟子となり始めるのだ」、と云ったか見るがいい。いかに老ポリュカルポスが、キリストを否むよう迫るローマ人総督の前で大胆に語り、「八十と六年の間、わしはキリストにお仕えしてきたが、主は一度もわしを裏切ったことがなかった。その王を、どうして今呪うことなどできようぞ」、と云ったか聞いてみるがいい。これこそ、真の熱心であった。

 (c) これはまた、マルティン・ルターの特徴でもあった。彼は大胆にも、世界史上最も強大な僧職階級に公然と反抗した。その腐敗ぶりをひるむことなく暴いた。度重なる破門勅書や断罪宣告にもかかわらず、信仰による義認という、長く無視されてきた真理を説き教えた。いかに彼がヴォルムス国会に赴き、皇帝や教皇特使やこの世の子らの大群の前で自分の主張を申し立てたか見るがいい。いかに彼が----その場へ行こうとする彼を思いとどまらせようとして、ヤン・フスの運命を思い起こさせた人々に向かって----語ったことか。「ヴォルムスの屋根瓦一枚一枚の下に悪魔がひそんでいようと、主の御名によって私は行く」。これこそ真の熱心であった。

 (d) これはまた、わが英国の宗教改革者たちの特徴でもあった。これは、わが国初の改革者ウィクリフのうちに見られる。教皇に反対して彼が述べた全発言を撤回させようとする托鉢修道士らに向かって、いかに彼が病床から起きあがり、「私は死なない。生きて、托鉢修道士どもの悪逆を宣べ伝えるのだ」、と語ったことか。またこれは、キリストの福音を否むよりは火刑に処せられて死ぬことを選んだクランマーのうちに見られる。いかに彼が、弱気にかられて一度は自説撤回の署名をした手を突き出し、それが最初に燃えるようにと炎の中にかざして、「この卑しい手めが!」、と云ったことか。これは老ラティマーのうちにも見られる。七十歳の彼がいかにその薪の上に大胆に立ち、リドリに向かって、「勇気を出すのです、リドリ兄弟! 私たちはきょう、神の恵みにより、決して消えることのない蝋燭に火をともすのです」、と云ったことか。これこそ熱心であった。

 (e) これはまた、最も偉大な宣教師たち全員の特徴であった。これはジャドソン博士や、ケアリや、モリスンや、シュヴァルツや、ウィリアムズや、ブレイナードや、エリオットのうちに見られる。そして万人に抜きんでる輝かしさでヘンリ・マーティンのうちに見られる。ここには、ケンブリッジ大が授けることのできる最高の学問的栄誉に達した人物がいた。いかなる進路を選びとろうと、彼の前には目もくらむような成功の見込みがあった。だが彼らはそれらすべてに背を向けた。あわれな未開の異教徒らに福音を宣べ伝えることを選んだのである。現地に到着し、人々の状態を見た彼は云った。「たとえこの身がばらばらに引き裂かれようとも、この人々が悔い改めてすすり泣くのを聞けさえするなら、----その信仰の目を贖い主に向けるのを見られさえするなら、決して後悔はしない」、と。これこそ熱心であった。

 (f) しかし私たちは、あらゆる地上の模範から目を離し、思い起こそうではないか。----熱心とは、何にもまして主であり救い主なるイエス・キリストご自身の特徴であったことを。主については、実際に地上にやって来られる数百年も前にこう書かれている。主は「熱心を外套として身をおおわれ」、また「あなたの家を思う熱心が私を食い尽くし……た」。そして主ご自身こう語っておられる。「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です」(詩69:9; イザ59:17 <英欽定訳>; ヨハ4:34)。

 もし主の熱心の実例をあげようなどとしたら、どこから始められるだろうか? いったん始めたならば、どこで終われるだろうか? 四福音書中の主のご生涯の物語をすべてたどってみるがいい。その公生涯の最初から最後まで主がどのような方であられたか、そのあらゆる記述を読むがいい。もしもいまだかつて全く熱心であった人物がいたとするなら、それは私たちの偉大なる模範であられるお方、----私たちのかしら、----私たちの大祭司、----私たちが信仰を告白する偉大な羊飼い、主イエス・キリストであった。

 こうした事がらが真実であるとすれば、私たちは熱心をけなさないよう用心するだけでなく、熱心が自分の前でけなされないように用心するべきでもある。これは方向を誤ることがあり、そのときは呪いとなる。----しかしこれは、何よりも高貴で最良の目的に向かうこともでき、そのときには大いなる祝福となる。火と同じように、これは最良のしもべの1つであるが、火と同じように、使い方を誤ると最悪の主人となりうる。熱心を知的暗愚であるとか熱狂主義であると語る人々に耳を貸してはならない。宣教活動に何の美しさも見ることがなく、魂を回心させようとする努力を笑い飛ばす者ども、----世界に福音を送り届けようとする諸団体を無益なものと呼び、----大都市伝道や、分教区訪問や、貧民学校や、野外説教を、愚の骨頂とか狂信的行為とみなす者どもに耳を貸してはならない。用心するがいい。その種の誹謗に唱和することによって、主イエス・キリストご自身をあなたが非難することにならないように。あなたが、「その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残され」たお方に逆らって語ることがないように用心するがいい(Iペテ2:21)。

 悲しいかな! 信仰を告白するキリスト者の多くは、もしも私たちの主やその使徒たちが地上を歩いていた時代に生きていたとしたら、主と主に従う者たち全員を熱狂主義者や狂信者呼ばわりしたのではなかろうか? 多くの人々は、アンナスやカヤパ----ピラトやヘロデ----フェストやアグリッパ----フェリクスやガリオ----と共通する点の方が、聖パウロや主イエス・キリストと共通する点よりも多いのではないだろうか?

 II. さて私が語るべき二番目のこととした点に話を進めよう。いかなる場合に人はキリスト教信仰において真に熱心であるといえるのか?

 サタンがまがいものを作ったことのない恵みは1つもない。貨幣鋳造所で発行された良貨のうち、にせ金作りどもがすぐさま何か非常によく似たものを偽造しなかったものは1つもない。ネロの残酷な拷問の1つは、キリスト者を野獣の毛皮の中に縫い込んでから、犬をけしかけてなぶり殺しにすることであった。サタンの悪巧みの1つは、信仰者の種々の恵みのゆがんだ複製を人々の目の前につきつけ、真の恵みを軽蔑させるように仕向けることである。いかなる恵みにもまして、この点で被害をこうむってきたのは熱心である。おそらくこれほど多くの不名誉とまがいものがはびこっている恵みは1つもない。それゆえ私たちは、この問題についてあらゆる塵芥を取り除き、拭い去らなくてはならない。キリスト教信仰における熱心が真に良いものであり、真実な、神から出たものであるといえるのは、いかなる場合か見いださなくてはならない。

 (1) もし熱心が真実なものであるなら、それは知識に基づいた熱心であろう。それは、平静で、理にかなった、聡明な原理であって、その一歩一歩に聖書の裏づけがあることを示せなくてはならない。未回心のユダヤ人たちにも熱心はあった。パウロは云う。「私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません」(ロマ10:2)。迫害の意に燃えるパリサイ人であったときのサウロには熱心があった。彼は自分自身について、ユダヤ人に向かって行なった話の1つでこう云っている。「私は……今日の皆さんと同じように、神に対して熱心な者でした」(使22:3)。----偶像礼拝者だった頃のマナセには熱心があった。自分自身の子どもたちに火をくぐらせ、----血を分けたわが子の肉体をモレクにささげて、自分の魂の罪を贖なおうとした人物----そのような人物には熱心があった。----ヤコブとヨハネがサマリヤの一村に火を呼び下らせようとしたとき、彼らには熱心があった。しかし私たちの主は彼らを叱責なさった。----ペテロが自分の剣を抜いてマルコスの耳を切り落としたとき、彼には熱心があった。しかし彼はひどく誤っていた。----ボナーとガードナーがラティマーとクランマーを焼き殺したとき、彼らには熱心があった。彼らには熱意がなかったろうか? 不公平な見方はすまい。彼らは熱心であった。だがそれは非聖書的なキリスト教信仰に対する熱心であった。----スペインの宗教裁判所に属していた者らが、福音を捨てようとしない人々を拷問にかけ、むごたらしい死に至らせていたとき、彼らには熱心があった。しかり! 彼らは男も女も火刑柱へと陰惨な行進をさせ、それを「信仰の行為」と呼び、自分たちが神への奉仕をしているものと信じていた。----ヒンドゥー教徒は、クリシュナ神像を載せた車の前に自らの体を投げ出し、その車輪でひき殺されようとするものだった。----彼らには熱心がなかったろうか?----サラセン人たち----十字軍兵士たち----イエズス会士ら----ミュンスターの再洗礼派たち----ジョウアンナ・サウスコットの信者たち----彼ら全員には熱心がなかったろうか? 否! 否! 私はそれを否定はしない。こうした人々はみな疑いの余地なく熱心を有していた。彼らはみな熱心だった。彼らはみな真面目だった。しかし彼らの熱心は神が是認なさるような熱心ではなかった。----それは「知識に基づいた熱心」ではなかった。

 (2) さらに、もし熱心が真実なものであるなら、それは真の動機から出た熱心であろう。心は非常に狡猾なもので、人はしばしば種々の誤った動機から正しいことを行なうものである。ユダの王アマツヤとヨアシュは、このことの著しい証明である。それと全く同じように、人は正しく良いことに熱心でありながら、それが低級な動機から出たもの、神を喜ばせたいという願いから出てはいないものであることがありうる。そしてそのような熱心には何の値打ちもない。それは廃物の銀である。神のはかりに載せられたとき、全く目方が不足するものである。人はその行為しか見ないが、神はその動機をごらんになる。人はなされたわざの量しか考えないが、神はなした人の心をお考えになる。

 世には党派心から出た熱心というものがある。人が、自分の属する教会や教派の利益を押し進めるために身を粉にして働いていながら、自分の心には何の恵みもないという場合はざらにある。----自分の属するキリスト者の一派に特有の意見のためなら死をも辞さない者が、キリストへの真の愛は全く持ち合わせていない場合はざらにある。そんなものは、パリサイ人の熱心である。彼らは、「改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回り、改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子に」していた(マタ23:15)。こうした熱心は真実なものではない。

 世には、ただの利己心から出た熱心というものがある。時には、キリスト教信仰に熱心になることが利益を生むという時代もある。権力と寵愛が敬虔な人間に与えられることがある。世にある良いものがキリスト教信仰の外套をまとうことによって手に入ることがある。そしてそのような場合は常に、偽りの熱心さが大挙して見られるものである。それはダビデに仕えていたときのヨアブの熱心さであった。それは共和国時代、ピューリタンたちが権力の座についていた頃の、あまりに多くの英国人たちの熱心であった。

 世には名誉欲から出た熱心というものがある。それはバアル礼拝を弾圧したときのエフーの熱心であった。レカブの子ヨナダブと会った彼が何と云ったか思い出すがいい。「私といっしょに来て、私の主に対する熱心さを見なさい」(II列10:16)。それは『天路歴程』の中でバニヤンが、「賛美され」にシオンの山に行こうとする者たちについて語る際に言及しているような熱心である。ある人々は自分の同胞たちからの称賛を糧として生きている。彼らはだれからも称賛が得られないよりは、キリスト者たちから称賛されることを選ぶのである。

 これは人間の腐敗の悲しくもへりくだらされる証拠だが、偽りの動機にかり立てられるとき、人はいかに大きな自己否定や自己犠牲をも行なうものである。人はたとえ「からだを焼かれるために渡しても」、あるいは「持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え」ても、だからといって、そのキリスト教信仰が真実なものであることにはならない。使徒パウロが告げるところ、人はそのようなことをしても、真の愛を持っていないことがありうる(Iコリ13:1以降)。人々が荒野に出て行き、隠者になるからといって、彼らが真の自己否定がいかなるものか知っていることにはならない。人がいくら自らを修道院や女子修道院の壁の中に閉じ込め、愛徳修道会や慈悲の聖母修道女会に加入しようと、だからといって神の目の前において真に肉を十字架につけていたり、真の自己犠牲を知っていたりすることにはならない。こうした事がらすべてを、人は誤った原理に立って行なうことがありうる。彼らはこれらを神の栄光を求める熱心という真の動機からではなく、誤った動機から----隠れた高慢や名声欲を満たすために----、行なうことがありうる。こうし熱心はことごとく偽りのものである。そう私たちは理解しておこう。それは地から出たものであり、天からのものではない。

 (3) さらに、もし熱心が真実なものであるなら、それは神のみこころに従ったもの、神のみことばの中の如実な実例で是認されているものについての熱心であろう。たとえば、最高にして最良の種類の熱心を1つ例にあげよう。----私が云っているのは、自分自身の個人的聖潔において成長したという熱心のことである。そのような熱心によって絶えず人は、罪こそあらゆる悪の中でも最悪の悪であると感じさせられ、キリストにならう者となることこそあらゆる祝福の中で最も大きな祝福であると感じさせられるであろう。それによって人は、神との親しい歩みを保つためなら、何をしてもいいと感じさせられるであろう。イエスとの交わりを深めることができさえするなら、右の手を切り落とし、右の目をくり抜き、いかなる犠牲を払うことも喜んで行なおうと気にさせられるであろう。これは、まさしく使徒パウロのうちに見られるものではないだろうか? 彼は云う。「私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです」。----「私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、……目標を目ざして一心に走っているのです」(Iコリ9:27; ピリ3:13、14)。

 別の例として、魂の救いに対する熱心をあげてみよう。この熱心によって人は、おびただしい数の人々の魂を覆っている暗黒に光を差し出し、自分の目にするあらゆる男女や子どもたちを福音の知識へと至らせたいという願いに燃えるであろう。これは主イエスのうちに見られるものではないだろうか? 主は、ご自分も弟子たちも、食事する時間さえないほど働いていたと云われる(マコ6:31)。これは使徒パウロのうちに見られるものではないだろうか? 彼は云う。「私は……すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです」(Iコリ9:22)。

 別の例として、悪徳に反対する熱心をあげてみよう。そのような熱心によって人は、神が憎むあらゆるもの----泥酔、奴隷制、幼児殺しなど----を憎むようになり、地の全面からそうしたものを一層したいと切望するようになるであろう。それによって人は、神の栄誉と栄光のためにねたみを燃やし、神からそれらを奪い去るあらゆるものに怒りを感ずるようになるであろう。これはエレアザルの子ピネハスのうちに見られるものではないだろうか?----あるいは、ヒゼキヤやヨシアが偶像礼拝を弾圧した際に見られたものではないだろうか?

 別の例として、福音の教理を保とうとする熱心を取り上げてみよう。そうした熱心によって人は、罪を憎むのと全く同じくらい、非聖書的な教えを憎むようになる。それによって人は信仰上の誤りを、いかなる代価を払ってもくい止めなくてはならない疫病とみなすようになる。神のご計画の一点一画すらもゆるがせにしないようになる。何らかの逸脱によって福音全体がだいなしにされてはならないと考えるからである。これはアンテオケにおけるパウロのうちに見られるものではないだろうか? 彼は面と向かってペテロに抗議し、彼には非難すべきことがあると云った(ガラ2:11)。こうしたことこそ、真の熱心が向けられる類の事がらである。こうした熱心こそ、神の前で称賛されるものである。そう私たちは理解しておこう。

 (4) さらに、もし熱心が真実なものであるなら、それは博愛と愛とを合わせ持った熱心であろう。それは無慈悲な熱心ではないであろう。人々に対する激しい敵意ではないであろう。やにわに剣に手を伸ばし、肉の武器で人に打ちかかるような熱心ではないであろう。真の熱心が用いる武器は肉のものではなく、霊的なものである。真の熱心は罪を憎むが、それでも罪人を愛するものである。異端を憎むが、異端者を愛するものである。偶像を打ち壊すことは切望するが、偶像礼拝者たちを深くあわれむものである。いかなる種類の邪悪さをも忌み嫌うが、どれほどよこしまな悪人にすら善を施そうと努めるものである。

 真の熱心は聖パウロがガラテヤ人に警告したように警告するが、乳母や母親が過ちを犯した子どもたちに対して感ずるような優しい思いやりを感ずるであろう。それはイエスが律法学者やパリサイ人たちの正体を暴いたように、にせ教師たちを暴露するが、イエスが最後に近づかれたエルサレムを見下ろして泣かれたように、優しく涙を流すであろう。病んだ手足を処置する外科医のように断固とした態度をとるが、兄弟の傷の手当をする者のように思いやり深いであろう。真の熱心は世界に対抗して立ったアタナシオスのように大胆に真理を語り、だれを怒らせようと意に介さないが、そのあらゆる言葉において、「愛をもって真理を語る」であろう。

 (5) さらに、熱心が真実なものであるなら、それは深いへりくだりに結び合わされたものであろう。真に熱心な人は、自分自身が何か偉大なことをなしとげているなどとは決して思わないであろう。その人のあり方や、行なっていることはみな、自分自身の願いにくらべると途方もなく劣っているため、その人は自分自身の役立たずさを痛感し、神が自分などを通してお働きになることを考えると驚くであろう。山から下りてきた際のモーセのようにその人は、自分の肌が光を放っていることに気づかないであろう。聖マタイ25章の義人たちのようにその人は、自分自身の良い行ないを意識していないであろう。ビュキャナン博士は、ありとあらゆる教会で称賛されている人物である。彼は、滅びゆく異教徒たちを救う事業に最初に取り組んだ人々のひとりであった。彼は文字通り自分自身を、身も心も費やし尽くして、眠りこけていたキリスト者たちを覚醒させ、海外伝道の重要性を理解させる努力に邁進した。それでも彼はその手紙の一通でこう云っている。「私は、キリスト者たちが熱心と呼ぶものを自分が持っていたかどうかわかりません」。ホイットフィールドは、世界がかつて目にした福音説教者のうち最も熱心な者のひとりであった。霊に燃え、時が良くても悪くても、彼は燃えて輝くともしびであり、何万何千もの人々を神に立ち返らせた。しかし彼は三十年間説教してきた後でこう云っている。「主よ、私を助けて、始めることを始めさせてください」。マクチェーンは、いまだかつてスコットランド教会に神が与えてくださった祝福の中でも最大の祝福であった。彼は魂の救いを飽くことなく切望する教役者であった。彼は二十四の若さで死んだが、彼ほど多くの善を施した者はほとんどいない。しかし彼はその手紙の一通でこう云っている。「私の心にいかなる腐敗の深淵があるかは神だけがご存じです。このような者の働きをいやしくも神が祝福してくださるとは完全に驚くべきことです」。私たちは、うぬぼれのあるところには、真の熱心がまずないと考えて間違いないであろう。

 私がこの論考を読む方々に特に覚えておいてほしいのは、私がここまであげた真の熱心の描写である。知識に基づいた熱心、----真の動機から出た熱心、----聖書的な実例という裏づけのある熱心、----愛を合わせ持った熱心、----深いへりくだりを伴った熱心、----これこそ真に純粋な熱心であり、----これこそ神が是認なさる種類の熱心である。このような熱心なら、人は決して持ちすぎることを恐れる必要はない。

 私がこの描写を覚えておいてほしいのは、あなたが生きている時代のためである。真摯さだけで真の熱心が成り立つなどと考えないように用心するがいい。----いくら無知な人であっても、真面目でありさえすれば、神の目において熱心なキリスト者になれるなどと考えないように用心するがいい。近頃生じつつある世代は、キリスト教信仰について「真面目さ」と呼ばれる偶像を設けている。どのような神学的意見の持ち主であっても、----その人が真面目な人でありさえすれば、それだけで、こうした人々にとっては十分であり、私たちはそれ以上何も問うべきではないのである。彼らはあなたに告げるであろう。自分たちは、キリスト者たちが意見を異にする、教理の細々とした点や、「ことばや名称」に関する問題などにはかかずらいません、と。この人は真面目だろうか? もしそうなら、私たちは満足すべきなのである。「真面目さ」こそ、彼らの目にとっては、多くの罪をおおうものなのである。私はあなたに厳粛に警告したい。こういうまことしやかな教えに用心するがいい。福音の名にかけて、また聖書の名にかけて、私はこうした、真面目ささえあれば人は神の目において真に熱心で敬虔な人になれる、といった説に異議を申し立てる。

 こうした真面目さ崇拝者たちは云い立てるであろう。神は私たちの真理と過誤とを区別する何の基準も与えておられないのだ、と。あるいは、真の基準たる聖書は曖昧模糊としすぎていて単にそこに赴くだけではだれも真理を見いだすことはできないのだ、と。こういう人々ははみことば、書かれたみことばを軽侮しているのであって、必然的に、誤っているに違いない。

 こうした真面目さ崇拝者たちは私たちをして、主イエスの時代から今日に至るまでの、あらゆる真理に対する証言を、またあらゆる偽りの教えに対する反対を、断罪させようとするであろう。律法学者とパリサイ人たちは「真面目」だったが、主は彼らに反対なさった。だが私たちは、彼らのことはそのまま黙って見過ごしにしておくべきだったのでは、などという疑念をいだかなくてはならないのだろうか?----メアリー女王や、ボナーや、ガードナーは、「真面目」にローマカトリック教を復興させようとし、プロテスタント主義を弾圧しようとしていた。にもかかわらずリドリやラティマーは死ぬまで彼らに反対した。だが私たちは、どちらの側も「真面目」だったのだから、どちらの側も正しかったのだ、などと云わなくてはならないのだろうか?----今日の悪魔礼拝者たちや偶像礼拝者たちは真面目であるが、私たちの宣教師たちは彼らの誤りを暴こうと努めている。だが私たちは、「真面目さ」によって彼らは天国に行けるのだ、異教徒やローマカトリック教徒に対する宣教師たちは本国にとどまっていた方がよいのだ、などと云わなくてはならないだろうか?----私たちは本気で、聖書は何が真理か示してはいない、などと認めようというのだろうか? 私たちは本気で、「真面目さ」と呼ばれるただの曖昧なものにキリストの位置を占めさせ、「真面目な」人はだれしも誤っていることはありえない、などと主張しようというのだろうか? そのような教えを認めることなど絶対にあってはならない! そのような神学から私はおぞけをふるって遠ざかる。私は、このような教えに心奪われてはならないと、厳粛に警告したい。なぜならこれは今日においては、ざらに見受けられる、また最も魅惑的な教えだからである。これに用心するがいい。なぜならこれは、古い誤りが装いを新たにしただけのものでしかないからである。----人は「その生活が正しいものである限り誤っているはずがない」、という古い誤りの新しい形でしかないからである。熱心さを賞賛するのはよい。熱心さを追い求めるのはよい。熱心さを奨励するのはよい。しかし、あなた自身の熱心が、真実のものであるように気をつけよ。あなたが他の人々のうちに賞賛する熱心が「知識に基づく」熱心さ、----正しい動機から出た熱心さ、----その土台に聖書の章と節を示せる熱心さであるように気をつけよ。こうした熱心さ以外の熱心は偽りの火である。それは聖霊によってともされた火ではない。

 III. さて私が語るべき三番目のこととした点に話を進めよう。なぜ熱心になることが良いのか、ということである。

 神が与えた戒めは、従うべき義務であるばかりでなく、決して人に利益を与えないものではないにはずである。神がご自分を信ずる民の前にお置きになる恵みは、それを追求することによって御民が、その最高の幸福を得られるものであるに違いない。これはキリスト者の性格のあらゆる恵みについて真実である。そしてこのことがこの上もなく真実なのは、熱心の場合であるかもしれない。

 (a) 熱心はキリスト者自身の魂にとって良いことである。周知のように、運動は健康にとって良いことであり、私たちの筋肉や手足を定期的に働かせることによって、私たちの肉体的な快適度は増し、肉体的な活力は増進するものである。さて運動が私たちの肉体のために行なうことを、熱心は私たちの魂のために行なうものである。それは喜び、平安、慰め、幸福感という内的な感情を押し進めるのを大いに助けるであろう。だれよりもキリストを喜ぶ思いを有しているのは、キリストの栄光のために常に熱心な人々、----自分の歩みに油断なく目を配り、----自分の良心を少しも汚さないように心がけ、----他の人々の魂についての気遣いに満ち、----地にイエス・キリストの知識を広めるために常に見張り、働き、労し、努力し、苦闘している人々である。このような人々は、燦々と降り注ぐ陽光のもとに生きており、それゆえ彼らの心は常に暖かい。このような人々は他の人々を潤し、それゆえ自分自身も潤される。彼らの心は日々聖霊の露によって清新にされる庭にも似ている。彼らは神に栄誉を帰し、神は彼らに栄誉をお授けになる。

 こう云うからといって、だれも誤解しないでいただきたい。私はいかなる信仰者をもおとしめているように思われたくはない。「主は、ご自分のすべての民を愛し」ておられることを私は承知している*(詩149:4)。最も小さな者から最も大きな者に至るまで、----神の国の最も小さな幼子から、サタンとの戦いにおける最も老巧な戦士に至るまで、----ただのひとりも、主イエス・キリストが大きな喜びとしていない者はいない。私たちみな神の子どもである。----そして私たちの中にいかに弱く頼りない者があろうと、「父がその子をあわれむように、主は、ご自分を愛して恐れる者をあわれまれる」*(詩103:13)。私たちはみな神ご自身が植えられた植物である。----そしてたとえ私たちの多くが貧弱で、か弱い外来植物であって、異国の土地では息も絶え絶えの状態で生きながらえていようと、----それでも園丁が自分の手で栽培したものを愛するように、主イエスはご自分を信頼するあわれな罪人たちを愛される。しかし私はこのように云いつつも、主はご自分のために熱心な者たちをことのほかお喜びになると信じている。----身も心も魂も、主の栄光を世に広めるために献げる者たちをお喜びになると信じている。彼らに主は、他の人々にはしないようなしかたでご自分を現わしてくださる。主は彼らの手のわざを祝福してくださる。彼らを主は、他の人々が噂でしか知らないような霊的祝福で元気づけてくださる。彼らは主の心にかなう人々である。彼らは他の人々にまさって主に似た者たちだからである。いかなる者にもまして、信ずることに喜びと平安を覚える人々、----いかなる者にもまして、その信仰にはっきり感じとれるような慰めを感ずる人々、----いかなる者にもまして、「地上の上の天国」*(申11:21)を大いにいだく人々、----いかなる者にもまして、福音の慰めを大いに見、感ずる人々、それは熱心で、真剣で、徹底的で、献身的なキリスト者たちである。熱心であること----自分の信仰において非常に熱心であること----は、たとえ他に何の理由がなくとも、私たち自身の魂のために良いことである。

 (b) 熱心は私たち個人にとって良いことであるばかりか、信仰を告白するキリスト教会全体にとっても良いことである。何にもまして真のキリスト教信仰を生かし続けるものは、教会のそこかしこに散りばめられた、熱心なキリスト者たちというパン種である。塩のように彼らは、全身が腐敗状態に陥ることを防いでいる。この種の人々のほか何者も、死にかけた教会の息を吹きかえさせることはできない。あらゆるキリスト者が熱心に対して負っている負債はいかに高く評価しても足りない。教会の指導者たちが犯しうる最大の過ちは、熱心な人々をその垣根の外に追い出すことである。そうすることによって彼らは、からだの生き血を排出し、教会の衰微と死を早めるのである。

 まことに熱心という恵みにこそ、神は栄誉をお与えになるように見受けられる。傑出して用いられたキリスト者たちの一覧を通して読んでみるがいい。いかなる人々が、その時代の教会に最も深々とした、消しえない痕跡を残しただろうか? 通常、いかなる人々が、シオンの石垣を築き、その門から戦いを押し返す栄誉を神によって与えられただろうか? それは学識すぐれ文筆の才に秀でた人々ではほとんどなく、むしろ熱心な人々であった。

 ラティマー主教は、クランマーやリドリほど博識な学者ではなかった。彼は、このふたりのように教父たちの言葉を記憶から引用することはできなかった。彼は古代の事跡に関する論議に引き込まれることを拒んだ。彼はその聖書に固執した。それでも、いかなる英国の改革者も、老ラティマーほど永続的な影響をこの国に残しはしなかったと云っても過言ではない。そしてその理由は何だろうか? 彼の単純な熱心さである。

 ピューリタンのバクスターは、知的賜物という点ではその同時代人の何人かにかなわなかった。彼がマントンやオーウェンと同じ知的水準に達してはいなかったと云っても彼の名誉を傷つけることにはなるまい。それでも、その時代にバクスターほど広範な影響力をふるった人物はまれであった。そしてその理由は何だろうか? 彼の燃えるような熱心さである。

 ホイットフィールドや、ウェスレーや、ベリッジや、ヴェンは、知的業績にかけてはバトラー主教やウォトスンに劣っていた。しかし彼らはバトラーやウォトスンが五十人かかってもおそらく決して生み出しえなかったような効果をこの国の人々の上に生み出した。彼らは英国国教会を破滅から救い出した。そして彼らの力の1つの秘訣は何だったろうか? 彼らの熱心さである。

 こうした人々は、教会史の転回点において前を向いて立ち続けた。彼らは反対や迫害の嵐にも動かされることがなかった。----彼らは孤立することを恐れなかった。自分たちの動機が邪推されても意に介さなかった。----真理のためならすべてを損とみなした。----各人がみな一事の人であった。----そしてその一事とは、神の栄光を前進させ、神の真理を世で保つことであった。彼らはみな火であって、それで他の人々をも燃え立たせた。----彼らは大きく覚醒していたので、それで他の人々をも目覚めさせた。----彼らはみな生きていたので、それで他の人々をも生き返らせた。----彼らは常に働いていたので、それで他の人々をも恥じさせ働きにつかさせた。----彼らは山から下りてきたモーセのように人々のもとに下ってきた。----あたかもそれまで神の御前にいたかのように輝きを放った。----彼らは、世におけるその行程を歩きながら、天国そのものの雰囲気と香気の何かしらを、自分たちとともにあちこちへと持ち歩いた。

 ある意味で熱心は、感染性のあるものだとも云える。キリスト教の信仰告白者たちにとって、何にもまして有益なことは、真に生きたキリスト者、徹底的に熱心な神の人を目にすることである。そうした人を彼らはののしるかもしれない。----あら探しをするかもしれない。----そうした人の行為に難癖をつけるかもしれない。----白眼視するかもしれない。----新しく発見された彗星を人が理解するのと同じくらいにしか、その人のことを彼らは理解できないかもしれない。----しかし、熱心な人は、知らず知らずのうちに彼らに善を施しているのである。その人は彼らの目を開く。彼ら自身のまどろんだ状態を感じさせる。彼ら自身の大きな闇を見えるようにする。彼らをして自分自身の不毛さを見ざるをえないようにさせる。彼らが好むと好まざるとにかかわらず、いやでも彼らは考えさせられる。----「私たちはどうしているだろうか? 私たちは道ばたの場所ふさぎ程度の者でしかないのではないだろうか?」、と。悲しいことに、「ひとりの罪人は多くの善を滅ぼす」ことがあるのは事実かもしれない。しかし、ひとりの熱心なキリスト者が多くの善を施すことができることもまた、ほむべき真実である。しかり。たったひとりの熱心な人が町にいれば、----ひとり熱心な人が会衆の中にいれば、----ひとり熱心な人が家庭の中にいれば、その人は大きな、最も広範な祝福となりうるのである。いかに多くの有用な活動を始める人々を、そうした人は動き出させることか! いかに多くのキリスト者的活動を、さもなければ眠っていたような活動を、そうした人はしばしばあらしめることか! いかに多くの泉を、さもなければ封印されていたはずの泉を、そうした人は開くことか! まことに、この使徒パウロのコリント人への言葉には深い真理の鉱脈がある。「あなたがたの熱心は、多くの人を奮起させました」(IIコリ9:2)。

 (c) しかし、熱心は教会や個々人にとって良いことであるばかりか、世界にとっても良いことである。熱心がなければ、海外宣教の働きはどうなるだろうか? 熱心がなければ、私たちの大都市伝道や貧民学校はどうなるだろうか? 熱心がなければ、私たちの分教区訪問や牧会援助協会はどうなるだろうか? 罪と無知を根絶し、地の暗黒部を見いだし、あわれな失われた魂を発見するための私たちの諸団体はどうなるだろうか? もしキリスト者の熱心がなければ、こうした善をなそうとする栄えある諸機関はみなどうなるだろうか? 熱心がこうした制度を世に生み出したのであり、熱心が始まったそれらを働き続けさせているのである。熱心が、さげすまれていた数人の人々を集めて、彼らを多くの力強い協会の中核としたのである。そうした機関が大きくなり、この世の知遇を得るようになったときも、熱心が人々を怠惰でまどろんだ者となることを妨げるのである。熱心が、外に出ていく人々を起こし、現代におけるモファットやウィリアムズのように、一生をかけさせるのである。彼らが倉におさめられて、故郷に帰るときも、熱心が彼らの居場所を備えるのである。

 もしキリスト者の熱心がなければ、私たちの巨大化しすぎた都市部の小路や裏通りに群がる無知な大衆はどうなるだろうか? 政府は彼らに何もできない。悪に対抗する法律を作ることはできない。信仰を告白するキリスト者たちの大多数はそれを見る目を持っていない。あの祭司やレビ人と同じく、彼らは道の反対側を通り過ぎていく。しかし熱心には、見る目があり、感ずる心があり、手立てを考える頭があり、訴えかける舌があり、働ける手があり、旅行する足があって、あわれな魂を救い出し、その卑しい状態から引き上げようとする。熱心は困難の数々を熟視して立ちつくすのではなく、単にこう云うだけである。「ここには滅びゆく魂がある。何かをしなくてはならない」、と。熱心は、道の途中にアナク人がいるからといって尻込みはしない。ビスガに立ったモーセのように、その頭上を越えて彼方を眺めやり、「この土地は所有されなくてはならない」、と云う。熱心はだれか相方が現われるまで待っていたり、良いわざが人気を博すようになるまでぐずぐずしたりしていない。それは決死隊員のように突撃し、他の者らが徐々に後に続くことを信頼する。あゝ! この世はキリスト者の熱心にいかなる負債を負っているかほとんど知らない。いかに大きな犯罪をそれはくい止めてきたことか! いかに多くの暴動をそれは防止してきたことか! いかに大きな一般大衆の不満を静めてきたことか! いかに大きな法への従順と秩序への愛をそれは生み出してきたことか! いかに多くの魂をそれは救ってきたことか! しかり! そして私の信ずるところ、もしもあらゆるキリスト者が熱心な人だったとしたら、いかなることがなされうるか、ほとんど想像もつかない! もし教職者たちが、よりビスカーステスや、ホイットフィールドや、マクチェーンに似た人々であったとしたら、何と多くがなされうることか! もし平信徒たちがもっとハワードや、ウィルバフォースや、ソーントンや、ネイスミスや、ジョージ・ムーアに似た人々であったなら、何と多くがなされうることか! おゝ、あなた自身のためだけでなく、世界のために、熱心なキリスト者となることを決意し、そう努め、努力するがいい。

 キリスト者であると告白するあらゆる人は、熱心をはばまないように用心することにしよう。それを求めるがいい。涵養するがいい。その炎をあなた自身の心の中で、他の人々の心の中で、燃え立たせるように努力するがいい。しかし、決して決してそれをはばんではならない。他の人々に出会うとき、熱心な魂をそこに見るなら、それに冷水を浴びせるようなことがないよう用心するがいい。この貴重な恵みが芽生えたとき、目のうちにそれを摘み取るようなことをしないよう用心するがいい。あなたが親であるなら、あなたの子どもたちのうちでそれをはばまないよう用心するがいい。----夫であるなら、妻のうちでそれをはばまないよう用心するがいい。----妹がいるなら、妹のうちでそれをはばまないよう用心するがいい。----牧師であるなら、教会員のうちでそれをはばまないよう用心するがいい。それは天国が手ずから植えた苗なのである。キリストのために、それを押しつぶさないよう用心するがいい。熱心は過ちを犯すことがある。----熱心には指導が必要である。----熱心には導きと抑制と助言が求められる。古代の戦場における象たちのように、それは時として味方の軍勢に損害を与えることがある。しかし熱心は、このように浅ましく、冷たく、腐敗した、みじめな世界において、勢いをそがれる必要はない。熱心は、スコットランドの修道院を引き倒したジョン・ノックスのように、狭い心の、まどろんでいるキリスト者たちの感情を傷つけるかもしれない。それは、新しいものをことごとく憎み、(兵士や水夫には弁髪を結ばせなくてはがまんならない人々のように)あらゆる変化を忌み嫌う旧弊な信心家たちの偏見を逆なでするかもしれない。しかし熱心は最後にはその結果によって正当化されるであろう。熱心は、ジョン・ノックスのように、人生の長い目で見ると、害よりは無限に多くの善をなしているであろう。神の栄光のために熱心すぎることには、ほとんど危険はない。そこに危険があると考える人々を神がお赦しくださるように! あなたは人間性についてほとんど知らない。あなたは病が健康よりもはるかに感染性の強いものであることを忘れている。からだに寒気を覚える方が、ほてりを人に移すよりもはるかに簡単であることを忘れている。請け合ってもいいが、教会は、くつわを必要とすることはめったにないが、拍車をしばしば必要とする。抑制される必要はめったにないが、しばしばせきたてることが必要である。

 さてここで結論として、この主題を、この論考を読んでおられるすべての方々の良心に適用させていただきたい。これは、私たちそれぞれの心の状態に応じて、警告の主題とも、奮起の主題とも、励ましの主題ともなる。私が願うのは、神の助けによって、あらゆる読者にその分を与えることである。

 (1) まず第一に、キリスト教信仰を明確に告白していないすべての人々に対して、一言警告させていただきたい。残念ながら、このような状態にある人々は、おびただしい数にのぼるのではないだろうか。もしあなたがそのひとりであるなら、あなたの前にある主題は、厳粛な警告に満ちたものである。おゝ、願わくは主が、あわれみによって、あなたの心にこの警告を受け入れさせてくださるように!

 では、心からの愛情をもって尋ねさせていただきたい。キリスト教信仰におけるあなたの熱心はどこにあるだろうか? 目の前に聖書を置いた私は、大胆に尋ねてもいいであろう。しかしあなたの人生を前にした私は、その答えに震えおののいていいであろう。もう一度聞く。神の栄光のためのあなたの熱心はどこにあるだろうか? キリストの福音を悪の世界中に広めるためのあなたの熱心はどこにあるだろうか? 熱心----主イエスの特徴であった熱心、御使いたちの特徴である熱心、最高に光輝くキリスト者たち全員のうちから輝き出ている熱心----未回心の読者よ、あなたの熱心はどこにあるだろうか?----実際、あなたの熱心はどこにあるのか! それがどこにもないことはあなたが百も承知しているであろう。それに何の美しさも感じられないことは自分が一番よく知っているであろう。それがあなたとあなたの仲間たちから蔑まれ、悪として打ち捨てられていることはあなたがよく知っているであろう。それがあなたの魂の中で何の位置も、何の場所も、何の地位も占めていないことは重々承知しているであろう。ことによるとあなたは、特定のしかたで熱心になるということが、どういうことか知らないのかもしれない。あなたには熱心があるが、それはみな的外れなものである。それはみな地上的なものである。みな一時的な物事にかかわるものである。それは神の栄光のための熱心ではない。魂の救いのための熱心ではない。しかり。多くの人は新聞のための熱心はあるが、聖書のための熱心はない。----『タイムズ』を毎日読むための熱心はあるが、神のほむべきみことばを毎日読むための熱心はない。多くの人は清算書きや帳簿のための熱心はあるが、いのちの書や最後の偉大な清算のための熱心はない。----オーストラリアやカリフォルニアの金鉱に関する熱心はあるが、キリストの測りがたい富に関する熱心はない。多くの人はその地上的な関心事----自分の家族、楽しみ、日々の追求----に関する熱心はあるが、神や天国や永遠に関する熱心はない。

 もしこれがこの論考を読んでおられるだれかの状態であるとしたら、目を覚ますことである。どうか自分のとてつもない愚劣さをさとってほしい。あなたは永遠に生きていることはできない。あなたは死ぬ備えができていない。あなたは聖徒たちや御使いたちとともにいる場に全くふさわしくない。目を覚まし、熱心になって悔い改めるがいい!----目を覚まし、自分が行なっている害悪を見るがいい! あなたはあなたの恥ずべき冷たさによって不信心者の手に論拠を授けつつあるのである。あなたは教職者たちが建てるそばから、それを引き倒しているのである。あなたは悪魔の手助けをしているのである。目を覚まし、熱心になって悔い改めるがいい!----目を覚まし、自分の子どもじみた首尾一貫のなさを見るがいい! 永遠の物事、神の栄光、魂の救いにまさって熱心に値するものがありえようか? もし一時的なものでしかない報いのために労することが良いことであるなら、永遠のものである報いのために労することは一千倍も良いことであるに違いない。目を覚まし、熱心になって悔い改めるがいい! 長く無視されてきた聖書の所に行き、それを読むことである。持ってはいても、もしかすると一度も開いたことがない、そのほむべき書物を取り上げるがいい。新約聖書を読み通してみるがいい。あなたはそこにあなたを熱心にするものを何も見いださないであろうか?----あなたを自分の魂について真面目にならせるものを何も見ないであろうか? 行ってキリストの十字架を眺めてみるがいい。行って、そこでいかに神の御子がご自分の尊い血をあなたのために流されたか、----いかに彼があなたのために苦しみ、うめき、死なれたか、----いかに彼がご自分の魂を罪のためのいけにえとして注ぎ出したか、あなたが、罪深い兄弟であり姉妹であるあなたが、滅びることなく永遠のいのちを持てるようにしてくださったかを見るがいい。行ってキリストの十字架を眺め、自分自身の魂のために何らかの熱心を----神の栄光のために何らかの熱心を、----世界中に福音を広めるために何らかの熱心を感じるまで、決して気を休めないようにするがいい。もう一度私は云う。目を覚まし、熱心になって悔い改めるがいい!

 (2) 次のこととして、はっきりキリスト者であるという告白をしていながら、その行ないにおいて、なまぬるい方々を目覚めさせるべきことを云わせていただきたい。残念ながら、魂がこのような状態にある人々はそこら中にいると云わなくてはならない。もしあなたがそのひとりであるなら、この主題には、あなたを心探らせるであろうことが大いにあるはずである。

 あなたの良心に語りかけさせてほしい。あなたにも私は、ありったけの兄弟愛をこめて尋ねたいと思う。あなたの熱心はどこにあるだろうか?----神の栄光のためのあなたの熱心、世界中で福音を広めるためのあなたの熱心はどこにあるだろうか? あなたはそれが非常に低調であることをよく知っているであろう。あなたは自分の熱心がかすかに明滅する火花のようなもので、消えてなくなりはしないが、それ以上のものではないことをよく知っているであろう。----それは「死にかけている」ようなものである(黙3:2)。もしそうだとしたら、確かに何かが間違っているに違いない。そのような状態はあってはならないものである。神の子どもであるあなたが、----これほど輝かしい代価によって贖われたあなたが、----これほど尊い身代によって買い取られたあなたが、----いかなる舌も語ったことがなく、いかなる目も見たことのないほどの栄光の世継ぎであるあなたが、----そのような種類の人間であってよいはずがない。あなたの熱心がそのように小さなものであってよいはずがない。

 これが触れると痛い主題であることは私も深く感じている。この件について触れることは、私個人の本意からではないし、絶えず自分自身の役立たずさを思い起こしながらのことである。それにもかかわらず、真実を語らないわけにはいかない。あからさまな真実を云うと、現代の多くの信仰者たちは、害悪をなすことに脅え上がるあまり、ほとんど善をなそうとしていないのである。多くの人々は反対の声は豊かだが、行動は乏しい。----濡れた毛布はたくさん持っているが、キリスト者的な火に似たものはほとんどない。彼らは前世紀の歴史に記されたオランダ人副官らに似ている。彼らは、マールバラ公がいかなる冒険を犯すことも許さず、そのあまりの用心深さのために、勝てたはずの勝利をいくつも取り逃がしたのである。まことに、キリストの教会を見回すと、時として、御国はすでに来たのではないか、みこころはすでに地でも行なわれているのではないか、と思えるほどに、わずかな熱心しか一部の信仰者たちには見られない。これを否定してもむだである。身近なところにいくらでも証拠はある。異教徒や、植民地や、わが国の暗黒部に善を施そうとしている諸団体を私は指摘しよう。それらが活発な支援を欠くために、何という退潮と行き詰まりを見せていることか。私は聞きたい。これが熱心だろうか? 私は何千もの募金者名簿を指摘しよう。寄付者の数に不足はないが、彼らのキリスト者的気前の良さはこれで尽きてしまっているのである。私は聞きたい。これが熱心だろうか? 私は偽りの教理がそれをくい止めようとする何の努力も払われないまま、教区内や家庭内で増え広まるのを許され続け、その間信仰者と呼ばれる者たちが拱手傍観し、時勢を嘆くだけで事足れりとしていることを指摘しよう。私は聞きたい。これが熱心だろうか? 使徒たちは、このような状態の物事に満足するだろうか? 彼らがそうしないだろうことは、わかりきったことである。

 もしこの論考を読んでいるだれかの良心が、今私が語った欠点において罪ありと云い立てているなら、私は主の御名においてその人に命ずる。目を覚まし、熱心になって悔い改めるがいい、と。リンカンズイン[法学院]や、テンプル[法学院]や、ウェストミンスター[国会議事堂]だけに熱心を閉じ込めておいてはならない。----銀行や、商店や、会計事務所だけに熱心を閉じ込めておいてはならない。同じ熱心がキリストの教会にも見られるようにしようではないか。決死隊員を率いたり、オーストラリアの金鉱を掘ったり、荒れ果てた氷原をついて極地探検に挑んだりすることにだけ熱心が満ちあふれ、異教徒に福音を送り、火から取り出した燃えさしのようにローマカトリック教徒をつかみとり、この国の広大な領土内の暗黒部に光を差し出すことには熱心が欠けているようなことがないようにしようではないか。いまだかつて、これほど多くの奉仕の扉が開かれていたことはない。----これほど多くの善を施す機会があったことはない。私が憎悪するのは、何らかの信仰の働きがなされているとき、その器となっている人々に少しでも傷があれば、それを全く助けようとしないという取り澄ましである。そんなことでは、私たちは決して何も行なわない方がよいであろう。もしそのような気分がしているなら、それに抵抗しよう。それはサタンの手口の1つである。弱い器とともに働く方が、何の働きもしないよりもましである。とにもかくにも、神とキリストのために何かを行なうよう努めるがいい。----無知と罪に逆らうことを何かするよう努力するがいい。神の与えてくださる力に応じて、財を献げ、資金を集め、人を教え、人に勧め、人を訪問し、神に祈ることである。だれにでも何かはできるのだと心を決めて、あなたによって、ともかく何かがなされるように決意するがいい。もしあなたに1つしかタラントがなくとも、それを地中に埋めてはならない。あなたがいなくなったら惜しまれるような生き方を心がけるがいい。私たちのほとんどにとっては、12時間あれば、これまでの生涯のどの一日のうちになしてきたことよりもはるかに大きなことがなされうるのである。

 あなたが眠っている間に滅びつつある貴重な魂のことを考えるがいい。したければ、自分の内側の争闘に心奪われているがいい。すでに決意しているなら、自分自身の感情を解剖し、自分自身の腐敗をつぶさに調べることを続けるがいい。しかしその間ずっと、幾多の魂が地獄に落ちつつあることを覚えているがいい。あなたには彼らを救うために働くこと、献げること、書くこと、懇願すること、祈ることの何かができることを覚えておくがいい。おゝ、目を覚ますがいい! 熱心になって、悔い改めるがいい!

 時の短さのことを考えるがいい。あなたはすぐにいなくなる。来世では、あわれみの働きを行なう機会はない。天国には、教え導くべき無知な人々はおらず、教化すべき未回心の人々はいない。あなたが何を行なうにしろ、それは今行なわなくてはならない。おゝ、あなたはいつ始めようというのか? 目を覚ますがいい! 熱心になって、悔い改めるがいい。

 悪魔と、害悪をなそうとするかれの熱心のことを考えるがいい。これは、老ベルナールの厳粛な言葉である。「最後の審判の日には、悪魔が立ち上がって、ある人々を非難するであろう。なぜなら、かれは、魂を救おうとする彼らよりも、魂を滅ぼそうとするより大きな熱心を示していたからである」。目を覚ますがいい! 熱心になって、悔い改めるがいい。

 あなたの救い主のこと、そしてその主のあなたに対する熱心のことを考えるがいい。ゲツセマネにおける主のことを、カルバリにおける主のことを、罪人のためにその血を流すお姿を考えるがいい。主の生涯と死のことを、----主のお苦しみと数々の行為とを考えるがいい。これを主はあなたのために行なったのである。あなたは主のために何をしようというのだろうか? おゝ、来たるべきときのために、キリストのために財を費やし、自分自身をも費やす決意をするがいい! 目を覚ますがいい! 熱心になって、悔い改めるがいい。

 (3) 最後の最後に、真に熱心なキリスト者である、この論考のすべての読者を励まさせていただきたい。

 私が要請したいのはただ1つ、あなたがたが屈せずやり通すことである。ぜひあなたがたの熱心を保ち続け、決してそれを手放さないでいただきたい。決してあなたがたの最初のわざから後退せず、決してあなたがたの最初の愛から離れず、決してあなたがたの最初の状態の方が最後よりも良かったなどと云われないようにしていただきたい。----熱が冷めないように用心することである。ちょっと怠けたり、手を休めたりするだけで、あなたがたは全く暖かさを失うであろう。たちまち今のあなたがたとは別人になってしまうであろう。おゝ、これを不必要な勧告と考えてはならない。

 賢明な若い信仰者が非常にまれであることは、まぎれもない真実かもしれない。しかし、それに劣らず真実なのは、熱心な老いた信仰者もまた非常にまれだということである。決してうかうかと、自分はやり過ぎているのかもしれない、などと考えてはならない。----キリストのために自分は財を、また自分自身を費やしすぎているかもしれない、などと考えてはならない。やりすぎているひとりの人に対して、十分やっていない千人もの人を示すことができるであろう。むしろ、「だれも働くことのできない夜が来ます」(ヨハ9:4)、と考えるがいい。----そして、これが最後というかのように、献げて、集めて、教えて、訪れて、働き、祈ることである。あの高貴な心情のヤンセン主義者のこの言葉を胸に刻むがいい。少しは休むべきだと云われたその人は、こう云ったのである。「何のために休むべきなのですか? 私たちには永遠の休みがあるではありませんか」、と。

 人々のそしりを恐れてはならない。時として悪しざまにののしられても、心くじけてはならない。偽善者だとか、熱狂主義者だとか、狂信者だとか、狂人だとか、馬鹿だとか呼ばれても、気にしてはならない。こうした呼び名を恥じる理由は何1つない。こうした名はしばしば、最良の、最も賢い人々に投げかけられてきたのである。もしあなたがたが人からほめそやされるときしか熱心でないとしたら、----もしあなたがたの熱心の車輪がこの世の賞賛という油を差されなくてはならないとしたら、あなたがたの熱心は短命なものとならざるをえないであろう。人のほめそやしや、しかめ面を顧慮してはならない。顧慮すべき価値がある唯一のこと、それは神の賞賛である。私たちの行動について問う価値のある唯一の質問、それはこのことである。「それは最後の審判の日にはどのように見えるだろうか?」

熱心[了]

--------

HOME | TOP | 目次 | BACK | NEXT